憲政は関東管領ではなかった!?『謙信越山』乃至政彦著
マリコ・ポーロ
医療介護はじめエッセンシャルワーカーの皆さま、ありがとうございます。
~乃至政彦著『謙信越山』(2021.3) JBpress~/写真だと文庫本のように見えるが、単行本ソフトカバー~
「上杉憲政が本当に関東管領だったのか?」
ドびっくり~(*_*)
北条を追いかけ始めてけっこう長い間、北条氏綱が関東管領だった(?)ことを知りませんでした。だって、氏綱様ったらそんなことなんにも言わないんだもの…
随分前のことなので何に書かれていたのか覚えていませんが、それを読んで、「北条が関東管領に補任されていたなんて知らなかった~。ドびっくり~。恥ずかちい~」みたいなことをブログに書きました。
しかしながら、補任したのが京の公方ではなく関東(古河)公方だということだったので、それって正式なのかな~?北条が関東管領職がほしくて、「関東公方だって公方は公方。任命者が関東公方だって、オッケー、OK、OK牧場👌」みたいなことにしちゃったのではないのかにゃ…。だったら、憲政はどうしたんだろう?と思ったりもしました。
ところがこたびは、より一層 ドびっくり!というか、衝撃的でした。読んでいて、え?え?えーーっ!ホンマかいな?って感じ。
▲ 浅学マリコ・ポーロの今までの認識だと…
享禄4年
先代の関東管領憲寛(古河公方はるる晴氏の弟)、兄公方の敵である小弓公方(上総)に寝返り管領職を失い上総へ逃亡。小弓は憲寛の奥さんの実家なのね。
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あらたに憲寛の義弟、憲政が関東管領に就任する。
憲政9才!子供店長ならぬ、子供管領。
↓
天文7年
北条氏綱+古河公方はるる軍が、小弓公方軍を滅ぼす(第一次国府台)
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古河公方はるるは、氏綱を関東管領に任ずる
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憲政の管領職はどうなったの?
です。
こたび『謙信越山』を読んで、問題点が少しクリアになりました
▲ 上杉憲政と北条氏綱のダブル関東管領…なわけないですよね?
我らが氏綱が関東管領だったことを知ってから、ずっと、チビッと、疑問だったことです。もしかして、憲政は京の公方の任命で、氏綱は関東公方の任命ってことで世界は成り立っていたのだろうか?とも思いました。
憲政が越後へ逃れ、謙信くんへ管領職を譲ったと言われていますよね(今はもう言わない?)。しかし北条がすでに管領職だったとすると、それは妙です。それに、家の家督は自家の内で放棄したり譲ったり出来ますが、関東管領職の就任や解任辞任は本来は京の公方がするものですよね。
また、こちらの本でも触れていますが、越相同盟の時の氏康のあの手紙にもあるように、氏康と謙信くんの間では管領職は北条のものとの認識があるようです。謙信くんは認めていませんが。
▲ では、足利はるるが氏綱を関東管領に任命した時、憲政のことは問題とならなかったのだろうか?
「ここまで管領職はもはや空位に見られていたと考えるのが自然だろう」
とな。
うーむ。なるへそ~。
「もし憲政が現職の関東管領であると広範囲に認められていたなら……紛争または争論の種になるはずである。ところが、そうした事態には至っていない。」
とな。
たしかにぃ~。
▲ もしそうなら、憲政はいつ解任された(or 辞任した)のか?
先代の憲寛が上総へ逃亡した時に、山内上杉家は管領職を放棄したのでしょうか?しかし、そういうことではないように本にはあります。
つまり、管領職は「拠点を遂(お)われただけで自動的に失われるものではなかった。」
とな。
ですよねえ…。だって、公方の承認が必要なんですものねえ。
関東公方からしたら、先代の憲寛が小弓公方に寝返り上総に行ってしまった時に、「管領職は無用の長物と化したも同然…これを剥奪して補任しなおす意義など覚えなかっただろう」
とな。
あー、だから、氏綱様は声を大にして「関東管領になったどー」なんてわざわざ言わないし、マリコ・ポーロにも教えてくれなかったのか……いやいや、ちゃうちゃう💦。
つまり、
いつ職を解任・辞任したのか?ということではなく、憲政は山内上杉の家督は継げど、そもそも関東管領職は継いでいなかった。関東公方からも京の公方からも任命されなかった…ということですかね?
もしそうなら、何故、いつから、「関東管領上杉憲政」と言われるようになったのでしょう?
なんだかそれは、「上杉謙信の管領職は憲政から譲られた」という説を誰かが唱えた時から始まったような気がするんですけど…。卵が先か鶏が先か的な。これは、今、思い浮かんだ マリコ・ポーロの妄想なのでご容赦を。
~直江津の常宿から眺めた越後の雪の山々(10年ぐらい前、謙信の上越に通いつめた)~
▲ もし以上のようなら、上杉謙信はどうやって管領職をゲットしたのでしょうか?
それは関東諸士の要請だったと本にあります。
謙信くんが梁田さんに宛てた礼状や、幕臣大館晴光や、謙信くんの濃ゆ~い友 さき様 こと近衛前久さんのお手紙などから、分かるそうです。憲政から譲られたのでもなく、管領職を自ら望んで越山しまくったのでもなく、です。
謙信の管領就任も、京の公方へは事後承諾だとな。
▲ 北条氏康は関東管領ではなかった?
その正統性は別としても、氏綱は曲がりなりにも関東公方から補任されています。
しつこく書いて恐縮ですが、管領職は世襲ではない。だから氏康は関東管領ではない。だから、上にも書いた謙信くんへの手紙で「ウチは関東管領だけど…」と言うのはオカシイ話だと、本にありました。
そう言われてみれば、そりゃそうだに。
ということは、時々耳にする「謙信は、景勝には家督を、景虎には管領職を譲るつもりだったのでは?」ということも成り立たないだに。
それと…
「謙信女性説」のところの不思議な言い回しがどういう意味か知りたいです。
あーでもないこーでもないと書いて参りましたが、マリコ・ポーロの本の理解に間違い勘違いがあるやもしれず、また、これは「番外編」として載っているものです。関東管領と本題の『謙信越山』にご興味ある方はぜひ本をお読みになってくださいませ。
さらに、私などが申すまでもござりませぬが、これらのことについては 諸説あり!です。
ほな。
「小田原にある上杉龍若丸の墓」
「岩明均『雪の峠』(1999)」
「講演 「上杉三郎景虎 勝つための戦略」乃至政彦氏(2019.11)」
「My 年表①「享徳~文明」を作ってみた」
「My 年表②「長享~永正」を作ってみた」
萩真尼 こと マリコ・ポーロ
画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。