尊氏と執権赤橋の寺「浄光明寺」~⑩大河「太平記」を観ていて
マリコ・ポーロ
~浄光明寺は萩の名所~
だからあの時、鎌倉を捨てなきゃよかったのに、義貞どのぉ…
と、ドラマを観ながらひとりごちていたら 大河「太平記」(再放送)も早35回。今、尊氏様は30才そこそこで、放送は残すところ 15回になってしまったのですね。
ドラマでも尊氏様が新田義貞を討ちに「南無はちまんだいぼさーっつ!」と出陣しますが、実際、足利は「軍勢催促状」を数十通出しています。
催促状は尊氏ではなく直義の発給になっているんですってね。峰岸先生はこれを、「尊氏の心身不良もあるが、政権への反逆とされるのを避けるため、義貞との私闘を印象づけようとした」と書いてらっしゃいます。
大塔宮のことにしても、こたび都へ戻らなかったことにしても、尊氏は弟直義によってどんどん後戻りできないところへ押し上げられていきますね。
でも尊氏の直義への想いは強く、この一年後に、あの有名な願文、この世は夢のごとくに候…現世の幸福は直義に譲ります。直義をお守りください…が清水寺に奉納されるのです。
それはそうと、
足利殿のことが だ~い好きな判官殿(佐々木道誉)は、今井宗久の先祖だそうですな。
来年…いや、再来年の大河が後北条ではなく前北条だったショックがあとを引き、現在の大河「麒麟がくる」は時々しか観ていませんが、道誉と宗久のことは番組HPの陣内さんのキャストメッセージにありました。だから宗久も陣内さんが演じてらっしゃるのですね。
先日観てみたら、宗久殿がお茶を点てていました。さすがバサラな趣味人の判官殿。見事なお点前にござりました。
~扇ガ谷にいた上品な猫。「登子どの!」と呼んだらこっちを見た。~
尊氏が蟄居したといわれる 浄光明寺 の裏山の下にはかつて 多宝寺 という大きな寺がありました。江戸時代にはすでに廃寺となっていたようですが、寺の僧たちを葬ったやぐら群が残り板碑や焼物や五輪塔なども出土しているそうです。
浄光明寺境内の裏山から山道をしばらく行くと 覚賢塔 とよばれる名僧覚賢の巨大な五輪塔があります。ゆうに3mはあり、凄い存在感(毎年4月の鎌倉まつりの時だけの公開だったと思う)。この五輪塔も多宝寺にあったもののようです。
なんと!私には分かりませんでしたが「戒壇」の跡もあるそうですよ。どこ?
北鎌倉側の巨福呂坂切通しあたりからも行けるような噂を小耳に挟んだので、こちら側からも一度歩いてみたいと思ってはいるのですが山道に慣れてないと危ないかな…。←曖昧な情報なので行かれる場合は調べてくだされ。
多宝寺の開基は北条執権家極楽寺流の業時という方で、浄光明寺を開基した長時とは兄弟だそうです。一帯は、極楽寺流の領分だったんですね。
足利尊氏室の登子さんの実家の赤橋家は極楽寺流。浄光明寺は赤橋家の菩提寺であり、残っている絵図には、新田義貞の鎌倉攻めの時に討死した登子さんの兄上である執権守時殿の屋敷が描かれているそうです。
尊氏様は、妻の実家の寺へ引き籠ったわけですな。
浄光明寺へは小町通りから入るのが近いのでしょうが、小町通りの異常な人混みを避けて今小路側の英勝寺の踏切を渡っていくルートをおすすめします。途中の雰囲気やいくつかの石碑も、観光客の私なぞには鎌倉っぽく感じられて好きです。
🍸 大河「太平記」の記事
「北条高時のこと~①大河「太平記」を観ていて」
「足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?~②大河「太平記」を観ていて」
「尊氏の早世した兄と討たれた長男竹若丸~③大河「太平記」を観ていて」
「北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて
「金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて
「八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて」
「北条高時の母の伊豆韮山~⑦大河「太平記」を観ていて」
「新田義貞の正室のこと~⑧大河「太平記」を観ていて」
「新田義貞は里見からの養子だった~⑨大河「太平記」を観ていて」
「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
萩真尼 こと マリコ・ポーロ
画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。
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