2017年6月 7日 (水)

今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原「久翁寺」

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~久翁寺は、北条幻庵の家臣の関善左衛門が中興したとのこと。現在は無住。~


駿府を捨て、掛川、戸倉と移ってきた今川氏真がどうにか落ち着いたのが、正室・早川殿の実家である北条の小田原です。小田原では、城から西へ早川を渡った「早川」に屋敷を与えられたとされています。後の一夜城の麓になります。

早川は北条の重鎮中の重鎮、宗瑞(早雲)の息子、北条幻庵の知行地でした。幻庵は、小田原に戻ってきたり逃れてきたりした親族たちの後見をする立場にあったようで、氏真ご一行様が早川にいたというのも、確かな史料はありませんが幻庵の関係からなのだと思います。


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久翁寺のことは『北条氏康の子供たち』で知りました。今川義元殿の13回忌が営まれたことは、龍譚寺所蔵「記事諸余」にあるそうです。他にも書かれているものがないか帰りに城内の図書館で探してみましたが、ありませんでした。


あの今川義元殿の法事が、あの氏真によって小田原で営まれたとは、なんだか感慨深いものがあります。

法要には、氏真の女兄弟で、武田信玄の息子義信に嫁いだ嶺松院(嶺寒院?)も列席していたことでしょう。嶺松院は義信廃嫡後に実家に戻されてより、氏真夫妻と行動を共にしています。

また、その席には、宗瑞の娘で今川の三浦に嫁ぎ、こたび同じく一緒に戻ってきた長松院様もいたことでしょう。


このまま小田原から、駿府復帰を果たしたかった(たぶん)氏真殿。しかし、再び流浪の人生が始まります。もちろん、正室である我らが北条の早川殿も、その人生の最後まで一緒だったことは言うまでもありません。

二人の終焉の地である江戸品川の屋敷跡のことは、追々。


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~今日の江戸時代の小田原城は、菖蒲と紫陽花で美しく彩られていました。~


「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html

「駿府 「臨済寺」の特別公開」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-2e50.html
「今川時代の駿府~吐月峰 柴屋寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-7dec.html

「駿府で暮らした早雲の姉と北条氏規」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a23.html

「北条五代の娘たち①今川から戻った長松院様」
伊勢宗瑞(北条早雲)の息女たち
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2016年8月 3日 (水)

調査中の御前曲輪南堀(毒榎平北堀)を見てきました▲小田原

前回のブログ記事で見学会のことを書いた、城山の陸上競技場から出てきた小田原城最大クラスの堀を見てまいりました。

場所はココ ↓ です。

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~茶色が堀。緑は土塁。薄緑は傾斜地。(小田原市教育委員会複合図)


現在、城山陸上競技場はリニューアル中です。こたびの発掘調査の場所は、グリーンの矢印 の所。


紅い矢印 は、現在は見えない(毒榎平方面からは一部分そこはかとな~く見える)が、御前曲輪から毒榎平方面へ斜めに登りながら(毒榎平から御前曲輪へ斜めに降りながら)続いていると思われる堀。

つまり、下の写真の向かって右下方と左上方を繋ぐラインです。

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~向かって右側が御前曲輪跡(陸上競技場)で、フェンスすぐ脇が、こたびの調査現場。左上方が毒榎平。~


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~右側が競技場。左側に毒榎平へと続く斜面。~


もっの凄い、薬研堀!
薬研堀だそうです coldsweats01


反対側も出ていました。この写真で分かりますかね?

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~向かって左が競技場。右側が、毒榎平へ続く斜面。~


写真を撮るために私が立っているのが堀の上ですが、当時はもっと高かったそう。つまり、堀はもっと深かった!


堀は「毒榎平北堀」と呼ばれています。「御前曲輪南堀」とは呼ばないのかと伺ったところ、まあどちらも便宜上の呼び方になるから同じことだとのことです。

また、この堀は、「毒榎平を守るため」と言われていますが、「御前曲輪を守るため」と考える方もいらっしゃいます。


この陸上競技場部分は、いったい何だったのでしょう。それに、今はひとくくりで「御前曲輪」としていますが、当時は堀によってもっと細かく分かれていたのでしょうか。

宝永の火山灰の跡までもかなり高さがありますので、江戸時代には既に思いっきり埋められてしまったのですね。

それとも、御前曲輪ではなく、毒榎平の方の機能を主体に考えたほうがいいのかな~?


最近ワテが凝っている百姓曲輪がすぐ東側にあるように見えますが、百姓曲輪と御前曲輪との間には距離も高低差もけっこうあります。(標高を調べたが分からなかった。当時はどちらが低い?)

小田原の古郭エリアは曲輪にしても外郭ラインにしても、また堀そのものにしても、かなりのアップダウンがあります。南北は尾根にさえぎられて行き来できない場所も多いです。二次元の地図で見ていては分かりません。足腰丈夫な方は是非一度歩いてみてくだされ。


凄いねえ、小田原。
すでに表に出ている所はもちろんですが、先日公開された大堀切西堀といい、こたびの競技場の堀といい、壮大な土木事業ですねえ。

いかに自然地形を利用したとはいえ、たった3年位で成された仕業ですよ。しかも、四百年も土に埋もれていても、ほとんど崩れていない(埋もれていたから崩れない?分からにゃい)。

当時、よほど地形に精通した優秀な土木工事集団がいたのでしょうねえ。


まあね、あんまり調査が進むと、ワテの香沼姫さまの妄想がガラガラと崩れてしまいますけどね…crying

でも、知りたい。複雑・・


2011年に書いた(妄想した)ものです。今では少し違うかもしれませんが、よろしくば。

「小田原城、御前曲輪で妄想す~香沼姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-7998.html

小田原▲大堀切の「西堀」が公開!
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-c1af.html
障子堀が出てきた「百姓曲輪」を偵察させていただいた
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-1a58.html
その3 ▲総構の「荻窪口」と「百姓曲輪」の関係
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-0e40.html
小田原城総構の「二重戸張」の衝撃
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-d7fd.html


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2016年7月21日 (木)

小田原見学会▲陸上競技場で最大の堀が検出!

(加筆、正確には、御前曲輪南堀ではなく毒榎平北堀のようですが、便宜上そうしているだけで、どちらも同じだとのこと。)

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~御前曲輪。発掘調査中なのは、この写真の向かって右の隅っこ。~


北条友の投げ文がきました。城山陸上競技場改修工事の発掘調査で 最・大・級 の堀が検出されたので、緊急の現地見学会です。

日時: 平成28年7月23日(土)
9:00~正午


horse 小田原城古郭 「御前曲輪」

古郭でも奥深いところにあたる。

背後には3本の大堀切、北側(写真左側)上部は桜馬場。三方からは両の手で守らるれように山に囲まれた谷戸の広い窪地で傾斜を成している。ただひとつ開けた前面(写真の向こう側)からは眼下に相模の海 wave を望むというロケーションにある。

戦後(小田原戦ではない)、調査がされないまま陸上競技場となった。現在のところ、当時の使用用途は不明。


あーもう、次から次へと!小田原はキリがない。本当に、ファンタジーワンターランド。御前曲輪ですよ。大変なことですsign03


ついでに、公開されたばかりの大堀切 西堀 も見てきてくだされ。


文化財課 HPに、凄い写真が載っています。

HP→http://www.city.odawara.kanagawa.jp/field/lifelong/property/topics/kenngakukai160723.html


2011年に書いた(妄想した)ものです。今では少し違うかもしれませんが、よろしくば。

「小田原城、御前曲輪で妄想す~香沼姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-7998.html

小田原▲大堀切の「西堀」が公開!
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障子堀が出てきた「百姓曲輪」を偵察させていただいた
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-1a58.html
その3 ▲総構の「荻窪口」と「百姓曲輪」の関係
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-0e40.html
小田原城総構の「二重戸張」の衝撃
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2016年7月13日 (水)

小田原▲大堀切の「西堀」が公開!

flair 今、天正18年、なぜ富士山砦が奪われて(奪わせて)しまったのか、早川を越えさせてしまったのか??を考えていますが、富士山砦の攻防について書かれたものが見つけられません。


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~公開部入口。開城って?~


本題の前に・・・


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北条氏政・氏照、墓前祭

毎年、北条氏政&氏照の最強兄弟の命日7月11日には、小田原の顕彰会さんによる墓前祭が営まれます。もちろん私は顕彰会のメンバーではありませんが、昨年に引き続きお参りさせていただきました(どなたでもお参り参加OK)。

今年は八王子城衆数名と鉢形衆1名が一緒でした。八王子城にも氏照のお墓はありますが、氏照が最後を遂げた小田原の地での、我らが兄上さまとの合同墓前祭は、ひとしおの感慨があります。


今年は平日だったせいか土曜日だった昨年より一般参拝者少なかったですが、顕彰会の会長さんも世代交代し、参議院議員さんや県会議員さんたちも若い方達ばかり。小田原では、若い世代に引き継がれていっているのだな~と、これまた違う感慨が涙

昨年の模様です→http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/in-5a37.html

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~八王子の銘酒「氏照」を、氏政・氏照の「墓前祭」にお供えさせていただけた。~


さて、本題。


horse 小峯の「西堀」 公開

小田原城古郭の小峯御鐘ノ台では、東堀、中堀、西堀と3本の大堀切が有名ですね。3本の堀は外郭ラインと繋がり合い、複雑な北西部の防衛線を作っています。

東堀は、メディアなどで小田原北条が紹介される時は必ずといってよいほど写真や映像が出てくる、あの素晴らしい V字カットscissors の堀。中堀は、そのすぐ脇にあり車道となっています。


そして、西堀

今までは普通には入れませんでした。埋もれてしまっている部分や私有地があったからです(普通でなければチビッと入れたsweat01)。


こたび市有地部分が整備され、7月5日から一般公開となりました。墓前祭の前にさっそく偵察に行ってまいりました。

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真夏なのに、キレイに下草を刈ってくださっています。ありがとうございます。


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広いですね。ちょっと写真では写しきれないです。眺望も素晴らしい!


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元個人宅の遺構(?)が少し残ってはいますが、これで、東・中・西と3本の堀に立って、その壮大さを妄想できるようになりました。

入口は、今まで西堀の埋没あたりへコッソリ降りていた(これっ!)、水の尾口に向かう途中の、あの細い畑の脇の崩れそうな通路ではありません。東堀の、説明板がある方から入ります。中堀の脇の細い坂道を入る方です。看板あり。


西堀について、何年か前の、「小田原の城と緑を考える会」の総構ツアーの時にいただいた資料の一部を以下に抜粋させていただきます。


pen ・・公図等によれば全長 215m 位の距離で残存していた。尾根筋を横断する位置にあり、堀切の形態をなすため堀の左右に明確な段差はなく、わずかに西高東低の現地形により高低差があるのみである。

堀の東側には「小峯御鐘ノ台東」の土塁が続き、ここも原型をよく保存している。


規模は北端段違い部分から約100m程ほぼ直線状に南方へ走り、それより直角に東方へ折れて約15m直進し、さらに再び南方へ直角に折れ、つまり2回屈曲を示す。

これより先端までの間一部埋没しているが・・・現在は、曲折点より約35mほどが観察によって追跡できる。堀幅は比較的保存の良い部分で堀底で測って平均8.5m。平均堀幅に等しい。


北端は他に類をみないような残存状況のよい三方向からの段違い構造を示し、東方よりの外郭空堀に接続している。

西堀と外郭東方よりの空堀との中央軸線はほぼ一致し、双方の堀底はほとんど直角に落差があり、その高低差は西堀の方が5m高かった。また、東側つまり城内側には土塁が存在し、これは外郭土塁に接続して「小峯御鐘ノ台東」方向に続く・・pen


是非、行かれてみてくだされ。


wine以下は、北条氏照について書いた厖大なブログ記事から、ちょっと変わったものを。

「北条「氏政」の御首級(みしるし)はどこに?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-470a.html
「北条氏照の首級(しるし)はどこに‥?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-df65.html

「小田原攻め、北条氏照の本陣 報身寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-33dc.html

「北条氏照の存在が抹殺された?星谷陣屋」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-d9bb.html
「アフター北条氏照の大久保長安についての妄想」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-6cc6.html

「土方歳三は北条氏照の生まれ変わりである」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/in-012e.html


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2016年7月 5日 (火)

天正18年7月5日「小田原開城」 アーカイブ

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~虎朱印と北条氏直の花押 (以前、神奈川県立歴史博物館で購入)~


何年か前、あるところに書いたことがあります。

いつの時代でも、長く続いた家や組織を終わらせる最後のリーダーの勇気と辛さは計り知れない・・・

こたび、リニューアルなった現代の小田原城天守閣のシアター映像や、先日の大河「真田丸」を観て、あらためてそう感じました。


今日7月5日は、小田原北条最後の当主北条氏直が 「時代に降った日」です。小田原北条は日本中の戦国武将たちに見守られ、そして助けられながら戦国フィナーレを飾りました。

以下、今まで書いた北条氏直さんに関するブログ記事のいくつかです。ご覧くださりましたら嬉しゅうござります。(特に昔書いた記事に間違い勘違いもあるかもしれませんが、直すとその時のパッションが薄れてしまうのでそのままにしております。ゴメンナスッテ。)


「北条氏直、最後の当主の最後の朱印状」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-3b83.html
「北条氏直の投降は、走ったのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-c645.html

「本日(7月5日) 小田原城開城す」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-e584.html
「今日7月21日、北条氏直は高野山へ旅立つ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/21-969c.html 
「今日は、北条氏直の命日 2010.11.4」 
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-dc5d.html

「石垣山で歴友たちと天正18年を偲んだ 2013.7」 
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-e888.html
「小田原城開城の日に歩く、後北条の小田原 2012.7」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-3e2c.html
「天正18年の石垣山一夜城を歴友と歩く 2011.12」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-017b.html
「後編~天正18年の小田原へ、歴友と時間旅行 2011.7」 
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/18-0cf3.html

「小田原城開城へ、最後の6ヶ月」 
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-f53a.html
「それからの後北条一族」 
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-93b0.html

「戦国フィナーレを望む 石垣山一夜城」 
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/the-b831.html


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2016年5月26日 (木)

家康の側室達ゆかりの、小田原北条の寺々

家康殿のご側室達とは・・

正木の娘 お万の方 と、太田道灌玄孫 英勝院(おかじの方) のことにござります。


さて、
この春、障子堀が出てきた百姓曲輪の妄想に浸っていた頃のこと。その日も百姓曲輪に立って妄想すべく、駅から百姓曲輪に向かってスタスタスタスタと歩いていました。

道の両側には、新旧(北条時代~江戸時代)取り混ぜていくつかのお寺が並んでいます。お寺は大好きなのですが、小田原ではお寺にはあまり寄らないようにしているため、こちらのお寺も一度もお参りしたことがありませんでした。


この日はチビットだけ時間があったので、北条時代には確実にあっただろうと思われるお寺2つ scissors (時間がチビットあるとはいえそんなには無いから2件だけ)に寄ってみることにしました。

事前にまったく調べていませんので、頼りはお寺の説明板とスマホの情報だけというなんとも心もとなきものなり。


horse 光秀山「浄永寺」

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始まりは、弘安3年(1280)。時の執権北条時宗の家臣、風祭の大野之亮光秀が日蓮上人に帰依し自邸に法華堂と七面社を建立。

永正15年(1518)、小田原北条二代、氏綱の伯父である日形上人の時に現在地に移り、氏綱が堂宇を再興。

と伝えられていると、お寺の説明板にありました。


風祭大野氏・・。風祭氏とは鎌倉時代の地頭ですな。

また、氏綱の伯父・・って誰?母方ですかね?


何はともあれ、
おお、やった!北条に思いっきり縁があるお寺ですねえ。

浄永寺は北条の厚い庇護をうけたようで、境内の七面堂の前には氏康の書状が石碑となっていました。出陣前に戦勝祈願をしたところ勝利し、それに感謝した内容でした。


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~花押付き。素敵~heart01

境内をウロチョロしていたら、お寺の方らしき方が通りかかり、一緒にいらした檀家さんだか石屋さんだかに、この文書のことを私に「説明してあげてよ」とおっしゃり去っていかれました。

親切~。でも、なんで北条ファン(歴史ファン)だとお分かりになったのだろう??まあ、檀家でなければ、そうだろうということでしょう。


書状は6月8日付けですね。なんの戦でしょうね。

そして、宛名の日源上人。浄永寺は、江戸時代には、紀伊大納言頼宣の母である養珠院殿の繋がりで紀伊藩(和歌山藩)の祈願所になっていたそうです。


この養珠院殿は、私が追っかけをしている氏綱公の正室の養珠院とは別人です。のちに家康の側室となった、正木一族の養珠院殿、お万の方のことです。何故、お万の方ゆかりの紀伊藩の祈願所だったのでしょう?

お万の方は、伊豆の田中氏の娘(兄は板部岡)が北条氏尭(氏康たちの早世した弟)の養女となって正木に嫁ぎ生まれた子だと言われていますね。正木さんは人質として小田原で暮らしていましたから、お万の方は小田原で育ったようです。日蓮宗を深く信仰された方のようですから、浄永寺にも帰依していたのでしょうかねえ。


このへんのことは、もうとても調べきれませんので、ご興味ある方は是非お調べくださいませ。と、人に振るcoldsweats01

以前、お万の方開基、里見ゆかりの、東京の「仙壽院」へ行った時のブログ記事を末尾に添付いたしました。まだ全然分かっちゃない頃に書きましたので、そのへんのところ甘~い目でご覧いただけると助かります。


北条ゆかりのお寺を訪ねて、お万の方へ妄想が広がるとは思ってもおらんかったぞえ。


horse 當知山「本誓寺」

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~境内より本丸方面を臨む~


創建は永正4年(1504)。開基は、今川氏親の家臣で鎌倉の藤枝という一族のどなたからしいです。

なるへそ~。
氏親殿の娘であり、氏康の正室となった瑞渓院様の最初の菩提寺「願修寺」も、すぐ近くですな。(瑞渓院は籠城中に亡くなったので早雲寺には葬れなかった。)


もちろん北条時代はそんな所縁もあって、歴代当主に庇護されていたことでしょう。小田原が敗れたあとは、当時の住寺大誉上人も他のあまたのお寺や僧侶達と同じく江戸に移ったそうです。


境内に人影はなく、ヒソ と静まり返り、本堂の扉も ピタ と閉ざされていました。

まったく分からないので、スマホで検索してみると、ある方のHPに少々興味深いことが書かれていました。ご許可をいただいていないのでここにリンクするのは控えますが、それは大誉上人が江戸に移りしのちのこと・・


▲ 江戸に移った本誓寺六世の大誉上人は家康の庇護をうけるようになりますが、上人には、同じく小田原から連れてきた小僧のお弟子さんがいました。それが、北条家臣の大導寺政繁と遠山の娘との間の三男だというのです。▲


大導寺は小田原戦のあと、責任をとらされ秀吉に切腹を命ぜられた者のうちの一人です。息子はそのまま小田原に居づらく江戸へ付いて行ったのでしょうか…。お話しはまだ続きます。


▲ この弟子のことを、家康殿が側室の おかじの方(英勝院)に話します。

英勝院様とは太田道灌の玄孫になりまして、北条重臣の遠山の娘(大導寺に嫁いだ娘の姉妹)が北条氏康の養女となって太田に嫁いで生まれた子のことです。

英勝院はおっしゃいます。
「そりゃ、わらわの伯母の子にございます!びっくりポン!」


英勝院は大誉上人を開山として江戸本誓寺を開基しました。大道寺政繁と太田道灌ゆかりのこの弟子は、弁誉上人として江戸本誓寺の二世となりましたとさ。▲

このお話しの流れの真偽は私には分かりませんが、『江戸浄土宗寺院寺誌史料集成』(宇高良哲編、大東出版社)にあるようです。ご興味ある方はどうぞお調べくださいませ、と再び人に振るcoldsweats01


面白いですねえ。「道灌びいき」の会にいながら、小田原を歩いていて英勝院に行きつくとは想像もしていませんでしたよ。

江戸本誓寺は江戸時代の区画整理やら火災やらにより、現在は深川にあるそうです。


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話は小田原へ戻りますが、小田原陣図(松平文庫所蔵)にある、「ホンセン寺」って、この本誓寺のことですかっ?!

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~ピンクの矢印。(赤字の報身寺は北条氏照の本陣が置かれたお寺。)~


小田原の本誓寺には、開基藤枝氏の守り本尊である13世紀の阿弥陀如来像が二体(本尊・脇侍)がおわすそうですね。県指定文化財。

拝見できなかった。残念。


wine 何も下調べせずにお参りした小田原の2つのお寺が、ともに家康殿のご側室ゆかりのお寺であったとは・・。人の歴史はどこまで繋がるのかと感心してしまうと同時に、小田原北条が坂東に広げ、次の為政者の時代へ残した人脈の凄さに途方にくれた一日となりました。

調べたら、もっともっとあるんだろうな~。ご興味がある方は是非どうぞお調べくださいませ。と、人に振る。。。


南総里見 5 「戦国人たちは消えてゆく」(仙壽院)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-c2ec.html
「小田原にある謎の城跡 花岳城」(城源寺)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-3b70.html
「北条氏康ご正室 瑞渓院の二つの菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-653a.html

「小田原攻め、北条氏照の本陣 報身寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-33dc.html
「小田原藩相馬家、菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-cd40.html
「北条崎姫と香沼姫、エピローグ」(高長寺)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-b0c7.html
「香林寺の開基は、氏綱公ご正室?為昌殿ご正室?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-b125.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2016年3月16日 (水)

北条氏政の「汁かけ飯」は後世の創作

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~北条氏政の馬印 「钁湯無冷所」 煮えたぎった湯(戦場)には、一滴たりとも冷たい水はない。全身全霊でものごとに当たる!こういう言葉が好きな男なのである。~


今ちまたで話題となってしまった、北条氏政の「汁かけ飯問題」の出所とその時期について調べてみました。が、その前に…


sad 大河の父子
なんと陰険で醜悪に描かれてしまったことよ・・・


織田信長や伊達政宗や武田信玄や上杉謙信などのファンの方には、たぶんこの気持ちは分からないでしょう。

信長や政宗殿や信玄殿や謙信くんは、ドラマでも歴史バラエティー番組でも、大概は渋くてカッコイイ人気俳優さんが演じ、その逸話は虚実取り混ぜても「いい話」ばかりです。ドラマ化されても、ほぼ安心して放映が待たれます。


しかし、北条氏政ファンにとってはそんな余裕はありません。毎度、誰が演るのだろう、どんな風に描かれるのだろうと不安がつのるし、な、な、なんじゃアレはっ!?(一夜城のこと)はじめ、取り上げられる逸話も「負」のイメージのものばかりです。

次のブログ記事で氏政と氏直の弁護をしますが、氏政や氏直は、今までの大河のように下品で暗愚でもなく、今回の大河ように陰険で醜悪でもなかったはずです。

更に、今回の大河により、信憑性のない「汁かけ飯」のエピソードが全国区で知れ渡ってしまいました。元の話を知らない人達にまで、「新解釈」(大河ドラマHPご参照)とやらが拡散されてしまいました。


そこで、制作陣が「新解釈」だと言う「汁かけ飯」のシーンについて聞き込み調査ear(?)をしました。北条のファンの方達は皆さんご存知のことなので、歴史には興味がないわけではなくて、大河ドラマは毎年ではないが題材によってはたまに観るという老若男女に聞いてみましただよ。近場でだけで恐縮ですが、十分だと思いましたわ。←これ以上聞きたくない。

だって、熱烈ファンより、そういう方達の感想の方が大事でしょ。


私の親やオバ&オジ、そして同僚の2人や美容師さんなどは異口同音。同じ感想でした。「ねちっこくて嫌~な感じ」。よく知っている近所の若いお医者さんは、「悪いけど・・ハッキリ言って・・変態?」。

けっこう皆が観ちょるのう。困ったのう (←えっ?)


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~図書館でコピーした内表紙(写真が曲がっていて、あいすまぬ。)~


当ブログを読んでくださる方達は北条ファンばかりなので皆さんご存知だと思いますが、北条氏政の逸話は「汁かけ飯」にしろ「麦飯」にしろ江戸時代に書かれたものです。「汁かけ飯」の逸話の初出は、江戸時代に出版された 『武者物語』 という本のようですね。

それは私も存じていましたが、読んだことはありませんでした。


百言居士るなら読んでから言え!(←天の声)

おっサル通りなので、図書館で読んでみました。


底本は無理なので、読んだのは上の写真の、菊池真一・西丸桂子編。『武者物語』『武者物語之抄』『新武者物語』の三書を翻刻し、人名索引・地名索引が付されたものです。

さて、くだんの『武者物語』は、
初版: 明暦2年3月(1656年)
作者(編者?): 松田秀任
版元: 寺町通 荒木利兵衛


『武者物語』とは軍記物だと私は思っていました。しかし両氏によると、それは軍記物でもなく、もちろん、実録でもなく、「武辺咄集」の部類に入るようです。

ふむ。武辺小咄 か。
えー、毎度ばかばかしいお笑いを一席・・・ちゃうちゃうpaper 武辺、咄 か。それは、戦国武将の逸話集みたいなものということでいいのかな。


さて、読んでみましょう。でも、どこに書かれているのかしら。うぇ~、最初から見ていかなきゃだめ?いえいえ、この編書は便利ですねえ。後ろの人物名の索引で、どこに誰のことが書かれているか一発で分かります。

うわ、ありとあらゆる人物名があるねえ。どれどれ、「北条氏政」っと。おお、あったあった。「武の60番」ね。


Img20160315_180229_2
~同じく図書館でコピー~


なるへそ think 。まあ、そりゃあるわな。他にどんな逸話が載っているのだろう。


古き侍(さぶらい)の物語に曰く ・・・

お話しは皆このフレーズから始まります。


古き侍の物語にいはく(曰く)、
トップは、太田道灌が上洛の時に詠んだと伝わるアノ歌の話です。

あれ?道灌て上洛してないのではなかったですかね。いや、上洛したかしないか定かではない・・という感じでしたっけかね。


それから例えば、
古き侍の物語にいはく、森蘭丸の、信長がお風呂に入る時の鞘の刻みクイズのアノ話。

蘭丸という家臣も実在しなかったと、最近刊行された『信長研究の最前線』に載っていましたね。(よろしくば以前のブログ記事をご参照くだされませ。)


それから例えば、
古き侍の物語にいはく、北条綱成の「地黄八幡」の旗を信玄が奪い真田信尹に与えたというアノ話。

これもよく聞きますが、本当の話なのですかね?「地黄八幡」の旗は、松代の宝物館にありますがねえ。


それから例えば、
古き侍の物語にいはく、伊達政宗パパの輝宗殿の二本松でのアノ最後の話。

私の浅い知識の限りでは、これは全て本当のことのように思えるにゃ~。


などなどで、物語としてはけっこう面白く、何時間も図書館に滞在して読んでしまいました。


この本に書かれていることの信憑性はワテには分からんです。ですが、関ヶ原より50年以上、北条の小田原開城より60年以上経ってから書かれたものですし、軍記物と同じような武辺咄集という位置づけですし。

また、「汁かけ飯」の逸話については黒田基樹氏も『北条氏康の子供たち』で、「出所を突き止めることすらむずかしい、いい加減な代物である」とお書きになってらっしゃることでもあるし。


いったい『武者物語』を書いた松田秀任殿は、どこからこの「汁かけ飯」の話をもってきたのでしょうねえ。

北条友いはく、同じ話が他にもあるそうです。福島正則のところの可児才蔵が、新規お抱えの家臣の面接(?)をした時の話です。

また享徳師匠いはく、近代に出た「豊臣時代記」に「この話は本当かもしれない」みたいなことが書いてあって、そこから世の中に広まったのかもしれないかもしれないと。


「武辺咄」とは、武家の御伽衆などにより夜話などでなされたもののことだそうですね。同じく北条友いはく、案外、中国の故実などにあった話なのではないかと。

マリコ・ポーロいはく、「こういうことをしていると滅びてしまうどー」との教訓話の例として、故実の主人公を前支配者だった北条氏政に置き換えて作り直し、徳川時代の武家の間で語り継がれてきたものかもしれませんね。


大河ドラマの影響力は大きいです。「新解釈」などはいらないから、そのこと自体に触れてほしくなかったと私は思ってしまいます。氏政は侵略者としては凄いことは伝わっても、人品人柄のイメージは悪くなるばかりcrying

せめて番組の最後で、「汁かけ飯」の話は後世に作られた話であり、真偽の程は分からないということを紹介してほしいと願うものです。


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~江戸の某アナゴの名店では最後に出汁をかけていただく。これが美味い!~

ドラマの汁かけ飯は、両手にお椀を持って椀から椀へ汁をかけている。だからよけいに下品に見える。戦中の湯づけや、現代の独身の男の子が御味噌汁を御飯にかけて食べたりするわけではないので、こういう風 にお銚子からお椀へ注げば御曹子の殿様っぽいと思うのです。


ドラマでの北条氏政と氏直と「汁かけ飯」の描き方について放送局に、いくら敵方とはいえ何故ここまて北条父子を低俗に描く必要があるのかとの質問と、最後の紀行のところで「汁かけ飯」の逸話は創作であることを紹介してくださらないかとのお願いをしました。


真萩尼(マリコ・ポーロ)

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2016年1月26日 (火)

祝 ▲ 「ブラタモリ」 in 小田原

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~石垣山一夜城から望む、江戸の原点となった戦国北条氏が築いた小田原の町~


皆さま、ご覧になりましたよね!

▲ 「小田原の町は3本の尾根からなっている」とよく言われ様々な地図でも表されてはいますが、あの赤色立体地図と、3本の尾根に重ねた諏訪間氏の3本の指はとても分かり易かったですねえ。

▲ 佐々木氏が案内された、あの2本平行した暗渠が、堀の真ん中が埋められたものだとは、ワテ知りませんでしたsweat01。ちょっと近々また行って、その目線で歩いてみたいです。


▲ 平井氏の案内と説明は、明るく楽しそうで良かったですよね~。


3
~タモリさんも歩いた蓮上院土塁に残る、B29が爆弾を落とした跡。~


気になったのは、佐々木氏が錠前破り(?)をして入った城下張出です。障子堀は水を貯めるため・・・のようになっていましたね。障子堀は堀の横移動を妨げるためだと聞いてきました。当然それもあるでしょうが、今は溜水のためのものだというのが主なのですか?

実は私は、小田原衆の方にあそこへ入れていただいたことがあります。我らが兄上・北条氏政が作った総構は複雑で、その時は今ひとつ脳内3Gに出来ませんでした。でも、番組のあの障子堀のCGで、よっく分かりました。テレビ画像の写真を撮って永久保存です。


そうなのですよ。これを読んでくださる皆様はすでにご承知のことと存じますが、全長約9km の、自然地形を十分に活用した、起伏にとんだ、あの壮大な総構は、秀吉の東征が切迫感を増してきた小田原北条最後の3年位で造られたものなのです。

凄いですよねえ。我らが四代当主・氏政はheart01

くう~。重ね重ね、氏政・氏直時代の御用米曲輪の石の庭園を、当時の全国の武将達や、現代の全国の「ブラタモリ」を観た方達に見せられなかったのが残念じゃ。「な、な、なんじゃ、あれは!」と絶対叫んだはず。


Photo
~総構北側の「稲荷森湾入堀」。写真では分からない、深さと巨大さ。~


番組の最後。タモリさんが、「総構で町全域を守っているから人々が安心して暮らせた」とか「小田原は凄いね」 「伊豆とか箱根に行くとき通り過ぎるだけじゃあねえ」とかとか、最後にまとめてくれたのがとても嬉しかったcrying

佐々木さんの、「その城下町をつくるに至った(江戸)時代の原点・・」との言葉にも、グッときました~happy02


放送では、主に一般立入禁止の場所や、個人のお宅や敷地、暗渠などが紹介されました。小田原マニアにとってはとても面白かったですが、城や小田原に詳しくない方にとっては少し難しかったのではないかとも思いました。

総構え9Kmには、上の写真の稲荷森のように、私達のような一般の歴史&城郭ファン方がいつでも歩けて、その壮大さを実感できる場所もたくさんあります。

以下、今までのブログ記事で総構のことを書いたものの一部です。ご覧くださいましたら幸いにござりまする。


「小田原攻め、徳川方の陣場めぐり」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5964.html
「小田原攻め、北条氏照の本陣」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-33dc.html
「小田原城開城の日に歩く、後北条の小田原」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-3e2c.html
「小田原城三の丸外郭「新堀」ガイドツアー」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-f9c7.html
「小田原衆と歩く、総構えの北と西」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-31ae.html
「戦国フィナーレを望む、石垣山一夜城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/the-b831.html
「小田原にあるもうひとつの城跡、花岳城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-3b70.html
「3▲総構の荻窪口と百姓曲輪の関係」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-0e40.html
「小田原城総構の 二重戸張 の衝撃」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-d7fd.html
「迷宮の小田原城(その1)」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/by-41c2.html
「小田原城総構いちばん奥と北原白秋」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-6867.html


萩真尼

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2015年12月28日 (月)

一枚岩じゃなかった、北条氏康の子供たち

前回のブログ記事でご紹介した『北条氏康の子供たち』黒田基樹/浅倉直美編を読み始めました。

ま~あ、そのスペクタクルさに「ドびっくり~」の連続で、いちいち騒いでしまい全然読み進めないでいます。北条ファンにとっては、今、スターウォーズより面白いかもしれませんのう。


まずは神流川合戦つながりで、北条氏邦(浅倉直美著)&総論(黒田基樹著)&私の北条氏照(則竹雄一著)を読みました。それだけですでに ドびっくり が 4つ paperな~るへそ~やっぱりね~ が一つgood


何じゃ、この本は!

読んでよかっただよ~。北条の追っかけとして読まなかったらどうなっていたか・・coldsweats02。自身の備忘としても、今の時点での ドびっくり&なるへそ を以下に。


▲ ドびっくり~その1

秘密です。

えっ?bleah


▲ ドびっくり~その2 「氏康の長男編」

早世した氏康の長男の実名は「氏親」とな(これも うじざね?うじちか?)。氏照も字は違いますが「氏輝」。今川ゆかりの名前を付けたと いうことなのかな。

となると、景虎さんの実名は喜連川文書の残る2つに絞られましたね。氏能か氏冬か。黒田氏は「冬」だろうと 以前書いてましたが。ま、どちゃらにしても大きな歴史の 動きには関係ないですが、気になるぅ~、知りたい~。


▲ ドびっくり~その3 「北条氏照 編」

由井領は始めから 大石領 なのではなく、元々が 氏照の領 で、氏照どのが大石に婿入りしたために、由井領も→大石領 となった。

えーーーっ!
ホンマでっかぁ~sign02


▲ ドびっくり~その4 「氏邦編」

氏邦が、もしかしたら氏規の兄ではなく弟かもしれないと。いや、もしかしたら生まれたのは先でも実は庶子で、庶子のため当初は序列が規さんより下になっていたのかもしれないと。


氏邦が瑞渓院の子ではないのではないかとは以前から言われていましたが、では母上は誰かという話は出てきていませんでした。

朝倉先生は、母親は三山氏の出だと思われるとしています。秩父三山の三山綱定の女兄弟だと。「綱」でどれだけ北条の重臣か分かりますよね~。綱定は、氏邦が養子に入った藤田の取次だったそうです。

氏邦の母がもし三山氏だったとすると……うっわ、 なんだろ、この衝撃的感。氏邦の領地支配感も、ぐっと深くなります。なぜか胸がキュッheart01 としちゃいました。


氏邦の序列ですが、なんでも、当初は、なんとパパ氏康の養子になっていたイトコの氏忠より下だったそうです。随分と下位ですな。ところが徐々に活躍が大きくなってくると、序列は氏照のすぐ次となってきたそう。

そういえば氏邦さんは、一生「北条氏邦」とは名乗っていないですよね。照どのは大石→北条に戻しているのにね。ず~っと何故かと思っていましたが、納得~。


と、一人で妙に納得していたら、鉢形の歴史師匠殿から「一生名乗ってなくはない。境目近くの北武蔵。藤田の名跡の方が都合がよかったのではないか。特に加賀に行ってからは北条氏邦と名乗っている」と。

あわわ。失礼いたしやしたsweat01


それにしても、北条は年功や嫡子庶子に関係なく功績重視なのだね。本当に合理主義。


そして、上記の ドびっくり~その5 に関連するかもしれない、今回のブログ記事のタイトル「一枚岩じゃなかった、北条氏康の子供たち」のことです。以下。


Img20151228_211955_2

▲ な~るへそ~、やっぱりね~ その1 「氏照と氏邦 編」

越相同盟の頃、上杉の直江景綱さんが、氏照(北条きたじょう経由)と氏邦(由良経由)の両方から別々に交渉の話がくることに不信感をいだいている、という手紙がありましたよね。

氏邦からこういう話がきても、今後は自分の方に交渉をまかせてくれ・・と氏照が上杉方へ伝えたアレは、どういうことだろうと思っていませんでしたか?私も常々その事情を知りたいと思っていました。


パパ氏康が「どちらも大丈夫。二人でやるよ~ん、よろしくぅ」みたいに上杉に連絡していましたが、やっぱり照&邦は難しい関係だったようですな。

表だって争いはしないけど、あんまり仲良しじゃなかっただweep。照どのが、だんだん序列を上げて自分に迫って来る邦さんを敵対視したのか。はたまた、側室腹を差別していたのか。

でも、パパ氏康も氏政兄上も、二人どちらにも全幅の信頼を置いていたようで、よく気を配りうまく使っていますよねえ。


大昔(2008年)のブログ記事でも書きましたが(下記に添付)、天正18年で小田原北条は終わったので、芽生え始めてていたそれぞれの確執があからさまに外部にカミングアウトすることはなかったですが、もし、あの時おサルが来なかったら、いや、信長が生きていたら・・・

北条氏康の子供たちはどうなっていたでしょうねえ。


いやはや、たった数十ページ読んだだけでこんな調子では、いったいいつ読み終わるのか。

と、まあ、そんなこんなしているうちに、今年も地球の自転が早かったのか、もう終わりです。今年もありがとうございました。皆様よいお年をおむかえくださいませ。


追記-1:
北条氏照の項で、「今川氏親」に「うじざね」とルビがふってありますが、「うじちか」で間違いないそうです。


追記-2:
また「小田原陣図」が毛利文庫所蔵になっています。「仕寄図」ではないですよ。「陣図」です。「陣図」は島原の松平文庫所蔵です。私は、毛利文庫と松平文庫に直接確かめました。小田原市史にも松平文庫だと載っています。

これ、どうにかしないと。どこかに元があって、毎度皆さんそれを参考文献として写しているのだと思う。小田原市史をご覧くだされたい。

そのことは、こちらのブログ記事に書きました。→「小田原攻め、松平文庫の小田原陣図」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-2808.html


萩真尼

「北条氏照の葛藤」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-3c27.html


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2015年12月 2日 (水)

小田原城総構の「二重戸張」の衝撃

皆さん、こんにちは。戸張捷です!

って、ちゃうちゃうpaperその戸張じゃなくて。

の、「戸張 とばり」の前に・・・
八王子市の「ふるさと納税」の返礼品が、なんとなんと、我らが北条軍団軍団長・北条氏照の八王子城から出土した、あのベネチアガラス器だそうですよ!

もちろんレプリカです。だって、本物だったら粉々の欠損だらけですものね~。というか、本物のわけないでしょ。

それは寄付金10万円の返礼品だそうです。欲しい。とても欲しい。しかし、10万円は無理ですな。10分の1のミニチュアでいいので、1万円の返礼品にしていただけないですかねえ。

詳しくは、11月28日付けWeb版東京新聞(村松権主麿氏)で→http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201511/CK2015112802000153.html


さて、本題の「戸張 とばり」です。

Img20151203_085331_2
~ピンクの矢印 が総構の「二重戸張」。(小田原市教育委員会、現代図に複合させた城下町・宿場町おだわらの町名・地名図より)~


小田原の総構には「二重戸張 ふたえとばり」が3ヶ所あります。全て、防備を強化している西側で、写真の下から順に「早川口」「下二重戸張」「上二重戸張」と呼ばれています。

「下」と「上」は既に住宅の下となっており、目で見られるのは「早川口」だけですが、その「早川口」も明治の政治家だか誰だかの屋敷の庭園になった時に造園の手が入っています。


城郭に詳しくない私が説明するのもなんですが、「二重戸張」は、まず一本の堀(または堀と土塁)があって、その外側にそれと平行した堀(または堀と土塁)があり、虎口を形成している…というか、虎口の一部になっているものです。(←う~、上手く表現できにゃい。よく分かってないからだcoldsweats01。)

特に「下二重戸張」は、そのラインが鍵の手のように同じ角度で2本カクッカクッと内側に入って、「m字」のようになっています。(←分かりる?)

「下二重戸張」は個人宅の建て替え時に障子堀が検出され、昨年の年末恒例「遺跡調査発表会」でも、階段状(かなりの傾斜地ゆえ)の障子堀の写真も見ることが出来たとても面白い場所です。


が、しかし!

「二重戸張 ふたえとばり」という言い方をするのは、昔の小田原 だけだと最近知って、衝撃を受けました。


あらためて関東の北条&城郭好きの数人に伺ったところ、皆さん、「なに?それ?」みたいにおっサル。まあ、総構というものが岩槻などの他には無い ものだから、昔も今も小田原スペシャル用語があってもいいとは思うのですが、それにしてもメジャーじゃなさ過ぎますねえ。


こういう構造の虎口は他の城にはないのでしょうか?それこそ岩槻には無いのでしょうか?また、城郭師匠から、総構は本佐倉にもあると伺いました。では、本佐倉にはあるのでしょうか?

他の城にもあるけれど、違う呼び方をしているのでしょうか?


そもそも今更じゃが 「二重戸張」があるってことは「(一重)戸張」もあるってことで、ほな、「戸張」とはどういう意味なのでしょう?夜のトバリが落ちる…の「帳」と同じ?小田原で「戸張」だけの場所は聞いたことないし、まあ戸張捷 golf でないことも確かです(?)

え~んcrying

小田原ツウぶって得意で「二重戸張」って言葉使っていたのにぃ。じゃあ、今は、なんて呼べばいいんだよぅ
(# ̄З ̄)

「二重堀の虎口」?「ダブルガードエントランス」?「ダブルタイガーマウス」なんちて。


2
~早川口の堀と土塁~


そんなこんなで早くザックリ知りたくてネットで検索してみたところ、ひとつだけ出てきました。

「戸張」は「外張」とも書くようです。

となると、ただの「外」に「張っている」ってだけの意味の単純な呼び方ですかね。あ、でもそういうのって総構には「城下張出」っつう場所がありますわな。「張出」ですし、虎口ではないですよね。


どのようなものを「戸張・外張」と言うかは研究者や城によって様々のようですが、どうも「馬出」のようなものを差すようですが・・・分っからんのう。

と悩んでいたら、名人「歴探」さんが、「戸張」と書かれていた感状のことを教えてくださました。

「北条氏邦、北爪将監に、山上戸張での戦功を賞す」
http://rek.jp/?p=5299


「戸張」って、当時から使われていた言葉なんだ!ほな、「二重戸張」は?皆さん、ご存知でした?


horse 次回は、先日、名胡桃城衆&深谷衆&八王子衆と 「神流川の合戦」の地 へ行った見聞録をお届けしたいと思いまする。


萩真尼

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