2020年12月 3日 (木)

一昨日の「八王子城発掘調査」のお詫びと訂正

発掘調査した場所は「一段高くなっている地区」ではなく →「会所と、一段高くなっている地区 との間」だそうです。

書き直しましたので、再読くださると嬉しいです。大変失礼しました。
m(__)m


浴室だった?~八王子城の発掘調査状況(2020.11)

マリコ・ポーロ

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2020年12月 1日 (火)

浴室だった?~八王子城の発掘調査状況(2020.11)

マリコ・ポーロ

医療介護に携わる方々はじめエッセンシャルワーカーの皆様、本当にありがとうございます。


125240401_851386068962718_82079176095836
~現場は御主殿の奥(氏照友からお借りした写真)~


(加筆 2020.12.3
発掘調査したところは、一段高くなっている地区 ではなく、会所と、一段高くなっている地区 との間のようです。そこだけチビット書き直しまた。)


見学に行けない マリコ・ポーロ をかわいそうに思ってくださった 八王子城&北条氏照友の方達 から、レポートや写真をたくさんいただいております。皆さん、ビビッ!ポイントや写真が違って興味深く拝見いたしました。ありがとうございます。心より感謝いたします。

近くだったら、私も現場監督のように毎日通うのに…。え?近くでなくて良かったって?だれ?!


教えていただいた情報を以下にまとめてみました。

行っていないのに書くとは…。コロナ禍により冗談じゃなく本当に「見聞録」ならぬ「ぶんぶん(聞聞)録」になっちゃう。ブログタイトルを 『聞き書き後北条』 に変えようかな。


さて、
今回の調査区域は、下図の の〇 の箇所だそうです。会所の西側です。

前にその下の 青の矢印 のあたりを大々的に調査すると聞いていたのですが、場所も規模も少し変更になったようですね。

Dsc_0775_20201202084001


教育委員会や郷土資料館の報告書によると、ここは平成4年に一度調査されていますよね。3mx4m の礎石建物跡が明らかになっていましたが、建物の用途までは分かっていませんでした。

また、平成21年にも、ここから西側へ続く地域と段差の部分も調査しています。その時は遺構は出ませんでした。


こたび分かったのは、建物の中には 火を燃やした「炉」 とみられる痕があるということだそうです。

Dsc_0033 
ピンク ↓ が炉状遺構(八王子衆からお借りした写真)~


建物のサイズから、風呂か台所ではないか?と。以前、池が出てきた時は、上図のピンクの方形のところが湯屋かもしれないということでブログにも書いたかもしれませんが、そうではなかったようですね。

また、この建物に向かって上図の下から上へと敷石が出てきているそうです。


Dsc_0035
~遺物も少し(同じく氏照友より)~


この礎石建物は、「すぐ横の土壌が高温にさらされていることから、建物は火災に遭って燃え落ちたものと見られる、とのこと」だそうです…。

もっと西奥には、もしかしたら氏照のプライベート空間が広がっている可能性もあるらしいです。それらも同じく落城時に火に包まれてしまったのでしょうかねえ…。


うぅぅ(ノД`) 行きたかったです。行って、発掘現場独特のあの土の匂いを嗅ぎたかった…。


▲ チト余談

発掘調査報告書をあらためて読んでいて、気になっていたことを思い出したので…。
前に書いたかもしれませんが、報告書によると、御主殿で「大甕」が出てきているのは池の向こう側(山側)の所です。黄色の ← のところからは、溶接などに関係したような物とか鉄クギなどなどが出てきています。臨戦状態で築かれた八王子城。武器や武具の製造・修理などの空間だったのかもしれないとのことです。


🍸 八王子城と氏照について今まで書いたブログ記事の超々々々一部なり
「八王子城の台風被害と露出した石垣のほんの一部分(2019・10)」
また、以下の文末には、今までの記事がけっこう添付されています
「八王子城、消えた橋と現われた石垣(2015.4)」
「八王子城の「庭園遺構」がより凄いことになっています!(2013.11)」


🌼 アナザーブログに八王子城や小田原城などなどの花草木のことを書いております

戦国北条の御曹司~柏槙と犬槙(小田原城)
「越後鮫ヶ尾城~かたくり」
「足柄清川に沈んだ美僧~蓮」
「武将とアサギマダラ~藤袴」

「八王子城に咲く~采配蘭」
「八王子城に咲く②~鱗木・細葉鉄蕨・鬼女蘭」
「八王子城に咲く①~天南生」
などなどなど…


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。
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2020年11月14日 (土)

八王子城発掘調査始まっています!(2020.11)

マリコ・ポーロ


Dsc_1199 
~八王子に行けないのでこれで。~


場所:八王子城跡御主殿西側部
予定期間:11月9日(月)~11月30日(月)予定

見学は調査区外からなら可能だそうです。お邪魔にならぬようにと。


私は例によって満員電車とターミナルの乗り換え駅が怖いので参れません。毎日満員電車でお仕事の方には申し訳にゃい…。
(ノД`) シクシク…

何か出てきたら、YouTube で現地説明会をやってくださらないかなぁ~。すっごく嬉しいのだけれど。よろしくお願いします。
m(__)m


八王子市文化財課のお知らせHPはここをクリック


▲ 八王子城と氏照について今まで書いたブログ記事の超々々々一部なり
「八王子城の台風被害と露出した石垣のほんの一部分(2019・10)」
また、以下の文末には、今までの記事がけっこう添付されています
「八王子城、消えた橋と現われた石垣(2015.4)」
「八王子城の「庭園遺構」がより凄いことになっています!(2013.11)」


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2020年10月23日 (金)

滝山城 講演会「上方の儀に付き、際限なき御用に取乱れ候」2020.11

マリコ・ポーロ


Img_20190504_160818
~滝山城、ピンクの↓ の石。門?石段?いつのもの?発掘調査をしていないので不明だそうですが、皆さんはどう思われますか?ぜひ滝山城へ行って調べてくだされ。掘っちゃダメダメよん。 (2019.5 撮影)~


ピシッ!矢文来る!
いと、ありがたし!


滝山城跡群・自然と歴史を守る会さんが催す連続講演会も15回目となるのですね。

昨年の講演は、「滝山城主北条氏照の人と合戦」の1回目「 信玄を討ち留めざること無念千万に存じ候」でした。滝山城で武田信玄を迎え撃とうとする頃の氏照の話でした。

講師は、氏照研究では第一人者であり、八王子市文化財保護審議会副会長、戦国史研究会 評議員でもある加藤哲氏。お話上手で大盛況でしたね。そういえば、最後に加藤先生、「つづく…」とおっしゃっていましたわ


こたびの2回目は、「上方の儀に付き、際限なき御用に取乱れ候」。これは、天正18年正月17日、沼田城城代の猪俣邦憲に氏照が宛てた書状の中にある一文ですよね。

…上方之儀付而、無際限御用ニ取乱…

小田原城の大普請に追われ、対秀吉の体制固めに指揮をとっているため連絡がとれないが、沼田城は肝要な城だからしっかり守ってほしい…


私が記憶している限りでは、氏照が直接発給した文書はこれが最後のものになります。

長年体調が悪いのにお兄ちゃんにコキ使われて、文句も言わず。ここが限界だったのかなあ……(注・私はお兄ちゃんも好きですよ)。


滝山城さんは様々な活動を続けてらっしゃいます。北条や氏照についても常に勉強をされ、皆さんで知識をより深めてらっしゃるのも羨ましいです。

マリコ・ポーロが所属していた「旧 八王子城を守る会」もそうだったんですよ。なんせ会長が峰岸純夫先生、顧問が故椚国男先生でしたからねえ(私がいた頃は)。勉強会をしたり、それぞれが行った講演会や発見した史資料のコピーをまわしあったり。

ここ8ヶ月、逼塞してドヨ~ンとしておりましたが、私も滝山城さんを見習わなければと思いました。


今回の講演会は定員を半分以下に絞っているそうですので、拝聴できる人はとても少ないでしょう。

かく申すマリコ・ポーロも、あいかわらず満員の公共交通機関での長時間の移動は控えておりますので参れません。

ひっじょーに残念なり。
小田原でも北条幻庵の屋敷跡あたりが発掘調査をしているようなのに…。なんでマリコ・ポーロは八王子や小田原に住んでなかったいのだろう…
(ノД`) シクシク


講演日:11月29(日)
申込締切:11月16日(月)

詳細はこちらを ↓ 試作品の滝山城御城印(販売予定未)の画像も見られます。
「滝山城跡群・自然と歴史を守る会HP」


🐎 昨年の講演会の様子はこちらを ↓
「滝山城の講演会 「信玄を討ち留めざること無念千万に存じ候」2019.11」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年10月 4日 (日)

その④~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」

マリコ・ポーロ


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~氏政・氏照が切腹した侍医田村安栖の屋敷があったあたり~


我らが北条氏照を介錯してくださったのは 伊勢大和守 だと書かれている『石川忠総留書』。

伊勢大和守 とは初耳で、誰なのかが気になって気になってどうしようもなく、自主的逼塞を解除。図書館へ行き 『石川忠総留書』 を見てきました。


結論を申せば…

先のブログに書いた、『北条氏康の娘たち』での則竹雄一氏の引用以外は何も得られませんでした。
(ノД`)


図書館で見たのは3種類。

八王子市史

Photo_20201004104701_20201005070401
~超分厚い本で、肝心な箇所が継ぎ目のため上手くコピーが取れず申し訳ない。~


『小田原落居之覚』
…氏政ヲハ美濃守殿介錯、氏輝ヲハ伊勢大和守殿介錯、太閤ヨリ御検使ハ…

先のブログにも書きましたが、則竹氏の本はこれが引用されています。


そうは書かれてはいますが、実際に見たかったのです。

文書史料によくあるじゃあないですか。文章の脇に()で俗名とか別名とか官途名とか受領名とか後から添書きされているものが(なんというのでしたっけ?)。そういうのがあると思ったのです。そこから、謎の 伊勢大和守 の手掛かりがつかめるのではないかと思ったのです。

が、写真の通り書かれてはいませんでした…。


② 新編埼玉県史

Photo_20201004143501
~またまた見づらくて申し訳ない~


図書館で『石川忠総留書』で蔵書検索したところ、国会図書館や公文書館のデジタルと埼玉県史だけににあるのを見つけました。

国会図書館や公文書館は原本なので、マリコ・ポーロにはとても読めまへん。埼玉県史を見ました。ところが、『小田原落居之覚』ではないものでした。


…七月小田原(相模)明渡、氏政(北條)・氏照(北條)切腹、氏直(北條)使入高野山(紀伊)、尾州内府(織田信雄)左遷…

こちらは()の添書がありますねえ。尾州内府(織田信雄)←こういうのが、伊勢大和守 にも書かれていてほしかった~。。


③ 続群書類従

石川殿の留書ではないですが、一応こちらでも伊勢氏の系図を見てみました。

何度も見ました。石川殿が留書を書いたのは江戸時代なので、もしかしたら大和守という受領名はその頃のものかもしれない(江戸時代なのでそれはないとは思いますが)と、そこまで見ましたが 伊勢大和守 という人はいませんでした。


うーむ。

またまた前に書いた繰り返しですが、石川忠総は小田原攻めの時は子供でした。留書はもっと後に書かれたものです。

伊勢大和守 が氏照の介錯をしたということは、やっぱり石川殿の聞き間違え、書き間違え。または、石川殿に伝えた人の記憶違い、言い間違えではないですかねえ。

だって、八王子市史にしても、「旧」には載っておれど、「新」には載っていないのですよ。編纂に携わった方が、これは信憑性に欠けるからと掲載をやめたのかもしれません。


 ✑ そもそも!
「氏政と氏照の二人を介錯したのは氏規だ」とは何に書かれていたのか?

それは『北条記』と『異本小田原記』ぐらいにしか見つけられません。
…兄弟自害し給て後、に(か)いしゃくは、舎弟美濃守氏規、御首を討落、即自害に及所を、井伊兵部走り寄りて…(北条記)


手持ちの『新八王子市史 資料編』と『北条氏照文書集』をあらためて見てみました。二人の自害のことは関白殿下はじめ色々な人が書いていますが、介錯人については触れられていないですねえ。誰かの書状などに書かれていないのかなぁ…。


と、氏照ファンにとっては重大と思われるのに、珍しくお一人しか反応がないにもかかわらずシツコク書いていて恐縮でござる。

違うなら違うと分かるまで、まだまだ探しますよ~。


「その①~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「その②~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「その③~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年9月15日 (火)

現存していた北条氏照の「下原鍛冶の槍」

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~北条氏照の文書集より(見づらくて恐縮)~


9月とはいえ夜はまだまだ暑いのう…と濡れ縁(そんなの無いけど💦)に出て月を眺めていたところ、ヒュッ!頬をかすめて矢文が!

うぬっ!なに奴!
柱に刺さった矢文を抜き、文をハシッと開くと…

驚くことが書かれていました!


って、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、なんと、氏照が下原鍛冶に発注した「槍」が某刀剣商から売りに出されているとのことなのです。

文書集を見たところ、三田の福島が所持していた槍の銘文で、北条氏照が下原の照重に発注した槍(の穂先)だろうとありました。刀槍に不案内なマリコ・ポーロでさえ、ドびっくり~!
(*_*)

そして、矢文をありがと~!


刀剣商のホームページを開くと、認定書や鑑定書を含めた槍の写真と詳細が出てきました。銘文の部分もアップで載っていました。

刃長は、73.3cm(二尺四寸二分(73.3cm)、茎(なかご)は生ぶ目釘孔一の、平三角造り大身槍。刃文は焼深い湾れ直刃で、匂い口明るく沸つく…などなど。


下原(したはら)鍛冶については分かっていないことも多いようですし、詳しくない私なぞが書くのもなんですが、むか~し八王子郷土資料館でゲットした下原刀の冊子と、むか~し「旧・八王子城を守る会」の刀槍に詳しい方からいただいたペーパーからチビットだけ。


下原鍛冶が制作した刀槍は「武州下原刀」と呼ばれ(通称)、刀匠は山本氏。工房群があった八王子の恩方には「下原刀匠山本但馬国重鍛刀の地」の碑が建っています。小田原北条ファンや大石ファン、特に氏照ファンでは有名な戦国時代では武州一の刀工集団です。

「拵」は好きですが「刃」が苦手で(実際使われたらしき刃はもっとアカン)刀槍にはあまり興味がないのですが、それでも北条氏照の追っかけなので下原鍛冶のことはよく耳にしていました。


古くをいえば小田原相州鍛冶の流れのようで → 当初は相州藤沢に住し → 山内上杉の重臣だった大石に呼ばれ八王子に工房を構えて代々続いたらしいです(諸説あり)。

その後いくつかに分かれて、小田原北条が滅びた後は家康にも取り立てられ大久保長安の管轄となり、江戸時代初期には「下原十家」として繁栄したとのこと。


北条時代、下原鍛冶は氏康の代から庇護を受けたようです。それは初代下原鍛冶の「康重」や二代「照重」の名前からも分かります。(始祖の「周重」は、大石綱周からの偏諱かな?)

こたびの 槍 は、「照重」の作なのだね。


011
~氏照が貰ったレースガラス器(残っているのは黒い部分のカケラだけ)~


さて、この槍。ここまで書いてきてなんですが、

私が知った時はすでに売れてしまっていました…


考えてみれば、「氏照のもの」というものはまったくありません。レースガラスの壺だって、氏照は貰ったのであり、本当に自身の趣味だったかどうかは分かりませんよね。

この槍は文書とバッチリ合って、氏照からなぜ福島氏に渡ったのかは分からないけれど、まさに氏照のもの!です。ひっじょーに、残念ですよねえ。その前に知っていたら、マリコ・ポーロが買って小田原か八王子に寄贈したのに…。

まあ、それ以前にそもそも買えないでしょうが…テンテンテン。


小田原北条が滅びた後、照重は甲斐へ移り作刀したそうで、一族の他の流れが八王子に残り幕末まで続いたようです。


と、うまくまとめられたかどうか超不安。ネットに論文でも載っていたら興味のある方にご紹介したいと探ったところ、ありました。武州下原刀研究の第一人者である、故後藤安孝氏 が、とても詳しくお書きになったものです。

福生市『武州下原刀』

また、福生市は武州下原刀を約40振所蔵してらっしゃり、時々特別展も開かれるようですね。


せめてこの槍を買った方が小田原北条領域のどこかの博物館か資料館に貸し出してくださり、北条ファンが見る機会ができることを願うものです。

以上、「小田原北条ぶんぶん(聞聞)録」でした。

🐎 北条氏照についてここ最近書いたブログ記事です。

「①~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「②~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「③~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」

「前編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」」
「後編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」」

🐎 過去10年でたっぷりこってり書いている氏照のことは、カテゴリー「八王子城と北条氏照」からご覧くださいますと嬉しいです。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年9月 9日 (水)

八王子城が「日本遺産」に!

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。

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~このあたりの杉の木が撤去され、大手道から御主殿の威容がよく見えるようになったそうです~


北条氏照ファンの皆様!昨日の朝日新聞の夕刊「まちの記憶」をご覧になりましたか!?「霊山を守った山城の悲劇」として我らが北条氏照が載っています!

かつて、北条氏照が全国紙でこんなに大きく取り上げられたことがあっただろうか…

いや、ない!
望外の喜びじゃ~


今年6月、八王子はストーリーを「霊気満山 高尾山 ~人々の祈りが紡ぐ桑都物語~」として、日本遺産に認定されました。東京では最初だそうです。

日本遺産は「ストーリー」が選択基準で、そのテーマに地域の特色や歴史文化財を織り込むものだそうです。ちょっと難しい。


認定された八王子のストーリーは、戦国時代に八王子に城を構えた「北条氏照」から始まる…とされています。

まあ、ストーリーは高尾山の知名度によるところが大きく、新聞でも氏照の高尾山への政策をからめて紹介されていますが、それにしても1頁全部ですよ。嬉しいですねえ。


ここに新聞記事の写真は載せられないので、図書館が使えるようでしたら是非ご覧くださいまし。

以上、「小田原北条ぶんぶん(聞聞)録」でした。


八王子市のHPにもストーリーが載っています。

八王子市HP「日本遺産認定ストーリー」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年7月17日 (金)

その③~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」

マリコ・ポーロ

大雨の被害がこれ以上でませんように…。地震も多いです。皆様、防災と、ウィルスにはくれぐれもご用心くださいませ。


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~八王子城に移る前の氏照の城「滝山城」は大蛇がのたうつように張り巡らされた堀が見事な名城である。~


さて、
家康の家臣石川忠総(大久保忠隣の息子)が残した『石川忠総留書』にある 北条氏照を介錯した「伊勢大和守」という人物が、なにを調べても見当たらないと ①・② で書きました。

興味を持ってくださった何人かの方からアドバイスを頂戴しました(ありがとうございます!)。


その中のお一人の北条師匠がおっしゃったことを読み返ししていて、ある一行からビビビッ💥 と妄想が浮かびました。

留書では「…(伊勢大和守は)氏規殿と同じく大和守殿と「殿」が付いている。…氏政・氏輝(照)・氏直はいうに及ばず、太閤まで呼び捨てで…」。←すみません、勝手に引用させていただきました。


② でも書いたように、石川殿が留書を書いたのはもう徳川の世になってからです。

となると、江戸時代のその頃の感覚で、石川殿はこれを書いたのではないだろうか。


・氏規については…
すでに他界しているので、生前のままの「美濃守」。権現様のお友達であり、当時の狭山藩主の祖であることから「殿」を付けて「美濃守殿」とした。


同じように考えると、
・伊勢大和守は…
北条時代の「大和守」ではなく、石川殿が留書を書いた当時の「大和守」かもしれないかもしれない。それは「殿」が付いているため、石川殿より立場が上の人物である。

なーんて。


手持ちに江戸時代の本は無く図書館も行けないので、ネットで見てみましたが、江戸時代の大和守でかつて北条とゆかりがあったような人は見当たりませんでした。

もしくは、やっぱり戦国時代の「伊勢大和守」で、違う名前で記録にたくさん出てきている人物だったりして…。


私の氏照を介錯してくださった方は誰?

もうワテには調べようがにゃい。妄想は山盛り出来るけど。。。


検討違いの ビビビッ💥 かもしれませんが、自分の備忘のため書きました。
単なる妄想なので、信じちゃアカン。


「①北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「②~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年7月14日 (火)

その②~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」

マリコ・ポーロ


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~前回の氏直の文書を使った「籠城戦!」もですが、小田原うまいねえ(小田原城公式HPから無料ダウンロードできる)。スタッフの方達のみ缶バッヂをされているのも、いいにゃ~。~


前回、『北条氏康の子供たち』(宮帯出版)の 則竹雄一氏「北条氏照」にある 北条氏照を介錯した「伊勢大和守」について書きました。

それは、家康の家臣石川忠総(大久保忠隣の息子)が残した『石川忠総留書』にあるのですが、なにを調べても「伊勢大和守」という人物が見当たりません。

こりゃ、誰?と書いたところ、ご興味を持ってくださった方がいらっしゃり、矢文や投げ文にて教えてくださいました。皆様、かたじけのうござるぅ💧


まずは、『小田原衆所領役帳』にある、「太和(大和殿)」の子か孫がそうではないかとのことなのです。

『新編埼玉県史史料編』掲載の役帳の、太和殿の注意書きには「晴統」とあるそうです(『平塚市史資料編』にも同じ注意書きが添えられているようなので、注意書きはどこのどれも同じなのかな?)。

所領役帳は見たかったのですが図書館に行けずにいたので、とても助かりました。ありがとうございます!


晴統とは、大和晴統のことです。

晴統殿は、宗瑞の代からの、二代氏綱の京都御奉公衆のひとりで、冷泉為和の歌会などの記録にも名前が出ているのですね(『戦国北条氏五代の盛衰』下山治久著)。

ちなみに、ほかの奉公衆には伊勢家一族の伊勢貞辰や伊勢貞就、小笠原さんなどがいます。


しかし、大和氏の大和晴統と伊勢氏との繋がりは今のところ私には分かりません。

『室町幕臣の東下り』米原正義著に、「(大和氏は)伊勢備中守や兵庫頭と同じく伊勢平氏の流れをくむ」とあるように、遥か先祖で繋がるのか?はたまた、京都御奉公衆としていつも伊勢家の面々と行動を共にしていたので(たぶん)、『留書』を書いた石川殿が伊勢家の人だと思いこんでいたのか?


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そこで、「留書」を書いた石川殿についてチト見てみました。

石川殿は天正10年生まれ。
へっ??
小田原北条攻めの時、石川殿はなんと8才(満)ではないですか。

ということは、小田原北条については自分が小田原攻めに参加したり、直接かかわったわけではなく、パパやジジや親族や家臣などの大人たちから聞いた話なのだね。


さよか~

とすると、石川殿(または石川殿に伝えた人達)の記憶違いということも充分 ありえ~る、アリエ~ル。


「伊勢大和守」について他に何か書かれた本がないかと、都立中央図書館の蔵書ネットで検索しても「該当するものがありまへん」です。

これは、「伊勢大和守」から調べるのは難しそう。


伊勢大和守=大和晴統の子・孫・甥
と仮定して、大和氏の某が氏照を介錯した可能性があるかないかから調べるしかないですかね。


『所領役帳』は国会図書館のデジタルで見ましたが原本(の写し)なので、よ、よ、読めん💦。現代語訳のものが見たいです。

また、下山先生の『後北条氏家臣団人名辞典』も見たいです。データベースに索引だけありますが、見ると大和晴統殿ありますねえ。どうも、晴統殿は「大和守」のような、違うような…。でも、その息子だか孫だか甥だかのことはデータベースからは分かりません。


しかし、公共交通機関を仕事で使っている方々には申し訳ないですが、東京はまた感染者が増えていて図書館に行くのを躊躇っており、手持ちの本類は乏しく、現況ではこれ以上は調べられません。徒歩30分位で行ける我が自治体の図書館は、けっこう大きいのですが、これらの本は置いてないんです。

諸先生方が調べてくださって本になったものを、ワインでも飲みながら読みたい。
な~んて。


それにしても、北条氏照を介錯した人について、ほぼ全ての本が「氏政と同じく氏規」としていることにも、我らが氏照様を介錯した人物が分からないということにも、

ドびっくり~~
(*_*)
なり。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年7月11日 (土)

その①~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」

マリコ・ポーロ

大雨の被害がこれ以上でませんように…。地震も多いです。皆様、防災と、ウィルスにはくれぐれもご用心くださいませ。


16
~小田原の墓前にて毎年7月11日に営まれる「北条氏政・氏照墓前祭」(文末記事添付)。2020年は中止。~


旧暦7月11日、我らが北条氏照は兄氏政と共に秀吉の命により自決させられた。介錯は、ふたりの弟氏規であった。


と、思っていましたが…
氏規が介錯したのは氏政だけ。氏照を介錯したのは「伊勢大和守」だそうですね!

『北条氏康の子供たち』2015.12(宮帯出版社)に載っている、則竹雄一氏の「北条氏照」を再読していて今頃気が付きました。


ドびっくり~ (*_*)
10年も小田原北条の追っかけをしていながら知りませんでした。マリコ・ポーロ、なんという不覚!
皆さんはとうにご存知で💦

介錯は信頼する者に頼む(命ぜられる)とはいえ、アニキふたりを続けざまに斬るというのは、さぞやヘビーだっただろうと氏規を痛ましく感じていましたよ。違ったんですね…。ちょっとホッとしました。


それが書かれているのは、大久保忠隣の息子忠総が記した『石川忠総留書』。
…氏政ヲハ美濃守殿介錯、氏輝ヲハ伊勢大和守殿介錯、太閤ヨリ御検使ハ…
とあります。


うーむ。
伊勢大和守 ねえ…


って、誰ですか?

受領名しか分かりません。留書は『旧八王子市史』にあるそうなのですが、市史は「新」は持っていますが「旧」を持っておらず、『室町幕臣の東下り』米原正義、『戦国北条家一族辞典』など手持ちの本で「諱」が載っていそうなものを見てみましたがありません。

図書館には行けないので、ネットでも検索してみましたが出てきません。ついには『新九郎、奔る!』も見ましたが(エヘッ)、出てきません。


誰だろう…?伊勢氏一族で家臣だと思うのだけれど…。

宗家の流れだと、伊勢守とか備中守、備前守、肥前守あたりですが、「大和守」だから、京都伊勢氏の庶流でしょうか。


もしかしたら石川殿の書き間違えで、伊勢備中守(貞運)のことでしょうか。貞運は、黄瀬川での氏政と家康との対面にも同道しているし、伊勢宗家でもあるので重臣だったはずですが、重臣団も載っている『戦国北条家一族事典』にはありません。

備中守貞運は小田原攻めで戦死したと伝わっています。小田原攻め時に北条の重臣が戦死したとは???ですが、もし貞運だとしたら、氏照を介錯した後に他界したことになりますな。


でも、石川殿、その備中守と大和守とは間違えないですよね~。なんにせよ手持ちの本が貧しいため、図書館に行けるようにならないことにはどうにもならぬわ。

お、京都伊勢氏、再放送中の大河「太平記」に登場するかしら?


🐎 以下、この10年で氏照や氏政について書いたブログ記事の一部です。ご覧くださいましたら嬉しいです。

「小田原攻め、北条氏照の本陣「報身寺」」
「松平文庫の「小田原陣図」」

「北条氏照の存在が抹殺された?「星谷陣屋」」
「後北条一族の陰謀、公方の御座所「葛西城」」
「北関東の侵略者、北条氏照の「祇園城」」

「北条「氏政」の御首級(みしるし)はどこに?」
「北条氏照の首級(しるし)はどこに‥?」

「北条氏政の「汁かけ飯」は後世の創作」

「北条氏照と太田資正(三楽斎)は義兄弟!」

「コロナ下の八王子城落城日(6/23)」
「前編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」」
「後編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」」

「北条氏照の「大善寺」と「能~土方歳三」」
「アフター北条氏照の大久保長安についての妄想」
「小田原北条家と猿楽の宝生大夫」


🐎 小田原の墓前祭(2020年は催されません)。それぞれの記事の文末にも氏照を書いた記事をたくさん添付。

「天正18年の供養~氏政・氏照墓前祭(2019)と八王子「相即寺」」
「恒例 「北条氏政・氏照墓前祭」(2018)」
「北条氏政・氏照 「墓前祭」2017~今年も小田原開城に思いを馳せる」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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