2019年8月 6日 (火)

「手づくねかわらけ は権威の象徴だったのか?」鳥居和郎氏

マリコ・ポーロ


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「手づくねかわらけ は本当に威信財だったのか? その流通や価値観からみたらそうではないのではないか? かわらけ をもらって喜ぶのだろうか?」

前回のブログ記事で書いた、「小田原北条の会」主催の 鳥居和郎氏 による講演 「北条の城郭(支城)ネットワークは本当にあったのか」での、「イメージをつくってしまうと、それが本当だと思い込んでしまうから…怖い」のお話しの中で鳥居氏がおっしゃいました。


ビビッ!ときたので、論文を拝読しました。『戦国大名北条氏と手づくねのかわらけについて』神奈川県立歴史博物館 研究報告 人文科学 第40(2013年)です。

目からミツウロコ
👀


▲ 
アゲイン


カラオケ♪ …ちゃう、かわらけ や 手づくねかわらけ については、マリコ・ポーロなぞより皆様の方が良くご存知のことだと思いますので省くとして。

手づくねかわらけ は ロクロ成形の量産品とは違い格の高いもので、北条に関しては当初は本城主が生産し、儀礼に使われ、何かのおりに支城主に下賜されるものであり、当主の権威を示すものだ、と私は認識してきました。

ところがギッチョン。


● 手づくねかわらけ は威信財だったのか?

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しょえ~。そんなこと考えたことも読んだこともなかっただ。


そう言われちゃうと、すぐ、確かに~(-_-) かわらけ は使い捨ての食器。素材も単なる土だしね(土物の陶芸家の方すみもはん)と思っちゃうマリコ・ポーロ。

でも 手づくねは、支城より本城からの方がたくさん出てきているし、博物館の展示では特別扱いだし、白だのピンクだのと分類され、なかには年号が入っていたり金箔を貼ったりしているものもありますよねえ。唐物ではないけれど、なんとなく価値高そ~な雰囲気。


論文には、「「権力の象徴」とみることには慎重になる必要があり」「継続的に使用された背景には、当主の「好み」という要素も考慮する必要があろう」とありました。

また、北条の かわらけ の研究は、「発掘資料という性格上、考古学的な手法で分析がおこなわれ…」、「発掘状況からみると、そのような解釈は可能となるのかもしれぬが、他の視点も交えて見ると別のイメージも浮かび上がってくるのではなかろうか。」ともあります。


それが、上に書いた、その流通や価値観からみるとか、かわらけ をもらって喜ぶのか?ということなんですね。元々の 手づくねかわらけ の価値がどれほど~ だったかですよね。例えば氏綱公が今川とか京から 手づくねかわらけ を頂戴して「威信財」と感じるほど嬉しかったのか?

もしかしたら、単なる氏綱様のお好みとして、「お!ちょっと味があって良いのう」だったかもしれない。支城主に与える時にも、「これをそちに進ぜよう」と三宝に載せて恭しく渡したのではなく、「ワシの好みなんじゃが、ちと良いじゃろ~。あげる。」とおっさっただけかもしれない。


でも、いただいた方の息子や孫や重臣達は、大途がくださったものだから大事にしなきゃと思ったかもしれないし。そして、次の世代になっていくと当主や息子たちが支城で儀式を行う時なんかに持ち込んで使うようになった…

あ、イカンイカン。どんどん脳内でイメージがつくられてしまうだよ。


● 小田原での手づくねかわらけ登場のキッカケ

手づくねかわらけ の北条での使用が始まったのは氏綱の頃ですよね。私は、それは、北条の支配が確立し始め、幕府の儀礼の導入や京の武士達の小田原への流入が盛んになったからだと思っていました。

しかし、もともと伊勢家は儀礼の本家本元であり、ましてや将軍の申次である新九郎さんは武家儀礼については専門家。息子の氏綱も、とっくのとうにそれらのことは承知の介。だから、「北条家に手づくねかわらけが登場した契機を、同家が幕府の儀礼を導入することに伴ってとみることは、やや説得量に欠けるところがあるのではなかろうか」と論文にはありました。

確かに~(←すぐ、また)


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~その頃のことは ↑ ここに。「新九郎、奔る!」ゆうきまさみ 小学館。~


では、キッカケはなんだったのだろう?

氏綱様の仲良しイトコ今川氏親さまのところでの手づくねかわらけ の登場は、氏親さまが京から中御門家の姫(寿桂尼)が嫁いできた頃。そして、北条で手づくねかわらけ が登場したのは、氏綱様が近衛さんから後添いをもらわれた頃。


論文には、「このような両家の状況は偶然の一致とは思えないものがある」「公卿家の女性との婚姻が契機となったと考えることも不自然ではない」と。つまり、武家の下向ではなく、公家の下向がそのキッカケかもしれないということですか。確かに~(あっ、イケネ💦)

でも、「裏付ける史料も存在しないため可能性を指摘するにとどめる」って。


むすび

手づくねのかわらけが、清浄な食器(一回使ったらもう使わない)という本来の機能に加えて、北条氏の権力の象徴という評価が行われることについて、

「この評価には、権力者側(北条氏)だけではなく、支配される側もその価値観を共有する意識がないことには成り立たない。… 検出状況からはそれらを読み取ることができず…」。


そして、登場キッカケ状況が類似する今川家では、手づくねかわらけ は定着しなかったそうです。では、なぜ北条家では定着したのか?ロクロ成形も外見を「手づくね風」になっていったので、それらの理由を考えることも重要であるとされています。

ここまで読んでくると、それはやっぱり、おっさる通り、五代当主の「お好み?」って思ってしまいましたが、論文でも「そこには「権力の象徴」というような意識は存在せず、単なる「嗜好」の領域と考えることができるのではなかろうか」。


以上、私がビビッ!ときたところだけを書きました。万が一、勘違い間違いがあると鳥居氏に申し訳ないので、ご興味がある方は論文を読んでみてくだされ。手づくねかわらけの本城から支城間での移動など、もっと色々なことが書かれています。


「戦国時代の「ウズマキかわらけの謎を解く」展」(2011.2.23)

「北条の「城郭(支城)ネットワーク」は本当にあったのか?」(鳥居氏講演)


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2019年7月 1日 (月)

小田原北条家と猿楽の宝生大夫

マリコ・ポーロ

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~『匠明』(しょうめい)鹿島出版会 / 『戦国武将と能』雄山閣~


いささか気になることがあり、戦国時代の猿楽についてチビット調べていたところ、北条師匠が、小田原北条家が贔屓にした宝生家の猿楽師の名前が分かることを教えてくれました。



小田原の芸能集団といえば、まず思い浮かぶのが「舞々の天十郎」。舞々とは神社に奉納する大道芸のようなもののようですが、氏綱の頃から大道芸能者や陰陽師や平家琵琶の座頭などを天十郎に統括させていたと、『戦国武将の居城と暮らし~北条氏康』(下山治久)で読みました。

天十郎大夫は庶民向けとしまして、武家向け(むけむけだね)といえば「宝生大夫」ですよね~。


三代氏康の頃になると、全国から貴賤問わず様々な人達が小田原にやってきます。大和猿楽四座もそうです。天文14年の松原神社の「前庭」での興行の様子が『北条五代記』にありますね。

今まで小田原北条の猿楽にまで興味が広がらなかったので、大和猿楽座の宝生大夫のことも、応仁・文明の乱で荒れた京の都から各地に下り、小田原に庇護を求めた…ぐらいの知識しかありませんでした。


名前が分かるとのことなので、現代の宝生流のHPを見てみました。あら~、ほんとですねえ。出ていますねえ。北条時代の小田原では三代で、「一閑」「重勝」「新次郎」だそうです。

もうチョット詳しいことが知りたいにゃ~と思って、トップの画像の『戦国武将と能』(曽我孝司)を読んでみました。もうチョット詳しいことが書かれていました。


▲ 宝生大夫

それは、『大乗院寺社雑事記』にあるそうです。大和(奈良)の興福寺大乗院で室町時代の三代の門跡さんが記した日記だそうな。

宝生大夫は、まず周防の大内氏の元へゆき、その後各地を流浪し、天文年間に氏綱の元へ来て、子・孫と三代にわたり北条お抱えの大夫となったそうです。


また、『北条五代記』には、宝生だけではなく大和猿楽四座の「大夫達と囃子方がこぞって小田原に下り、生計を立てていたとの記述」があるとしています。以下一部抜粋。

「宝生は北条家の大夫と号し、金春八郎・落観世、金剛大夫……此四座の役者、脇は金春源七、宝生新左衛門、太鼓は三谷大蔵、仁助、威徳三郎四郎、小鼓の美濃意楽、宮増弥右衛門、金春権助、太鼓は奈良新八郎、五野井、笛は彦兵衛、助三郎、狂言は五右衛門、鷺大夫、此人々は小田原にこぞり居て、渡世を送る…」

面白いです~。こぞりて…というか、ごっそりといますねえ。


▲ 八王子

『北条五代記』には、お囃子方の動向がもっと書かれているんですねえ。

「佐藤は太鼓、山室は小鼓、霞斉は太鼓、此三人は三浦三崎に有りて其の芸を教え、嶋屋親子は武州八王子に有りて、近国を行めぐり勧進能して力をすぐる。一不は笛ををしへ、渋谷はうたひををしへ、武州品川の里に居住し、暮松は江戸を栖として、神田明神の祭三年に一度の神事能をまもり…」


ここで、ちょっと待った!
嶋屋親子が、武州八王子ですと!?

初耳ですな。八王子では「宗阿弥」という猿楽師が有名です。相即寺だったか大善寺だったか(うろ覚え~)の、八王子戦の犠牲者過去帳に名前だけがあると、旧八王子城を守る会の重鎮(?)たちに伺ったことがあります。名前だけなので、どういう人物かは定かではありませんが。


そりゃあ我が氏照も戦国武将。そのうえ、「武」だけではなく、初代新九郎さん(宗瑞)の教えで「文」も重んじる北条家の御曹司。猿楽や幸若舞の嗜みのひとつやふたつはあったとは思いますが、歌舞音曲に関する氏照の史資料は私は見たことがありません。笛「大黒」のことも後世に作られたお話ですよね。

氏照については、私信プライベートレター さえ見たことがありませんが…というか、嶋屋親子って誰?


▲ 宝生大夫と小田原「報身寺」

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~お寺でいただいた絵葉書~


ここで、to my surprised、更に驚いたことに…

『戦国武将と能』には、小田原「報身寺」の阿弥陀来迎図(掛軸)は、宝生新次郎さんが天正7年に寄進したもの(鎌倉時代制作)だとありました!「報身寺」とは、小田原籠城中の、我らが北条氏照の本陣です!


それで、今ごろ思い出しました。以前にブログに書きましたが、報身寺さんをお訪ねした時に、この掛軸のお話を伺っていましたのでござります!

この来迎図は、現在は東京国立博物館にあると。そこまでは本には書かれていませんが、確かです。その時、東博さんに問い合わせをしましたので。常設ではないとのことなので近々展示されることはないかと伺いましたが、その時は未定とのことでした。


(加筆:東博のHPには阿弥陀「如来像」となっていますが、報身寺さんの阿弥陀様の独尊像のお軸はひとつだけですので間違いないと思います。お寺の方がおっしゃるには、「来迎図」だと阿弥陀様が大勢引き連れた図であり、こちらは阿弥陀様お一人なので「如来像」となったのだろうとのこと。墨書のことについては、ただ今東博さんに確認中。)


しっかし、どひゃ~。ドびっくり~。

何にびっくりしたのかと言うと、掛軸のことを今の今まですっかり忘れていた自分に。そろそろ始まってきたか、マリコ・ポーロ。いや、その時は小田原攻めのことばかり頭にあって…ゴニョニョ。


掛軸の裏の墨書には、次のようにあるそうです。潮音寺とは報身寺の以前のお寺です。

天正七歳小田原 
潮音寺江祖父母 
寶生新次郎納入 
    元禄五歳 
      壬申七月二十二日 
         寶生九郎 
               重吉(花押)

 

祖父母とありますから、一閑大夫の供養のために奉納したのですかねえ…。元禄5年に九郎重吉さんとあるということは、徳川になっても宝生家は小田原にいたのですかねえ。それとも一旦小田原を出たあと再来したのでしょうかねえ。掛軸、見てみたいですねえ。東博さんに展示されても裏側は見られないでしょうねえ。



▲ 『匠明』

 

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~『匠明』の「舞台」のページ。~


『匠明』は、桃山時代に書かれた「木割書」です。これまた別の北条大師匠が薦めてくださいました。「木割」というのは、建築物の各部の比例をいうものだそうですね。

『匠明』と『匠明五巻考』は、大きな図書館に行かないと置いていないようです。私はいつも都の中央図書館に行きますが、「閉架」だったので頼んだところ、職員の方がいる近くの机での閲覧でした。かなり傷んでいて、貴重な史料だからだそうです。コピーも自分では出来ず図書館が取ります。なので、ご興味がある方は上の写真を拡大してご覧くださいませ。

冒頭の「舞台 昔ハ 泉殿ト云リ」が、ちと意外。


全てがこの基準ではないでしょうが、桃山時代以前に造られた舞台はどんなものだったのでしょうね。皆様ご存知のように、当時の猿楽は主に座敷やアウトドアで行われました。教えていただいた話では、あの朝倉館や三好亭でさえ、舞台は「仮設」だったそうです。

 

我らが本城小田原にも今のところ「能舞台」があったという痕跡は出てきていないようですし、我が八王子城にしても、発掘調査からも残された記録からも「舞台」についての痕跡は見つけられません。まあねえ、八王子城については、氏照があの臨戦態勢下で築城を始めた城。池も、あったということには興奮ですが、造りは雑(by 講演会での小野正敏先生。先のブログ記事をご参照)。現実的な氏照どのが遊行の物を造ったとはなかなか微妙なところで…テンテンテン。



秀吉より前の、他の戦国大名で「能舞台」(能楽堂ではない)があった城はあったのでしょうか。
上記の『戦国武将と能』で少し見つけました。

(信長の岐阜城)
「…その山頂に彼の根城があります。途方もなく大きな自然石の垣がそれを囲んでいます。第一の広場には優れた用材で造られた一種の舞台があり、そこでは演劇や公の祝祭の余興が行われている。…」
by ルイス・フロイス

岐阜城へは参ったことがないのですが、曲輪に舞台があったのですね。フロイスさんの書いたことだけからすると、舞台は青天井ですかね??桃山時代より少し前ですし、信長のことですから仕様は「匠明」の基準とはまったく違う独創的なものだったのかもしれません。ということは、安土にもあったのですかねえ?


(信玄殿の躑躅が崎館)
信玄殿ファンならご存知でしょうが、「御能館」があったそうですね。御能館には使用の細かい規定があるんですって。『甲陽軍艦』に記されているそうです。

一 舞台の高さはお座敷によるべし
一 舞台の高さは勧進能は少しかはる
一 田楽、猿楽に太刀を可渡事

これらからわかることとして、本にはこうあります。
「武田家では「座敷能」が頻繁に催されていたことや、舞台では猿楽座の勧進能や田楽能も上演されるなど…」と。


しっかし、昔の史資料を調べるのって楽しいですねえ。限がありませんのう。


以下よろしければタイトルをクリックしてご覧くださいましたら嬉しいです。

「小田原攻め、北条氏照の本陣」
「現(うつつ)か夢か 小田原城 薪能」

下山先生の『戦国武将の居城と暮らし~北条氏康』について
「小田原城のライフスタイルと饗応の膳」

「北条氏照の「大善寺」と「土方能」」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2019年6月 9日 (日)

落城・開城イベント~八王子城と津久井城(2019)

マリコ・ポーロ


落城した城跡の落城日には、敵味方問わず犠牲になった人達を悼みたい。

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~旧八王子城を守る会では、落城忌の集いでお赤飯を食べた~


何度か書いている繰り返しで恐縮ですが、現代の八王子城周辺に住む人達は落城日にお赤飯を食べたそうです。これは、八王子城戦で城山川が血にそまり、しばらくの間川の水で焚いた飯が赤く染まったという伝承からくる、供養のひとつでした。しかし最近は新しい家が増え伝承をご存知なく、お赤飯を食べる家も少なくなったそうです。



今年もまた小田原北条落城・開城強化月間がやってきております。一年あっという間ですねえ…。小田原北条落城・開城月間についてはこの10年毎年たっぷり同じようなことを書いておりますので、ご興味あらばそれらをご覧くださるととても嬉しいです。

 

話はそれますが、今までの落城・開城月間の厖大な数のブログ記事をどうにかしたいです。毎年同じことを書くのもなんですし…。


さて、本題。

今年の落城・開城の催しを2つご紹介させていただきます。



▲ 我が氏照どのの八王子城

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~八王子の住人さんに送っていただいたポスター~


「八王子城跡まつり」
日にち:6月23日(日)

まさに落城した日(旧暦)です。

様々な催しがありますね。個人的には、落城した日には、八王子市さんには供養的な法要などをやってほしいな~と思うものです。落城した日に、敵味方共に多大な犠牲者を出したその城跡で鉄砲をぶっ放す…。鉄砲を討つというのは、何か弔意的なものもあるのでしょうか?詳しくないので分かりませんが、それにしても私の感覚ではチョット辛いものがあります。


実のところ、自治体が宗教的行事を行うのは難しいものだということもあります。今回は市が主催ですからアミューズばかりになっているのでしょう。

ガイドさん方はその前にお墓参りをすると思いますし、まあ、こんなメンドクチャイことを言うのは、百言居士マリコ・ポーロだけです。


▲ 津久井城

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~津久井湖城山公園のHPに出ています。http://tsukuiko-ibento.blogspot.com/2019/05/429.html~

「津久井城開城記念の日」
日にち:同じく6月23日(日)


津久井が開城したのは6月25日です(旧暦)。イベントなので日曜日に合わせたのでしょうが、八王子と重なってしまいましたねえ。

こちらはありますね!お墓参り。知り合いの武将さん達も参陣します。本城小田原も鉢形も玉縄も、また、落城・開城ではないですが三増合戦まつりなども、一般ファンが参加できる供養の法要的なものがありますよね。それらは必ずしもお寺でだけではなく、旧八王子城を守る会の落城忌でも、宴(単なる飲み食い)の前には城内で般若心経を唱えます。


記念講演もありますね!ちゃんとした資史料や発掘調査に基づいた講演会です。妄想講演会ではないですね。

地域の歴史って、こうやって伝えていってほしいな~と思います。私はね。地域の歴史は、日本の歴史にも繋がっていきますもんね~。


▲以下、この10年でこってり書いた厖大な数の八王子城落城と、マリコ・ポーロが従軍レポートした各地の戦国慰霊のイベントの記事の超々々々一部です。ご興味あらば、タイトルをクリックしてくださいませ。

「小田原城開城へ、最後の6ヶ月」

「今年は、ぼっち 八王子城 落城忌…かと思ったら(2018)」

「八王子城戦~前田家臣たちの証言と、彼らの驚きのその後」

「北条氏邦と大福御前慰霊祭(2012)」

「津久井城開城祭~合戦劇従軍レポート(2013)」

「報告!「津久井城開城記念~攻防戦(2012)」

「三増合戦まつり 従軍レポート(2013)」
以前の三増従軍レポートも記事文末に添付あります


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2019年6月 5日 (水)

北条氏綱が、三浦道寸ではなく息子義意を祀ったのは何故だろうか?

マリコ・ポーロ


その祟りを恐れ、その霊を鎮めるために、非業の死をとげた者を神として祀ることがあると言われます。

古くは早良親王、淳仁天皇、菅原道真、平将門、崇徳上皇…。新しくは、為さま(北条為昌の本光寺)…は違いますか。もちろん、素晴らしい功績を残した人がお祀りされ、尊崇を集めることも多いです。


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~居神神社本殿~



小田原には、三浦道寸殿の子息である義意殿を祀る「居神神社」という神社があります。旧東海道に面し、板橋見附、総構早川口に鎮座。本城小田原の西の出入口という重要な場所に位置し、旧板橋村の鎮守でもありました。

 

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グリーン でマークしたところ(小田原市観光ガイドマップより)~


創建は永正年間とのみで今まで不明でしたが、近年、小田原の郷土史家石井啓史氏により、永正17年 であることが明らかになりました。

「(神奈川県タウンニュース)居神神社に「勝って甲」碑 創建は永正17年と判明」https://www.townnews.co.jp/0607/2018/01/13/415108.html
「(伊豆さがみ情報ネット)居神神社に「勝って甲」碑建立/郷土史愛好家・石井啓文さん 創建年など解明」
http://izu-sagami.jp/?p=2397


北条ファンには、太田(三楽斎)、佐竹、真田など敵方の、特に最後まで北条と戦い抜いた武将が大好きで詳しい人が多いです。三浦道寸殿もとても人気がありますよね。

かく申す私も、このところ、「二人の浄心院日海」のことで三浦半島のことをあらためて考えております。先日は、戎光祥ヒストリカルセミナー「北条を倒すのはオレだ!!~海と川をめぐる戦国大名の戦い~」にて、真鍋淳哉氏「海をめぐる北条・関東上杉・三浦・里見の戦い~」の講演を興味深く拝聴してまいりました(もっと熟考把握したらアップするかもしれません。今はチト難ちぃ💦)。


さて、

居神神社は、我ら北条ファンにとっては道寸殿の子息である義意くんの首級の言い伝えで知られています。これは、皆さんもご承知のように後世に作られた物語本の話です。義意くんが大男で剛力の強者であったことも、然り。21才で人生を終えてしまったので、その活躍もよく分かりません。


敵の将をどこか別の場所ではなく城下に祀るというのも不思議ですが、祟りを恐れたり霊を鎮めるためなら、義意くんではなく父親の道寸殿を祀るはずなのに、なぜ義意くんだったのだろうかと、ず~っと思っていました。

若くして戦場に果てたので哀れに思ったのでしょうか。それとも、大将の道寸殿を供養するには憚りがあったのでしょうか。


居神神社の創建や社名の由来について知ったことを書こうとも思ったのですが、にわか知識で書いても、義意くんの首級のように作り話が広まったら申し訳ないので(読んでくださっている方はそんなにいない弱小ブログゆえそんなに広まらないが)、ここはひとつ、興味ある方は文末に添付した石井さんの研究記事をご覧くだされ。


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~北条ファンにはお馴染み。氏綱公置文「勝って甲の緒を締めよ」碑~


義意くんの逸話は境内の説明板にもありましたが、三浦の方々からの要請で昨今撤去されたそうです。そうだよね~。よっく、分かりますよ。私も、氏政さんの「汁かけ飯」の作り話が書かれたものを世界中から撤収したいもの。

代わりと言ってはなんですが、神社に義意くんを祀った北条氏綱公の碑が出来ていました。氏子さん達の寄附にて建ったそうです。立派な字は、宮司さんの奥方様によるものです。


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~本殿はけっこう高台になる~


晴れた~ 午後には 遠く
三浦岬も見えるぅ~

ユーミン 海を見ていた午後で


少し曇った涼しい日だったので写真には上手く写っていないですが、石段を登った本殿から相模の海を眺めると、向こうに三浦半島が見えます。

氏綱公はこの地にあった山角屋敷を移してまでして、ここに義意くんを祀りました。もしかしたら、義意くんが育ち一族と共に果てた地、三浦の地をいつも見えるように…と思ったのかな。

なーんちゃって。

🐎 石井氏のブログ記事です。タイトルをクリックしてくださいませ。

「敵将三浦義意を祀った居神神社と北條氏綱」

「居神明神社と三浦氏関係の新史料」

「検証・居神神社名の由来」

などなど。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2018年10月29日 (月)

北条氏綱が鶴岡八幡宮へ奉納した「太刀」

マリコ・ポーロ

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~鎌倉文学館「鎌倉時代を読む」やってます~


氏綱の太刀

先に当ブログでもお知らせしましたが、ただ今、鎌倉国宝館の開館90周年記念特別展 「鎌倉国宝館1937‐1945」-戦時下の博物館と守り抜かれた名宝-展に、我らが 北条氏綱が鶴岡八幡宮に奉納した太刀  が出ています!


八幡宮の宝物館が所蔵している太刀ですが、宝物館にはなかなか展示されません。今回初めて観ることが出来ました。

奉納太刀は3口。展示は前期が2口、後期が1口 です。拵も現存。


それぞれに「奉納八幡宮御宝殿 北条左京大夫平氏綱 天文七戊戌年八月二日 所願成就 皆命満足」&「相州住綱廣作」「綱家作」「康國作」と記されています。

八幡宮のHPを読めば分かることではあったのですが、ちゃんと読んでいなかったので今まで勘違いしておりました。太刀は、天文9年の八幡宮正殿完成時に奉納されたものだと思っていました。天文7年8月といえば、葛西をゲットし、10月にはいよいよ国府台 という頃です。戦勝祈願だったのですね。


太刀の長さは私の両手を広げた位。鞘は、同じく展示されていた吉宗奉納の鎌倉時代(とはなっていましたが、鞘はもっともっと後の江戸時代あたりに作り直されたみたいな?←不明) の梨地・菊紋の鞘に比べると、グッとシンプル。以前、輪島塗屋にいたので、つい鞘を主体に観てしまう。拵も当時のまま「守り抜かれ」ていて嬉しいです。

波紋は、同行した居合道をたしなむ刀剣ファンの太平記友(←長い)が申すには、「吉宗奉納のと比べて派手」とのこと。


刀や太刀・鑓というものは、どうも武器というイメージが強く、特に実際に使われた気配を漂わせる刀や太刀は苦手なんです。角度によって鈍い照明に光ったりすると寒くなっちゃうの。でも、奉納するために造られた刀なら大丈夫。マジマジマジマジと鑑賞させていただきました。

12月2日(日)まで。国宝館HP→https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kokuhoukan/28tennjikai.html


鎌倉文学館「鎌倉時代を読む 古典から現代作品まで」

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~庭でお弁当が広げられる文学館。おやつのハロウィンドーナツとのツーショット。トンビを警戒しながらの緊迫感ある?ランチタイム!~


太平記友の誘いで、国宝館の前に扇谷の文学館へ寄りました。

鎌倉時代の著作関係がただ並んでいるのではなく、頼朝時代~執権時代~前北条の最後までの、およそ150年が時系列で解説され、それぞれの時代の前に、その時代を書いた新旧の著作が展示されていました。


とっても面白く、鎌倉炎上にドップリ浸れましたよ。オススメいたす。

12月9日(日)まで。文学館HP→http://kamakurabungaku.com/exhibition/index.html


歴史文化交流館では「出土漆器の美」を開催中ですね。「中世における漆器の生成享受の様態と、中世の人々の嗜好性について探っていきます。」だそうだす。観たいにゃ~。

12月15日(土)まで。文化交流館HP→https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/rekibun/shikki.html


鎌倉は、いつもアチコチ発掘調査中。ブラブラ歩いているだけで2ヶ所で遭遇しました。建て替えるおウチも大変ですねえ。

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小田原城天守閣特別展 「小田原開府五百年~北条氏綱から続くあゆみ~」

我らが北条氏綱の「鞍」が出ています。12月24日(クリスマスイブ)まで。HP→https://odawaracastle.com/news/kaifu500.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ


氏綱の鞍 「ススメ!小田原北条氏展」 馬の博物館」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/at-e4d3.html

「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e83.html
「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-64df.html

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-df71.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html
「里見へ走った公方の姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-82f7.html


画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2018年10月 8日 (月)

小田原の古民家で「北条幻庵の一節切」を聴く

マリコ・ポーロ


明日の命さえ定かではない日々の中で、「戦国武将たちは、持って行き場のない気持ちを笛にたくしたのでは…」

と、一節切(ひとよぎり)奏者の大村響堂 氏。


母屋の広縁に続く座敷で、心地好く吹き抜ける秋の風を感じながら目を閉じて聴く「一節切」の音色。奏でるは幻庵殿。周りに座すは北条一門かと妄想に浸る。


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~「一節切」を奏でる大村氏(ご許可をいただき掲載)。後ろの書は、飯山家所蔵の山岡鉄舟。~


秋の日の昼下がり、キャンパスおだわら の「古民家で学ぶ下堀と北條幻庵」という素敵な講座に参加して参りました。


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~築100年の飯山家。かつては華道の先生で、大正時代、小田原鴨宮に駅を誘致した住民運動のリーダーだった方。~


この日の「一節切」は、大村氏が天守閣に寄託している本物の北条幻庵作の一節切(「なんでも鑑定団」に出たアレ) のレプリカです。本物に忠実に作っても、四百年前の本物の音色とは、そりゃあ違うそうです。

いつか聞いてみたいねえ。四百年前の、その音色。しかし、笛は残れど譜面がまったく残っていないので、曲も譜面も後から研究(&想像)して作られたものだそうです。


ご存知のように幻庵は一節切の名手でしたが、北条一門は皆、一節切を奏でることが出来たであろうとのこと。

本城に一門が集う時、また、それぞれの城で夜一人、御曹司たちは「持ってゆき場のない気持ちを笛にたくして」奏でたのでしょうか。


「一節切」については以前たくさん書いておりますので、その一部ですが、こちらをあわせて読んでくださると嬉しいです。→戦国武将が愛好した尺八 「一節切」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-8c55.html


最後は皆でお稽古用を使って尺八の音出し体験。大村氏は尺八や一節切を教えてらっしゃるそうで、「小田原で、 幻庵を偲んで皆で一節切を奏でる会を開くのが夢」とのこと。


小田原鴨宮の下堀方形館

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~石井先生の画像~


前半は、小田原郷土史研究家の、お馴染みの石井啓文先生による下堀方形館と賀茂宮氏の話でした。下堀は、北条時代、北条幻庵やその内室の領地でした。

下堀に二重の掘に囲まれた方形館があるなんて知らなかったので とーっても興味深かったですし、また、葛山氏広についての新しい考察もちびっと伺えました。行って良かったです。

来年1月、キャンパスおだわら で、石井先生による幻庵についての3回連続講座があるそうですよ。


小田原、いつもありがとー。
う~~、現実に帰りたくない。浸り過ぎた~


「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html
「北条五代の娘たち① 今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html

北条幻庵の子息の菩提寺「三島 祐泉寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-200a.html
戦国武将が愛好した尺八 「一節切」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-8c55.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2018年7月24日 (火)

恒例 「北条氏政・氏照墓前祭」(2018)

マリコ・ポーロ


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~カトケン市長さんのご挨拶~


7月11日。
北条氏政・氏照の命日が今年もやってまいりました。

北條遺跡顕彰会による「北條氏政・氏照墓前祭」には、こたび久々に加藤市長もお出まし。観光課さんによる北條パンフの配布とグッズ販売も出て、今までになく盛況でした。


今回はお寺さんが変わりましたね。今までは、墓所を管理する永久寺さんでしたが、今年は「りんこう寺」さん??(お寺の名前を聞き洩らしてしまいました)。

読経のあと住職さんが尺八を奏してらっしゃいました。大伯父の幻庵殿も一節切の名人。兄弟の供養になったことでしょうねえ。

パフォ~


我が八王子城からも、旧守る会の残党衆で今は他の歴史活動している重鎮達や、知人の氏照ファン5‐6人の方達のグループさん、また、残党衆のおひとりが関わってらっしゃるお城関係の某メディアもいらしていて、これまた照どのも喜んでくださったことと思います。

祭壇には、それぞれが持参して御供えした銘酒「氏照」と「八王子城」が並びます。映えていたのか、氏照ゆかりの銘酒は小田原タウンニュースにもバッチリ写っていました。

しかし、こうなると「氏政」とか「大途」とかの、兄上様のお酒も造らずばなるまいて。「火牛」がなくなったのが残念なり。


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~観光課の出店?その法被(ハッピ)が羨ましいです。もっと安い生地とプリントでいいので販売してくだされ。~


顕彰会さんによるこの墓前祭は昭和28年から続いており、それにも歴史があります。どうぞこちらの記事をご覧くださいませ。→http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-312a.html


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~高野山奥の院の小田原北條家墓地にある、北條顕彰会さんが建てた墓碑~


顕彰会さん、いつも銘菓「虎朱印」をご用意くださり、大変ですよねえ。ありがとうございました。お参りした人達に配られた伊勢宗瑞こと北条早雲の団扇は、今年だけ特別です。

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合掌…


「北条氏政の首級(みしるし)はどこに・・?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-470a.html
「北条氏照の首級(しるし)はどこに‥?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-df65.html

「それからの後北条一族」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-93b0.html

「北条一族の高野山 1」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-f00e.html
「高野山、小田原坊」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/3-6cea.html

「北条家、狭山藩邸跡」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5c4c.html
「北条氏規の大阪の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-361c.html

「「江戸時代の北条家、東京の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-72d6.html
「北条家 下屋敷の「北条坂」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-6434.html

「北条氏政は、上洛準備を進めていた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-5154.html
「北条氏政の「汁かけ飯」は後世の創作」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-e356.html
「兄上様(北条氏政)からのお届けもの」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-d92a.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2018年7月 5日 (木)

今日は、428年目の小田原開城の日

マリコ・ポーロ

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~小田原の「負の遺産」石垣山より。この日の小田原は けぶっていた(2018年6月末)~


今年も7月5日がやってきました。小田原開城の日です。

何度も同じことを申して恐縮ですが、小田原開城の日にタイムトリップするには、石垣山から小田原城と相模の海を眺めるのが一番だと私は思うのです。だから、7月に入ると毎年石垣山に登ります。

俯瞰する城内や総構には幟も櫓もなく、海には九鬼の水軍も加藤の水軍も長宗我部も脇坂もいません。でも、行かれてみてください。見えるでしょう?428年前のそれらが。聞こえるでしょう?428年前の鐘や太鼓の音や兵馬の嘶きが。


我らが北条軍団軍団長、我が八王子城主 北条氏照 が陣を張った早川口もすぐ真下によく見えます。

氏照は早川口の土塁の上にシッカと足を踏ん張って立っています。ハタッと石垣山を睨み拳を振り上げて歌う声が風にのってくるはずです。


♪ く~れないーに そーまぁった
こ~の オーレーを
な~ぐさめーる やーつは
も~ いない ♪



いや…違う。


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失礼いたしました。

そんなこんなで、一年ぶりの石垣山です。428年前にタイムトリップしたのは、某北条研究者の方・八王子衆の重鎮で城郭研究の紳士・北条仲間の相模の武将、妄想族のマリコ・ポーロの計4人。

某北条研究者の方は、この日の午後に小田原での御講演を控えてらっしゃいました。天正地震と小田原攻めとの関係をお話しされたのですが、とても興味深かったです。


6月後半の八王子城での八王子衆加藤哲先生による御講演に続き、この日の石垣山の登城と某北条研究者の方の御講演で、ここのところ「北条五代の娘たち」に浸りきっていた気持ちが一気に天正18年へ持っていかれました。


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石垣山はとても整備の手が入っていて、石垣が良く見えるようになっていました。しかし、見えれば見えるで崩落の進み具合もバッチリ分かり心配なところです。

でもね、まあ、エエわ。
しょせんは、よそ(秀吉んち)の城だもんね~。すみもはん、小田原の関係者の方々


11日は、氏政兄上・氏照が天に召された日。現代の小田原では、「北條氏政・氏照墓前祭」が行われます。

では、こたびはこれにて。

マリコ・ポーロ こと 萩真尼


「北条氏直、最後の当主の 『最後の朱印状』」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-3b83.html

「天正18年7月5日「小田原開城」 アーカイブ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-c464.html
「小田原北条最後の日~かくて小田原は開城した」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-adb2.html
「北条氏政は、上洛準備を進めていた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-5154.html
「天正18年、そして小田原は囲まれた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-918d.html

「北条氏政・氏照 「墓前祭」~今年も小田原開城に思いを馳せる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-312a.html

「戦国フィナーレを望む 石垣山一夜城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/the-b831.html
「堀秀政の小田原の墓」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-bf85.html
「「関白づくし」の石垣山一夜城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-ab53.html

「天正18年の「石垣山一夜城」を歴友と歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-017b.html
「石垣山で歴友たちと天正18年を偲んだ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-e888.html

「小田原攻め、北条氏照の本陣」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-33dc.html
「小田原攻め、徳川方の陣場めぐり」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5964.html


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2018年2月 3日 (土)

一気に埋められた(埋めた?)戦国時代の小田原~日向屋敷跡

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~向こう(北側)に見えるのが駅。手前(南側)がUMECOや天守閣。青い矢印 は、大溝(堀?暗渠跡?)。ピンクの が、謎の長方形の空間(下記)。土地は、手前側が高い緩やかな傾斜になっている。~


おととしの初夏の頃から足掛け3年、掘り続けられていました。駅から天守閣への行き帰り、フェンスが長々と続いている光景がもう目に馴染んでしまっていましたが、見学会は今回の戦国時代で最後とのこと。

積雪の影響が心配でしたが、雪の影響はすっかり跡形もなくなっていました。見学会前日はたいそう大変なことだったと存じます。ありがとうございます!
m(__)m


ここは、徳川初期に ミセス大久保(日向殿)が蟄居した屋敷があったと伝わるため、「日向屋敷跡」と呼ばれているエリアです。八幡山丘陵の南西側の張り出し部にあたります。また、南側にはすでに発掘調査が終わった元蔵跡があります。

江戸時代の発掘調査(見学会もあった)が終わり、現在は戦国時代の遺構を調査中です。発掘調査は一番新しい時代が優先で、その下は掘っちゃいけないのだと思っていましたが、今は地山まで掘ってもいいようですね。知りませんでした。それとも、いい場合とアカン場合とは、何か決まり事があるのかしら?


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~断面からは、江戸時代の遺構の下に、同じ土で同時期に埋められた(埋めた?)痕跡が見られた。~


冒頭の写真の手前側(南側)から、次々と土が投げ込まれた様子が確認できます。つまりUMECO(交流センター)があるあたりの高台の土を削って、短期間で一気に埋められた(埋めた?)のだろうとのこと。

「大規模な土地改変」が行われた痕跡だそうです。


確認された戦国時代の遺構

大溝(堀?暗渠跡?)、建物遺構、素掘り井戸、畝状遺構などなど。

昨年出てきていた、北側の畝状遺構や南側のダレッとした 障子堀(佐々木健策さんおっさるところの「カッキリした氏政の障子堀」ではなさそう)などは、すでに埋め戻されていました。


井戸は、このエリアだけでも、なんと 50 本!(江戸時代含む)。全てが同時に機能していたわけではないそうですが、ドびっくり~。水が非常に出てくるエリアだそうです。


お宝

瀬戸美濃の大鉢やカワラケも出てきていますが、目玉は、井戸の景徳鎮の白磁の菊皿9枚。綺麗に伏せて重ねた状態で、5枚と4枚に分かれ、完全体で置かれていたそうです。現物と検出時の写真が展示してありましたが写真を撮り忘れました。


見学後に歴友師匠方と、例によって「北條水軍」さんでお昼を食べながら菊皿の話になりました。

何故9枚?
「井戸仕舞いをした跡ではないか?」「9枚重なっていたけど、地震とかなにかで、4枚と5枚に分かれたのではないか?」

私は、「初めは10枚あったけど、1枚は、お菊さんが割ってしまったんですよぉ~。にゃーんて」。

1枚だけ歪んで楕円形だったのは、どうしちゃったのだろうか…?


謎の長方形の空間

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ピンクで囲んだ部分です。周囲は溝。縁には縁石。立ち木が2か所並んでいます。

両サイドには玉砂利。玉砂利は、中央部には、初めから無かったのか、両脇に寄せられたのか、水で流れたのか分かりませんが、ありません。玉砂利は、元は左下のぐらい盛り上がっていたと考えられるそうです。

建物は、どうやら無かったようです。


立ち木の種類はこれから検査だそうですが、おそらく杉とかの針葉樹のようです。全て、同じ高さで途中で切断されていました。何故かはまだ分からないそうですが、たぶん、ある高さまで土で埋め、そこから飛び出たところを切ったのだろうとのことです。

立ち木の状態で残ったのは、他の部分の遺構も同じことで、一気に埋められたため当時のままの状態が土の下に保たれたのだそうです。

いったい、なんだったのでしょうねえ。生活空間でないことだけは確かですよね。


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~広さはこの位。 は周囲の溝。~


戦国時代の遺構は、廃城後に埋められたのか、それとも北条の最後の時に自ら埋めたのか意見が分かれるところです。

「短期間に一気に埋まった」と伺い、御用米曲輪を埋めたのと同じ時かと一瞬考えました。しかし、その埋土層を実際に見て、秀吉の大阪城を埋めた家康殿を思い浮かべましたよ。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2018年1月 9日 (火)

北条氏綱が造営した本殿と石垣 「六所神社」

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~ケヤキの巨木が立つ表参道。突き当りが相模国総社「六所神社」本殿。~


JR東海道線二宮駅からバスで10分程。湘南、国道一号線の大磯プリンスあたりを車で走っていると、国道沿いに大きな赤い鳥居が立つのをご覧になったことがある方も多いと思います。


創建は700年代。この地に移り住んだ出雲氏族が櫛稲田姫命を祀り「柳田大神」としたのが始まりとのこと。

「六所」とは、相模の一宮(寒川神社)、二宮(川勾神社)、三宮(比々多神社)、四宮(前鳥神社)、(平塚八幡宮)、そして、この(柳田大神)をいうそうな。本殿にはそれぞれの神様の扉があり、こちらでお詣りをすると相模の六所を詣でたことになるのだとか。


頼朝が、富士川の合戦にむかう時に戦勝祈願をしたり、政子さんの安産祈願をしたりなど、たいへん尊崇した神社でもあったようです。


我らが小田原北条の崇敬も篤く、氏綱が造営した本殿を氏政が修復し、現在の本殿はその時のものだと伝わっています。

父である早雲こと宗瑞の死去後の数年、軍事よりも領国固めに専念した氏綱は、相模や伊豆の大きな寺社仏閣の再興にも力をいれています。神社のご由緒や大磯町のHPには再建年代がはっきりと書かれていませんが(ご由緒には1500年代前半とあります)、大永3年の事業でしょう。棟札が残っているそうなので、そこには書かれているのかな。


鶴岡八幡宮、寒川神社、伊豆山神社はじめ、江戸や神奈川の寺社仏閣のご縁起やご由緒書は、「源頼朝→徳川家康」 と、その間の小田原北条をすっ飛ばして書かれているものが多いのですが(武田信玄殿まで書かれているのに北条が出てこない神社もある)、六所神社さんはちゃんと記してくださっていて、北条オタクとしては嬉しい限りでござりまする。


本殿は一段高いところに建っていますが、礎を支えてぐるりを囲む石垣も小田原北条が寄進したものだそうです。


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~後世に修復した箇所もある~

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石垣には、地元大磯の鷹取山の石が使われているそうです。


北条氏綱が造営した本殿と石垣のことは、瑞渓院の資料から色々辿っていて知りました(瑞渓院関連は府中の方の六所神社)。一度お詣りしたいと思っていたので、年末年始のカキイレドキも一段落した今日、今年の「北条妄想初め」として、こちらへ詣った次第。

今年も、よろしくお願い申し上げます。


「頼朝の伊豆山権現(熱海)」
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マリコ・ポーロ こと 萩真尼


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