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2020年10月25日 (日)

講演「中世の品川と妙国寺 ー 往来する商人・宗教者・戦国武将」

マリコ・ポーロ


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~「中世寺院と品川 ー 妙国寺の歴史と寺宝」展(2019.10) 品川歴史館~ 


家康前の江戸は未開の地だった…

それは昔いわれていたこと。今は、「ただの寒村を徳川幕府が大都市にした」と、徳川の力をアピールするために作られた話だというのが一般的になりつつあります。


とはいえまだまだ広い世間には知れ渡っていません。

江戸湊を本拠地とし江戸を開発していった江戸氏。家康の前に、江戸に名僧が称えた城を築いた上杉と太田。その江戸城を奪取した北条氏綱や、隠居後に在城した氏政。江戸を坂東の舟運の要として繁栄させた彼らの立場はどうなる?😢(シクシク) と思っていたところ…

先日のBS6歴史鑑定「家康より先に江戸を築いた武将・太田道灌」は、それを当然のごとくサララーッと伝えてくれましたね 😊(ニコニコ)!


番組を観ていて、昨年の秋、品川歴史館で催された企画展と、古川元也氏(日本女子大)による講演会「中世の品川と妙国寺ー往来する商人・宗教者・戦国武将 」のことをブログに書き残し忘れていたことを思い出しました。


前にも書きましたが、家康前の江戸のことはずっと興味がありました。

江戸は徳川以前も寒村ではなかったと漠然と唱えていてもアカンので、鈴木理生著『江戸はこうして造られた』を読み、「道灌びいき」の会の勉強会やいくつかの自治体(区)が主催するガイドツアーで歩いたりもしてみました。

また、「旧 八王子城を守る会」の残党(ワテも)の重鎮である氏照師匠が、「それなら、こんなんあるよ~」とコピーをくださった、旧会長の峰岸純夫先生の『中世荘園公領制と流通 』にある「戦国時代武蔵品川における町人と百姓」(岩田書院 2009)もとても興味深かったです(今更のアップでゴメンナチャイ)。


そして、特に参考になったのは、石村智・谷口榮・蒲生眞紗雄著『海の日本史 江戸湾』(洋泉社2018)の中の、谷口氏が書かれた第三章「中世の江戸湾内海」です。

谷口さんの本はそれだけでも内容が盛りだくさん。あらためて(いずれ)書きたいと思うので、こたびは講演会のことだけを。(峰岸先生の本は、まとまった史料がある品川郷を例に百姓や町人などの欠落や人返しなどのことを挙げ、同じ郷内での都市と農村の分離と矛盾がテーマなので別の話として。)

一年も前のことで恐縮ですが、チビットだけ以下に備忘記録。


▲ 天妙国寺(旧妙国寺)

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~天妙国寺。暗い?(数年前に撮影)~


中世の江戸といえば品川湊、品川湊といえば「妙国寺」ですよね~。妙国寺には、ご本尊を含めた彫刻作品類、経典、宗教絵画などの他に、鎌倉公方はじめとする戦国武将達の文書類『妙国寺文書』などなどなど、あまたの貴重な寺宝が残されています。

制札は、我らが北条氏綱のもあります。太田資正殿のも、上杉朝興のもあるでよ。


創建は弘安8年。前の北条の 北条時宗 の時代です。当時、寺が属したのは「日蓮教団」(この教団については、宗門史からの考察が必要だと古川先生は講演でおっしゃっていました)。

足利義政 の頃、品川湊の豪商だった鈴木道胤により七堂伽藍が建設された大寺院でした。江戸時代には徳川将軍家の宿泊所としてたびたび使われもしたそうです。


▲ 妙国寺文書

皆様は私なぞより遥かに歴史に詳しい方ばかりなのでご承知のことですが、文書、特に書状に書かれていることは全て本当のことではありません。前にも何度か書きましたが、わざとウソを書いたり、話を盛ったりします。聞き違いや書き違いもあるでしょう。

でも、日本では文書はとても大事にされますよね。


妙国寺では先年、伝来文書の修復をされたそうです。手鑑にまとまっていたものを一紙ごとにバラして、一通ずつ中性紙ボードに挟んで箱に収納したそうです。これは、文書の安定した保管には一番良い方法だそうです。

企画展などでの展示も、冊子のままだと開かれたページの文書しか見学できませんが、こうなるとたくさんの文書を観ることができますね。


▲ 往来する商人

湊といえば、有徳人。
品川湊の有徳人を代表するのが、鈴木道胤

大河「直虎」での中村与太郎や瀬戸芳久が浮かんじゃうけど、妙国寺に出したシゲッチ(足利成氏)の御判御教書からは、妙国寺や品川湊にとっての道胤の重要性が分かるそうです(ワテには分からにゃい💦)。


(道胤とは)
出身:紀伊熊野
当主:史料から分かるのは、道永・道胤・源三郎の三代


(品川湊)
しょっちゅう書いてて恐縮ですが、中世の江戸は坂東の舟運の要。品川は ハブ港 です。

そして、この講演会と谷口氏の本(上記)で初めて知ったのですが、品川は伊勢熊野と密接な往来があったそうで、関東に伊勢の御厨が多いのはそのためなのだそうです。

「鈴木道胤や近隣海晏寺の檀越榎本道琳氏が熊野と関係を持つとすれば、このような伊勢・品川ルートの存在が前提としてあったと考えてよい 」
と。


品川は戦国以前、大井氏の一族である品川氏が勢力を張っていました。峰岸先生の本(上記)に、「鎌倉・南北朝期に和泉や近江・紀伊 などに移住…」とあります。それで、熊野や伊勢との関係が生まれたのでしょうか?

お!皆様とうにご存知で…失礼。恥ずかち。


小田原北条の時代真っただ中となると、品川は我らが北条氏照の管轄となります。品川には、宇田川氏や鳥海氏が現われてきますよね~。宇田川氏は後に品川神社宮司や北品川宿名主に、鳥海氏は南品川の名主となっているそうです。


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~海面の跡が残る石垣。旧東海道の商店街の一本裏の道。ちょっと前まではここまで海だった…あ!これも、ご存知。失礼。~


▲ 往来する宗教者

当時の(も)、品川にはあまたの文化人が訪れています。

我らが(←こればっかり)道灌の心腹の友であった万里集九、お馴染みの宗祇や宗長、激しい生涯を送った日親、様々な日蓮教団の門流…などなどなど。


▲ 往来する戦国武将

なぜ品川にはたくさんの戦国時代の制礼が残っているのか?

たくさんの制礼が発給されたからなのでしょうが、それは、
「勢力が入り乱れる品川。いつどこで後に必要となるかわからない。だから一応取っておく。」
から。


これは、そういう場所の特徴的な文書の残り方なのだそうですね。

面白いのは、妙国寺に残る制札は、品川を掌握した側から出されたものだけではなく、紛争当事者双方からのものがある点だそうです。


峰岸先生の本に書かれていました。
「…(中世の品川には)地域の社会的分業の所産として、都市が形成されていた…」


以上、つたない備忘録ですが、もっとちゃんと知りたいという方は品川歴史館の図録をお取り寄せくだされ。
品川歴史館出版物


「家康以前の江戸は本当に「寒村」だったのか?」

「小田原北条と八丈島」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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