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2021年2月 8日 (月)

今日は北条氏規の命日~菩提寺から知る伊豆への想い

マリコ・ポーロ

医療介護はじめエッセンシャルワーカーの皆さま、ありがとうございます。本当に。


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~北条氏規が城主だった三崎城 (2010年撮影)~


慶長5年2月8日。
河内狭山藩藩祖 北条氏規 が世を去った。


幼い頃より今川で人質として暮らし、北条に戻ってからは常に最前線を守り、外交を担い、お家存続のために秀吉との折衝に力を尽くしたものの、兄を介錯し小田原北条家の死に水を取ることになった。

その後、小田原北条最後の当主だった氏直らと高野山へ蟄居。赦免後は敵であった秀吉の相伴衆となり、文禄の役では子息氏盛と共に名護屋へ出軍。河内狭山藩を起こし、大阪にてその濃密だった 56年の人生を終えた。


氏規の人生を辿ると、こちらの方が胃が痛くなります。


戦も人生も経験豊富。人脈も広く、風雅の道にも長け、幼少~青年時代の長い期間を他家で過ごしたことから他の兄弟・イトコ達とは少し違い、自家を客観視出来た人。

もし小田原北条が存続していたら、氏規は 第二の北条幻庵 となっていたかもしれません。また、北条当主一族で、江戸時代に小田原北条の名を繋げた、ただひとりの人でもありました。


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~氏規の孫、二代狭山藩藩主氏信の元墓 / 狭山北条家の江戸の菩提寺「祥雲寺」に宝篋印塔のみ残る (2010年撮影)~


🐎 氏邦の兄だった北条氏規

当ブログを読んでくださる方々には言わずもがなですが、北条氏規は、小田原北条三代氏康の子息であり、四代氏政の弟でありました。


かつて氏康の子息は上から順に、氏政・氏照・氏邦・氏規・景虎で、氏規は四男とされていました(早世した長男&養子とした亡き弟の子は別とする)。

が、しかし、近年の発見により氏邦と氏規の出生順が逆転しました。つまり、上から順に、氏政・氏照・氏規・氏邦・景虎で、氏規は三男に昇格(?)したのです。

こちらで少し書きました →「一枚岩じゃなかった、北条氏康の子供たち」


🐎 氏照を脅かす氏規の活躍

今川氏真へ妹の早川殿が嫁いできたことにより、氏規は早川殿と交代し北条へ戻ります。20才ぐらいの頃とされています。

以後、早世した伯父北条為昌の遺領を受け継ぎ、三崎城主として、上野館林城城代として、伊豆韮山の在番として、対武田、対佐野、のちには西への防衛…と、北条躍進のために不可欠な人材へとなってゆきます。


また氏規は、父氏康や兄氏政と同じく京の将軍家(氏規の時は義輝)の直臣でもあり、それは義昭の代にも引き継がれていたようです。大河「麒麟がくる」でもあったように、義昭が鞆の浦にいた時期、義昭は北条・上杉・武田の和睦のあっせんを氏規に頼んでいます。

氏規は中央から、北条家中で力があると思われていたのですな。


黒田氏の『北条氏康の妻 瑞渓院』平凡社(2017.12) には、氏規が今川から戻ったことで、兄で北条 NO.2 だった我らが北条氏照が焦ってアピールしたようなことが書かれていました。

さもありなん。面白~い。


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~三崎城(2010年撮影)~


🐎 氏規の妻

上にも書きましたが、ご存知のように氏規は幼少期から今川家で暮らしました。家康とは人質仲間で屋敷はお隣同士。二人の親交は末期の北条と秀吉との関係に大きな役割を果たします。


ご存じのように人質とはいえ現代とは感覚が違い、別に監禁・軟禁などはされておらず大事にされました。屋敷をあてがわれ、遊びにも誘われます。

子供の場合だと教育も受け、元服もしました。後に、当主の片腕もしくは実家に戻しても取次などとして自家のための有効な人材となるからです。


その上、氏規の場合、今川はママ瑞渓院の実家。実の祖母、寿桂尼殿もいます。助五郎くん こと 氏規は、義元殿に勉学が進んだことを褒めてもらったり、おばあちゃんと温泉にも行ったりもしています。

家康と同じく今川で元服し、妻も娶りました。


は?妻?
えーーっ!

そうなんですよ。氏規は北条一族では唯一、一族内でお嫁さんをもらっていますよね。玉縄北条綱成のお嬢さんですが、彼女は後妻さんなんです。


氏規の先妻は定かではないですが、家康の築山殿と同じく今川の御一家衆の関口家の姫ではないかというのが有力な説です。

氏規が北条へ戻る時、先の妻はどうしたのでしょう。10代(年上ということもある)だったでしょうが、今川に残ったのでしょうかねえ。



そして、最後は菩提寺「専念寺」の妄想…。


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~狭山陣屋跡の説明板(陣屋の他の写真は文末添付のブログ記事にもあります)~


🐎  伊豆から移した菩提寺「専念寺」

以前少し書いた専念寺のブログ記事を文末にリンクしております。大和の歴友が代参してくださった折の写真もありますので、ご覧いただけましたらいと嬉し。


専念寺は、現在の大阪市中央区の上本町西にあります。

氏規が大阪にいた頃、狭山の陣屋はまだ出来ていませんでした。氏規は、専念寺と同じく城下、現在の中央区の久宝寺町にあった屋敷で暮らしていました。狭山の陣屋は、子息の氏盛の代に完成します。

ゆえに、氏規、氏盛のお墓は専念寺にあり、孫の代から江戸の祥雲寺になったということなのでしょうかね。


さて、こたび氏規さんのことをあらためて考えていて、専念寺の歴史を初めて知り感慨深いものがありました。

専念寺の開山は、文禄3年。開山は寂蓮社頂誉上人。開基はもちろん氏規さんです。ご自身の屋敷内に建立しました。


そして、なんと!
専念寺は、伊豆が始まりだそうなのです。

前の北条の義時が、父時政の墓所として建てたお寺だとな(大阪新四十八願所阿弥陀巡礼HPより)。時政のお墓は願成就院だけだとばかり思っていましたが、ほかにもあったのか?それとも、荼毘に付した寺と菩提寺は別だったのか?

伊豆の専念寺を調べてみましたがまったく分かりません(西伊豆にある同名のお寺は現在は真宗、昔は真言宗で摂州にあったとのことなので違うと思います)。


それにしても、自家の菩提寺を伊豆国から…。小田原北条始まりの地であり、氏規が、その最後を看取った韮山城のある伊豆国。そこから迎えたお寺なんですねえ。頂誉上人は韮山で敬愛していた師だったのでしょうか。

伊豆への想いは断ち切れない…… マリコ・ポーロ の勝手な妄想です。


🐎 以下、北条氏規を書いたブログ記事の一部です。ご覧くださいましたらいとうれし。

▲ 狭山北条家のこと

「北条氏規の大阪の菩提寺」

「江戸時代の北条家「狭山藩邸跡」」
「江戸時代の北条家 下屋敷「北条坂」」
「江戸時代の北条家、東京の菩提寺」

▲ 小田原北条滅亡
「北条一族の高野山~3「小田原坊」」
「北条氏規、今日(24日) 龍城を明け渡す」

「家康と北条氏政、黄瀬川の河原で酒宴する」

▲ 駿府
「駿府で暮らした早雲の姉と北条氏規」
「駿府 「臨済寺」の特別公開」

「北条五代の娘たち① 今川から戻った長松院様」
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」

「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原「久翁寺」」

🐎 北条氏照を介錯したのは氏規ではなかった?のブログ記事です。
「北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「その①」
「その②」
「その③」
「その④」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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