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2021年1月10日 (日)

新田義興と夫人の、品川区にあった塚~⑬大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ

医療介護はじめエッセンシャルワーカーの皆さま、ありがとうございます。本当に。


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~義興の「胴」が埋葬されているという新田神社の御塚(大田区/東急多摩川線武蔵新田駅)~


特に新田義貞のファンにはあらねど、判官びいきゆえー道誉殿ではないー前回は義貞殿のことだけで長くなってしまいました。ゆえに2回に分けました。

前回はこちらです→ 「新田義貞のこと少しだけ~⑫大河「太平記」を観ていて」


さて、
新田義貞の子息義興の首塚と夫人の塚だと伝わるものが、それぞれ品川区の荏原にもあります。

新田義貞の足跡を巡り興味を持ち、義興と夫人の塚のことを知りました。訪ねたのは数年前のことですがブログに書くタイミングがありませんでした。ちょうど大河「太平記」の再放送で新田義貞の最期がオンエアされ、塚のことを思い出したので書くことにしました。


まず義興の首塚ですが、それは東急大井町線の荏原町駅近くにある庚申塔さんのあたりにあったようです。

タイトルが「品川区にある」ではなく「品川区にあった」と過去形になっているのは、今はもうなんの痕跡がないからです。もしかしたら痕跡のカケラぐらいは残っているのかもしれませんが、マリコ・ポーロ には見つけられませんでした。


🐎 新田義興の生涯をザックリと

皆様ご承知のことと思いますので、メンドクチャイ方はすっ飛ばしてくだされ。


義興は、義貞の次男です。
母は上野一宮の社家の出で出自が低いことから、義貞に疎まれ新田荘にいたらしいですね。

ちょっとここで脱線。
社家の出でも出自が低いのですか?頼朝の母上も社家ではなかったでしたっけ?熱田大神宮は格上なのですかね?

足利尊氏も息子の直冬を母の出自が低いということで遠ざけていましたよね。当時は母親の出自が低いとそんなに嫌だったのでしょうか?それなら、そもそもお相手にしなければいいのにねえ…(←それができたら苦労はないって?)


話を戻し、義興クンのこと。


北畠顕家が奥羽からの上洛の際、その軍に加わる。

義貞、兄・義顕の死後は越後に潜伏(たぶん)。

官能の情乱…ちゃう、観応の擾乱(兄・尊氏 vs 弟・直義)では直義方で北条時行らと挙兵。上杉憲顕と結び一時鎌倉を占拠したが、尊氏の反撃により鎌倉を追われる。

尊氏没後、弟・義宗と共に再び決起。しかし、鎌倉公方足利基氏方によって多摩川矢口渡(大田区)にて誅殺される。

怨霊となり(←これ必要?💦)、新田神社(大田区東急多摩川線武蔵新田)に祀られる。


享年28才。
胴塚が矢口渡近くの新田神社(冒頭の写真)に、首塚は入間の愛宕神社にあると伝わる。


🐎 品川区の、首塚があったというのはどこか?

図書館で検索し見つけた『荏原中延史』によると…

~義興は尊氏の死後、鎌倉奪還を目指したものの敗退。多摩川矢口渡にて討ち捕られた義興の首は家臣により、義興夫人の縁故であり、夫人が暮らしていた、駅の反対側にある荏原氏の館跡と伝わる「法蓮寺」へ逃れてきたが、ここへも敵方が迫ってきたため、夫人と家臣達は法蓮寺向いの「入道山」へ密かに首を埋めた。そして、山中に穴を掘り隠れ住んだ…~

と、書かれています。


もちろん現代の荏原町駅含め東急大井町線沿線では、あたりを見廻してみたとて山はおろか丘も高台さえも見えません。「入道山」とはどのあたりでしょう?

『近世の品川・民族偏』(品川区教育委員会)には…
~(入道山は)駅の脇を通っている旧鎌倉街道、中通りを馬込の方に向かい、立会川を渡って二つに岐れる三角点に庚申塔が建っている…(略)…ここは元は塚になっていた
とあります。


なんですと!元は塚になっていた ですと?!


前回書いたように、荏原氏館跡と伝わる法蓮寺とその隣の旗岡八幡神社の前の「仲(中)通り」は、かつての鎌倉街道中道です。

そのまままっすぐ下れば(当時は上る?)池上本門寺。そして、多摩川 矢口渡 に出ることができます

本に書かれている通りに歩いてみました。


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~鎌倉街道中つ道。左が法蓮寺。その先隣が旗岡八幡神社。私が立っている背後が荏原町駅の踏切。~


上 ↑ の写真を撮った後、くるりと振り返り写真とは反対方向(後ろ)の馬込方面へ歩きます。

通りは賑やかな商店街のド真ん中ですが、法蓮寺から荏原町駅の踏切を渡り、立会川(暗渠の公園)を渡ると、確かに少し上り坂になっていました。


法蓮寺から歩くこと5分。三叉路に着。

お!ホンマや。庚申塔が残っていますね。

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~右へ行くと鵜木(光明寺道)、左は本門寺へ行く池上道。天明3年の石造道標の説明板がある。~


上記の『荏原中延史』の著者は、昔、このあたりを掘り返す時を見たそうです。なんと、そこは十畳ほどの広さで、「床の間のような所もあり、押入と思われる箇所もあり」と書いています。

それってホンマに新田関係が穴を掘っての隠れ住まい跡かいな??江戸時代の住宅の跡じゃないの?と眉に唾をつけながら読んだとしても、今はあまりに商店街商店街していて、鎌倉・室町時代はおろか昭和の初めを想像するにも難しくてよ。


🐎 義興夫人の塚

それは、品川区の記録にありました。


場所は、より一層、商店街商店街した超有名商店街 武蔵小山パルム商店街。そこに義興夫人(正室か側室かは不明)のものと伝わる塚がかつてあったのですって!

区の記録によると、その塚は、パルム商店街の、武蔵小山駅とは反対側の入口、つまり中原街道(旧中原往還)の平塚橋の近くの「權司稲荷」のところにあったそうです(平塚橋の「塚」とは違います)。


残されている記載と実際の場所がどうも合わず、しばらくウロウロしていて、ハタ!と気が付きました。記録が発刊されたのは昭和40年代。26号線や武蔵小山の商店街は出来てはいたものの、記録はそれより以前の町の風景を基準として書かれているのではないか?

当たり前のそんなことに今更気づき、スマホで東京の古地図(明治)を開き、中原街道と交差する品川用水(すでに暗渠)やそこに架かる平塚橋や、目黒碑文谷道の風景へ脳内を転換。

すると、記録と地図はみごとに合致。地図のそこには、墓(塚?)の記号がありました。

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それが確かに記録の塚かどうかは分かりませんが、ピンクの〇の所です。武蔵小山パルム商店街の入口あたりの一帯です。(緑の線はパルム商店街と26号線。)


平塚橋のあたりは新羅三郎義光の伝承にあるように、このあたりに低い(平)塚があったことから「平塚」の地名となったとされています。上にも書きましたが、夫人の塚は、この平塚の塚とは違うものです。

また、周囲をグルグルして聞き込みもしましたが、權司稲荷は見つけられませんでした。地図の見方が違うのかな~?


区の昭和の記録には、塚は200坪ほどあったと書かれています。義興の家臣たちは逃走の途中、ちょうどここに新羅三郎が死した兵士たちを祀った大きな塚があったので、自害した夫人を葬ったのでしょうか。

どちらも土地の伝承にすぎませんが、夫人の遺体をどこまでも運んでいけるわけもなく、義興家臣の誰かが、荏原氏の誰かからその塚の伝承を聞いて、そこに埋葬することにしたのかもしれません。妄想に過ぎません…。


🐎 妄想逃走ルート

言い伝えによると、義興と最後の行動を共にした家臣は13人とされています。

家に帰って、武蔵小山のパルム商店街でお土産に買った名物の あんパン を食しながら、地図を広げ家臣達の逃走ルートを妄想してみました。


多摩川の矢口渡(大田区)で果てた主人・義興の首級を担った家臣達は鎌倉街道(仲通り)を北へひた走る

夫人(正室?側室?不明)が暮らしていた、又は、避難していた鎌倉街道(仲通り)沿いの法蓮寺の館へたどり着く

追っ手が迫ってきたため館をあとにする

鎌倉街道を少し戻り、立会川を渡った入道山の麓に主人義興の首級を埋める

中原往還に出(そんな主要道を行くか?とも思うが)、北へ向かう

途中、平塚(平塚橋)のあたりで夫人の足はもつれ、これ以上は足手まといになるばかり、もはやこれまでと自害

家臣達は夫人の亡骸を葬り、さらに逃走する


家臣達はどこへ向かおうとしていたのか? 入間 だろうか?


なーんて、全部妄想ですが、ここでなんと!

🐎 もうひとつあった夫人の塚

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~千代が池(目黒)歌川広重。滝の上段が松平藩抱屋敷。~


なんだかハマッてしまって、次々と古い伝承物を読んでみました。

と、義興夫人の伝承が品川区荏原から目黒区にかかるあたりにもあることを見つけました。両区のHPによると、『新編武蔵風土記稿』に書かれているそうです。


そこには女人の名まで書かれていました。

名は「千代」。
千代殿は義興討死の報を聞き池に身を投げたと伝わっているそうです。以後、池は「千代ヶ池」、そのあたりは「千代ヶ崎」と呼ばれるようになったそうな。鎌倉時代で一介の女人の俗名が伝わっているとは、これいかに。


池があったのは現代の目黒駅すぐ近く。山手線の外側で、ホテルプリンセスガーデン の脇の坂を下ったあたりのようです。

時代はグググッと下った江戸時代、一帯は島原藩松平家の抱屋敷でした。松平家の抱屋敷は広大で、現代の目黒駅の両側&山手線内側の目黒駅から恵比寿駅に至っていたそうです。敷地は約2万1千坪!いくら親藩とはいえ、抱屋敷で広いですね。


抱屋敷は絶景の地としても有名で「江戸名所図会」や広重にも描かれ、千代ヶ池には関東第一といわれた三段の滝が落ち込み、千代ヶ池の周りは江戸の庶民にも開放されていたようです。抱屋敷の池については、ご存知の方も多いかもしれません。


それにしても、なぜ荏原から目黒にかかるこのエリアに新田義興くん縁の女人の話が点在しているのでしょう。

彼女たちは同じ人でしょうか?はたまた 別人でしょうか? それとも単なる言い伝えに過ぎないのでしょうかねえ…。


🍸 大河「太平記」関連の記事の一部です。

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」

「北条高時のこと~①大河「太平記」を観ていて」
「足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?~②大河「太平記」を観ていて」
「尊氏の早世した兄と討たれた長男竹若丸~③大河「太平記」を観ていて」

「北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて
「金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて
「八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて」

「北条高時の母の伊豆韮山~⑦大河「太平記」を観ていて」
「新田義貞の正室のこと~⑧大河「太平記」を観ていて」
「新田義貞は里見からの養子だった~⑨大河「太平記」を観ていて」

「尊氏と執権赤橋の寺「浄光明寺」~⑩大河「太平記」を観ていて」
「福島の人は北畠顕家が好き?~⑪大河「太平記」を観ていて」

「新田義貞のこと少しだけ~⑫大河「太平記」を観ていて」

講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて(2014)


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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