2020年5月 3日 (日)

小田原北条と「八丈島」

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


神は乗り越えられる試練しか与えない…
今、「JIN-仁」の再放送を再見していますが、果たしてそうかなと思ってしまいます。若い方はそうかもしれません。でも我らある程度の年齢以上の者は乗り越えられないまま終わるのではないか、と。

すみません、冒頭からドヨ~ンとしたことを書いてしまいました。

さて、本題は、我らが新九郎さんの時代の八丈島争奪戦でござる。いざ、参る!


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~戎光祥ヒストリカルセミナー「北条を倒すのはオレだ!~海と川をめぐる戦国大名の戦い~ 海をめぐる北条・関東上杉・三浦・里見の戦い」 レジュメ~


10年続けてきた小田原北条の見聞録ですが、不用不急の見聞は自粛。散歩圏内には北条ゆかりの場所がないため、以前拝聴してまとめられなかった講演会や北条以外のことばかり書いております…


今となっては、遥か いにしえ のことのように感じる一昨年/2018年の12月。「歴史秘話ヒストリア」で 新九郎さんこと伊勢宗瑞が取り上げられた時、八丈島 の陣屋の話があったのを覚えてらっしゃいますか?

そこでは、「八丈島の覇権争いは北条早雲の戦いの成否を決するもの」だとしていました。


小田原北条を10年以上も追いかけていながら、八丈島のことは初耳でした。聞いた時は、八丈島までぇ~?ホンマかいな?ヒストリアのことだからな~(ゴニョ)なんて思っていました。

しかし、どうやら本当のことのようですね。どうやら本当…と私が申すのも失礼ですが、昨年/2019年 に行われた真鍋淳哉氏の講演(上の写真)で、『八丈実記』(横須賀市史) というものに記録があることを知りました。巻9にいくつか載っています。


それは永正年間の、伊豆諸島をめぐる北条(伊勢)vs 扇谷・三浦の抗争中のこと。永正といえば、6年から始まったのが宗瑞の相模侵攻です。宗瑞は道寸殿の岡崎城を攻略 → 鎌倉侵攻 → 道寸殿が籠った三崎城を攻撃 → そして、三崎の落城が13年。

その頃の八丈島は、山内の家宰長尾氏→扇谷方であった神奈川の有徳人奥山氏(→のちに宗瑞に従属)や、宗瑞方である下田の御簾氏、道寸殿の北村氏などが、それぞれ代官として任命され、島の支配をめぐり様々な権力抗争が続いていたことが『八丈実記』に書かれています。


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~若い頃毎月のように行っていた下田多々戸浜 / この海の先の伊豆諸島に向かって安宅船が出陣してゆく…ちゃう、観光船の黒船(写真の写真を撮った)~


例えば永正11年のこと…

奥山宗隣と伊勢宗瑞が合戦となり、奥山忠督が奥山宗隣に加勢するため八丈島から出陣

道寸方が八丈島に渡海してきたため、奥山と道寸が戦いに及び

奥山は敗北し新崎の浜から出帆

しかし!沖合で伊勢宗瑞方の軍船13艘に追われ大島へ逃れる

しかし!宗瑞の代官朝比奈の二百ばかりの軍勢に夜討ちをかけられる

奥山は大島から三浦へ落ち延びる

翌年、八丈島へ帰島


どひゃ~、色んな人の色んな船が島々の間をアッチへコッチへ!

この戦闘についての『八丈実記』の記載はいくつかあります。それらは事の経過が少しづつ違いますが、奥山・宗瑞・道寸らの船が伊豆諸島の海を動き回っている様子が目の前に浮かぶように書かれています。

それにしても当時の船は後の安宅船とは違って、関舟とか小早舟のような小ぶりなものだったとは思いますが。どうなんでしょ。


真鍋氏によると、

「この間、八丈島をはじめとする伊豆諸島においても伊勢氏と三浦氏の抗争が展開」され、「この時期の八丈島は、全体としては伊勢氏の支配下にあったが、島の南部のみ三浦氏の支配下」
にあり、

武蔵・相模・伊豆の混乱に、八丈島をはじめとする伊豆諸島地域も連動し紛争が発生し激化していき、それはつまり「伊豆諸島が、これらの地域と開運を通じて密接な関係を有していたことを示すもの」

なのだそうです。


八丈島の支配権争いが激化したのは、永正12年。本土では、宗瑞が道寸殿を住吉要害から三崎へ追いやり三崎要害を攻撃している頃で、上↑ の、奥山が帰島した後の戦闘では、敵味方3千人もの兵が討死したとあります。

5月には両陣営とも城を築き、宗瑞方の朝比奈が「新崎に陣屋を構えた」そうです。ありましたね、「ヒストリア」で言っていた 陣屋


そして、永正12年の6月。宗瑞が伊豆諸島の支配を確保し、伊豆半島←→伊豆諸島←→三浦半島←→江戸湾 の海上ルートを掌握。これは、伊勢氏が「紀伊半島から東国に向かう際の重要な海上ルートを確保」することになったとのことです。


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~明治の大砲のレプリカ、三浦半島は大昔から現代に至るまでも防衛拠点(砲台郡跡のブログ記事文末添付)~


また「ヒストリア」では、確か、八丈島の特産 黄八丈 のことにも触れていましたよね。

それについても、黄八丈って江戸時代ぐらいからの特産品じゃないの~?と私は思ってしまったのですが、これも、どうも確かなようです。

講演では黄八丈の話がでたかどうか記憶が定かではないのですが、図書館に行けないのでネットで黄八丈の歴史を見てみたところ、室町時代から知られていて、関東上杉氏、小田原北条、上 ↑ の奥山氏、三浦氏などが黄八丈をめぐって争ったようです。


「ヒストリア」で観た時は、なんで八丈島?と思ったのですが、講演で「当時の海上交通において伊豆諸島、特に 八丈島 が重要だった」ということを認識しました~。


講演では、江戸湾(当時はそう呼ばなかったが)が常に脅威にさらされていて、パトロールや挑発行為がもちろん北条によっても行われていたことや、玉縄の北条氏勝の判物が残っている野中氏や、上総の山口氏のように里見・北条両国をまたいで活動する、いわゆる海の半手の商人の話などもあり、とても面白かった(と記憶している)です。

このことは、同氏の著『戦国江戸湾の海賊』(戎光祥出版)でも読めます。


が、壮大過ぎて知識が浅い マリコ・ポーロ にはそれらはまとめきれず、八丈島 の 箇所だけをどうにか書かせていただきました。

…いや、八丈島のことだけでも全部は書ききれなかったので、ご興味を持ってくださった方は時勢が一段落したら図書館で『八丈実記』を是非ご覧くだされませ。


ちなみに、
『八丈実記』の著者は近藤富蔵という文政年間に流された流人で、父上は、エトロフや千島探検で有名な人物だそうな。富蔵は隣人を殺傷した罪で八丈島へ流され、そこで書いたのが『八丈実記』だそうです。

ということは、宗瑞や道寸殿が活躍した時から250年以上も経ってから書かれたものです。もちろん土台とした記録のようなものはあったのでしょうが、随分と時を経ていますね。


そうそう、この富蔵殿の島での奥様は、宇喜多秀家の末裔だそうですよ。八丈島の最初の流人であった秀家殿がここで出てくるとは!
へえ~~


「北条五代の娘たち ⑧ 玉縄水軍の御しんぞう様」
「公方の姫~青岳尼事件 あらたに知ったこと」
「北条氏綱が、三浦道寸ではなく息子義意を祀ったのは何故だろうか?」
「伊勢新九郎 湘南ボーイへの道」

「三浦半島の大要塞!観音崎の砲台群ガイドツアー」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2019年12月27日 (金)

『太田資正と戦国武州大乱』中世太田領研究会

マリコ・ポーロ


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~まつやま書房 2019.12.15 ~


ついに出ました!
特に太田氏関係では御教授いただいている歴友師匠方の共著です。楽しみにしておりました。

我らが小田原北条の好敵手。なのに北条ファンにも大人気の太田三楽斎殿。拠点であった岩付や、主な舞台となった坂東の戦乱の中心地のひとつであった比企はじめ、三楽斎殿や取り巻く人物の足跡を丹念に訪ね、史料を丁寧に調査し、通説(?)とは違う視点も含めてまとめられた本です。


目次だけ見ても興味津々。

(武州大乱前夜を考える)
太田家の出自 / 太田「道真」資清 / 太田左衛門大夫「道灌」/ 道灌の家族 / 養竹院殿義芳永賢の死 / 太田美濃守資頼…等

("反北条の岩付城主"の虚像と実像)
虚像の資正 / 実像の資正(武州大乱以前)/ 実像の資正(武州大乱の四年間)…等

(勢力として見る岩付太田氏)
戦国期の支配領域・城館・家臣構成 / 関東幕注文から見る岩付太田氏家臣 / その他の一族・上級家臣


第四章は、三楽斎殿や家臣たちが活躍した地の解説です。

(現代に残る戦国を歩く)
埼玉郡地域の岩付太田氏史跡 / 足立郡地域の岩付太田氏史跡 / 入間郡・比企郡地域の岩付太田氏史跡

携帯しやすい本なので、こちらを持って巡ってみたくなりそう。


著者の「中世太田領研究会」とは…
「太田資正を中心として太田家の支配領域について、歴史学者や地方史研究家の著作から学び、文書館などで原典にあたり、また現地に赴いて残されている遺跡を確かめながらそれぞれが学習した成果を持ち寄る会」
だそうです。

素敵ですねえ。小田原北条や我が八王子城と氏照にもこういう会がほしいです。(他人まかせにしないで自分が作れ!と言われこともあるが、単騎千里を行くことが多いので仲間がいない。羨ましくてござる。)


本のあとがきで、「…もっと他に書くにふさわしい方はたくさんおられると思うと恥ずかしい限りであるが」と謙遜してらっしゃいますが、皆さん本職は違えど研究者であり、単なる趣味の歴史好き同好会が出した本ではないです。本格物です。

また、「学者には書けない大きな疑問についても記すことができた」とあるのも興味津々のところ。


発売されたばかりなので「はじめに」と「おわりに」を読んだだけですが、今まで伺っていた研究会の方のお話しと合わせて考えると、この本は、現代の武州における三楽斎殿と岩付太田の 復権 の本だとも思いました。


年末からお正月にかけて、テレビはまた4時間・5時間の、同じようなメンツが大量に出て大声で大騒ぎしたり、大勢で食べ歩き「ん~、メッチャ美味しい~」と言ったりするような番組ばかりになりますね(←私感なり、大勢で楽しくにぎやかに番組を盛り上げている…という見方もあります)。

現代の武州でこの本をゆっくり読みながら、450年前の武州大乱に身を投じてみようか。


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~充実の厚さですがソフトカバーで軽く、文字も大きくて読みやすい(出版社の人か?って)~


🐎 余談
俳優のモックンのお家は「鴻巣七騎」のひとつだった本木家なんですってね!ドびっくり~。来年の大河「麒麟がくる」で、大河史上最美 の美濃のマムシ殿を演じられますな。


よろしくば

「岩付城を築いたのは、太田か成田か?」



萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2019年3月21日 (木)

宗瑞が使ったかもしれない「小野神社の銅鐘」

マリコ・ポーロ

 

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~小野路「小野神社」~


🎵 鐘にぃ 恨みは 数ぅ数ぅ ござ~る~

と、鐘に身を隠した安珍を追い山路をひた走る清姫の如く、小野路「小野神社」の釣鐘をめざし現代の鎌倉街道をひた走る(バスで)マリコ・ポーロ。

いや、鐘に恨みはさらさら✋あらねど、小野路の小野神社に応永年間奉納の、刀傷がある古い銅鍾があるそうな。鐘は600年の間に回りまわって、今は重要文化財として逗子の海宝院にあるそうな。


以下、超ややこしい警報&超長文警告。


⛵ 小野路

街道や宿には皆さんの方がお詳しいと存ずるのでチョビットだけ。

小野路は町田市の北方に位置する。鎌倉と武蔵国の府中を繋ぐ古代からの交通の要所にある町で、江戸時代には宿が置かれていた。


戦国期は我らが北条氏照の八王子領であり、幕末には、名主だった小島家により天然理心流の道場が設けられ、近藤さんや我らが土方さんが出稽古に通ったりしていた。

土方さんの日野から小野路までは、現代の車なら30分位(混んでなければ)、徒歩(かち)なら2時間半ほどになる。京に上る前の土方さんは、欝々とした日々の中で何かデッカイことを成したいと(←想像💦)この道を通ったのだろうか。小島家は資料館にもなっていて、家に伝わる新選組ゆかりの資史料を展示している。(開館日が決まっています。)


⛵ 小野神社(旧小野大明神)

小田急線鶴川駅からバスに乗ること約10分。小野神社はちょうど街道が交差する三叉路の宿の入口に鎮座ましましていた。石段を登ると…

あった!
鐘は、本殿の回廊の右端に吊り下げられていた。

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おのれ、安珍!!

って、ちゃうちゃう✋


神社の入口にあった説明書には次のようにあった。
(鐘のところだけ抜粋)

…応永十年(1403)には、小野路村の僧正珍が寄進を募り、交通の安全を祈願して宮鐘を奉納した、朝夕に別当寺の清浄院(現在廃寺)の僧が宮鐘を撞いて旅人に時を知らせたという。戦国時代の文明年間に、両上杉の合戦で、この宮鐘は山内上杉の兵によって、陣鐘として持ち去られた。現在は、神奈川県逗子市沼間の海宝院に保管されている。宮鐘は昭和五十九年に…


本殿は高台なので3方の街道を見下ろすことができる。当時の鐘がどこに吊り下げられていたのかは分からないが、朝夕にこの鐘は宿に鳴り渡り、街道をゆく人達を見守って(見張って?)いたのだろう。


略奪は当時の戦では当たり前。文明年間の戦とはどの戦だろう?  刀傷はその時に付けられたのだろうか。

鐘の下へまわってみる。鐘の由緒が書かれたものが掲げられていた。


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神社の由緒書とほぼ同じだが、こちらには、

文明年間の両上杉の戦いの時に、
山内上杉の兵が陣鐘として使用し鎌倉に凱旋しのち若干年を経て海宝院に…

「鎌倉に凱旋し」という文言が増えていた。ふーむ。鐘はいったん鎌倉にも持っていかれたのか。その後、長谷川氏が手に入れるまでは百年はあると思うが、「若干年」とあるね。


説明書にあるように、鐘は今、逗子の海宝院の本堂内に保管されている。小野神社に今置かれている鐘は複製である。海宝院の本物は普段は見られないそうなので、複製でもよいから見てみたく、小野路へひた走って来たのだ、バスで。

鐘のことを知ったのは、逗子「海宝院」の伝承を読んだからである。


⛵  旧三浦郡の「海宝院」寺伝

往古武蔵国八王寺小野大明神の鐘にして 徳川幕府のころ 当郡高山城 則 北条氏の築かれし城へ軍用の為取り寄せ置き 其の後 当郡奉行職長長谷川氏へ軍功に仍て軍器と共に右鐘拝領相成 当院建立の際納められし鐘也
(逗子市HPより)


海宝院の説明書きや逗子市のHPによると、「当院建立」は、長谷川さんが代官として三浦郡に派遣された徳川入府の頃らしい。細かく言うと、最初の建立は横須賀村で、逗子に移ったのは慶長期だそうな。後から調べた『相模風土記』には、海宝院は天正19年に御朱印を賜ったとある。

鐘の移転について少し考えてみる。考えてみるのがメンドクチャイ方は文末近くまですっ飛ばし、しばし「小野路里山交流館」でまったり~☕してくだされ。


話はチト逸れるが…
なぜ、たかが鐘のことをこれだけ調べるのかと申すと、いつも書いていることだが、アクセス数も少ないこんな弱小ブログでも、ありがたくも読んでくださる方達がいる。マリコ・ポーロの書いたものなのでよもや全面信じたりはされないとは思うが、もしかしたら記憶のどこかに残ってしまうこともあるかもしれない。素人歴史ファンのブログとはいえ発信する以上は責任がないとは言えない。

過去のブログ記事も、何か気が付いたら追記なり訂正なりを出来る限りしてはいるが、どうしても追いきれない。だから、何かを見たり読んだりしても鵜呑みにせず、なるべく調べて調べて書きたいと思っているからである。

ちょっと、おこがましい?


神社の御縁起や御由緒には微妙なものがあるのは皆様ご承知のことだが、寺社は歴史の研究者ではないし、寺伝なども、歴史が今のように微に入り細に入りまくって研究され進化する前に書かれたものも多いので、それは仕方のないことだと思う。

海宝院の伝承についても、いつ作成されたものかは分からないが、鐘の最後の持ち主の長谷川さんが御自身開基の海宝院に寄進した時に鐘のことを何と言って書かせたかもかなり影響していることだろう。しかし、今のところそれしかないので、主にそこから鐘の移転歴を整理してみたのが以下。

あ、新九郎さんの出番はもうしばしお待ちあれ。←引っ張る引っ張る


話を戻し…

⛵ 鐘の移転歴

① 応永10年、八王子領の小野路「小野大明神(現小野神社)」の僧正珍が奉納
(鐘に刻まれた銘文/小野神社/海宝院などの説明書/町田市史・逗子市HPなどより)


② 文明年間の両上杉の戦時に山ノ内の兵が持ち去り、鎌倉に凱旋する
(小野神社の由緒より) 


③ 徳川幕府の頃、「当郡」の高山城(すなわち北条の築いた城)に取り寄せ置く
(海宝院寺伝より/「三崎志」←後述))


④ 「当郡」奉行の長谷川長綱が拝領
(海宝院寺伝より)


⑥-1 長谷川長綱が三浦郡の海宝院建立時に寄進
(海宝院寺伝/逗子市HPより)

⑥-2 文禄の頃、長谷川長綱が、菊名にあった三浦道寸の鐘を海宝院に移す
(「三崎志」←後述))


ざっと、こんなところで合っちょる?


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~逗子「海宝院」の四脚門。当時のままだそうで、朱塗(この写真で分かる?)に茅葺の屋根が素晴らしい。一見の価値あり。大船や逗子湘南藤沢あたりには茅葺の門をもつお寺がいくつかある。~


移転歴からは様々な疑問が出てくる。主な疑問の、三つ鱗ならぬ四つ鱗。

▲-1 まず、伝承の時系列が妙。

▲-2 当郡へ誰が、なんの軍用のために取り寄せたのか?

▲-3 山ノ内が略奪してから、当郡へ取り寄せられ長谷川長綱が拝領するまで、鐘はどこにあったのか?

▲-4 「当郡高山城 則(すなわち)北条の築かれし城」はどこなのか?←これが、新九郎さんに関係があるかもしれないこと。


そこで、もっと考えてみたい。

うぎゃ~😠もうどーでもエエ!という方は、文末近くの「小野路里山交流館」まで素っ飛ばしてくんなまし。


▲-1 時系列が妙?

鐘を取り寄せ置いたのが徳川幕府の頃で、③。長谷川さんが鐘を拝領し海宝院建立の際に寄進したのが文禄・慶長の頃で、⑤&⑥。

あにゃ~?海宝院建立の年代は確定できないが、慶長期だというのはお寺の説明書からもそこはかとなく読み取れるから、これは、③の「徳川幕府のころ」は、「徳川入府のころ」なのではないのかにゃ…。


▲-2 当郡へ誰が、なんの軍用のために取り寄せたのか?

まず、海宝院寺伝の「当郡」とは三浦郡のことである。この伝承は、三浦郡にあるお寺「海宝院」の伝承だから、当郡=三浦郡 と読み取れる。実際そのあとに続く文章に、同じく「当郡奉行職長谷川氏へ」とある。長谷川さんは当時三浦郡の代官であったから「当郡奉行=三浦郡の奉行」ということになる。

念のため、専門の諸先生方や、三浦市さんと逗子市さんにも確認したところ同様の解釈だった。

前半の「当郡」と後半の「当郡」が違う郡ということはないか?と伺ったところ、同じ文章内で「当郡」の意味が違うということはまずナイとのことだった。


誰が取り寄せたのかについては主語がないので絶対とは言えないが、もし長谷川さんだったとし、上にも書いたように、これを「徳川幕府のころ」ではなく「徳川入府のころ」とすると、時はまだまだ超々々不安定。長谷川さんの陣屋は浦賀だったそうだから、海防 のためということも考えられる?

う~ん。分からん!


▲-3 山ノ内が略奪してから当郡に取り寄せられ長谷川長綱が拝領するまで(小野神社の鐘の由来には「若干年」とあったが…)鐘はどこにあったのか?

その間約百年あるが、移転歴の③&⑥-2の引用として挙げた「三崎志」には、こう書かれている。

「陣ヶ台菊名にあり。道寸陣鐘此処にありしと。文禄中長谷川七左ェ門沼間海宝院に移せしなり」


「三崎志」は江戸時代(たぶん宝暦年間)に書かれた地誌であり、その正確性については私は分からないが、これによると…

新井城(三崎要害)の「外の引橋」があるあたり「菊名」に三浦道寸の陣鐘があったのを 文禄の頃に長谷川さんが海宝院に移した、ということになる。


ふ~む。

当郡(三浦郡)へ取り寄せ置いた…
というのは海宝院の寺伝にしかみられず、他の資料はみな、「山ノ内の誰かが略奪→文禄のころ長谷川さんの手に入る」と間の百年をハショッテいる。


ということは、山ノ内の誰かが鎌倉のあと三浦へ持ってゆき、菊名へ陣鐘として設置したのだろうか。そして、鐘はそのままそこへ(またはどこか他の所へ)、戦国時代の百年間置かれたままになっていたのだろうか。お寺の伝承からは、それしか読み取れない。

長谷川さんはそれをいただけるように申請して拝領とし、または、勝手にいただいちゃったのを「拝領」とし自身の寺へ納めたのだろうか?

分からんのう。


▲-4 徳川のころ、鐘を取り寄せ置いた「当郡高山城」とはどこなのか?

いよいよ新九郎さんこと伊勢宗瑞の出番…かもしれない。

なんだとー!ここまで引っ張ってきて、「かもしれない…」だとー!💢


コホッ。さてっと。


☆ 寺伝は記事のトップの方に挙げたので、再度ここに書くのでご参照くだされ。

往古武蔵国八王寺小野大明神の鐘にして
徳川幕府のころ
当郡
高山城
則 北条氏の築かれし城へ
軍用の為取り寄せ置き
其の後
当郡奉行職長長谷川氏へ
軍功に仍て軍器と共に右鐘拝領相成
当院建立の際納められし鐘也



☆ 繰り返すが、これは当時の三浦郡「海宝院」の寺伝であるので「当郡高山城」=「三浦郡高山城」とすると…

三浦郡に北条が築いた「高山」という砦だか陣だかがあって 約百年後(徳川入府のころ)、そこに鐘を取り寄せ置いたと読み取れる。(これも諸先生方に確認済み)。

これは、もしかして新九郎さん こと 伊勢宗瑞が新井城攻めの時に築いた陣ではないか?三浦に「高山」というところがないかどうか、三浦半島の地図を開いたところ、「引橋」や「陣場」あたりに「高山」というところがあることはある。もし、ここが寺伝の「高山」だとしたら、それは、宗瑞の新井城(三崎要害)攻めの時の陣場のことを指しているのかもしれない。


かもしれない というのは、以下より。

☆ 「逗子市文化財調査報告書 第二集』逗子市教育委員会」(昭和46年)こう書かれている。

~これら(小野神社・海宝院寺伝・三崎志・新編相模風土記など)を総合すると、北条早雲が三浦道寸の新井城を攻略の際、陣鐘として使用していたものが戦後その陣営地におかれていたものを、三浦郡代官長谷川七左ェ門が海宝院建立のとき寄付したものということになる。 ~


報告書には、早雲が使用して以来そこに置かれていたままになっていたのを、長谷川さんが海宝院に寄付したとあるが、そもそも、小野神社の由緒にも、海宝院の寺伝にも宗瑞のことは書かれていない。

『三崎志』には、菊名に道寸の陣鐘があったとあるが、

『相模風土記』に、菊名は早雲の陣営したところとあるので、

この鐘は道寸のものではなく宗瑞が使ったものだったとなり、

報告書の「早雲が新井城攻略の際使用した」

になったのだろうか?50年近く前の報告書なのでもう分かりましぇん。


そして、最後にもうひとつ。

うぎゃぎゃ~、ほんまこつ、もう、よかバッテン。マリコ・ポーロひとりで悩んでいろいっ!👊 って?というか、もうここまで読んでくださっている方はおらんと思うばってんとってんが、一人ぐらいはいらっしゃるかもしれぬゆえ。


あと少しなので、冒頭の小野神社のすぐ麓の「小野路里山交流館」でチビット一服☕してくだされ。


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~江戸時代の旅籠角屋を改装した「小野路里山交流館」。街道や小島邸を眺めながらコーヒーやうどんがいただける。お土産に里山コロッケや地の農産物なども購入できる。~


海宝院の、寺伝と鐘の由来書の差異

海宝院には、寺伝のほかに、鐘の由緒書がある。以下、由緒書の全文を4つに分け、↓ を付ける。


① 「鐘高一〇〇・六糎 鐘身七八・〇糎 口径五二・〇糎鐘の銘文によると、応永十年(1403)足利四代将軍義持の頃造られた、武蔵国八王子、小野大明神の宮鐘であることがわかる、文明年間(1469-1486)、扇ヶ谷、山ノ内両上杉氏の戦いの折、山ノ内上杉の兵によって持ち去られ」

② 「やがて永正十三年(1516)、北条早雲が三浦新井城に義同義意の父子を攻めたとき、これを陣鐘として使用したと伝えられている。」

③「徳川家康は、この鐘を八王子横山の高山城に軍用のため取り寄せた。」

④ 「のち長谷川七左衛門長綱が拝領し、海宝院創建のとき寺へ寄進したものだといわれている。 昭和五十年十二月 長谷山海宝院」


同じお寺のものなのに、由来書②&③の内容は、「往古…」の寺伝にはまったく書かれていない。寺伝の方が由来書よりは古いとは思うので、②は、逗子市さんの報告書を元にしたのかとも想像できるが、③は、どこにも書かれていにゃい。

当時のお寺さんは、どこから「家康」や「八王子」を引っ張ってきたのだろう。


もしかしたら、八王子の謎の「高山城」と「拝領」から推定して「徳川家康はこの鐘を八王子横山の高山城に…」としているのかとも思われるのだが、八王子の「高山城」は、八王子衆はご存知だと思うが、かつて発掘調査も行われたものの当時の文書などにはまったく現われず、その時代も機能も正確な場所も良く分かっていない。

また、八王子城は落城直後は上杉が在番しており、その後は大久保殿が代官として派遣されている。家康は落城の一年後に八王子を検分に訪れているが、大久保さんがいるのに三浦代官の長谷川さんがこの地に関係できるとは思えないのだが…。

北条研究の先生や学芸員さん方にこの件を尋ねたが、同様とはいわないが、そんなようなのことだった(もちろん、お寺の寺伝はあくまでもお寺に伝わる話なので…ゴニョ 、と皆さん異口同音の前提の上で)。


それとも、私がまだ見つけられない、家康や八王子が表れている史料が他にも何かあってこの由来書が書かれたのだろうか。

うーん、分からん。何か新しいことが分かったらまた書くことにしよう。まあねえ、戦乱が激しい時代、同じような運命を辿った鐘や仏像はたくさんあっただろうし、溶かされて鉄砲玉にされなくて良かったね。


そして、調べるにつれどんどん興味が深くなっていったこと、もしかしたら新九郎さん こと 伊勢宗瑞が陣場としたかもしれない「高山」を見つけたい。諸先生方にアドバイスいただいたことを参考に、三浦郡(現三浦市)を近々チョイトとうろついて、追ってブログに書きたいと思う。最も私がうろついてみたところで何も分からないとは思うけど💦。


☀ 最後に…
色々教えてくださった北条研究の某先生、鎌倉研究の某先生、逗子市さん、三浦市さん、歴史師匠の先輩方、お忙しいのに素人歴史ファンの問い合わせを調べてくださり、また、お返事もくださり本当にありがとうございます。お寺さんのことなので少しオブラートに包んだところもありますが参考になりました。心より感謝申し上げます。


「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-64df.html
「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e83.html

ほにゃ。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2018年11月 7日 (水)

氏綱の鶴岡八幡宮再建と氏康の「大鳥居跡」

マリコ・ポーロ


その熱気はどれ程のものだっただろう。

鳴り響く木槌や大鋸を挽く音、町中に飛び交う威勢のいい掛け声、牛馬のいななき。海から次々と運ばれてくる資材。七口を通り続々とやってくる人々…。


枯るる樹に
また花の木を 
植ゑそえて
もとの都に
なしてこそみめ

  by 北条早雲こと伊勢宗瑞


「枯るる樹」は衰弱した武家政権=鎌倉といわれている。

父宗瑞の決意を受け継ぎ、鶴岡八幡宮の再建を悲願とした二代氏綱。氏綱晩年の約10年は八幡宮再建に費やされる。そして氏綱の悲願は三代氏康に受け継がれた。


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~氏康が完成させた大鳥居の跡碑(拡大して読める?ガードレールで正面から撮れぬ。)大鳥居建設の年については、マリコ・ポーロ的に少々疑問あり。~


こうして先代の意志を次代が着実に受け継いでいくというところも、北条五代の魅力のひとつ。続いたからこそ受け継ぐことが出来る。


さて、
鶴岡八幡宮再興の大旦那である北条氏綱の命により、真里谷の協力の元、八幡宮の大鳥居となるべく2本の巨木が上総峯上から海を渡ってきました。しかし、その造営費用である相模・伊豆から徴収された棟別銭は、担当した僧侶が着服し 大鳥居造営は頓挫。ドびっくり~。


その後、氏康が父の悲願を受け継ぎようやく大鳥居は完成。その大鳥居の跡が残っているとは知りませんでした。

大鳥居がどのあたりにあるのか分からなかったのですが、当時はそこまで段葛が続いていたようなことも聞いていたので、「下馬」のあたりかと思い、海に向かってトコトコ歩きました。


ありました、ありました!
下馬からちょいと先、徳川さんが造った今の一の鳥居より少し八幡宮寄りにありました!当時はこのあたりまで海だったのですね。

碑と跡(丸く平たい石が重なったようなの)は、八幡宮から海に向かって右側。反対側の跡は、点字ブロッグの下に丸く示されていました。ここに建っていたのですねえ


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~八幡宮を背に右側。~


大鳥居のための巨大な古木は、太さ約6m。長さは約 20m。

上総峯上から → 川を下り佐貫浦へ → 海を渡り → 三崎に着き → 小坪へ回航 → 由比ヶ浜へ数千人で運びましたそうな。峯上から海まで川を下らせるのも大変な作業ですが、幸か不幸かなんと洪水が起き(不幸だ)、下流まで押し流してくれたそうな。

小坪から由比ヶ浜への曳き上げは八幡宮造営のメインイベントとなり、人々の興奮は絶頂に達したことでしょう。


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~八幡宮を背に左側~


八幡宮の再建は、小田原北条氏が関東の武家の頂点であることを万人、特に関東の敵方に認めさせるための巨大プロジェクトでした。

皆様ご存知のことですが、八幡宮の神主や小別当を遣わし、坂東から伊豆あたりの武家から勧進という名目で寄付を徴収しています。これは、北条につくかどうかのリトマス試験紙でもあったのですよねえ。


対武家だけではありません。我らが氏綱公はしたたかです。鎌倉の住民感情をよく把握しています。今でも鎌倉の方達って地元意識が高く難しいでしょ(ゴメンナチャイ。ゴニョゴニョのニョ。鎌倉大好きよ チュッ)。

氏綱は、寺社はもちろんのこと、町衆巻き込み作戦も展開。伊東一美氏も書いてらっしゃいます。鎌倉は、武家の都市鎌倉ではなく、「寺社と町衆の都市鎌倉」だと。


あ!だから「武家の鎌倉」を訴求した世界遺産認定はダメだったのか。いや、ちゃうちゃう ゴニョゴニョのニョ。

氏綱は現場にしょっちゅう現われ、アチコチに顔を出します。アピールですね。時には、自ら西 門の柱を塗ったりもします(嗚呼、その塗ったところが今でも残っていればね~)。時には、由比ヶ浜で京都奉公の人達を連れて海人の方達と網引きをしたりもします。


本当に精力的ですねえ。なんだか秀吉を思い出しちゃった。あれ?


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~在りし日の大銀杏~


仮殿の上棟式の頃になると、氏綱の鎌倉での地位は絶大となります。

町衆たちも勧進をし、仮殿の礎石が少ないとなった日にゃあ、時宗たちが夜通しで石を集めて敷いてしまったとか。ドびっくり~。


やっぱりにゃ…と思ったのは、氏綱が後室の近衛家を通して呼び寄せた奈良興福寺の番匠たちと鎌倉・伊豆番匠たちとの間で様々なトラブルが起こり、蓄電者まで出たということです。

人の世の常。そりゃあるでしょうが、中央からも人を出させたことに、ドびっくり~。坂東の人々に、北条(伊勢)の八幡宮再興には都も協力していると思わせるだけでも十分な効果がありますよね~。


天文9年。鶴岡八幡宮正遷宮の儀式が華やかに行われます。翌年、大事業を成し遂げ次世代にその後を任せた氏綱は此の世を去ります。

氏綱が亡くなった後も建設はまだまだ続いているのですが、ここまで八幡宮造営について詳細に書き残していた鶴岡の社僧快元の記録『快元僧都記』もそのあたりで途絶えているそうです。

造営の大旦那である氏綱のことを書くのですから少しは話を盛っていることもあると思いますが、それを引いても快元の氏綱へ寄せるリスペクトには深いものがあったのですね。


大鳥居跡に立ち、目を閉じる。
過ぎゆくは海からの風。
再建時のあの喧騒が聞こえてくるようだ。



(以上は、大鳥居跡で当時にタイムトリップし見聞したことを元に書きました。

うそ。『快元僧都記(もちろん口語訳)』、八王子衆の先輩歴友にいただいた山室恭子氏『群雄創世記 1995.3』、先日のブログ記事の玉縄セミナーでの伊東一美氏が書かれたものを参考に書きました。)


萩真尼 こと マリコ・ポーロ


「北条氏綱が鶴岡八幡宮へ奉納した太刀」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-6e31.html
氏綱の鞍 「ススメ!小田原北条氏展」 馬の博物館」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/at-e4d3.html

「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e83.html
「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-64df.html

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-df71.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html
「里見へ走った公方の姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-82f7.html


画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2017年4月11日 (火)

北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺

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~功徳山「天嶽院」。境内は小田原北条の三鱗だらけ。~


(明応4年) 北条早雲こと伊勢宗瑞により開基

(天正4年) 火災に遭い、綱成と氏繁が中興開基

徳川時代は思いっきりハショリ…

(平成10年)室町時代の様式に統一し七堂伽藍が復興


開基は明応4年とのこと。宗瑞が茶々丸を追い、伊豆に居を移した年ですね。


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~近くの湘南深沢にある大慶寺や等覚院と同じく、山門は素敵な茅葺の屋根。~


「北条五代の息女たちシリーズ」で、脳内は混乱状態。また、あまりのマニアックさゆえかブログ記事へのアクセス数が激減。

コメントもまったくいただけなく、北条にはヒロインがいないと世間で言われるけれど、こんなにいるのに、つまり興味があまりないのかもしれないな~と意気消沈の今日この頃。


息女達を一休みして、大船にある伊勢宗瑞ゆかりの「天嶽院」をお参りしました。

北条ファンにとっては三鱗だらけの境内を歩くだけでもテンションが上がります。玉縄の龍宝寺や大長寺(大頂寺)、深沢の寺々とあわせての、北条ゆかりの大船めぐりなんていかがでしょう。


たまたまお寺の方が出ていらして三鱗のクッキーをくださいました。

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もったいのうて、食べられにゃい…


「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e83.html

「玉縄城-1 現代の難攻不落の城へ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-170d.html
「玉縄城-2」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-77e4.html
「玉縄城-3」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-0e19.html

「玉縄城の歴代城主の法要が営まれました」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-0e25.html

大船「大長寺」について→「前編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の謎」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-47de.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2016年8月24日 (水)

御用米曲輪の『報告書』&『江戸東京の下町と考古学』

マリコ・ポーロ


その前に…
岩櫃で楽しそうなフォーラムがありますね。

岩櫃城フォーラム
『ここまで見えた!!岩櫃城~最新の調査で明らかとなる真田の城の姿とは?~』

日にち: 9月19日(月・祝)
ところ: 東吾妻町コンベンションホール
定 員: 400名
申込不要
講演は、竹井英文氏、吉田智哉氏(東吾妻町教育委員会事務局)、齋藤慎一氏

吾妻町HP→http://www1.town.higashiagatsuma.gunma.jp/www/contents/1464220726660/index.html


▲▲▲
さて、本題。こたびは本と報告書のご紹介です(別に出版社の回し者ではございません💦)。


谷口榮 『江戸東京の下町と考古学』 

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~2016.2.25 雄山閣 2,200円 カバー表(東京東部地形段彩図 小林政能氏提供)


「縄文海進から昭和の戦争遺跡まで、近年の発掘調査の成果から水の都・東京低地の地域史を描く!!」著者は、江戸(東京)の歴史好きにはお馴染みの、葛飾区郷土と天文の博物館学芸員・谷口榮氏。

まだ中世のところしか読んでいないですが、前島や葛西城のことが載っています。考古学なので人物のことはほとんど書かれていませんが、右下の赤丸内に「家康以前の江戸は寒村ではなかった!」とありますよね。このところ非常に気になっているテーマなので、とても面白かったです。

雄山閣HP→http://www.yuzankaku.co.jp/products/detail.php?product_id=8283


『史跡小田原城跡 御用米曲輪 発掘調査概要報告書』 

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~2016.3.30 小田原市教育委員会 3,000円~


関係者用か!というくらいの、もっの凄い情報量。「戦国期遺構全体図」のオマケが嬉しい。

東国中世考古学研究会HP→http://tougoku.cocolog-wbs.com/_online/2016/05/post-2555.html


『発掘調査成果でみる16正規大名居館の諸相‐シンポジウム報告-』 

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~2016.3.10 東国中世考古学研究会 2,500円~


2015年7月18日・19日に開催されたシンポジウムの記録集。 発表要旨の再録、総合討論の記録、成果と課題を掲載。16世紀の大名居館の建物・庭園・空間構成をどう読むか?(以上コピペ)

御用米曲輪はもちろんのこと、大内氏館、朝倉氏館、韮山堀越御所などなどなどの、調査成果の報告とそのあとのシンポジウム。

HP→http://tougoku.cocolog-wbs.com/_online/2016/05/16-e878.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2016年8月16日 (火)

北条幻庵の子息の菩提寺「三島 祐泉寺」

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~蓮と三鱗(本堂の屋根)のマリアージュ。祐泉寺は北条新三郎さんの中興開基。ゆえに、三島といえど三鱗は前北条ではなく後北条。~


前回のブログ記事の日帰り旅の続きでござる。伊豆の歴友さんが、三嶋大社→仏の里美術館とまわる前に、連れて行ってくださいました。


新三郎さんの父、北条幻庵宗哲とは

昔書いたことの繰り返しに少しだけ加筆したもので恐縮ですが・・


今更私が申すまでもなく、北条幻庵宗哲は北条早雲こと伊勢宗瑞の子息で、二代氏綱公の腹違いの弟君であります。

幻庵は、子供の頃から箱根権現に入り→近江三井寺で過ごし→その後は箱根権現の別当となります。箱根権現、伊豆韮山、上野平井、武蔵大井、小机・・等々々、莫大な所領を有す武人としてだけではなく、京とも密接な繋がりを持つ、北条家の文化&風流担当重役でもあります。


また、御一家衆として、男子女子問わず一族の端の端までの面倒を見ていたようです。誰がが亡くなると、その後進の後見となり、誰かが嫁ぎ先から出戻ってくると、その庇護をしていたようです。


幻庵は生涯、小田原本城近くの久野に住まいします。

久野の屋敷は堀と土塁が周囲を囲み、竹林の奥には風雅な茶室があり、一角には先だった正室の菩提寺が建っていたそうです。さながらひとつの城郭のようだったのでしょう。現在も屋敷跡の遺構がほんの少し残っています。


と~っても長生き。初代宗瑞から五代の氏直までが会えた方です。北条の百年を見てきた人。生き証人。

ただ、最後の最後だけは見ることがなかった。北条一族の上昇だけを見た、ある意味で幸せな人。いや!ここまで一族を見てきたのだから、肉体は死しても魂は残り、一族最後の日を小田原城で見届けたのかもしれません。


北条新三郎

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~祐泉寺の新三郎の墓。隣に並ぶのは、同日、討ち死にした弟の融深のものだと伝わっている。~


が、しかし、そんな重鎮中の重鎮の子息たちは・・・

長兄の三郎さんが早くに亡くなります。そのため、新三郎さんは跡継ぎとなります。だから、「新」三郎。


ところが、新三郎さんは、永禄12年の武田信玄の駿河侵攻時、城将として在城した、対武田最前線の城「蒲原城」で戦死してしまうのです。なんと、弟の融深も一緒。

蒲原城での戦いは非常に激しいものだったらしく、二人の兄弟だけではなく、清水康英の息子や、笠原など城兵たちは全滅したと伝わっています


三郎さんも、新三郎さんも、融深さんも生年が分かりませんのでシカとは申せませんが、幻庵殿は、息子3人とも、10-20代で亡くしてしまうのですねえ・・・。


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~祐泉寺にある新三郎氏信の肖像。死後100年位経って描かれたものとのこと。チト老けてないかえ?~

新三郎さんの正室は公家の西園寺家から迎えています。北条御一家衆で公家のお嫁さんがいるのは、新三郎さんだけです。父幻庵の京との繋がりが分かりますよねえ。


新三郎氏信の跡継ぎ

幸い新三郎さんには、氏隆という跡継ぎがいました。小田原戦の時は本城に籠城し、その後は氏直らと同じく高野山組です。

赦免の後は、讃岐丸亀城主生駒氏に仕えそこで亡くなります。跡継ぎはいなかったようで、幻庵の北条家はここに終わりとなりました。


祐泉寺
ご住職が語る、幻庵家と新三郎さんの話が面白かったです。ご住職は、新三郎兄弟が討死したのに、武田信玄を名将だと称えてらっしゃいました。敵を悪く言わないご住職はさすが仏門の方でらっしゃると思いました。


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蒲原落城とは全然関係ないですが、祐泉寺さんには第六天がお祀りされていました。一瞬、おおっ!と思いました。

我が氏照どのの八王子城の搦手にも第六天があります。前に、小田原の百姓曲輪のことを書いていた時に、小田原北条の守護神は何だろうと歴史師匠と話したことがあります。表は弁財天ですが、絶対に裏守護神があるはずだと。それでビビッときたのが第六天でした。ま、何の根拠もない妄想ですが・・・。


祐泉寺さんはHPも充実→http://www.geocities.jp/pycbb333/

マリコ・ポーロ、幻庵殿関係のブログ記事の一部です。

「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html

「小机は まづ妄想の初めなり・・」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-3e14.html
「戦国武将が愛好した尺八 一節切」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-8c55.html
「初詣2 北条幻庵の箱根」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-87c7.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2016年2月19日 (金)

激戦!金窪城から神流川へ~天正壬午の乱

・・・前回の続きでござる。
「神流川の戦い」前夜についてはこちらをあわせてご覧くだされば嬉しゅうござりまする。→ 「神流川の戦いの地へ~天正壬午の乱」 http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-dae8.html


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~小山川越しに見た、18日に初戦が行われた金窪城。写真の向こうが、神流川をはさんで上野。滝川勢が攻めてきた方角である。~


さて。

我ら現代の名胡桃勢と北条勢の6名は現代の神保原駅に結集。まずは資料を入手しに上里町立図書館に向かいました。

神流川の戦いについての展示をひとしきり観ながら あーだこーだ とべしゃりまくった後、隣接する文化財課の事務所に資料&史料があるかもしれないということでそちらへまわり、たまたま いらした職員の方(文化財課の方?)に名胡桃城衆が質問。なんと、その方が神流川合戦に非常に詳しい方で色々とお話しを伺うことが出来、我らのタイムトリップの旅は出だしから一気にテンションアーップ。 さすが、名胡桃城ガイドさん!


神流川(かんながわ、かんらがわ)の戦いを時系列で追ってみた

▲ 天正10年6月某日(18日か?)

北条氏邦率いる鉢形勢は神流川を渡河!倉賀野方面(群馬県高崎)を目指し出撃する。一方、厩橋から和田(高崎)まで出張っていた滝川勢はこれを迎え討ち、鉢形勢多数を討ち捕る

鉢形勢は後退。神流川・烏川合流点を渡河して返し態勢立て直しにかかる。


▲ 天正10年6月18日

和田(高崎)を発った滝川一益と佐野宗綱(下野)勢らは、北条氏邦勢を追撃!利根川・烏川・神流川合流点を渡河し、両者は 金窪城 で再び激突する

氏邦率いる鉢形勢は敗退。当主・北条氏直率いる、我らが北条軍団軍団長・氏照、氏規ら本隊の到着を待つことになる。


▲ 翌 6月19日

北条氏政本陣を吉見(埼玉比企)に置き、鴻巣→熊谷→深谷→本庄→石神と進軍してきた、2万に及ぶ北条氏直本隊が氏邦勢と合流。

神流川河畔にて再び滝川勢との激戦が始まる


総大将・北条氏直は伏兵を配置。松田憲秀、成田氏長らが滝川勢を誘い寄せ、滝川勢が誘い出されたところに後陣を繰り返し繰り返し送り出し一気に撃破
(↑群馬県立歴史博物館歴史講座 2006年11月のレジュメより。元データは天徳寺寶衍書状、松平義行所蔵文書某年譜、石川忠総留書など。)

北条本隊の到着によりすでに戦意喪失していた上野国衆は次々と離脱。滝川一益は箕輪城へ撤退する。

北条本隊は倉賀野へ侵攻、摂取。


▲ 6月20日
滝川一益は上野国衆の人質を伴い、信濃小諸城へ入る。人質は途中の碓氷峠で一部を解放。小諸にてもまた一部を解放。(徐々に解放。)


▲ 6月22日
北条氏直は上野を制圧すると同時に、北条氏照・氏邦らと共に信濃の調略にとりかかる。


そして・・

7月12日、先鉾隊は北条軍団軍団長・北条氏照と弟・氏邦。川中島にて上杉軍と対峙することとなる!


まあねえ。
上野国衆にとっては、いかに北条が嫌いでも、滝川一益は結局は遠くへ帰ってしまう人。佐竹も動かなかったですしね。

ましてやこたびの北条は、御大氏政、若当主氏直、北条軍団軍団長の泣く子も黙る北条氏照はじめ、氏邦・氏規ら兄弟衆、松田、塀和をはじめとする歴戦のつわものの重臣たちの総力戦。そんな相手と戦っても、滝川殿が帰ってしまったらなんの益もないですものねえ。


また、北条氏邦ですが、二度に渡る敗退は不覚をとりましたね。

『北条氏康の子供たち』のブログ記事で書きましたが、北条家の序列はシビアです。なんとか挽回せねばと必死の思いだったことでしょうな。


金窪城

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~もっと立派な新しい石碑も建っていたが、この方が雰囲気があるし後方の土塁も見えるので、こちらをアップ。~


現代の名胡桃城勢&我ら北条勢6名が図書館を出て最初に向かったのは、18日に激戦があった金窪城。城址で車を降りたとたん・・

へ、へ、へーち(平地)?

平安後期の築城のようなので平地ということはあるのかもしれませんが、それにしても見渡す限り真っ平ら。


と思っていたら、家に帰って、いただいた上里町史中世編(抜粋)のコピーを読んだところ、城の立地は「烏川(神流川)の河岸段丘(海抜58~60m)上に構築」だそうな。

河岸段丘。最近はやりの、どこかで聞いたその言葉。


金窪城は、鎌倉の御家人加治氏が築城とも、新田義貞の築城とも伝わっているようですが、室町後期には山内上杉の家臣斉藤氏の居城でした。斉藤氏は、山内が廃れたあとは北条方となり天正18年をむかえます。

また、城は、天正10年の神流川の合戦でいったん焼失したとのこと。


古く小規模な平城なので全然期待していなかったのに(すみません)、こんなに残っているとは驚きました。

とはいえ一人で行ったらまったく分からなかった。何度かここも訪れている縄張りフェチ?の北条友の深谷衆軍師が、縄張り図を広げ主郭の周囲をグルグル周りながら、堀跡や土塁や家々の間に残るかつての城内の道の痕跡を教えてくれました。


畑仕事をしている方や通りすがりの方が金窪城や神流川合戦のことに非常に詳しくて、こういう土地は珍しく、なんでだろうねえと話していましたが、あるお宅で軍師が道を訊ねて判明。

平成8年に、「金窪城攻防戦400年記念祭」というお祭りがあり、町民こぞって参加したそうです。その時に町に配布された資料 ↓ や武者行列の写真集も見せてくださいました。

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それでなのかどうかまでは伺いそびれてしまいましたが、金窪城のある上里町には中山道を辿る歴史の道のような観光コースが整備されていて、城の周りにも順路の案内標識や説明板がとても充実。

「金窪の皆さんは、北条さんと滝川さんのどちらのファンですか?」と名胡桃衆が聞くと、「北条だよ!」

いとうれし


南城跡(陽雲寺)

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~養雲寺(南城跡)に残る堀と土塁~


神流川古戦場の様子は前回のブログ記事をご覧くださると助かります。こちらはその後に訪れた「南城」です。古い城跡なのでやはり平地にあり、城というよりは館という感じです。

何ヶ所かに堀が残り、城(館)の外周を囲む土塁が分かります。北東の角には折れの痕跡も見られました。


説明板によると、南城(陽雲寺)は、鎌倉時代にもお寺だったそうです。新田義貞が鎌倉幕府打倒の不動明王を奉納したということが寺伝にあると説明板には書かれていました。

戦国初期に、足利氏の家臣大畠昌広が寺を城としてリノベーション。


大畠氏はその数十年後に滅びたようですが、その後は金窪城主の斎藤氏が寺名を変え帰依しました。しかし、天正10年の神流川合戦時に金窪城と同じく焼失したそうです。

境目の土地は人も城もお寺も波乱万丈ですねえ。


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~同じく南城に残る堀跡。外郭、にあたるのかな。~


ここに、ひとつ不思議が

説明板には、「天正19年金窪の城主となった川窪信俊が、養母である武田信玄夫人を伴って入封し・・・信玄夫人は元和4年に没した」とありました。現在の寺名「養雲寺」もその夫人の法名養雲院からとったとか。

境内には武田関係の広い墓地エリアがあり、門付きのスペシャルスペースには養雲院の立派な宝篋印塔もありました。


ほう・・。信玄夫人?誰だろう。

三条の方ではないですよね。三条の方は信玄殿より随分前に亡くなっていますし、法名も違います。甲斐の恵林寺にお墓もあります。ほな、油川夫人?違うよねえ。諏訪御寮人のわけはないし、禰津御寮人?違うな~??


皆で少し調べたり想像したりしたところ、川窪信俊殿とは信玄殿の甥っ子なので、養雲院様とは、どうやら「信俊の養母である信玄夫人」ではなく「信玄の弟の夫人で、信俊殿の実母」みたいなような。

すみません。よく分かりませんが、思いもかけぬ土地で武田信玄の名前が出てきたのでチョット驚きました。

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朝早くから本拠地を出立し、神流川合戦の地を右へ左へ上(かみ)へ下(しも)へと動き回った我ら名胡桃勢と北条勢の6名。最後は、某スーパーのフードコートにてコーヒ を飲みながら、軍議~

実は、お昼もこのスーパーのレストランでした。お昼を食べながらは神流川合戦の話を。夕方は名胡桃問題の話がメイン。ひとつの歴史的事柄について、坂東の戦国時代に対しての基礎共通認識があっての上で、立場が相対する人たち同士で話をするのって面白いですねえ。

平日が休みなのと、一緒に城跡や史跡を巡ったり歴代話をする仲間があまりいなくてほとんど単独行なので、こういうことは滅多になく、とても楽しかったです。


そんなこんなで滝川一益を坂東より追い払い、国衆に思いっきり嫌われながらも上野を掌握した北条軍。次は信濃・甲斐をゲットするため、同じく信濃・甲斐の地を狙う上杉・徳川との対決!とあいなります。

ポイント地点は若神子、ですかな。


(以上は、平山優著『天正壬午の乱』、齋藤慎一著『戦国時代の終焉』、上里町史中世編、下山治久著『北条氏照文書集』、群馬県立歴史博物館や玉村町の資料などを参考にさせていただきました。)


マリコ・ポーロ
「神流川の戦いの地へ~天正壬午の乱」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-dae8.html
「吾妻の中山城と北条氏邦のこと」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-8f7c.html
「名胡桃、推参!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-4ae8.html
「関東戦国の大乱~亨徳の乱」展 & 天正壬午の乱
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/at-e97f.html


萩真尼

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2016年2月14日 (日)

神流川の戦いの地へ~天正壬午の乱

以下は昨年の12月に書いたものですが、次回のブログ記事 「激戦!金窪城から神流川へ」と並べたかったのでこちらへ再アップいたしました。


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~利根川の支流、神流川にかかる神流川橋の常夜灯は江戸時代の復元だそう。こちら側が武州(埼玉県上里町)。向こう岸が上州(高崎市新町)。県境である。~


以前から不思議だと思っていたことがあります。北条は何故、滝川一益を放っておかなかったのか。滝川殿は本音は帰りたいのだからサッサと帰っていただいて、それからこっちはこっちで上野や信濃制覇に向かって動けばよかったのにと。

それはやはり、今後の上野掌握のためにも「追いやった」という形にしておかねばならなかったということなのか。それとも、滝川殿がなかなか帰らなかったから、待ってはおれず上野へ出陣しちゃったのか。


神流川の合戦は、小田原北条が終焉に至る最初の取っ掛かりとなった重要な戦いだと思っています。旧武田領争奪戦である「天正壬午の乱」はこの神流川から始まり、その後の領地仕置きがあの名胡桃事件を経て、北条運命の天正18年に繋がっていくのです。

ひとつ承知しておかなければならないことは、この時、まさかあの藤吉郎さんがその後の天下を制すとは日本中の誰もが、いや、お釈迦さまでも気が付くめえでした。


さて・・・
そんなこんなを探るべく(?)、霜月のある日、先年単騎で名胡桃城を訪ねた時に大変お世話になった坂東戦国史友である、名胡桃城ガイド衆と天正壬午(10年)の「神流川の戦い」の地へタイムトリップして参りました。

こたびは2名の北条友の軍師(名胡桃城衆曰く)を得、我ら3名の北条勢は真田勢(名胡桃城衆)3名と武州神保原駅前にてあいまみえることとなりまいた~!


カチャカチャカチャ・・

西暦変換1582年6月18日。 タイムワープ成功しました。code No.681025 上武国境、神流川 。真田勢と接触。これから記録を開始します!

な~んちゃって。。。
タイムスクープハンターをパクッた武将北条友のそのまたパクリです。


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~埼玉上里側(北条側)の「神流川古戦場」の説明板。対岸と比べてショボイが、両軍公平に書かれている。~


天正10年6月2日信長死す!の報は日本中を駆け巡る

6月7日。
坂東で最初にこれを知ったのは、もちろん、厩橋(前橋)城にいた、関東管領に就任まだ3ヶ月足らずの滝川一益。滝川はこれを周囲に隠そうとするも、坂東諸将達には各方面から情報はあっという間に伝わる。

6月11日。
我らが北条も、徳川家康、深谷にいた氏照の家臣・狩野一庵などから続々と報を受ける。


早い、早い。伝わるの早いですねえ。

書状とそれぞれの思惑を乗せた馬が、どれだけ猛スピードで坂東平野を行きかったことでしょう。


この時滝川一益は、上野国衆に信長の死をちゃんと伝え、たぶん追撃してくるであろう北条軍とは自分達だけで戦うと宣言し人質も解放した(関八州古戦録など後世に作られた軍記物)と昔は言われ、一部の地域では今もそう伝わっているようですが、今では研究が進み軍記物などの話からは離れ、そうではなかったとなっていますね。

上にも書きましたが、当初、滝川殿はこれを隠そうとします。しかし、それは無理なこと。そこで滝川殿は上野国衆に対して、

「京の情勢は大丈夫。安心してちょ」としながらも、「でも、北条が追ってきたら支援してね」

との依頼も出したようです。


▲ 一方、我らがアニキ北条氏政も滝川殿に対して、

「我ら北条を疑う心配はないですよ。出来ることがあったら協力するから、何でも言ってね」。

な~んてことを、うわべでは言いながら、裏では秒速で滝川追討と上野奪取に向けての準備を進めます。


あ、そうか!兄上様は、そう言って滝川殿を安心させてサッサと帰っていただく算段だったのか!


そんなこんなの時に、上野国衆の藤田信吉(用土新左衛門尉)が沼田城の権利を主張し滝川に対して反乱を起こします。

藤田信吉こと用土新左衛門のことはそれだけで長~い話になってしまうので、ここに書くのは割愛しますが、なかなか興味深い話です。実は実は、氏邦さんが養子にいった藤田家の傍流で、藤田家を正式に継承したのではないようですよん・・・ごにょ。ご興味ある方はお調べくだされ。


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~神流川を挟んだ上州側(高崎市)の「神流川古戦場」の碑と説明板。立派~。しかし内容は滝川寄り。「西上州軍を率い死闘を展開した」とはあるが、戦の勝敗(結局は負けて敗走した)は書いていない。~


さて、藤田こと用土さんの乱をどうにか終わらせた滝川殿。一路、自領伊勢長島への逃避行が始まることになります。

一人で転びながら、転がりながら、更科六兵衛さんに出会ったりしながら、ひた走った・・のは、映画「清州会議」での物語。実際はあんなじゃないことは皆さんご承知の上での映画の楽しみ方。実際の滝川殿はもっと有能で策略に飛んでいます。


これも上に書きましたが、昔は「滝川一益は人質を解放した」とされていました。しかし、同じく昨今の研究で、道中突破するために人質を連れて行ったことが分かっています。

上野を去る時に一部は解放されましたが、再び佐久・小県で人質を取り、なんと木曽まで連れていかれた人質もいます。真田昌幸の母上などもそのうちの一人ですよね。


木曽義昌に阻まれた滝川殿は、それらの人質を進呈することを交換条件として木曽を通してもらっています。

タイムトリップ中のどこかの何かで読んだのですが(忘れた(^^;)、このことを、「(滝川一益は)人質を保護し木曽まで送り届けた…」になっていたり、土地の古老が見せてくださった武州側の自治体が発行した資料にも、「滝川は人質を全て解放してから去ったので土地の者は感謝した」となっていたのには ドびっくり~でした。

逃げる際に人質を解放するなんて甘ちゃんな戦国武将では、敵地を通り抜けて行くなんてことは出来ませんよねえ。ひたすら藪の獣道を通れば可能かもしれませんが。


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~神流川橋の上から眺めた神流川。なるへそ、浅瀬ですな。~


それにしても…

当時の北関東は北条嫌いだから、我らが氏邦さんが悪者にされるのは理解できるのです。が、いくらそうだったからとはいえ、現代の関東で、430年前にほんの2ヶ月余りしかいなかった西の勢力の支店長だった滝川推しの理由がよく分からんのです。


ほんの2ヶ月余りで(←シツコイ)、その土地にそんなイイコトしたわけもなし。つまり、北条の侵略統治は相当の恨みをかっていたということですな。すみませんでしたねえ。

時は戦国時代。氏邦さんも、滝川さんも、真田さんも、上野国衆も、誰もが家と領地を守り広げるのに必死。特にここは境目の土地だったから、複雑だったのでしょうねえ。


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~武州、北条側の城「金窪城」にある説明板~


伊勢への帰陣を急ぐ、そんな滝川殿へ北条の追撃は始まります。

6月18日。
まずは、上州倉賀野へ向けて鉢形より進軍していた我らが弟くんの北条氏邦勢は、いよいよ金窪原で滝川軍と激突することになります


関東へ嫌々赴任したのに、3ヶ月も経たないうちに信長が死んじゃうなんて。滝川殿は、ついてない人だわねえ。なんだか同情しちゃったところで、次回へ続く・・・


(以上は、平山優著『天正壬午の乱』『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望』、齋藤慎一著『戦国時代の終焉』、上里町史中世編、群馬県立歴史博物館や玉村町の資料などを参考にさせていただきました。神流川へ参るにあたり資料を送ってくださった名胡桃城衆・八王子衆の方々、ありがとうございました。


「吾妻の中山城と北条氏邦のこと」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-8f7c.html
「名胡桃、推参!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-4ae8.html
「関東戦国の大乱~亨徳の乱」展 & 天正壬午の乱
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/at-e97f.html
「鉢形城 籠城中、なう」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-36e7.html


萩真尼

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2015年10月16日 (金)

駿府 「臨済寺」の特別公開

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~臨済寺といえば今川。今川といえば海道一の弓取り、今川義元。今川義元といえば、ご存知!黒衣の宰相、雪斎殿。~


サル10月15日、春と秋の年に2日(年に2回ではなく年に2日)だけの、「臨済寺」特別公開を拝観するため、家康殿ではなく!今川殿の駿府へ行ってきました。

とても混んでいましたが、午前中早いうちに行ったのでそれでもまだ人出は少なかったようです。 一度は行きたいと思っていたので嬉しくて、写真もいまだかつてないほどたくさん撮ってしまいました。


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~仏殿の前にも、雪斎殿の頂相~


今更わらわが申すまでもないですが、臨済寺は我らが北条早雲こと伊勢宗瑞の姉、北川殿ゆかりのお寺です。


今川の当主・義忠に嫁いだ北川殿の息子・氏親は、そのまた息子・栴岳承芳(のちの今川義元)のために、母上北川殿の別邸を「善徳院」としてお寺としました。

氏親亡きあと家督を継いだのは嫡男の氏輝でした。ところが氏輝は、小田原におよばれし長期滞在して駿府に戻った12日後(位だったかな?)に急逝してしまいます。享年23才。

なんと!すぐ下の弟・彦五郎君も同日亡くなります(彦五郎君という人はいなかったとの説もあり) 。

ど、どういうこと!?


そのあと、仏門に入っていた2人の弟たち、この善徳院の栴岳承芳(義元)と玄広恵探の間で跡目争いが起こります(花倉の乱)。

勝利した義元は、急逝した亡き兄上・氏輝を自分がいた「善徳院」に葬り、寺名を氏輝の法名「臨済寺」としたのでござります。


この跡目争いの時、我らが北条は栴岳承芳(義元)をバックアップしますね。

う~む。
色々と妄想は広がりますが、なんの証拠も残ってはいまへん。


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~氏輝殿と義元殿の兄弟~


雪斎の鐙、雪斎の陣中袈裟、雪斎の陣中鉄鉢・・などなど、雪斎殿の遺品がたくさん出ていましたが、臨済寺の開山は雪斎ではありません。大休宗休という方です。

雪斎は駿河の名門庵原氏の出身で、京都建仁寺に入り、そのあと妙心寺に移ります。大休宗休は妙心寺の二十五世住持だった方だそうです。


雪斎は建仁寺にいる頃に、氏親の命により、氏親の四男の栴岳承芳(義元)を伴って富士下方庄の「善徳寺」にも入っていました。つまり雪斎は義元にとっては「兄さま」、義元は雪斎にとっては「弟 でい」ということになるのでしょうか。

(今、海道龍一朗の『室町耽美抄 花鏡』を読んでいるので、まさにツボなところ。でも、主従関係が逆だから少し違うかな・・)


義元にとって雪斎は仏門では兄弟、俗世では執権。ずっと一緒ですね。雪斎がもう少し長く生きていたら、義元の一生もまた違ったものになったのでしょうか。


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~方丈から書院に渡る階段。建物の中で、この階段だけが室町時代から残るものだそう。~


臨済寺は義元亡きあとの駿河の奪い合いによる武田軍の侵攻で焼かれてしまいました。それを再建したのが成長した竹千代君、つまり徳川家康殿です。

臨済寺へは駅からバスで10分強ですが、ちょうど便が悪く、時間がもったいないので行きはタクシーにしました。途中で運転手さんが突然向こうの山を指し、「あれ、あれ。あの山を越えて信玄が来たんですよ~」と悔しそうにおっしゃったのが面白かったです


雪斎の頃の臨済寺は、9つの塔頭と50もの末寺を擁した大寺院だったようで、寺宝もたくさんお持ちです。

戦国武将関係では雪斎の他にも、義元、家康や榊原義政、武田信玄ゆかりの品も拝見。武田信玄の文書もたくさん出ていましたが、読めないのが悲しい・・。しかし、近しい親戚の北条のものは無かったです。前回は出ていたのでしょうかね?チト分かりません。


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~一番高台のお茶室から眺めるの図~

お茶室へ昇るには、色別の整理札をもらいます。お茶室へはたくさんは入れないので15人づつ位で順番に昇るのです。これはけっこう待ちますが、整理札を受け取ってから「〇色の方~、どうぞ~」と呼ばれるまでは書院の寺宝を見たりできるので、寺宝を見る前に先に札をもらっておいた方がよろしいかと思います。いい方法ですねえ。


茶室は大正時代、駿府城に陸軍の兵営がおかれた頃に作られたものだそうです。茶室自体うんぬんというより、ここからの眺めが素晴らしい!下から見るよりかなり高い位置にあり臨済寺を俯瞰できるだけではなく、浅間神社や駿府城がよく見えます。

みんな写真を撮りまくっていて、なかなか降りて来にゃい。


歴代のお位牌も拝むことが出来、今川家の歴代当主にご挨拶もかないました。また、お坊さん方もとても爽やかで感じが良く、拝観者の質問(含むワテ)にも気さくに答えてらっしゃいました。


大満足のうちに臨済寺を退出。そして・・・しばらくしてから気が付きました。氏親殿や義元殿や雪斎殿のお墓参りを忘れてしもうた!

我ながら、不覚


さて、お昼は安倍川を渡河し丸子の宿にて とろろ汁。それから、もうひとつ良いところへ行きました。次へ続く。


以前、駿府で北川殿の徳願寺と北条氏規の足跡を訪ねた時のブログ記事
「早雲の姉と北条氏規の駿府」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a23.html


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