2017年5月30日 (火)

講演会 「後北条以前の小田原」

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~サブタイトルは「政治・社会状況からみる鎌倉・室町時代の小田原地域」~


ゴールデンウィークで賑わう小田原で催された講演会の主催は、小田原史談会さん。

講師は、野村朋弘氏。京都造形大(東京の)准教授で、小田原在住。ご専門は中世朝廷儀礼・公武・神社史。特には、金沢文庫の称名寺文書だそうで す。北条執権~南北朝あたりの話を少しされましたが、面白かったです。


講演会場は、お城の本丸広場より混んでいると言っても過言ではない程の沢山の人で、大盛況~!立ち見はおろか会場に入りきれるのか、消防法は大丈夫かと心配しましたが、どうにか大丈夫だったらしいです。私はもちろん2時間立ち見、いや立ち聞き。

後北条以前の小田原ってあまり知らないですものねえ。私なんて、『鎌倉大草子』の足利尊氏さまの野営のことぐらいしか存じまへん。興味津々ですよねえ。


それもそのはず、講師の野村氏もおっしゃるように、後北条以前の小田原に関する史料はほとんどないそうです。

史料が少ない中での「歴史の復元」「小田原の、敗者の歴史の再構築」がこたびの目的とのこと。あ!「敗者」というのは小田原北条家ではありませんよ。後北条以前ですから、上杉禅秀の乱で、禅秀について負けた中村党の土肥氏や、次に小田原をおさえたものの、伊勢宗瑞に負けてしまった大森氏などのことです。


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~会場は駅から天守閣にむかう途中の市民交流センターUMECO。ホールには亡くなったUMECOの肖像画と北条五代キャラクター画が並んでいた。~


horse 講演内容

-古代の相模の国の成り立ち、古代~中世の小田原・鎌倉へ至る街道、小田原宿・酒匂宿などの宿、早川・成田・中村などの荘園とその領主、北条執権が滅びた要因のひとつ(後家人制度の複雑化と崩れ)などなど。


-酒匂・国府津・小田原あたりは交通の要所であり、また、様々な例から、幕府(鎌倉幕府)からすると早川・国府津あたりが重要な境界線 だったと。

知らなかったのですが、酒匂には、将軍家(室町)が泊まる御座所があったそうですね。御座所跡のようなものは残っているのかしら?


-最後の10分ぐらいで荘園領主の話になり、大森氏の話が出たのですが、このへんの話をもそっと聞きたかったかったと思いました。

小田原についての史料がとーっても少ないのは、上にも書きましたが、つまり彼らは敗者であるからだそうです。そのあとに北条が入ったから。

江戸時代以前の江戸と同じだと思いましたわ。江戸時代以前の江戸には何も無かったとされたのは、小田原北条は敗者であり、そのあとに徳川殿が入ったからね。


急いで帰らなければならなかったので、講演後の質問タイムまではいられませんでした。会場を去る時に、最初の質問者の方が「北条以前の領主の館はどのあたりにあったのか…」のようなことを質問されてらっしゃいました。

うー、聞きたかったよぉcrying
どこにあったの?


「小田原にある謎の城跡 花岳城」(城源寺)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-3b70.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年5月10日 (水)

講演会 「享徳の乱における分倍河原合戦」 峰岸純夫

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~鎌倉公方屋敷跡(鎌倉)~


こたびは「北条五代の息女たち」をチトお休みし、時代を半世紀ほど遡ってきました。


「道灌びいき」の会に入って何年も経ちながら、享徳の乱前後の出来事や人物がどうしても脳内で整理できません。上杉や長尾関係の本を買い&借り漁ってはみるものの、読んでる途中でボワ~ンdespair としてしまい寝落ち。本は本棚の腰曲輪へ山積み。

専門書はワテにはまだ無理。まずは小説から入ろう!そうだ、そうだ。そもそも戦国時代も室町時代も幕末も最初の取っ掛かりはマンガや小説だったじゃないか…と思い、伊東潤さんの「叛鬼」を読み始めたてみたものの、やっぱり途中でボワ~ン(すみましぇんsweat01)。


本を読んで何がややこしいって、まずは名前!

足利は、モッチー(持氏)→シゲッチ(成氏)→マー君(政氏)→高ピー(高基)→はるる(晴氏)→よっしー(義氏)…で、 古河公方はまだ覚えやすいんですよね。しかし上杉なんていつまでたっても、山内・扇谷・犬懸・宅間・庁鼻和そして越後などがゴチャ混ぜ。長尾ときたひにゃあ、もう、ねえ。

それから、シゲッチが「享徳」を使い続けたことで、年号が二つあるのもヤヤコシや~。


これは自力(?)ではアカン。老い先短い身、モタモタしている暇はにゃい。人様の話を聞いた方が手っ取り早いと思った時あたかも、高幡不動春季大祭!毎年恒例でおこなわれる、我らが「旧八王子城を守る会」の会長さんであらせられた峰岸純夫先生の今年の講演会のテーマが、享徳の乱。グッドタイミングゥ!


そして、もうひとつ。「小田原北条以前の小田原」についての講演が小田原でありましたので、そちらも拝聴してまいりました。


まずは、享徳の乱の講演会の方から。

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~文字を見るだけでワクワクしませんか?~


これを読んでくださる皆さまには今更言わずもがなですが、享徳の乱とは、異常に簡単に言うと、鎌倉公方シゲッチ vs 関東管領上杉 の関東の内乱ですよね。始まったのは、新九郎さん こと 伊勢宗瑞 の伊豆入りより約40年は前になります。


「戦国時代は関東の享徳の乱から始まった」 「東国では応仁の乱よりもっと前から戦国時代は始まっていた」「応仁の乱はさほどスケールの大きな乱ではなかった」などなど最近とみに言われ、認識も変わってきていますね。

とはいえ、『古河公方と伊勢宗瑞 2013.1』で則竹雄一氏は、「これ(享徳の乱)をもって東国の戦国争乱の開始とは評価しがたい」とおっしゃていますし、絶賛発売中の呉座勇一氏の『応仁の乱』には、享徳の乱のことは書かれていなかったりして、色々なお考えがあるのですねえ。


先日の朝日新聞でも応仁の乱のことを特集していましたが、日本中の武家が東軍派と西軍派に分かれて戦った…のように書かれていました。でも、日本中とはいえ、そこにあった年表には、東日本の武家はまったく出てきていませんでしたわ。これで「日本中」とは、これいかに?とも思いましたよ。

友人や同僚で、大河ドラマは必ず観る、史跡巡りが大好きという歴史好き達でも、皆、応仁の乱は知っていても、「きょーとくのらん?なにそれ?」と今でも申します。


かく書きながら、私なんぞも子供の頃からの歴史ファンを自称しながら、小田原北条に興味を持ち始めた数年前までは、日本中の武家が応仁の乱に関わり、応仁の乱で坂東の地が荒れたと思っていましたし、当時の関東に古河公方なる権威があって、関東管領なる勢力があることも知りませんでした。恥ずかちぃcoldsweats01

足利尊氏・直義時代に鎌倉府に公方(当時は関東管領)が下向してきたことぐらいは、うっすら記憶の底にありましたが、その後のことは気にとめたことがありませんでした。だから大河ドラマを観ていても、今一つ分からない箇所が多々ありました。


峰岸先生は享徳の乱関係の講演会の前に、必ず聴衆に「享徳の乱」という言葉をご存知かどうか聞かれます。幕末以外の歴史の聴講者は年配者が多く(含むワテ)、知っているpaperと手を挙げる人はとても少ないです。

だって、歴史の授業では習わなかった世代だから。


まあねえ、先に戦国時代に突入した方が凄いというわけでもないですし、乱の大きさを競うものでもないでしょうが、いずれにしても東国と中央は密接に関わっていたはずで、そのへんのところを、広~~く浅く(ややこしいから浅くでエエbleah)知りたいものです。

前置きが長くなりましたが、講演の内容です。峰岸先生の 「享徳の乱」についての講演は、昨年(2016)11月にも八王子生涯学習でもおこなわれました。上杉憲顕(秋)以外のことは少し同じところもありますので、ふたつの講演を合わせて以下。


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horse BS時代劇「塚原卜伝」(2011.10~放映)のこと

「塚原卜伝」は私も観ていましたが、先生は時代考証をされていましたよね。その時の脚本家との台本の内容についての興味深い会話。受け取り方が違うと申し訳ないので、以下そのまま写します。

真尋さんの(卜伝の妹)のナレーションに、
「応仁の乱から40年、うち続く戦乱で庇護者を失った鹿島大明神は・・」とあった。

峰岸先生
「応仁の乱から40年はまずい。応仁の乱の戦乱は関東に影響せず、これは享徳の乱とすべきでしょう。」

脚本家
「そうかもしれませんね。しかし、享徳の乱については余り知られていない。最近の教科書には出ているようですが、60才以上の高齢者は学んでいない。このような時代劇のファンは多くこの世代です。」

先生
「そうですか。でもこれは応仁の乱の影響が関東にも及ぶという誤りを冒しています。」

脚本家
「ここのところは申し訳ないがこのままにしておいて、別の場面で享徳の乱について触れましょう。」

先生
「わかりました。。。」


享徳の乱は28年も続いた、日本で一番長いかもしれない乱。関東の乱(享徳の乱)が、京の幕府と関東府の戦いへ発展。京の応仁の乱へ波及(ここがまたヤヤコシや~)。享徳の乱に比べると、応仁・文明の乱は「〇〇〇な内乱」 by 先生。

〇〇〇はここに書くのは控えますが、小さな…みたいな意、みたいな違うみたいな、ごにょ。


horse 2016.11 「享徳の乱の歴史的意義‐東国社会を根底から改変した」

同じく受け取り間違うと申し訳ないゆえ以下そのまま写しました。


① 鎌倉公方足利氏と管領上杉氏による専権支配が衰え、二元的支配(両者の勢力圏が分割)となる。

② 各地に城郭が構築され、本ー支城関係で結びつけられた勢力圏「領」が形成されて、「戦国領主」を生み出していく(郡・郷を単位とする)。

③ 以前に当然とされた分離型の所領支配は、強入部(軍事力による侵攻・支配)によって崩壊し、所領支配が一元化していく。

④ この乱が、関東における古河公方と管領上杉の対立だけでなく、幕府ー鎌倉府の二大陣営の対立であったため、幕府内部に大きな影響を与えた。

この乱を主導した足利義政・細川勝元政権は、関東の平和実現に失敗したため、その批判勢力(山名宗全)が蜂起して、応仁の乱が発生した。

応仁の乱の終結をまって、享徳の乱も終息する。応仁の乱は、享徳の乱の一部を構成するとも考えられる。


そして、上と重複するところもありますが、

horse 2017.4「享徳の乱と応仁の乱がもたらしたもの」

① 分散型所領形態が解消していき、城郭を中心に戦国領主の形成
② 幕府・関東ともに上部権力の衰退
③ 下剋上、上剋下による権力争奪から戦国対明への途が開かれる

まさに“戦国時代の開幕”といえる。


というところで、やっとこさ分倍河原合戦について。


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~藤沢「遊行寺」。応永23年、上杉禅秀vsモッチーの乱の犠牲者を供養する。~


講演のタイトルは、「享徳の乱における分倍河原合戦ー上杉憲顕(秋)の討死と高幡不動での供養」


高幡不動といえば我が土方歳三さま。分倍河原(ぶばいがわら) といえば田村正和さま の古畑任三郎の居住地…いや、それらではなくてcoldsweats01 なぜ高幡不動で享徳の乱のお話しなのかというと、高幡不動には享徳の乱のキャストの一人である上杉憲顕(秋)のものと伝わる供養塔があるからにござります。

憲顕(秋)とは、犬懸の上杉禅秀の息子ですな。時代を遡ること百数十年の、足利尊氏・直義の母方のイトコである上杉憲顕と同姓同名なので、あとの時代の憲顕は便宜上「憲秋」とされているようです。


horse 時系列

▲ どの変(紛争?戦乱?)を発端とするかは、遡れば限がないが、
将軍義教と関東管領上杉による足利モッチーの追討→自害だの、結城合戦だの、関東公方の復活(シゲッチ)だのによる不満分子の紛争がプロローグとしてありーので(というか、これじゃもうすでに関東の争乱は始まっていたのではないかと思えないこともないが)、

▲ 享徳3年
それらの乱が大きな争乱(享徳の乱)となる決定的なキッカケとなる、鎌倉公方・足利シゲッチ(成氏)による関東管領・上杉憲忠の誅殺!(これを「下剋上」ならぬ「上剋下」と言う by峰岸先生)

▲ 享徳4年(康正元年)
シゲッチ、上杉討伐のため府中へ出陣!

▲ 扇谷上杉、庁鼻和上杉、そして犬懸上杉の憲秋らのチーム上杉が、シゲッチ軍と高旗(高幡)・立河(立川)・分倍河原などで激戦annoy

▲ チーム上杉方の敗退

と、異常にハショッテ分倍河原合戦をまとめてみました。


高旗(高幡)で討死したのは上杉憲顕なのか。池亀(池上)に逃れて自刃したのは誰なのかについては諸説あるところですが、いずれにしてもシゲッチは、こののち古河に拠点を移し「古河公方」といわれることになります。

文明6年(享徳22年)、応仁・文明の乱は集結すれど、東国ではまだまだやってる「絶賛!享徳の乱」。


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~やっぱり、文字を見るだけでワクワクするでしょ。~


最後に、高幡不動尊での講演会のレジュメに手書きで載せてくださった交戦勢力図を。脳内整理するのにとても助かりました。


▲シゲッチの古河公方軍

① 守護・守護代
下野(小山)、常陸(佐竹)、下総(結城・千葉)、上総(武田)、安房(里見)

② 古河公方直轄領を支配する直臣
野田(古河)、梁田(水海・関宿)、佐々木(私市-騎西)


▲ 将軍・義政&管領・細川勝元の幕府軍

a. 守護・守護代
上野(山内・長尾)、相模(扇谷・太田)、伊豆(山内)

b. 堀越公方&その直臣(渋川・上杉)

c. 幕府奉公衆
二条上杉、八条上杉のオール上杉

. 周辺守護大名
越後上杉房定(五十子陣)、駿河今川範忠(鎌倉)

. 関東の戦乱(上杉禅秀の乱)で滅ぼされた遺族・亡命者
新田岩松家純、犬懸上杉憲顕(兄)・教朝(弟)・教房(甥)


ふぅ。どうまとめて良いか難しくて、書くの大変でしたー。合ってるかな~、自信ない。

あんまり信用できない?ですよね~。そんなアナタに朗報です!追々、峰岸先生の享徳の乱の本が出版されるそうですよ。


次回は、小田原での講演会「後北条以前の小田原」です。


「BS時代劇 塚原卜伝」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/bs-ed39.html

「古河公方の古河を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-de53.html
「後編~古河公方の古河を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-8375.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年3月 5日 (日)

日本遺産「飛鳥」シンポジウム~飛鳥を翔けた女性たち~

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~「飛鳥シンポジウム~飛鳥を翔けた女性たち」シンポジウムのパンフレットとレジュメ。飛鳥5 「ASUKA 5」 (命名 by ワテ)は、推古天皇、皇極/斉明天皇、持統天皇、額田王、善真尼。~


太田資高室の二人の浄心院様の行方にとらわれ過ぎ、吉良殿ゆかりの寺々について未だ書き上げられないでおります。

そこでちょっと一息。浄心院様たちが生きた時代より更に遡ること900年。推古、皇極(斉明)、持統、元明、元正…と、北条の血ならぬ、蘇我の血を引く女帝達の時代へ思いを馳せて参りました。


橿原市・高取町・明日香村による「日本国創成のとき-飛鳥を翔(かけ)た女性たち-」は、平成27年に「日本遺産」に登録されました。シンポジウムは、この3市町村の主催により、古代史の吉村武彦氏(明治大学名誉教授)と里中満智子氏を講師として催されました。

日本遺産とは、文化遺産にストーリー性を絡めて広げていこうというものだそうで、里中満智子氏の登場となったわけです。


飛鳥時代といえば、松本清張「火の路」、上原和「斑鳩の白き道の上に」、「日出処の天子」、「天上の虹」とそれに続くシリーズ、梅原猛の法隆寺物、永井路子「美貌の女帝」などのマンガや小説でしか知らずにファンになり、奈良へ通うこと数十回。

私にとっては、吉村武彦先生の講演は初めて拝聴(含む拝読)する専門家のお話しでした(恥ずかちぃcoldsweats01)。


メインフューチャーは、飛鳥5 「ASUKA 5」 のセンター皇極/斉明天皇。オープニングムービーも、皇極/斉明天皇がメイン。

続く講演とシンポジウムは、当時の女帝の成り立ち、天皇の諡名、勢力関係などの基本的な話から始まり、ご両人共、宝皇女(ひめみこ)が皇后であった舒明天皇時代→乙巳の変→重祚(斉明天皇)などを、発掘調査や謎の石仏群や、蝦夷や朝鮮半島情勢や、皇極のシャーマン的要素などを絡めた濃厚な内容の、たっぷりどっぷり3時間でした。


里中先生おっしゃるに…
飛鳥時代は女帝があまた即位した時代。女帝は大概、夫(または兄弟)である天皇(すめらみこと)が崩御し、跡継ぎが幼い時に擁立される。

しかし彼女たちが嫁いだ時、夫はまだ皇子(みこ)。皇太子(ひつぎのみこ)や天皇になれるかどうかさえ分からない。万が一なれたとしても、皇后(大后おおきさき)に自分が選ばれるかどうかも分からない。ましてや、夫が先立たなくてはならない。


以上要約ですが、そうか!考えてみればそうですよねえ。後の孝謙女帝のように始めから天皇にさせようと皇太子からの即位などという女帝とは違いますよねえ。

また、持統女帝なんて、お姉ちゃんが生きていたら無かったかもしれないですよねえ。

そうか。だから、皇極/斉明天皇のように再婚でも大后となることもあるのだね。


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~ホールロビーには里中満智子先生のパネルや、関連市町村の観光パンフレットがたくさん!~


以下、特に私にとって興味深かったこと。

wine 『日本書紀』における、皇極/斉明天皇の皇極時代と斉明時代との記述の色合いが違うこと。by 吉村先生

同じく、皇極/斉明天皇の性格は、皇極時代と斉明時代とでは違っている。by 里中氏

皇極時代=シャーマン的役割
斉明時代=積極的に統治


wine 入鹿の暗殺について、当時、中大兄皇子は正統な皇位継承者であったのに、その正統な皇位継承者が起こしたことを「クーデター」と呼ぶのだろうか??by 里中氏


wine 斉明天皇の土木工事好きは、「狂心渠(たぶれこころの みぞ)」などと悪く言われるが、それは、対外的に我が国をちゃんとした国家に見せるための都造りではなかったか。また、先進国的な見せ方をするため石材を多用した。by 里中氏

現代の「狂心渠(たぶれこころの みぞ)」を作っているのは誰かしら~、に場内爆笑。

「狂心渠(たぶれこころの みぞ)」との悪評を書記に残すところも凄い。ちょっと、やり過ぎたからか?と。


また、
飛鳥に点在し残る謎の石造物は、松本清張先生の小説や他の著作から、私はずっと斉明天皇のゾロアスター信仰からきたものだと信じていましたが、岩船などは、製作中の、斉明天皇の石室らしいですね。


wine 中大兄皇子がすぐに即位できなかった理由(わけ)は、昨今では同母妹である間人皇女との関係と言われていますが、
「当時は相当の噂になっていたはず。だって、1400年後の私の耳にさえ聞こえてくるぐらいですもの。」
by 里中氏に、場内爆笑。


wine シャーマン的要素は年をとるほどに衰えるのではないか。

Σ(゚д゚lll)ガーン そうなんだ…

だから、斉明時代は、皇極時代ほどにはそういうことをしていないとみられる。by 里中氏


wine 当時は前線に后達を連れて行った。たとえ身重でも。とはいえ、筑紫に出陣した時は斉明天皇は68歳!当時の68歳を考えると驚きだ。by 吉村先生

この出兵を里中先生氏が、集団的自衛権の行使とおっさったのに、またまた場内爆笑。お話しが上手いんですよ。ゆっくり、静かにお話しになるのにね。


などなどなど。

講演会には、橿原市・高取町・明日香村の長方のご挨拶や、文化財課の方からの遺跡の説明もありました。


そして最後に皆さん同じことをおっしゃる。
「飛鳥へどうぞ~~」

そりゃあ行きたいぜよ。もう十年ちかく行ってないわて。


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~時代は違うが、高取城の紹介案内もたくさんあった~


pen 余談

もう10年近く年前のこと。
飛鳥資料館で「玄武」が公開されるというので、この機会を逃したらキトラ壁画はもう一生見られないと思い(結局その後何度も、東京でも公開されたが)、遥か坂東より「玄武」のためだけに新幹線と近鉄線とバスを乗り継ぎ→2時間半並び→「玄武」のご尊姿を拝しに参ったことがあります。

それは想像していたものよりずっと小さくて、でも、暗がりで仄かに光に浮かび上がっていた「玄武」は、宝石のように神々しかったのを忘れられないでいます。


飛鳥歴史公園
https://www.asuka-park.go.jp/
かしはら観光ナビ「日本遺産」についてhttp://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_bunkazai/bunkazai/nihonisan/niuteisyoukai.html

萩真尼 こと マリコ・ポーロ


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2016年8月 9日 (火)

信仰の里~中伊豆かんなみ「仏の里美術館」

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~仏の里美術館の素敵な写真満載のパンフレットと入場チケット~


函南(かんなみ)は、まことにもって「仏の里」であり、「仏の里美術館」所蔵の 慶派 の多数の仏像は素晴らしいものでした。

が、その前に・・・


horse 三嶋大社「宝物展示」

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~迫力の彫刻が取り巻く本殿。嘉永の東海地震で被災。慶応2年落成。~


三嶋大社の宝物館で催されている宝物展示(前期)を見学に立ち寄りました。

三嶋大社は、今更私が申すまでもなく、北条早雲 こと 伊勢宗瑞が、2本の杉の木(山内上杉&扇谷上杉)をネズミさん(宗瑞)がカジカジしている夢を見たという言い伝えで有名ですね。


二代・北条氏綱が社殿を再建し、代々の小田原北条当主達にも尊崇された神社です。特集展示「古文書から知る戦国の世(前期)」も、ほとんどが小田原北条関係のものでした。

もちろん、頼朝、尊氏さま、鎌倉公方・基氏、秀吉など、同じく三嶋大社を厚く信仰してきた武家の古文書類も盛りだくさん。展示も、それぞれの文書の現代語訳、背景の説明、絵図面などが用意され、親切で大変分かり易いものでした。


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我らがアニキ、北条氏政の、例の「信長との同盟が叶えば社殿を建てて差し上げまする~」の願書(願文)も出ていましたよ。

願文をあげてまで望んでいたのだね・・。でも、信長の娘と氏政の息子(五代・氏直)との婚姻は叶わなかったね・・。


あれ?
ほな、社殿の再建はどうなったのだろう?coldsweats01


宝物館は以前から一度観てみたかったので、行って良かったです(涼しいしね~)。このためだけに遠方から行くのは人それぞれですが、三島周辺に行かれた時や、近場の方には是非にオススメでござる。見学にはけっこう時間を取った方がよいと思われます。

前期は9月25日まで。後期は9月27日から。また、今月(8月)17日には、恒例の流鏑馬があります!武田流でござる。

三嶋大社宝物館HP→http://www.mishimataisha.or.jp/treasure/


では、本日のメインイベントへ!


fuji 「かんなみ 仏の里美術館」

美術館があるのは、函南(かんなみ)桑原区。


樹齢800年といわれる恐ろしいほど巨大なクスノキを通り過ぎ、景色が開けると、「お堂」をイメージした美術館の屋根が見えてきます。

この桑原区にある平安時代の仏像群は、千年の長きにわたり、村人たちにより、戦乱や廃仏毀釈や災害などから守られてきたそうです。


あれ?
どこかこういう所を訪ねたことがあるぞ・・

そう。それは奥琵琶湖。湖北の十一面観音群ですわ。あるんですねえ。こういう所が日本には、いくつか。しかも守られてきた神仏像は、素晴らしいものばかり。


実は、函南の仏像群のことはまったく存じませんでした。伊豆在住の歴友さんから教えていただき、「仏の里美術館」のことも知ったのです。

こたびは、その歴友さんが車でアチコチ連れて行ってくださいました。


ルートは、

三嶋大社→祐泉寺(北条幻庵子息の墓)→かんなみ→韮山願成就院→毘沙門堂

と、真夏ゆえ城跡は行かず、もっぱら神社仏閣&美術館宝物館巡りとなりました。木陰やクーラーがあるから涼しいものね~sweat01


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~仏像が座す「お堂」をイメージした建物。平等院の宝物館「鳳凰堂」などを手掛けた栗生明氏の設計。実際はもっとぜんぜん素敵(ヘタな写真ですみません)。平日なのに来館者もけっこういらっしゃっていた。~


明治30年。
残った仏像群の散逸を防ぐために、地元の有志により 長源寺というお寺の裏山に「桑原薬師堂」が建てられ仏像達が納められました。

その後、これらの仏像達は函南町に寄付され、保存と後世への継承のため、みんなが鑑賞できる施設として「かんなみ仏の里美術館」が出来たそうです。


そもそも何故この地にこれだけの仏像群が残っていたのか?

弘仁7年(816年)、箱根三所権現を開いた高僧万巻上人が、嵯峨天皇の命を受け都へ上がる途中、高齢のために今の愛知県のあたりで亡くなってしまいました。万巻上人とは、伊達政宗が生まれ変わりだとされていた、あの万巻上人ですよね。

従者たちは上人のお骨と共に箱根へ引き返すことになりますが、この桑原の地で険しい山坂に難儀し、この地に一堂を建てて持っていた仏像などを納めたそうです。それが新光寺とういうお寺で、これらの仏像群は新光寺に関係するものだと考えられているそうです。新光寺はいつの頃か廃寺となりました。(美術館のチラシより)


十二神将も見ごたえがありますが、特に、慶派でも分かっている作品が少ない 実慶 の阿弥陀三尊像(重文)は素晴らしいものでした。

また、大竹区の廃寺となっている蓮華寺跡の小さなお堂に祀られていた、高さ15cm位の743体の観音像も公開されていました。展示は9月末までとのこと。


展示も美しく、それぞれの仏像もそうですが、仏像というものについての解説も詳しく紹介されていて大変興味深かったです。

ボランティアガイドさんも常駐。皆さん詳しいですよ~。


と、まあ、私がなんのかんの書いても稚拙な筆では書ききれまへん。この夏休み、中伊豆の温泉へ行って翌日10時に旅館を出されたあとは、ぜひ行かれてみてくだされ。

これまた素敵な、「仏の里美術館」のHPです。
http://www.kannami-museum.jp/


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~驚愕の、みしまコロッケ饅頭(ピンクの矢印のところに「饅頭」と書いてある)~


お昼は三島のウナギ?私達3人共ウナギは食べられないのでお蕎麦。名水の里のお蕎麦は美味しい。お土産は、「みしまコロッケ饅頭」。以前テレビドラマ「ごめんね青春」で知った三島コロッケにそっくりな、お饅頭。

祐泉寺や韮山の毘沙門堂のことはまた追って。


以下は、中伊豆での北条関係のことを書いたブログ記事の一部でござる。

後北条の始まりを告げた城 「韮山城」 シンポジウム
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-6735.html

北条氏政が謙信や信長にプレゼントした、韮山の江川酒
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-493e.html
後北条の女領主、伊豆の山木大方
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html

ついに分かった!北条氏照ご正室の最後と、氏綱正室の出自
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-f9c7.html
‘元祖 義’  伊勢新九郎の韮山へ
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早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏
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前北条と後北条の 「伊豆 修禅寺」
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マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2016年4月26日 (火)

豊島氏の「練馬城」を歩く

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~豊島園の発掘調査で出土した、「文明9年」の銘が刻まれた板碑。練馬区春日小学校に設けられた資料館にて撮った。~


文明9年 (1477年)。
太田道灌 が、名族、豊島泰経と泰明兄弟を滅ぼした年である。


練馬城は石神井城の支城で、石神井城は兄・康経が、練馬城は弟の泰明が居城としていた。弟は、練馬城攻め後の江古田原の戦いで戦死。

翌10年。
兄の泰経は平塚城にて再起するも、戦わずして逃走。豊島一族は歴史上から忽然とその姿を消した。


豊島氏の系統は、その後、小田原北条に仕えたともいわれているが、現在のところ、それには様々な疑問や無理があるとのことである。

(以前のブログ記事にもう少し詳しく書きました。よろしければ、末尾のリンクからご覧くだされませ。)


さて・・

このところ、北条氏政・氏直父子の「イメージ向上推進ひとり委員会」の活動(?)振り回されておりましたが、 チョット一休み。春爛漫のサル一日・・いや、半日、「道灌びいき」の会で、練馬城址と周辺の中世村落跡を辿ってまいりました。


練馬城址の内郭は、現在そのほとんどが遊園地の「豊島園」になっています。園の名は、城主であった豊島氏に由来するものです。

豊島区にあるから「豊島園」だと思ってらっしゃる方が多いのではないでしょうか?実は私も最近までそう思っていました。ところがキッチョン、豊島園は練馬区にあるのですわ。練馬区にある豊島氏の城跡にあるから「豊島園」っつうことでござる。


horse 「練馬」の地名の由来

遡ること遥か昔、この地で馬を練った(調教した)ことから「練馬」という地名が生まれたと聞いてきましたが、古代の「乗潴 のりぬま」が訛って「ねりま」になったともいわれているそうですね。今回のツアーで初めて知りました。

「乗潴 のりぬま」の「潴 ぬま」とは「水たまり=沼」のことだそうで、石神井川をはじめ周囲に沼などの水源が豊富な土地だったのでしょう。


繰り返しになりますが、豊島氏の練馬城は現代の練馬区になります。お隣の豊島区は豊島氏の領地ではありますが豊島氏の城はなく、区名はかつての豊島郡(含む現在の練馬区)からきているようです。

秩父氏から出た名族の豊島氏は豊島あたりに居住したから、豊島氏を名乗ったということになりますな。まあ、どこの地の地名の由来もそうですが、色々な説があるようで。


話を戻し。
練馬城&城下巡りの案内は、豊島一族と太田道灌の闘い『決戦』( 2012 星雲社) の著者であり、東京での道灌の足跡を語らせたらそのディープさには ローリング タン=舌を巻くsweat01、お馴染み葛城明彦氏です。

豊島攻めで太田道灌が最初に攻撃した豊島氏の城はかつては平塚城とされていましたが、今では練馬城とされているそうですね。


この冬、道灌びいきの会では、道灌研究の第一人者である尾崎孝氏のもと道灌状を読む連続講座が行われました。

それまで私は道灌の人となりが今一つ掴めないでいたのですが、この勉強会はとても興味深く、道灌状を読む(読んでいただく?)ことによって生の人間道灌の姿を妄想するのに大変助かりました。そんなところで、こたびの練馬城ツアー。より一層面白かったです。


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~上杉謙信も通った鎌倉道より、城を守る東側の谷を臨む。現代の通称「どんぶり坂」。肉眼だともっと深く、急傾斜。右側が内郭、つまり豊島園。左側は湧水がある向山庭園となっている。~


城の北側は石神井川に付き出し、東と西は深い谷によって守られていました。谷は現在も道路として痕跡が残っており(→上の写真)、講師の葛城さんが子供の頃は、子供達が自転車で谷を猛スピードで登り降りする遊び(冒険?)が流行っていたそう。

南側には大きな空堀があったと伝わっていますが、発掘調査をしていないため詳細は不明。


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~内郭内(豊島園内だが入場しなくても歩けるエリア)の上り坂。ハイドロポリス(ウォータースライダー)の上あたりまで高さがあったそう(ピンクの線)。~


空堀や土塁などの遺構は近年までほんの少しは残っていたそうですが、豊島園集客のために次々とアミューズ施設が出来て無くなっていきました。

(『日本城郭大系』(第五巻 埼玉 東京)に載っている写真で、昭和2年に撮影された土塁・空堀を見ることができると、北条城郭友が教えてくれました。)


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~練馬城とは石神井川をはさんだ台地上(肉眼だと同じくかなりの下り坂)。道灌が陣を張ったと伝わっている、現代の通称「トーカン山」。向こうに練馬城の遊具パイレーツが見える(ピンクの)。~


出土品には、盆石や碁石などがあり、豊島氏が洗練された生活をしていたことが伺えます。また、堀底から出てきた礫には被熱痕があり、豊島氏攻め時に道灌が火を放ったという記録の裏付けのひとつとなっています。

馬出も遊具ハイドロポリスで消滅。練馬城の馬出は、馬出としてはほぼ最古の時代のものと思われているそうです。豊島氏の城はかなり最先端の城だったと言えるかもしれないとのこと。


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~練馬城の出城跡。現代の通称「栗山」。上に書いた「練馬」の地名の元となった馬の調教が行われていた場所・・と伝わっている。~


豊島園は廃園が決まっており、その後は災害時の避難所も兼ねた「練馬城址公園(仮名)」として残してほしいと住民の方達の希望が強いそうです。

城址公園とはいえ残念かなその遺構は失われていますが、それでも、かつてここに城があったという事実は残ります。「豊島園跡」という遊園地名を残すよりは良かったと、一歴史ファンとしては思うのでありますが、遊園地好きの方達からしたら豊島園の名前を残してほしいと願うのでありましょうね~。


book 練馬城周辺の豊島氏と太田道灌の詳細を知りたい方は、ぜひ、葛城明彦氏の『決戦』をご覧くださいませ。地図もバッチリ出ていてガイドブックとしても助かります。


horse 太田道灌の小磯城攻めの芝居があります

先のブログ「4-5月の気になる・・」でもお知らせしましたが、練馬城攻めに遡ること約1ヶ月。道灌は長尾景春の乱で景春方についた越後氏攻略のため、小磯城に向かいます。その芝居が、現代の小磯城にて行われます。以下。

日 時: 4/29(祝・金) 14:00開演
ところ:大磯城山公園(小磯城跡)


太田道灌vs豊島一族の「江古田原古戦場」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/vs-c7d7.html
講演 「太田道灌と豊島一族」at 日比谷図書文化館h
ttp://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-ec38.html

家康以前の江戸は本当に「寒村」だったのか?
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-0a2f.html
岩付城を築いたのは、太田か成田か?
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-e9a4.html
道灌伝説の「山吹の里」を歩く
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-f2fa.html


萩真尼

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2016年1月31日 (日)

かつて訪ねた「真田の里」

「信長協奏曲」を観てまいりました。いや~、血沸き 肉躍りました。原作も読んでいなかったし、アニメも見ていなかったこともあり、心拍数上がりっぱなし!

ドラマが終わった時、またこれも最後は映画なのぉ~ pout と憤慨したけれど、 こりゃテレビドラマではだめでしたわ。衣装もロケ地も素敵ですし、皆さま、すぐ観にいってくだされ。今すぐ!

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さて。

皆さまもそうだと思いますが、信濃へは史跡めぐりや温泉・・などなど、子供の頃から私も何度か行っております。最近はそんなことはしないですが、日帰りでお蕎麦を食べるためだけに行くなんてこともやっちょりました。


真田ゆかりの地のこともブログに書き残しており、いつかアップしようと思いつつ何年も保存したままになっていました。天邪鬼(あまのじゃく)ゆえ、時流に乗せられているようで特に今年はアップしたくなかった真田のこと。

でもまあ、意識が真田に向いたこの際、時流に乗せられて一応ブログにも旅の見聞を残しておくことにしました。


少ない知識とはいえ、最近知ったことを含めて改めて書き直すと、その時のパッションが薄れてしまいそうなので、以下、当時書いて保存していた、ほとんどそのまま公開します。昔のテンションでチトお恥ずかしいですが、よろしくば。(写真類は他のブログ記事で使ったかもしれません。)


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~夜の上田駅も六連銭。昼間しか行かない人は気づかない。~


horse 信濃(しなの)

ニュースや天気予報で、「次は関東甲信越のニュースです」とか「次は甲信越地方の天気です」とか言います。普通に聞き流していますが、「関東」はいいとして「甲信越」とはなんの事か、いずこの事か明確に言えるかな。

「知っとるわい。甲斐・信濃・越後のことやろ。」
そうですよね。ほな、それってどこさ?
「山梨県・長野県・新潟県だす。」

そうですよねえ。でも、今、「甲斐・信濃・越後」なんて普通の会話では言いやしませんです。「連休はどこへ行ったの?」と同僚に聞かれ、半分冗談で「甲斐の国」と申したら、「へっ?」と皆に聞き直されましたもの。


「甲斐・信濃・越後」とは、日本の国がやっと整備された奈良時代の律令制下で定められた地方区分の言い方です。時代は移り、江戸徳川時代に‘藩’、明治以降は‘県’へと行政区分が変わっていってるのに、現代でも天気予報で普通に使われているって何か不思議~。

「へっ?」と聞き直した人達も、天気予報は分かるんです。なんとなく漠然とは、「あのあたりの土地名・・」って感じなのでしょうねえ。ぜひ残してほしいですよね、この呼び方。


話は400年前へ。
越後を主に支配していたのは謙信くん。甲斐は信玄殿。では、信濃は?

もちろん守護職小笠原さんはいましたが、戦国時代の信濃は、プチ城主達の宝庫でした。それは、「天下争奪をめぐり武将達が群雄割拠していた」というのではなく、個性的で魅力的なプチ城主達が「きら星の如くちりばめられていたshineshineというイメージで私はとらえています。


かといって彼らはその辺の地侍あがりではありませんよね。ほとんどが源平時代・鎌倉時代から続く古くからの家柄です。鎌倉時代の次の室町時代、政権の中心がまた西へ移り徐々に西の武将達に圧されたり、また、武田や上杉や北条のスーパー勢力に組みし、小粒になっていった名族です。


山々が連なる信濃。なにせ向こう三軒両隣が近すぎるのだよね。その中心に立って、ぐるりを見まわすと、視界に入る山という山が城跡と言っても過言ではありません。

信濃とその周辺はプチ城主がひしめき合い駆け引きも複雑です。それぞれがライバル。ある時は敵対し、ある時は協力しあい、山間の小さな「わが領地」を守って暮らしていたんですねえ。


地方都市の例に漏れず、このあたりも駅の周辺だけは賑やかですがあとは田畑が広がっていて当時とほとんど変わってないような気がします。

高速道路や舗装道路や宅地を見ないフリして、山々と空を見上げ想像してみると、そこの県道の脇道から村上さんが家来たちと何やら大声で笑いながら馬に乗って走り出てきそうだし、そこの河原で平賀さんが駒を休めていそうだし、そこの木陰で小笠原さんが敷物に座り家臣のお酌でお酒を飲んでいそうだし、そこの裏の林の中を真田さんちの忍びがサササッと横切りそうです。

これはあながち妄想ではないですよ。子孫の方達が今も暮らしてらっしゃるから、そうと言えないこともないでしょ。私の知人のフレンチレストランのシェフは村上義清さんゆかりの子孫で実家はこの近くだそうですしね。


horse 真田一族

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~真田の隠し湯 「角間温泉 岩屋館」。秘湯中の秘湯。昔セピアのフィルムで撮った写真の、そのまた写真を撮った。謎の生物はワテsweat01。~


真田一族はこのあたりで牧を管理し良質の馬を産出していたといわれています。

そして、真田の旗印・家紋の「六連銭」は三途の川の渡し賃。今でも人が亡くなった時の一般的葬儀だとお棺に一緒にいれることもあります(紙に六連銭が印刷されたもの)。

戦国武将は日々死と隣り合わせ。真田さんはその六連銭をシンボルマークにしたのですな。


武将のシンボルマークは2つのパターンに分かれる気がします。ひとつは「神仏に守ってもらいその力を借りて勝つぞ!」 バージョン もう1つは、「命を惜しまず戦うぞ!」 バージョン。どちらも最終目的は一緒だしカッコよかとですが、兜の前立てにするならあなた様ならどんなのにされますか。私は「虫」がいいな。蝶とかトンボとか蝮とか。

戦国武将にとって甲冑は死装束です。江戸時代の様な儀式用ではありません。そこにそれぞれの美意識がみてとれます。その美意識とは、ファッションセンスとか美術工芸品に対する造詣などというヌルイものではないと思います。そこにあるのは、「己の死」に対する美学であり、「いかに死するか」の覚悟の表れだと思います。


真田一族か・・。「一族」って関東以北では「安倍一族」と「真田一族」と「三浦一族」ぐらい使わない?そんなことないですかね。でも、上杉一族とか武田一族とか伊達一族などとはあまり言わないですものね。

「一族」なんですね。真田は。


horse 忍びのこと

真田一族。ロマンをかきたてられるフレーズです。それもこれも大正時代の講談本「真田十勇士」のイメージからくるところが多いのではないでしょうか。

真田十勇士は、もちろん皆さんご存じでしょうが、一応。


●高野山の九度山に不遇の身をかこつ真田幸村。徳川に攻められ滅びゆく豊臣秀頼を助けるために、すでに勝ち目がないことを承知の上で大阪へ向かいます。幸村を慕い付き従うのは「十勇士」とよばれるキュートな忍び達。

猿飛佐助、霧隠才蔵、根津甚八(あの芸名はここからとったのですよね~)、三好青海入道・・。彼らが様々な忍術を駆使し大活躍する心躍る冒険ファンタジー。●

アレッ? 最後の最後はどうなったっけ?


真田一族は諜略が得意であったため有能な忍びをたくさん囲っていたイメージがあるようで、それがこの物語が生まれた背景なのでしょうか。

以前、角間温泉に行った時、周辺に真田の忍び関係の名所?がいろいろありました。角間温泉自体が「真田の隠し湯」と伝えられているし、裏庭に「猿飛佐助修行の場」なんかもありました。

「猿飛佐助は実在の人物じゃない」なんて言わないで。いかにも、な雰囲気だし、仮に‘佐助’としてあるけれど、そういう佐助達のような異能集団がここでトレーニングしたんだろうなー、と想像するの。


今更私が説明するのもなんですが、忍びとは俗に言う忍者です。

最初に忍びを使ったのは厩戸皇子(聖徳太子)いわれているけど、彼らが一番活躍したのはもちろん戦国時代。ほとんどの武将が忍びを使っていました。土地によっても、時代によっても言い方が違うようです。忍び、すっぱ、間者(かんじゃ)、草の者などなど。江戸時代はお庭番とか隠密(おんみつ)とか呼んでいますね。「そのほう、公儀隠密じゃな。フォッフォッフォッ」なんちってね。


上杉謙信の側近の直江家は「軒猿」。頭(かしら)は八海でいいのかしら?越後の美味しいお酒「八海山」の産地、八海山の麓あたりを根城にしていたかららしい(ホント?よく知らない)。伊達家は「黒ハバキ組」。ご存じ、「甲賀忍・伊賀忍」。本当にいたかどうか分かりませんが、我らが北条の「風魔」などなど。

有名な忍びもいますね。忍びなのに有名になっていいのかとも思うけど、徳川の伊賀の服部半蔵、同じく伊賀の百地三太夫、甲賀の甲賀三郎(望月家)、あ、あと柳生一族(一族だっ!)。あんまり知らない。浅い。すみません。


ドラマで見る黒い忍び装束なんかも着てなかった。特に昼間は、「ワシは忍者でござい」ってアピールしているようですもんね。目立たな~い、普通のお百姓さんとか、行商人とか、山伏なんかのカッコしていましたよね。夜も黒は逆に目立つそうで、エンジ色とか着ていましたよね(そうそう。見た見た。そうだった)。

忍びといっても、マンガや ヒーローアニメ みたいにドロンと消えたり手裏剣 ♪シュッシュッシュッシュシュー(赤影)がメインじゃないです。 訓練された特殊技能を使って諜報活動をしたり、敵の城にはいりこんで人心を惑わす噂を流したり、時には放火暗殺も。当たり前だけど、けっこう暗い ワールド。 


そして、彼らはほとんどが正規雇用ではありません。正規雇用もいるにはいるけど、つまりは派遣契約です。長期契約も短期契約も単発もあります。だから、ある時はA武将に雇われB武将を探ります。その次はB武将に雇われA武将を諜略しに行ったりします。

もちろん一人の武将(家)とだけ長期契約し、正社員に登用された忍びもいました。上に挙げたメジャー忍びは、ほとんどこの部類です。


う~む。有能な忍びほと後世に名を残してはいないと思うことは思うのじゃが・・・あれ?なんだか真田一族から忍者の話になってしもうた。

何を言いたかったかと申すと、実は真田一族はあんまり好きではありませんでした。どうも権謀術策諜略家のイメージが強くて。


でもその地に行って狭い土地で敵同士があまりに接近しあっている立地条件を実感すると、そういう中で生き延びてゆく小さな一族の必死さが胸に迫り、そんなに嫌いではなくなってきたのです。

大河ドラマ「風林火山」で、佐々木蔵之介さん扮する真田幸隆(信繁のおじいさん)が陣中で、かつては自分の領地であり今は敵のものになっている里山をジッと見つめ、手を前へグゥーッと伸ばし、

「もうすぐだ。もうすぐ我が里がこの手に戻る・・」

ギューッと手を握り締めるシーン、胸がキューンとしましたよね~。幸隆殿は武田信玄の絶大な信頼を得て、その後の生涯、武田家と長期契約を結び続けました。


horse 惜しい村上義清

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~荒砥城から、義清殿の居城・砥石城を望む。眼下に流れているのは千曲川 。千曲っている。砥石城の本城ルートは整備された明るい登山コースだったが、途中でなんだかとても怖くなり・・ごにょ。引き返して、それ以来行っていない。~


ここに、知人の先祖である(ほんとかな?)村上義清という城主がいます。

武田信玄とは宿敵同士ともいわれていますが、義清殿は私としては信玄公の宿敵とするにはちょっとプチ(ファンの人ごめんなさい)。村上義清のライバルは真田幸隆のような気がします。敷地(領地)もお隣同志ですし。

村上義清の居城は「葛尾城」。標高805m。現在の満泉寺あたりが屋敷跡だと伝わっています。


村上氏の先祖をたどれば源氏の出。あちらこちらに出自が同じだったり違ったりする村上氏がいて、いろんなものを調べても私にはよく分りません。でも、信濃の村上氏は古くから続く由緒正しき家柄ではあるようです。

有名な伊予(現代の愛媛県あたり)の村上水軍も同族のようです。時代は遡りますが、室町時代の南北朝の争乱の頃(天皇家・公家・武家が南朝方と北朝方に分かれて長く争っていた頃)、吉野に逃れた南朝の後醍醐天皇の皇子・護良親王、いわゆる大塔宮(昔はだいとうのみや、今はおおとうのみや)を命をかけてお護りした村上義光・義隆父子も祖先のようです、ようです、ようです・・・。


この親子が好きだ。父上義光殿は皇子の身代わりとなりて自刃。若君の義隆さんは父上の意志を継ぎ、皇子をお護りしながら脱出をはかります。落ち延びる途中、単身敵を防ぎ討死。享年18歳!

どこまでが作られたお話がわかりませんがねー。以前、吉野へお花見に行った時にお墓参りしたかったけど、春の雪が降り積もる中、ちょっと足場が悪くそこまで行けませんでした。


ファンでないのになぜ義清殿の城を訪ねるかというと、それは、信濃村上氏が一番隆盛を極めた時の城主が義清殿ですし、彼が武田信玄に負けて上杉謙信を頼ったことが川中島の合戦の引き金の一つだったし。なんといっても信濃では大きな勢力だったから、信濃のどの城跡へ行ってもなんかしら義清殿が関わってるからなのです。

それなのになぜファンではないのかというと、それだけパワーもあり、さんざん甲信越をかきまわしたのに、越後の謙信くんのもとへ行った後なんとなくフェイドアウトしちゃった感があるからです。


しかも、そこで長生きされて病死らしい。いや、病死はお気の毒ですし、猛将がみんな若くして討死せにゃいかんわけじゃないんだけど、なんか惜しい。

謙信くんが援軍を出してくれて一旦は信濃に返り咲きましたが、これはオマケでしたね。数か月でまた武田に攻められ越後に敗走。 惜しいな~。

敵の武田家が滅びた後、ご子息が海津城に一時期はいってます。これも惜しいな。イメージする村上家の方向性とは違う気がする。


この方、最後は越後の一(いち)プチ城主になっていますが、どう思ってたのかな、越後へ行った後。

自身の運命を静かに受け入れたのか。すっごく悔しくてうつうつと暮らしたのか。最後までギトギトと信濃に返り咲くチャンスを狙っていたのか・・。


horse アミューズメント城の荒砥城

名湯、戸倉上山田温泉にある、これも村上さんちの支城です。NHK大河ドラマ「風林火山」の、海の口城攻めのロケに使われたのはここでしたね。入場料300円。維持費がかかりますから。

ここは戦国時代の城の体験ゾーンです。ここを見ると、他の城跡へ行っても想像しやすくなりますよ。


眺めは最高。取り囲むのは信濃の山々。眼下には北国街道と、千曲川がほんとに千曲っている様子がよく分かります。反対側にまわると雪をかぶった北アルプスまで。砦越しに広がる戦国大パノラマです。

こんな景色を見てたんだね、山田さん(義清どのの臣下で一族の山田さんの城なのだ)。でも、平常時は麓に住んでたから、ここに来るのは変事の時、あんまり美しい景色だと思ってはいなかたかも。

「見渡す限り油断できない人間だらけ。げっそり・・」
としか思わなかったかも。


horse 上田原古戦場

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~古戦場~


大好きな土地の名前の由来。
信濃には「平 たいら」という名称が多いです。スキー場の菅平・塩田平・真田平・善光寺平・佐久平・・などなど。信濃では盆地のことを「平」と呼ぶそうです。


上田駅から、名湯(信濃は名湯だらけ)別所温泉の塩田平にある塩田城へ向かう途中に、「上田原」という古戦場があります。武田信玄が ノリノリ で信濃侵略を進めていた時に、信玄VS義清どの(& 義清どの率いる信濃の反武田プチプチ城主達)の大戦があった場所です。

今は田畑ですが、冬に行ったので本当に上田‘原’。当時をイメージしやすかった。しっかし広い広い。城跡とは違って、どこをポイントにすればいいのか?走りまわっっちゃいましたよ、車で。

一番いいのは、武田が本陣を置いた(といわれている)石久麿神社に行ってみることみたいです。素晴らしい石碑や合戦の陣張図があります。まわりには「信玄道」の小さい石碑や(農道上にも白ペンキで書いてある???)、「無名戦士の墓」などがあります。

「上田原古戦場公園」近くに板垣さんのお墓がありました。また、原っぱの向こう側には義清殿が陣を張ったと伝わる、「岩鼻」と呼ばれる奇観が臨めます(上の画像の崖みたいなとこ)。


この戦は引き分けと言われていますが、どちらも多大な犠牲者を出しました。信玄殿は、重臣の板垣さんと甘利さんを失い自分も ケガしました。自信満々でイケイケになっちゃったから天に鉄槌をくだされたのか。

信玄殿は戦が終わった後も何故か陣をひかず、一ヵ月近く居座ります。そしてママからお手紙がきました。「いつまでも意地を張ってないで帰ってらっしゃい・・・」みたいな。僕チャンは、負けを認めるのが悔ちかったのか? 思い上がりを大反省してたのか。

それにしても、川中島といい上田原といい、武田信玄は戦で重臣が亡くなることが多いですよねえ。なんでかしら。


horse 生島足島神社

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~生島足島神社読めますか?「いくしまたるしま」です。 ~


伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が国生みでお産みになった神様だそうです。いかにも古い縁起の格式ある神社といった風情で、境内には樹齢八百年からの古木がたくさんありました!

古来から歴代の帝のご信仰も厚く、又、真田一族も随分ご寄進などをしているそうです。武田信玄も戦の前に幾度か願文を捧げていて、川中島の前にもご祈願にきています。


信玄殿が甲斐や上野の武将達に、神前で自分に忠誠を誓わせた時の起請文が83通も残っているのが公開されているので見に寄りました。

ずらりと並んでいると複製でも怖いくらいの迫力だった。皆、文字に力がある(起請文は自分で書くよね?まさか祐筆?)。でもね、しょっちゅう誓わされてたみたいですよ。起請文の宛先が信玄殿じゃないのが興味深い。


「天正10年、神流川合戦の前夜へ!」
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「名 胡 桃、推参!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-4ae8.html
「国宝松本城 月見の宴」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-2f34.html


萩真尼

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2015年11月22日 (日)

「岩槻城」 道灌の会で実地見聞?

▲ 2015.11.24 加筆
11月刊の『論集 戦国大名と国衆19』は「北条氏房」だそうです!北条時代の岩槻研究が主のようですが、ぜひ読まねばです。岩田書院さんのHP→http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-86602-938-2.htm


Img20150926_214637
~これは江戸時代の絵図だが、堀が埋められ今の姿になったのは昭和40年頃だと!徳川が城を分断するためド真ん中に御成街道を敷いただと(ピンクの矢印)。知らなかった。~


誰が築いた
岩槻城
それは私と
こまどりは言った

by マザーグース

な~んちゃって、うそうそpaper。パクリにてござります。


あれやこれやの疑問はブログに書き散らかしっぱなしとなっております。その他にもペンディング事項は山盛り。

が、まあ、小田原の御用米曲輪の発掘調査は一段落し(←遺跡調査発表会が楽しみhappy01)、徳川以前の江戸については家康殿の円覚寺領うんたら・・ゴニョで決着し(←それでいいのか?)、百姓曲輪はこれ以上は私には分からないので(←当然じゃ)後は小田原市におまかせし、残るは「岩槻城は誰が築いたか」になりました。


ということで・・

こたびは、小田原の百姓曲輪の謎にとらわれ過ぎアップするのが延び延びになってしまっていた、とても興味深かった岩槻城の見聞でござる。

サル9月のことになりますが、「道灌びいき」の会で岩槻城の城下と城跡を歩いてまいりました。


Img20150926_213629_3
~法林寺の太田道灌像。カッコええ~。~


一般的に言われている岩付城のことや城郭ファン的にマニアックなことは、皆さん私なぞより遥かにご存知だと思いますので、そのへんのところは割愛させていただきやす。

案内してくださったのは、岩槻市のベテランガイドさんお二人&「岩槻城は誰が築いたか」の著者・小宮勝男氏です。岩槻城は何度か行っていますが毎回一人だったので、今回初めて見たり知ったりしたことだらけでした。


まずは郷土資料館で、岩槻城のジオラマを見たり、戦国時代の文書類(複製)を見たり(北条氏房くんの印判状もあったぞ!)、ここだけで半日いられそうなぐらい話は尽きず、いい加減そろそろ行きましょうということで、太田三楽斎の奥方様の菩提寺、法林寺へ。


法林寺では、太田三楽斎の息子氏資くんの宝篋印塔の話でまた盛り上がり、時間は押し押し。

そうそう、ここには太田道灌のお墓もありますが、こちらは、伊勢原から道灌の遺骨・遺髪を分けたものだ?そうです。


Img20150926_213738
~同じく法林寺。なんと!応永、享徳の墓石 coldsweats02。「応永」「享徳」の文字がかろうじて読めた。~


さて、くだんの、「岩槻城は誰が築いたのか」。

太田なのか?それとも成田なのか?については、先にマリコ・ポーロにあげましたが、やっぱり決定的な 何か がもうひとつ出ないと結論は出ないのでしょうかねえ。


先日、八王子市で開かれた、我ら残党の「旧八王子城を守る会」の会長でもあった峰岸純夫先生の講演会「中世多摩の戦乱と城郭」を拝聴してまいりましたが、そこで先生がおっさってらっしゃいました。

「峰岸先生は、あっちへ行くとその説にそうかもしれないねえ…と言い、こっちへ行くとこの説にそうかもしれないねえ…と言う。調子いい~。 と言われますが、実際に見た人はいないんだから、いいんですよ。歴史にはいろんな説があってね。」と。


とはいえ、早くどっちか知りたいのは歴史ファンの性(さが)。

どちらかハッキリさせなくてもいいから、問題をオープンにして歴史ファンの議論をよんだら、岩槻城の活性化にもなるのではないかな~と思いました。だって、杉山城がそうだったでしょ。


万が一、大河ドラマで「太田道灌」をやることになっても、この岩槻城問題が静まり返ったままだと、ドラマで岩槻をどう取り上げてよいかどうか分からず、その流れから外されてしまうなんてことになりかねません。学芸員さんも頑張ってらっしゃるのに、「ブラタモリ」だって呼べないし。

築城が太田さんにしても成田さんにしても、城の規模も大きく、太田、渋江、北条、江戸時代の岩槻藩・・と魅力的な歴史を抱えているのに、みすみすチャンスを逃しているようでもったいないと思いました。


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~ガソリンスタンドの隅っこに埋もれた「本丸跡」の碑。かわいそう・・・。これじゃ記念の集合写真も撮れないね。~


とはいえ、戦国~江戸にかけての城の主要部はほとんど完全に住宅街。残っているのは北条時代の出丸のみ。往時を偲べるのは暗渠となった堀痕や埋め立てた沼地の痕跡だけ。

またその痕跡の地図とか絵図面が手に入らにゃい。個人のお宅ばかりだから、難しいのでしょうねえ。

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~住宅街の中に残る堀跡~

今回はガイドさん達が、それこそ「ブラタモリ」のように現代の地図の上に透明なものに描かれた当時の絵図を重ねてポイントポイントで説明してくださり、こんなところ を歩くことも出来ました~♪


最後は岩槻の銘酒「大手門」の鈴木酒造さんで、試飲とお買物 。

各所で時間を取り過ぎ、酒造へは有志だけが行くことになりました。みなさん、「これを楽しみに歩いて来たんだよ~」。有志と言いながらもほとんどが参加。そんなもんだbottle


そして、実地見聞の結果、「岩槻城は誰が築いたか」はワテにはまったく分かりませんでした。おしまい。


「岩槻城を築いたのは、太田か成田か」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-e9a4.html
「今20日未明、岩付城へ総攻撃はじまる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-de3a.html
「続編・城は今日落ちた」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-79a2.html


萩真尼

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2015年11月13日 (金)

今川時代の駿府 「吐月峰 柴屋寺」

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~名勝 「天柱山 吐月峰柴屋寺(とげっぽーさいおくじ)」~


寺の名前に 「吐く」 という字を使う。借景の山々は驚くほど近く、寺を囲む竹林に覆いかぶさるように見える。峰に日が沈む。さながら、今、その山から吐き出されるかのように月が昇る。


寺は、我らが北条早雲こと伊勢宗瑞の姉・北川殿とその子氏親が10年余り逼塞した丸子城にある。

戦国ファンにはお馴染み連歌師宗祇の弟子で、駿河は島田の生まれである宗長が草庵を結び閑居したものを今川氏親(義元の兄・先代当主)が寺とした。その元は、今川の被官で丸子城を築城した斎藤安元が宗長に建てた庵が原形だそうだと、武将友さんが教えてくださった。


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~寺から通りに出ると丸子城主郭部が見える~


部屋はそれぞれ庭に面し、非常に近い山々が借景として遠近感を出しているがけっして広くはない。参拝者が他にいなかったせいもあるかもしれないが、その籠った感と、あえて手を加えていないかの庭は外界からの隔絶感をより一層深めている。

利休以前・・珠光時代になるのか、簡素な造りの茶室に座り、庭を眺め、氏親の螺鈿菓子器や幽斎の香炉や信玄の高麗茶碗「村雲」や義元の横笛などを見ていると、意識は今川時代を浮遊する。


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~茶室の向こうには寺の山号である天柱山がそそり立つ~


午前中は臨済寺の特別公開へ(よろしくば先のブログ記事をご覧くだされませhttp://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-2e50.html)。その後、丸子宿で名物とろろ汁のお昼をいただいてから柴屋寺の門をくぐる。

本当は大好きな寿桂尼の菩提寺へ行こうと思っていたのだが、丸子宿の案内板で「柴屋寺」が目に入り突然気が変わった。


たまたま偶然に大好きな海道龍一朗の『室町耽美抄 花鏡』を、別に駿府に行くからというわけでもなく読んでいたこともあり、まさにドンピシャリのワールドで、臨済寺→柴屋寺で妄想はクライマックス!


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~月を眺めるための宗長の庭。石清水を引いた池に映る月は、えも言われぬ風情らしい。~


帰路に突然思い出した。柴屋寺が舞台になった小説を以前読んだような・・。どうだったか・・。

家に帰ってから段ボールを漁ったら、あった!『月を吐く』。家康正室の築山殿と、花倉の乱で義元と太原雪斎に敗れた玄広恵探ゆかりの人々が織りなす一大物語。タイトルからも分かるように、柴屋寺も主要な舞台となっている。

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~海道龍一朗著 『室町耽美抄』講談社、諸田玲子著『月を吐く』集英社文庫~

あらためて読み返しているので、いまだ今川時代の駿府から抜け出せない。なんだか冒頭の文章も、かなり感化されてしまっているような…。


「東京の今川家菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html
「早雲が最初に賜った城は三国同盟の城?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-10e3.html
「北条氏政と家康、黄瀬川の河原で酒宴する」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-fe11.html
「北条「氏政」の御首級(みしるし)はどこに?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-470a.html
「駿府で暮らした後北条家の人々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a23.html


萩真尼

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2015年11月11日 (水)

家康の「しかみ像」は昭和に作られた逸話だった?

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~「ねえねえ。あなたは本当に宗瑞さんで間違いないですか?」 小田原城常盤木門で開催中の「北条五代と武具甲冑展」にて。こうやって伊勢宗瑞殿と一緒に写真が撮れる。~


3部作のブログ記事となってしまった小田原城の百姓曲輪の興奮も一段落。興奮中に気になったことがありましたので、そのことをチョビット。

ここのところ、しょっちゅう同じようなことを書いておりますが、昨今、勝者により前勢力の功績が塗り変えられていたことが判明したり、江戸時代に作られた軍記物や家伝などなどにより語り継がれ信じてきた歴史の通説が、ガラガラと崩れたりすることがとても多いです。


BSの歴史番組などでも盛んにそういうことが取り上げられてされていますし、専門家の先生方による「〇〇の真実」だの「本当はこうだった!」みたいな本も続々と出版されています。

これも何度も申しておりますが、本当にチェックッチェックを怠ると、昔の俗説を一人で言っているな~んてことになりかねないです。いやはや、いやはや。面白いけど、気が抜けないですな。


まあ、所詮、過去の歴史なんて実際に見たり聞いたりした人はいないわけですから、「史実」と言ったって何が「史実」かなんて分かりませんけどね。残っている当時の書状にしたって、本当のことを書いているかどうか分かりませんよね。話を盛ったり、政治的にワザと嘘をついたり、また、思い込みや勘違いだってあったでしょう。

が、しかし、またここに・・・


家康の「しかみ像」は三方原の戦いとは無関係!?

しょっえ~~。
びっくりポンや!coldsweats02


今更私が申すまでもないですが、「しかみ像」とは、三方原の戦いでコテンパンに負け敗走した家康殿が、この経験を今後の戒めにしようと敢えて描かせたという、あの有名な像です。

ところが、なんですと?!
家康が描かせたのではない?つまり江戸時代に描かれたもの?しかも三方原の戦いとは関係ない?その像の表情はしかめっ面なのではなく仏教的な怒りの表情?


と、断定されたわけではないですが、どうも三方原と関係ないことと、家康が描かせたものではないということは確かのようですね。

うーー、もうタイムトリップして自分の眼で見たことしか信じないぞ! pout


そして、こんなんも出たのですね。読みたい・・。
「家康伝説の嘘」
渡邉大門著
柏書房
http://kashiwashobo.co.jp/cgi-bin/bookisbn.cgi?isbn=978-4-7601-4645-1


家康「しかみ像」について、詳しくは「よみうりオンラインで」YOMIURI ONLINE 10/24 → http://www.yomiuri.co.jp/chubu/feature/CO016071/20151023-OYTAT50045.html


そんなこんなを書いたワテのブログ記事の一部です。
「『秀吉研究の最前線』を読んだ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-debb.html
「『信長研究の最前線』、そして高倉健」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-70a1.html


萩真尼

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2015年10月10日 (土)

黒田基樹氏講演で初めて知った「石浜城」

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~石浜神社。神亀元年(724年)創建。昔あった所からは少しだけ場所が移されているらしい。赤い鳥居の右側方面が隅田川。~


karaoke 黒田基樹氏講演「武蔵千葉氏とその時代」

先に当ブログでもご紹介させていただきましたが、秋とは名のみのサル10月3日、赤塚城址にある板橋区立郷土資料館で開催中の特別展「武蔵千葉氏」を観つつ、黒田基樹氏の講演を拝聴して参りました。


講演の内容は「武蔵千葉氏とその時代」です。が、しかし、「その時代」がややこし過ぎて、ややこし過ぎて、とてもブログにはよう書けしまへんcoldsweats01

聞きなれない言葉も出てきました。「寛正の政争」。寛正とは享徳の数年後です。その政争とは、堀越公方 vs 扇谷。その後、都鄙和睦がありの、長享の乱がありの、それから永正の乱がありの、となります・・・よね?もう、何がなんだが、誰が誰だか分かりません。


アッチと組んだかと思えばコッチと組んだり、ソッチで殺害されたかと思えば、ムコウで自害・・・

いったい、皆、どうなったら満足するの!?


同じく当ブログでご紹介いたしました『長尾景仲』 黒田基樹著や『上杉顕定』森田真一著が途中リタイアし、どなたか噛み砕いて話してくだされと思っていた身には、この日の講演は、歴代武蔵千葉氏の当主を主軸として時系列で話してくださったので、とても助かりました。面白かったです。

だからと言って、それを人様に語るほどには全然分かっちゃないのが辛いところ。


horse 石浜城

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~石浜神社にある「石浜城」の説明板。千葉胤村(北条氏繁三男)とあるのは、6代直胤のこと。~


講演の中で、「石浜城」という城が何度か出てきました。初めて聞く城名です。

下総から難民として逃れてきて上杉の庇護のもと、お兄ちゃんの実胤が居城としたのが「赤塚城」。弟の自胤(これたね)が入ったのがこの「石浜城」なんですか?これが、「武蔵千葉氏」の始まりなんですか?←本当に分かってないcrying


それにしても、「〇胤」「〇胤」。よくこれだけ「胤」が付く名前を考えたものです。相馬家なども「〇胤」ですよね。長~~く続く名門なんですねえ。

これまで不思議だと思っていた、なぜ我らが北条が千葉氏に養子を出す価値があったのかが少し分かりました。


武蔵千葉氏は、我らが北条の時代は江戸衆に配属されて、江戸城城代の遠山さんの与力となっているそうですね。

与力というのは・・・
▲北条の直臣で、独自の家中を編成していながらも、恒久的に「物主(この場合は遠山殿)」に付属されて、その軍事指揮下に編成されているものをいう。▲(黒田基樹著『戦国北条氏五代2012.1』)

だそうです。
あ、皆さんとうにご存知で。ワテ、江戸時代の役職名だとばかり思っていただ。


そして石浜城のある石浜は・・・
▲扇谷上杉氏段階では、江戸太田氏と相給関係にある・・(略)・・それらは扇谷上杉氏への帰参後に、由緒ある所領として返還されたのではないか。そう考えると、「役帳」で石浜が「千葉殿」の所領になっていないことも理解しやすい。
※後に北条氏の軍記物では「石浜城主」と表現されるが、北条氏からの養子取りにともない、直轄領部分を与えられたことによるとも考えられる。▲(この日の講演のレジュメより)

ふ~む。
難ちぃ。


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~墨田川にかかる白鬚橋より石浜神社(ピンクの  )を眺めるの図。~


石浜城の候補地は他にもあるそうですね。この白鬚橋下流側の橋場あたりも候補地らしいです。千葉氏菩提寺で、今は板橋区にある総泉寺がかつてそこにあったとのこと。

いずれにしても、海抜1m位。対峙する葛西城と似たような雰囲気だったのでしょうかね。


japanesetea 城より団子

Img20151008_161359_3
~視界いっぱいに武蔵の塔(スカイツリー)~


白鬚橋で隅田川を渡河すると、そこは向島でござんす。

以前より食してみたかった「日本一のきびだんご」でお土産を買い、どんどんどんどん大きく迫って来るスカイツリーに向かってブラブラ歩きました。スカイツリーに着くと、そこは押上駅。


都心にも中世の城跡はたくさんあります。当時はもちろん今とはまったく違う景観だったということは分かってはいても、山城へ行き慣れた身にとっては住宅が密集する平坦地に城跡があるということに気付くたびに、ちょっと驚いてしまうのですな、これが。

「葛西城を歩くツアー」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-7c64.html


紅花

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