2017年11月20日 (月)

花蔵の乱~寿桂尼は恵探を擁立しようとしていた!?

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~レジュメ~

一昨日は、小田原城で開催中の企画展「小田原北条氏の絆~小田原城とその支城」の関連講演会、氏政と氏照を拝聴してまいりました。

「北条氏政と小田原城」が佐々木健策氏、「北条氏照と八王子城と」は齋藤慎一氏でした。定かではなかった氏政さんの生年が天文8年と分かったそうで、どうして分かったのか知りたいと思いました。


本題。
少し前のブログ記事に、島田市博物館の「寿桂尼と今川氏展」のことを書きました。その時、花蔵の乱で寿桂尼は義元ではなく玄広恵探を擁立しようとしていたという展示を見て、皆さんはすでにご存知のことだったかもしれませんが、私は驚いてしまいました。


その根拠として、

① 企画展の説明には、高白斎記に「(寿桂尼は)花蔵ト同心シテ」とあることだとありました。高白斎とは、信玄殿の駒井高白斎のことですね。


チラッと調べたところ、

② ‐寿桂尼は福嶋のところへ何かしらの「住書(注書)」を持って行った(←このことがどこに書かれていたのかは、この時点では調べきれなかった)。
   ‐ 寿桂尼は夫君の氏親の代から、恵探の母(氏親様の側室)の実家の福嶋と昵懇だった。その関係は、寿桂尼が隠居しても続いている。

いうことは分かりました。


北条以外にあまり興味の巾を広げないようにしているため、寿桂尼が恵探側だったということは初耳で本当にビックリ coldsweats02。広げないようにしているのに、もう少し詳しいことが知りたくて…買ってしまいました~。

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~有光友學 著。吉川弘文館。葛山を調べるのにチョコチョコ図書館で読んでいたが、図書館通いでは間に合わなくなってしまった(キーホルダーは今川さん)。~


ご本の発刊は2013年ですが、参考にさせていただいたのは、中におさめられている 1992年の講演のお話です。


①の「同心シテ」の解釈は諸先生方によって様々です。事件のザックリした流れと合わせて以下。


(天文5年)
3月17日、当主氏輝とその弟彦五郎が同日に急死。

4月27日、福嶋、恵探を擁立し挙兵。

5月24日、高白斎の日記には以下のように書かれているそうです。ここで、寿桂尼が福嶋のところへ行き「同心シテ」が出てきます。

「五月廿四日夜、氏照(輝)ノ老母、福嶋越前守宿所ヘ行、花蔵ト同心シテ、翌廿五日従未明於駿府戦、夜中福嶋党久能へ引籠、…」

そして、6月14日、花蔵殿(恵探)は藤枝の普門寺で自害することになります。

(天文6年)
2月10日、義元と武田信虎の娘が結婚

2月26日、北条氏綱が「駿州出陣」

という事態になってゆきます。


② の「住書(注書)」とは、書物(カキモノ)、書類のことです。かなり分かりました。


「住書(柱書)」のことが書かれていたのは、義元が岡部左京進に出した自筆の感状だそうです。

何に対しての感状かというと、花蔵に取られた「住書」を取り返したことに対してだそうです。
住書花蔵ヘ被取之処、親綱(岡部)取返付畢


そして岡部殿は、賜った感状にメモを書き足しています。

乱の前に、大上様(寿桂尼)が住書(注書)を持って花蔵殿へ行った。(岡部殿は)花蔵城(葉梨城)を落とし、住書を取り返した、と。

大上様御注書お取、花蔵被為参候処…うんぬん」


へえ~~ wobbly。乱の前ですか~。感状が出たということは、よほど大事な書き付けだったのですね。その住書にはいったい何が書かれていたのでしょう。


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~寿桂尼の隠居所で菩提寺となった龍雲寺。静岡駅からバスで10分位。~


有光先生の本には、寿桂尼の発給文書のことも書かれていました。

同じく息子である先代の氏輝の時は、氏輝が一人前になるまでは寿桂尼が代わって発給していることが多かったのですが、義元の代になるとそれが全くないそうです。義元はまだ 18‐19才で、印判も僧侶時代の黒印「承芳」を使っている頃だったにもかかわらずです。

つまり、乱以降、寿桂尼はかなり遠ざけられたのではないかというのです。


しょえ~~ bearing

なんだか、色々と複雑そう。


歴史小説や雑誌を読んだり、ネットなどで検索すると、今でもほとんど「寿桂尼は実の息子の義元を当主にしたかったので、雪斎と組んで福嶋と恵探を滅ぼした」と書かれていますよねえ。時代劇だって、義元の傍には必ず雪斎と寿桂尼がいるじゃあないですか。

前のブログにも書きましたが、島田市博物館にいかなければ私は諸説あることを知らず、これからも「息子を当主にしようとした寿桂尼」を話していたと思います。花蔵に限らず、こういうことって他にもたくさんあるのだろうな~。


これで完全に決まり!という時点ではまだないとは思いますが、これからはドラマや映画の絵面も少し変わってくるのでしょうかねえ。


「寿桂尼と今川氏展」 島田市博物館(2017)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/2017-29ad.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年11月 3日 (金)

「寿桂尼と今川氏展」 島田市博物館(2017)

                                               by マリコ・ポーロ

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~島田宿を歩き大井川に突き当たった河畔に建つ~


wine 早川殿 朱印状

♪ 唄は茶っ切り節~ 男はぁぁ 次郎長~

毎度古くてすみませんと、静岡の茶どころ島田の宿、島田市博物館の「寿桂尼と今川氏展」へ行った一番の目的は、今川氏真に嫁いだ北条氏康の娘、早川殿の ナマ朱印 を見ることです。


ただそれだけのために島田まで行くかね。我ながらビックリですが、今のところ日本でただひとつしかないのです。

今まででしたら行かなかったと思いますが、書き続けている「北条五代の娘たち」で早川殿の足跡を辿ったばかりでパッション Max。どうしても見たい!お昼ご飯代を削ってでも、秘蔵のマンガを売ってでも見たい(?)。エイヤッ!bullettrain と行ってしまいました。


堪能しました~ heart01 早川殿の朱印 「芳菊」 。早川殿の朱印は「幸菊」と書かれている本が多いので、私もそう思ってきましたが、「芳菊」なんですね。でも、義元殿の印伴「承芳」の「芳」の字と随分違うような、違わないような…。ちょっと私には分かりませんが。

一回見て、会場を一回りしてまた戻って見ました。穴のあくほど見ちゃった。もし穴が開いていたら、私がジーーーーッと見たからです。なんてね。


朱印状の内容は、寿桂尼が所領を安堵していたお寺に、寿桂尼が亡くなったあとその権限を受け継いだ早川殿が、寿桂尼と同じく所領を認めたものでした。

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~図録を撮ったのでボケボケ。現物はかなりハッキリクッキリと鮮やかだった。図録には「芳菊」とあったが、展示はどうだったか忘れたsweat01


朱印状が出されたのは永禄11年11月。その1ヶ月後、今川は武田信玄によって駿府を追われることになります。


そして、
今回の企画展では、花倉(花蔵)の乱について 2つ 新しいことを知りました。そのうちの1つは、本当に驚きました。


wine 「花倉」の乱?「花蔵」の乱?

皆さんはとうにご存知かもしれませんが、今、「花倉の乱」ではなく、「花蔵の乱」と呼ぶ(書く)方が主流だそうですね。


「花倉」とは合戦があった場所。はなくらの乱は、以前は恵探が福島と最終的に花倉城に入り起こした内乱のように考えられていたので「花倉の乱」と言われていました。私もそう認識していました。

しかし今では、はなくらの乱は、花倉城だけでのことではなく、今川家を二分し北条や武田など周辺の大名も巻き込んだ大きな政争だととらえられ、恵探の異名「花蔵殿」から「花蔵の乱」と呼ばれているそうです。


知らんかった~。ブログなどに書く時に、「花倉」「花蔵」どちらの字を使うかいつも悩んでいましたよ。へえ~~~。


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~図録充実。ワテの2つの知らなかったことも記載。キーホルダーは、「反撃!今川さん」。悔し涙の義元殿だとか。静岡市非公式キャラクターだそうだが人気者で活躍している。~


そしてもうひとつは、もっの凄く驚いたこと。

wine 寿桂尼は、「花蔵ト同心シテ」いた by 高白斎記

ドびっくり~~


なぜ同心したのか?

寿桂尼も恵探も共に北条と繋がりが深かったことと、栴岳承芳(義元)と組み今川家中で発言力を増してきた雪斎への寿桂尼の対抗意識から…ですと。恵探が北条と懇意だったのも知りませんでした。


よもや寿桂尼が実子の義元を抹殺するまでのことではないとは思いますが、ほなら、北条氏綱は義元に支援を要請されたのではなく、やっぱり氏綱が「今が好機!」と、勝手に河東に乱入したのだったりして。

いや、それより、氏綱に要請したのは義元ではなくと恵探と組んだ寿桂尼だったりして。すると、乱後に義元が怒って、雪斎ラインで武田と同盟したのも納得だわ~なんて思ってしまいました。


ホンマかいなと思って、家に戻ってからチト調べてみました。それは有光氏・前田氏・大久保氏らのご研究のようです。しかし、「同心シテ」 をどう解釈するかはそれぞれ「味方をする」「一味して」などなど諸先生方色々。小和田先生は、「妥協して」ととらえてらっしゃるようです。

いずれにしても、これは他国の高白斎が見聞きしたことを書いたもの。聞き間違いや情報伝達の不十分さもあると思われるから、そのまま理解してよいかどうかも問題とありました。


また、乱の前、寿桂尼が恵探のもとを訪れる時に「住書を持参した」とあるそうで、それは、この乱の妥協案が書かれたものではないかと小和田先生はおっさってらっさるそうです。住書 には何が書かれてあったのでしょう。寿桂尼は息子義元を助けようとしたのでしょうか…。

また、寿桂尼が恵探に住書を持っていったことを、なんで駒井が知ったのでしょうね。


そんな論争があることなんて全然知りませんでした。『今川氏研究の最前線』にも書いてなかったような…。

(加筆:
『今川氏研究の最前線』の大石泰史氏 P109 にそれらしきニュアンスのことが書いてあると、コメントちょうだいしました。あらためて読んでみましたら、ホント、あるある!ありがとうございました。福嶋との繋がりは夫君の氏親さま時代からなのですね。へえ~。confident


様々な論文や本を全て読んで常に最新の研究を知るということは私には無理ですが、諸説ありということを知ることができ、また、早川殿のナマ朱印も堪能することが出来て今回の企画展に、エイヤッと行ってよかったです。神様、仏様、稲尾様(これまた古い)、ありがとう。


「寿桂尼と今川氏展」は、11月26日(日)まで。

新発見・初公開だという、氏真さんが6首の和歌を書いたものも出ていました。書かれたのは天正5年頃。氏真が諏訪原城にいた頃です。注)途中一部展示替えがあるようです。


wine 寿桂尼の隠居所&菩提寺 「龍雲寺」

島田で企画展を観たあとは駿府へ戻り、静岡駅からバスですぐの寿桂尼さまのお墓参りです。

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~寿桂尼墓所を背後に、寿桂尼が見守った駿府のご城下をワテも眺めてみた。~


horse これも行きたい
「馬をめでる武将たち」 馬の博物館

新発見の「伝・北条氏康像」や、「今川氏真像」も出ているそうです。またまた講演会も魅力的。講演会は行けないですが…。HP→http://www.bajibunka.jrao.ne.jp/uma/event/event_20171020.html


「駿府 「臨済寺」の特別公開」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-2e50.html
「今川時代の駿府~吐月峰 柴屋寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-7dec.html
「駿府で暮らした早雲の姉と北条氏規」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a23.html

「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html
「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原の久翁寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html
「今川氏真夫妻らの、当初の菩提寺 「萬昌院」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-88b5.html


萩真尼ことマリコ・ポーロ

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2017年10月12日 (木)

出ましたね! 「享徳の乱」 峰岸純夫著

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~『享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』 講談社メチエ 2017.10.10 ~


ついに出ましたねsign01
坂東の戦国ファン待望の、「享徳の乱」についての峰岸先生の本。

『応仁の乱』 『観応の擾乱』中公新書)とあわせての、室町トリロジーですね。(『応仁の乱』は読んでおりませんが。)


『享徳の乱』の表紙は月岡芳年ですか。だ~い好きです!え?表紙が錦絵?と思われる方もいらっしゃると思います。私も実はそうでしたsweat01

本にも書かれていますが、初めは先生も、「明治になってからの錦絵を掲げることはいかがかとも思った…」そうです。

ところが編集者の方が、「江戸時代の人の方が、フィクションを通じてではあれ、関東の大乱について現代人よりよく知っていたのでしょう…芳流閣は架空の建物とはいえ、成氏の居所として「古河」が描かれている…享徳の乱を周知させたいと願うなら、八犬士や絵師の力でもなんでも借りて、華やかなカバーにしようじゃありませんか…(抜粋)」と言われ、思いなおされたそうです。


確かにシゲッチ(成氏)の肖像は無いし、関係者たちや関連史跡の肖像や写真は、今まで出版されている書籍の表紙に使い尽くされていますものねえ。しかもチト地味…ゴニョ。

実際、この本は本棚に入れてしまうのがもったいない表紙で、正面を向けて飾っています。


狂言回しは新田岩松との、長文の「はじめに」を読み終わったばかりのところですが、その末尾にはこう書かれています。

いささか前置きが長くなったようだ。それでは読者を十五世紀の関東にご案内しよう。

わお!
ワクワクドキドキ happy02


「講演会 「享徳の乱における分倍河原合戦」 峰岸純夫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/post-832a.html


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2017年10月 9日 (月)

非公開 「英勝院」の御廟内部~鎌倉

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~スーッと扉が開くと、そこには華麗な世界が!~

いや~、すっっっばらしかったです。写真だけでも歴友の皆さまにと一生懸命撮りましたが、スマホのチャッチイ写真では十分お伝えできないのが残念。


wine 通常は非公開

英勝院さまが太田家にゆかりということで、現ご当主の太田資暁さんに連れられて、「道灌びいき」の会員が拝見出来ることになりました。

同じく非公開とはいえ山門の上部はNPO鎌倉ガイドのツアーで昇らせてもらえたことがありますが、祠堂の扉はまず!開けてはいただません。どころか、覆堂の中にさえ入れてはもらえません。(外からは伺えます。)


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~軒下には彩色も鮮やかな斗栱や雲文をみせる軒支輪がめぐる(内海氏の資料より抜粋)~


wine 英勝寺と英勝院

英勝寺の開基は英勝院さま。英勝寺は、鎌倉扇谷の太田道灌の屋敷跡に英勝院が建立しました。


英勝院とは言わずもがな家康の側室であり、戦に連れていくと必ず勝ったことから「勝」と名を改めさせられたことで知られていますよね。出自については、太田道灌の玄孫だとか、北条重臣の遠山景綱の曽孫だとか諸説あります。

いずれにしても、水戸藩初代当主で水戸黄門の父である徳川頼房の養母として、水戸藩では特別&格別大切にされた女人です。頼房は、母が側室「お万の方」、養母も側室「お勝の方・英勝院」。どちらも坂東の女人です。どうしても二人が脳内で混ざってしまいますが、この祠堂を見ると、「養母」という存在の大きさが分かります。


また、「英勝寺」は現在では鎌倉に唯一残った尼寺です。あれ?東慶寺は?と思ってしまいますが、東慶寺は明治にすでに尼寺ではなくなっています。

英勝寺は、以前はお寺自体が通常非公開でしたが今は一般公開されています(入れない箇所や入れない日もあります)。


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~祠堂の扉。お洒落な蝙蝠形格狭間。~


地元にお住まいの著名な鎌倉歴史研究家・内海恒雄氏の熱~い英勝寺ラブheart01のご説明を伺いながら、水戸藩が総力を尽くして造り上げた、垢ぬけた(by 内海先生)建築、仏像、彫刻、石造建造物の数々を拝見して回りました。

じっくり見たら英勝寺だけで一日が終わってしまいそうなそれらについては、ここに書きはじめたら長くなり過ぎてしまいますし、にわか知識の私が書いてもオコガマシイ。内海先生がお書きになったものや、他のHPなどでご覧くださいませ。詳しく書かれているHPがたくさんあります。


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~この紋どころが目に入らぬかーー!柱には太田桔梗。~


▲ 祠堂

祠堂がのる石垣は、江戸城と同じ造りの石垣だそうです。

黄門さまが建立した英勝院のお墓はお堂の背後に建っていて、堂内の須弥壇の後ろの「花灯枠」から、立派なお位牌を通して拝めるようになっています。(お墓だけなら、脇から側面をお参りできます。)


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お堂は小振りですが、典雅艶麗。屋根は宝形造、天井は格天井、正面と両側面には桟唐戸。東照宮と同じような極彩色ですが、小振りなためか、漂う気配のせいか、ずっと上品です(東照宮が下品というわけではにゃい)。

渋くて華麗な須弥壇の後ろの花灯枠からは外光が入り、それはまるで、背後の英勝院の巨大な墓塔から後光が差し込むが如くです。


ちょうど英勝寺を拝観したあとの、たまたまこのタイミングに、BS6「歴史鑑定」で水戸家のことをやっていました。「歴史捜査」は観るけれど「歴史鑑定」はあまり観ませんが、ちょっと観てみました。

初代の頃の水戸家はお金がなかったそうな。黄門様の時代に上向きになってきたようです。英勝寺の創建は寛永年間。資金繰り大丈夫だったのかな…な~んて、いらぬ心配をしてしまっただよ。


そして、またまたちょうどこのタイミングに、BSで「水戸黄門」が始まったので、つい観てしまいました。黄門様がラーメンを作っていました!ラーメンを最初に食べたのは黄門様ではなかったという話もありますね。諸説あり…ですな。


「里見へ走った公方の姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-82f7.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html
「家康の側室達ゆかりの、小田原北条の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-9dfe.html
「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-df71.html

「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e83.html
「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-64df.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2017年8月24日 (木)

東博で等伯 「びょうぶとあそぶ」美術体験

by マリコ・ポーロ

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等伯の「松林図屏風」&光琳の「群鶴図屏風」と映像との、新しい表現手段を使った展示を「体験」してきました。

高精細複製の「松林図屏風」を囲み、左右頭上に「瀟湘八景図」の壮大な景色が広がりました。特に冬の映像は圧巻でしたよ~lovely


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「群鶴図」では、部屋に入った人数だけ鶴が舞い飛び、一緒に戯れることができます(周りに恥ずかしくなければ…)。

う~ん。どう書いていても、この宇宙観は伝わらないですねえ。写真に撮るとチャッチイですにゃbearing。こげなものではごわはんで。ご興味ある方は、はよ行って、体感してみてたもんせ~。9月3日(日)まででごわす。


漆工室の蒔絵の展示も素晴らしいです!

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~鎌倉から室町の鞍が素晴らしく美しかった…~


足利尊氏さまheartの御教書も出ていました。今川範氏に発給したものです。2階の「武士の装い」室です。

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cherryblossom 不忍池畔にある長浜の観音ハウス

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東博の帰りは恒例となったルート、不忍池畔にある滋賀の「びわ湖長浜 KANNON HOUSE」に寄りました。

不忍池を琵琶湖に見立てた静かでシックな小さな空間には、戦国の戦火から村人たちによって守られた観音様たちが定期的に交替でお出ましになります。観音の里の映像が流れ、外の景色とあいまって、喧騒の上野公園にいるとは思えないまったり感。ゆっくり鑑賞(お参り)できます。

この日は観音様の日(毎月18日)ということで、甘茶をいただきました。


観音の里長浜にあまたさぶらいける観音様。ひとりの観音様の展示はだいたい2ヶ月とのこと。今は余呉町の川並地蔵堂の「聖観音立像(平安時代)」がいらっしゃいます(写真)。スッキリ小柄で素敵でした confident

次はどなたがいらっしゃるのかな~。HP→http://www.nagahama-kannon-house.jp/


「国宝 「檜図屏風」 by 狩野永徳」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/by-f7f7.html
「「洛中洛外図」が霞んでしまった「二条城障壁画」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-ec61.html

「白洲正子展「神と仏、自然への祈り」世田谷美術館
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-13d7.html
「伊東マンショ と 湖北の観音展)」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/7-82016-a39e.html

「信仰の里~中伊豆かんなみ「仏の里美術館」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-0862.html
「みちのくの仏像」展と、会津の徳一」東博
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-70b4.html
「藝大美術館 興福寺仏頭と十二神将の企画展」のこと
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/2013-1dd6.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2017年5月30日 (火)

講演会 「後北条以前の小田原」

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~サブタイトルは「政治・社会状況からみる鎌倉・室町時代の小田原地域」~


ゴールデンウィークで賑わう小田原で催された講演会の主催は、小田原史談会さん。

講師は、野村朋弘氏。京都造形大(東京の)准教授で、小田原在住。ご専門は中世朝廷儀礼・公武・神社史。特には、金沢文庫の称名寺文書だそうで す。北条執権~南北朝あたりの話を少しされましたが、面白かったです。


講演会場は、お城の本丸広場より混んでいると言っても過言ではない程の沢山の人で、大盛況~!立ち見はおろか会場に入りきれるのか、消防法は大丈夫かと心配しましたが、どうにか大丈夫だったらしいです。私はもちろん2時間立ち見、いや立ち聞き。

後北条以前の小田原ってあまり知らないですものねえ。私なんて、『鎌倉大草子』の足利尊氏さまの野営のことぐらいしか存じまへん。興味津々ですよねえ。


それもそのはず、講師の野村氏もおっしゃるように、後北条以前の小田原に関する史料はほとんどないそうです。

史料が少ない中での「歴史の復元」「小田原の、敗者の歴史の再構築」がこたびの目的とのこと。あ!「敗者」というのは小田原北条家ではありませんよ。後北条以前ですから、上杉禅秀の乱で、禅秀について負けた中村党の土肥氏や、次に小田原をおさえたものの、伊勢宗瑞に負けてしまった大森氏などのことです。


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~会場は駅から天守閣にむかう途中の市民交流センターUMECO。ホールには亡くなったUMECOの肖像画と北条五代キャラクター画が並んでいた。~


horse 講演内容

-古代の相模の国の成り立ち、古代~中世の小田原・鎌倉へ至る街道、小田原宿・酒匂宿などの宿、早川・成田・中村などの荘園とその領主、北条執権が滅びた要因のひとつ(後家人制度の複雑化と崩れ)などなど。


-酒匂・国府津・小田原あたりは交通の要所であり、また、様々な例から、幕府(鎌倉幕府)からすると早川・国府津あたりが重要な境界線 だったと。

知らなかったのですが、酒匂には、将軍家(室町)が泊まる御座所があったそうですね。御座所跡のようなものは残っているのかしら?


-最後の10分ぐらいで荘園領主の話になり、大森氏の話が出たのですが、このへんの話をもそっと聞きたかったかったと思いました。

小田原についての史料がとーっても少ないのは、上にも書きましたが、つまり彼らは敗者であるからだそうです。そのあとに北条が入ったから。

江戸時代以前の江戸と同じだと思いましたわ。江戸時代以前の江戸には何も無かったとされたのは、小田原北条は敗者であり、そのあとに徳川殿が入ったからね。


急いで帰らなければならなかったので、講演後の質問タイムまではいられませんでした。会場を去る時に、最初の質問者の方が「北条以前の領主の館はどのあたりにあったのか…」のようなことを質問されてらっしゃいました。

うー、聞きたかったよぉcrying
どこにあったの?


「小田原にある謎の城跡 花岳城」(城源寺)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-3b70.html


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2017年5月10日 (水)

講演会 「享徳の乱における分倍河原合戦」 峰岸純夫

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~鎌倉公方屋敷跡(鎌倉)~


こたびは「北条五代の息女たち」をチトお休みし、時代を半世紀ほど遡ってきました。


「道灌びいき」の会に入って何年も経ちながら、享徳の乱前後の出来事や人物がどうしても脳内で整理できません。上杉や長尾関係の本を買い&借り漁ってはみるものの、読んでる途中でボワ~ンdespair としてしまい寝落ち。本は本棚の腰曲輪へ山積み。

専門書はワテにはまだ無理。まずは小説から入ろう!そうだ、そうだ。そもそも戦国時代も室町時代も幕末も最初の取っ掛かりはマンガや小説だったじゃないか…と思い、伊東潤さんの「叛鬼」を読み始めたてみたものの、やっぱり途中でボワ~ン(すみましぇんsweat01)。


本を読んで何がややこしいって、まずは名前!

足利は、モッチー(持氏)→シゲッチ(成氏)→マー君(政氏)→高ピー(高基)→はるる(晴氏)→よっしー(義氏)…で、 古河公方はまだ覚えやすいんですよね。しかし上杉なんていつまでたっても、山内・扇谷・犬懸・宅間・庁鼻和そして越後などがゴチャ混ぜ。長尾ときたひにゃあ、もう、ねえ。

それから、シゲッチが「享徳」を使い続けたことで、年号が二つあるのもヤヤコシや~。


これは自力(?)ではアカン。老い先短い身、モタモタしている暇はにゃい。人様の話を聞いた方が手っ取り早いと思った時あたかも、高幡不動春季大祭!毎年恒例でおこなわれる、我らが「旧八王子城を守る会」の会長さんであらせられた峰岸純夫先生の今年の講演会のテーマが、享徳の乱。グッドタイミングゥ!


そして、もうひとつ。「小田原北条以前の小田原」についての講演が小田原でありましたので、そちらも拝聴してまいりました。


まずは、享徳の乱の講演会の方から。

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~文字を見るだけでワクワクしませんか?~


これを読んでくださる皆さまには今更言わずもがなですが、享徳の乱とは、異常に簡単に言うと、鎌倉公方シゲッチ vs 関東管領上杉 の関東の内乱ですよね。始まったのは、新九郎さん こと 伊勢宗瑞 の伊豆入りより約40年は前になります。


「戦国時代は関東の享徳の乱から始まった」 「東国では応仁の乱よりもっと前から戦国時代は始まっていた」「応仁の乱はさほどスケールの大きな乱ではなかった」などなど最近とみに言われ、認識も変わってきていますね。

とはいえ、『古河公方と伊勢宗瑞 2013.1』で則竹雄一氏は、「これ(享徳の乱)をもって東国の戦国争乱の開始とは評価しがたい」とおっしゃていますし、絶賛発売中の呉座勇一氏の『応仁の乱』には、享徳の乱のことは書かれていなかったりして、色々なお考えがあるのですねえ。


先日の朝日新聞でも応仁の乱のことを特集していましたが、日本中の武家が東軍派と西軍派に分かれて戦った…のように書かれていました。でも、日本中とはいえ、そこにあった年表には、東日本の武家はまったく出てきていませんでしたわ。これで「日本中」とは、これいかに?とも思いましたよ。

友人や同僚で、大河ドラマは必ず観る、史跡巡りが大好きという歴史好き達でも、皆、応仁の乱は知っていても、「きょーとくのらん?なにそれ?」と今でも申します。


かく書きながら、私なんぞも子供の頃からの歴史ファンを自称しながら、小田原北条に興味を持ち始めた数年前までは、日本中の武家が応仁の乱に関わり、応仁の乱で坂東の地が荒れたと思っていましたし、当時の関東に古河公方なる権威があって、関東管領なる勢力があることも知りませんでした。恥ずかちぃcoldsweats01

足利尊氏・直義時代に鎌倉府に公方(当時は関東管領)が下向してきたことぐらいは、うっすら記憶の底にありましたが、その後のことは気にとめたことがありませんでした。だから大河ドラマを観ていても、今一つ分からない箇所が多々ありました。


峰岸先生は享徳の乱関係の講演会の前に、必ず聴衆に「享徳の乱」という言葉をご存知かどうか聞かれます。幕末以外の歴史の聴講者は年配者が多く(含むワテ)、知っているpaperと手を挙げる人はとても少ないです。

だって、歴史の授業では習わなかった世代だから。


まあねえ、先に戦国時代に突入した方が凄いというわけでもないですし、乱の大きさを競うものでもないでしょうが、いずれにしても東国と中央は密接に関わっていたはずで、そのへんのところを、広~~く浅く(ややこしいから浅くでエエbleah)知りたいものです。

前置きが長くなりましたが、講演の内容です。峰岸先生の 「享徳の乱」についての講演は、昨年(2016)11月にも八王子生涯学習でもおこなわれました。上杉憲顕(秋)以外のことは少し同じところもありますので、ふたつの講演を合わせて以下。


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horse BS時代劇「塚原卜伝」(2011.10~放映)のこと

「塚原卜伝」は私も観ていましたが、先生は時代考証をされていましたよね。その時の脚本家との台本の内容についての興味深い会話。受け取り方が違うと申し訳ないので、以下そのまま写します。

真尋さんの(卜伝の妹)のナレーションに、
「応仁の乱から40年、うち続く戦乱で庇護者を失った鹿島大明神は・・」とあった。

峰岸先生
「応仁の乱から40年はまずい。応仁の乱の戦乱は関東に影響せず、これは享徳の乱とすべきでしょう。」

脚本家
「そうかもしれませんね。しかし、享徳の乱については余り知られていない。最近の教科書には出ているようですが、60才以上の高齢者は学んでいない。このような時代劇のファンは多くこの世代です。」

先生
「そうですか。でもこれは応仁の乱の影響が関東にも及ぶという誤りを冒しています。」

脚本家
「ここのところは申し訳ないがこのままにしておいて、別の場面で享徳の乱について触れましょう。」

先生
「わかりました。。。」


享徳の乱は28年も続いた、日本で一番長いかもしれない乱。関東の乱(享徳の乱)が、京の幕府と関東府の戦いへ発展。京の応仁の乱へ波及(ここがまたヤヤコシや~)。享徳の乱に比べると、応仁・文明の乱は「〇〇〇な内乱」 by 先生。

〇〇〇はここに書くのは控えますが、小さな…みたいな意、みたいな違うみたいな、ごにょ。


horse 2016.11 「享徳の乱の歴史的意義‐東国社会を根底から改変した」

同じく受け取り間違うと申し訳ないゆえ以下そのまま写しました。


① 鎌倉公方足利氏と管領上杉氏による専権支配が衰え、二元的支配(両者の勢力圏が分割)となる。

② 各地に城郭が構築され、本ー支城関係で結びつけられた勢力圏「領」が形成されて、「戦国領主」を生み出していく(郡・郷を単位とする)。

③ 以前に当然とされた分離型の所領支配は、強入部(軍事力による侵攻・支配)によって崩壊し、所領支配が一元化していく。

④ この乱が、関東における古河公方と管領上杉の対立だけでなく、幕府ー鎌倉府の二大陣営の対立であったため、幕府内部に大きな影響を与えた。

この乱を主導した足利義政・細川勝元政権は、関東の平和実現に失敗したため、その批判勢力(山名宗全)が蜂起して、応仁の乱が発生した。

応仁の乱の終結をまって、享徳の乱も終息する。応仁の乱は、享徳の乱の一部を構成するとも考えられる。


そして、上と重複するところもありますが、

horse 2017.4「享徳の乱と応仁の乱がもたらしたもの」

① 分散型所領形態が解消していき、城郭を中心に戦国領主の形成
② 幕府・関東ともに上部権力の衰退
③ 下剋上、上剋下による権力争奪から戦国対明への途が開かれる

まさに“戦国時代の開幕”といえる。


というところで、やっとこさ分倍河原合戦について。


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~藤沢「遊行寺」。応永23年、上杉禅秀vsモッチーの乱の犠牲者を供養する。~


講演のタイトルは、「享徳の乱における分倍河原合戦ー上杉憲顕(秋)の討死と高幡不動での供養」


高幡不動といえば我が土方歳三さま。分倍河原(ぶばいがわら) といえば田村正和さま の古畑任三郎の居住地…いや、それらではなくてcoldsweats01 なぜ高幡不動で享徳の乱のお話しなのかというと、高幡不動には享徳の乱のキャストの一人である上杉憲顕(秋)のものと伝わる供養塔があるからにござります。

憲顕(秋)とは、犬懸の上杉禅秀の息子ですな。時代を遡ること百数十年の、足利尊氏・直義の母方のイトコである上杉憲顕と同姓同名なので、あとの時代の憲顕は便宜上「憲秋」とされているようです。


horse 時系列

▲ どの変(紛争?戦乱?)を発端とするかは、遡れば限がないが、
将軍義教と関東管領上杉による足利モッチーの追討→自害だの、結城合戦だの、関東公方の復活(シゲッチ)だのによる不満分子の紛争がプロローグとしてありーので(というか、これじゃもうすでに関東の争乱は始まっていたのではないかと思えないこともないが)、

▲ 享徳3年
それらの乱が大きな争乱(享徳の乱)となる決定的なキッカケとなる、鎌倉公方・足利シゲッチ(成氏)による関東管領・上杉憲忠の誅殺!(これを「下剋上」ならぬ「上剋下」と言う by峰岸先生)

▲ 享徳4年(康正元年)
シゲッチ、上杉討伐のため府中へ出陣!

▲ 扇谷上杉、庁鼻和上杉、そして犬懸上杉の憲秋らのチーム上杉が、シゲッチ軍と高旗(高幡)・立河(立川)・分倍河原などで激戦annoy

▲ チーム上杉方の敗退

と、異常にハショッテ分倍河原合戦をまとめてみました。


高旗(高幡)で討死したのは上杉憲顕なのか。池亀(池上)に逃れて自刃したのは誰なのかについては諸説あるところですが、いずれにしてもシゲッチは、こののち古河に拠点を移し「古河公方」といわれることになります。

文明6年(享徳22年)、応仁・文明の乱は集結すれど、東国ではまだまだやってる「絶賛!享徳の乱」。


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~やっぱり、文字を見るだけでワクワクするでしょ。~


最後に、高幡不動尊での講演会のレジュメに手書きで載せてくださった交戦勢力図を。脳内整理するのにとても助かりました。


▲シゲッチの古河公方軍

① 守護・守護代
下野(小山)、常陸(佐竹)、下総(結城・千葉)、上総(武田)、安房(里見)

② 古河公方直轄領を支配する直臣
野田(古河)、梁田(水海・関宿)、佐々木(私市-騎西)


▲ 将軍・義政&管領・細川勝元の幕府軍

a. 守護・守護代
上野(山内・長尾)、相模(扇谷・太田)、伊豆(山内)

b. 堀越公方&その直臣(渋川・上杉)

c. 幕府奉公衆
二条上杉、八条上杉のオール上杉

. 周辺守護大名
越後上杉房定(五十子陣)、駿河今川範忠(鎌倉)

. 関東の戦乱(上杉禅秀の乱)で滅ぼされた遺族・亡命者
新田岩松家純、犬懸上杉憲顕(兄)・教朝(弟)・教房(甥)


ふぅ。どうまとめて良いか難しくて、書くの大変でしたー。合ってるかな~、自信ない。

あんまり信用できない?ですよね~。そんなアナタに朗報です!追々、峰岸先生の享徳の乱の本が出版されるそうですよ。


次回は、小田原での講演会「後北条以前の小田原」です。


「 出ましたね!「享徳の乱」 峰岸純夫著」 2017.10.10
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-45e7.html

「BS時代劇 塚原卜伝」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/bs-ed39.html

「古河公方の古河を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-de53.html
「後編~古河公方の古河を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-8375.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年3月 5日 (日)

日本遺産「飛鳥」シンポジウム~飛鳥を翔けた女性たち~

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~「飛鳥シンポジウム~飛鳥を翔けた女性たち」シンポジウムのパンフレットとレジュメ。飛鳥5 「ASUKA 5」 (命名 by ワテ)は、推古天皇、皇極/斉明天皇、持統天皇、額田王、善真尼。~


太田資高室の二人の浄心院様の行方にとらわれ過ぎ、吉良殿ゆかりの寺々について未だ書き上げられないでおります。

そこでちょっと一息。浄心院様たちが生きた時代より更に遡ること900年。推古、皇極(斉明)、持統、元明、元正…と、北条の血ならぬ、蘇我の血を引く女帝達の時代へ思いを馳せて参りました。


橿原市・高取町・明日香村による「日本国創成のとき-飛鳥を翔(かけ)た女性たち-」は、平成27年に「日本遺産」に登録されました。シンポジウムは、この3市町村の主催により、古代史の吉村武彦氏(明治大学名誉教授)と里中満智子氏を講師として催されました。

日本遺産とは、文化遺産にストーリー性を絡めて広げていこうというものだそうで、里中満智子氏の登場となったわけです。


飛鳥時代といえば、松本清張「火の路」、上原和「斑鳩の白き道の上に」、「日出処の天子」、「天上の虹」とそれに続くシリーズ、梅原猛の法隆寺物、永井路子「美貌の女帝」などのマンガや小説でしか知らずにファンになり、奈良へ通うこと数十回。

私にとっては、吉村武彦先生の講演は初めて拝聴(含む拝読)する専門家のお話しでした(恥ずかちぃcoldsweats01)。


メインフューチャーは、飛鳥5 「ASUKA 5」 のセンター皇極/斉明天皇。オープニングムービーも、皇極/斉明天皇がメイン。

続く講演とシンポジウムは、当時の女帝の成り立ち、天皇の諡名、勢力関係などの基本的な話から始まり、ご両人共、宝皇女(ひめみこ)が皇后であった舒明天皇時代→乙巳の変→重祚(斉明天皇)などを、発掘調査や謎の石仏群や、蝦夷や朝鮮半島情勢や、皇極のシャーマン的要素などを絡めた濃厚な内容の、たっぷりどっぷり3時間でした。


里中先生おっしゃるに…
飛鳥時代は女帝があまた即位した時代。女帝は大概、夫(または兄弟)である天皇(すめらみこと)が崩御し、跡継ぎが幼い時に擁立される。

しかし彼女たちが嫁いだ時、夫はまだ皇子(みこ)。皇太子(ひつぎのみこ)や天皇になれるかどうかさえ分からない。万が一なれたとしても、皇后(大后おおきさき)に自分が選ばれるかどうかも分からない。ましてや、夫が先立たなくてはならない。


以上要約ですが、そうか!考えてみればそうですよねえ。後の孝謙女帝のように始めから天皇にさせようと皇太子からの即位などという女帝とは違いますよねえ。

また、持統女帝なんて、お姉ちゃんが生きていたら無かったかもしれないですよねえ。

そうか。だから、皇極/斉明天皇のように再婚でも大后となることもあるのだね。


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~ホールロビーには里中満智子先生のパネルや、関連市町村の観光パンフレットがたくさん!~


以下、特に私にとって興味深かったこと。

wine 『日本書紀』における、皇極/斉明天皇の皇極時代と斉明時代との記述の色合いが違うこと。by 吉村先生

同じく、皇極/斉明天皇の性格は、皇極時代と斉明時代とでは違っている。by 里中氏

皇極時代=シャーマン的役割
斉明時代=積極的に統治


wine 入鹿の暗殺について、当時、中大兄皇子は正統な皇位継承者であったのに、その正統な皇位継承者が起こしたことを「クーデター」と呼ぶのだろうか??by 里中氏


wine 斉明天皇の土木工事好きは、「狂心渠(たぶれこころの みぞ)」などと悪く言われるが、それは、対外的に我が国をちゃんとした国家に見せるための都造りではなかったか。また、先進国的な見せ方をするため石材を多用した。by 里中氏

現代の「狂心渠(たぶれこころの みぞ)」を作っているのは誰かしら~、に場内爆笑。

「狂心渠(たぶれこころの みぞ)」との悪評を書記に残すところも凄い。ちょっと、やり過ぎたからか?と。


また、
飛鳥に点在し残る謎の石造物は、松本清張先生の小説や他の著作から、私はずっと斉明天皇のゾロアスター信仰からきたものだと信じていましたが、岩船などは、製作中の、斉明天皇の石室らしいですね。


wine 中大兄皇子がすぐに即位できなかった理由(わけ)は、昨今では同母妹である間人皇女との関係と言われていますが、
「当時は相当の噂になっていたはず。だって、1400年後の私の耳にさえ聞こえてくるぐらいですもの。」
by 里中氏に、場内爆笑。


wine シャーマン的要素は年をとるほどに衰えるのではないか。

Σ(゚д゚lll)ガーン そうなんだ…

だから、斉明時代は、皇極時代ほどにはそういうことをしていないとみられる。by 里中氏


wine 当時は前線に后達を連れて行った。たとえ身重でも。とはいえ、筑紫に出陣した時は斉明天皇は68歳!当時の68歳を考えると驚きだ。by 吉村先生

この出兵を里中先生氏が、集団的自衛権の行使とおっさったのに、またまた場内爆笑。お話しが上手いんですよ。ゆっくり、静かにお話しになるのにね。


などなどなど。

講演会には、橿原市・高取町・明日香村の長方のご挨拶や、文化財課の方からの遺跡の説明もありました。


そして最後に皆さん同じことをおっしゃる。
「飛鳥へどうぞ~~」

そりゃあ行きたいぜよ。もう十年ちかく行ってないわて。


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~時代は違うが、高取城の紹介案内もたくさんあった~


pen 余談

もう10年近く年前のこと。
飛鳥資料館で「玄武」が公開されるというので、この機会を逃したらキトラ壁画はもう一生見られないと思い(結局その後何度も、東京でも公開されたが)、遥か坂東より「玄武」のためだけに新幹線と近鉄線とバスを乗り継ぎ→2時間半並び→「玄武」のご尊姿を拝しに参ったことがあります。

それは想像していたものよりずっと小さくて、でも、暗がりで仄かに光に浮かび上がっていた「玄武」は、宝石のように神々しかったのを忘れられないでいます。


飛鳥歴史公園
https://www.asuka-park.go.jp/
かしはら観光ナビ「日本遺産」についてhttp://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_bunkazai/bunkazai/nihonisan/niuteisyoukai.html

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2016年8月 9日 (火)

信仰の里~中伊豆かんなみ「仏の里美術館」

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~仏の里美術館の素敵な写真満載のパンフレットと入場チケット~


函南(かんなみ)は、まことにもって「仏の里」であり、「仏の里美術館」所蔵の 慶派 の多数の仏像は素晴らしいものでした。

が、その前に・・・


horse 三嶋大社「宝物展示」

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~迫力の彫刻が取り巻く本殿。嘉永の東海地震で被災。慶応2年落成。~


三嶋大社の宝物館で催されている宝物展示(前期)を見学に立ち寄りました。

三嶋大社は、今更私が申すまでもなく、北条早雲 こと 伊勢宗瑞が、2本の杉の木(山内上杉&扇谷上杉)をネズミさん(宗瑞)がカジカジしている夢を見たという言い伝えで有名ですね。


二代・北条氏綱が社殿を再建し、代々の小田原北条当主達にも尊崇された神社です。特集展示「古文書から知る戦国の世(前期)」も、ほとんどが小田原北条関係のものでした。

もちろん、頼朝、尊氏さま、鎌倉公方・基氏、秀吉など、同じく三嶋大社を厚く信仰してきた武家の古文書類も盛りだくさん。展示も、それぞれの文書の現代語訳、背景の説明、絵図面などが用意され、親切で大変分かり易いものでした。


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我らがアニキ、北条氏政の、例の「信長との同盟が叶えば社殿を建てて差し上げまする~」の願書(願文)も出ていましたよ。

願文をあげてまで望んでいたのだね・・。でも、信長の娘と氏政の息子(五代・氏直)との婚姻は叶わなかったね・・。


あれ?
ほな、社殿の再建はどうなったのだろう?coldsweats01


宝物館は以前から一度観てみたかったので、行って良かったです(涼しいしね~)。このためだけに遠方から行くのは人それぞれですが、三島周辺に行かれた時や、近場の方には是非にオススメでござる。見学にはけっこう時間を取った方がよいと思われます。

前期は9月25日まで。後期は9月27日から。また、今月(8月)17日には、恒例の流鏑馬があります!武田流でござる。

三嶋大社宝物館HP→http://www.mishimataisha.or.jp/treasure/


では、本日のメインイベントへ!


fuji 「かんなみ 仏の里美術館」

美術館があるのは、函南(かんなみ)桑原区。


樹齢800年といわれる恐ろしいほど巨大なクスノキを通り過ぎ、景色が開けると、「お堂」をイメージした美術館の屋根が見えてきます。

この桑原区にある平安時代の仏像群は、千年の長きにわたり、村人たちにより、戦乱や廃仏毀釈や災害などから守られてきたそうです。


あれ?
どこかこういう所を訪ねたことがあるぞ・・

そう。それは奥琵琶湖。湖北の十一面観音群ですわ。あるんですねえ。こういう所が日本には、いくつか。しかも守られてきた神仏像は、素晴らしいものばかり。


実は、函南の仏像群のことはまったく存じませんでした。伊豆在住の歴友さんから教えていただき、「仏の里美術館」のことも知ったのです。

こたびは、その歴友さんが車でアチコチ連れて行ってくださいました。


ルートは、

三嶋大社→祐泉寺(北条幻庵子息の墓)→かんなみ→韮山願成就院→毘沙門堂

と、真夏ゆえ城跡は行かず、もっぱら神社仏閣&美術館宝物館巡りとなりました。木陰やクーラーがあるから涼しいものね~sweat01


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~仏像が座す「お堂」をイメージした建物。平等院の宝物館「鳳凰堂」などを手掛けた栗生明氏の設計。実際はもっとぜんぜん素敵(ヘタな写真ですみません)。平日なのに来館者もけっこういらっしゃっていた。~


明治30年。
残った仏像群の散逸を防ぐために、地元の有志により 長源寺というお寺の裏山に「桑原薬師堂」が建てられ仏像達が納められました。

その後、これらの仏像達は函南町に寄付され、保存と後世への継承のため、みんなが鑑賞できる施設として「かんなみ仏の里美術館」が出来たそうです。


そもそも何故この地にこれだけの仏像群が残っていたのか?

弘仁7年(816年)、箱根三所権現を開いた高僧万巻上人が、嵯峨天皇の命を受け都へ上がる途中、高齢のために今の愛知県のあたりで亡くなってしまいました。万巻上人とは、伊達政宗が生まれ変わりだとされていた、あの万巻上人ですよね。

従者たちは上人のお骨と共に箱根へ引き返すことになりますが、この桑原の地で険しい山坂に難儀し、この地に一堂を建てて持っていた仏像などを納めたそうです。それが新光寺とういうお寺で、これらの仏像群は新光寺に関係するものだと考えられているそうです。新光寺はいつの頃か廃寺となりました。(美術館のチラシより)


十二神将も見ごたえがありますが、特に、慶派でも分かっている作品が少ない 実慶 の阿弥陀三尊像(重文)は素晴らしいものでした。

また、大竹区の廃寺となっている蓮華寺跡の小さなお堂に祀られていた、高さ15cm位の743体の観音像も公開されていました。展示は9月末までとのこと。


展示も美しく、それぞれの仏像もそうですが、仏像というものについての解説も詳しく紹介されていて大変興味深かったです。

ボランティアガイドさんも常駐。皆さん詳しいですよ~。


と、まあ、私がなんのかんの書いても稚拙な筆では書ききれまへん。この夏休み、中伊豆の温泉へ行って翌日10時に旅館を出されたあとは、ぜひ行かれてみてくだされ。

これまた素敵な、「仏の里美術館」のHPです。
http://www.kannami-museum.jp/


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~驚愕の、みしまコロッケ饅頭(ピンクの矢印のところに「饅頭」と書いてある)~


お昼は三島のウナギ?私達3人共ウナギは食べられないのでお蕎麦。名水の里のお蕎麦は美味しい。お土産は、「みしまコロッケ饅頭」。以前テレビドラマ「ごめんね青春」で知った三島コロッケにそっくりな、お饅頭。

祐泉寺や韮山の毘沙門堂のことはまた追って。


以下は、中伊豆での北条関係のことを書いたブログ記事の一部でござる。

後北条の始まりを告げた城 「韮山城」 シンポジウム
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-6735.html

北条氏政が謙信や信長にプレゼントした、韮山の江川酒
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-493e.html
後北条の女領主、伊豆の山木大方
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html

ついに分かった!北条氏照ご正室の最後と、氏綱正室の出自
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-f9c7.html
‘元祖 義’  伊勢新九郎の韮山へ
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-b243.html

早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-a414.html
前北条と後北条の 「伊豆 修禅寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-475a.html


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2016年4月26日 (火)

豊島氏の「練馬城」を歩く

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~豊島園の発掘調査で出土した、「文明9年」の銘が刻まれた板碑。練馬区春日小学校に設けられた資料館にて撮った。~


文明9年 (1477年)。
太田道灌 が、名族、豊島泰経と泰明兄弟を滅ぼした年である。


練馬城は石神井城の支城で、石神井城は兄・康経が、練馬城は弟の泰明が居城としていた。弟は、練馬城攻め後の江古田原の戦いで戦死。

翌10年。
兄の泰経は平塚城にて再起するも、戦わずして逃走。豊島一族は歴史上から忽然とその姿を消した。


豊島氏の系統は、その後、小田原北条に仕えたともいわれているが、現在のところ、それには様々な疑問や無理があるとのことである。

(以前のブログ記事にもう少し詳しく書きました。よろしければ、末尾のリンクからご覧くだされませ。)


さて・・

このところ、北条氏政・氏直父子の「イメージ向上推進ひとり委員会」の活動(?)振り回されておりましたが、 チョット一休み。春爛漫のサル一日・・いや、半日、「道灌びいき」の会で、練馬城址と周辺の中世村落跡を辿ってまいりました。


練馬城址の内郭は、現在そのほとんどが遊園地の「豊島園」になっています。園の名は、城主であった豊島氏に由来するものです。

豊島区にあるから「豊島園」だと思ってらっしゃる方が多いのではないでしょうか?実は私も最近までそう思っていました。ところがキッチョン、豊島園は練馬区にあるのですわ。練馬区にある豊島氏の城跡にあるから「豊島園」っつうことでござる。


horse 「練馬」の地名の由来

遡ること遥か昔、この地で馬を練った(調教した)ことから「練馬」という地名が生まれたと聞いてきましたが、古代の「乗潴 のりぬま」が訛って「ねりま」になったともいわれているそうですね。今回のツアーで初めて知りました。

「乗潴 のりぬま」の「潴 ぬま」とは「水たまり=沼」のことだそうで、石神井川をはじめ周囲に沼などの水源が豊富な土地だったのでしょう。


繰り返しになりますが、豊島氏の練馬城は現代の練馬区になります。お隣の豊島区は豊島氏の領地ではありますが豊島氏の城はなく、区名はかつての豊島郡(含む現在の練馬区)からきているようです。

秩父氏から出た名族の豊島氏は豊島あたりに居住したから、豊島氏を名乗ったということになりますな。まあ、どこの地の地名の由来もそうですが、色々な説があるようで。


話を戻し。
練馬城&城下巡りの案内は、豊島一族と太田道灌の闘い『決戦』( 2012 星雲社) の著者であり、東京での道灌の足跡を語らせたらそのディープさには ローリング タン=舌を巻くsweat01、お馴染み葛城明彦氏です。

豊島攻めで太田道灌が最初に攻撃した豊島氏の城はかつては平塚城とされていましたが、今では練馬城とされているそうですね。


この冬、道灌びいきの会では、道灌研究の第一人者である尾崎孝氏のもと道灌状を読む連続講座が行われました。

それまで私は道灌の人となりが今一つ掴めないでいたのですが、この勉強会はとても興味深く、道灌状を読む(読んでいただく?)ことによって生の人間道灌の姿を妄想するのに大変助かりました。そんなところで、こたびの練馬城ツアー。より一層面白かったです。


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~上杉謙信も通った鎌倉道より、城を守る東側の谷を臨む。現代の通称「どんぶり坂」。肉眼だともっと深く、急傾斜。右側が内郭、つまり豊島園。左側は湧水がある向山庭園となっている。~


城の北側は石神井川に付き出し、東と西は深い谷によって守られていました。谷は現在も道路として痕跡が残っており(→上の写真)、講師の葛城さんが子供の頃は、子供達が自転車で谷を猛スピードで登り降りする遊び(冒険?)が流行っていたそう。

南側には大きな空堀があったと伝わっていますが、発掘調査をしていないため詳細は不明。


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~内郭内(豊島園内だが入場しなくても歩けるエリア)の上り坂。ハイドロポリス(ウォータースライダー)の上あたりまで高さがあったそう(ピンクの線)。~


空堀や土塁などの遺構は近年までほんの少しは残っていたそうですが、豊島園集客のために次々とアミューズ施設が出来て無くなっていきました。

(『日本城郭大系』(第五巻 埼玉 東京)に載っている写真で、昭和2年に撮影された土塁・空堀を見ることができると、北条城郭友が教えてくれました。)


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~練馬城とは石神井川をはさんだ台地上(肉眼だと同じくかなりの下り坂)。道灌が陣を張ったと伝わっている、現代の通称「トーカン山」。向こうに練馬城の遊具パイレーツが見える(ピンクの)。~


出土品には、盆石や碁石などがあり、豊島氏が洗練された生活をしていたことが伺えます。また、堀底から出てきた礫には被熱痕があり、豊島氏攻め時に道灌が火を放ったという記録の裏付けのひとつとなっています。

馬出も遊具ハイドロポリスで消滅。練馬城の馬出は、馬出としてはほぼ最古の時代のものと思われているそうです。豊島氏の城はかなり最先端の城だったと言えるかもしれないとのこと。


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~練馬城の出城跡。現代の通称「栗山」。上に書いた「練馬」の地名の元となった馬の調教が行われていた場所・・と伝わっている。~


豊島園は廃園が決まっており、その後は災害時の避難所も兼ねた「練馬城址公園(仮名)」として残してほしいと住民の方達の希望が強いそうです。

城址公園とはいえ残念かなその遺構は失われていますが、それでも、かつてここに城があったという事実は残ります。「豊島園跡」という遊園地名を残すよりは良かったと、一歴史ファンとしては思うのでありますが、遊園地好きの方達からしたら豊島園の名前を残してほしいと願うのでありましょうね~。


book 練馬城周辺の豊島氏と太田道灌の詳細を知りたい方は、ぜひ、葛城明彦氏の『決戦』をご覧くださいませ。地図もバッチリ出ていてガイドブックとしても助かります。


horse 太田道灌の小磯城攻めの芝居があります

先のブログ「4-5月の気になる・・」でもお知らせしましたが、練馬城攻めに遡ること約1ヶ月。道灌は長尾景春の乱で景春方についた越後氏攻略のため、小磯城に向かいます。その芝居が、現代の小磯城にて行われます。以下。

日 時: 4/29(祝・金) 14:00開演
ところ:大磯城山公園(小磯城跡)


太田道灌vs豊島一族の「江古田原古戦場」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/vs-c7d7.html
講演 「太田道灌と豊島一族」at 日比谷図書文化館h
ttp://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-ec38.html

家康以前の江戸は本当に「寒村」だったのか?
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-0a2f.html
岩付城を築いたのは、太田か成田か?
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-e9a4.html
道灌伝説の「山吹の里」を歩く
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-f2fa.html


萩真尼

cat 画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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