2017年4月11日 (火)

北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺

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~功徳山「天嶽院」。境内は小田原北条の三鱗だらけ。~


(明応4年) 北条早雲こと伊勢宗瑞により開基

(天正4年) 火災に遭い、綱成と氏繁が中興開基

徳川時代は思いっきりハショリ…bleah

(平成10年)室町時代の様式に統一し七堂伽藍が復興


開基は明応4年とのこと。宗瑞が茶々丸を追い、伊豆に居を移した年ですね。


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~近くの湘南深沢にある大慶寺や等覚院と同じく、山門は素敵な茅葺の屋根。~


「北条五代の息女たちシリーズ」で、脳内は混乱状態。また、あまりのマニアックさゆえかブログ記事へのアクセス数が激減。

コメントもまったくいただけなく、北条にはヒロインがいないと世間で言われるけれど、こんなにいるのに、つまり興味があまりないのかもしれないな~と意気消沈の今日この頃。


息女達を一休みして、大船にある伊勢宗瑞ゆかりの「天嶽院」をお参りしました。

北条ファンにとっては三鱗だらけの境内を歩くだけでもテンションが上がります。玉縄の龍宝寺や大長寺(大頂寺)、深沢の寺々とあわせての、北条ゆかりの大船めぐりなんていかがでしょう。


たまたまお寺の方が出ていらして三鱗のクッキーをくださいました。

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もったいのうて、食べられにゃい…


「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e83.html

「玉縄城-1 現代の難攻不落の城へ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-170d.html
「玉縄城-2」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-77e4.html
「玉縄城-3」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-0e19.html

「玉縄城の歴代城主の法要が営まれました」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-0e25.html

大船「大長寺」について→「前編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の謎」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-47de.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2016年8月24日 (水)

御用米曲輪の『報告書』&『江戸東京の下町と考古学』

その前に・・
岩櫃で楽しそうなフォーラムがありますね。

●●●
●●● 岩櫃城フォーラム

『ここまで見えた!!岩櫃城~最新の調査で明らかとなる真田の城の姿とは?~』

日にち: 9月19日(月・祝)
ところ: 東吾妻町コンベンションホール
定 員: 400名
申込不要

講演は、竹井英文氏、吉田智哉氏(東吾妻町教育委員会事務局)、齋藤慎一氏

吾妻町HP
http://www1.town.higashiagatsuma.gunma.jp/www/contents/1464220726660/index.html


▲▲▲
さて、本題でござる。


beer 谷口榮 『江戸東京の下町と考古学』

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~2016.2.25 雄山閣 2200円
カバー表(東京東部地形段彩図 小林政能氏提供)

「縄文海進から昭和の戦争遺跡まで、近年の発掘調査の成果から水の都・東京低地の地域史を描く!!」


著者は、江戸(東京)の歴史好きにはお馴染みの、葛飾区郷土と天文の博物館学芸員・谷口榮氏。

まだ中世のところしか読んでいないですが、前島や葛西城のことが載っています。考古学なので人物のことはほとんど書かれていませんが、右下の赤丸内に「家康以前の江戸は寒村ではな かった!」とありますよね。このところ非常に気になっているテーマなので、とても面白かったです。

雄山閣HP→http://www.yuzankaku.co.jp/products/detail.php?product_id=8283


beer 『史跡小田原城跡 御用米曲輪 発掘調査概要報告書』

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~2016.3.30 小田原市教育委員会 3000円~


関係者用か!というくらいの、もっの凄い情報量。「戦国期遺構全体図」のオマケが嬉しい。

東国中世考古学研究会HP→http://tougoku.cocolog-wbs.com/_online/2016/05/post-2555.html


beer 『発掘調査成果でみる16正規大名居館の諸相‐シンポジウム報告-』

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~2016.3.10 東国中世考古学研究会 2500円~


2015年7月18日・19日に開催されたシンポジウムの記録集。 発表要旨の再録、総合討論の記録、成果と課題を掲載。16世紀の大名居館の建物・庭園・空間構成をどう読むか?(以上コピペ)

御用米曲輪はもちろんのこと、大内氏館、朝倉氏館、韮山堀越御所などなどなどの、調査成果の報告とそのあとのシンポジウム。

HP→http://tougoku.cocolog-wbs.com/_online/2016/05/16-e878.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2016年8月16日 (火)

北条幻庵の子息の菩提寺「三島 祐泉寺」

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~蓮と三鱗(本堂の屋根)のマリアージュ。祐泉寺は北条新三郎さんの中興開基。ゆえに、三島といえど三鱗は前北条ではなく後北条。~


前回のブログ記事の日帰り旅の続きでござる。伊豆の歴友さんが、三嶋大社→仏の里美術館とまわる前に、連れて行ってくださいました。


fuji 新三郎さんの父、北条幻庵宗哲とは

昔書いたことの繰り返しに少しだけ加筆したもので恐縮ですが・・


今更私が申すまでもなく、北条幻庵宗哲は北条早雲こと伊勢宗瑞の子息で、二代氏綱公の腹違いの弟君であります。

幻庵は、子供の頃から箱根権現に入り→近江三井寺で過ごし→その後は箱根権現の別当となります。箱根権現、伊豆韮山、上野平井、武蔵大井、小机・・等々々、莫大な所領を有す武人としてだけではなく、京とも密接な繋がりを持つ、北条家の文化&風流担当重役でもあります。


また、御一家衆として、男子女子問わず一族の端の端までの面倒を見ていたようです。誰がが亡くなると、その後進の後見となり、誰かが嫁ぎ先から出戻ってくると、その庇護をしていたようです。


幻庵は生涯、小田原本城近くの久野に住まいします。

久野の屋敷は堀と土塁が周囲を囲み、竹林の奥には風雅な茶室があり、一角には先だった正室の菩提寺が建っていたそうです。さながらひとつの城郭のようだったのでしょう。現在も屋敷跡の遺構がほんの少し残っています。


と~っても長生き。初代宗瑞から五代の氏直までが会えた方です。北条の百年を見てきた人。生き証人。

ただ、最後の最後だけは見ることがなかった。北条一族の上昇だけを見た、ある意味で幸せな人。いや!ここまで一族を見てきたのだから、肉体は死しても魂は残り、一族最後の日を小田原城で見届けたのかもしれません。


fuji 北条新三郎

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~祐泉寺の新三郎の墓。隣に並ぶのは、同日、討ち死にした弟の融深のものだと伝わっている。~


が、しかし、そんな重鎮中の重鎮の子息たちは・・・

長兄の三郎さんが早くに亡くなります。そのため、新三郎さんは跡継ぎとなります。だから、「新」三郎。


ところが、新三郎さんは、永禄12年の武田信玄の駿河侵攻時、城将として在城した、対武田最前線の城「蒲原城」で戦死してしまうのです。なんと、弟の融深も一緒。

蒲原城での戦いは非常に激しいものだったらしく、二人の兄弟だけではなく、清水康英の息子や、笠原など城兵たちは全滅したと伝わっていますcoldsweats02


三郎さんも、新三郎さんも、融深さんも生年が分かりませんのでシカとは申せませんが、幻庵殿は、息子3人とも、10-20代で亡くしてしまうのですねえ・・・。


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~祐泉寺にある新三郎氏信の肖像。死後100年位経って描かれたものとのこと。チト老けてないかえ?~

新三郎さんの正室は公家の西園寺家から迎えています。北条御一家衆で公家のお嫁さんがいるのは、新三郎さんだけです。父幻庵の京との繋がりが分かりますよねえ。


fuji 新三郎氏信の跡継ぎ

幸い新三郎さんには、氏隆という跡継ぎがいました。小田原戦の時は本城に籠城し、その後は氏直らと同じく高野山組です。

赦免の後は、讃岐丸亀城主生駒氏に仕えそこで亡くなります。跡継ぎはいなかったようで、幻庵の北条家はここに終わりとなりました。


祐泉寺
ご住職が語る、幻庵家と新三郎さんの話が面白かったです。ご住職は、新三郎兄弟が討死したのに、武田信玄を名将だと称えてらっしゃいました。敵を悪く言わないご住職はさすが仏門の方でらっしゃると思いました。


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蒲原落城とは全然関係ないですが、祐泉寺さんには第六天がお祀りされていました。一瞬、おおっ!と思いました。

我が氏照どのの八王子城の搦手にも第六天があります。前に、小田原の百姓曲輪のことを書いていた時に、小田原北条の守護神は何だろうと歴史師匠と話したことがあります。表は弁財天ですが、絶対に裏守護神があるはずだと。それでビビッときたのが第六天でした。ま、何の根拠もない妄想ですが・・・。


祐泉寺さんはHPも充実→http://www.geocities.jp/pycbb333/

マリコ・ポーロ、以前の幻庵殿関係のブログ記事の一部です。
「小机は まづ妄想の初めなり・・」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-3e14.html
「戦国武将が愛好した尺八 一節切」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-8c55.html
「初詣2 北条幻庵の箱根」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-87c7.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2016年2月19日 (金)

激戦!金窪城から神流川へ~天正壬午の乱

・・・前回の続きでござる。
「神流川の戦い」前夜についてはこちらをあわせてご覧くだされば嬉しゅうござりまする。→ 「神流川の戦いの地へ~天正壬午の乱」 http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-dae8.html


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~小山川越しに見た、18日に初戦が行われた金窪城。写真の向こうが、神流川をはさんで上野。滝川勢が攻めてきた方角である。~


さて。

我ら現代の名胡桃勢と北条勢の6名は現代の神保原駅に結集。まずは資料を入手しに上里町立図書館に向かいました。

神流川の戦いについての展示をひとしきり観ながら あーだこーだ とべしゃりまくった後、隣接する文化財課の事務所に資料&史料があるかもしれないということでそちらへまわり、たまたま いらした職員の方(文化財課の方?)に名胡桃城衆が質問。なんと、その方が神流川合戦に非常に詳しい方で色々とお話しを伺うことが出来、我らのタイムトリップの旅は出だしから一気にテンションアーップ。 さすが、名胡桃城ガイドさん!happy02


horse 神流川(かんながわ、かんらがわ)の戦いを時系列で追ってみた

▲ 天正10年6月某日(18日か?)

北条氏邦率いる鉢形勢は神流川を渡河!倉賀野方面(群馬県高崎)を目指し出撃する。一方、厩橋から和田(高崎)まで出張っていた滝川勢はこれを迎え討ち、鉢形勢多数を討ち捕るannoy

鉢形勢は後退。神流川・烏川合流点を渡河して返し態勢立て直しにかかる。


▲ 天正10年6月18日

和田(高崎)を発った滝川一益と佐野宗綱(下野)勢らは、北条氏邦勢を追撃!利根川・烏川・神流川合流点を渡河し、両者は 金窪城 で再び激突するannoy

氏邦率いる鉢形勢は敗退。当主・北条氏直率いる、我らが北条軍団軍団長・氏照、氏規ら本隊の到着を待つことになる。


▲ 翌 6月19日

北条氏政本陣を吉見(埼玉比企)に置き、鴻巣→熊谷→深谷→本庄→石神と進軍してきた、2万に及ぶ北条氏直本隊が氏邦勢と合流。

神流川河畔にて再び滝川勢との激戦が始まるannoy


総大将・北条氏直は伏兵を配置。松田憲秀、成田氏長らが滝川勢を誘い寄せ、滝川勢が誘い出されたところに後陣を繰り返し繰り返し送り出し一気に撃破 bomb
(↑群馬県立歴史博物館歴史講座 2006年11月のレジュメより。元データは天徳寺寶衍書状、松平義行所蔵文書某年譜、石川忠総留書など。)

北条本隊の到着によりすでに戦意喪失していた上野国衆は次々と離脱。滝川一益は箕輪城へ撤退する。

北条本隊は倉賀野へ侵攻、摂取。


▲ 6月20日
滝川一益は上野国衆の人質を伴い、信濃小諸城へ入る。人質は途中の碓氷峠で一部を解放。小諸にてもまた一部を解放。(徐々に解放。)


▲ 6月22日
北条氏直は上野を制圧すると同時に、北条氏照・氏邦らと共に信濃の調略にとりかかる。


そして・・

7月12日、先鉾隊は北条軍団軍団長・北条氏照と弟・氏邦。川中島にて上杉軍と対峙することとなる!


まあねえ。
上野国衆にとっては、いかに北条が嫌いでも、滝川一益は結局は遠くへ帰ってしまう人。佐竹も動かなかったですしね。

ましてやこたびの北条は、御大氏政、若当主氏直、北条軍団軍団長の泣く子も黙る北条氏照はじめ、氏邦・氏規ら兄弟衆、松田、塀和をはじめとする歴戦のつわものの重臣たちの総力戦。そんな相手と戦っても、滝川殿が帰ってしまったらなんの益もないですものねえ。


また、北条氏邦ですが、二度に渡る敗退は不覚をとりましたね。

『北条氏康の子供たち』のブログ記事で書きましたが、北条家の序列はシビアです。なんとか挽回せねばと必死の思いだったことでしょうな。


horse 金窪城

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~もっと立派な新しい石碑も建っていたが、この方が雰囲気があるし後方の土塁も見えるので、こちらをアップ。~


現代の名胡桃城勢&我ら北条勢6名が図書館を出て最初に向かったのは、18日に激戦があった金窪城。城址で車を降りたとたん・・

へ、へ、へーち(平地)?

平安後期の築城のようなので平地ということはあるのかもしれませんが、それにしても見渡す限り真っ平ら。


と思っていたら、家に帰って、いただいた上里町史中世編(抜粋)のコピーを読んだところ、城の立地は「烏川(神流川)の河岸段丘(海抜58~60m)上に構築」だそうな。

河岸段丘。最近はやりの、どこかで聞いたその言葉。


金窪城は、鎌倉の御家人加治氏が築城とも、新田義貞の築城とも伝わっているようですが、室町後期には山内上杉の家臣斉藤氏の居城でした。斉藤氏は、山内が廃れたあとは北条方となり天正18年をむかえます。

また、城は、天正10年の神流川の合戦でいったん焼失したとのこと。


古く小規模な平城なので全然期待していなかったのに(すみませんsweat01)、こんなに残っているとは驚きました。

とはいえ一人で行ったらまったく分からなかった。何度かここも訪れている縄張りフェチ?の北条友の深谷衆軍師が、縄張り図を広げ主郭の周囲をグルグル周りながら、堀跡や土塁や家々の間に残るかつての城内の道の痕跡を教えてくれました。


畑仕事をしている方や通りすがりの方が金窪城や神流川合戦のことに非常に詳しくて、こういう土地は珍しく、なんでだろうねえと話していましたが、あるお宅で軍師が道を訊ねて判明。

平成8年に、「金窪城攻防戦400年記念祭」というお祭りがあり、町民こぞって参加したそうです。その時に町に配布された資料 ↓ や武者行列の写真集も見せてくださいました。

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それでなのかどうかまでは伺いそびれてしまいましたが、金窪城のある上里町には中山道を辿る歴史の道のような観光コースが整備されていて、城の周りにも順路の案内標識や説明板がとても充実。

「金窪の皆さんは、北条さんと滝川さんのどちらのファンですか?」と名胡桃衆が聞くと、「北条だよ!」

いとうれし happy01


horse 南城跡(陽雲寺)

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~養雲寺(南城跡)に残る堀と土塁~


神流川古戦場の様子は前回のブログ記事をご覧くださると助かります。こちらはその後に訪れた「南城」です。古い城跡なのでやはり平地にあり、城というよりは館という感じです。

何ヶ所かに堀が残り、城(館)の外周を囲む土塁が分かります。北東の角には折れの痕跡も見られました。


説明板によると、南城(陽雲寺)は、鎌倉時代にもお寺だったそうです。新田義貞が鎌倉幕府打倒の不動明王を奉納したということが寺伝にあると説明板には書かれていました。

戦国初期に、足利氏の家臣大畠昌広が寺を城としてリノベーション。


大畠氏はその数十年後に滅びたようですが、その後は金窪城主の斎藤氏が寺名を変え帰依しました。しかし、天正10年の神流川合戦時に金窪城と同じく焼失したそうです。

境目の土地は人も城もお寺も波乱万丈ですねえ。


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~同じく南城に残る堀跡。外郭、にあたるのかな。~


flairここに、ひとつ不思議が

説明板には、「天正19年金窪の城主となった川窪信俊が、養母である武田信玄夫人を伴って入封し・・・信玄夫人は元和4年に没した」とありました。現在の寺名「養雲寺」もその夫人の法名養雲院からとったとか。

境内には武田関係の広い墓地エリアがあり、門付きのスペシャルスペースには養雲院の立派な宝篋印塔もありました。


ほう・・。信玄夫人?誰だろう。

三条の方ではないですよね。三条の方は信玄殿より随分前に亡くなっていますし、法名も違います。甲斐の恵林寺にお墓もあります。ほな、油川夫人?違うよねえ。諏訪御寮人のわけはないし、禰津御寮人?違うな~??


皆で少し調べたり想像したりしたところ、川窪信俊殿とは信玄殿の甥っ子なので、養雲院様とは、どうやら「信俊の養母である信玄夫人」ではなく「信玄の弟の夫人で、信俊殿の実母」みたいなような。

すみません。よく分かりませんが、思いもかけぬ土地で武田信玄の名前が出てきたのでチョット驚きました。

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朝早くから本拠地を出立し、神流川合戦の地を右へ左へ上(かみ)へ下(しも)へと動き回った我ら名胡桃勢と北条勢の6名。最後は、某スーパーのフードコートにてコーヒ cafe を飲みながら、軍議~note

実は、お昼もこのスーパーのレストランでした。お昼を食べながらは神流川合戦の話を。夕方は名胡桃問題の話がメイン。ひとつの歴史的事柄について、坂東の戦国時代に対しての基礎共通認識があっての上で、立場が相対する人たち同士で話をするのって面白いですねえ。

平日が休みなのと、一緒に城跡や史跡を巡ったり歴代話をする仲間があまりいなくてほとんど単独行なので、こういうことは滅多になく、とても楽しかったです。


そんなこんなで滝川一益を坂東より追い払い、国衆に思いっきり嫌われながらも上野を掌握した北条軍。次は信濃・甲斐をゲットするため、同じく信濃・甲斐の地を狙う上杉・徳川との対決!とあいなります。

ポイント地点は若神子、ですかな。


(以上は、平山優著『天正壬午の乱』、齋藤慎一著『戦国時代の終焉』、上里町史中世編、下山治久著『北条氏照文書集』、群馬県立歴史博物館や玉村町の資料などを参考にさせていただきました。)


マリコ・ポーロ
「神流川の戦いの地へ~天正壬午の乱」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-dae8.html
「吾妻の中山城と北条氏邦のこと」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-8f7c.html
「名胡桃、推参!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-4ae8.html
「関東戦国の大乱~亨徳の乱」展 & 天正壬午の乱
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/at-e97f.html


萩真尼

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2016年2月14日 (日)

神流川の戦いの地へ~天正壬午の乱

pen 以下は昨年の12月に書いたものですが、次回のブログ記事 「激戦!金窪城から神流川へ」と並べたかったのでこちらへ再アップいたしました。


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~利根川の支流、神流川にかかる神流川橋の常夜灯は江戸時代の復元だそう。こちら側が武州(埼玉県上里町)。向こう岸が上州(高崎市新町)。県境である。~


以前から不思議だと思っていたことがあります。北条は何故、滝川一益を放っておかなかったのか。滝川殿は本音は帰りたいのだからサッサと帰っていただいて、それからこっちはこっちで上野や信濃制覇に向かって動けばよかったのにと。

それはやはり、今後の上野掌握のためにも「追いやった」という形にしておかねばならなかったということなのか。それとも、滝川殿がなかなか帰らなかったから、待ってはおれず上野へ出陣しちゃったのか。


神流川の合戦は、小田原北条が終焉に至る最初の取っ掛かりとなった重要な戦いだと思っています。旧武田領争奪戦である「天正壬午の乱」はこの神流川から始まり、その後の領地仕置きがあの名胡桃事件を経て、北条運命の天正18年に繋がっていくのです。

ひとつ承知しておかなければならないことは、この時、まさかあの藤吉郎さんがその後の天下を制すとは日本中の誰もが、いや、お釈迦さまでも気が付くめえでした。


さて・・・
そんなこんなを探るべく(?)、霜月のある日、先年単騎で名胡桃城を訪ねた時に大変お世話になった坂東戦国史友である、名胡桃城ガイド衆と天正壬午(10年)の「神流川の戦い」の地へタイムトリップして参りました。

こたびは2名の北条友の軍師(名胡桃城衆曰く)を得、我ら3名の北条勢は真田勢(名胡桃城衆)3名と武州神保原駅前にてあいまみえることとなりまいた~!happy02


カチャカチャカチャ・・

西暦変換1582年6月18日。 タイムワープ成功しました。code No.681025 上武国境、神流川 。真田勢と接触。これから記録を開始します!

な~んちゃって。。。
タイムスクープハンターをパクッた武将北条友のそのまたパクリです。


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~埼玉上里側(北条側)の「神流川古戦場」の説明板。対岸と比べてショボイweepが、両軍公平に書かれている。~


horse 天正10年6月2日信長死す!の報は日本中を駆け巡る

6月7日。
坂東で最初にこれを知ったのは、もちろん、厩橋(前橋)城にいた、関東管領に就任まだ3ヶ月足らずの滝川一益。滝川はこれを周囲に隠そうとするも、坂東諸将達には各方面から情報はあっという間に伝わる。

6月11日。
我らが北条も、徳川家康、深谷にいた氏照の家臣・狩野一庵などから続々と報を受ける。


早い、早い。伝わるの早いですねえ。

書状とそれぞれの思惑を乗せた馬が、どれだけ猛スピードで坂東平野を行きかったことでしょう。


book この時滝川一益は、上野国衆に信長の死をちゃんと伝え、たぶん追撃してくるであろう北条軍とは自分達だけで戦うと宣言し人質も解放した(関八州古戦録など後世に作られた軍記物)と昔は言われ、一部の地域では今もそう伝わっているようですが、今では研究が進み軍記物などの話からは離れ、そうではなかったとなっていますね。

上にも書きましたが、当初、滝川殿はこれを隠そうとします。しかし、それは無理なこと。そこで滝川殿は上野国衆に対して、

「京の情勢は大丈夫。安心してちょ」としながらも、「でも、北条が追ってきたら支援してね」

との依頼も出したようです。


▲ 一方、我らがアニキ北条氏政も滝川殿に対して、

「我ら北条を疑う心配はないですよ。出来ることがあったら協力するから、何でも言ってねbleah」。

な~んてことを、うわべでは言いながら、裏では秒速で滝川追討と上野奪取に向けての準備を進めます。


あ、そうか!兄上様は、そう言って滝川殿を安心させてサッサと帰っていただく算段だったのか!


そんなこんなの時に、上野国衆の藤田信吉(用土新左衛門尉)が沼田城の権利を主張し滝川に対して反乱を起こします。

藤田信吉こと用土新左衛門のことはそれだけで長~い話になってしまうので、ここに書くのは割愛しますが、なかなか興味深い話です。実は実は、氏邦さんが養子にいった藤田家の傍流で、藤田家を正式に継承したのではないようですよん・・・ごにょ。ご興味ある方はお調べくだされ。


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~神流川を挟んだ上州側(高崎市)の「神流川古戦場」の碑と説明板。立派~wobbly。しかし内容は滝川寄り。「西上州軍を率い死闘を展開した」とはあるが、戦の勝敗(結局は負けて敗走した)は書いていない。~


さて、藤田こと用土さんの乱をどうにか終わらせた滝川殿。一路、自領伊勢長島への逃避行が始まることになります。

一人で転びながら、転がりながら、更科六兵衛さんに出会ったりしながら、ひた走った・・のは、映画「清州会議」での物語。実際はあんなじゃないことは皆さんご承知の上での映画の楽しみ方。実際の滝川殿はもっと有能で策略に飛んでいます。


book これも上に書きましたが、昔は「滝川一益は人質を解放した」とされていました。しかし、同じく昨今の研究で、道中突破するために人質を連れて行ったことが分かっています。

上野を去る時に一部は解放されましたが、再び佐久・小県で人質を取り、なんと木曽まで連れていかれた人質もいます。真田昌幸の母上などもそのうちの一人ですよね。


木曽義昌に阻まれた滝川殿は、それらの人質を進呈することを交換条件として木曽を通してもらっています。

タイムトリップ中のどこかの何かで読んだのですが(忘れた(^^;)、このことを、「(滝川一益は)人質を保護し木曽まで送り届けた…」になっていたり、土地の古老が見せてくださった武州側の自治体が発行した資料にも、「滝川は人質を全て解放してから去ったので土地の者は感謝した」となっていたのには ドびっくり~でした。

逃げる際に人質を解放するなんて甘ちゃんな戦国武将では、敵地を通り抜けて行くなんてことは出来ませんよねえ。ひたすら藪の獣道を通れば可能かもしれませんが。


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~神流川橋の上から眺めた神流川。なるへそ、浅瀬ですな。~


それにしても…

当時の北関東は北条嫌いだから、我らが氏邦さんが悪者にされるのは理解できるのです。が、いくらそうだったからとはいえ、現代の関東で、430年前にほんの2ヶ月余りしかいなかった西の勢力の支店長だった滝川推しの理由がよく分からんのです。


ほんの2ヶ月余りで(←シツコイ)、その土地にそんなイイコトしたわけもなし。つまり、北条の侵略統治は相当の恨みをかっていたということですな。すみませんでしたねえ。

時は戦国時代。氏邦さんも、滝川さんも、真田さんも、上野国衆も、誰もが家と領地を守り広げるのに必死。特にここは境目の土地だったから、複雑だったのでしょうねえ。


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~武州、北条側の城「金窪城」にある説明板~


伊勢への帰陣を急ぐ、そんな滝川殿へ北条の追撃は始まります。

6月18日。
まずは、上州倉賀野へ向けて鉢形より進軍していた我らが弟くんの北条氏邦勢は、いよいよ金窪原で滝川軍と激突することになりますannoy


関東へ嫌々赴任したのに、3ヶ月も経たないうちに信長が死んじゃうなんて。滝川殿は、ついてない人だわねえ。なんだか同情しちゃったところで、次回へ続く・・・


(以上は、平山優著『天正壬午の乱』『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望』、齋藤慎一著『戦国時代の終焉』、上里町史中世編、群馬県立歴史博物館や玉村町の資料などを参考にさせていただきました。神流川へ参るにあたり資料を送ってくださった名胡桃城衆・八王子衆の方々、ありがとうございました。


「吾妻の中山城と北条氏邦のこと」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-8f7c.html
「名胡桃、推参!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-4ae8.html
「関東戦国の大乱~亨徳の乱」展 & 天正壬午の乱
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/at-e97f.html
「鉢形城 籠城中、なう」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-36e7.html


萩真尼

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2015年10月16日 (金)

駿府 「臨済寺」の特別公開

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~臨済寺といえば今川。今川といえば海道一の弓取り、今川義元。今川義元といえば、ご存知!黒衣の宰相、雪斎殿。~


サル10月15日、春と秋の年に2日(年に2回ではなく年に2日)だけの、「臨済寺」特別公開を拝観するため、家康殿ではなく!今川殿の駿府へ行ってきました。

とても混んでいましたが、午前中早いうちに行ったのでそれでもまだ人出は少なかったようです。 一度は行きたいと思っていたので嬉しくて、写真もいまだかつてないほどたくさん撮ってしまいました。


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~仏殿の前にも、雪斎殿の頂相~


今更わらわが申すまでもないですが、臨済寺は我らが北条早雲こと伊勢宗瑞の姉、北川殿ゆかりのお寺です。


今川の当主・義忠に嫁いだ北川殿の息子・氏親は、そのまた息子・栴岳承芳(のちの今川義元)のために、母上北川殿の別邸を「善徳院」としてお寺としました。

氏親亡きあと家督を継いだのは嫡男の氏輝でした。ところが氏輝は、小田原におよばれし長期滞在して駿府に戻った12日後(位だったかな?)に急逝してしまいます。享年23才。

なんと!すぐ下の弟・彦五郎君も同日亡くなります(彦五郎君という人はいなかったとの説もあり) 。

ど、どういうこと!?coldsweats02


そのあと、仏門に入っていた2人の弟たち、この善徳院の栴岳承芳(義元)と玄広恵探の間で跡目争いが起こります(花倉の乱)。

勝利した義元は、急逝した亡き兄上・氏輝を自分がいた「善徳院」に葬り、寺名を氏輝の法名「臨済寺」としたのでござります。


この跡目争いの時、我らが北条は栴岳承芳(義元)をバックアップしますね。

う~む。
色々と妄想は広がりますが、なんの証拠も残ってはいまへん。


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~氏輝殿と義元殿の兄弟~


雪斎の鐙、雪斎の陣中袈裟、雪斎の陣中鉄鉢・・などなど、雪斎殿の遺品がたくさん出ていましたが、臨済寺の開山は雪斎ではありません。大休宗休という方です。

雪斎は駿河の名門庵原氏の出身で、京都建仁寺に入り、そのあと妙心寺に移ります。大休宗休は妙心寺の二十五世住持だった方だそうです。


雪斎は建仁寺にいる頃に、氏親の命により、氏親の四男の栴岳承芳(義元)を伴って富士下方庄の「善徳寺」にも入っていました。つまり雪斎は義元にとっては「兄さま」、義元は雪斎にとっては「弟 でい」ということになるのでしょうか。

(今、海道龍一朗の『室町耽美抄 花鏡』を読んでいるので、まさにツボなところheart01。でも、主従関係が逆だから少し違うかな・・)


義元にとって雪斎は仏門では兄弟、俗世では執権。ずっと一緒ですね。雪斎がもう少し長く生きていたら、義元の一生もまた違ったものになったのでしょうか。


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~方丈から書院に渡る階段。建物の中で、この階段だけが室町時代から残るものだそう。~


臨済寺は義元亡きあとの駿河の奪い合いによる武田軍の侵攻で焼かれてしまいました。それを再建したのが成長した竹千代君、つまり徳川家康殿です。

臨済寺へは駅からバスで10分強ですが、ちょうど便が悪く、時間がもったいないので行きはタクシーにしました。途中で運転手さんが突然向こうの山を指し、「あれ、あれ。あの山を越えて信玄が来たんですよ~」とおっしゃったのが面白かったですhappy01


雪斎の頃の臨済寺は、9つの塔頭と50もの末寺を擁した大寺院だったようで、寺宝もたくさんお持ちです。

戦国武将関係では雪斎の他にも、義元、家康や榊原義政、武田信玄ゆかりの品も拝見。武田信玄の文書もたくさん出ていましたが、読めないのが悲しい・・weep。しかし、近しい親戚の北条のものは無かったです。前回は出ていたのでしょうかね?チト分かりません。


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~一番高台のお茶室から眺めるの図~

お茶室へ昇るには、色別の整理札をもらいます。お茶室へはたくさんは入れないので15人づつ位で順番に昇るのです。これはけっこう待ちますが、整理札を受け取ってから「〇色の方~、どうぞ~」と呼ばれるまでは書院の寺宝を見たりできるので、寺宝を見る前に先に札をもらっておいた方がよろしいかと思います。いい方法ですねえ。


茶室は大正時代、駿府城に陸軍の兵営がおかれた頃に作られたものだそうです。茶室自体うんぬんというより、ここからの眺めが素晴らしい!下から見るよりかなり高い位置にあり臨済寺を俯瞰できるだけではなく、浅間神社や駿府城がよく見えます。

みんな写真を撮りまくっていて、なかなか降りて来にゃい。


歴代のお位牌も拝むことが出来、今川家の歴代当主にご挨拶もかないました。また、お坊さん方もとても爽やかで感じが良く、拝観者の質問(含むワテ)にも気さくに答えてらっしゃいました。


大満足のうちに臨済寺を退出。そして・・・しばらくしてから気が付きました。氏親殿や義元殿や雪斎殿のお墓参りを忘れてしもうた!

我ながら、不覚 crying


さて、お昼は安倍川を渡河し丸子の宿にて とろろ汁。それから、もうひとつ良いところへ行きました。次へ続く。


以前、駿府で北川殿の徳願寺と北条氏規の足跡を訪ねた時のブログ記事
「早雲の姉と北条氏規の駿府」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a23.html


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2015年10月 2日 (金)

北条早雲が焼いた鎌倉の寺々

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~大慶寺~


枯るる木に
また花の木を植ゑそへて
元の都に
成してこそみめ

と、戦乱で荒れた武家の都鎌倉を復興させてみせようぞ!と詠んだ、我らが北条早雲 こと 伊勢宗瑞殿。な~んだ、荒らしたのは自分もじゃんと思ったこの日。


大好きな文士、立原正秋が通ったという湘南深沢の某お蕎麦屋さんでお蕎麦をたぐり、秋とは名のみの灼熱地獄sunの中、500年前に岡崎城から住吉城へ逃れる三浦義意(道寸Jr.)を追いかけて我らが伊勢宗瑞が焼き払った寺々がある湘南深沢あたりを「ぶら マリコ・ポーロ」してまいりました。

湘南モノレールの湘南深沢駅を降りると、すぐ目の前が、大慶寺、等覚院、東光寺などのお寺が集まるエリアです。茅葺き屋根の山門の小さなお寺が、ひとつの山の裾を取り巻き、住宅街に溶け込むように静かに佇んでいます。地名は「寺分」。ふ~ん。なるへそね。


shoe まずは、葺き替えられたばかりのような綺麗な茅葺の山門のお寺、大慶寺へ。

大慶寺の創建は 1278年~1287年頃と伝わっています。ということは、北条執権9代の頃になりますか。当時はかなり大きなお寺だったようで、現在の大慶寺はその時の塔頭のひとつだそうです。


大慶寺には、北条氏康殿の判物が出されています。

なんでも・・
一時衰退していた円覚寺の帰源院を氏康殿が再興する時の開祖が禅才という名僧で、その禅才和尚が比企から迎えられ最初に入ったのがこの大慶寺だそうです(鎌倉シニアネットさんのHPを参照させていただきました)。


おっ!
ということは、ベンチのこの ↓ 三鱗はっ!up

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お寺の方に伺ったところ、北条執権家(前北条)の三鱗だそうですdown 。そりゃそうですよね~。


現在のご本尊の釈迦如来像は永禄10年の作。おお!小田原北条時代ですねup

かつてのご本尊は、謙信くんの小田原攻め→鎌倉入りの時に円覚寺に非難させたそうです。そのご本尊は、その後の円覚寺の火災のために焼けてしまったんですって。


shoe 次は、東光寺

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東光寺は、大慶寺のもう一歩奥にあります。背後の山は大慶寺の背後の山と同じ山です。住宅街なのに山里にあるお寺のようで、いかにも鎌倉っぽいですねえ。

創建は永享3年(1431年)と伝わっています。ということは、時代は既に室町中期。赤松に殺された6代将軍・足利義教の頃です。関東では、あと数年経つと永享の乱が起こる頃です。


次に行く等覚寺もそうですが、東光寺も現在の大慶寺も、当時は大寺であった大慶寺の塔頭だったのでしょうか。大慶寺は臨済、東光寺と等覚寺は高野山真言宗。違うかな。

でも、それぞれのお寺には裏の山に登ることができるような古~い石段があり、どうやら山でつながっているようです。碑のようなものも上の方に見えました(関係者以外が立ち入れるかどうかは定かではありまへん)。何かしらの関連寺院だったのでしょうかね。


とにかく観光寺院ではないので説明板も少なく良くは分かりませんが、ちょっと興味深いエリアです。

いったん大慶寺の方へ戻り、最後は等覚寺に参りましょう。それぞれのお寺の中もそうですが、家々の間をゆく細い道に沿った山の側面には「やぐら」があちこちに見られ、とても鎌倉らし~い住宅街です。


shoe 等覚寺

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こちらの創建は、応永年間(1394~1428年)です。室町将軍は、3代義満から続く4代・5代の頃です。

境内には、新田義貞の鎌倉侵攻の時に犠牲となった北条(前)の兵たちの供養塔がたくさんありました。


そういえば、最後の執権・赤橋殿が新田軍と戦い、敗れ自刃したのはこのあたりだったのでしたねcrying。うー、大河「太平記」を思い出すぅ。近くのモノレールの下には古戦場の碑もあります。

その他にも、境内には石塔や石仏や石碑がたくさん。裏山に昇る段々にもたくさん。


さて、これで現代へ帰る?チト、まだ妄想していたい。モノレールで大船へ戻ったら、藤沢はすぐです。


shoe このさいだから、同じく伊勢宗瑞どのが焼き払った藤沢の遊行寺(清浄光寺)へ

藤沢駅前の喧騒を抜けて藤沢宿を15分位歩くと赤い遊行寺橋が見えてきます。バスもありますが、この時は時刻的に便数があまり多くありませんでした。

神奈川県の人間なら誰もが知る(たぶん)、時宗総本山。開山700年の名刹です。私は都民ですが歴史やお寺が好きなので名前だけは存じておりました。ご縁起を読んだり、お参りするのは初めて。


大きなお寺でびっくりしました。参道も素晴らしいです。 ま~、様々な時代の中で様々な歴史や人物がかかわっているお寺なので、詳しいことはHPをジックリご覧になるとよろしいかと存じまするが、 このお寺でビビッ eye ときたのが・・

板割浅太郎の墓!


え、だれ?それ。でしょ。ほら、あの、

赤城の山も今宵限り・・。かわいい子分のてめぇたちとも、別れ別れになる門出だぁ。

おやびん!

カァー(←カラスの鳴き声)うんにゃ、あれは雁か。

の、子分の浅太郎ですよ。


実在の人物だったんだ~。それにしても、何故ここに?

赤城山で国定忠治と別れたあと浅太郎は仏門に入り、遊行寺の堂守となったそうです。その後、近くのお寺の住職となり、火災にあった遊行寺の復興に尽力したとのこと。

へえ~~。ドびっくり~。


って、いやいや違う。そうではなくて、ビビッときたのは、こちら ↓ です。

Img20150922_084633_2

「敵味方供養」の碑。

応永23年、上杉禅秀の乱で犠牲となった人達を敵味方関係なく供養したものでした。乱終結の3年後に建てられたものだそうです。

応永か・・。上に書いた寺々が創建された頃の時代ですな。


それから 97年後の永正10年。我らが北条早雲 こと 伊勢宗瑞が、三浦道寸との戦いで遊行寺(清浄光寺)を全焼させました。

誠に申し訳ございませんでした。新九郎さんに成り代わりお詫び申し上げまする。

な~んちゃって。


紅花

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2015年7月 7日 (火)

弘治2年の「北条 vs 里見の海戦」は本当にあったのか?

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~三浦半島の先から、里見水軍が渡ってきた房総半島を眺めた図~


北条氏綱による鶴岡八幡宮の再建大プロジェクトについての本を読んでいて、フト思ったflair

八幡宮の正殿の遷宮が行われたのは、天文9年(1540)。跡を継いだ氏康が由比ヶ浜の大鳥居を完成させたのが、天文21年(1552)のこと。


ありゃ?
世にいう里見と北条の「三浦・三崎海戦」で里見がそのまま鎌倉に攻め入り、青岳尼を連れ去ったのは弘治2年(1556)でしょ?

ということは、小田原北条によって出来立てホヤホヤだった鶴岡八幡宮も、わずか数年で滅茶苦茶にされてしまうの?

いや、そんな話は聞いたことがない。
あにゃ~~catface


と、乏しい手持ちの北条関係の歴史書を片っ端から調べてみたところ・・・

にゃい!

ない、ない、ない。どこにも書かれていない。大永6年のことは皆さん書いてらっしゃいますが、弘治2年の「三浦・三崎海戦」のことはどの先生方も書いてらっしゃらない。


では、私は何を読んで青岳尼のことをブログにたくさん書いたのだったっけ・・。記憶をたぐると、最初に書いたのは2011年。安房を訪ねた時にアチコチでいただいてきたペーパー類や北条記などを参考に書いた、のだったと思う。

そういえば、よく皆さんが引き合いに出される、青岳尼が失踪したことについて氏康が「太平寺殿こと ふしぎなる お企て」うんぬんと東慶寺にクレームした書状は年未詳なのですよ。つまり、いつのことかは分からないのです。

Image12951

これは大平寺跡にある碑文です。肝心な下部を切って撮ってしまいましたが、改めて読むと、「天文中里見氏鎌倉ヲ歯掠セル時・・」つまり、「天文年間に里見が鎌倉を攻めた時」に、青岳尼を奪って安房へ去ったとあります。

青岳尼が大平寺から去ったのは、弘治2年の三浦三崎合戦の時じゃないじゃないですか coldsweats02


どういうこっちゃ?

歴友さんが調べてくださいました(ありがとうございますhappy02)。弘治2年の海戦のことは「古戦録」と「小田原北条記」に記述があるそうです。私の拙い知識では調べきれない他の研究者の方の史料も見てくださったのですが、やはり海戦の存在自体は確かではないようだと。

いったいぜんたい、弘治2年に里見が佐貫城を出舟。城ヶ島から上陸し、鎌倉へ攻め入ったというあの話はなに?

そうですよねえ。4万5千の大軍で里見を城ヶ島で待ち受け海戦に及んだなら、もっと歴史上にこの話が残っているはずですよねえ。またまた例によって例の如く、後世の作り話?


実は今日、先に当ブログでもご紹介した鎌倉ガイド協会さんによる東慶寺や青岳尼の大平寺と英勝寺を巡るツアーに参加しました。(特に英勝寺はとても面白かったのでそのことは追って。)

そこでガイドさん方に弘治2年の里見の鎌倉攻めや青岳尼の失踪時期のことを伺ってみましたところ、やはり、定かではないとのこと。また、青岳尼の安房行きについても、里見義弘とのロマンスの結果だったと願いたいが略奪だったのかもしれないし、それは分からないって!


しょえ~ bearing
やっぱり作り話ですか?!


どうやら私は、弘治2年の海戦という軍記物+太平寺碑文の里見の鎌倉攻め+青岳尼の逃避行+大永6年の鎌倉(玉縄)侵攻=がゴッチャになった脳内で、先のブログ記事を書き、そのゴッチャのまま現在に至るのようでありますな。

というか、
弘治2年のこの海戦は、いつから「無かったこと」になったの?


「南総里見ファンタジーツアー 1」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-c2c4.html
「南総里見ファンタジーツアー 5」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-c2ec.html
「里見へ走った公方の姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-82f7.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html



紅花

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2015年4月 2日 (木)

北条家 下屋敷の「北条坂」

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何かを調べたい時、広尾の中央図書館に行きます。図書館は有栖川宮記念公園の中にあります。ここは、かつては有栖川宮の御屋敷でした。有栖川宮といえば皇女和宮の婚約者だった方ですが、宮邸だったその前は南部藩の下屋敷だったそうです(公園の説明板)。

ある日の図書館の帰り、その辺をチョロチョロしながら歩道沿いにあった周辺地図を見ていたら、そこに 北条坂 という文字を見つけました。


北条坂 ですって!?
なんだろう・・・?

地図をよく見ると、割と近いですねえ。しかし、その前のチョロチョロがたたって、もう時間がない!残念。また今度にしようと後ろ髪を引かれながら帰りました。

2-3日経つとそんなこたぁ コロッ と忘れてしまいましたが、先日、図書館へ行って突然 ハッflair! と思い出しました。


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~元南部藩下屋敷は桜が満開~


公園を池側の門から出て→右へ→愛育病院の交番の所まで登り(この坂は木下家の前の坂なので木下坂という)→交番と反対側へ横断歩道を渡ると下り坂になる。

それが 北条坂 です。

坂の下り口に「北条坂」との木の標識がありました。


「どれどれ」と読むと、やっぱり。
▲ 坂下近く南側に大名北条家の下屋敷があった▲
とありましたよん。

知りませんでした~。江戸時代の北条家にそんなに興味がないとはいえ、寄ってみてよかった~。


坂は途中から「鉄砲坂」と名前を変えるようです。なぜなら、坂下には幕府の鉄砲練習場があったからだそうです(木標より)。

ワクワク気分で坂を下り振り返ってみました。

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~「鉄砲坂」の始まりには木標がある。そこから、今下りてきた 北条坂 を振り返るの図~


この↑写真の右側に、狭山北条家の下屋敷があったということになりますな。

そこには都心では有名な某億ションがあります。某億ションは、かつては西武鉄道の堤さんの迎賓館があったところでした。スマホでその億ション(旧堤屋敷)を検索したところ、書いてありましたよ~。江戸時代は北条家の屋敷があったって。


へえぇ~~~ confident

ということは、外からは見えませんが(当たり前)、内側には庭があって、こういう大名屋敷の跡地には必ずある、池とか巨大な石灯篭とかも残っているのでしょうねえ。たぶん。


以前に当ブログで書きましたが、広尾には江戸時代の狭山北条家の菩提寺だった「祥雲寺」というお寺があります。

となると、狭山北条家の人々は、お墓参りの時にはこの坂を上って→木下さんちと南部さんちの間の道を下り→広尾橋を渡って(当時橋はあったか?)祥雲寺へと行ったのかもしれませんねえ。

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~左上のが祥雲寺。右のが北条坂(木下坂沿いにある周辺図より)~


天正18年、我らが「小田原北条」はなくなりましたが、最後の藩主だけは佐野の堀田家からの養子とはいえ(惜しいhappy02)、北条の血は氏照とのの弟・氏規さんから始まる狭山北条家で続いていました。

ゆえに、都内でも北条ゆかりの場所は、まだまだ「あまたあり」なのです。


「江戸時代の北条家、東京の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-72d6.html
「江戸時代の北条家、狭山藩邸」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5c4c.html
「北条氏規の大阪の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-361c.html


萩真尼

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2015年1月25日 (日)

後北条の始まりを告げた城 「韮山城」 シンポジウム

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~「早雲庵」だったかもしれないと言われている「香山寺」より、伊勢新九郎さんが小田原北条100年の歴史を始めた韮山の地を眺めるの図~


行って来ました。江戸くんだりより「いずっぱこ(駿豆鉄道)bus」に乗って、シンポジウム 「韮山城を考える」を拝聴するため だけ に新九郎さんの韮山へ!

とはいえ、だけ ってわきゃあなく、そりゃあ午前中はあちこちウロチョロ致しましたよ。なんせ、韮山ですよ。「韮山」と聞くだけで、「韮山」と口にするだけで、胸がいっぱいになりますよねえ。


韮山は、小田原よりも北条早雲こと伊勢宗瑞こと伊勢新九郎さんを感じられるところです。だって、新九郎さんは小田原には住んでいませんでしたもの。韮山は小田原北条の始まりの地であり、韮山は新九郎さんの終焉の地でもあるのです。

上杉謙信くんでいえば、米沢よりも直江津の方が燃える(萌える)というところですか。


そう思っていましたら、シンポジウムで言われてしまいました。家永遵嗣氏に。「韮山城は戦国時代の始まりと終わりを伝える城」だと。「小田原は北条五代ではなく、四代。初代は韮山でしょ。」

齋藤慎一氏もおっしゃいました。「韮山城は戦国の始まりが分かる城」だと。


そうか・・・

「戦国の終わりを告げた城 (by 椚國男)」は我らが八王子城だと今まで豪語しておりましたがup、「始まり」とセットとなると、ちょっと負けたかなと意気消沈down。すっかり、「韮山城イニシエーション」を受けてしまったようです。


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が、しかし、プログラムをご覧いただくとお分かりになるように、シンポジウムは大変興味深い内容でした。無理して行って良かったです。

先着順100名の会場は満タン。静岡、神奈川はもとより、東京や千葉、北関東からもいらしているようでした。色々な方達にお会いすることが出来て嬉しゅうございました。


講演の内容か、はたまた韮山というその地で行われたためか、シンポジウムはとにかく刺激的でした。最初このシンポが韮山で行われると知った時に、東京でやってくれいと思いましたが、やはり現地で聞くという臨場感はテンションが上がるものですねえ。

行かれなかった皆様に内容をなるべく事細かにブログでお伝えしたいとは思えど、盛りだくさん過ぎて何をどう書いてよいやら分かりません。また、間違い勘違いを書いたら申し訳ないので、4つの講演のビビビッときたところだけを下記にご報告。

うう~、DVDでも出ればいいのにな~。


horse 基調講演1「『伊豆の国市歴史文化基本構想』と韮山城跡の史跡指定」
家永遵嗣氏(学習院大学教授)


韮山を含む伊豆の国市は原始・古代から近代(反射炉)にわたる史跡の宝庫だそうです。

それらを訪ねるだけではなく、その上、温泉spaに宿泊するという「おもてなし」も併せて楽しめる街だそうです。これを、カルチャー・ツーリズムというそうです。

南関東や静岡の人達は、伊豆というところへはよく行きます。長岡温泉なども一度は泊まったことがある人が多いと思います。私達歴史好きは、温泉に泊まった時は当たり前のように周囲の史跡を巡りますよね。それは「カルチャー・ツーリズム」というものだったのですか。へぇぇ~~happy01


韮山城跡という、ひとつの史跡の価値を高めるだけではなく、史跡巡り・温泉・その他様々な観光をひっくるめて街全体で盛り上げていこうという戦略を推し進めていくということが、「伊豆の国市歴史文化基本構想」というもののようです。

そして、その中に、「韮山城跡 百年の計」へのチャレンジもあるようです。


歴史というのは、その「現場に立って」、ああ、ここであの人が、こんなことをしたんだ。ここで、こういうことがあったんだと「感じ取ることが大切だ」と、家永氏はおっしゃいました。

まさに、まったく、そうなんです。それが、マリコ・ポーロが現地妄想派である理由なのです。な~んてね bleah


ここまで、合っているかな coldsweats01

なんせ、いつも講演会では内容のメモはとらないもので。諸先生方のレジュメの完成度が高いので、お話しを伺いながらビビッときたところに下線を引いたり○で囲ったり、あとは、そこで感じた自分の感想を書き込むだけなのです。細かくメモを取ったりしていると聞き逃してしまいますのでね。


horse 講演1 「発掘調査で韮山城はどこまでわかったか」
望月保宏氏(静岡県立松崎高等学校副校長)

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~龍城(韮山城)は冬枯れの風情。~


様々な発掘調査結果を写真や図面で解りやすく教えていただけました。

韮山城についてのストーリーはある程度は存じているつもりですが、発掘調査については初めて伺うことばかり。写真も初めて拝見しましたし、調査地点さえ存じませんでしたので、ひたすら、ほほぉ~confident へぇ~coldsweats02 という感じでした。←だから、書けにゃい。すみません。


ビビッときたのは、韮山中学校(芳池第5地点)から出た石敷遺構の写真です。ここにもあったか石敷き道、ですよ。道の中央部を溝が通り、そこからは食器類やお箸が出てきているそうです。

ということは、このあたりに会所があったのかと思いましたが、パネルディスカッションの時に齋藤氏は「早雲の屋敷があったのでは?」とのことでした。

齋藤氏がおっしゃるには、この石敷き遺構は、障子堀で壊されているそうです。ということは、やはり臨戦態勢に入っての西からの侵攻に備えてのことなのでしょうかねえ。


発掘調査も大人の事情でなかなか進めるのが難しいようですが、▲遺跡・遺物の精査、▲未着手部分の、開発に伴う発掘調査ではなく史跡整備を見据えた調査、▲小田原戦の攻めて側の付城・堀・城下町などの調査、▲絵図・文献・伝承などとの比較などを、今後の課題としてあげられていました。

長い道のりですねえ。でも、これからは韮山の発掘調査結果も楽しみにしていきたいと思いました。


horse 講演2 「古文書資料から探る天正18年の韮山攻防戦」
竹井英文氏(東北学院大学専任講師)

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今回一番伺いたかった講演です。

小田原合戦時の韮山に関する文書は非常に!多いそうですね。小田原城と同じく、「韮山城仕寄陣取図」を毛利が記したのも知りませんでしたsweat01

そのいくつかを挙げながらの韮山の攻防はどのように繰り広げられたかを解説してくださいました。


そういえば・・・、
韮山城の最後の頃の城主は、私は氏規さんだと思っておりましたが、昨年出た黒田基樹氏の本(戦国北条氏五代2012.1)に、氏規は三崎城の城主であって韮山は在番だったとありました。早雲以降は在番制となりましたが、氏規さんもだったとはその本で知りました。


さて、竹井氏の講演であらためて疑問を強くしたのは、韮山攻めの意味です。

攻め手の軍勢は約4万4千人。それも、信雄、信包、レオ様、蜂須賀、福島正則ら秀吉旗下でも重要なメンツですよね。見せしめの城とされた、我らが八王子城だってせいぜい2万。攻めてきたのは北国勢という外様ですよ。


後半のパネルディスカッションでも質問された方がいらっしゃいましたが、私も、籠城リーダーである我らが北条氏規さんはすでに家康を通じて秀吉と話が出来ていて両軍様子見をしていたと思っていました。それゆえに、韮山の攻防戦のことはこれまであまりチェックしていませんでした。

しかし文書によると、城の数か所を乗っ取ったり、火を放ったりしていたのですね。


そして驚いたのが、城を取り巻く堀や柵が、北条側が防備のために築いたものではなく、豊臣軍が城側を「干し殺しにするつもり」で築いたものであったということです。文書(おサルの朱印状)に書かれているんですねえ。

「金堀を派遣するから、城には静かに攻め寄せよ」とか言っちゃって。ちっannoy

開城交渉をしながらこぜりあいを続けているということはよくあることですし、秀吉や家康達首脳部のそのへんのとこの動きはどうだったのか。いつか分かるといいですねえ。


しかし、
韮山城は秀吉の東征にとって、八王子城や鉢形城や岩付城などの城よりも重要ポイントだったのかもしれませんね。というか、落とす意味が違ったというのかな。物理的ダメージと精神的ダメージ。さすが、おサルだな~。

私は北条への興味の始まりが八王子城なので八王子城への思い入れが強く、それに今まで気が付かなかったのかもしれません・・・。


ね!おっもしろいでしょう。どう思われますか。

竹井氏がおしゃるには、韮山城は、「文書・絵図面・遺構から、包囲網の実態が分かる 稀有な 遺跡」だそうです。


あ、それと、前述した豊臣方が築いた堀々ですが、かつては航空写真もあり場所が分かったそうなのですが、その後の開発により今はどこにあるか分からなくなってしまっているそうです。どなたかご存知の方がいらしたら市の方へ連絡してくださいとのことでした。


horse 講演3 「韮山城とはどのような城か~韮山城研究の最前線~」
齋藤慎一氏(東京都江戸東京博物館学芸員)

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~物凄く凝ったパワポ~


まずは、韮山城の性格(機能?)の変遷を解りやすくお話ししてくださったので、韮山城というものを妄想するための脳内が整理できました。


▲ 新九郎さんの時代
北条家の 本城 であった。また、幕府や今川との関係で西の下田街道方向を正面とし、天ヶ岳山を意識して造られた。

▲ 氏綱・氏康の時代
本城が小田原となり、東を意識した城となる。また、河東一乱で北条領が西へ拡大し、その方面への物資や人の供給のための 繋ぎの城 となったと考えられる。

▲ 氏政の時代
勝頼が侵攻してきて領地が東へ下がり 境目の城 として重要な役目を負う城となる。小田原を起点にした片浦口の交通要所とされる。

▲ 内藤さんの時代


ず~っと不思議に思っていたことがあります。交通経路として、防衛要所として、なぜ半島に一歩入った韮山だったのか。

この日の齋藤氏のお話しで少しだけ分かったような気になりました。


「片浦口」という言葉が出てきました。片浦とは、そう、あの小田原の西の、片浦レモンサイダーの片浦です。

当時、西から小田原に入るには3つの領国口があったそうです。山中城の箱根道、足柄城の河村口、そして韮山城の片浦口です。


そして、箱根口と河村口はあまり(まったくではない)機能しておらず、韮山←→浮島←→熱海←→土肥(湯河原)←→片浦口が主要幹線道路なのではなかったかというのです。

だから、下向してきた堀越公方が鎌倉へ入れずとどまったのも、ここだったのではないかと。


私はどうしても現代の東海道や函南道路を考え、先にも書きましたが、韮山というと一歩半島に入っているという感覚になってしまいます。家康も箱根を通って入って来ましたしねえ。

まあ、家康は反対側に廻り込むためでしょうけれど、だから、韮山城?いくらそこの守りを固めたって北側をスラスラ通ってしまえば小田原にラクラク入れちゃうじゃないと思っていたのです。


また、北条の城ではよくありますが、その幹線道路は城内を通過し東西を繋ぎ、南は下田へ繋がっていたであろうということなのです。

では城内のその道はどこかということですが、城内の道というのは、城の主要な部分へまっすぐ向かっているものだそうですね。


韮山へ行ったことがある方は、江川邸のあたりを歩かれたことがあると思います。あのあたりには、大きな地図には載っていない住宅街の間を抜ける細い道がいくつかありますよね。その、江川邸、つまり二の丸に向かう真っ直ぐな道がそうなのではないか?ということでした。

その道の両側には家々が並び城下町を形成していたと考えられるようなお話しでした。


ということで、その後はそれぞれの講演内容に肉付けする感じのパネルディスカッションと、参加者の方達の質問&感想タイムとなりました。


ふぃ~。忘れないうちに、興奮冷めやらぬうちにと一気にここまで書いちゃいました~。4時間かかったわ。真夜中ですよ。早く寝なきゃ。

う~ん、うまく書けなくて申し訳ない。分かっていただけますでしょうかねえ。聞いている時は、フムフム、なるへそ~と納得なのですが、いざそれを文章にするとなると難しいですぅ。

また何か思い出しましたら少し変更・補足を入れたいと思います。


しかし、これだけの城が史跡指定になっていないとは思ってもいませんでした。当然なっていると思い込んでいました。そういえば、韮山駅ホームにある周辺案内地図にも韮山城は載っていませんよね。

後半のパネルディスカッションでもこのことには触れられましたが、史跡指定にならないのには諸々大人の事情があるようですね。反射炉の世界遺産登録申請とかの兼ね合いとかもあるみたいで・・。

まったくのマリコ・ポーロの妄想ですが、それは地主さんの関係もあるのかな・・。城山は個人の地主さんの場合が多いですし。本当に妄想ですが。


長文ここまで読んでくださりありがとうございました。以上なり。


pen 以下は韮山関係のマリコ・ポーロのブログ記事の一部です。随分昔に書いたので間違い勘違いがありましたらご容赦を。

「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-a414.html
「北条氏政が謙信公や信長にプレゼントした 江川酒」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-493e.html

「後北条の女領主、伊豆の山木大方」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html
「伊勢新九郎さん伊豆で温泉に入るの巻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-82c2.html
「北条氏規、今日(24日) 龍城を明け渡す」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-eb87.html

などなどなど。


萩真尼

cat コメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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