2020年12月22日 (火)

宗瑞は京で失脚したため駿河へ下った!?~森幸夫氏

マリコ・ポーロ

医療介護はじめエッセンシャルワーカーの皆さま、本当にありがとうございます。

 

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~「小鹿営業所」 新九郎さんファンはバスの行先表示も撮る~


先日のブログ記事「道灌・小田原北条を大河ドラマに!署名を募っているそうです」でチラッと書いた小田原の本『戦国大名北条氏の歴史 小田原開府五百年のあゆみ』を読み進んでおりますが…

ドびっくり~(←また💦)なことが書かれていました。


皆様ご存知でしたか?
新九郎さん(宗瑞)が駿河へ下向したのは、京で政治的失脚をしたため だというのです。


それは、森幸夫氏の「第1章 ー大森氏と伊勢宗瑞の時代ー」に書かれています。以下はほぼ本文よりの抜き書きですが、まだ読んでらっしゃらない方は是非本をご覧くださいませ。

余談ですが、小田原城が八幡山古郭から同心円状に発展してきたのではないということを私が初めて知ったのは、森氏の論文でしたわ。


ほにゃ、話を戻して。

🐎 宗瑞の失脚の原因は、新九郎さんが 将軍足利義尚と六角氏の申次をつとめていた ことにある

新九郎さんが六角さんとの申次だったということは、六角さんから将軍への高級瓜のプレゼントを新九郎さんが取り次いだりしている記録などから分かるそうです。


長享元年。
新九郎さんが駿河で小鹿一派を討ち氏親さんを当主にすえた頃、京では義尚が六角討伐のため近江に在陣している。


ところが、六角討伐には奉行衆だけでも300名以上が従軍しているのに、新九郎さんは駿河にいるので当然のことながら六角討伐には参陣していない。


そんな事態の時に義尚側近の新九郎さんが駿府への下向を上様に願い出られるわけはない。ということは、六角氏との関係で新九郎さんはすでに申次を解任されていたのではないか。これは、事実上の失脚である。


だから新九郎さんは姉上北川殿のかねてからの依頼もあり駿河へ向かったのだ。


これが、新九郎さんの戦国大名への第一歩となるのであ~る。

解任してくれて、おおきに、義尚殿!
(えっ、そう?)


🐎 駿河へ下向し氏親を当主にする

・そもそも新九郎さんは、小鹿を討つという明確な理由があって駿河に行ったのではない。駿河で姉上親子を支援する中で首尾よく小鹿を滅ぼしたのである。

・「もし盛時が、甥氏親を今川氏家督にするため駿河に下ったとするならば、足利義政から氏親への安堵がなされた文明11年から八年も後の長享元年、しかも将軍義尚の近江在陣中に、なぜ、それを実行したかが説明がしにくい」。(言い回しが難し~ のでそのまま書き写させていただきました。)


「義政からの安堵」というのは、龍王丸(氏親)のパパ義忠が戦死した後、当時の将軍義政が龍王丸が義忠の遺領を相続することを認めたアノ御内書です。

ほとんど忘れていたので、小和田先生の『駿河今川氏十代』(吉川弘文館)のこのへんのページを再読してみました。


小和田先生はこの御内書は、家中が混乱し北川殿と龍王丸も小川へ隠れ住んでいる状況の中で、龍王丸が義忠の正式な跡継ぎであることの証明が欲しく、新九郎さんが幕府に働きかけたとしていました。

安堵状が出た後、新九郎さんは京へ帰ったとされています。


🐎 将軍義尚の死去

義尚の病死(近江陣中)にともない新九郎さんは再び上洛し、次将軍義植の申次となります。新九郎さんの本籍はまだまだ京都ですが、駿河と行ったり来たり。そして、義植の六角征伐には参陣していないそうです。


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~北条ファンは道路のタイルも撮る~


🐎 伊豆への侵攻は京の幕府との連動ではない

これについては池上裕子氏も 2017年に書いてらっしゃったようなのですが、マリコ・ポーロの手元には無く確認できていません。


新九郎さんの伊豆への侵攻は、細川が将軍を義植→義澄とした「明応の政変」を契機とはしたが、新九郎さんの主体的軍事行動である。なぜなら…

・新九郎さんの伊豆侵攻を支援した(とされている)葛山氏が、新将軍の義澄の代初めの欠礼を幕府にとがめられているから。

伊豆侵攻がもし幕府の指示なら、幕府から欠礼をとがめられることはないはず。


・幕府が、奉公衆クラスの新九郎さんに公方である茶々丸の討伐を指令することが想定しにくい。

・新九郎さんと義澄との関係も薄い。

あ、このくだり、前にどこかで読んだか聞いたかしたような気がする~。その時、一瞬アレッ?と思ったのですが、そのまま忘れていました。


ゆえに、新九郎さんの伊豆侵攻は幕府の働きかけを介在させる必要はないそうです。ただ、同本では、小和田先生はじめ他の著者は、宗瑞の伊豆侵攻は幕府との連携であると書いてらっしゃいます。


(翌日加筆。
また、もし新九郎さんの主体的軍事行動としたら、その理由はなんなのでしょう?伊豆をゲットしたかったから?茶々丸は現将軍の仇。討伐したとて幕府からとがめられることはないだろうって?

黒田基樹『戦国大名・伊勢宗瑞』には、荏原荘からの収入だけでは伊勢家は成り立たなくなっていたから…と池上裕子氏が書いているとありました。そして、宗瑞の伊豆奪取には上杉もかかわる複雑な背景が書かれていました。マリコ・ポーロ の知識ではブログにまとめられないので、興味ある方は本の方を読まれてみてくだされ。)


それにしても、以前は、宗瑞は独自で伊豆を奪取とされていて → それが少し前に、義尚の承諾を得て幕府の指示で伊豆へ侵攻したとなり → またまた宗瑞が独自で行ったことなのではないか?に戻った(または以前からその説は続いていた?)のですか。

逼塞していても本を読むだけで ドびっくり~😠! が次から次へと発生するものです。

どしたらエエの?


▲ 宗瑞時代の駿府・今川氏のブログ記事の一部
「駿府 「臨済寺」の特別公開」
「今川時代の駿府 「吐月峰 柴屋寺」」
「駿府で暮らした早雲の姉と北条氏規」

「宗瑞を圧迫した立役者、赤沢朝経~家永遵嗣氏 講演(2019.12)」
「小田原北条の始まりを告げた城 「韮山城」 シンポジウム(2015.1)」

「早雲寺 「北条早雲画像」の曝涼 2010」
「北条氏綱像」は後世に改変されたのか?」

「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」

「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏「願成就院」」
「早雲が最初に賜った城は、三国同盟の城?」

▲ 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女たちのこと
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」

▲ 以下は2009年の知識で書いたものなので、そのへんのところ甘~い目でご覧いただけたら嬉し。当ブログは北条氏照ブログとも言われますが、思い起こせば、新九郎さんから始めたのでした。

「ディスカバー 伊勢新九郎の相模へ」
「伊勢新九郎 湘南ボーイへの道」
「‘元祖 義’ 伊勢新九郎の韮山へ」
「伊勢新九郎さん in 駿河の巻」
「伊勢新九郎さん 伊豆で温泉にはいるの巻」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年11月 8日 (日)

虎朱印 の「虎」の由来は?

マリコ・ポーロ


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~黒田基樹著『戦国北条家の判子行政』2020.10.15 平凡社新書(布は歴友さんにいただいた鱗柄のスカーフ) ~


その前に、お詫びと訂正。

▲ 滝山城の講演会のお知らせブログに載せた、本丸の南側の虎口の「石」の写真のこと

ブログに「門の跡」かもしれないと書きましたが、どうも違うようです。そこは少し急なので、かつては自然石を置いた石段になっていたそうです。表面観察しか出来ないのでシカとは分からないが、今はその石はほとんど埋まってしまったので、その一部が出ているのかもしれないかもしれないとのことです。


また、本丸の下段から上段に上る神社の左側、中の丸の虎口、大手口と言われている天野坂、山の神への途中の坂などの急坂には、同じく石段があった様子だそうです。城の遺構はほとんど残っているので、廃城後は手を加えられていないのではないか?と。

もし、もし、当時の石段だとしたら、本丸の虎口の説明板 ↓ (ボケボケ写真でスミマセン)と同じような感じだったのですかね~

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先のブログ記事はコッソリ💦 修正しました。そこにも書きましたが、ご興味ある方は是非ぜひ滝山城へ行って見てみてくださりませ。あ!掘っちゃアカンよん。


では、本題。

黒田基樹著『戦国北条家の判子行政』2020.1015(平凡社新書) を読みました。

読んでいて思いました。
小田原北条が始めた日本の判子文化も、今消えつつあるのか…と。そして、判子文化をはじめ現代に続く様々なシステムの基礎を作った小田原北条は、やっぱり凄いとあらためて思いました。


なのに先日のNHK『ザ・プロファイラー』では、「関東の治安を乱す氏康」とか「坂東で北条氏康が略奪した土地を謙信が取り返してあげた」とかしか言われていなかったのは残念…。

今週のBS6『にっぽん!歴史鑑定』は、「小田原攻め 秀吉の野望vs北条一族の誇り」。あまり期待しないで楽しみにしています(?)。


話を戻し…

ずーーーっと考えていることがあります。

小田原北条家の虎の印判は、なぜ「虎」なのだろうか?「虎」はどこからきたのだろうか?

当時の人は、実際の虎は見たことがないですよね。


『北条記』に、有名な宗瑞の夢の話があります。

2本の杉の木をカジカジしていた鼠が、大きな「虎」になる。それで「虎」にしたのではないかという説がありますね。(黒田氏の判子の本にはさすがにその夢のことは書いていない)。


虎の印判が使われ始めたのは宗瑞死去の11年前の永正5年からのようですが、

🐯 もし夢から取ったとしたら、この夢の話は本当のことなのでしょうか?本当に宗瑞がその夢を見て印判に「虎」を使ったということなのでしょうか?

🐯 それとも、なぜかは分からねど「虎の印判」が先にあり、『北条記』を書く時に、夢に印判の「虎」をこじつけて登場させたのでしょうか?


宗瑞の干支については、夢に鼠が出てきたから「子年」とされているのですよね? だから、夢の話は本当の話なのでしょうか?

ちなみに、氏綱は未年だと思いましたので、「虎」とは関係ないですねえ。


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~マリコ・ポーロ家の「猫」朱印~


この本は、虎朱印の「虎」がどこからきたのかを知りたくて買いました。それは書いてありませんでしたが、納税、裁判、市場関与、公共工事、そして、「お国のために」の使われ方などなど、北条が好き好きと言いながら今まで気にしなかったことが書かれていて、とても勉強になりました。

一回読んだだけでは不肖マリコ・ポーロには全然把握できなかったので、もう一度読みます。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年3月24日 (火)

追記~北条氏康の長男と北条家和歌短冊集

マリコ・ポーロ


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タイトルの北条家和歌短冊集とは「喜連川文書」にある『足利義氏等和歌』のことです。東大の史料編纂所に写本があります。北条ファンでは有名な和歌集ですが、いつのもので、どういうものなのか、今更ながら知らなかったということに気が付きました。

手持ちの本々やペーパー類を見ても、検索をしても、ヨッシー(義氏)の代に収められたということと、黒田基樹著『瑞渓院』(P78)の写真しか分かりません。図書館は閲覧が出来ない状況です。ご存知の方教えてください。


なぜ知りたいかというと…

前回のブログ記事で、16才で天に召された氏康の長男、新九郎くん(氏親か?)のことを書きました(文末添付)。新九郎くんが頭から離れずにいると、昨夜のこと、北条師匠から「氏親」の署名の画像がメールで送られてきました。かたじけのうござる。眺めながら、この和歌短冊集のことを考えました。


ブログにも書いた新九郎くんの実名のことですが、黒田基樹氏の数冊の本によると、実名が「氏親」だということは次の2点から分かったとされています。

① くだんの『大宅高橋家過去帳』」(公開資料ではない)に、天用院殿は「実名新九郎氏親云」とバッチリ書かれている。

② ヨッシーの代の、この和歌短冊集『足利義氏等和歌』に、「氏親」含め誰だか分からない人が3人いる。

ゆえに、①と②を合わせて、氏康の長男=新九郎さん=「氏親」である。


和歌短冊集に収められている和歌は、いつ、どうやって集められたのでしょう。


▲ 妄想1
ある時(いつ?)歌会が開かれて、その時の和歌をまとめられたものなのでしょうか?

・ 新九郎くんが亡くなったのは、天文21年3月
・ ヨッシーが公方に就任したのは、同年12月

なので、それはないですかねえ。


また、収められている和歌の詠み人は、
~ 氏康・氏堯・氏光・氏忠・氏親?・氏政・氏照・氏規・氏邦・氏直・氏能?氏冬?・範以(今川)~
です。

ジジ氏康が他界した時に国王丸(氏直)くんは9才位ですから、まだ歌は詠めない…ことはないですが、今川範以にいたっては生まれたてホヤホヤ~ぐらい。これらの13人で一緒に「歌会」は不可能ですな。


ということは…

▲ 妄想2
和歌短冊集は、ヨッシーの代に、以前に集めた和歌の数々を編纂したものなのでしょうか。


ヨッシーこと足利義氏は、若くして生涯を終えてしまった氏康殿の亡き子息を悼み、彼が残した歌も一緒に収めたのでしょうかねえ…。


「今日(3/21)は、北条氏康の長男の命日です」
「小田原城のライフスタイルと饗応の膳」


🎠 ぜんぜん関係ないですが、今日は景虎さんが鮫ヶ尾城で果てた日です…。

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2020年3月21日 (土)

今日(3/21)は、北条氏康の早世した長男の命日です

マリコ・ポーロ

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~早雲寺と門前の桜。北条歴代当主とその正室、そして、氏康・氏政の早世した嫡男たちの菩提寺でもあった。~


北条一族で、ついつい忘れがちですが、時々思い出しては気になる人がいます。その人は「新九郎」くんとおっしゃいます。

新九郎くんは氏康の長男で、氏政の 2-3才 上の兄上になります。亡くなったのは、天文21年3月21日。16歳で天に召されました。


元服したのは亡くなる前年の末あたりとされています。急な病だったのでしょうか。

実名は、近年の研究では「氏親」とされています。もしそうだとしたら、母である今川の瑞渓院の父親の名前、つまり祖父と同じ名前です。今川を大きく発展させた当主にあやかったのでしょうか。次代当主として嘱望されたであろう矢先に命尽きるとは…可哀想でしたねえ。


天文21年といえば、上杉憲政が越後の謙信君の元へ行った年ですね。パパ氏康は上野への侵攻を進め、謙信君も越山。また、氏康の妹芳春院の子である足利ヨッシー(義氏)が、古河公方に就任。前年、ヨッシーのパパはるる(晴氏)と氏康は、一応和睦したんですね。(このあたりのことは先のブログ「北条五代の娘たち」の芳春院のところで書きました。)

新九郎くんが此の世を去ったのは、そんな頃です。


その容貌ですが、以前ブログにも書きましたが、数年前に「馬の博物館」で公開された謎の少年像が新九郎くんかもしれないかもしれないそうですよ。朝倉直美氏が検証され、その可能性があると講演会でおっしゃっていました。

なかなかイケメンで、少し憂鬱な表情がかえって魅力的。そうだったらいいな~~。


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~桜々の滝山城(2013年)もしかしたら氏政の城だった…わけないね。~


氏照の少年時代を妄想する時、松千代丸くん(氏政)& 藤菊丸くん(氏照)&助五郎くん(氏規)&乙千代丸くん(氏邦)の4人だけの絵面が脳裏に浮かびます。しかし、本来は新九郎くんを入れた5人が兄弟として過ごしていたのですね(景虎さんは新九郎くんが亡くなってから生まれた)。

もし、もし、新九郎くんが生きていたら、彼らの構図はどうなっていたでしょう。氏政さんは、どこかの支城を任されたはずです。どこかしら?順繰りにズレたのかな。それともパパ氏康がそれぞれの資質に合った地を選んだか。


氏政&氏照の最強ペアは、新九郎くん&氏政ペアになっていたでしょうか。いや、やっぱり政&照ペアは不動で、照は政を当主につかせるために……

なーんて、Black、ブラック。。。


新九郎くんが存命で四代当主になっていたら、氏政さまの生涯に渡るストレスもまた違ったものになっていたでしょう。そして、当主が違えば、小田原北条もまた違う方向に向かっていたかもしれません。

考えても詮無いことですが…。


法名は「天用院殿」。墓所の天用院は早雲寺にあったそうですが、早雲寺一帯は秀吉に焼かれたため跡形もありません。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

少年像が馬の博物館にて公開された時のブログ記事です。
「謎の北条家少年像~馬の博物館(2017年)」

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2020年3月 6日 (金)

「北条氏綱像」は後世に改変されたのか?

マリコ・ポーロ


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~小田原北条二代当主 北条氏綱 花押~


ここ数日、北条氏綱の肖像写真をずーっと眺めています。

知りませんでした…
改変された痕が、いくつかうっすらと透けて見えるそうですね。


昨年より末席に参加させていただいている「小田原北条の会」での鳥居和郎氏(神奈川県立歴史博物館/小田原市文化財保護委員)の講座でチラと小耳にはさんだ、氏の研究ノート『北条氏綱像の改変についてー北条早雲像、氏康像、時長像などとの比較からー』(2016年) を拝読。

改変されたと思われる細かい点と、改変の時期とその理由、改変前は何だったのか…などが検証されていました。昔からバランスの良くない絵だとは言われてはいますが、びっくり&色々納得。


ただ、鳥居氏も書かれていますが、たとえ改変されたからといっても、改変が良くないとか氏綱公へのリスペクトがないということにはならない、ということは最初に書いておきたいと思います。


▲ 北条氏の肖像

当ブログを読んでくださっている皆様はとっくのとうにご承知のことですが、北条一族で現在のところ分かっている像は、宗瑞・氏綱・氏康・氏政・氏直の五代と、幻庵殿の子息である時長、そして、数年前に発見され話題となり「馬の博物館」で展示された謎の少年 の7幅です。


それぞれが描かれた時期は…

(宗瑞)晩年、または没後すぐ
(氏綱)没後わりとすぐ、又は、寛文十年頃に土佐光起により描かれた(小田原開府五百年より)
(氏康)没後わりとすぐ
(時長)没後しばらく経ってから、作風や装束からして氏康没頃か?
(氏政と氏直)寛文年間に玉縄北条の子孫である北条氏平が土佐光起に描かせ、寄進した

とされています。


氏政と氏直像は没後80年位経った江戸時代に描かれたものなのでチト置いておいて、氏康、時長、謎の少年像は作風も装束も似たようなイメージです。氏綱像が明らかにこれら3像と違うのはポーズと装束です。凄く違う。


ポーズは前のめりな感じで、他の戦国武将像でもこのようなポーズは見たことがありません。装束も、ジミ~~~。いくら質素を旨とする北条家でも地味~すぎ。

だいいち、直垂と袴の色が違う。氏綱公のお好み?刀も貧相(刀よく知らない私感)。なんだか阿弥衆みたい。なんで氏康は父上の肖像を描くのにこんな地味~な装束にしたんだろう?ご自分はオシャレな肩身替わりの小袖なんか着ちゃっているくせに。

なにより、口元が妙。これは後世に修復でもして、その時に修復が失敗しちゃったのかな?

などと、ずーっと思っていました。


研究ノートの マリコ・ポーロ がビビットきたところを以下に写させてていただきますが、詳しく、正確に!知りたい方は『神奈川県立歴史博物館研究報告ー人文科学 第43(2016)』を。


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~氏綱印判「郡」~


さて、今私は肖像画を見ながらこれを書いております。ここに早雲寺さんの許可なく肖像画を載せるわけにはいかないので、皆様も是非お手持ちの肖像をご覧くださりませ。


▲ 改変の可能性のある箇所について

① 坐り方

・中世の武家の坐り方は「胡坐」が正式なのに「正座」である。「正座」が正式となったのは江戸時代から。
・両ひざの間にうっすらと描線が見え、位置から見ると「胡坐」の描線とみられる。
・直垂の絵の具が薄くなっている部分には畳の絵の具が透けて見える箇所がある。


坐り方については、早雲寺さんでも「正座」に書き直していると見ているようです(早雲寺図録)。 武田勝頼とか真田信繁の像は正座ですが、これらは正式な場面ではないからなのかな…。

・また、マリコ・ポーロの疑問の直垂と袴の色が違うことについては、「正座に改変された時に塗り直されたからであろうか」とありました。


② 風折烏帽子

・氏康像に比べてかなり省略されている。
・烏帽子の前部が、前頭部の輪郭線と重なっているのは不自然。

そう言われてみると、氏綱公の烏帽子はかぶって(のって)いなくて、縁部が張り付いているようです。まさかの、絵師がヘタとか…。


③ 肩のライン

・左肩より右肩がかなり上がっている。
・右肩より下がった位置に輪郭線が見え、改変されたことが分かる。元の輪郭線だと左右ほぼ同じ高さ。

うーん。写真では輪郭線は見えぬが、もし改変されたとのだとしたら、左右の肩の高さを違えた理由はなんだろう…?


④ 扇

・宗瑞や氏康や時長や謎の少年像のように握っておらず、人差し指と中指で挟み込んでいるよう。
・同じく4像のように親骨が明瞭に描かれておらず、絵柄も不自然。

そう言われて見ると、親骨が無いです。妙な(チャッチイ)扇ですな。ヒラヒラし感じ。しっかり握っていないし。やっぱり絵師がヘタクソ?
(^^;


⑤ 袖の先
たいがい、左の袖の先端が上の方にハネ上がっている。

・元はハネ上がっていたようで、上畳の彩色の下に元の線がかすかに見える。

そう言われてみると(←また💦)、氏康・時長・謎の少年、みなハネ上がっていますが、江戸時代に描かれた氏政・氏直の袖はハネ上がっていませんね。


⑥ 刀

・氏康も時長も謎の少年も腰刀だが、氏綱は脇差。
・柄&鞘口と鞘尻との曲線がつながらず、曲線が不自然。
・鍔がない。

つまり、もともと脇差は描かれておらず、後から脇差を書き加えた。だから、鍔を描くと親指と重なってしまうから鍔も描かなかった。


ホントだ!他の3像は立派な目貫や笄が描かれているのに、氏綱公のさびしい~。


⑦ 直垂

・胸紐や袖露が無い。
・腰の後方の膨らみの位置が不自然で輪郭線も他より細い。


以上が改変の可能性がある箇所についてですが、じゃあ、改変、改変って元はなんなの?ですよね。

例えば、烏帽子。時代としては烏帽子を被らない風習が徐々に広まってはいるが、当主の肖像としてある程度の格式が求められたであろうから露頂で描かれた可能性は少ないと。


で、烏帽子や脇差があとで描き加えたとするならば…


「もとの像は俗体像ではなく法体像だったのであろう」


▲ 宗瑞像との比較

北条家に限らず、没後何十年も経ち当人を知る人が誰もいなくなってから肖像や銅像を作る時は、故人の親族の面差しを元に作られることが多いですよね。氏綱の親族で法体像といえば、父親の北条早雲こと伊勢宗瑞です。


研究ノートでは、宗瑞像と氏綱像の頭部の大きさをそろえた画像などから二人を比較しています。以下。

・氏綱の瞼の輪郭線はかなり後世の手が入っていて当初の状態は確認できない。
・マリコ・ポーロが気になっていてチト妙だった氏綱の口については、やはりこの部分も描き直されていて当初のままではないことが分かる。

また、
・宗瑞には髭が無く、氏綱にはある。また、宗瑞には皺があるが、氏綱にはない。つまり二人の年齢が描き分けられている。
・二人の顔の各部位の位置がほぼ同じであるため、顔の印象が極めて似ている。


つまり、「氏綱像の制作にあたり早雲像が土台となったことがうかがえる」と。


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▲ ほな、なにゆえそういうことをしたのだろうか?

それは、天正18年、おサル…いや、秀吉殿によって早雲寺が焼かれた時に「氏綱像は失われてしまったとみられる」からとな。

以前、早雲寺の曝涼の時に伺いました。宗瑞の肖像が無事だったのは、お寺の方が持って避難させていたからそうです。箱書きとか書付とかはあったのかともお聞きしたところ、それは無かったけれど、早雲寺初代&二代の住職の頂相と一緒にあったから宗瑞に間違いないとのことでした。


もし鳥居氏のご研究の通りでしたら、氏綱公の肖像は避難させなかった(避難できなかった)のですかねえ。もしくは、避難させてはいたが、戦後のドサクサでどこにいったか分からなくなってしまったとか。

だとしたら、いまに突然どこかから発見される可能性もありますね!お顔も全然違って、宗瑞似ではなく氏康系のお顔だったりして。もしそうだとしたら、ですが。


やっと最後。いつも長くて恐縮です…

▲ 『北条五代記』に書かれた氏綱像のこと

五代記に書かれていることが本当なら、江戸時代になってからのことですが、かつて北条家の家臣だった三浦浄心が早雲寺を訪ね氏綱像を拝したようですね。


そこにはこうあるそうです。
…俗体にして白衣の上に掛羅をかけ、顔相にくていに書り、物すさましく有て、てきめんにむかひかたし、子細有ゆへにや、荒人神のように…


「俗体」ですか。「白衣」の上に「掛羅」をかけているのですか。掛羅(から)とは、お坊さんが両肩から前に垂らしている四角い布ですよね。宗瑞や謙信君が肖像でまとっていますね。俗体で掛羅だと、朝倉義景や信玄パパ信虎の肖像が思い浮かびます。

「にくてい」(憎体)= 不敵な面構え ということで、研究ノートでは、「早雲像の方が相応しいように思える」としています。


「白衣」とはなんだろう?白の直垂?それとも夜着?夜着なら烏帽子も脇差も付けないですよね。病に伏してから、夜着の上に掛羅を付けて肖像を描かせたのでしょうか?そんなことあるかな。武将の肖像としてはチト弱々しいですよねえ。

研究ノートには、この場合の「白衣」は白色の着衣ではなく、着衣に彩色が加えられていなかったので衣を「白」としたのではないかとありました。なるへそ~。


つまり…

浄心が拝んだ「氏綱像」は彩色がされていない白描の肖像で、それは、不敵な面構えからしても「早雲像であったのかもしれない」。

烏帽子や脇差を後で加えた可能性があり、お顔も早雲像とよく似ていることから、「早雲像の模本があり(氏綱像が残っていなかったので)それを氏綱像と見なしていたのかもしれない」。そんな中で氏綱像も必要とされ、「父早雲像の模本(おそらく白描)などを土台として制作されたのではなかろうか」と。

そして、この研究ノートは、外見を中心とした考察であるので、今後、科学的手法による精度の高い検証がされることを期待するとしています。


ただ、マリコ・ポーロ思うに…
もし早雲寺や一族の子孫が改変したとしたなら、このような地味~な仕上げにしただろうか?氏康と並んで遜色がないようにしたのではないだろうかにゃ?

それとも、北条家の質素倹約の見本として地味~にしたのか?不思議なり。

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時代は落ち着き、寛永・寛文の世。早雲寺、小田原藩、狭山北条家、旧玉縄北条家などによって早雲寺が復興されます。氏政と氏直の肖像も描かれ、現在の北条五代の供養墓も造られることになるのです。


最初にも書きましたが、たとえ改変したからといって、改変が悪いとか氏綱公へのリスペクトがなかったということではないと思います。

氏綱公の肖像がない。肖像が欲しい。なんとかして肖像を作りたいという想いからなされたのでしょう。


鳥居氏も最後に書いてらっしゃいます。

「…氏綱像が早雲像を土台として制作されたとしても、肖像が果たす精神的な役割を念頭において制作されたことは言うまでもなく、氏綱像は数百年にわたり二代当主の肖像として尊崇されてきた。この点において今後も氏綱像が果たす役割と重要さは変わるものではない。…」


今年の秋は久々に早雲寺「曝涼」に行き、氏綱公のご尊顔を拝そうか。


「早雲寺 「北条早雲画像」の曝涼 2010」
「今日は北条早雲こと伊勢宗瑞の命日」
「「早雲 足洗いの湯」 箱根湯本」


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2020年1月17日 (金)

発掘ヶ所は 124!~戦国ワンダーランド小田原

 マリコ・ポーロ


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~小田原城で剪定された梅一枝いただき氏政さまと飾ってみた~


時々ブログに書いておりますが、昨年の夏以来ほぼ毎月参加させていただいている「小田原北条の会」の講座。昨日はおなじみの土屋健作氏による、今まで行われた小田原市内各所の発掘調査についてでした。先月は佐々木健策氏の「御用米曲輪」で、小田原の「ダブルけんさく さん」が続きました。


その前、12日には杉浦平太夫邸の発掘調査を見学して参りました。かながわ考古学財団と小田原市との共催で、内容は▲現場説明 ▲杉浦邸の概要と遺物説明 ▲江戸時代の銅門などの現地説明 の三鱗で盛りだくさん。みっちり濃厚。面白かったです。

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~腐食痕たっぷり付きの、るつぼ~。がたくさん出てきているそうですよ。~


さて4日後。再びの小田原へ。

小田原市内での発掘ヶ所は、その数なんと!
124 !

知ってはいたものの、あらためて資料でそれらを示されると圧巻。配布されると皆さんから ド・ヨ・メ・キ が。さすが我らが大途の本城。凄いですねえ。市内を歩いていると、同時多発、アチコチで発掘に出会いますが、現在も数ケ所で行われています。我が町でもそうですが、今、家の建て替えラッシュですもんね。


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「この調査地点の中に、ご自分の家がある方いらっしゃいますか?」
お一人いらした!
「ではそこをアップにしてみましょう」

うぉぉっ!なんですか!このソフト!
だんだんアップになるにつれ、ついに障子堀が現われた!どんどんクローズアップ出来るのはスマホでなんでも普通なので分かりますが、地下遺構まで現われるとは!どよめきアゲイン。

この場所はとっくに調査が終わりすでに上に建物も建っていますが、そんなところにお住まいだなんて、なんと羨まし~~。というか、どのおウチもビルも北条時代の城域の遺構の上にあるのですから当たり前といえば当たり前。


お話しの内容は、「最新のこと」と「まだ皆さんにお伝えしきれていないこと」。124ヶ所全ては到底無理なので、主なところの詳細をこの素晴らしいパワポで説明してくださいました。

画面に次々と現われる迫力ある堀や土塁。調査地点地図と合わせ見て、脳内に広がるのは戦国時代後半の小田原の姿。そのワイルドでスペクタクルでダイナミックな光景に、しばし忘我の境地。あ、今、会議室にいるんだよねっと我に帰る。


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この景色は氏綱公や氏康殿は見ていないのだよね~。が、しかし、天正18年の日本中の戦国武将達は見たはず!みんな、「凄い、凄い」って記録にもっと残しておいてほしかった…。いや、残したのに無くなってしまったのか、廃棄したのか…。

もし、これらの遺構を全て表に出したままなら、小田原市はディズニーランドに負けないぐらいのワンダーランドになるでしょう。広過ぎてそんなことしたら生活圏が無くなっちゃうから無理ですが。


お話しは非常に興味深く、数十人で聞いているにはもったいない。と思ったら、毎年恒例の遺跡調査発表会で、今年はこれらの報告があるようです。「いらして損はないと思いますよ~」と。

小田原市では学芸員さんなどがこういう市内で行われる少人数の講座や勉強会にも協力してくれるんですね。しかも内容も濃く熱い講演ばかり。まあ、我が町でもそうなんでしょうが、なんせ血湧き肉躍る史跡が皆無な地域なもので…。


講座のあと、なんだか無性に堀や土塁を見たくて新堀から板橋方面へ堀沿いに右に左に寄り道しながらずーっと下りました。歩数は約1万4千歩也。

「小田原北条の会」では、このような講座を月一回催しています。ビジターも大歓迎ですが、会員も募集中。


小田原北条の会の講座記事の一部です ↓

「「北条の 城郭(支城)ネットワーク は本当にあったのか?」鳥居和郎氏」



萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2019年11月26日 (火)

玉縄城下の探索会へ(2019.11)

マリコ・ポーロ

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~玉縄城下にある「玉の井戸」。氏繁の室、七曲殿がお茶に使ったと伝わっている。~


昔、鎌倉の水は山の方へ行くと鉄分が多く、海の方へ行くと塩分が強いというもので、鎌倉は良質な水に恵まれない土地だったそうな。それで「鎌倉十井」などと言われるように井戸が大切にされたそうな。

この「玉の井戸」は鎌倉十井ではないが、七曲殿 がお茶に使う水を探していたところ重臣の井戸の水が美味しかったため、七曲の館から毎日汲みにこさせていたと言われているそうな。



七曲殿 とは、北条氏康の娘で、玉縄北条の綱成の息子氏繁の室であった 新光院殿 のことである。城内に「七曲」という場所があるが、そのあたりに屋敷があったのでそう呼ばれたとされている。

井戸の水は玉のように美味しい水だったので「玉の井戸」と名付けられたそうな。井戸には特に案内板などはなく、個人宅の所にある。


ということで、玉縄城址まちづくり会議 さんが主催する「玉縄城まつり」の、玉縄北条研究ではお馴染みの大竹正芳氏の案内による玉縄城址探索会に参加しました。城内へは入ったことがありますが城まわりを案内していただくのは初めてで、色々と興味深い発見がありました。

行事は、まずは玉縄北条六代の菩提寺龍宝寺本堂での北条早雲没後五百年の法要が営まれ、次に寺内の古民家にて、同じく玉縄初め逗子や鎌倉など三浦半島の戦国時代研究ではお馴染みの伊藤一美氏が、玉縄北条六代についてしみじみ~と(?)お話しされました。続いて上泉信綱の流れを組む新陰流の、身が引き締まるような演武がありました。



🐎 探索会に出発!

玉縄城・玉縄領の機能や歴史や玉縄衆については皆さんの方が詳しいと存ずるし、どこにでも書いてあるので割愛。玉縄の舟運のことや柏尾川の舟溜まりのことは、追って、いずれ、いつかは、以前の講演で伺ったことを書きたいと思います(思ってばかりで全然書かないけど)。



上にも書きましたが、玉縄は、城内にはガイドツアーで入ったことがあるのですが(文末添付ご参照くだされ)城下は初めてです。玉縄に限らず岩付や葛西のように住宅街になってしまっている城跡は多く、そういうところは教えていただかないとどこがなにやら分かりません。城跡歩きの強者は古地図や絵図面を見ながら住宅街を、なるほど、なるほどと歩かれますが、城郭に不得手で、その上、超ド級の方向音痴のマリコ・ポーロ にはトント無理。


▲ 七曲坂

ご存知、鎌倉側から城内に入る口で、七曲殿(新光院殿)の屋敷があったとされるところでもありますね。

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8年前の写真が ↑ です。建物に遮られておらず、また、階段ではなく土の坂でしたので往時の雰囲気を想像できるい~い感じでした。今は階段や幼稚園やマンションが出来、下から見上げる景観が随分と変わっています。 でも、階段になったおかげで、この日のような雨の日も快適に登り降りができるようにもなりました。

マンションのところに公園を造ってくれていて、そこにマンション建設時の発掘調査のことが詳しく書かれていました。是非読んでくださいと、大竹氏。


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七曲階段(?)は突き当りを右に行くようになっていますが、それは新しい道で、旧道は左へ行って太鼓曲輪へ至るそうです。侵入禁止の柵がありました。


▲ 太鼓曲輪

玉縄城の往時を偲べる、自由に入れる唯一の場所です(あとは学校や個人の敷地裏などなので所有者がいらっしゃいます)。七曲坂からの旧道を行けないので、右側から廻り上がります。

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太鼓曲輪からは、南側の下に硝煙曲輪の平場を見ることができます。探索会では硝煙曲輪に降りることになっていましたが、雨で足場が悪くて行けず残念なり。

太鼓曲輪も個人のお宅の畑だったそうですが、玉縄城を訪れる人達が自由に入れる遺構がないため、地主さんと契約をして入れるようになったそうです。ありがたいです!

七曲坂の旧道は、太鼓曲輪の南側の堀切の堀底を通り、尾根の反対側の曲輪に出るようになっていたそうです。


▲ 城主の館

発掘調査により分かった門の跡や、木が生い茂って見えなくなっている堀の跡や、残った家臣のオウチなどを教えていただきながら、学校の周りの住宅街を坂を登ったり下りたりグルグル歩きました。学校が出来たことを嘆く方もいますが、私はむしろ学校が出来たことでかろうじて残った城内遺構があるのだと思っています。学校がなければ、これら全部宅地開発されてなんも無くなっていますよぉ。



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城主の館があったとされる場所には、こちらもド真ん中にマンションが建っています。発掘調査では、池跡や、なんと並木道跡も出てきているそうですね。

並木道!
綱成ったら、すてき~☆ いや、氏繁かもしれんが。趣味人だし。

たまに氏康殿と轡を並べ、「孫九郎、この並木道はよいのう~(並木道と言ったか?)。小田原にもほしいものじゃ。」「はっ。お褒めに預かり恐悦至極」なーんて、鎌倉街道下道から → 池を眺めながら並木道を通り → 七曲を上り → 城内に入っていったのでしょうねえ(黄色い矢印)。

あ!妄想してたら伺い忘れた。並木道にはなんの木が植えられていたのでしょう?


▲ もっと妄想ですぅ~

(その1)
早世した為さま(為昌)は、その勢力拡大を懸念した兄氏康・綱成ペアによって抹殺されたのではないか…。
これは、歴史師匠や歴友さんたちでもけっこう言う方が多いです。


(その2)
綱成は氏康の腹違いの弟、つまり氏綱の息子だったりして…?
以前にも書きましたが、色々かなり特別扱いされていることが多いので、フト、身分の低い女人とかの所生だったのではないのかにゃ~と思った次第。なんの根拠もありまへん。

ほな。

萩真尼 こと マリコ・ポーロ


🐎 以下、玉縄城についてのブログ記事の一部なり

「玉縄城-1 現代の難攻不落の城へ」
「玉縄城-2 現代の難攻不落の城」
「玉縄城-3 現代の難攻不落の城」

「玉縄主催セミナー 「まだナゾだらけ戦国時代の鎌倉」」

「玉縄城の歴代城主の法要が営まれました」
「為さま(北条為昌)の菩提寺探しに、お助け本が!」
「玉縄城主・北条為昌の菩提寺で、ビビッきた氏綱ご正室の出自」

「前編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の謎」
「後編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の、謎」
「玉縄城主・北条為昌の菩提寺で、ビビッときた氏綱ご正室の出自」
「香林寺の開基は、氏綱公ご正室?為昌殿ご正室?」


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2019年8月 6日 (火)

「手づくねかわらけ は権威の象徴だったのか?」鳥居和郎氏

マリコ・ポーロ


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「手づくねかわらけ は本当に威信財だったのか? その流通や価値観からみたらそうではないのではないか? かわらけ をもらって喜ぶのだろうか?」

前回のブログ記事で書いた、「小田原北条の会」主催の 鳥居和郎氏 による講演 「北条の城郭(支城)ネットワークは本当にあったのか」での、「イメージをつくってしまうと、それが本当だと思い込んでしまうから…怖い」のお話しの中で鳥居氏がおっしゃいました。


ビビッ!ときたので、論文を拝読しました。『戦国大名北条氏と手づくねのかわらけについて』神奈川県立歴史博物館 研究報告 人文科学 第40(2013年)です。

目からミツウロコ
👀


▲ 
アゲイン


カラオケ♪ …ちゃう、かわらけ や 手づくねかわらけ については、マリコ・ポーロなぞより皆様の方が良くご存知のことだと思いますので省くとして。

手づくねかわらけ は ロクロ成形の量産品とは違い格の高いもので、北条に関しては当初は本城主が生産し、儀礼に使われ、何かのおりに支城主に下賜されるものであり、当主の権威を示すものだ、と私は認識してきました。

ところがギッチョン。


● 手づくねかわらけ は威信財だったのか?

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しょえ~。そんなこと考えたことも読んだこともなかっただ。


そう言われちゃうと、すぐ、確かに~(-_-) かわらけ は使い捨ての食器。素材も単なる土だしね(土物の陶芸家の方すみもはん)と思っちゃうマリコ・ポーロ。

でも 手づくねは、支城より本城からの方がたくさん出てきているし、博物館の展示では特別扱いだし、白だのピンクだのと分類され、なかには年号が入っていたり金箔を貼ったりしているものもありますよねえ。唐物ではないけれど、なんとなく価値高そ~な雰囲気。


論文には、「「権力の象徴」とみることには慎重になる必要があり」「継続的に使用された背景には、当主の「好み」という要素も考慮する必要があろう」とありました。

また、北条の かわらけ の研究は、「発掘資料という性格上、考古学的な手法で分析がおこなわれ…」、「発掘状況からみると、そのような解釈は可能となるのかもしれぬが、他の視点も交えて見ると別のイメージも浮かび上がってくるのではなかろうか。」ともあります。


それが、上に書いた、その流通や価値観からみるとか、かわらけ をもらって喜ぶのか?ということなんですね。元々の 手づくねかわらけ の価値がどれほど~ だったかですよね。例えば氏綱公が今川とか京から 手づくねかわらけ を頂戴して「威信財」と感じるほど嬉しかったのか?

もしかしたら、単なる氏綱様のお好みとして、「お!ちょっと味があって良いのう」だったかもしれない。支城主に与える時にも、「これをそちに進ぜよう」と三宝に載せて恭しく渡したのではなく、「ワシの好みなんじゃが、ちと良いじゃろ~。あげる。」とおっさっただけかもしれない。


でも、いただいた方の息子や孫や重臣達は、大途がくださったものだから大事にしなきゃと思ったかもしれないし。そして、次の世代になっていくと当主や息子たちが支城で儀式を行う時なんかに持ち込んで使うようになった…

あ、イカンイカン。どんどん脳内でイメージがつくられてしまうだよ。


● 小田原での手づくねかわらけ登場のキッカケ

手づくねかわらけ の北条での使用が始まったのは氏綱の頃ですよね。私は、それは、北条の支配が確立し始め、幕府の儀礼の導入や京の武士達の小田原への流入が盛んになったからだと思っていました。

しかし、もともと伊勢家は儀礼の本家本元であり、ましてや将軍の申次である新九郎さんは武家儀礼については専門家。息子の氏綱も、とっくのとうにそれらのことは承知の介。だから、「北条家に手づくねかわらけが登場した契機を、同家が幕府の儀礼を導入することに伴ってとみることは、やや説得量に欠けるところがあるのではなかろうか」と論文にはありました。

確かに~(←すぐ、また)


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~その頃のことは ↑ ここに。「新九郎、奔る!」ゆうきまさみ 小学館。~


では、キッカケはなんだったのだろう?

氏綱様の仲良しイトコ今川氏親さまのところでの手づくねかわらけ の登場は、氏親さまが京から中御門家の姫(寿桂尼)が嫁いできた頃。そして、北条で手づくねかわらけ が登場したのは、氏綱様が近衛さんから後添いをもらわれた頃。


論文には、「このような両家の状況は偶然の一致とは思えないものがある」「公卿家の女性との婚姻が契機となったと考えることも不自然ではない」と。つまり、武家の下向ではなく、公家の下向がそのキッカケかもしれないということですか。確かに~(あっ、イケネ💦)

でも、「裏付ける史料も存在しないため可能性を指摘するにとどめる」って。


むすび

手づくねのかわらけが、清浄な食器(一回使ったらもう使わない)という本来の機能に加えて、北条氏の権力の象徴という評価が行われることについて、

「この評価には、権力者側(北条氏)だけではなく、支配される側もその価値観を共有する意識がないことには成り立たない。… 検出状況からはそれらを読み取ることができず…」。


そして、登場キッカケ状況が類似する今川家では、手づくねかわらけ は定着しなかったそうです。では、なぜ北条家では定着したのか?ロクロ成形も外見を「手づくね風」になっていったので、それらの理由を考えることも重要であるとされています。

ここまで読んでくると、それはやっぱり、おっさる通り、五代当主の「お好み?」って思ってしまいましたが、論文でも「そこには「権力の象徴」というような意識は存在せず、単なる「嗜好」の領域と考えることができるのではなかろうか」。


以上、私がビビッ!ときたところだけを書きました。万が一、勘違い間違いがあると鳥居氏に申し訳ないので、ご興味がある方は論文を読んでみてくだされ。手づくねかわらけの本城から支城間での移動など、もっと色々なことが書かれています。


「戦国時代の「ウズマキかわらけの謎を解く」展」(2011.2.23)

「北条の「城郭(支城)ネットワーク」は本当にあったのか?」(鳥居氏講演)


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2019年7月 1日 (月)

小田原北条家と猿楽の宝生大夫

マリコ・ポーロ

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~『匠明』(しょうめい)鹿島出版会 / 『戦国武将と能』雄山閣~


いささか気になることがあり、戦国時代の猿楽についてチビット調べていたところ、北条師匠が、小田原北条家が贔屓にした宝生家の猿楽師の名前が分かることを教えてくれました。



小田原の芸能集団といえば、まず思い浮かぶのが「舞々の天十郎」。舞々とは神社に奉納する大道芸のようなもののようですが、氏綱の頃から大道芸能者や陰陽師や平家琵琶の座頭などを天十郎に統括させていたと、『戦国武将の居城と暮らし~北条氏康』(下山治久)で読みました。

天十郎大夫は庶民向けとしまして、武家向け(むけむけだね)といえば「宝生大夫」ですよね~。


三代氏康の頃になると、全国から貴賤問わず様々な人達が小田原にやってきます。大和猿楽四座もそうです。天文14年の松原神社の「前庭」での興行の様子が『北条五代記』にありますね。

今まで小田原北条の猿楽にまで興味が広がらなかったので、大和猿楽座の宝生大夫のことも、応仁・文明の乱で荒れた京の都から各地に下り、小田原に庇護を求めた…ぐらいの知識しかありませんでした。


名前が分かるとのことなので、現代の宝生流のHPを見てみました。あら~、ほんとですねえ。出ていますねえ。北条時代の小田原では三代で、「一閑」「重勝」「新次郎」だそうです。

もうチョット詳しいことが知りたいにゃ~と思って、トップの画像の『戦国武将と能』(曽我孝司)を読んでみました。もうチョット詳しいことが書かれていました。


▲ 宝生大夫

それは、『大乗院寺社雑事記』にあるそうです。大和(奈良)の興福寺大乗院で室町時代の三代の門跡さんが記した日記だそうな。

宝生大夫は、まず周防の大内氏の元へゆき、その後各地を流浪し、天文年間に氏綱の元へ来て、子・孫と三代にわたり北条お抱えの大夫となったそうです。


また、『北条五代記』には、宝生だけではなく大和猿楽四座の「大夫達と囃子方がこぞって小田原に下り、生計を立てていたとの記述」があるとしています。以下一部抜粋。

「宝生は北条家の大夫と号し、金春八郎・落観世、金剛大夫……此四座の役者、脇は金春源七、宝生新左衛門、太鼓は三谷大蔵、仁助、威徳三郎四郎、小鼓の美濃意楽、宮増弥右衛門、金春権助、太鼓は奈良新八郎、五野井、笛は彦兵衛、助三郎、狂言は五右衛門、鷺大夫、此人々は小田原にこぞり居て、渡世を送る…」

面白いです~。こぞりて…というか、ごっそりといますねえ。


▲ 八王子

『北条五代記』には、お囃子方の動向がもっと書かれているんですねえ。

「佐藤は太鼓、山室は小鼓、霞斉は太鼓、此三人は三浦三崎に有りて其の芸を教え、嶋屋親子は武州八王子に有りて、近国を行めぐり勧進能して力をすぐる。一不は笛ををしへ、渋谷はうたひををしへ、武州品川の里に居住し、暮松は江戸を栖として、神田明神の祭三年に一度の神事能をまもり…」


ここで、ちょっと待った!
嶋屋親子が、武州八王子ですと!?

初耳ですな。八王子では「宗阿弥」という猿楽師が有名です。相即寺だったか大善寺だったか(うろ覚え~)の、八王子戦の犠牲者過去帳に名前だけがあると、旧八王子城を守る会の重鎮(?)たちに伺ったことがあります。名前だけなので、どういう人物かは定かではありませんが。


そりゃあ我が氏照も戦国武将。そのうえ、「武」だけではなく、初代新九郎さん(宗瑞)の教えで「文」も重んじる北条家の御曹司。猿楽や幸若舞の嗜みのひとつやふたつはあったとは思いますが、歌舞音曲に関する氏照の史資料は私は見たことがありません。笛「大黒」のことも後世に作られたお話ですよね。

氏照については、私信プライベートレター さえ見たことがありませんが…というか、嶋屋親子って誰?


▲ 宝生大夫と小田原「報身寺」

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~お寺でいただいた絵葉書~


ここで、to my surprised、更に驚いたことに…

『戦国武将と能』には、小田原「報身寺」の阿弥陀来迎図(掛軸)は、宝生新次郎さんが天正7年に寄進したもの(鎌倉時代制作)だとありました!「報身寺」とは、小田原籠城中の、我らが北条氏照の本陣です!


それで、今ごろ思い出しました。以前にブログに書きましたが、報身寺さんをお訪ねした時に、この掛軸のお話を伺っていましたのでござります!

この来迎図は、現在は東京国立博物館にあると。そこまでは本には書かれていませんが、確かです。その時、東博さんに問い合わせをしましたので。常設ではないとのことなので近々展示されることはないかと伺いましたが、その時は未定とのことでした。


(加筆:東博のHPには阿弥陀「如来像」となっていますが、報身寺さんの阿弥陀様の独尊像のお軸はひとつだけですので間違いないと思います。お寺の方がおっしゃるには、「来迎図」だと阿弥陀様が大勢引き連れた図であり、こちらは阿弥陀様お一人なので「如来像」となったのだろうとのこと。墨書のことについては、ただ今東博さんに確認中。)


しっかし、どひゃ~。ドびっくり~。

何にびっくりしたのかと言うと、掛軸のことを今の今まですっかり忘れていた自分に。そろそろ始まってきたか、マリコ・ポーロ。いや、その時は小田原攻めのことばかり頭にあって…ゴニョニョ。


掛軸の裏の墨書には、次のようにあるそうです。潮音寺とは報身寺の以前のお寺です。

天正七歳小田原 
潮音寺江祖父母 
寶生新次郎納入 
    元禄五歳 
      壬申七月二十二日 
         寶生九郎 
               重吉(花押)

 

祖父母とありますから、一閑大夫の供養のために奉納したのですかねえ…。元禄5年に九郎重吉さんとあるということは、徳川になっても宝生家は小田原にいたのですかねえ。それとも一旦小田原を出たあと再来したのでしょうかねえ。掛軸、見てみたいですねえ。東博さんに展示されても裏側は見られないでしょうねえ。



▲ 『匠明』

 

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~『匠明』の「舞台」のページ。~


『匠明』は、桃山時代に書かれた「木割書」です。これまた別の北条大師匠が薦めてくださいました。「木割」というのは、建築物の各部の比例をいうものだそうですね。

『匠明』と『匠明五巻考』は、大きな図書館に行かないと置いていないようです。私はいつも都の中央図書館に行きますが、「閉架」だったので頼んだところ、職員の方がいる近くの机での閲覧でした。かなり傷んでいて、貴重な史料だからだそうです。コピーも自分では出来ず図書館が取ります。なので、ご興味がある方は上の写真を拡大してご覧くださいませ。

冒頭の「舞台 昔ハ 泉殿ト云リ」が、ちと意外。


全てがこの基準ではないでしょうが、桃山時代以前に造られた舞台はどんなものだったのでしょうね。皆様ご存知のように、当時の猿楽は主に座敷やアウトドアで行われました。教えていただいた話では、あの朝倉館や三好亭でさえ、舞台は「仮設」だったそうです。

 

我らが本城小田原にも今のところ「能舞台」があったという痕跡は出てきていないようですし、我が八王子城にしても、発掘調査からも残された記録からも「舞台」についての痕跡は見つけられません。まあねえ、八王子城については、氏照があの臨戦態勢下で築城を始めた城。池も、あったということには興奮ですが、造りは雑(by 講演会での小野正敏先生。先のブログ記事をご参照)。現実的な氏照どのが遊行の物を造ったとはなかなか微妙なところで…テンテンテン。



秀吉より前の、他の戦国大名で「能舞台」(能楽堂ではない)があった城はあったのでしょうか。
上記の『戦国武将と能』で少し見つけました。

(信長の岐阜城)
「…その山頂に彼の根城があります。途方もなく大きな自然石の垣がそれを囲んでいます。第一の広場には優れた用材で造られた一種の舞台があり、そこでは演劇や公の祝祭の余興が行われている。…」
by ルイス・フロイス

岐阜城へは参ったことがないのですが、曲輪に舞台があったのですね。フロイスさんの書いたことだけからすると、舞台は青天井ですかね??桃山時代より少し前ですし、信長のことですから仕様は「匠明」の基準とはまったく違う独創的なものだったのかもしれません。ということは、安土にもあったのですかねえ?


(信玄殿の躑躅が崎館)
信玄殿ファンならご存知でしょうが、「御能館」があったそうですね。御能館には使用の細かい規定があるんですって。『甲陽軍艦』に記されているそうです。

一 舞台の高さはお座敷によるべし
一 舞台の高さは勧進能は少しかはる
一 田楽、猿楽に太刀を可渡事

これらからわかることとして、本にはこうあります。
「武田家では「座敷能」が頻繁に催されていたことや、舞台では猿楽座の勧進能や田楽能も上演されるなど…」と。


しっかし、昔の史資料を調べるのって楽しいですねえ。限がありませんのう。


以下よろしければタイトルをクリックしてご覧くださいましたら嬉しいです。

「小田原攻め、北条氏照の本陣」
「現(うつつ)か夢か 小田原城 薪能」

下山先生の『戦国武将の居城と暮らし~北条氏康』について
「小田原城のライフスタイルと饗応の膳」

「北条氏照の「大善寺」と「土方能」」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2019年6月 9日 (日)

落城・開城イベント~八王子城と津久井城(2019)

マリコ・ポーロ


落城した城跡の落城日には、敵味方問わず犠牲になった人達を悼みたい。

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~旧八王子城を守る会では、落城忌の集いでお赤飯を食べた~


何度か書いている繰り返しで恐縮ですが、現代の八王子城周辺に住む人達は落城日にお赤飯を食べたそうです。これは、八王子城戦で城山川が血にそまり、しばらくの間川の水で焚いた飯が赤く染まったという伝承からくる、供養のひとつでした。しかし最近は新しい家が増え伝承をご存知なく、お赤飯を食べる家も少なくなったそうです。



今年もまた小田原北条落城・開城強化月間がやってきております。一年あっという間ですねえ…。小田原北条落城・開城月間についてはこの10年毎年たっぷり同じようなことを書いておりますので、ご興味あらばそれらをご覧くださるととても嬉しいです。

 

話はそれますが、今までの落城・開城月間の厖大な数のブログ記事をどうにかしたいです。毎年同じことを書くのもなんですし…。


さて、本題。

今年の落城・開城の催しを2つご紹介させていただきます。



▲ 我が氏照どのの八王子城

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~八王子の住人さんに送っていただいたポスター~


「八王子城跡まつり」
日にち:6月23日(日)

まさに落城した日(旧暦)です。

様々な催しがありますね。個人的には、落城した日には、八王子市さんには供養的な法要などをやってほしいな~と思うものです。落城した日に、敵味方共に多大な犠牲者を出したその城跡で鉄砲をぶっ放す…。鉄砲を討つというのは、何か弔意的なものもあるのでしょうか?詳しくないので分かりませんが、それにしても私の感覚ではチョット辛いものがあります。


実のところ、自治体が宗教的行事を行うのは難しいものだということもあります。今回は市が主催ですからアミューズばかりになっているのでしょう。

ガイドさん方はその前にお墓参りをすると思いますし、まあ、こんなメンドクチャイことを言うのは、百言居士マリコ・ポーロだけです。


▲ 津久井城

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~津久井湖城山公園のHPに出ています。http://tsukuiko-ibento.blogspot.com/2019/05/429.html~

「津久井城開城記念の日」
日にち:同じく6月23日(日)


津久井が開城したのは6月25日です(旧暦)。イベントなので日曜日に合わせたのでしょうが、八王子と重なってしまいましたねえ。

こちらはありますね!お墓参り。知り合いの武将さん達も参陣します。本城小田原も鉢形も玉縄も、また、落城・開城ではないですが三増合戦まつりなども、一般ファンが参加できる供養の法要的なものがありますよね。それらは必ずしもお寺でだけではなく、旧八王子城を守る会の落城忌でも、宴(単なる飲み食い)の前には城内で般若心経を唱えます。


記念講演もありますね!ちゃんとした資史料や発掘調査に基づいた講演会です。妄想講演会ではないですね。

地域の歴史って、こうやって伝えていってほしいな~と思います。私はね。地域の歴史は、日本の歴史にも繋がっていきますもんね~。


▲以下、この10年でこってり書いた厖大な数の八王子城落城と、マリコ・ポーロが従軍レポートした各地の戦国慰霊のイベントの記事の超々々々一部です。ご興味あらば、タイトルをクリックしてくださいませ。

「小田原城開城へ、最後の6ヶ月」

「今年は、ぼっち 八王子城 落城忌…かと思ったら(2018)」

「八王子城戦~前田家臣たちの証言と、彼らの驚きのその後」

「北条氏邦と大福御前慰霊祭(2012)」

「津久井城開城祭~合戦劇従軍レポート(2013)」

「報告!「津久井城開城記念~攻防戦(2012)」

「三増合戦まつり 従軍レポート(2013)」
以前の三増従軍レポートも記事文末に添付あります


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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