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2020年12月22日 (火)

宗瑞は京で失脚したため駿河へ下った!?~森幸夫氏

マリコ・ポーロ

医療介護はじめエッセンシャルワーカーの皆さま、本当にありがとうございます。

 

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~「小鹿営業所」 新九郎さんファンはバスの行先表示も撮る~


先日のブログ記事「道灌・小田原北条を大河ドラマに!署名を募っているそうです」でチラッと書いた小田原の本『戦国大名北条氏の歴史 小田原開府五百年のあゆみ』を読み進んでおりますが…

ドびっくり~(←また💦)なことが書かれていました。


皆様ご存知でしたか?
新九郎さん(宗瑞)が駿河へ下向したのは、京で政治的失脚をしたため だというのです。


それは、森幸夫氏の「第1章 ー大森氏と伊勢宗瑞の時代ー」に書かれています。以下はほぼ本文よりの抜き書きですが、まだ読んでらっしゃらない方は是非本をご覧くださいませ。

余談ですが、小田原城が八幡山古郭から同心円状に発展してきたのではないということを私が初めて知ったのは、森氏の論文でしたわ。


ほにゃ、話を戻して。

🐎 宗瑞の失脚の原因は、新九郎さんが 将軍足利義尚と六角氏の申次をつとめていた ことにある

新九郎さんが六角さんとの申次だったということは、六角さんから将軍への高級瓜のプレゼントを新九郎さんが取り次いだりしている記録などから分かるそうです。


長享元年。
新九郎さんが駿河で小鹿一派を討ち氏親さんを当主にすえた頃、京では義尚が六角討伐のため近江に在陣している。


ところが、六角討伐には奉行衆だけでも300名以上が従軍しているのに、新九郎さんは駿河にいるので当然のことながら六角討伐には参陣していない。


そんな事態の時に義尚側近の新九郎さんが駿府への下向を上様に願い出られるわけはない。ということは、六角氏との関係で新九郎さんはすでに申次を解任されていたのではないか。これは、事実上の失脚である。


だから新九郎さんは姉上北川殿のかねてからの依頼もあり駿河へ向かったのだ。


これが、新九郎さんの戦国大名への第一歩となるのであ~る。

解任してくれて、おおきに、義尚殿!
(えっ、そう?)


🐎 駿河へ下向し氏親を当主にする

・そもそも新九郎さんは、小鹿を討つという明確な理由があって駿河に行ったのではない。駿河で姉上親子を支援する中で首尾よく小鹿を滅ぼしたのである。

・「もし盛時が、甥氏親を今川氏家督にするため駿河に下ったとするならば、足利義政から氏親への安堵がなされた文明11年から八年も後の長享元年、しかも将軍義尚の近江在陣中に、なぜ、それを実行したかが説明がしにくい」。(言い回しが難し~ のでそのまま書き写させていただきました。)


「義政からの安堵」というのは、龍王丸(氏親)のパパ義忠が戦死した後、当時の将軍義政が龍王丸が義忠の遺領を相続することを認めたアノ御内書です。

ほとんど忘れていたので、小和田先生の『駿河今川氏十代』(吉川弘文館)のこのへんのページを再読してみました。


小和田先生はこの御内書は、家中が混乱し北川殿と龍王丸も小川へ隠れ住んでいる状況の中で、龍王丸が義忠の正式な跡継ぎであることの証明が欲しく、新九郎さんが幕府に働きかけたとしていました。

安堵状が出た後、新九郎さんは京へ帰ったとされています。


🐎 将軍義尚の死去

義尚の病死(近江陣中)にともない新九郎さんは再び上洛し、次将軍義植の申次となります。新九郎さんの本籍はまだまだ京都ですが、駿河と行ったり来たり。そして、義植の六角征伐には参陣していないそうです。


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~北条ファンは道路のタイルも撮る~


🐎 伊豆への侵攻は京の幕府との連動ではない

これについては池上裕子氏も 2017年に書いてらっしゃったようなのですが、マリコ・ポーロの手元には無く確認できていません。


新九郎さんの伊豆への侵攻は、細川が将軍を義植→義澄とした「明応の政変」を契機とはしたが、新九郎さんの主体的軍事行動である。なぜなら…

・新九郎さんの伊豆侵攻を支援した(とされている)葛山氏が、新将軍の義澄の代初めの欠礼を幕府にとがめられているから。

伊豆侵攻がもし幕府の指示なら、幕府から欠礼をとがめられることはないはず。


・幕府が、奉公衆クラスの新九郎さんに公方である茶々丸の討伐を指令することが想定しにくい。

・新九郎さんと義澄との関係も薄い。

あ、このくだり、前にどこかで読んだか聞いたかしたような気がする~。その時、一瞬アレッ?と思ったのですが、そのまま忘れていました。


ゆえに、新九郎さんの伊豆侵攻は幕府の働きかけを介在させる必要はないそうです。ただ、同本では、小和田先生はじめ他の著者は、宗瑞の伊豆侵攻は幕府との連携であると書いてらっしゃいます。


(翌日加筆。
また、もし新九郎さんの主体的軍事行動としたら、その理由はなんなのでしょう?伊豆をゲットしたかったから?茶々丸は現将軍の仇。討伐したとて幕府からとがめられることはないだろうって?

黒田基樹『戦国大名・伊勢宗瑞』には、荏原荘からの収入だけでは伊勢家は成り立たなくなっていたから…と池上裕子氏が書いているとありました。そして、宗瑞の伊豆奪取には上杉もかかわる複雑な背景が書かれていました。マリコ・ポーロ の知識ではブログにまとめられないので、興味ある方は本の方を読まれてみてくだされ。)


それにしても、以前は、宗瑞は独自で伊豆を奪取とされていて → それが少し前に、義尚の承諾を得て幕府の指示で伊豆へ侵攻したとなり → またまた宗瑞が独自で行ったことなのではないか?に戻った(または以前からその説は続いていた?)のですか。

逼塞していても本を読むだけで ドびっくり~😠! が次から次へと発生するものです。

どしたらエエの?


▲ 宗瑞時代の駿府・今川氏のブログ記事の一部
「駿府 「臨済寺」の特別公開」
「今川時代の駿府 「吐月峰 柴屋寺」」
「駿府で暮らした早雲の姉と北条氏規」

「宗瑞を圧迫した立役者、赤沢朝経~家永遵嗣氏 講演(2019.12)」
「小田原北条の始まりを告げた城 「韮山城」 シンポジウム(2015.1)」

「早雲寺 「北条早雲画像」の曝涼 2010」
「北条氏綱像」は後世に改変されたのか?」

「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」

「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏「願成就院」」
「早雲が最初に賜った城は、三国同盟の城?」

▲ 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女たちのこと
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」

▲ 以下は2009年の知識で書いたものなので、そのへんのところ甘~い目でご覧いただけたら嬉し。当ブログは北条氏照ブログとも言われますが、思い起こせば、新九郎さんから始めたのでした。

「ディスカバー 伊勢新九郎の相模へ」
「伊勢新九郎 湘南ボーイへの道」
「‘元祖 義’ 伊勢新九郎の韮山へ」
「伊勢新九郎さん in 駿河の巻」
「伊勢新九郎さん 伊豆で温泉にはいるの巻」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。
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