2020年10月25日 (日)

講演「中世の品川と妙国寺 ー 往来する商人・宗教者・戦国武将」

マリコ・ポーロ


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~「中世寺院と品川 ー 妙国寺の歴史と寺宝」展(2019.10) 品川歴史館~ 


家康前の江戸は未開の地だった…

それは昔いわれていたこと。今は、「ただの寒村を徳川幕府が大都市にした」と、徳川の力をアピールするために作られた話だというのが一般的になりつつあります。


とはいえまだまだ広い世間には知れ渡っていません。

江戸湊を本拠地とし江戸を開発していった江戸氏。家康の前に、江戸に名僧が称えた城を築いた上杉と太田。その江戸城を奪取した北条氏綱や、隠居後に在城した氏政。江戸を坂東の舟運の要として繁栄させた彼らの立場はどうなる?😢(シクシク) と思っていたところ…

先日のBS6歴史鑑定「家康より先に江戸を築いた武将・太田道灌」は、それを当然のごとくサララーッと伝えてくれましたね 😊(ニコニコ)!


番組を観ていて、昨年の秋、品川歴史館で催された企画展と、古川元也氏(日本女子大)による講演会「中世の品川と妙国寺ー往来する商人・宗教者・戦国武将 」のことをブログに書き残し忘れていたことを思い出しました。


前にも書きましたが、家康前の江戸のことはずっと興味がありました。

江戸は徳川以前も寒村ではなかったと漠然と唱えていてもアカンので、鈴木理生著『江戸はこうして造られた』を読み、「道灌びいき」の会の勉強会やいくつかの自治体(区)が主催するガイドツアーで歩いたりもしてみました。

また、「旧 八王子城を守る会」の残党(ワテも)の重鎮である氏照師匠が、「それなら、こんなんあるよ~」とコピーをくださった、旧会長の峰岸純夫先生の『中世荘園公領制と流通 』にある「戦国時代武蔵品川における町人と百姓」(岩田書院 2009)もとても興味深かったです(今更のアップでゴメンナチャイ)。


そして、特に参考になったのは、石村智・谷口榮・蒲生眞紗雄著『海の日本史 江戸湾』(洋泉社2018)の中の、谷口氏が書かれた第三章「中世の江戸湾内海」です。

谷口さんの本はそれだけでも内容が盛りだくさん。あらためて(いずれ)書きたいと思うので、こたびは講演会のことだけを。(峰岸先生の本は、まとまった史料がある品川郷を例に百姓や町人などの欠落や人返しなどのことを挙げ、同じ郷内での都市と農村の分離と矛盾がテーマなので別の話として。)

一年も前のことで恐縮ですが、チビットだけ以下に備忘記録。


▲ 天妙国寺(旧妙国寺)

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~天妙国寺。暗い?(数年前に撮影)~


中世の江戸といえば品川湊、品川湊といえば「妙国寺」ですよね~。妙国寺には、ご本尊を含めた彫刻作品類、経典、宗教絵画などの他に、鎌倉公方はじめとする戦国武将達の文書類『妙国寺文書』などなどなど、あまたの貴重な寺宝が残されています。

制札は、我らが北条氏綱のもあります。太田資正殿のも、上杉朝興のもあるでよ。


創建は弘安8年。前の北条の 北条時宗 の時代です。当時、寺が属したのは「日蓮教団」(この教団については、宗門史からの考察が必要だと古川先生は講演でおっしゃっていました)。

足利義政 の頃、品川湊の豪商だった鈴木道胤により七堂伽藍が建設された大寺院でした。江戸時代には徳川将軍家の宿泊所としてたびたび使われもしたそうです。


▲ 妙国寺文書

皆様は私なぞより遥かに歴史に詳しい方ばかりなのでご承知のことですが、文書、特に書状に書かれていることは全て本当のことではありません。前にも何度か書きましたが、わざとウソを書いたり、話を盛ったりします。聞き違いや書き違いもあるでしょう。

でも、日本では文書はとても大事にされますよね。


妙国寺では先年、伝来文書の修復をされたそうです。手鑑にまとまっていたものを一紙ごとにバラして、一通ずつ中性紙ボードに挟んで箱に収納したそうです。これは、文書の安定した保管には一番良い方法だそうです。

企画展などでの展示も、冊子のままだと開かれたページの文書しか見学できませんが、こうなるとたくさんの文書を観ることができますね。


▲ 往来する商人

湊といえば、有徳人。
品川湊の有徳人を代表するのが、鈴木道胤

大河「直虎」での中村与太郎や瀬戸芳久が浮かんじゃうけど、妙国寺に出したシゲッチ(足利成氏)の御判御教書からは、妙国寺や品川湊にとっての道胤の重要性が分かるそうです(ワテには分からにゃい💦)。


(道胤とは)
出身:紀伊熊野
当主:史料から分かるのは、道永・道胤・源三郎の三代


(品川湊)
しょっちゅう書いてて恐縮ですが、中世の江戸は坂東の舟運の要。品川は ハブ港 です。

そして、この講演会と谷口氏の本(上記)で初めて知ったのですが、品川は伊勢熊野と密接な往来があったそうで、関東に伊勢の御厨が多いのはそのためなのだそうです。

「鈴木道胤や近隣海晏寺の檀越榎本道琳氏が熊野と関係を持つとすれば、このような伊勢・品川ルートの存在が前提としてあったと考えてよい 」
と。


品川は戦国以前、大井氏の一族である品川氏が勢力を張っていました。峰岸先生の本(上記)に、「鎌倉・南北朝期に和泉や近江・紀伊 などに移住…」とあります。それで、熊野や伊勢との関係が生まれたのでしょうか?

お!皆様とうにご存知で…失礼。恥ずかち。


小田原北条の時代真っただ中となると、品川は我らが北条氏照の管轄となります。品川には、宇田川氏や鳥海氏が現われてきますよね~。宇田川氏は後に品川神社宮司や北品川宿名主に、鳥海氏は南品川の名主となっているそうです。


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~海面の跡が残る石垣。旧東海道の商店街の一本裏の道。ちょっと前まではここまで海だった…あ!これも、ご存知。失礼。~


▲ 往来する宗教者

当時の(も)、品川にはあまたの文化人が訪れています。

我らが(←こればっかり)道灌の心腹の友であった万里集九、お馴染みの宗祇や宗長、激しい生涯を送った日親、様々な日蓮教団の門流…などなどなど。


▲ 往来する戦国武将

なぜ品川にはたくさんの戦国時代の制礼が残っているのか?

たくさんの制礼が発給されたからなのでしょうが、それは、
「勢力が入り乱れる品川。いつどこで後に必要となるかわからない。だから一応取っておく。」
から。


これは、そういう場所の特徴的な文書の残り方なのだそうですね。

面白いのは、妙国寺に残る制札は、品川を掌握した側から出されたものだけではなく、紛争当事者双方からのものがある点だそうです。


峰岸先生の本に書かれていました。
「…(中世の品川には)地域の社会的分業の所産として、都市が形成されていた…」


以上、つたない備忘録ですが、もっとちゃんと知りたいという方は品川歴史館の図録をお取り寄せくだされ。
品川歴史館出版物


「家康以前の江戸は本当に「寒村」だったのか?」

「小田原北条と八丈島」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年8月 1日 (土)

家康は8月1日以前に江戸へ入っていたのか?

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどなどなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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今日8月1日(朔日)徳川家康は、それまで北条領だった江戸に入封する


家康は秀吉から一方的に江戸への移封を言い渡された…とされているのだと思っていました。

しかし、今はそうは言われてないようですね。それは二人の合意のもとに決まったことだとされているようです。


そこで以前からの疑問が持ち上がってきました。

家康は秀吉より後に江戸に入ったことになっています。小田原開城からの家康と秀吉の動きを簡単に書いてみます。


(7月)
5日 北条氏直が投降


6日 秀吉&徳川の家臣達が城受け取りに入城(秀吉家臣=脇坂安治、片桐且元、家康家臣=榊原康政、井伊直政、本多忠勝)


10日 氏政・氏照が城を出、入れ替わりに、まず家康が入城


13日 秀吉が入城、家康殿がお出迎え

同日 家康の江戸移封が皆の者に告知される


ですよねえ。
普通は先に下の者が入り、その後上の人をお迎えしますよねえ。しかし…


15日 秀吉が江戸着

24日 秀吉は奥州に向けて出発


29日 家康は小田原を発つ

8月1日 家康の江戸入封


まだ不安定な江戸に上様が先に入るかな?家康は小田原でまだやることがあり、秀吉は奥州攻めを急いでいたということかもしれませんが、そういうことってあるのかな~とずっと思っていました。

まあエエ。北条が出たあとの江戸は、家康殿や秀吉殿で好きにしちくれと思いながらも、気になっていました。


幕末以外の徳川さんには興味がないので、手持ちの本は『江戸はこうして造られた』鈴木理生(ちくま学芸文庫)のみ。自主自粛生活で図書館へも行けないため、ネットで何か論文が読めないかと探ってみました。

見つけました!
チト古いですが、『徳川氏の関東入国に関する一考察』村上直氏(法政大学史学会 1995)です。


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色々と面白いことが書かれていました。

家康好きの方でしたらすでにご存知のことかと思いますが、家康は、八朔以前に江戸に入国していたのではないか?というのです。そこには、水江漣子氏や中村孝也氏などの研究による上記とは違う秀吉と家康の動向が検討されていました。


🐎 その中のひとつ『徳川家康公伝』

(7月)
15日 家康は秀吉に先立って小田原を発して江戸入り


19日 秀吉が江戸着、家康殿がお出迎え


20日 秀吉は奥州へ、家康殿がお見送り


8月朔日 家康は縁起の良いこの日を選び、正式な形であらためて江戸城へ入城


🐎 また『文政寺社書上』には

秀吉は法恩寺を宿舎としたとあるそうです。

七月廿一日昼御膳御上り被成候、御城在御眼前秀吉公対家康公被し仰候

と、21日に法恩寺にて家康と対面しているとあるそうです。


以前にも書きましたが、法恩寺は、太田道灌が江戸城を築くに際し、江戸城鎮護のために建てたお寺です。早雲寺といい、法恩寺といい、秀吉ったら、もう!

いや勝った方はそういうもの、致し方なし。


この『文政寺社書上』の末尾には、これは誤りだと記されているそうなのですが、村上氏らは、そんなこともないのではなか?と。

他の数点の史料によると、秀吉が江戸を発ったのは 7月24日だと記されているそうです。


村上氏は、
…これによって家康が19日に江戸に着いたという確証はないが、恐らく20日には江戸に到着し、翌21日には法恩寺において秀吉と面談し、24日に奥州へ出発する秀吉を見送り…
と書いています。


家康や秀吉が江戸へ入った日もですが、秀吉が奥州へ発った日も、私の浅い知識とは違っています(そりゃ浅識だからじゃ)。それは、

…この点、のちに家康の関東入国を八月一日とするため、それに合わせるために行動内容がきわめて暖昧になっているともみることができるのである。…


驚いたことに、『家忠日記』には家康の江戸入りの日が書かれていないんですってね。そんな大事なことが書かれていないなんて。いや、家忠殿は、江戸は単なる通過点だと思ったのかもしれへん。

なんだか、納得~。


🐎 オマケ

この論考には、家康が入る前の江戸は寒村だったという解釈はあまり適切ではなく、道灌時代は文化的にも華やかで、以後、江戸城下には江戸湊を中心とした中世都市が広がっていたと思われると、ちゃんと書いてありますよん。

入国した家康の居城に相応したものであったことを知ることができるって。


ということで合っていますかね。
マリコ・ポーロの読み間違え、受け取り間違えがあるかもしれないので、ご興味ある方は村上氏のこの論考をご覧くださいませ。


でも、そもそも家康殿って江戸があまり好きではなかったようですよね。将軍職を秀忠に譲ったあと、サッサと江戸から出てっちゃいます。

それは、そのまま江戸城(家康の隠居所)にいたら秀忠のためにならないと考えてとも言われていますが、そうじゃなくて、家康殿は嫌いだったんですよ、坂東が。


「家康以前の江戸は本当に「寒村」だったのか?2015」
「太田道灌と小田原北条の江戸城 2010」

萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2019年8月19日 (月)

消えた「豊島一族」はどこへ?

マリコ・ポーロ


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~練馬城付近のかつての石神井川(石神井公園ふるさと文化館展示より)~


文明9年4月。
太田道灌によって練馬城から誘き出された豊島方は、江古田原にて敗退。石神井城も落城し、豊島方は逃亡する。

翌、文明10年1月。
豊島方は「対城 むかいじろ」平塚城を築き道灌に対峙するも、戦わずして北へ逃走したまま歴史上から姿を消した。

それから早(か?)541年が経つ。


酷暑ゆえ講演会のことばかり続きますが、昨日は、石神井城で催された豊島一族についての講座を拝聴して参りました。主催は「江古田の歴史を知り繋げる会」。講師は、坂東戦国史、特に豊島一族の研究ではお馴染みの 葛城明彦氏です。

こたびの講演では、道灌時代より以前の、豊島一族の平安後期~南北動乱期についても詳しく解説がありました。あまり(ほとんど💦)覚えていないあたりだったのでとても興味深かったです。


初めに…

● 豊島?豊嶋?
以前から当ブログでは「豊島氏」と書いておりますが、本来は「豊嶋氏」だそうですね。当時の記録でも「豊嶋氏」とあるそうです。遥かに時代は下って、「豊島区」が出来てから「豊島氏」と使われることが多くなったそうです。


● 豊島泰経の名前
豊島氏は代々、鎌倉北条の「北条泰時」の「泰」を使っていると言われています。坂東戦国時代好きの私達が一番知っているのは「豊島泰経」の名前だと思いますが、実は「泰経」という名は江戸時代に出てきたもので、今の歴史研究者や豊島氏ファンは「泰経」とは言わないそうですね。『道灌状』などの当時の記録には「豊島勘解由左衛門尉」と官途名があるのみで名前は不明だからだそうです。


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ほにゃ、にわか仕込み の豊嶋一族の歴史をレジュメを元に(ほとんど書き写し状態)時代順に書きながら、余談を混ぜて一族の興亡を辿ってみたいと思います。余談の面白い話が多過ぎてここに書ききれないのが残念なり。


▲ 豊嶋氏とは

豊嶋姓の初出は、治承4年(1180)『吾妻鏡』。
初期は川や海での交易が中心 → 農業中心となり → 四百年余り続いた一族。


源氏に従っていた、平安後期~鎌倉初期

(保元の乱)豊嶋俊経、源義朝に従う
(平治の乱)豊嶋清元、滝野川にて首藤家通を討つ
この 清元=法名清光 の代に豊嶋氏は鎌倉幕府の御家人として勢力を拡大。

ここが一族の 最盛期 ヾ(´∀`)ノ


☆ 余談のひとつ「平塚神社の甲冑塚」
豊嶋氏が源義家から賜った鎧を、元永年間に埋め塚を築いたとあるが、この塚は、甲冑を埋めたのではなく古墳(たぶん)。


鎌倉北条についたと思われる、鎌倉中期

嗚呼、しかし…
(仁治2年/1241)清元の曽孫である豊嶋時光は自身の所領
(豊島荘犬喰名=北区尾久か?)をサイコロ博打の質とし、その罪で所領を没収!

ドびっくり~ (@_@)


新田義貞についた、鎌倉幕府滅亡時
(元弘3年/1333)分倍河原で幕府軍を打ち破る。


☆ 余談のひとつ「石神井の道場寺」
中先代の乱を起こした北条高時遺児・時行の子を、石神井城主豊島景村が養子とし建立と伝わっている。しかし、この頃このあたりはまだ豊嶋氏の所領ではない。

たぶん、豊嶋氏の前にこの辺を支配していた宇多・宮城などの菩提寺を、のちに豊嶋氏が中興したものであろう。


足利方についた、南北朝時代
(貞和5年/1349)豊嶋宗朝に石神井郷が譲り渡され、豊島一族による石神井の支配がはじまる。


これを一族の発展とみるか衰退とみるか?というと、衰退であろうと。勢力が衰えてきたので、このあたりへ来たのではないか。

また、本拠地を移動させたのはこの頃だと思われるが、(応永2年/1395)に以前没収されていた石神井郷を戻された直後かもしれないとのこと。


☆ 余談のひとつ「豊嶋泰景」
初代の石神井城主は豊嶋泰景で、次代が景村とされているが(『新編武蔵風土記稿』)、泰景・景村が実際にいたかどうかは不明。


平一揆

(文和2年/1353)武蔵野合戦での尊氏さま方の勝利により、貢献した平一揆の中心となった豊嶋氏も少し盛り返す
ヾ(´∀`)ノ


が、しかし…

尊氏さま子息基氏&執事の上杉憲顕は平一揆の勢力拡大を警戒(たぶん)

(応安元年/1368)基氏死去の翌年、ついに平一揆は上杉憲顕とぶつかる!

上杉方の勝利


豊嶋氏は領地をうばわれ、また衰退
(ノД`)・゜・。


以後は上杉に従う


豊嶋氏は入間川(隅田川)や江戸湾沿いの活動をやめ、石神井川沿いの開拓を始めて付近の土地に根付いた領主となっていったのではないか?そして、

石神井城・練馬城の築城

石神井城と練馬城は、三宝寺池や石神井川の水源をおさえるための城とみるのが一般的だそうですね


チト休憩

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~石神井城の戦国期の溝の跡(オレンジ)は ↓ のように垣根で示されているそう。知りませんでした。~

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~溝で囲まれたエリアはけっこう広さがあります。何に使われたのでしょうか?~


休憩おわり 


滅亡への一歩、享徳の乱

関東は、利根川・渡良瀬川・荒川をはさみ、上杉方と足利公方方に二分する。豊嶋氏は上記のように上杉方。地理的にもまわりはすべて上杉方だったから。


(長禄元年/1457)太田道灌により、足利公方と戦うための最前線基地として江戸城・河越城・岩付城が築城される

(同年)江戸と河越を結ぶ軍用道路として、河越街道 を整備する


☆ 余談のひとつ「川越街道」
当時の河越街道は、3㎞ ぐらいもっと北にあった

江戸時代以降は農道として使われるようになり、急坂もものかはの最短距離で両城を繋いでいた直線道路では通行が大変。緩やかな場所を通ることができるように変わっていったそう。

また、川越街道は当時だけではなく実は現在も軍用道路。街道沿いの施設を考えてみてごらんくだされ。


話を往時に戻し、

そして、江戸や川越街道周辺に領地を広げたい道灌殿にとって豊嶋氏は、だんだんだんだん、だんだんだんだん邪魔な存在に…
(>_<) アチャー

しかし一応味方同士なので攻めるわけにもいかない。では道灌殿はどうしたか?


豊嶋領内へ、どんどんどんどん寺社を建立したのです。つまり、領地を浸食し、道灌自身の領から住民も移住させたそうです。これらになす術がなかった豊嶋氏の力はかなりの衰えですな。

豊嶋氏はどうしたらいいのでしょうか?


長尾景春の乱

(文明5年/1473)長尾景春の乱勃発!

豊嶋氏は、長尾景春につくのですね~。
講師の葛城氏はこれを、「豊嶋氏勢力回復のための最後のチャンス!」とおっさいます。

(文明9年/1477)豊嶋勘解由左衛門尉(いわゆる泰経)&平右衛門尉(いわゆる泰明)の兄弟は、

石神井城と練馬城を戦闘用にリフォーム

河越街道閉鎖できまっせーん(by 織田裕二)…ちゃうちゃう、閉鎖します!

開戦!!


以下は以前ブログに書いた「江古田原古戦場」の記事(文末添付)とほぼ同じですが、よろぴくご覧くだされ。

豊嶋軍 vs 太田道灌「江古田原合戦」

(同年3月14日)道灌、相模の兵を呼び寄せようとするも、川の増水にて失敗
(同年4月13日)道灌、少数にて豊嶋弟の練馬城に矢入れし周辺に放火

豊島方、練馬城・石神井城両城から出撃!
「豊嶋方は、道灌が相模からの増員が出来なかったことを知って、勝てる!と思ってしまったのかも…」by 葛城氏


道灌軍、逃げるふり


道灌「馬を返して」🐎 江古田原で迎え撃つ!
伏せておいた兵達とともに三方から攻撃!両軍、総力戦。

江古田あたりは、これまで道灌殿が着々と築いてきた寺社が取り囲むエリア。つまり、道灌軍の基地状態。


豊嶋軍、敗退


☆ 余談のひとつ「平塚城」
道灌殿が最初に攻めたのは平塚城だとする説が通説でしたが、これは『鎌倉大草紙』の作者の誤解だそうです。


豊嶋軍 vs 道灌「石神井城攻め」

(同年4月14日)道灌、城山(現・早稲田高等学院付近)に布陣
(同年4月18日)豊嶋方、降参/城の取り壊しを命ずる

(同年4月21 or 28日)豊嶋方が実行しないため、道灌、再び攻撃

豊嶋方、夜逃げ


☆ 余談のひとつ「彦五郎」
どうやら豊嶋本家の彦五郎殿という方は、寝返ったようです。文明2年・福徳元年の板碑や上杉の感状などに名前があるそうです。その後も現在に至るまで、地元の有力者として同地に住んでらっしゃるそうです。

まあ、皆さんご存知のように、自家を守るためには当時はこんなこと日常茶飯事。誰もやっていることです。


豊嶋方の再蜂起

(文明10年/1478 1月)豊嶋方、平塚に「対城」を築く


道灌軍、平塚城へ向かう


豊嶋方、戦わずして北へ逃亡


以後、現在に至るまで豊嶋宗家の行方は不明


☆ 余談のひとつ「小机への逃亡」
豊島方は丸子城(川崎)から小机城に逃亡との従来の通説は誤りだそうです。記されているのは「(道灌は)北へ逃げた豊嶋方を追いきれず、その夜江戸に戻った。翌朝、丸子城の攻撃に向かった」とのみ。

北へ逃げた豊嶋方が、翌朝川崎に現われること、および、道灌が翌朝までに豊嶋方の逃亡先を突き止めることは不可能だからだそうです。


豊嶋はどこへ向かったのか?

この時、豊島が頼れるのは長尾景春と公方ぐらい。葛城氏いわく、北に向かったということは、古河に向かったのだろうか?そして、その途中で落ち武者狩りにでもあい古い名族は消えてしまったのではないだろうか、と。


ふぅ~。以上でござる。講演の内容はこれで合っているかな。不審な方、もっと知りたい方は、葛城明彦氏の著作「決戦」をお読みくだされ。

講演の後半は、石神井城に伝わる照姫伝説と金の鞍伝説がどのように作られていったかの話でした。

ほにゃ。


「太田道灌 vs 豊島一族の「江古田原古戦場」」
「豊島一族の「練馬城」を歩く」
「講演 太田道灌と豊島一族 2013」



マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2018年3月13日 (火)

「福嶋氏と今川氏親・寿桂尼」 戦国史研究会

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~2018・3・10 駒沢大学駒澤キャンパスにて~

講師は、『今川氏研究の最前線』や大河ドラマの時代考証など今川氏研究で知られる大石泰史氏。


昨年の島田市博物館 「寿桂尼展」で、「花蔵の乱で寿桂尼は恵探側だった」という説明文を読み ドびっくり~して以来 チョコチョコ とブログに書いていおりますが、乱での寿桂尼の立場についてもっと知りたいと思っていました。

そんな時になんというタイミング!
戦国史研究会さんの今月の例会は、福嶋氏と氏親・寿桂尼についての講演だとの矢文をいただきました。しかも講師は大石氏です。

土日はほとんど仕事なのに、偶然たまたま、行けと言わんばかりに仕事はお休み 。拝聴してまいりました~。


福嶋氏については、玉縄北条の綱成の出身だという以外はほとんど知らなかったので、とても面白かったです。以下、ビビッときた三つの鱗を自分の備忘録として…。

(もしご興味ありましたら、先にこちらをご覧いただけると助かります。→「花蔵の乱~寿桂尼は恵探を擁立しようとしていた!?」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-9c3d.html


▲-1 福嶋氏は今川家の中でかなり重要な存在だった

それこそ島田市博物館のある島田の領主でもあった。島田は、駿東の国境である大井川畔に位置する物流の拠点。しかし、福嶋氏が入るまでは、この駿河西部には主だった在地領主(国衆と言わなければいけないの?)がいなかった。

福嶋助昌や、助昌開基の静居寺、歴代の福嶋一門の諱などから福嶋が今川で非常に重きを成していたことが分かった。


ふ~ん。
だから、福嶋の女が氏親の側室にもなったのですね。


▲-2 花蔵の乱後も今川に残った福嶋氏がいた

福嶋氏は、VS 武田信虎の飯田河原(大永)・上条河原(永正)と、花蔵の乱(天文)で没落したが、以後も、それ以前と変わらずに今川に仕え、三河・尾張方面の最前線に配置され、外交交渉を担った福嶋もいた。


へえ~~。
綱成が北条に来たので、福嶋一門は今川では壊滅したのだと思っていましたよ。すみもはん。となると、綱成たちは、いつ、どれだけの人数で、どのような状況で北条へ来たのでしょう?

福嶋氏と小笠原氏は一類であり、福嶋氏にしても、越前守・豊後守・和泉守→稲葉守など色々な福嶋さんが出てきて、綱成さんちはどの系統なのか、はたまたどれでもないのか、よく分かりませんでした


伊勢宗瑞と福嶋が一緒に東へ行った…という話もあるそうで、万が一そうなら、福嶋は北条にとっても古参の氏族になります。しかし、万が一そうでも、一緒に来た福嶋に、のちの綱成の父親なり祖父がいたのかどうかは分かりません。

それとも私が知らないだけで、「綱成は福嶋〇〇の出で、いついつ、こうこうこういう経緯で北条へやってきたのだ!」と、最近、いきなり新説が発表され、それに決まったりしているのでしょうか?


そして本題(ワテにとって)の花蔵の乱です。

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~寿桂尼の印判「嫁ぐ」(駿府の菩提寺龍雲寺にて)。but 検討の余地あり。~


▲-3  花蔵の乱での寿桂尼の謎

越前守という福嶋さんが登場。福嶋越前守は、氏親の棺を担ぐメンバーにも任ぜられたほどの重要な存在だった。


福嶋は寿桂尼の取次でもあり、氏親亡きあとの寿桂尼は氏親ラインを引き継いでいる。また、福嶋氏は京都との独自の外交ラインも持っていたのではないだろうか?氏親は対幕府対応にもそれを使ったのではないだろうか?

ゆえに氏親は、福嶋と「姻戚となることで、より一体的になることを望み、家中もそれを容認」。だから福嶋の女が氏親の側室になることも、寿桂尼も認めていたのではないか?


なるへそ~。
そういう中に生まれた子供が、花蔵殿(玄広恵探)なのでござりますな。

お話しはいよいよ核心の、ずっと気になっている、武田の高白斎が書いた、

「五月廿四日夜、氏照(輝)ノ老母、福嶋越前守宿所ヘ行、花蔵ト同心シテ翌廿五日従未明於駿府戦、夜中福嶋党久能へ引籠、…」

です。はたして寿桂尼は、息子の義元ではなく、福嶋と共に恵探を当主に擁立しようとしていたのでしょうか?


大石氏は、
以上などなどのことから、

(寿桂尼が)義元と対峙するのは当然の推移

なのではないかとおっしゃっていました。島田市博物館で私が ドびっくり~! した内容と同じです。


う~む
これを読んでくださっている皆さまはご存知だと思いますが、ある有名研究者の方が、今主流のこの説に反論していますよね。

それは…

そもそも文書の読み方が違う。「同心シテ」は寿桂尼にかかるのではなくて福嶋越前守にかかる。「福嶋が花蔵殿(恵探)に味方して駿府で合戦し、敗北して久能城に後退した、という文章として理解できる」。だから寿桂尼は福嶋越前守と同心していない…

というものです。


では、寿桂尼は何をしに福嶋越前のところへ行ったのかしら?文にやたら句読点「、」が付いているのも読み解きにくいのでしょうかねえ?

諸説ありということで。。。


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~「太田道灌と江戸」展、 国立公文書館~

すでに先週で終わってしまいましたが、戦国史研究会さんの例会の日の午前中は、道灌を見て参りました。道灌と寿桂尼で脳内ゴチャゴチャの五目ご飯~。


昨今、太田道灌の嫡流について諸説あるようで、最近いきなり浮上してきた「太田永厳」という人のことが何か出ているかもしれないと思って行ったのですが、ありませんでした。


ここに写真を載せるのは控えますが、配布されていた「日本一単純な享徳の乱関係図」が、日本一分かり易くて素晴らしかったです。マンガチックに利根川の左右に主要人物が描かれています。里見とワンコ が一緒にいたり、宗瑞を隅っこにほんのチビットちっちゃく登場させていたり、京都には義政と万里集九がいます。

それぞれの年齢(文明8年頃)も記されていました。道灌と足利系を除くと、みんな30代前後。ノリノリの世代ですね。


それにしても、パソコンで 「くしま」 とうっても「福嶋」が出てこず、単語登録すればいいものをしないで「ふくしま」と何度も何度もうっていると、「くしまがね…」と話す時につい、「ふくしまがね…」と言ってしまうようになるのが困るのね。


「寿桂尼と今川氏展」 島田市博物館(2017)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/2017-29ad.html

「花蔵の乱~寿桂尼は恵探を擁立しようとしていた!?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-9c3d.html

「諸説あり?『北条氏康の妻 瑞渓院』 黒田基樹著」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/12/post-56ab.html

萩真尼 こと マリコ・ポーロ


画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2017年11月20日 (月)

花蔵の乱~寿桂尼は恵探を擁立しようとしていた!?

マリコ・ポーロ


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~駿府、寿桂尼の隠居所であり菩提寺でもある「龍雲寺」~


少し前のブログ記事に、島田市博物館の「寿桂尼と今川氏展」のことを書きました。その時、花蔵の乱で寿桂尼は義元ではなく玄広恵探を擁立しようとしていたという展示を見て、皆さんはすでにご存知のことだったかもしれませんが、私は驚いてしまいました。


その根拠として、

 

① 企画展の説明には、高白斎記に「(寿桂尼は)花蔵ト同心シテ」とあることだとありました。高白斎とは、信玄殿の駒井高白斎のことですね。


チラッと調べたところ、

 

② ‐寿桂尼は福嶋のところへ何かしらの「住書(注書)」を持って行った(←このことがどこに書かれていたのかは、この時点では調べきれなかった)。
   ‐ 寿桂尼は夫君の氏親の代から、恵探の母(氏親様の側室)の実家の福嶋と昵懇だった。その関係は、寿桂尼が隠居しても続いている。

 

いうことは分かりました。


北条以外にあまり興味の巾を広げないようにしているため、寿桂尼が恵探側だったということは初耳で本当にビックリ 。広げないようにしているのに、もう少し詳しいことが知りたくて…買ってしまいました~。

 

 

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~有光友學 著。吉川弘文館。葛山を調べるのにチョコチョコ図書館で読んでいたが、図書館通いでは間に合わなくなってしまった(キーホルダーは今川さん)。~


ご本の発刊は2013年ですが、参考にさせていただいたのは、中におさめられている 1992年の講演のお話です。


①の「同心シテ」の解釈は諸先生方によって様々です。事件のザックリした流れと合わせて以下。


(天文5年)
3月17日、当主氏輝とその弟彦五郎が同日に急死。

4月27日、福嶋、恵探を擁立し挙兵。

5月24日、高白斎の日記には以下のように書かれているそうです。ここで、寿桂尼が福嶋のところへ行き「同心シテ」が出てきます。

 

「五月廿四日夜、氏照(輝)ノ老母、福嶋越前守宿所ヘ行、花蔵ト同心シテ、翌廿五日従未明於駿府戦、夜中福嶋党久能へ引籠、…」

 

 

そして、6月14日、花蔵殿(恵探)は藤枝の普門寺で自害することになります。

 

 

(天文6年)
2月10日、義元と武田信虎の娘が結婚

2月26日、北条氏綱が「駿州出陣」

 

という事態になってゆきます。


② の「住書(注書)」とは、書物(カキモノ)、書類のことです。かなり分かりました。


「住書(柱書)」のことが書かれていたのは、義元が岡部左京進に出した自筆の感状だそうです。

 

何に対しての感状かというと、花蔵に取られた「住書」を取り返したことに対してだそうです。
住書花蔵ヘ被取之処、親綱(岡部)取返付畢


そして岡部殿は、賜った感状にメモを書き足しています。

 

乱の前に、大上様(寿桂尼)が住書(注書)を持って花蔵殿へ行った。(岡部殿は)花蔵城(葉梨城)を落とし、住書を取り返した、と。

 

大上様御注書お取、花蔵被為参候処…うんぬん」


へえ~~ 。乱の前ですか~。感状が出たということは、よほど大事な書き付けだったのですね。その住書にはいったい何が書かれていたのでしょう。


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~企画展でかかっていた今川の赤鳥~


有光先生の本には、寿桂尼の発給文書のことも書かれていました。

 

同じく息子である先代の氏輝の時は、氏輝が一人前になるまでは寿桂尼が代わって発給していることが多かったのですが、義元の代になるとそれが全くないそうです。義元はまだ 18‐19才で、印判も僧侶時代の黒印「承芳」を使っている頃だったにもかかわらずです。

 

つまり、乱以降、寿桂尼はかなり遠ざけられたのではないかというのです。


しょえ~~

 

なんだか、色々と複雑そう。


歴史小説や雑誌を読んだり、ネットなどで検索すると、今でもほとんど「寿桂尼は実の息子の義元を当主にしたかったので、雪斎と組んで福嶋と恵探を滅ぼした」と書かれていますよねえ。時代劇だって、義元の傍には必ず雪斎と寿桂尼がいるじゃあないですか。

 

前のブログにも書きましたが、島田市博物館にいかなければ私は諸説あることを知らず、これからも「息子を当主にしようとした寿桂尼」を話していたと思います。花蔵に限らず、こういうことって他にもたくさんあるのだろうな~。


これで完全に決まり!という時点ではまだないとは思いますが、これからはドラマや映画の絵面も少し変わってくるのでしょうかねえ。


「福嶋氏と氏親・寿桂尼~戦国史研究会」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/post-8921.html

 

「寿桂尼と今川氏展」 島田市博物館(2017)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/2017-29ad.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

 

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2017年11月 3日 (金)

「寿桂尼と今川氏展」 島田市博物館(2017)

マリコ・ポーロ


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~島田宿を歩き大井川に突き当たった河畔に建つ~


早川殿 朱印状

♪ 唄は茶っ切り節~ 男はぁぁ 次郎長~

毎度古くてすみませんと、静岡の茶どころ島田の宿、島田市博物館の「寿桂尼と今川氏展」へ行った一番の目的は、今川氏真に嫁いだ北条氏康の娘、早川殿の ナマ朱印 を見ることです。


ただそれだけのために島田まで行くかね。我ながらビックリですが、今のところ日本でただひとつしかないのです。

今まででしたら行かなかったと思いますが、書き続けている「北条五代の娘たち」で早川殿の足跡を辿ったばかりでパッション Max。どうしても見たい!お昼ご飯代を削ってでも、秘蔵のマンガを売ってでも見たい(?)。エイヤッ! と行ってしまいました。


堪能しました~ 早川殿の朱印 「芳菊」 。早川殿の朱印は「幸菊」と書かれている本が多いので、私もそう思ってきましたが、「芳菊」なんですね。でも、義元殿の印伴「承芳」の「芳」の字と随分違うような、違わないような…。ちょっと私には分かりませんが。

一回見て、会場を一回りしてまた戻って見ました。穴のあくほど見ちゃった。もし穴が開いていたら、私がジーーーーッと見たからです。なんてね。


朱印状の内容は、寿桂尼が所領を安堵していたお寺に、寿桂尼が亡くなったあとその権限を受け継いだ早川殿が、寿桂尼と同じく所領を認めたものでした。

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~図録を撮ったのでボケボケ。現物はかなりハッキリクッキリと鮮やかだった。図録には「芳菊」とあったが、展示はどうだったか忘れた


朱印状が出されたのは永禄11年11月。その1ヶ月後、今川は武田信玄によって駿府を追われることになります。


そして、
今回の企画展では、花倉(花蔵)の乱について 2つ 新しいことを知りました。そのうちの1つは、本当に驚きました。


「花倉」の乱?「花蔵」の乱?

皆さんはとうにご存知かもしれませんが、今、「花倉の乱」ではなく、「花蔵の乱」と呼ぶ(書く)方が主流だそうですね。


「花倉」とは合戦があった場所。はなくらの乱は、以前は恵探が福島と最終的に花倉城に入り起こした内乱のように考えられていたので「花倉の乱」と言われていました。私もそう認識していました。

しかし今では、はなくらの乱は、花倉城だけでのことではなく、今川家を二分し北条や武田など周辺の大名も巻き込んだ大きな政争だととらえられ、恵探の異名「花蔵殿」から「花蔵の乱」と呼ばれているそうです。


知らんかった~。ブログなどに書く時に、「花倉」「花蔵」どちらの字を使うかいつも悩んでいましたよ。へえ~~~。


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~図録充実。ワテの2つの知らなかったことも記載。キーホルダーは、「反撃!今川さん」。悔し涙の義元殿だとか。静岡市非公式キャラクターだそうだが人気者で活躍している。~


そしてもうひとつは、もっの凄く驚いたこと。

寿桂尼は、「花蔵ト同心シテ」いた by 高白斎記

ドびっくり~~


なぜ同心したのか?

寿桂尼も恵探も共に北条と繋がりが深かったことと、栴岳承芳(義元)と組み今川家中で発言力を増してきた雪斎への寿桂尼の対抗意識から…ですと。恵探が北条と懇意だったのも知りませんでした。


よもや寿桂尼が実子の義元を抹殺するまでのことではないとは思いますが、ほなら、北条氏綱は義元に支援を要請されたのではなく、やっぱり氏綱が「今が好機!」と、勝手に河東に乱入したのだったりして。

いや、それより、氏綱に要請したのは義元ではなくと恵探と組んだ寿桂尼だったりして。すると、乱後に義元が怒って、雪斎ラインで武田と同盟したのも納得だわ~なんて思ってしまいました。


ホンマかいなと思って、家に戻ってからチト調べてみました。それは有光氏・前田氏・大久保氏らのご研究のようです。しかし、「同心シテ」 をどう解釈するかはそれぞれ「味方をする」「一味して」などなど諸先生方色々。小和田先生は、「妥協して」ととらえてらっしゃるようです。

いずれにしても、これは他国の高白斎が見聞きしたことを書いたもの。聞き間違いや情報伝達の不十分さもあると思われるから、そのまま理解してよいかどうかも問題とありました。


また、乱の前、寿桂尼が恵探のもとを訪れる時に「住書を持参した」とあるそうで、それは、この乱の妥協案が書かれたものではないかと小和田先生はおっさってらっさるそうです。住書 には何が書かれてあったのでしょう。寿桂尼は息子義元を助けようとしたのでしょうか…。

また、寿桂尼が恵探に住書を持っていったことを、なんで駒井が知ったのでしょうね。


そんな論争があることなんて全然知りませんでした。『今川氏研究の最前線』にも書いてなかったような…。

(加筆:
『今川氏研究の最前線』の大石泰史氏 P109 にそれらしきニュアンスのことが書いてあると、コメントちょうだいしました。あらためて読んでみましたら、ホント、あるある!ありがとうございました。福嶋との繋がりは夫君の氏親さま時代からなのですね。へえ~。


様々な論文や本を全て読んで常に最新の研究を知るということは私には無理ですが、諸説ありということを知ることができ、また、早川殿のナマ朱印も堪能することが出来て今回の企画展に、エイヤッと行ってよかったです。神様、仏様、稲尾様(これまた古い)、ありがとう。


「寿桂尼と今川氏展」は、11月26日(日)まで。

新発見・初公開だという、氏真さんが6首の和歌を書いたものも出ていました。書かれたのは天正5年頃。氏真が諏訪原城にいた頃です。注)途中一部展示替えがあるようです。


寿桂尼の隠居所&菩提寺 「龍雲寺」

島田で企画展を観たあとは駿府へ戻り、静岡駅からバスですぐの寿桂尼さまのお墓参りです。

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~寿桂尼墓所を背後に、寿桂尼が見守った駿府のご城下をワテも眺めてみた。~


これも行きたい
「馬をめでる武将たち」 馬の博物館

新発見の「伝・北条氏康像」や、「今川氏真像」も出ているそうです。またまた講演会も魅力的。講演会は行けないですが…。HP→http://www.bajibunka.jrao.ne.jp/uma/event/event_20171020.html


「駿府 「臨済寺」の特別公開」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-2e50.html
「今川時代の駿府~吐月峰 柴屋寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-7dec.html
「駿府で暮らした早雲の姉と北条氏規」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a23.html

「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html
「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原の久翁寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html
「今川氏真夫妻らの、当初の菩提寺 「萬昌院」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-88b5.html


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2017年10月12日 (木)

出ましたね! 「享徳の乱」 峰岸純夫著

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~『享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』 講談社メチエ 2017.10.10 ~


ついに出ましたね
坂東の戦国ファン待望の、「享徳の乱」についての峰岸先生の本。

『応仁の乱』 『観応の擾乱』中公新書)とあわせての、室町トリロジーですね。(『応仁の乱』は読んでおりませんが。)


『享徳の乱』の表紙は月岡芳年ですか。だ~い好きです!え?表紙が錦絵?と思われる方もいらっしゃると思います。私も実はそうでした

本にも書かれていますが、初めは先生も、「明治になってからの錦絵を掲げることはいかがかとも思った…」そうです。

ところが編集者の方が、「江戸時代の人の方が、フィクションを通じてではあれ、関東の大乱について現代人よりよく知っていたのでしょう…芳流閣は架空の建物とはいえ、成氏の居所として「古河」が描かれている…享徳の乱を周知させたいと願うなら、八犬士や絵師の力でもなんでも借りて、華やかなカバーにしようじゃありませんか…(抜粋)」と言われ、思いなおされたそうです。


確かにシゲッチ(成氏)の肖像は無いし、関係者たちや関連史跡の肖像や写真は、今まで出版されている書籍の表紙に使い尽くされていますものねえ。しかもチト地味…ゴニョ。

実際、この本は本棚に入れてしまうのがもったいない表紙で、正面を向けて飾っています。


狂言回しは新田岩松との、長文の「はじめに」を読み終わったばかりのところですが、その末尾にはこう書かれています。

いささか前置きが長くなったようだ。それでは読者を十五世紀の関東にご案内しよう。

わお!
ワクワクドキドキ


「講演会 「享徳の乱における分倍河原合戦」 峰岸純夫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/post-832a.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2017年10月 9日 (月)

非公開 「英勝院」の御廟内部~鎌倉

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~スーッと扉が開くと、そこには華麗な世界が!~

いや~、すっっっばらしかったです。写真だけでも歴友の皆さまにと一生懸命撮りましたが、スマホのチャッチイ写真では十分お伝えできないのが残念。


通常は非公開

英勝院さまが太田家にゆかりということで、現ご当主の太田資暁さんに連れられて、「道灌びいき」の会員が拝見出来ることになりました。

同じく非公開とはいえ山門の上部はNPO鎌倉ガイドのツアーで昇らせてもらえたことがありますが、祠堂の扉はまず!開けてはいただません。どころか、覆堂の中にさえ入れてはもらえません。(外からは伺えます。)


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~軒下には彩色も鮮やかな斗栱や雲文をみせる軒支輪がめぐる(内海氏の資料より抜粋)~


英勝寺と英勝院

英勝寺の開基は英勝院さま。英勝寺は、鎌倉扇谷の太田道灌の屋敷跡に英勝院が建立しました。


英勝院とは言わずもがな家康の側室であり、戦に連れていくと必ず勝ったことから「勝」と名を改めさせられたことで知られていますよね。出自については、太田道灌の玄孫だとか、北条重臣の遠山景綱の曽孫だとか諸説あります。

いずれにしても、水戸藩初代当主で水戸黄門の父である徳川頼房の養母として、水戸藩では特別&格別大切にされた女人です。頼房は、母が側室「お万の方」、養母も側室「お勝の方・英勝院」。どちらも坂東の女人です。どうしても二人が脳内で混ざってしまいますが、この祠堂を見ると、「養母」という存在の大きさが分かります。


また、「英勝寺」は現在では鎌倉に唯一残った尼寺です。あれ?東慶寺は?と思ってしまいますが、東慶寺は明治にすでに尼寺ではなくなっています。

英勝寺は、以前はお寺自体が通常非公開でしたが今は一般公開されています(入れない箇所や入れない日もあります)。


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~祠堂の扉。お洒落な蝙蝠形格狭間。~


地元にお住まいの著名な鎌倉歴史研究家・内海恒雄氏の熱~い英勝寺ラブのご説明を伺いながら、水戸藩が総力を尽くして造り上げた、垢ぬけた(by 内海先生)建築、仏像、彫刻、石造建造物の数々を拝見して回りました。

じっくり見たら英勝寺だけで一日が終わってしまいそうなそれらについては、ここに書きはじめたら長くなり過ぎてしまいますし、にわか知識の私が書いてもオコガマシイ。内海先生がお書きになったものや、他のHPなどでご覧くださいませ。詳しく書かれているHPがたくさんあります。


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~この紋どころが目に入らぬかーー!柱には太田桔梗。~


▲ 祠堂

祠堂がのる石垣は、江戸城と同じ造りの石垣だそうです。

黄門さまが建立した英勝院のお墓はお堂の背後に建っていて、堂内の須弥壇の後ろの「花灯枠」から、立派なお位牌を通して拝めるようになっています。(お墓だけなら、脇から側面をお参りできます。)


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お堂は小振りですが、典雅艶麗。屋根は宝形造、天井は格天井、正面と両側面には桟唐戸。東照宮と同じような極彩色ですが、小振りなためか、漂う気配のせいか、ずっと上品です(東照宮が下品というわけではにゃい)。

渋くて華麗な須弥壇の後ろの花灯枠からは外光が入り、それはまるで、背後の英勝院の巨大な墓塔から後光が差し込むが如くです。


ちょうど英勝寺を拝観したあとの、たまたまこのタイミングに、BS6「歴史鑑定」で水戸家のことをやっていました。「歴史捜査」は観るけれど「歴史鑑定」はあまり観ませんが、ちょっと観てみました。

初代の頃の水戸家はお金がなかったそうな。黄門様の時代に上向きになってきたようです。英勝寺の創建は寛永年間。資金繰り大丈夫だったのかな…な~んて、いらぬ心配をしてしまっただよ。


そして、またまたちょうどこのタイミングに、BSで「水戸黄門」が始まったので、つい観てしまいました。黄門様がラーメンを作っていました!ラーメンを最初に食べたのは黄門様ではなかったという話もありますね。諸説あり…ですな。


「里見へ走った公方の姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-82f7.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html
「家康の側室達ゆかりの、小田原北条の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-9dfe.html
「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-df71.html

「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e83.html
「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-64df.html


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2017年8月24日 (木)

東博で等伯 「びょうぶとあそぶ」美術体験

by マリコ・ポーロ

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等伯の「松林図屏風」&光琳の「群鶴図屏風」と映像との、新しい表現手段を使った展示を「体験」してきました。

高精細複製の「松林図屏風」を囲み、左右頭上に「瀟湘八景図」の壮大な景色が広がりました。特に冬の映像は圧巻でしたよ~


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「群鶴図」では、部屋に入った人数だけ鶴が舞い飛び、一緒に戯れることができます(周りに恥ずかしくなければ…)。

う~ん。どう書いていても、この宇宙観は伝わらないですねえ。写真に撮るとチャッチイですにゃ。こげなものではごわはんで。ご興味ある方は、はよ行って、体感してみてたもんせ~。9月3日(日)まででごわす。


漆工室の蒔絵の展示も素晴らしいです!

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~鎌倉から室町の鞍が素晴らしく美しかった…~


足利尊氏さまの御教書も出ていました。今川範氏に発給したものです。2階の「武士の装い」室です。

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不忍池畔にある長浜の観音ハウス

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東博の帰りは恒例となったルート、不忍池畔にある滋賀の「びわ湖長浜 KANNON HOUSE」に寄りました。

不忍池を琵琶湖に見立てた静かでシックな小さな空間には、戦国の戦火から村人たちによって守られた観音様たちが定期的に交替でお出ましになります。観音の里の映像が流れ、外の景色とあいまって、喧騒の上野公園にいるとは思えないまったり感。ゆっくり鑑賞(お参り)できます。

この日は観音様の日(毎月18日)ということで、甘茶をいただきました。


観音の里長浜にあまたさぶらいける観音様。ひとりの観音様の展示はだいたい2ヶ月とのこと。今は余呉町の川並地蔵堂の「聖観音立像(平安時代)」がいらっしゃいます(写真)。スッキリ小柄で素敵でした

次はどなたがいらっしゃるのかな~。HP→http://www.nagahama-kannon-house.jp/


「国宝 「檜図屏風」 by 狩野永徳」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/by-f7f7.html
「「洛中洛外図」が霞んでしまった「二条城障壁画」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-ec61.html

「白洲正子展「神と仏、自然への祈り」世田谷美術館
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-13d7.html
「伊東マンショ と 湖北の観音展)」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/7-82016-a39e.html

「信仰の里~中伊豆かんなみ「仏の里美術館」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-0862.html
「みちのくの仏像」展と、会津の徳一」東博
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-70b4.html
「藝大美術館 興福寺仏頭と十二神将の企画展」のこと
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/2013-1dd6.html


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2017年5月30日 (火)

講演会 「後北条以前の小田原」

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~サブタイトルは「政治・社会状況からみる鎌倉・室町時代の小田原地域」~


ゴールデンウィークで賑わう小田原で催された講演会の主催は、小田原史談会さん。

講師は、野村朋弘氏。京都造形大(東京の)准教授で、小田原在住。ご専門は中世朝廷儀礼・公武・神社史。特には、金沢文庫の称名寺文書だそうで す。北条執権~南北朝あたりの話を少しされましたが、面白かったです。


講演会場は、お城の本丸広場より混んでいると言っても過言ではない程の沢山の人で、大盛況~!立ち見はおろか会場に入りきれるのか、消防法は大丈夫かと心配しましたが、どうにか大丈夫だったらしいです。私はもちろん2時間立ち見、いや立ち聞き。

後北条以前の小田原ってあまり知らないですものねえ。私なんて、『鎌倉大草子』の足利尊氏さまの野営のことぐらいしか存じまへん。興味津々ですよねえ。


それもそのはず、講師の野村氏もおっしゃるように、後北条以前の小田原に関する史料はほとんどないそうです。

史料が少ない中での「歴史の復元」「小田原の、敗者の歴史の再構築」がこたびの目的とのこと。あ!「敗者」というのは小田原北条家ではありませんよ。後北条以前ですから、上杉禅秀の乱で、禅秀について負けた中村党の土肥氏や、次に小田原をおさえたものの、伊勢宗瑞に負けてしまった大森氏などのことです。


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~会場は駅から天守閣にむかう途中の市民交流センターUMECO。ホールには亡くなったUMECOの肖像画と北条五代キャラクター画が並んでいた。~


講演内容

-古代の相模の国の成り立ち、古代~中世の小田原・鎌倉へ至る街道、小田原宿・酒匂宿などの宿、早川・成田・中村などの荘園とその領主、北条執権が滅びた要因のひとつ(後家人制度の複雑化と崩れ)などなど。


-酒匂・国府津・小田原あたりは交通の要所であり、また、様々な例から、幕府(鎌倉幕府)からすると早川・国府津あたりが重要な境界線 だったと。

知らなかったのですが、酒匂には、将軍家(室町)が泊まる御座所があったそうですね。御座所跡のようなものは残っているのかしら?


-最後の10分ぐらいで荘園領主の話になり、大森氏の話が出たのですが、このへんの話をもそっと聞きたかったかったと思いました。

小田原についての史料がとーっても少ないのは、上にも書きましたが、つまり彼らは敗者であるからだそうです。そのあとに北条が入ったから。

江戸時代以前の江戸と同じだと思いましたわ。江戸時代以前の江戸には何も無かったとされたのは、小田原北条は敗者であり、そのあとに徳川殿が入ったからね。


急いで帰らなければならなかったので、講演後の質問タイムまではいられませんでした。会場を去る時に、最初の質問者の方が「北条以前の領主の館はどのあたりにあったのか…」のようなことを質問されてらっしゃいました。

うー、聞きたかったよぉ
どこにあったの?


「小田原にある謎の城跡 花岳城」(城源寺)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-3b70.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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