2018年2月 3日 (土)

一気に埋められた(埋めた?)戦国時代の小田原~日向屋敷跡

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~向こう(北側)に見えるのが駅。手前(南側)がUMECOや天守閣。青い矢印 は、大溝(堀?暗渠跡?)。ピンクの が、謎の長方形の空間(下記)。土地は、手前側が高い緩やかな傾斜になっている。~


おととしの初夏の頃から足掛け3年、掘り続けられていました。駅から天守閣への行き帰り、フェンスが長々と続いている光景がもう目に馴染んでしまっていましたが、見学会は今回の戦国時代で最後とのこと。

積雪の影響が心配でしたが、雪の影響はすっかり跡形もなくなっていました。見学会前日はたいそう大変なことだったと存じます。ありがとうございます!
m(__)m


ここは、徳川初期に ミセス大久保(日向殿)が蟄居した屋敷があったと伝わるため、「日向屋敷跡」と呼ばれているエリアです。八幡山丘陵の南西側の張り出し部にあたります。また、南側にはすでに発掘調査が終わった元蔵跡があります。

江戸時代の発掘調査(見学会もあった)が終わり、現在は戦国時代の遺構を調査中です。発掘調査は一番新しい時代が優先で、その下は掘っちゃいけないのだと思っていましたが、今は地山まで掘ってもいいようですね。知りませんでした。それとも、いい場合とアカン場合とは、何か決まり事があるのかしら?


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~断面からは、江戸時代の遺構の下に、同じ土で同時期に埋められた(埋めた?)痕跡が見られた。~


冒頭の写真の手前側(南側)から、次々と土が投げ込まれた様子が確認できます。つまりUMECO(交流センター)があるあたりの高台の土を削って、短期間で一気に埋められた(埋めた?)のだろうとのこと。

「大規模な土地改変」が行われた痕跡だそうです。


horse 確認された戦国時代の遺構

大溝(堀?暗渠跡?)、建物遺構、素掘り井戸、畝状遺構などなど。

昨年出てきていた、北側の畝状遺構や南側のダレッとしたsweat01 障子堀(佐々木健策さんおっさるところの「カッキリした氏政の障子堀」ではなさそう)などは、すでに埋め戻されていました。


井戸は、このエリアだけでも、なんと 50 本!(江戸時代含む)。全てが同時に機能していたわけではないそうですが、ドびっくり~。水が非常に出てくるエリアだそうです。


horse お宝

瀬戸美濃の大鉢やカワラケも出てきていますが、目玉は、井戸の景徳鎮の白磁の菊皿9枚。綺麗に伏せて重ねた状態で、5枚と4枚に分かれ、完全体で置かれていたそうです。現物と検出時の写真が展示してありましたが写真を撮り忘れました。


見学後に歴友師匠方と、例によって「北條水軍」さんでお昼を食べながら菊皿の話になりました。

何故9枚?
「井戸仕舞いをした跡ではないか?」「9枚重なっていたけど、地震とかなにかで、4枚と5枚に分かれたのではないか?」

私は、「初めは10枚あったけど、1枚は、お菊さんが割ってしまったんですよぉ~。にゃーんて」。

1枚だけ歪んで楕円形だったのは、どうしちゃったのだろうか…?


horse 謎の長方形の空間

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ピンクで囲んだ部分です。周囲は溝。縁には縁石。立ち木が2か所並んでいます。

両サイドには玉砂利。玉砂利は、中央部には、初めから無かったのか、両脇に寄せられたのか、水で流れたのか分かりませんが、ありません。玉砂利は、元は左下のぐらい盛り上がっていたと考えられるそうです。

建物は、どうやら無かったようです。


立ち木の種類はこれから検査だそうですが、おそらく杉とかの針葉樹のようです。全て、同じ高さで途中で切断されていました。何故かはまだ分からないそうですが、たぶん、ある高さまで土で埋め、そこから飛び出たところを切ったのだろうとのことです。

立ち木の状態で残ったのは、他の部分の遺構も同じことで、一気に埋められたため当時のままの状態が土の下に保たれたのだそうです。

いったい、なんだったのでしょうねえ。生活空間でないことだけは確かですよね。


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~広さはこの位。 は周囲の溝。~


戦国時代の遺構は、廃城後に埋められたのか、それとも北条の最後の時に自ら埋めたのか意見が分かれるところです。

「短期間に一気に埋まった」と伺い、御用米曲輪を埋めたのと同じ時かと一瞬考えました。しかし、その埋土層を実際に見て、秀吉の大阪城を埋めた家康殿を思い浮かべましたよ。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2018年1月 9日 (火)

北条氏綱が造営した本殿と石垣 「六所神社」

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~ケヤキの巨木が立つ表参道。突き当りが相模国総社「六所神社」本殿。~


JR東海道線二宮駅からバスで10分程。湘南、国道一号線の大磯プリンスあたりを車で走っていると、国道沿いに大きな赤い鳥居が立つのをご覧になったことがある方も多いと思います。


創建は700年代。この地に移り住んだ出雲氏族が櫛稲田姫命を祀り「柳田大神」としたのが始まりとのこと。

「六所」とは、相模の一宮(寒川神社)、二宮(川勾神社)、三宮(比々多神社)、四宮(前鳥神社)、(平塚八幡宮)、そして、この(柳田大神)をいうそうな。本殿にはそれぞれの神様の扉があり、こちらでお詣りをすると相模の六所を詣でたことになるのだとか。


頼朝が、富士川の合戦にむかう時に戦勝祈願をしたり、政子さんの安産祈願をしたりなど、たいへん尊崇した神社でもあったようです。


我らが小田原北条の崇敬も篤く、氏綱が造営した本殿を氏政が修復し、現在の本殿はその時のものだと伝わっています。

父である早雲こと宗瑞の死去後の数年、軍事よりも領国固めに専念した氏綱は、相模や伊豆の大きな寺社仏閣の再興にも力をいれています。神社のご由緒や大磯町のHPには再建年代がはっきりと書かれていませんが(ご由緒には1500年代前半とあります)、大永3年の事業でしょう。棟札が残っているそうなので、そこには書かれているのかな。


鶴岡八幡宮、寒川神社、伊豆山神社はじめ、江戸や神奈川の寺社仏閣のご縁起やご由緒書は、「源頼朝→徳川家康」 と、その間の小田原北条をすっ飛ばして書かれているものが多いのですが(武田信玄殿まで書かれているのに北条が出てこない神社もある)、六所神社さんはちゃんと記してくださっていて、北条オタクとしては嬉しい限りでござりまする。


本殿は一段高いところに建っていますが、礎を支えてぐるりを囲む石垣も小田原北条が寄進したものだそうです。


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~後世に修復した箇所もある~

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石垣には、地元大磯の鷹取山の石が使われているそうです。


北条氏綱が造営した本殿と石垣のことは、瑞渓院の資料から色々辿っていて知りました(瑞渓院関連は府中の方の六所神社)。一度お詣りしたいと思っていたので、年末年始のカキイレドキも一段落した今日、今年の「北条妄想初め」として、こちらへ詣った次第。

今年も、よろしくお願い申し上げます。


「頼朝の伊豆山権現(熱海)」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-984d.html

マリコ・ポーロ こと 萩真尼


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2017年12月 6日 (水)

小田原総構「早川口」の発掘調査を見学しました

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~トレンチは堀底(通路)部分に8カ所。ほとんどが堀(通路)を横方向に掘られていました。こんなにアチコチ掘れるなら、いっそ全面掘っちまえぃ!と思いました。そうもいかないのかにゃ。テヘヘ bleah。~


早川口の発掘調査は初めてだそうです。

江戸時代は水田だったし、明治には政治家(の側近)の流水庭園だったので、どこまで分かるのか?担当者の方たち大変だろうな、いや、専門家は一目見ればいつの時代かがすぐに分かるのかな…などと思いながら、見学に行ってきました。


目的: 地下遺構の状況を確認するため

結果: 調査は継続中。12月いっぱいで埋め戻す。
・現況地形と戦国時代の地形が大きく異なることが明らかになった。
・山側の総構と違い、低地部ならではの石の多用など、小田原城の低地部総構の土塁形成方法を解明するための手がかりを得られた。


検討が必要なこと:
・部分的な調査であるため、更なる土塁の構造についての調査。
・確認された砂利敷き面が虎口内の通路なのか?

などなど、ご説明と資料から書きました。合ってますかね。


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~ピンクの矢印 → が早川口の二重戸張です。(小田原市教育委員会、現代図に複合させた城下町・宿場町おだわらの町名・地名図より)~


以下、戦国時代に関係することで気になったことだけ自分の備忘録として書きますが、こんな書き方ではわからないですかね~。


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▲ 虎口に近い部分。外側の土塁上から写真を撮りました。

・ ピンク矢印 土塁
土塁の内側部分とはいえ、元は土塁ももっと高かっただろうに、それにしては随分と傾斜が緩いと感じました。

グリーンで囲んだ部分
平石の列。 石の下は不明だそうです。

で囲んだ部分
硬化した砂利敷の列。「虎口の通路かもしれない」と。う~ん、もう少し広い幅で見てみちゃいと思いました。

・ 土塁の際あたりに近現代の穴があり、レンガが出ていました。う~ん、難しそう。


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▲ 残された堀(通路)の、真ん中あたりです。外側の土塁の上から撮りました。

1枚目の写真もそうですが、私が撮った写真では高低差が上手く出せません。配布資料の写真がこちらです。

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資料の写真。向こうが土塁です。


・ ピンクの矢印 土塁

・ 上部の石ゴロゴロ
「石塁状に石を積んだ後、石と土によって土塁として整形されているようだが、石と土塁の関係はまだ不明」 「土や新しい石を取り除くと、石と石の隙間が広く、水が流れやすくなっている」と。

蓮上院も低地部ですが、土塁に石は使われていたのでしょうか?また、海沿いの台場の土塁も、石と土を使っていたのですよね?海沿いの大蓮寺あたりの住宅街の細道を歩いていると、少し名残(とも言えないぐらいの、名残らしきもの)が見えるところもあります。


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資料の写真より。

▲ 現代の早川口の入口から入ってすぐのあたりです。


・ ピンクの
「鉢形と同じような、土留めで使われている積み方」と。

狭い幅部分だったので、もうチョビット深いところが見たかったのと、江戸時代の水田層&近現代以降の砂片付け穴が一緒に出ていたのとで、私にはよく分かりませんでした。


水田だけならまだしも、そのあとの庭園がね~。でも庭園だったから早川口がかろうじて残ったというところもありますしねえ。

でも、早川口の土の下が見られる機会なんて無いと思っていたので、行って良かったです。この土塁の上に我らが北条氏照が腕組みして立ち、シッカと向こうを見据えていたかもしれない(病気になってなければ)…と思うと、ゾクゾクしました。


「小田原攻め、北条氏照の本陣」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-33dc.html
「小田原城総構の「二重戸張」の衝撃」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-d7fd.html


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2017年11月29日 (水)

火急!見学会「早川口二重戸張」があります▲小田原

スーパー連続講演会の途中で、小田原がまたまた大変です!今度は総構、早川口二重戸張(ふたえとばり)の発掘調査見学会です。

日時: 2017年12月2日(土)
9:30~12:00
見学自由、小雨決行
karaoke 10時、11時に文化財課の説明あり
HP→http://www.city.odawara.kanagawa.jp/field/lifelong/property/shisekinoseibi/ki-20170544.html


以前、小田原の二重戸張(ふたえとばり)については驚いたことがありました(ブログ記事↓下記に添付)。それがどうなのか、今回の見学会で少し分かるかな。

2
~早川口~


pen 余談

今更私などが言わずもがなですが、小田原の総構や古郭周辺の名称は、便宜上後世に付けられたものが多いです。「二重戸張」もそうですし、血湧き肉躍り数年に渡って当ブログに書きまくった「御用米曲輪」や、妄想の果ての「御前曲輪」、そのあとチビット萌えた「百姓曲輪」などもそうです。


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~山の神堀切~


先日、某北条支城で催された某講演会で、「百姓曲輪」は「山ノ神台」にあるとのお話しを聞きました。

「山ノ神台」の名前も、かつて(江戸時代か?)山神祠があったため後世に名付けられたものです。まったく詳しくありませんが、山神祠は、林業・石工・漁業など山や自然相手の職業に携わる方達が祀ったものでもあるようです。また、これも行ったことがなくて恐縮ですが、足柄城にも「山の神曲輪」がありますよね。


小田原の「山ノ神台」は百姓曲輪の近くではありますが、「百姓曲輪」は、どちらかといえば荻窪口に続いています。

腑に落ちなかったので、小田原の専門家の方に伺ったところ、やはり、「百姓曲輪」は荻窪口の虎口を構成する一部で、「山ノ神台」とは違うとのことでした。とはいえ、「荻窪口」の全体像もまだよく分かっていないようです。


「小田原城総構の「二重戸張」の衝撃」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-d7fd.html

「小田原城「御前曲輪」で妄想す~香沼姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-7998.html

「調査中の御前曲輪南堀(毒榎平北堀)を見てきました▲小田原」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-a209.html

「障子堀が出てきた「百姓曲輪」を偵察させていただいた」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-1a58.html
「2 ▲小田原「百姓曲輪」の虎口」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-c3eb.html
「3 ▲総構の「荻窪口」と「百姓曲輪」の関係」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-0e40.html


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2017年6月 7日 (水)

今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原「久翁寺」

by マリコ・ポーロ


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~久翁寺は、北条幻庵の家臣の関善左衛門が中興したとのこと。現在は無住。~


駿府を捨て、掛川、戸倉と移ってきた今川氏真がどうにか落ち着いたのが、正室・早川殿の実家である北条の小田原です。小田原では、城から西へ早川を渡った「早川」に屋敷を与えられたとされています。後の石垣山城の麓になります。

早川は北条の重鎮中の重鎮、宗瑞(早雲)の息子、北条幻庵の知行地でした。幻庵は、小田原に戻ってきたり逃れてきたりした親族たちの後見をする立場にあったようで、氏真ご一行様が早川にいたというのも、確かな史料はありませんが幻庵の関係からなのだと思います。


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久翁寺のことは『北条氏康の子供たち』で知りました。今川義元殿の13回忌が営まれたことは、龍譚寺所蔵「記事諸余」にあるそうです。他にも書かれているものがないか帰りに城内の図書館で探してみましたが、ありませんでした。


あの今川義元殿の法事が、あの氏真によって小田原で営まれたとは、なんだか感慨深いものがあります。

法要には、氏真の女兄弟で、武田信玄の息子義信に嫁いだ嶺松院(嶺寒院?)も列席していたことでしょう。嶺松院は義信廃嫡後に実家に戻されてより、氏真夫妻と行動を共にしています。

また、その席には、宗瑞の娘で今川の三浦に嫁ぎ、こたび同じく一緒に戻ってきた長松院様もいたことでしょう。


このまま小田原から、駿府復帰を果たしたかった(たぶん)氏真殿。しかし、再び流浪の人生が始まります。もちろん、正室である我らが北条の早川殿も、その人生の最後まで一緒だったことは言うまでもありません。

二人の終焉の地である江戸品川の屋敷跡のことは、追々。


Photo

久翁寺の前の道で、誰かに施されたご飯を夢中で食べていた猫 。近寄っても気が付かない風なので、「氏真殿っ」と呼び掛けたら ハッ!として、スタスタ歩き出し、なんにもしてないにょ~んとばかりに電柱の陰に座った。

「ご飯食べちゃうぞ~」と言ったら、お耳をヒクヒクさせておったので、「いい子だね~」と写真を撮った。毬遊びは上手かな?


北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html
「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html

「駿府 「臨済寺」の特別公開」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-2e50.html
「今川時代の駿府~吐月峰 柴屋寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-7dec.html

「駿府で暮らした早雲の姉と北条氏規」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a23.html

「北条五代の娘たち①今川から戻った長松院様」
伊勢宗瑞(北条早雲)の息女たち
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html


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2016年8月 3日 (水)

調査中の御前曲輪南堀(毒榎平北堀)を見てきました▲小田原

前回のブログ記事で見学会のことを書いた、城山の陸上競技場から出てきた小田原城最大クラスの堀を見てまいりました。

場所はココ ↓ です。

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~茶色が堀。緑は土塁。薄緑は傾斜地。(小田原市教育委員会複合図)


現在、城山陸上競技場はリニューアル中です。こたびの発掘調査の場所は、グリーンの矢印 の所。


紅い矢印 は、現在は見えない(毒榎平方面からは一部分そこはかとな~く見える)が、御前曲輪から毒榎平方面へ斜めに登りながら(毒榎平から御前曲輪へ斜めに降りながら)続いていると思われる堀。

つまり、下の写真の向かって右下方と左上方を繋ぐラインです。

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~向かって右側が御前曲輪跡(陸上競技場)で、フェンスすぐ脇が、こたびの調査現場。左上方が毒榎平。~


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~右側が競技場。左側に毒榎平へと続く斜面。~


もっの凄い、薬研堀!
薬研堀だそうです coldsweats01


反対側も出ていました。この写真で分かりますかね?

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~向かって左が競技場。右側が、毒榎平へ続く斜面。~


写真を撮るために私が立っているのが堀の上ですが、当時はもっと高かったそう。つまり、堀はもっと深かった!


堀は「毒榎平北堀」と呼ばれています。「御前曲輪南堀」とは呼ばないのかと伺ったところ、まあどちらも便宜上の呼び方になるから同じことだとのことです。

また、この堀は、「毒榎平を守るため」と言われていますが、「御前曲輪を守るため」と考える方もいらっしゃいます。


この陸上競技場部分は、いったい何だったのでしょう。それに、今はひとくくりで「御前曲輪」としていますが、当時は堀によってもっと細かく分かれていたのでしょうか。

宝永の火山灰の跡までもかなり高さがありますので、江戸時代には既に思いっきり埋められてしまったのですね。

それとも、御前曲輪ではなく、毒榎平の方の機能を主体に考えたほうがいいのかな~?


最近ワテが凝っている百姓曲輪がすぐ東側にあるように見えますが、百姓曲輪と御前曲輪との間には距離も高低差もけっこうあります。(標高を調べたが分からなかった。当時はどちらが低い?)

小田原の古郭エリアは曲輪にしても外郭ラインにしても、また堀そのものにしても、かなりのアップダウンがあります。南北は尾根にさえぎられて行き来できない場所も多いです。二次元の地図で見ていては分かりません。足腰丈夫な方は是非一度歩いてみてくだされ。


凄いねえ、小田原。
すでに表に出ている所はもちろんですが、先日公開された大堀切西堀といい、こたびの競技場の堀といい、壮大な土木事業ですねえ。

いかに自然地形を利用したとはいえ、たった3年位で成された仕業ですよ。しかも、四百年も土に埋もれていても、ほとんど崩れていない(埋もれていたから崩れない?分からにゃい)。

当時、よほど地形に精通した優秀な土木工事集団がいたのでしょうねえ。


まあね、あんまり調査が進むと、ワテの香沼姫さまの妄想がガラガラと崩れてしまいますけどね…crying

でも、知りたい。複雑・・


2011年に書いた(妄想した)ものです。今では少し違うかもしれませんが、よろしくば。

「小田原城、御前曲輪で妄想す~香沼姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-7998.html

小田原▲大堀切の「西堀」が公開!
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-c1af.html
障子堀が出てきた「百姓曲輪」を偵察させていただいた
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-1a58.html
その3 ▲総構の「荻窪口」と「百姓曲輪」の関係
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-0e40.html
小田原城総構の「二重戸張」の衝撃
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-d7fd.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2016年7月21日 (木)

小田原見学会▲陸上競技場で最大の堀が検出!

(加筆、正確には、御前曲輪南堀ではなく毒榎平北堀のようですが、便宜上そうしているだけで、どちらも同じだとのこと。)

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~御前曲輪。発掘調査中なのは、この写真の向かって右の隅っこ。~


北条友の投げ文がきました。城山陸上競技場改修工事の発掘調査で 最・大・級 の堀が検出されたので、緊急の現地見学会です。

日時: 平成28年7月23日(土)
9:00~正午


horse 小田原城古郭 「御前曲輪」

古郭でも奥深いところにあたる。

背後には3本の大堀切、北側(写真左側)上部は桜馬場。三方からは両の手で守らるれように山に囲まれた谷戸の広い窪地で傾斜を成している。ただひとつ開けた前面(写真の向こう側)からは眼下に相模の海 wave を望むというロケーションにある。

戦後(小田原戦ではない)、調査がされないまま陸上競技場となった。現在のところ、当時の使用用途は不明。


あーもう、次から次へと!小田原はキリがない。本当に、ファンタジーワンターランド。御前曲輪ですよ。大変なことですsign03


ついでに、公開されたばかりの大堀切 西堀 も見てきてくだされ。


文化財課 HPに、凄い写真が載っています。

HP→http://www.city.odawara.kanagawa.jp/field/lifelong/property/topics/kenngakukai160723.html


2011年に書いた(妄想した)ものです。今では少し違うかもしれませんが、よろしくば。

「小田原城、御前曲輪で妄想す~香沼姫」
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小田原▲大堀切の「西堀」が公開!
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障子堀が出てきた「百姓曲輪」を偵察させていただいた
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その3 ▲総構の「荻窪口」と「百姓曲輪」の関係
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小田原城総構の「二重戸張」の衝撃
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2016年7月13日 (水)

小田原▲大堀切の「西堀」が公開!

flair 今、天正18年、なぜ富士山砦が奪われて(奪わせて)しまったのか、早川を越えさせてしまったのか??を考えていますが、富士山砦の攻防について書かれたものが見つけられません。


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~公開部入口。開城って?~


本題の前に・・・


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北条氏政・氏照、墓前祭

毎年、北条氏政&氏照の最強兄弟の命日7月11日には、小田原の顕彰会さんによる墓前祭が営まれます。もちろん私は顕彰会のメンバーではありませんが、昨年に引き続きお参りさせていただきました(どなたでもお参り参加OK)。

今年は八王子城衆数名と鉢形衆1名が一緒でした。八王子城にも氏照のお墓はありますが、氏照が最後を遂げた小田原の地での、我らが兄上さまとの合同墓前祭は、ひとしおの感慨があります。


今年は平日だったせいか土曜日だった昨年より一般参拝者少なかったですが、顕彰会の会長さんも世代交代し、参議院議員さんや県会議員さんたちも若い方達ばかり。小田原では、若い世代に引き継がれていっているのだな~と、これまた違う感慨が涙

昨年の模様です→http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/in-5a37.html

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~八王子の銘酒「氏照」を、氏政・氏照の「墓前祭」にお供えさせていただけた。~


さて、本題。


horse 小峯の「西堀」 公開

小田原城古郭の小峯御鐘ノ台では、東堀、中堀、西堀と3本の大堀切が有名ですね。3本の堀は外郭ラインと繋がり合い、複雑な北西部の防衛線を作っています。

東堀は、メディアなどで小田原北条が紹介される時は必ずといってよいほど写真や映像が出てくる、あの素晴らしい V字カットscissors の堀。中堀は、そのすぐ脇にあり車道となっています。


そして、西堀

今までは普通には入れませんでした。埋もれてしまっている部分や私有地があったからです(普通でなければチビッと入れたsweat01)。


こたび市有地部分が整備され、7月5日から一般公開となりました。墓前祭の前にさっそく偵察に行ってまいりました。

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真夏なのに、キレイに下草を刈ってくださっています。ありがとうございます。


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広いですね。ちょっと写真では写しきれないです。眺望も素晴らしい!


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元個人宅の遺構(?)が少し残ってはいますが、これで、東・中・西と3本の堀に立って、その壮大さを妄想できるようになりました。

入口は、今まで西堀の埋没あたりへコッソリ降りていた(これっ!)、水の尾口に向かう途中の、あの細い畑の脇の崩れそうな通路ではありません。東堀の、説明板がある方から入ります。中堀の脇の細い坂道を入る方です。看板あり。


西堀について、何年か前の、「小田原の城と緑を考える会」の総構ツアーの時にいただいた資料の一部を以下に抜粋させていただきます。


pen ・・公図等によれば全長 215m 位の距離で残存していた。尾根筋を横断する位置にあり、堀切の形態をなすため堀の左右に明確な段差はなく、わずかに西高東低の現地形により高低差があるのみである。

堀の東側には「小峯御鐘ノ台東」の土塁が続き、ここも原型をよく保存している。


規模は北端段違い部分から約100m程ほぼ直線状に南方へ走り、それより直角に東方へ折れて約15m直進し、さらに再び南方へ直角に折れ、つまり2回屈曲を示す。

これより先端までの間一部埋没しているが・・・現在は、曲折点より約35mほどが観察によって追跡できる。堀幅は比較的保存の良い部分で堀底で測って平均8.5m。平均堀幅に等しい。


北端は他に類をみないような残存状況のよい三方向からの段違い構造を示し、東方よりの外郭空堀に接続している。

西堀と外郭東方よりの空堀との中央軸線はほぼ一致し、双方の堀底はほとんど直角に落差があり、その高低差は西堀の方が5m高かった。また、東側つまり城内側には土塁が存在し、これは外郭土塁に接続して「小峯御鐘ノ台東」方向に続く・・pen


是非、行かれてみてくだされ。


wine以下は、北条氏照について書いた厖大なブログ記事から、ちょっと変わったものを。

「北条「氏政」の御首級(みしるし)はどこに?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-470a.html
「北条氏照の首級(しるし)はどこに‥?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-df65.html

「小田原攻め、北条氏照の本陣 報身寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-33dc.html

「北条氏照の存在が抹殺された?星谷陣屋」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-d9bb.html
「アフター北条氏照の大久保長安についての妄想」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-6cc6.html

「土方歳三は北条氏照の生まれ変わりである」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/in-012e.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2016年7月 5日 (火)

天正18年7月5日「小田原開城」 アーカイブ

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~虎朱印と北条氏直の花押 (以前、神奈川県立歴史博物館で購入)~


何年か前、あるところに書いたことがあります。

いつの時代でも、長く続いた家や組織を終わらせる最後のリーダーの勇気と辛さは計り知れない・・・

こたび、リニューアルなった現代の小田原城天守閣のシアター映像や、先日の大河「真田丸」を観て、あらためてそう感じました。


今日7月5日は、小田原北条最後の当主北条氏直が 「時代に降った日」です。小田原北条は日本中の戦国武将たちに見守られ、そして助けられながら戦国フィナーレを飾りました。

以下、今まで書いた北条氏直さんに関するブログ記事のいくつかです。ご覧くださりましたら嬉しゅうござります。(特に昔書いた記事に間違い勘違いもあるかもしれませんが、直すとその時のパッションが薄れてしまうのでそのままにしております。ゴメンナスッテ。)


「北条氏直、最後の当主の最後の朱印状」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-3b83.html
「北条氏直の投降は、走ったのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-c645.html

「本日(7月5日) 小田原城開城す」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-e584.html
「今日7月21日、北条氏直は高野山へ旅立つ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/21-969c.html 
「今日は、北条氏直の命日 2010.11.4」 
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-dc5d.html

「石垣山で歴友たちと天正18年を偲んだ 2013.7」 
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-e888.html
「小田原城開城の日に歩く、後北条の小田原 2012.7」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-3e2c.html
「天正18年の石垣山一夜城を歴友と歩く 2011.12」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-017b.html
「後編~天正18年の小田原へ、歴友と時間旅行 2011.7」 
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/18-0cf3.html

「小田原城開城へ、最後の6ヶ月」 
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-f53a.html
「それからの後北条一族」 
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-93b0.html

「戦国フィナーレを望む 石垣山一夜城」 
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/the-b831.html


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2016年5月26日 (木)

家康の側室達ゆかりの、小田原北条の寺々

家康殿のご側室達とは・・

正木の娘 お万の方 と、太田道灌玄孫 英勝院(おかじの方) のことにござります。


さて、
この春、障子堀が出てきた百姓曲輪の妄想に浸っていた頃のこと。その日も百姓曲輪に立って妄想すべく、駅から百姓曲輪に向かってスタスタスタスタと歩いていました。

道の両側には、新旧(北条時代~江戸時代)取り混ぜていくつかのお寺が並んでいます。お寺は大好きなのですが、小田原ではお寺にはあまり寄らないようにしているため、こちらのお寺も一度もお参りしたことがありませんでした。


この日はチビットだけ時間があったので、北条時代には確実にあっただろうと思われるお寺2つ scissors (時間がチビットあるとはいえそんなには無いから2件だけ)に寄ってみることにしました。

事前にまったく調べていませんので、頼りはお寺の説明板とスマホの情報だけというなんとも心もとなきものなり。


horse 光秀山「浄永寺」

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始まりは、弘安3年(1280)。時の執権北条時宗の家臣、風祭の大野之亮光秀が日蓮上人に帰依し自邸に法華堂と七面社を建立。

永正15年(1518)、小田原北条二代、氏綱の伯父である日形上人の時に現在地に移り、氏綱が堂宇を再興。

と伝えられていると、お寺の説明板にありました。


風祭大野氏・・。風祭氏とは鎌倉時代の地頭ですな。

また、氏綱の伯父・・って誰?母方ですかね?


何はともあれ、
おお、やった!北条に思いっきり縁があるお寺ですねえ。

浄永寺は北条の厚い庇護をうけたようで、境内の七面堂の前には氏康の書状が石碑となっていました。出陣前に戦勝祈願をしたところ勝利し、それに感謝した内容でした。


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~花押付き。素敵~heart01

境内をウロチョロしていたら、お寺の方らしき方が通りかかり、一緒にいらした檀家さんだか石屋さんだかに、この文書のことを私に「説明してあげてよ」とおっしゃり去っていかれました。

親切~。でも、なんで北条ファン(歴史ファン)だとお分かりになったのだろう??まあ、檀家でなければ、そうだろうということでしょう。


書状は6月8日付けですね。なんの戦でしょうね。

そして、宛名の日源上人。浄永寺は、江戸時代には、紀伊大納言頼宣の母である養珠院殿の繋がりで紀伊藩(和歌山藩)の祈願所になっていたそうです。


この養珠院殿は、私が追っかけをしている氏綱公の正室の養珠院とは別人です。のちに家康の側室となった、正木一族の養珠院殿、お万の方のことです。何故、お万の方ゆかりの紀伊藩の祈願所だったのでしょう?

お万の方は、伊豆の田中氏の娘(兄は板部岡)が北条氏尭(氏康たちの早世した弟)の養女となって正木に嫁ぎ生まれた子だと言われていますね。正木さんは人質として小田原で暮らしていましたから、お万の方は小田原で育ったようです。日蓮宗を深く信仰された方のようですから、浄永寺にも帰依していたのでしょうかねえ。


このへんのことは、もうとても調べきれませんので、ご興味ある方は是非お調べくださいませ。と、人に振るcoldsweats01

以前、お万の方開基、里見ゆかりの、東京の「仙壽院」へ行った時のブログ記事を末尾に添付いたしました。まだ全然分かっちゃない頃に書きましたので、そのへんのところ甘~い目でご覧いただけると助かります。


北条ゆかりのお寺を訪ねて、お万の方へ妄想が広がるとは思ってもおらんかったぞえ。


horse 當知山「本誓寺」

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~境内より本丸方面を臨む~


創建は永正4年(1504)。開基は、今川氏親の家臣で鎌倉の藤枝という一族のどなたからしいです。

なるへそ~。
氏親殿の娘であり、氏康の正室となった瑞渓院様の最初の菩提寺「願修寺」も、すぐ近くですな。(瑞渓院は籠城中に亡くなったので早雲寺には葬れなかった。)


もちろん北条時代はそんな所縁もあって、歴代当主に庇護されていたことでしょう。小田原が敗れたあとは、当時の住寺大誉上人も他のあまたのお寺や僧侶達と同じく江戸に移ったそうです。


境内に人影はなく、ヒソ と静まり返り、本堂の扉も ピタ と閉ざされていました。

まったく分からないので、スマホで検索してみると、ある方のHPに少々興味深いことが書かれていました。ご許可をいただいていないのでここにリンクするのは控えますが、それは大誉上人が江戸に移りしのちのこと・・


▲ 江戸に移った本誓寺六世の大誉上人は家康の庇護をうけるようになりますが、上人には、同じく小田原から連れてきた小僧のお弟子さんがいました。それが、北条家臣の大導寺政繁と遠山の娘との間の三男だというのです。▲


大導寺は小田原戦のあと、責任をとらされ秀吉に切腹を命ぜられた者のうちの一人です。息子はそのまま小田原に居づらく江戸へ付いて行ったのでしょうか…。お話しはまだ続きます。


▲ この弟子のことを、家康殿が側室の おかじの方(英勝院)に話します。

英勝院様とは太田道灌の玄孫になりまして、北条重臣の遠山の娘(大導寺に嫁いだ娘の姉妹)が北条氏康の養女となって太田に嫁いで生まれた子のことです。

英勝院はおっしゃいます。
「そりゃ、わらわの伯母の子にございます!びっくりポン!」


英勝院は大誉上人を開山として江戸本誓寺を開基しました。大道寺政繁と太田道灌ゆかりのこの弟子は、弁誉上人として江戸本誓寺の二世となりましたとさ。▲

このお話しの流れの真偽は私には分かりませんが、『江戸浄土宗寺院寺誌史料集成』(宇高良哲編、大東出版社)にあるようです。ご興味ある方はどうぞお調べくださいませ、と再び人に振るcoldsweats01


面白いですねえ。「道灌びいき」の会にいながら、小田原を歩いていて英勝院に行きつくとは想像もしていませんでしたよ。

江戸本誓寺は江戸時代の区画整理やら火災やらにより、現在は深川にあるそうです。


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話は小田原へ戻りますが、小田原陣図(松平文庫所蔵)にある、「ホンセン寺」って、この本誓寺のことですかっ?!

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~ピンクの矢印。(赤字の報身寺は北条氏照の本陣が置かれたお寺。)~


小田原の本誓寺には、開基藤枝氏の守り本尊である13世紀の阿弥陀如来像が二体(本尊・脇侍)がおわすそうですね。県指定文化財。

拝見できなかった。残念。


wine 何も下調べせずにお参りした小田原の2つのお寺が、ともに家康殿のご側室ゆかりのお寺であったとは・・。人の歴史はどこまで繋がるのかと感心してしまうと同時に、小田原北条が坂東に広げ、次の為政者の時代へ残した人脈の凄さに途方にくれた一日となりました。

調べたら、もっともっとあるんだろうな~。ご興味がある方は是非どうぞお調べくださいませ。と、人に振る。。。


南総里見 5 「戦国人たちは消えてゆく」(仙壽院)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-c2ec.html
「小田原にある謎の城跡 花岳城」(城源寺)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-3b70.html
「北条氏康ご正室 瑞渓院の二つの菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-653a.html

「小田原攻め、北条氏照の本陣 報身寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-33dc.html
「小田原藩相馬家、菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-cd40.html
「北条崎姫と香沼姫、エピローグ」(高長寺)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-b0c7.html
「香林寺の開基は、氏綱公ご正室?為昌殿ご正室?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-b125.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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