2021年4月 4日 (日)

憲政は関東管領ではなかった!?『謙信越山』乃至政彦著

マリコ・ポーロ

医療介護はじめエッセンシャルワーカーの皆さま、ありがとうございます。


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~乃至政彦著『謙信越山』(2021.3) JBpress~/写真だと文庫本のように見えるが、単行本ソフトカバー


「上杉憲政が本当に関東管領だったのか?」

ドびっくり~(*_*)


北条を追いかけ始めてけっこう長い間、北条氏綱が関東管領だった(?)ことを知りませんでした。だって、氏綱様ったらそんなことなんにも言わないんだもの…

随分前のことなので何に書かれていたのか覚えていませんが、それを読んで、「北条が関東管領に補任されていたなんて知らなかった~。ドびっくり~。恥ずかちい~」みたいなことをブログに書きました。


しかしながら、補任したのが京の公方ではなく関東(古河)公方だということだったので、それって正式なのかな~?北条が関東管領職がほしくて、「関東公方だって公方は公方。任命者が関東公方だって、オッケー、OK、OK牧場👌」みたいなことにしちゃったのではないのかにゃ…。だったら、憲政はどうしたんだろう?と思ったりもしました。

ところがこたびは、より一層 ドびっくり!というか、衝撃的でした。読んでいて、え?え?えーーっ!ホンマかいな?って感じ。


▲ 浅学マリコ・ポーロの今までの認識だと…

享禄4年
先代の関東管領憲寛(古河公方はるる晴氏の弟)、兄公方の敵である小弓公方(上総)に寝返り管領職を失い上総へ逃亡。小弓は憲寛の奥さんの実家なのね。

あらたに憲寛の義弟、憲政が関東管領に就任する。
憲政9才!子供店長ならぬ、子供管領。

天文7年
北条氏綱+古河公方はるる軍が、小弓公方軍を滅ぼす(第一次国府台)

古河公方はるるは、氏綱を関東管領に任ずる

憲政の管領職はどうなったの?

です。

こたび『謙信越山』を読んで、問題点が少しクリアになりました


▲ 上杉憲政と北条氏綱のダブル関東管領…なわけないですよね?

我らが氏綱が関東管領だったことを知ってから、ずっと、チビッと、疑問だったことです。もしかして、憲政は京の公方の任命で、氏綱は関東公方の任命ってことで世界は成り立っていたのだろうか?とも思いました。


憲政が越後へ逃れ、謙信くんへ管領職を譲ったと言われていますよね(今はもう言わない?)。しかし北条がすでに管領職だったとすると、それは妙です。それに、家の家督は自家の内で放棄したり譲ったり出来ますが、関東管領職の就任や解任辞任は本来は京の公方がするものですよね。

また、こちらの本でも触れていますが、越相同盟の時の氏康のあの手紙にもあるように、氏康と謙信くんの間では管領職は北条のものとの認識があるようです。謙信くんは認めていませんが。


▲ では、足利はるるが氏綱を関東管領に任命した時、憲政のことは問題とならなかったのだろうか?

「ここまで管領職はもはや空位に見られていたと考えるのが自然だろう」
とな。

うーむ。なるへそ~。


「もし憲政が現職の関東管領であると広範囲に認められていたなら……紛争または争論の種になるはずである。ところが、そうした事態には至っていない。」
とな。

たしかにぃ~。


▲ もしそうなら、憲政はいつ解任された(or 辞任した)のか?

先代の憲寛が上総へ逃亡した時に、山内上杉家は管領職を放棄したのでしょうか?しかし、そういうことではないように本にはあります。

つまり、管領職は「拠点を遂(お)われただけで自動的に失われるものではなかった。」
とな。

ですよねえ…。だって、公方の承認が必要なんですものねえ。


関東公方からしたら、先代の憲寛が小弓公方に寝返り上総に行ってしまった時に、「管領職は無用の長物と化したも同然…これを剥奪して補任しなおす意義など覚えなかっただろう」
とな。

あー、だから、氏綱様は声を大にして「関東管領になったどー」なんてわざわざ言わないし、マリコ・ポーロにも教えてくれなかったのか……いやいや、ちゃうちゃう💦。


つまり、
いつ職を解任・辞任したのか?ということではなく、憲政は山内上杉の家督は継げど、そもそも関東管領職は継いでいなかった。関東公方からも京の公方からも任命されなかった…ということですかね?


もしそうなら、何故、いつから、「関東管領上杉憲政」と言われるようになったのでしょう?

なんだかそれは、「上杉謙信の管領職は憲政から譲られた」という説を誰かが唱えた時から始まったような気がするんですけど…。卵が先か鶏が先か的な。これは、今、思い浮かんだ マリコ・ポーロの妄想なのでご容赦を。


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~直江津の常宿から眺めた越後の雪の山々(10年ぐらい前、謙信の上越に通いつめた)~


▲ もし以上のようなら、上杉謙信はどうやって管領職をゲットしたのでしょうか?

それは関東諸士の要請だったと本にあります。

謙信くんが梁田さんに宛てた礼状や、幕臣大館晴光や、謙信くんの濃ゆ~い友 さき様 こと近衛前久さんのお手紙などから、分かるそうです。憲政から譲られたのでもなく、管領職を自ら望んで越山しまくったのでもなく、です。

謙信の管領就任も、京の公方へは事後承諾だとな。


▲ 北条氏康は関東管領ではなかった?

その正統性は別としても、氏綱は曲がりなりにも関東公方から補任されています。

しつこく書いて恐縮ですが、管領職は世襲ではない。だから氏康は関東管領ではない。だから、上にも書いた謙信くんへの手紙で「ウチは関東管領だけど…」と言うのはオカシイ話だと、本にありました。


そう言われてみれば、そりゃそうだに
ということは、時々耳にする「謙信は、景勝には家督を、景虎には管領職を譲るつもりだったのでは?」ということも成り立たないだに

それと…
「謙信女性説」のところの不思議な言い回しがどういう意味か知りたいです。


あーでもないこーでもないと書いて参りましたが、マリコ・ポーロの本の理解に間違い勘違いがあるやもしれず、また、これは「番外編」として載っているものです。関東管領と本題の『謙信越山』にご興味ある方はぜひ本をお読みになってくださいませ。

さらに、私などが申すまでもござりませぬが、これらのことについては 諸説あり!です。

ほな。


小田原にある上杉龍若丸の墓」
「岩明均『雪の峠』(1999)」

「講演 「上杉三郎景虎 勝つための戦略」乃至政彦氏(2019.11)」

「My 年表①「享徳~文明」を作ってみた」
「My 年表②「長享~永正」を作ってみた」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2021年3月 3日 (水)

小説 『北条五人囃子 ~ 序章』 なんちゃって…

マリコ・ポーロ


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『北条五人囃子』


▲ 序章

天文二十年八月十五日、箱根早雲禅寺…

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あにうぇー、あにうぇー

本堂へ続く御廊下を走ってくるのは、礼装に身を包んだ武家の少年だ。そのうしろから侍女の手を振り払うように必死に兄の後を追うのは、まだ足どりもおぼつかない童である。


「おお、助五郎と新太郎か。新太郎は三田からの道中疲れはせなんだか?」
「ふたとも、大伯父上様と三郎殿への挨拶はして参ったか?」

同じく正装したふたりの少年が本堂に続く控の間から走り出で、矢継ぎ早に声を掛ける。


四人がわらわらと座敷へ入ると、もうひとり一番年長らしい少年が座っていた。
「今日は、ひいおじい様の御法要ぞ。もそっと静かにせねば母上にしかられるぞ。」
と、にこやかに諭した。

母上は怖い。叱られたらたまらないとばかりに少年たちはそそくさと、いつものように決まった席に順番に座る。


雛人形のように並んだ五人の少年は、一番年長から、新九郎(十四歳)、松千代丸(十三歳)、藤菊丸(十二歳)、助五郎(六歳)、新太郎(三歳)の兄弟だ。

小田原北条三代当主氏康の自慢の子息達であるが、新九郎はこの翌年に病で世を去り、3年後には景虎が誕生する。そして他の四人は四十年後、小田原北条五代百年のフィナーレを彩ることになる。

 

少年たちの、小声で、しかし騒がしいおしゃべりは続いていた。しかし、力強い足音と衣擦れの音が御廊下を近づいてくると、そのおしゃべりはぴたりと止んだ。さきほどまでの腕白風はどこへやら、ぴしっと背筋は伸び一気に大人びた顔付きになった。

三代当主氏康とその正室瑞渓院が座敷に入ると、少年たちは息を合わせたように一斉に平伏した。


「顔をあげよ。」
相模の獅子、北条氏康。三十七歳。戦場で鍛えられ少しゃがれてはいるが、張りのある若々しい声だ。

少年たちが同時に顔をあげると、日焼けした顔でにこやかにほほ笑む父の顔があった。
「父上、母上、ご機嫌うるわしゅう。」
小さな新太郎も回らぬ舌で兄たちに合わせ一生懸命唱和する。


「うむ。新九郎も今日は顔色が良く、みな元気そうでなによりじゃ。元気過ぎるとも聞いておるがのう…あはははは」
と笑う氏康に、少年たちも顔を見合わせながらクスクスと笑いあう。

「まあ、御法要のお席なのに殿は大きなお声でお笑いになって…。家臣達に聞こえてしまいますよ。」
瑞渓院は氏康を軽くねめつけ、目を新太郎に向けた。


「新太郎殿も遠いところ大儀であったのう。三山の祖父上や祖母上もご息災かえ?」
「はい!おじいさまも、おばあさまも、義母うえさまに、よろしゅうおつたえ…えっと…」

挨拶の言葉を何度も稽古してきたのに忘れてしまい真っ赤になる様が微笑ましく、氏康には厳しい顔をした瑞渓院もさすがに頬が緩む。


寺僧がやってきて、支度が整い親族や重臣達がみな揃ったことを伝える。

「さて、皆。来年、助五郎は今川殿の元へ参ることとなる。兄弟五人揃って早雲公の法要に参ずるのも、この先しばらくはないであろうて。今日は兄弟喧嘩や悪さはなしじゃぞ。」

父氏康のその言葉に、兄弟たちは急にしんみりとなった。


▲ 二章

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~古河公方屋敷、鴻巣御所~


この時、氏康は足利晴氏との和解のため、梁田晴助と調停の真っ最中であった。晴氏は第四代の古河公方である。正室は氏康の妹、芳春院。嫡子に梅千代丸という次の公方義氏が生まれている。

年が暮れる頃、梅千代丸はに母芳春院と共に古河城から下総葛西城に移り、氏康は山内上杉攻撃のための備えを始める。


続く…
いや、続かにゃい!仲の良い兄弟の姿を書きたかっただけであったのだ。

(完)


「一枚岩じゃなかった、北条氏康の子供たち」
「今日(3/21)は、北条氏康の早世した長男の命日です」

「兄上(北条氏政)からのお届けもの」

「城跡の幻影~八王子城」
「小田原北条最後の日~かくて小田原は開城した」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2021年2月16日 (火)

復活!江川酒~小田原北条御用達

マリコ・ポーロ

医療介護はじめエッセンシャルワーカーの皆さま、ありがとうございます。本当に。


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~こちらは今までの江川酒(今回復活された江川酒ではない)韮山の万大醸造さん~


はじめに…

江川酒復活についての2月12日の静岡朝日テレビさんのニュースをご覧になった皆様へ。

江川酒は、戦国時代から伊豆韮山の江川家で造られていたお酒です。戦国時代後半、韮山は小田原北条の領域にありました。江川酒の命名も、記録によると北条早雲こと伊勢宗瑞です。

以下と文末添付のブログ記事に少し詳しく書いておりますが、当ブログを読んでくださる皆様はとうにご承知のことで、ごめんなすって。


しかしニュースでは、家康がたしなんだとか家康が称賛したとかばかり。北条のことには一言も触れられていませんでした。韮山がある静岡の放送局のニュースなのに…淋しかったです💧💧💧

「江戸」のように江川酒のゆかりからも北条の名が消えて、家康だけの名が残ってしまったら…


どうする、新九郎!

どれどれ、と観てみたい方はこちらを→ 「江川酒のテレビニュース」


さて、クールダウン。

「江川酒」は、伊豆韮山で醸造された小田原北条御用達のお酒です。各地の戦国大名たちへのギフトとして使われました。江川酒は家康の時代へも受け継がれ、秀吉などは醍醐のお花見にも取り寄せたそうな。

江川酒は製法が伝わっておらず復元が出来ないと言われていました。今、製品化されている江川酒は、当時の他のお酒の造り方を参考にしているものだそうです(とても美味しいですよ)。


それがなんと!


昨年、当時の江川酒の製法が書かれた史料が発見されたそうです!江川文庫史料群に「江川家御手製の酒の法」という江川酒の製法書があったのですって!

北条ファンにはちと残念ですが江戸時代に書かれたもののようです。製法は戦国時代から受け継がれていると思うのですが、お酒の醸造方は進化していますから、北条時代とまったく同じかどうかはマリコ・ポーロには分かりません。


320年ぶりの復活を試みているのは「江川英龍公を広める会( 伊豆学研究所)」。醸造所は今までと同じく万大醸造さんです。


(2020.2.25 加筆
結論から申すと、復活した第一段の江川酒は会員さん以外は手に入りません。会の主旨は全国に江川英龍の業績を広めることであり、江川酒の復元はその手段のひとつと考えてらっしゃるそうです。そのうえ、新聞やニュースでは千本とか伝えていますが、今回は500本も出来るかどうか…と。そのため会員優先となってしまうそうです。
残念ですが、いつか飲めるといいですねえ(*'▽'))


ということで、氏照ゆかりのお酒揃い踏み~(祇園城は残念かな小山氏オシ/別に撮ったものを合体)

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~氏照(京晴/八王子)、八王子城(小澤酒造場/八王子)、北条(井上酒造/足柄)、祇園城(酒造中野屋/小山)、そして火牛は…小田原入生田の相田酒造で造られていたのだが今は無い~


おっと失礼。氏邦さんもいました~。腹違いの兄弟だから上の写真に入れなかったのではないですよん。単に忘れただけ。

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~(藤崎惣兵衛商店/寄居町)~


🍶 「北条」ゆかりの他のお酒

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~北条幻庵が別当をつとめた箱根神社の神水で醸した「芦之神龍」箱根湯本ホテルオリジナル、お蕎麦の暁庵でも呑めるでござる~

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~鳥取砂丘の「北条ワイン醸造所」小田原北条とはぜんぜん関係がないけど…~


江川酒復活の詳細は伊豆学研究所さんのHPに→「再発見!伊豆学講座」

 復活のニュース(静岡新聞)はこちら


🍶 以下は伊豆を書いたマリコ・ポーロブログの一部です
「小田原北条家の御用達 「江川酒」を飲んだ」
「北条氏政が謙信や信長にプレゼントした、韮山の江川酒」

「今日は北条氏規の命日~菩提寺から知る伊豆への想い」
「北条氏規、今日(24日) 龍城を明け渡す」

「北条五代の娘たち①今川から戻った長松院様」
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」

「小田原北条の始まりを告げた城 「韮山城」 シンポジウム」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-6735.html

「小田原北条の女領主、伊豆の山木大方」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html

「 ‘元祖 義’  伊勢新九郎の韮山へ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-b243.html

「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-a414.html
「前北条と後北条の、伊豆 修禅寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-475a.html

「信仰の里~中伊豆かんなみ「仏の里美術館」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-0862.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2021年2月 8日 (月)

今日は北条氏規の命日~菩提寺から知る伊豆への想い

マリコ・ポーロ

医療介護はじめエッセンシャルワーカーの皆さま、ありがとうございます。本当に。


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~北条氏規が城主だった三崎城 (2010年撮影)~


慶長5年2月8日。
河内狭山藩藩祖 北条氏規 が世を去った。


幼い頃より今川で人質として暮らし、北条に戻ってからは常に最前線を守り、外交を担い、お家存続のために秀吉との折衝に力を尽くしたものの、兄を介錯し小田原北条家の死に水を取ることになった。

その後、小田原北条最後の当主だった氏直らと高野山へ蟄居。赦免後は敵であった秀吉の相伴衆となり、文禄の役では子息氏盛と共に名護屋へ出軍。河内狭山藩を起こし、大阪にてその濃密だった 56年の人生を終えた。


氏規の人生を辿ると、こちらの方が胃が痛くなります。


戦も人生も経験豊富。人脈も広く、風雅の道にも長け、幼少~青年時代の長い期間を他家で過ごしたことから他の兄弟・イトコ達とは少し違い、自家を客観視出来た人。

もし小田原北条が存続していたら、氏規は 第二の北条幻庵 となっていたかもしれません。また、北条当主一族で、江戸時代に小田原北条の名を繋げた、ただひとりの人でもありました。


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~氏規の孫、二代狭山藩藩主氏信の元墓 / 狭山北条家の江戸の菩提寺「祥雲寺」に宝篋印塔のみ残る (2010年撮影)~


🐎 氏邦の兄だった北条氏規

当ブログを読んでくださる方々には言わずもがなですが、北条氏規は、小田原北条三代氏康の子息であり、四代氏政の弟でありました。


かつて氏康の子息は上から順に、氏政・氏照・氏邦・氏規・景虎で、氏規は四男とされていました(早世した長男&養子とした亡き弟の子は別とする)。

が、しかし、近年の発見により氏邦と氏規の出生順が逆転しました。つまり、上から順に、氏政・氏照・氏規・氏邦・景虎で、氏規は三男に昇格(?)したのです。

こちらで少し書きました →「一枚岩じゃなかった、北条氏康の子供たち」


🐎 氏照を脅かす氏規の活躍

今川氏真へ妹の早川殿が嫁いできたことにより、氏規は早川殿と交代し北条へ戻ります。20才ぐらいの頃とされています。

以後、早世した伯父北条為昌の遺領を受け継ぎ、三崎城主として、上野館林城城代として、伊豆韮山の在番として、対武田、対佐野、のちには西への防衛…と、北条躍進のために不可欠な人材へとなってゆきます。


また氏規は、父氏康や兄氏政と同じく京の将軍家(氏規の時は義輝)の直臣でもあり、それは義昭の代にも引き継がれていたようです。大河「麒麟がくる」でもあったように、義昭が鞆の浦にいた時期、義昭は北条・上杉・武田の和睦のあっせんを氏規に頼んでいます。

氏規は中央から、北条家中で力があると思われていたのですな。


黒田氏の『北条氏康の妻 瑞渓院』平凡社(2017.12) には、氏規が今川から戻ったことで、兄で北条 NO.2 だった我らが北条氏照が焦ってアピールしたようなことが書かれていました。

さもありなん。面白~い。


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~三崎城(2010年撮影)~


🐎 氏規の妻

上にも書きましたが、ご存知のように氏規は幼少期から今川家で暮らしました。家康とは人質仲間で屋敷はお隣同士。二人の親交は末期の北条と秀吉との関係に大きな役割を果たします。


ご存じのように人質とはいえ現代とは感覚が違い、別に監禁・軟禁などはされておらず大事にされました。屋敷をあてがわれ、遊びにも誘われます。

子供の場合だと教育も受け、元服もしました。後に、当主の片腕もしくは実家に戻しても取次などとして自家のための有効な人材となるからです。


その上、氏規の場合、今川はママ瑞渓院の実家。実の祖母、寿桂尼殿もいます。助五郎くん こと 氏規は、義元殿に勉学が進んだことを褒めてもらったり、おばあちゃんと温泉にも行ったりもしています。

家康と同じく今川で元服し、妻も娶りました。


は?妻?
えーーっ!

そうなんですよ。氏規は北条一族では唯一、一族内でお嫁さんをもらっていますよね。玉縄北条綱成のお嬢さんですが、彼女は後妻さんなんです。


氏規の先妻は定かではないですが、家康の築山殿と同じく今川の御一家衆の関口家の姫ではないかというのが有力な説です。

氏規が北条へ戻る時、先の妻はどうしたのでしょう。10代(年上ということもある)だったでしょうが、今川に残ったのでしょうかねえ。



そして、最後は菩提寺「専念寺」の妄想…。


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~狭山陣屋跡の説明板(陣屋の他の写真は文末添付のブログ記事にもあります)~


🐎  伊豆から移した菩提寺「専念寺」

以前少し書いた専念寺のブログ記事を文末にリンクしております。大和の歴友が代参してくださった折の写真もありますので、ご覧いただけましたらいと嬉し。


専念寺は、現在の大阪市中央区の上本町西にあります。

氏規が大阪にいた頃、狭山の陣屋はまだ出来ていませんでした。氏規は、専念寺と同じく城下、現在の中央区の久宝寺町にあった屋敷で暮らしていました。狭山の陣屋は、子息の氏盛の代に完成します。

ゆえに、氏規、氏盛のお墓は専念寺にあり、孫の代から江戸の祥雲寺になったということなのでしょうかね。


さて、こたび氏規さんのことをあらためて考えていて、専念寺の歴史を初めて知り感慨深いものがありました。

専念寺の開山は、文禄3年。開山は寂蓮社頂誉上人。開基はもちろん氏規さんです。ご自身の屋敷内に建立しました。


そして、なんと!
専念寺は、伊豆が始まりだそうなのです。

前の北条の義時が、父時政の墓所として建てたお寺だとな(大阪新四十八願所阿弥陀巡礼HPより)。時政のお墓は願成就院だけだとばかり思っていましたが、ほかにもあったのか?それとも、荼毘に付した寺と菩提寺は別だったのか?

伊豆の専念寺を調べてみましたがまったく分かりません(西伊豆にある同名のお寺は現在は真宗、昔は真言宗で摂州にあったとのことなので違うと思います)。


それにしても、自家の菩提寺を伊豆国から…。小田原北条始まりの地であり、氏規が、その最後を看取った韮山城のある伊豆国。そこから迎えたお寺なんですねえ。頂誉上人は韮山で敬愛していた師だったのでしょうか。

伊豆への想いは断ち切れない…… マリコ・ポーロ の勝手な妄想です。


🐎 以下、北条氏規を書いたブログ記事の一部です。ご覧くださいましたらいとうれし。

▲ 狭山北条家のこと

「北条氏規の大阪の菩提寺」

「江戸時代の北条家「狭山藩邸跡」」
「江戸時代の北条家 下屋敷「北条坂」」
「江戸時代の北条家、東京の菩提寺」

▲ 小田原北条滅亡
「北条一族の高野山~3「小田原坊」」
「北条氏規、今日(24日) 龍城を明け渡す」

「家康と北条氏政、黄瀬川の河原で酒宴する」

▲ 駿府
「駿府で暮らした早雲の姉と北条氏規」
「駿府 「臨済寺」の特別公開」

「北条五代の娘たち① 今川から戻った長松院様」
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」

「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原「久翁寺」」

🐎 北条氏照を介錯したのは氏規ではなかった?のブログ記事です。
「北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「その①」
「その②」
「その③」
「その④」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年12月22日 (火)

宗瑞は京で失脚したため駿河へ下った!?~森幸夫氏

マリコ・ポーロ

医療介護はじめエッセンシャルワーカーの皆さま、本当にありがとうございます。

 

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~「小鹿営業所」 新九郎さんファンはバスの行先表示も撮る~


先日のブログ記事「道灌・小田原北条を大河ドラマに!署名を募っているそうです」でチラッと書いた小田原の本『戦国大名北条氏の歴史 小田原開府五百年のあゆみ』を読み進んでおりますが…

ドびっくり~(←また💦)なことが書かれていました。


皆様ご存知でしたか?
新九郎さん(宗瑞)が駿河へ下向したのは、京で政治的失脚をしたため だというのです。


それは、森幸夫氏の「第1章 ー大森氏と伊勢宗瑞の時代ー」に書かれています。以下はほぼ本文よりの抜き書きですが、まだ読んでらっしゃらない方は是非本をご覧くださいませ。

余談ですが、小田原城が八幡山古郭から同心円状に発展してきたのではないということを私が初めて知ったのは、森氏の論文でしたわ。


ほにゃ、話を戻して。

🐎 宗瑞の失脚の原因は、新九郎さんが 将軍足利義尚と六角氏の申次をつとめていた ことにある

新九郎さんが六角さんとの申次だったということは、六角さんから将軍への高級瓜のプレゼントを新九郎さんが取り次いだりしている記録などから分かるそうです。


長享元年。
新九郎さんが駿河で小鹿一派を討ち氏親さんを当主にすえた頃、京では義尚が六角討伐のため近江に在陣している。


ところが、六角討伐には奉行衆だけでも300名以上が従軍しているのに、新九郎さんは駿河にいるので当然のことながら六角討伐には参陣していない。


そんな事態の時に義尚側近の新九郎さんが駿府への下向を上様に願い出られるわけはない。ということは、六角氏との関係で新九郎さんはすでに申次を解任されていたのではないか。これは、事実上の失脚である。


だから新九郎さんは姉上北川殿のかねてからの依頼もあり駿河へ向かったのだ。


これが、新九郎さんの戦国大名への第一歩となるのであ~る。

解任してくれて、おおきに、義尚殿!
(えっ、そう?)


🐎 駿河へ下向し氏親を当主にする

・そもそも新九郎さんは、小鹿を討つという明確な理由があって駿河に行ったのではない。駿河で姉上親子を支援する中で首尾よく小鹿を滅ぼしたのである。

・「もし盛時が、甥氏親を今川氏家督にするため駿河に下ったとするならば、足利義政から氏親への安堵がなされた文明11年から八年も後の長享元年、しかも将軍義尚の近江在陣中に、なぜ、それを実行したかが説明がしにくい」。(言い回しが難し~ のでそのまま書き写させていただきました。)


「義政からの安堵」というのは、龍王丸(氏親)のパパ義忠が戦死した後、当時の将軍義政が龍王丸が義忠の遺領を相続することを認めたアノ御内書です。

ほとんど忘れていたので、小和田先生の『駿河今川氏十代』(吉川弘文館)のこのへんのページを再読してみました。


小和田先生はこの御内書は、家中が混乱し北川殿と龍王丸も小川へ隠れ住んでいる状況の中で、龍王丸が義忠の正式な跡継ぎであることの証明が欲しく、新九郎さんが幕府に働きかけたとしていました。

安堵状が出た後、新九郎さんは京へ帰ったとされています。


🐎 将軍義尚の死去

義尚の病死(近江陣中)にともない新九郎さんは再び上洛し、次将軍義植の申次となります。新九郎さんの本籍はまだまだ京都ですが、駿河と行ったり来たり。そして、義植の六角征伐には参陣していないそうです。


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~北条ファンは道路のタイルも撮る~


🐎 伊豆への侵攻は京の幕府との連動ではない

これについては池上裕子氏も 2017年に書いてらっしゃったようなのですが、マリコ・ポーロの手元には無く確認できていません。


新九郎さんの伊豆への侵攻は、細川が将軍を義植→義澄とした「明応の政変」を契機とはしたが、新九郎さんの主体的軍事行動である。なぜなら…

・新九郎さんの伊豆侵攻を支援した(とされている)葛山氏が、新将軍の義澄の代初めの欠礼を幕府にとがめられているから。

伊豆侵攻がもし幕府の指示なら、幕府から欠礼をとがめられることはないはず。


・幕府が、奉公衆クラスの新九郎さんに公方である茶々丸の討伐を指令することが想定しにくい。

・新九郎さんと義澄との関係も薄い。

あ、このくだり、前にどこかで読んだか聞いたかしたような気がする~。その時、一瞬アレッ?と思ったのですが、そのまま忘れていました。


ゆえに、新九郎さんの伊豆侵攻は幕府の働きかけを介在させる必要はないそうです。ただ、同本では、小和田先生はじめ他の著者は、宗瑞の伊豆侵攻は幕府との連携であると書いてらっしゃいます。


(翌日加筆。
また、もし新九郎さんの主体的軍事行動としたら、その理由はなんなのでしょう?伊豆をゲットしたかったから?茶々丸は現将軍の仇。討伐したとて幕府からとがめられることはないだろうって?

黒田基樹『戦国大名・伊勢宗瑞』には、荏原荘からの収入だけでは伊勢家は成り立たなくなっていたから…と池上裕子氏が書いているとありました。そして、宗瑞の伊豆奪取には上杉もかかわる複雑な背景が書かれていました。マリコ・ポーロ の知識ではブログにまとめられないので、興味ある方は本の方を読まれてみてくだされ。)


それにしても、以前は、宗瑞は独自で伊豆を奪取とされていて → それが少し前に、義尚の承諾を得て幕府の指示で伊豆へ侵攻したとなり → またまた宗瑞が独自で行ったことなのではないか?に戻った(または以前からその説は続いていた?)のですか。

逼塞していても本を読むだけで ドびっくり~😠! が次から次へと発生するものです。

どしたらエエの?


▲ 宗瑞時代の駿府・今川氏のブログ記事の一部
「駿府 「臨済寺」の特別公開」
「今川時代の駿府 「吐月峰 柴屋寺」」
「駿府で暮らした早雲の姉と北条氏規」

「宗瑞を圧迫した立役者、赤沢朝経~家永遵嗣氏 講演(2019.12)」
「小田原北条の始まりを告げた城 「韮山城」 シンポジウム(2015.1)」

「早雲寺 「北条早雲画像」の曝涼 2010」
「北条氏綱像」は後世に改変されたのか?」

「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」

「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏「願成就院」」
「早雲が最初に賜った城は、三国同盟の城?」

▲ 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女たちのこと
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」

▲ 以下は2009年の知識で書いたものなので、そのへんのところ甘~い目でご覧いただけたら嬉し。当ブログは北条氏照ブログとも言われますが、思い起こせば、新九郎さんから始めたのでした。

「ディスカバー 伊勢新九郎の相模へ」
「伊勢新九郎 湘南ボーイへの道」
「‘元祖 義’ 伊勢新九郎の韮山へ」
「伊勢新九郎さん in 駿河の巻」
「伊勢新九郎さん 伊豆で温泉にはいるの巻」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年11月 8日 (日)

虎朱印 の「虎」の由来は?

マリコ・ポーロ


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~黒田基樹著『戦国北条家の判子行政』2020.10.15 平凡社新書(布は歴友さんにいただいた鱗柄のスカーフ) ~


その前に、お詫びと訂正。

▲ 滝山城の講演会のお知らせブログに載せた、本丸の南側の虎口の「石」の写真のこと

ブログに「門の跡」かもしれないと書きましたが、どうも違うようです。そこは少し急なので、かつては自然石を置いた石段になっていたそうです。表面観察しか出来ないのでシカとは分からないが、今はその石はほとんど埋まってしまったので、その一部が出ているのかもしれないかもしれないとのことです。


また、本丸の下段から上段に上る神社の左側、中の丸の虎口、大手口と言われている天野坂、山の神への途中の坂などの急坂には、同じく石段があった様子だそうです。城の遺構はほとんど残っているので、廃城後は手を加えられていないのではないか?と。

もし、もし、当時の石段だとしたら、本丸の虎口の説明板 ↓ (ボケボケ写真でスミマセン)と同じような感じだったのですかね~

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先のブログ記事はコッソリ💦 修正しました。そこにも書きましたが、ご興味ある方は是非ぜひ滝山城へ行って見てみてくださりませ。あ!掘っちゃアカンよん。


では、本題。

黒田基樹著『戦国北条家の判子行政』2020.1015(平凡社新書) を読みました。

読んでいて思いました。
小田原北条が始めた日本の判子文化も、今消えつつあるのか…と。そして、判子文化をはじめ現代に続く様々なシステムの基礎を作った小田原北条は、やっぱり凄いとあらためて思いました。


なのに先日のNHK『ザ・プロファイラー』では、「関東の治安を乱す氏康」とか「坂東で北条氏康が略奪した土地を謙信が取り返してあげた」とかしか言われていなかったのは残念…。

今週のBS6『にっぽん!歴史鑑定』は、「小田原攻め 秀吉の野望vs北条一族の誇り」。あまり期待しないで楽しみにしています(?)。


話を戻し…

ずーーーっと考えていることがあります。

小田原北条家の虎の印判は、なぜ「虎」なのだろうか?「虎」はどこからきたのだろうか?

当時の人は、実際の虎は見たことがないですよね。


『北条記』に、有名な宗瑞の夢の話があります。

2本の杉の木をカジカジしていた鼠が、大きな「虎」になる。それで「虎」にしたのではないかという説がありますね。(黒田氏の判子の本にはさすがにその夢のことは書いていない)。


虎の印判が使われ始めたのは宗瑞死去の11年前の永正5年からのようですが、

🐯 もし夢から取ったとしたら、この夢の話は本当のことなのでしょうか?本当に宗瑞がその夢を見て印判に「虎」を使ったということなのでしょうか?

🐯 それとも、なぜかは分からねど「虎の印判」が先にあり、『北条記』を書く時に、夢に印判の「虎」をこじつけて登場させたのでしょうか?


宗瑞の干支については、夢に鼠が出てきたから「子年」とされているのですよね? だから、夢の話は本当の話なのでしょうか?

ちなみに、氏綱は未年だと思いましたので、「虎」とは関係ないですねえ。


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~マリコ・ポーロ家の「猫」朱印~


この本は、虎朱印の「虎」がどこからきたのかを知りたくて買いました。それは書いてありませんでしたが、納税、裁判、市場関与、公共工事、そして、「お国のために」の使われ方などなど、北条が好き好きと言いながら今まで気にしなかったことが書かれていて、とても勉強になりました。

一回読んだだけでは不肖マリコ・ポーロには全然把握できなかったので、もう一度読みます。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年3月24日 (火)

追記~北条氏康の長男と北条家和歌短冊集

マリコ・ポーロ


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タイトルの北条家和歌短冊集とは「喜連川文書」にある『足利義氏等和歌』のことです。東大の史料編纂所に写本があります。北条ファンでは有名な和歌集ですが、いつのもので、どういうものなのか、今更ながら知らなかったということに気が付きました。

手持ちの本々やペーパー類を見ても、検索をしても、ヨッシー(義氏)の代に収められたということと、黒田基樹著『瑞渓院』(P78)の写真しか分かりません。図書館は閲覧が出来ない状況です。ご存知の方教えてください。


なぜ知りたいかというと…

前回のブログ記事で、16才で天に召された氏康の長男、新九郎くん(氏親か?)のことを書きました(文末添付)。新九郎くんが頭から離れずにいると、昨夜のこと、北条師匠から「氏親」の署名の画像がメールで送られてきました。かたじけのうござる。眺めながら、この和歌短冊集のことを考えました。


ブログにも書いた新九郎くんの実名のことですが、黒田基樹氏の数冊の本によると、実名が「氏親」だということは次の2点から分かったとされています。

① くだんの『大宅高橋家過去帳』」(公開資料ではない)に、天用院殿は「実名新九郎氏親云」とバッチリ書かれている。

② ヨッシーの代の、この和歌短冊集『足利義氏等和歌』に、「氏親」含め誰だか分からない人が3人いる。

ゆえに、①と②を合わせて、氏康の長男=新九郎さん=「氏親」である。


和歌短冊集に収められている和歌は、いつ、どうやって集められたのでしょう。


▲ 妄想1
ある時(いつ?)歌会が開かれて、その時の和歌をまとめられたものなのでしょうか?

・ 新九郎くんが亡くなったのは、天文21年3月
・ ヨッシーが公方に就任したのは、同年12月

なので、それはないですかねえ。


また、収められている和歌の詠み人は、
~ 氏康・氏堯・氏光・氏忠・氏親?・氏政・氏照・氏規・氏邦・氏直・氏能?氏冬?・範以(今川)~
です。

ジジ氏康が他界した時に国王丸(氏直)くんは9才位ですから、まだ歌は詠めない…ことはないですが、今川範以にいたっては生まれたてホヤホヤ~ぐらい。これらの13人で一緒に「歌会」は不可能ですな。


ということは…

▲ 妄想2
和歌短冊集は、ヨッシーの代に、以前に集めた和歌の数々を編纂したものなのでしょうか。


ヨッシーこと足利義氏は、若くして生涯を終えてしまった氏康殿の亡き子息を悼み、彼が残した歌も一緒に収めたのでしょうかねえ…。


「今日(3/21)は、北条氏康の長男の命日です」
「小田原城のライフスタイルと饗応の膳」


🎠 ぜんぜん関係ないですが、今日は景虎さんが鮫ヶ尾城で果てた日です…。

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2020年3月21日 (土)

今日(3/21)は、北条氏康の早世した長男の命日です

マリコ・ポーロ

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~早雲寺と門前の桜。北条歴代当主とその正室、そして、氏康・氏政の早世した嫡男たちの菩提寺でもあった。~


北条一族で、ついつい忘れがちですが、時々思い出しては気になる人がいます。その人は「新九郎」くんとおっしゃいます。

新九郎くんは氏康の長男で、氏政の 2-3才 上の兄上になります。亡くなったのは、天文21年3月21日。16歳で天に召されました。


元服したのは亡くなる前年の末あたりとされています。急な病だったのでしょうか。

実名は、近年の研究では「氏親」とされています。もしそうだとしたら、母である今川の瑞渓院の父親の名前、つまり祖父と同じ名前です。今川を大きく発展させた当主にあやかったのでしょうか。次代当主として嘱望されたであろう矢先に命尽きるとは…可哀想でしたねえ。


天文21年といえば、上杉憲政が越後の謙信君の元へ行った年ですね。パパ氏康は上野への侵攻を進め、謙信君も越山。また、氏康の妹芳春院の子である足利ヨッシー(義氏)が、古河公方に就任。前年、ヨッシーのパパはるる(晴氏)と氏康は、一応和睦したんですね。(このあたりのことは先のブログ「北条五代の娘たち」の芳春院のところで書きました。)

新九郎くんが此の世を去ったのは、そんな頃です。


その容貌ですが、以前ブログにも書きましたが、数年前に「馬の博物館」で公開された謎の少年像が新九郎くんかもしれないかもしれないそうですよ。朝倉直美氏が検証され、その可能性があると講演会でおっしゃっていました。

なかなかイケメンで、少し憂鬱な表情がかえって魅力的。そうだったらいいな~~。


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~桜々の滝山城(2013年)もしかしたら氏政の城だった…わけないね。~


氏照の少年時代を妄想する時、松千代丸くん(氏政)& 藤菊丸くん(氏照)&助五郎くん(氏規)&乙千代丸くん(氏邦)の4人だけの絵面が脳裏に浮かびます。しかし、本来は新九郎くんを入れた5人が兄弟として過ごしていたのですね(景虎さんは新九郎くんが亡くなってから生まれた)。

もし、もし、新九郎くんが生きていたら、彼らの構図はどうなっていたでしょう。氏政さんは、どこかの支城を任されたはずです。どこかしら?順繰りにズレたのかな。それともパパ氏康がそれぞれの資質に合った地を選んだか。


氏政&氏照の最強ペアは、新九郎くん&氏政ペアになっていたでしょうか。いや、やっぱり政&照ペアは不動で、照は政を当主につかせるために……

なーんて、Black、ブラック。。。


新九郎くんが存命で四代当主になっていたら、氏政さまの生涯に渡るストレスもまた違ったものになっていたでしょう。そして、当主が違えば、小田原北条もまた違う方向に向かっていたかもしれません。

考えても詮無いことですが…。


法名は「天用院殿」。墓所の天用院は早雲寺にあったそうですが、早雲寺一帯は秀吉に焼かれたため跡形もありません。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

少年像が馬の博物館にて公開された時のブログ記事です。
「謎の北条家少年像~馬の博物館(2017年)」

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2020年3月 6日 (金)

「北条氏綱像」は後世に改変されたのか?

マリコ・ポーロ


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~小田原北条二代当主 北条氏綱 花押~


ここ数日、北条氏綱の肖像写真をずーっと眺めています。

知りませんでした…
改変された痕が、いくつかうっすらと透けて見えるそうですね。


昨年より末席に参加させていただいている「小田原北条の会」での鳥居和郎氏(神奈川県立歴史博物館/小田原市文化財保護委員)の講座でチラと小耳にはさんだ、氏の研究ノート『北条氏綱像の改変についてー北条早雲像、氏康像、時長像などとの比較からー』(2016年) を拝読。

改変されたと思われる細かい点と、改変の時期とその理由、改変前は何だったのか…などが検証されていました。昔からバランスの良くない絵だとは言われてはいますが、びっくり&色々納得。


ただ、鳥居氏も書かれていますが、たとえ改変されたからといっても、改変が良くないとか氏綱公へのリスペクトがないということにはならない、ということは最初に書いておきたいと思います。


▲ 北条氏の肖像

当ブログを読んでくださっている皆様はとっくのとうにご承知のことですが、北条一族で現在のところ分かっている像は、宗瑞・氏綱・氏康・氏政・氏直の五代と、幻庵殿の子息である時長、そして、数年前に発見され話題となり「馬の博物館」で展示された謎の少年 の7幅です。


それぞれが描かれた時期は…

(宗瑞)晩年、または没後すぐ
(氏綱)没後わりとすぐ、又は、寛文十年頃に土佐光起により描かれた(小田原開府五百年より)
(氏康)没後わりとすぐ
(時長)没後しばらく経ってから、作風や装束からして氏康没頃か?
(氏政と氏直)寛文年間に玉縄北条の子孫である北条氏平が土佐光起に描かせ、寄進した

とされています。


氏政と氏直像は没後80年位経った江戸時代に描かれたものなのでチト置いておいて、氏康、時長、謎の少年像は作風も装束も似たようなイメージです。氏綱像が明らかにこれら3像と違うのはポーズと装束です。凄く違う。


ポーズは前のめりな感じで、他の戦国武将像でもこのようなポーズは見たことがありません。装束も、ジミ~~~。いくら質素を旨とする北条家でも地味~すぎ。

だいいち、直垂と袴の色が違う。氏綱公のお好み?刀も貧相(刀よく知らない私感)。なんだか阿弥衆みたい。なんで氏康は父上の肖像を描くのにこんな地味~な装束にしたんだろう?ご自分はオシャレな肩身替わりの小袖なんか着ちゃっているくせに。

なにより、口元が妙。これは後世に修復でもして、その時に修復が失敗しちゃったのかな?

などと、ずーっと思っていました。


研究ノートの マリコ・ポーロ がビビットきたところを以下に写させてていただきますが、詳しく、正確に!知りたい方は『神奈川県立歴史博物館研究報告ー人文科学 第43(2016)』を。


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~氏綱印判「郡」~


さて、今私は肖像画を見ながらこれを書いております。ここに早雲寺さんの許可なく肖像画を載せるわけにはいかないので、皆様も是非お手持ちの肖像をご覧くださりませ。


▲ 改変の可能性のある箇所について

① 坐り方

・中世の武家の坐り方は「胡坐」が正式なのに「正座」である。「正座」が正式となったのは江戸時代から。
・両ひざの間にうっすらと描線が見え、位置から見ると「胡坐」の描線とみられる。
・直垂の絵の具が薄くなっている部分には畳の絵の具が透けて見える箇所がある。


坐り方については、早雲寺さんでも「正座」に書き直していると見ているようです(早雲寺図録)。 武田勝頼とか真田信繁の像は正座ですが、これらは正式な場面ではないからなのかな…。

・また、マリコ・ポーロの疑問の直垂と袴の色が違うことについては、「正座に改変された時に塗り直されたからであろうか」とありました。


② 風折烏帽子

・氏康像に比べてかなり省略されている。
・烏帽子の前部が、前頭部の輪郭線と重なっているのは不自然。

そう言われてみると、氏綱公の烏帽子はかぶって(のって)いなくて、縁部が張り付いているようです。まさかの、絵師がヘタとか…。


③ 肩のライン

・左肩より右肩がかなり上がっている。
・右肩より下がった位置に輪郭線が見え、改変されたことが分かる。元の輪郭線だと左右ほぼ同じ高さ。

うーん。写真では輪郭線は見えぬが、もし改変されたとのだとしたら、左右の肩の高さを違えた理由はなんだろう…?


④ 扇

・宗瑞や氏康や時長や謎の少年像のように握っておらず、人差し指と中指で挟み込んでいるよう。
・同じく4像のように親骨が明瞭に描かれておらず、絵柄も不自然。

そう言われて見ると、親骨が無いです。妙な(チャッチイ)扇ですな。ヒラヒラし感じ。しっかり握っていないし。やっぱり絵師がヘタクソ?
(^^;


⑤ 袖の先
たいがい、左の袖の先端が上の方にハネ上がっている。

・元はハネ上がっていたようで、上畳の彩色の下に元の線がかすかに見える。

そう言われてみると(←また💦)、氏康・時長・謎の少年、みなハネ上がっていますが、江戸時代に描かれた氏政・氏直の袖はハネ上がっていませんね。


⑥ 刀

・氏康も時長も謎の少年も腰刀だが、氏綱は脇差。
・柄&鞘口と鞘尻との曲線がつながらず、曲線が不自然。
・鍔がない。

つまり、もともと脇差は描かれておらず、後から脇差を書き加えた。だから、鍔を描くと親指と重なってしまうから鍔も描かなかった。


ホントだ!他の3像は立派な目貫や笄が描かれているのに、氏綱公のさびしい~。


⑦ 直垂

・胸紐や袖露が無い。
・腰の後方の膨らみの位置が不自然で輪郭線も他より細い。


以上が改変の可能性がある箇所についてですが、じゃあ、改変、改変って元はなんなの?ですよね。

例えば、烏帽子。時代としては烏帽子を被らない風習が徐々に広まってはいるが、当主の肖像としてある程度の格式が求められたであろうから露頂で描かれた可能性は少ないと。


で、烏帽子や脇差があとで描き加えたとするならば…


「もとの像は俗体像ではなく法体像だったのであろう」


▲ 宗瑞像との比較

北条家に限らず、没後何十年も経ち当人を知る人が誰もいなくなってから肖像や銅像を作る時は、故人の親族の面差しを元に作られることが多いですよね。氏綱の親族で法体像といえば、父親の北条早雲こと伊勢宗瑞です。


研究ノートでは、宗瑞像と氏綱像の頭部の大きさをそろえた画像などから二人を比較しています。以下。

・氏綱の瞼の輪郭線はかなり後世の手が入っていて当初の状態は確認できない。
・マリコ・ポーロが気になっていてチト妙だった氏綱の口については、やはりこの部分も描き直されていて当初のままではないことが分かる。

また、
・宗瑞には髭が無く、氏綱にはある。また、宗瑞には皺があるが、氏綱にはない。つまり二人の年齢が描き分けられている。
・二人の顔の各部位の位置がほぼ同じであるため、顔の印象が極めて似ている。


つまり、「氏綱像の制作にあたり早雲像が土台となったことがうかがえる」と。


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▲ ほな、なにゆえそういうことをしたのだろうか?

それは、天正18年、おサル…いや、秀吉殿によって早雲寺が焼かれた時に「氏綱像は失われてしまったとみられる」からとな。

以前、早雲寺の曝涼の時に伺いました。宗瑞の肖像が無事だったのは、お寺の方が持って避難させていたからそうです。箱書きとか書付とかはあったのかともお聞きしたところ、それは無かったけれど、早雲寺初代&二代の住職の頂相と一緒にあったから宗瑞に間違いないとのことでした。


もし鳥居氏のご研究の通りでしたら、氏綱公の肖像は避難させなかった(避難できなかった)のですかねえ。もしくは、避難させてはいたが、戦後のドサクサでどこにいったか分からなくなってしまったとか。

だとしたら、いまに突然どこかから発見される可能性もありますね!お顔も全然違って、宗瑞似ではなく氏康系のお顔だったりして。もしそうだとしたら、ですが。


やっと最後。いつも長くて恐縮です…

▲ 『北条五代記』に書かれた氏綱像のこと

五代記に書かれていることが本当なら、江戸時代になってからのことですが、かつて北条家の家臣だった三浦浄心が早雲寺を訪ね氏綱像を拝したようですね。


そこにはこうあるそうです。
…俗体にして白衣の上に掛羅をかけ、顔相にくていに書り、物すさましく有て、てきめんにむかひかたし、子細有ゆへにや、荒人神のように…


「俗体」ですか。「白衣」の上に「掛羅」をかけているのですか。掛羅(から)とは、お坊さんが両肩から前に垂らしている四角い布ですよね。宗瑞や謙信君が肖像でまとっていますね。俗体で掛羅だと、朝倉義景や信玄パパ信虎の肖像が思い浮かびます。

「にくてい」(憎体)= 不敵な面構え ということで、研究ノートでは、「早雲像の方が相応しいように思える」としています。


「白衣」とはなんだろう?白の直垂?それとも夜着?夜着なら烏帽子も脇差も付けないですよね。病に伏してから、夜着の上に掛羅を付けて肖像を描かせたのでしょうか?そんなことあるかな。武将の肖像としてはチト弱々しいですよねえ。

研究ノートには、この場合の「白衣」は白色の着衣ではなく、着衣に彩色が加えられていなかったので衣を「白」としたのではないかとありました。なるへそ~。


つまり…

浄心が拝んだ「氏綱像」は彩色がされていない白描の肖像で、それは、不敵な面構えからしても「早雲像であったのかもしれない」。

烏帽子や脇差を後で加えた可能性があり、お顔も早雲像とよく似ていることから、「早雲像の模本があり(氏綱像が残っていなかったので)それを氏綱像と見なしていたのかもしれない」。そんな中で氏綱像も必要とされ、「父早雲像の模本(おそらく白描)などを土台として制作されたのではなかろうか」と。

そして、この研究ノートは、外見を中心とした考察であるので、今後、科学的手法による精度の高い検証がされることを期待するとしています。


ただ、マリコ・ポーロ思うに…
もし早雲寺や一族の子孫が改変したとしたなら、このような地味~な仕上げにしただろうか?氏康と並んで遜色がないようにしたのではないだろうかにゃ?

それとも、北条家の質素倹約の見本として地味~にしたのか?不思議なり。

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時代は落ち着き、寛永・寛文の世。早雲寺、小田原藩、狭山北条家、旧玉縄北条家などによって早雲寺が復興されます。氏政と氏直の肖像も描かれ、現在の北条五代の供養墓も造られることになるのです。


最初にも書きましたが、たとえ改変したからといって、改変が悪いとか氏綱公へのリスペクトがなかったということではないと思います。

氏綱公の肖像がない。肖像が欲しい。なんとかして肖像を作りたいという想いからなされたのでしょう。


鳥居氏も最後に書いてらっしゃいます。

「…氏綱像が早雲像を土台として制作されたとしても、肖像が果たす精神的な役割を念頭において制作されたことは言うまでもなく、氏綱像は数百年にわたり二代当主の肖像として尊崇されてきた。この点において今後も氏綱像が果たす役割と重要さは変わるものではない。…」


今年の秋は久々に早雲寺「曝涼」に行き、氏綱公のご尊顔を拝そうか。


「早雲寺 「北条早雲画像」の曝涼 2010」
「今日は北条早雲こと伊勢宗瑞の命日」
「「早雲 足洗いの湯」 箱根湯本」


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2020年1月17日 (金)

発掘ヶ所は 124!~戦国ワンダーランド小田原

 マリコ・ポーロ


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~小田原城で剪定された梅一枝いただき氏政さまと飾ってみた~


時々ブログに書いておりますが、昨年の夏以来ほぼ毎月参加させていただいている「小田原北条の会」の講座。昨日はおなじみの土屋健作氏による、今まで行われた小田原市内各所の発掘調査についてでした。先月は佐々木健策氏の「御用米曲輪」で、小田原の「ダブルけんさく さん」が続きました。


その前、12日には杉浦平太夫邸の発掘調査を見学して参りました。かながわ考古学財団と小田原市との共催で、内容は▲現場説明 ▲杉浦邸の概要と遺物説明 ▲江戸時代の銅門などの現地説明 の三鱗で盛りだくさん。みっちり濃厚。面白かったです。

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~腐食痕たっぷり付きの、るつぼ~。がたくさん出てきているそうですよ。~


さて4日後。再びの小田原へ。

小田原市内での発掘ヶ所は、その数なんと!
124 !

知ってはいたものの、あらためて資料でそれらを示されると圧巻。配布されると皆さんから ド・ヨ・メ・キ が。さすが我らが大途の本城。凄いですねえ。市内を歩いていると、同時多発、アチコチで発掘に出会いますが、現在も数ケ所で行われています。我が町でもそうですが、今、家の建て替えラッシュですもんね。


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「この調査地点の中に、ご自分の家がある方いらっしゃいますか?」
お一人いらした!
「ではそこをアップにしてみましょう」

うぉぉっ!なんですか!このソフト!
だんだんアップになるにつれ、ついに障子堀が現われた!どんどんクローズアップ出来るのはスマホでなんでも普通なので分かりますが、地下遺構まで現われるとは!どよめきアゲイン。

この場所はとっくに調査が終わりすでに上に建物も建っていますが、そんなところにお住まいだなんて、なんと羨まし~~。というか、どのおウチもビルも北条時代の城域の遺構の上にあるのですから当たり前といえば当たり前。


お話しの内容は、「最新のこと」と「まだ皆さんにお伝えしきれていないこと」。124ヶ所全ては到底無理なので、主なところの詳細をこの素晴らしいパワポで説明してくださいました。

画面に次々と現われる迫力ある堀や土塁。調査地点地図と合わせ見て、脳内に広がるのは戦国時代後半の小田原の姿。そのワイルドでスペクタクルでダイナミックな光景に、しばし忘我の境地。あ、今、会議室にいるんだよねっと我に帰る。


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この景色は氏綱公や氏康殿は見ていないのだよね~。が、しかし、天正18年の日本中の戦国武将達は見たはず!みんな、「凄い、凄い」って記録にもっと残しておいてほしかった…。いや、残したのに無くなってしまったのか、廃棄したのか…。

もし、これらの遺構を全て表に出したままなら、小田原市はディズニーランドに負けないぐらいのワンダーランドになるでしょう。広過ぎてそんなことしたら生活圏が無くなっちゃうから無理ですが。


お話しは非常に興味深く、数十人で聞いているにはもったいない。と思ったら、毎年恒例の遺跡調査発表会で、今年はこれらの報告があるようです。「いらして損はないと思いますよ~」と。

小田原市では学芸員さんなどがこういう市内で行われる少人数の講座や勉強会にも協力してくれるんですね。しかも内容も濃く熱い講演ばかり。まあ、我が町でもそうなんでしょうが、なんせ血湧き肉躍る史跡が皆無な地域なもので…。


講座のあと、なんだか無性に堀や土塁を見たくて新堀から板橋方面へ堀沿いに右に左に寄り道しながらずーっと下りました。歩数は約1万4千歩也。

「小田原北条の会」では、このような講座を月一回催しています。ビジターも大歓迎ですが、会員も募集中。


小田原北条の会の講座記事の一部です ↓

「「北条の 城郭(支城)ネットワーク は本当にあったのか?」鳥居和郎氏」



萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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