2020年7月17日 (金)

③~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」

マリコ・ポーロ

大雨の被害がこれ以上でませんように…。地震も多いです。皆様、防災と、ウィルスにはくれぐれもご用心くださいませ。


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~八王子城に移る前の氏照の城「滝山城」は大蛇がのたうつように張り巡らされた堀が見事な名城である。~


さて、
家康の家臣石川忠総(大久保忠隣の息子)が残した『石川忠総留書』にある 北条氏照を介錯した「伊勢大和守」という人物が、なにを調べても見当たらないと ①・② で書きました。

興味を持ってくださった何人かの方からアドバイスを頂戴しました(ありがとうございます!)。


その中のお一人の北条師匠がおっしゃったことを読み返ししていて、ある一行からビビビッ💥 と妄想が浮かびました。

留書では「…(伊勢大和守は)氏規殿と同じく大和守殿と「殿」が付いている。…氏政・氏輝(照)・氏直はいうに及ばず、太閤まで呼び捨てで…」。←すみません、勝手に引用させていただきました。


② でも書いたように、石川殿が留書を書いたのはもう徳川の世になってからです。

となると、江戸時代のその頃の感覚で、石川殿はこれを書いたのではないだろうか。


・氏規については…
すでに他界しているので、生前のままの「美濃守」。権現様のお友達であり、当時の狭山藩主の祖であることから「殿」を付けて「美濃守殿」とした。


同じように考えると、
・伊勢大和守は…
北条時代の「大和守」ではなく、石川殿が留書を書いた当時の「大和守」かもしれないかもしれない。それは「殿」が付いているため、石川殿より立場が上の人物である。

なーんて。


手持ちに江戸時代の本は無く図書館も行けないので、ネットで見てみましたが、江戸時代の大和守でかつて北条とゆかりがあったような人は見当たりませんでした。

もしくは、やっぱり戦国時代の「伊勢大和守」で、違う名前で記録にたくさん出てきている人物だったりして…。


私の氏照を介錯してくださった方は誰?

もう私には調べようがにゃい。妄想は山盛り出来るけど。。。


検討違いの ビビビッ💥 かもしれませんが、自分の備忘のため書きました。
単なる妄想なので、信じちゃアカン。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2020年7月14日 (火)

②~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」

マリコ・ポーロ


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~前回の氏直の文書を使った「籠城戦!」もですが、小田原うまいねえ(小田原城公式HPから無料ダウンロードできる)。スタッフの方達のみ缶バッヂをされているのも、いいにゃ~。~


前回、『北条氏康の子供たち』(宮帯出版)の 則竹雄一氏「北条氏照」にある 北条氏照を介錯した「伊勢大和守」について書きました。

それは、家康の家臣石川忠総(大久保忠隣の息子)が残した『石川忠総留書』にあるのですが、なにを調べても「伊勢大和守」という人物が見当たりません。

こりゃ、誰?と書いたところ、ご興味を持ってくださった方がいらっしゃり、矢文や投げ文にて教えてくださいました。皆様、かたじけのうござるぅ💧


まずは、『小田原衆所領役帳』にある、「太和(大和殿)」の子か孫がそうではないかとのことなのです。

『新編埼玉県史史料編』掲載の役帳の、太和殿の注意書きには「晴統」とあるそうです(『平塚市史資料編』にも同じ注意書きが添えられているようなので、注意書きはどこのどれも同じなのかな?)。

所領役帳は見たかったのですが図書館に行けずにいたので、とても助かりました。ありがとうございます!


晴統とは、大和晴統のことです。

晴統殿は、宗瑞の代からの、二代氏綱の京都御奉公衆のひとりで、冷泉為和の歌会などの記録にも名前が出ているのですね(『戦国北条氏五代の盛衰』下山治久著)。

ちなみに、ほかの奉公衆には伊勢家一族の伊勢貞辰や伊勢貞就、小笠原さんなどがいます。


しかし、大和氏の大和晴統と伊勢氏との繋がりは今のところ私には分かりません。

『室町幕臣の東下り』米原正義著に、「(大和氏は)伊勢備中守や兵庫頭と同じく伊勢平氏の流れをくむ」とあるように、遥か先祖で繋がるのか?はたまた、京都御奉公衆としていつも伊勢家の面々と行動を共にしていたので(たぶん)、『留書』を書いた石川殿が伊勢家の人だと思いこんでいたのか?


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そこで、「留書」を書いた石川殿についてチト見てみました。

石川殿は天正10年生まれ。
へっ??
小田原北条攻めの時、石川殿はなんと8才(満)ではないですか。

ということは、小田原北条については自分が小田原攻めに参加したり、直接かかわったわけではなく、パパやジジや親族や家臣などの大人たちから聞いた話なのだね。


さよか~

とすると、石川殿(または石川殿に伝えた人達)の記憶違いということも充分 ありえ~る、アリエ~ル。


「伊勢大和守」について他に何か書かれた本がないかと、都立中央図書館の蔵書ネットで検索しても「該当するものがありまへん」です。

これは、「伊勢大和守」から調べるのは難しそう。


伊勢大和守=大和晴統の子・孫・甥
と仮定して、大和氏の某が氏照を介錯した可能性があるかないかから調べるしかないですかね。


『所領役帳』は国会図書館のデジタルで見ましたが原本(の写し)なので、よ、よ、読めん💦。現代語訳のものが見たいです。

また、下山先生の『後北条氏家臣団人名辞典』も見たいです。データベースに索引だけありますが、見ると大和晴統殿ありますねえ。どうも、晴統殿は「大和守」のような、違うような…。でも、その息子だか孫だか甥だかのことはデータベースからは分かりません。


しかし、公共交通機関を仕事で使っている方々には申し訳ないですが、東京はまた感染者が増えていて図書館に行くのを躊躇っており、手持ちの本類は乏しく、現況ではこれ以上は調べられません。徒歩30分位で行ける我が自治体の図書館は、けっこう大きいのですが、これらの本は置いてないんです。

諸先生方が調べてくださって本になったものを、ワインでも飲みながら読みたい。
な~んて。


それにしても、北条氏照を介錯した人について、ほぼ全ての本が「氏政と同じく氏規」としていることにも、我らが氏照様を介錯した人物が分からないということにも、

ドびっくり~~
(*_*)
なり。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年7月11日 (土)

①北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」

マリコ・ポーロ

大雨の被害がこれ以上でませんように…。地震も多いです。皆様、防災と、ウィルスにはくれぐれもご用心くださいませ。


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~小田原の墓前にて毎年7月11日に営まれる「北条氏政・氏照墓前祭」(文末記事添付)。2020年は中止。~


旧暦7月11日、我らが北条氏照は兄氏政と共に秀吉の命により自決させられた。介錯は、ふたりの弟氏規であった。


と、思っていましたが…
氏規が介錯したのは氏政だけ。氏照を介錯したのは「伊勢大和守」だそうですね!

『北条氏康の子供たち』2015.12(宮帯出版社)に載っている、則竹雄一氏の「北条氏照」を再読していて今頃気が付きました。


ドびっくり~ (*_*)
10年も小田原北条の追っかけをしていながら知りませんでした。マリコ・ポーロ、なんという不覚!
皆さんはとうにご存知で💦

介錯は信頼する者に頼む(命ぜられる)とはいえ、アニキふたりを続けざまに斬るというのは、さぞやヘビーだっただろうと氏規を痛ましく感じていましたよ。違ったんですね…。ちょっとホッとしました。


それが書かれているのは、大久保忠隣の息子忠総が記した『石川忠総留書』。
…氏政ヲハ美濃守殿介錯、氏輝ヲハ伊勢大和守殿介錯、太閤ヨリ御検使ハ…
とあります。


うーむ。
伊勢大和守 ねえ…


って、誰ですか?

受領名しか分かりません。留書は『旧八王子市史』にあるそうなのですが、市史は「新」は持っていますが「旧」を持っておらず、『室町幕臣の東下り』米原正義、『戦国北条家一族辞典』など手持ちの本で「諱」が載っていそうなものを見てみましたがありません。

図書館には行けないので、ネットでも検索してみましたが出てきません。ついには『新九郎、奔る!』も見ましたが(エヘッ)、出てきません。


誰だろう…?伊勢氏一族で家臣だと思うのだけれど…。

宗家の流れだと、伊勢守とか備中守、備前守、肥前守あたりですが、「大和守」だから、京都伊勢氏の庶流でしょうか。


もしかしたら石川殿の書き間違えで、伊勢備中守(貞運)のことでしょうか。貞運は、黄瀬川での氏政と家康との対面にも同道しているし、伊勢宗家でもあるので重臣だったはずですが、重臣団も載っている『戦国北条家一族事典』にはありません。

備中守貞運は小田原攻めで戦死したと伝わっています。小田原攻め時に北条の重臣が戦死したとは???ですが、もし貞運だとしたら、氏照を介錯した後に他界したことになりますな。


でも、石川殿、その備中守と大和守とは間違えないですよね~。なんにせよ手持ちの本が貧しいため、図書館に行けるようにならないことにはどうにもならぬわ。

お、京都伊勢氏、再放送中の大河「太平記」に登場するかしら?


🐎 以下、この10年で氏照や氏政について書いたブログ記事の一部です。ご覧くださいましたら嬉しいです。

「小田原攻め、北条氏照の本陣「報身寺」」
「松平文庫の「小田原陣図」」

「北条氏照の存在が抹殺された?「星谷陣屋」」
「後北条一族の陰謀、公方の御座所「葛西城」」
「北関東の侵略者、北条氏照の「祇園城」」

「北条「氏政」の御首級(みしるし)はどこに?」
「北条氏照の首級(しるし)はどこに‥?」

「北条氏政の「汁かけ飯」は後世の創作」

「北条氏照と太田資正(三楽斎)は義兄弟!」

「コロナ下の八王子城落城日(6/23)」
「前編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」」
「後編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」」

「北条氏照の「大善寺」と「能~土方歳三」」
「アフター北条氏照の大久保長安についての妄想」
「小田原北条家と猿楽の宝生大夫」


🐎 小田原の墓前祭(2020年は催されません)。それぞれの記事の文末にも氏照を書いた記事をたくさん添付。

「天正18年の供養~氏政・氏照墓前祭(2019)と八王子「相即寺」」
「恒例 「北条氏政・氏照墓前祭」(2018)」
「北条氏政・氏照 「墓前祭」2017~今年も小田原開城に思いを馳せる」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年6月30日 (火)

後編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~心源院の桜、空襲をうけたのに毎年花を咲かせる~


卜山和尚とは、我らが北条氏照の師であった方です。
昨日の「八王子城落城~氏照への傑僧「卜山禅師」の想い」の続きにござります。


▲ 北条氏照、死してのちの卜山(ぼくざん)和尚

天正18年7月11日、氏照、兄氏政と共に小田原で自刃。


それ以後、卜山和尚の行動に変化が起きたそうです。「外に出掛けても東西無方。到着した処が住まいとなった」と。
…坐って国の興亡を退け己の分を守る…よくよく看れば世の中のことは夢の中の習い事…雲は南へ、水は北に、思いのまま静かに遊んでいる(抜粋)…
と。

その年の秋、卜山は小津(八王子からあきる野へ向かう方面)の山中に移り、門を閉ざし、訪ねる者にも会わずしばらく暮らしましたが、翌年、新装なった宗関寺に迎えられます。それから卜山は、5つの寺を開山するのです。


そして、なんと…(←また💦)
卜山 94才の時、遊行の旅を始め、上野、下野、下総、鎌倉、修善寺などを訪れるのであります。

ドびっくり~。でも、示寂までは26年もあります。まだまだイケルイケル(←大和尚に対してなんという物言い、無礼者!)。


卜山ゆかりの 心源院や宗関寺は徳川からも大切にされたようです。家康からも寄進を受けますが、114才の時に秀忠に江戸城に招かれます。しかし病のため登城しませんでした…

と記録にはありますが、徳川に会いたくなかったんじゃないの?(マリコ・ポーロ妄想)


120才の10月。
卜山は病になります。あちらこちらから見舞いの人々が訪れ「市のようだった」そうです。

10月26日。
卜山は沐浴浄髪。衣服を整え、坐定。衆徒を集め涅槃に入る旨伝える。辞世の偈頌をしたためたのち、筆を投げ、抜け殻のようになって示寂。

最後も見事です。


▲ 氏照によせる、卜山和尚の想い

氏照の法名「透岳宗閑居士」は、卜山和尚にいただいたものです。

卜山が残した言葉には、「青」とか「青い空」とかがたびたび使われています。「青空」とは悟りとか真理の暗号だそうです。


ある時、氏照は卜山に「犬に仏性ありやなしや!」と問われます。

我らが照は、「幾重にも重なる関を透りぬけ、青空の裏にも留まらず」と答えたそうです。

卜山は、「うむ!でかしたっ!」ポンッと膝を叩いたかどうかは見ていなかったので知りませんけど、それで、この法名を授けたそうです。


悟りのカケラもないマリコ・ポーロには、さっぱり意味が分かりまへんが、卜山和尚は、ご自身が大事にしている言葉を氏照の法名にしたのですねえ。


卜山和尚のことはまだまだあってとても書ききれないのでこのへんにさせていただきますが、このブログは、宗関寺の『卜山大和尚の行実』と『遺誡』を元に「卜山講」の方達が出版した『八王子の名僧 卜山』を参考にさせていただいております。卜山和尚の教えにご興味ある方は是非そちらをご覧くだされませ。

最後に…


氏照の弟の鉢形の氏邦のことで、旧八王子城を守る会の御大が教えてくださったことがあります。

戦後、卜山が写した、敵方が書いた鉢形攻めところを読むと、氏邦を悪く書かれた箇所がカットされていたそうです。御大は、「卜山は、そこを写すに忍びなかったんだろうねえ…」とおしゃいます。

そのコピーを見ながら、しみじみと感じました。卜山和尚は、氏照のことだけではなく、北条やその時代を本当に思っていてくださったんですねえ。


🐎 卜山和尚と心源院を書いた記事の一部です。松姫様のことも。

「北条氏照と、八王子城の神や仏 その1」
「北条氏照と、八王子城の神や仏 その2」

「武田遺臣のマドンナ 「松姫さま」」
「麗しき、武田の「松姫さま御坐像」」
「檜原の残影、横地監物と武田の松姫」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年6月29日 (月)

前編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~『八王子の名僧 卜山』卜山講~。表紙は八王子雲龍寺さん先代御住職が建立された、「楢の里」にある卜山像。~


♪ ズビスパー
パパパヤ~

違う…それは 左卜全


とはいえこの歌は、学生運動や激増し始めた交通事故の被害者は老人や子供だという意味を込めたメッセージソングだったんですよね~。歌詞に「ゲバゲバ(ゲバは学生運動のこと)」とか「ジコジコ(事故)」とか入っていますでしょ。だから「たすけて~」なんですよね。

って、古くて皆の者は何のことだかトント分からないであろう💦


話を本題に。

卜山(ぼくざん)禅師 とは

名は「随翁舜悦」。号が「卜山」。

我らが北条氏照の師であります。そして、八王子に逃れてきた旧武田家臣達のマドンナ 松姫様を得度させた方でもあります(文末添付)。


八王子の楢原の農家に生まれ、出家したのは13才の時だそうです。塩山、京都五山、安来、博多、越前永平寺、三河、遠江などの名刹で修行をされ、35才の時に八王子に戻りました。

戻ってからは、八王子城の搦手に位置する 心源院 に住し、氏照の宗関寺はじめ、あまたのお寺を開山した大和尚です。

パパ氏康から小田原へ招かれ戒を授け、時の正親町天皇からは二度にわたって褒賞を拝受。「仏国普照禅師」の称号も賜っています。


記録によると、和尚は、老いてからは髪を剃らず、お髭は白く胸まで垂れ下がり、「眼光鋭く常に人を射竦めるようであった」そうです。

前にも書きましたが、戦国武将の子供たちには必ずお坊さんが師としてつきますよね。師は、仏道のみならず学問、そして人生も教えていきます。御曹司だからといって甘やかしたら、将来国を率いるその子達のためになりません。

源三クン(氏照)が卜山に師事したのは、大石に入った15-6才の頃。「眼光鋭く」「人を射竦めるよう」でないと、源三クンのような強気の少年(たぶん)は導いていけませぬわ。


しかし和尚はただ怖いだけなのではなく、雑り気の無い真心を持ち、語り口は穏やか。教えを継いで盛んにしたので「人々は、古仏の仲間として生まれてきたのだと称賛した」と記録に残っているそうです。


そして、なんと…

和尚は、身の丈7尺!
つまり2m超。
風魔小太郎も、ドびっくり~。


そのうえ、なんと…
120才 示寂!
実に法職にいらしたのは、107年間!

永正4年生まれの、寛永3年没。徳川家光の時代までご覧になったのですね。
見事です!


▲ 臨戦態勢の八王子城と卜山和尚

氏照開基の宗関寺を開いた7年後、卜山は再び心源院に戻り、氏照の求めにより住職となっています。67才の頃です。その16年後、遠江の名刹「石雲院」に輪番の住持として赴任しています。そこでも法話は大盛況だったそうですが、なんとその時83才!

ま、でも他界するまではあと37年もあるわけですから、まだ全然バリバリ現役。


それが天正17年のこと。八王子城が落城し、小田原北条が滅びるのは翌年夏のことになります。

記録によると、卜山は天正18年の1月初め、遠江石雲院を去り牛頭山、つまり宗関寺に戻っています。すでに本城はじめ、八王子城や北条支城群は臨戦態勢。徳川家康を先鋒とする西日本エリアの豊臣軍は、山中城や韮山城に向かって出立する頃です。卜山がいた遠江なぞは当然その真っただ中だったでしょう。


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~現代の宗関寺土塁の上から~


和尚は遠江を去るに際して、
…(石雲院を)退去の理由がなにか有るわけではない…ただ退去はしなければならないのだ。竹林が川の流れを妨げないように、白雲は山が高くても妨げられずに飛んでゆく
と自らの心境をおっしゃったと記録にはあります。

これはお坊さんとしての言葉であって、本当の気持ちは、前年11月に秀吉から宣戦布告された北条や八王子や氏照のことが心配で戻ることにしたのではないかな~と思ったりもします。


卜山は、八王子に戻る道中に小田原に寄って氏照に会ったでしょうか。

氏照は1月17日に猪俣へ「小田原城の大普請に大わらわで、秀吉体制を固めるために指揮をとっている」と手紙を出していますから、体調が悪いとはいえまだ病に伏してはいなかったはずです。

会えていたらいいな~と思います。


▲ 八王子城落城と卜山和尚

宗関寺の記録には、八王子戦の真っ最中の中山勘解由と卜山の話が伝わっていますが、このあたりは私には良くわかりません。

ただ、寺は「城と一緒に兵火を被って焼失した」とあります。卜山和尚はいったんどこかへ避難していたのでしょう。


▲ 氏照が死してのちの卜山和尚と、氏照への想い、そして氏邦のこと

明日に続く…


🍸 これほどの
大和尚なのに、卜山和尚についての記録はほとんど無いそうです。以上は、宗関寺の『卜山大和尚の行実』と『遺誡』を元に「卜山講」の方達が出版した『八王子の名僧 卜山』を参考にさせていただきました。

卜山和尚の教えにご興味ある方は是非そちらをご覧くだされませ。


🐎 卜山和尚と心源院を書いた記事の一部です。松姫様のことも。

「北条氏照と、八王子城の神や仏 その1」
「北条氏照と、八王子城の神や仏 その2」

「武田遺臣のマドンナ 「松姫さま」」
「麗しき、武田の「松姫さま御坐像」」
「檜原の残影、横地監物と武田の松姫」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年6月23日 (火)

コロナ下の八王子城落城日(6/23)

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~八王子城から出土した琉璃釉椀。この兎さんは、現代の八王子城のマスコット。~


先日、戎光祥ヒストリカルセミナーで黒田基樹氏の講演がありました。マリコ・ポーロは自粛解除がまだ怖いので参加しなかったのですが、もれ聞いた中に氏照のことで興味深いことがありました。

また聞きなので正確ではありませんが、「氏照文書の筆跡が氏政文書と同じ」というお話しがあったようです。いつの頃の、どのあたりの文書かは定かではないですが、『伊達文書』にあるそうです。


それは氏照が病気療養中のことで、兄上氏政が代わりに氏照の名前で発給。だから氏政の祐筆が書いたのでは…と思ったのですが、そういう単純なことではないようです。

北条師匠に伺ったところ、本城からの指示書として本城祐筆が書いて氏照にまわり→氏照が花押を入れ→発給される、みたいな?北条家はそういうシステムだったのですかね。いや、北条家に限らず組織が大きな大名家はみなそうだったのかな。


うぅぅ。聞きたかったです…。


さて、八王子城のこと。

八王子城落城の日のことを毎年書いてきて、これが11回目になります。毎回同じようなことを書いていますが、法事というものはそういうもので甘~い目でご覧くだされ。

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~サイハイ蘭~


八王子城の激戦地だった曲輪跡に、ちょうど落城した月に咲く花がある。花の名は「采配蘭(サイハイラン)」。

「采配蘭」はそれほど珍しい花ではない。山林に自生し、花は6月頃に咲く。丈は30~40cm。 小さく細長い薄紫色の花は、茎の半分から上に房のようにたくさん付き、その名の通り戦の時に大将が振る采配に似ている。


天正18年3月1日。
秀吉が京を出立。北条征伐は始まった。

北条支城群は次々と降伏、無血開城。これではいけない、見せしめの城が必要だと考えた秀吉は、氏政の片腕である氏照の八王子城を落城させるべく徹底抗戦を命じる。


6月23日。
敵味方あまたの犠牲を出し、戦国史に名を残す凄まじい戦いは終わった。

八王子城は、徳川に禁足地とされ長い眠りにつく。


それから四百年あまり後、発掘調査により「関東一の山城」と称されるにふさわしい見事な石垣の大手や庭園が姿を現すことになる。


毎年6月、私たちは供養のために八王子城を訪れる。

不思議な形の花「采配蘭」が群れ咲いている光景は、ここが現世でないような感覚にさせられる。まるで、この城で果てた城将達が、今でも無念の采配を振り続けているようだ。


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~八王子城の大先達、故小松敏盛氏が郷土博物館に寄贈された遺物~


毎年、旧暦6月23日には城へ行き冥福を祈っておりました。しかし、東京都は感染者がまだ多いです。感染拡大防止のため、今年は家で八王子城に想いを馳せたいと思います。

合掌…


🐎 愚痴

2月中旬にコロナ禍のため集いが無期延期になって以来、4ヶ月も家族以外と会話というものをしておらず、北条支城群は都外(葛西と江戸以外)のため登城も出来ず。海はおろか、空も山もトント見ておらず(都市部の人は皆そう?)、なんだかドヨ~ンとしている今日この頃。

来月再開が予定されているいくつかの講座も都外。参加しようと考えていたところで、東京都は再び感染確認者が増えてきました。講座は屋内。東京から参加したら他県の方達に悪いかな~と思うので暫くは遠慮しようかと、再びドヨ~ン。


マリコ・ポーロ、その状態はちとヤバイぞよ!
少し北条成分を注入せよ
仍如件

 from 北条氏照&氏照の花押
 (実は from 北条氏政)


🐎 自粛中に始めた、もうひとつの花ブログに八王子城の花草木のことを書きました。
「八王子城に咲く①~天南生」
「八王子城に咲く②~鱗木・細葉鉄蕨・鬼女蘭 」

🐎 この10年で書き綴りまくった氏照についてのブログ記事の一部です。よろしくば。
恐縮ですが、URLがるものはそちらを、無いものはタイトルをクリックお願い致します。

・発掘調査
「八王子城、現われた2つの石垣群」

「八王子城の「庭園遺構」がより凄いことになっています!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-8c21.html
「報告▲八王子城の発掘調査見学会」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-cac0.html

・落城まで
「今日、鉢形は落ちた」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-6379.html

「八王子城落城、氏照の残・念」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-4eae.html

「今夜半、八王子城総攻撃始まる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/420-9797.html

「今日、八王子城 落ちる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-0e49.html

「八王子城、戦い済んで日は暮れて・・・」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-1bb4.html


・色々
「北条家ホームドクター田村先生の、日野「安養寺」」
「天正18年の供養~氏政・氏照墓前祭と八王子「相即寺」」

「八王子城~落城忌その1 チョット怖い?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-6bb4.html
「八王子城~落城忌 その2 幻庵の一節切はこんな音色?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-3914.html
「八王子城その1北条氏照 夢と覚悟の城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-c46c.html

「八王子城戦~前田家臣たちの証言と、彼らの驚きのその後」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-cfde.html

「東国の武将達に回覧された、氏照の謙信宛て脅迫状?」

「北条氏照の悩める存在‘上杉謙信’と景虎さん」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-9b26.html
「北条氏照が上洛してきたらヤバイぞ by 三成」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-53e1.html

「約400年ぶりに八王子城へ戻った横地監物」
「滝山城の講演会 「信玄を討ち留めざること無念千万に存じ候」」
「北条氏照と太田資正(三楽斎)は義兄弟!」

・番外編
「土方歳三は北条氏照の生まれ変わりである」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/in-012e.html
「城跡の幻影~八王子城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-75cf.html

・追悼
「椚國男先生」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-80b8.html
「北条氏照に会いに行かれた八王子衆」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-072c.html
「「八王子城とオオタカを守る会」が終わりました」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-bc9f.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2020年1月 5日 (日)

北条氏照と太田資正(三楽斎)は義兄弟!

マリコ・ポーロ


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~いつも静かな、大石氏から氏照のものになった滝の城(2020.1.3)~


♪ 親の血をぉひく
きょおぉだ~いぃぃ よりぃも~
かた~い 契りの~


違う…
それに、
いつものことながら古過ぎる💦


そう、義兄弟と言えば…
今、BS12 トゥエルビ で放映中の「Secret of Three Kingdoms(三國機密)」の、陛下と司馬の御曹司の義兄弟にはまっております。

三國志の時代は(も)詳しくないので最初の頃は状況把握が大変でした。しかし、メインテーマが曹操や孫権や劉備玄徳たちの活躍ではなく、許都の皇帝たちによる漢王朝の復活!でどうにかついてゆけています。毎日録画して観ているせいか、このところ脳内が献帝(?)と司馬懿の義兄弟(そこだけは架空の話)で占められていました。なんと、全54回!すでに40回を過ぎました。毎日だから、もうすぐ終わっちゃう。それから何を楽しみに生きていけばよいのか…シクシク。


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滝の城 は、またまた発掘調査中。橋があったとされる箇所の堀あたり。2月初めまで続くらしい。~


さて、本題の我らが北条氏照と太田三楽斎殿が義兄弟だということ。それぞれの正室は姉妹だったそうですね。

皆様ご存知でしたか?私はまったく気が付いていませんでした。不覚。前回のブログ記事で紹介させていただいた「中世太田領研究会」の方に教えていただいて、ドびっくり~。

こりゃまた、♪ かた~い 契りの~♪ どころではない義兄弟ですな。氏照と資正殿に義兄弟という認識があったかどうかも分からないところ。ま、当時は義兄弟だろうがなんだろうが、そんなの全然関係ない!


ふたりの姫は当然、大石氏のお嬢さん。同腹の姉妹だそうな。氏照の正室はご存知「比佐」。三楽斎殿の後室は「登志」さんとな。

教えてもらった帰り道、そいういえばどこかでその字面を見たことがあるな~と思い、家に帰ってから、図書館でコピーしたのだのなんだのとドサドサとペーパー類が入っているポケットファイルの「大石」のポケットを漁ってみました。

ありましたよ。『論集 戦国大石と国衆』黒田基樹編 2010.5 の 「大石氏の研究 大石史跡調査研究会」P117 に。比佐さんのことが書かれたところをコピーしたのですが、たまたまコピーの最後のページにありました。


ということは、登志さんが梶原政景の母上ということです。梶原政景は、前にブログに書いた『雪の峠』というマンガの冒頭に出てきていましたね(文末添付)。

ええ、冬、謙信殿が越後から松山城へ峠を越えて来た時の、あのシーンですよ。母さん、あれは好きなマンガでしたよ。謙信殿はあのときずいぶんくやしった。(←むろん西条八十先生のパクリです)


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~二の郭西側の堀の角のところ。登城していた少年に教えていただいた。枝に引っ掛かったままのビニールがお邪魔虫。~


マリコ・ポーロのブログのアクセス数(&滞在時間)の上位は何年も、常に、「江戸は寒村だったのか?」と、武田信玄の娘たちのことと、豊嶋氏のことを書いた記事です。あのう、これって、小田原北条の追っかけブログなんですけど…。悲し過ぎるぅ~~。

そんななかで、北条関係で一番読まれているらしいのが、我が氏照どのの女性関係の記事のようです(文末添付)。


🐎 氏照の正室 比佐さま と、謎の女性たち

以前の記事にも書きましたが、実のところ氏照の女関係には興味がありません。少年関係には興味津々(そんなのあったかどうか知らない・腐)ですが、北条関係の姫君たちのことを書くのがマリコ・ポーロのマリコ・ポーロたる所以 ♪ ユエンナキバラハンドッ? だと皆さんおっしゃいますし、縁戚関係は当時の情勢に影響するのでやっぱり避けては通れにゃい。


今まで書き散らしたものを整理すると…

女人- その1
いわずもがな、大石殿のお嬢さんで、氏照の正室 比佐 さま

母上は 金指平左衛門珍兼 のお嬢さんです。金指殿とは、信玄殿の滝山城侵攻の時、十々里で討死した方だそうですね。『論集戦国大名大石氏と国衆』黒田基樹編 2010.5 「大石氏の研究(大石氏史跡調査研究会)」で知りました。


しかし、同じ本の「武州前沢浄牧院と大石氏(前島康彦)」 には、母上は、「…宗関寺古記録によれば 帯刀先生藤常治 の娘 だという。片倉城主安藤氏の出自で…」とあります。

宗関寺の記録にあるのですか…。安藤氏の帯刀殿?誰ですか?奥州の片倉の安藤氏ではないのですか?八王子の片倉城の城主は長井氏ではないのですか?それから「先生」とはどういう意味ですか?


ちなみに、八王子市史の「宗関寺」のところには…

四世豁州達翁 武州の人、片倉城主大炊允常貞安藤氏の子、幼くして舜悦に侍して一四歳祝髪、一八年間宗関寺に住したが、兵火で焼かれたのを再興し、ほぼ旧観に復した。寛永一五年(一六三八)一〇月五日寂す

とあります。

宗関寺さんは今は「北条氏照の菩提寺ではない」そうですが、つまり、北条ではなく大石氏や片倉城の安藤氏の寺だということなんですかねえ。よく分かりませんが、氏照は中興開基ですし、今のお墓(供養墓?)は、江戸時代の中山家のものです。氏照のお墓に堂々と並んで中山家のお墓がありますでしょ。家臣だったのに…ごにょ。


比佐さまがいつどこで亡くなったかは様々な言い伝えはあれど、史料にはありません。八王子にはそれと伝わるお墓も供養塔もありません。比佐さまのお墓がどこにあるのか、はたまた、すでに時代に埋もれてしまったのか分からないのです。


女人- その2
浄牧院にお墓(供養塔?)がある女人

① お寺さんの言い伝え

お参りした時のことを書いたブログ記事を文末に添付しましたが、東久留米の浄牧院には「伝・北条氏照内室の墓」があります。「内室」とは微妙な書き方です。こちらもハッキリとはどなたのことかは分かりません。お寺の方がおっしゃるには「自害したお姫様のお墓だと聞いている」とのことで、その「お姫様」が誰かは分かりません。

② 滝の城の言い伝え

八王子城が落城した天正18年6月23日、城から氏照の正室が 浄牧院 に落ち、そこで自害したというのものです。城山神社の社務所に、このことを書いたもの(古文書ではない)が額に入れられて飾ってありました。これを見た時は伝承のたぐいだろうとメモもせず、写真も撮りませんでしたので、なんと書いてあったのか正確には思い出せません。

今になって、伝承も一縷の手掛かり、もう一度ジックリ読もうとお正月に行ったところ、社務所は改装工事中で閉っていました。しまった💦

なんて。

③ くだんの高橋家過去帳

氏照正室の比佐さまが、「天正拾八庚寅年六月弐拾参日滅 大石駿河守安祝開基神護山 浄牧院 ニテ自害」とあります。最初にこれを読んだ時はビビビッときましたが、高橋家過去帳以外に史料にないので確実とは言えないと思います。


しかし、①~③を合わせて推察するに、浄牧院には、滝の城から逃れてきて自害した大石氏ゆかりの姫がいたことは確かなようです。浄牧院は、今でもそうですが当時はたいそう大きな大石氏ゆかりの寺院ですから、娘の比佐さまが落ちてきた可能性は充分あります。


女人- その3
志木の柏の城に墓があったらしい、女人と思われる人


こちらも探した時のことをブログに書きましたが、これは本当に謎の女人です。言い伝えしか残っていません。

「志木町の城跡に、天正18年八王子城落城当日、柳瀬城(滝の城)から逃れてきて、ここで自殺した女性の墓があり、それは氏照夫人との言い伝えがある」「碑面は全く摩滅して、僅かに六月二十三日の他判読できない」

と、上記の『戦国大名と国衆…』「大石氏の研究(大石氏史跡調査研究会)』に載っているだけです。


私が行った時は、その墓さえまったく見つけられませんでした。6月23日に亡くなったお墓の主は誰なのでしょう。

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~柏の城に残る堀跡だそうな~


🐎 比佐さまの姉妹 登志さま

氏照の義兄弟ということになってしまった太田三楽斎殿の、正室であり大石殿のもう一人のお嬢さんである 登志さん。姉妹はそれぞれ結局は生涯の宿敵となる夫を持つことになりました。登志さんは、どういう人生を送ったのでしょうか。


後妻ゆえ三楽斎殿とはかなり年が離れていたでしょう。先妻(難波田氏)の子であり北条の婿であった氏資に岩付を乗っ取られたあと、三楽斎殿や息子の梶原政景についていったのでしょうか。それとも、人質として小田原にいたりしてそのまま天正18年を迎えたのでしょうか。それとも、実家大石の縁故を頼ったのでしょうか。それとも、すでに…。

登志さんのことは、太田資正研究の方々にお委ねしてもよろしかろうか。

(’∀`)ノ


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~堀跡の横の道にいた猫。「比佐さまっ!」「登志さまっ!」どっちで呼んでも振り返った。戦のさなかなのにチトふっくらでござるにゃ。~


「浄牧院~北条氏照 「謎の内室」の墓」

「ついに分かった?北条氏照正室の最後と、氏綱正室の出自」

「「柏の城」 北条氏照、第3の室の最後」

「「滝の城」 焼かれた(焼いた?)四脚門跡」

「岩明均 『雪の峠』 (1999)」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2019年11月 6日 (水)

滝山城の講演会 「信玄を討ち留めざること無念千万に存じ候」

マリコ・ポーロ

なんと血湧き肉躍るタイトルでしょう!

が、その前に…
これまたタイトルに凝ったシンポジウムのお知らせが高札に掲げられましたね。
   ↓
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~伊豆の国市さんのHPにまだ出ていないようなのでポスターをコピペさせていただく。拡大してご覧くだされ。~


まさに討ち入りの日に合わせて、のようですね!「うちいり」を「討ち入り」ではなく「打ち入り」にされたのも意味があるようで、また、「たいへん」も「てーへんだ、てーへんだ、親分」の「大変」(←分かりる?)とか、「時代が大きく変わる」の「大変」とかを掛けているのでしょうかねえ~。

おのおのがた、意味深で興味をそそられるタイトルにござるのう。


(コピペ)~今年は明応年間の伊勢宗瑞の伊豆進攻にフォーカスし、はたして宗瑞は成り上がり者だったのか、足利茶々丸はどのような人物か、なぜ宗瑞に打たれなければならなかったのか、伊豆国にとどまらず、関東地方や遠く京都まで波及する、二人にかかわる壮大な歴史の流れを解き明かしてみたいと思います。皆さまぜひご参加下さい。(コピペ以上)~

日時:12月14日(土)13:00~16:30
場所:韮山文化センター(韮山時代劇場)

(講演)家永遵嗣
「伊勢宗瑞の伊豆進攻と戦国時代のはじまり−宗瑞の立場、茶々丸の抵抗とその背景−」

(報告)島田章広(伊豆の国市教育委員会文化財課)
「堀越御所から韮山城へ−発掘調査成果からみた伊勢宗瑞と韮山−」

(シンポジウム「宗瑞打ち入り!茶々丸たいへん!!」)
齋藤慎一・家永遵嗣・望月保宏・竹井英文・島田章広

申し込み不要、参加費無料(資料1冊300円程度で販売)*満席の場合(500名)入場をお断りすることがあります。ご了承ください。とのこと。


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~内容充実、引用文書たっぷり、凄いレジュメ。これだけで本になりそう。~


今年は伊勢宗瑞没後500年目。いつにも増して内容充実の記念イベントが多いので、この機会を逃してはならじ…とパワーと経費と家庭の事情が続く限り馳せ参じる覚悟にて候!なーんて。

ブログには書いておりませんが、玉縄城さんでの真鍋淳哉氏・伊藤一美氏・玉林美男氏・大竹正芳氏らの玉縄水運についての講座や、戎光祥ヒストリカルセミナーでの同じく真鍋淳哉氏の「海をめぐる北条・関東上杉・三浦・里見の戦い」や、先日の相模原市の木村聡氏による「興国寺城」の最新研究についての講座などなども大変興味深く勉強になりました。


また、品川歴史博物館で今開催中の特別展「中世寺院と品川ー妙国寺の歴史と寺宝ー」は、妙国寺に氏綱公が発給した例の制札や、管轄エリアだった氏照ので文書もけっこう出ており、オススメですよ。古川元也氏の関連講演「中世の品川と妙国寺ー往来する商人・宗教者・戦国武将ー」も初めて知る話や文書が多かったので是非ご紹介したいのですが、我が浅学と拙筆でブログに書けるかにゃ~。

そうそう、玉縄水軍についての講座のことも、柏尾川のどこに「舟入」があったかとか、以前から気になっていた弘治2年の海戦のこととか、青岳尼のこととか、八丈島のこととかも含めて、追ってブログに書きたいとは思っているのですが、そうこうしているうちに寄る年波でだんだん記憶が…💦



さて、本題。

過日催された、北条氏照ファンクラブの集い …ではなく、滝山城跡群-自然と歴史を守る会 さん主催の第14回歴史講演会は、我らが北条氏照の滝山合戦450年記念「信玄を討ち留めざること無念千万に存じ候~滝山城主北条氏照の人と合戦~」でした。

講師は、氏照研究では第一人者である、お馴染みの 加藤哲 先生です。様々な方面からの文書や、地図や地形図をたくさん使い、戦に明け暮れた氏照が歩んだ人生を時系列で辿りました。それは氏照の存在がはじめて史料で確認できる古河公方ヨッシー(義氏)の元服式から始まり、いつも通り話は分かり易く、スペクタクルなのに全ての話は史料を見ながらなので、説得力があります。


帰りは、十数年前に初めて出来た八王子城&氏照友と一緒だったのですが、駅までの道々、氏照のことと加藤先生の話の持って行き方の巧みさについて話はスパーク!やめられない止まらない。このところ我が氏照どのから少し離れていましたが、あらためて氏照のカッコ良さを認識できた講演でした。

氏照のカッコ良さについては書き出したら限がなく、過去10年間にこってりと書かせていただいたカテゴリー「八王子城と北条氏照」をご覧いただけると恐悦至極。ここでは、こたびの講演でビビットきたところを少しだけ書きます。


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~御主殿から出てきた琉璃釉碗の底に描かれていた八王子城マスコットのウサちゃん&氏照印判「如意成就」の缶バッチ。如意成就はニューバージョンが資料館で絶賛販売中!~


🐎 氏照の人物像

残念なことに、氏照の私信はまったく発見されていません。笛を嗜んだ…ということも後世の話で、史料的には出てきていません。そこで、先生は手掛かりを「同時代人の評価」に求めたそうです。

戦国史研究のどなたに聞いても(たぶん)、その能力を「抜群だ」と言わせる我らが北条氏照。高い評価は現代のファンだけではなく、当時の北条以外の人達からもうけていたようです。今まで拙ブログにて自分でもたんまり書いてきたことでもありますが、加藤先生がまとめて話してくださり再認識しましたので以下に。


▲ 同時代人の評価

① まず兄上の氏政さまが、豊前山城守(足利公方のお医者さん)へ宛てたのお手紙

氏照が病気だった時ですね。この時だけではなく氏照は何かの慢性的な病を抱えていたようですよね。山城守だけではなく、北条お抱えの芹沢先生などとも薬のことでやり取りしている手紙もいくつか残っています。

こちらの手紙は、源三(照)の具合がかんばしくなく、氏政さん「一段到恐怖候…」 とな。

氏照の存在がとっても必要で、異常に大事に思っていることが表れている。そりゃあそうですよね~。二人は一心同体。バディですもん。


② 同じく兄上さまの朱印状
陣庭の造りは肝要。陸奥守(照)の陣取りを参考にするように。

氏照モデルを高評価。


③ 阿部正勝殿が本多重次殿に宛てたお手紙(天正10年)
氏照を「是非 生捕候て…」

生捕りにしたいというところに、氏照の価値の高さが表れている。


④ 足利公方超重臣の芳春院松嶺が鑁阿寺に宛てたお手紙(天正12年)
「奥州(照)万端頼入候間…」

万全の信頼


⑤ 石田三成殿が宇都宮国綱殿へ宛てたお手紙(天正16年)
例の、氏照が先に秀吉殿へ挨拶に来てあーだこーだ話されたら終わりだどー。早く上洛しろと国綱を即している手紙。

照殿の外交手腕にも高い評価があった。


▲ 後世の人物評

また、当時の評価だけではなく、後世書かれた軍記物「徳川実記」「武田三代軍記」や謡曲「豊公能」(秀吉が創らせたもの)などからも、過去から伝わってきた氏照の評判が、いかに優れていたかをうかがい知ることが出来るという例をあげられました。


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~八王子城から破片が出土したレースガラス(レプリカ)~


▲ 氏照の文書からみた人物像

また、氏照自身が出した手紙に「彼の感情などが見られる」部分があるとのことで、氏照ファンには有名な永禄12年の山吉殿宛ての手紙-講演タイトルの「…今般信玄不討留事 無念千万存候」はこちらにありますーや、同じく永禄12年の越相同盟の時の直江殿への、弟の氏邦さんに対するライバル心満々の手紙などを引用されました。

負けず嫌いですよね~。だからこそ、北条軍団を率いて勢力を広げていけたのでしょう。そんな 熱い照 なのに、お兄ちゃんにコキ使われても文句を言わずミッションをこなしていってるところが興味深いです。


ふぅ~。加藤先生が怒涛の如くたたみかけるように話す氏照の人物評価。
氏照、カッチョエ~~。


▲ 知らなかった氏照のある側面

こたびの講演で一番印象に残ったことです。10年以上、氏照を追いかけてきて、いや、追いかけてきたからこそかもしれませんが、深く刻まれました。私よりもっともっと古くからのファンの方達や、新しいファンの方でも氏照をちゃんと顕彰している方達はこの手紙をご存知でしょうから、知らなかった私とよく話が合ったな~と恥入る次第。


それは、氏照が富田氏実殿に宛てた、天正14年の手紙です。富田殿は、蘆名の家臣です。蘆名は佐竹殿の弟君が当主になっています(よね?)。天正14年は北条が佐竹と和議を結んでいた頃のことですね。読み下し文(by 加藤先生)も書きます。


佐竹・当方和融之儀、有馳走度之由、披露書面ニ尤令得其意候、何ニ而も可被敵対題目雖無之、近年弓箭ニ而過来候

(佐竹と当方和融の儀、馳走ありたきの由、書面にあらわされ、もっともその意を得せしめ候、何にても敵対せらるべき題目無きといえども、近年弓箭にて過ぎ来り候)


戦いたいわけではないけれど、なりゆきで戦う状況になってしまっている…。強気のテル の、葛藤や心の疲弊が垣間見えるような気がします。いんや、もしかしたら、本当はそんなことは思っちゃあいないけど、そう思っているふりをしていたりして?なんせ、外交上手の照どのですからねえ。


そんなこんなから、氏照の性格はなんとなく分かりますが、分からないのは氏照の趣味趣向ですよね~。

 

知りたいです。愛馬とか、着物や甲冑の好み(前立ては何)とか、ご贔屓の絵師はいたのか、どのような本をよく読んだのか、ご持仏は、氏綱公のように工作は好きだったのか、氏康のように恐妻家だったのか、氏繁のように茶道に興味があったのか、謙信くんのようにお酒は好きだったのか、秀吉のように能は好きだったのか、家康のように薬草に興味はあったのか、政宗のように食にこだわっていたのか、景勝のように武具のコレクションはしていたのか、ペットは飼っていたのか(鷹じゃ!)、お休みの日は何をしていたのか(休みはない!)、美女が好きか美少年が好きか(これっ!)etc.etc.


そして、最も知りたいことは…

最後の籠城中、何を考え、どこでどうしていたのか…。

マリコ・ポーロ こと 萩真尼


🐎 カテゴリー「八王子城と北条氏照」の中の昔の記事よりほんの少しだけ以下に添付しました。むか~し書いたものは最新の研究結果とは違う部分もありますので、そのへんお含みおきの上ご覧くださいませ。

「八王子城その1「北条氏照 夢と覚悟の城」」
「八王子城 その4 「北条氏照の葛藤」」
「八王子城落城、氏照の残・念」
「土方歳三は北条氏照の生まれ変わりである」
「北関東の侵略者、北条氏照の「祇園城」」
「北条氏照の存在が抹殺された?「星谷陣屋」」
「北条氏照の首級(しるし)はどこに‥?」

🐎 以下、この秋冬の北条・道灌など関係の存じている限りの企画展や講演会情報です。それぞれの記事は、後ろになるほど新しい情報になっています(見づらくて恐縮)。

「小田原北条関係のイベント情報(2019 秋・冬)」
「どんどん加筆~これからの講演会・企画展(2019年秋・冬)」
こちらにも ↓ 八王子と荒川の追加情報
「八王子城の台風被害と露出した石垣のほんの一部分(2019・10)」


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2019年10月22日 (火)

八王子城の台風被害と露出した石垣のほんの一部分(2019・10)

マリコ・ポーロ

その前に、またまた北条その他関係の企画展・イベント情報の追加の追加です。

▲ 企画展「北条氏の進出と八王子ー館蔵・市内所在文書を中心にー」

会 期:令和元年10月29日(火)~12月15日(日)
会 場:郷土資料館特別展示室

講座「北条氏照文書を読む」はキャンセル待ちになってしまいましたね。
詳細は 資料館HPを。


▲ 八王子市民講座「上杉三郎景虎 勝つための戦略~上杉謙信の死後、景勝と越後を争った北条氏康の七男~」

講師は、あの 乃至政彦氏 ですよ!

対象者:市民以外でもOK
日 時:11月30日(土)14:00~
場 所:八王子生涯学習川口分館

申し込みが始まっています。先着70名。
詳細は 川口分館HPを。


▲ 企画展&講演「あらかわと太田道灌」荒川ふるさと文化館

企画展:11/2(土)~12/1(日)

講演:

①11/17 齋藤慎一氏「太田道灌と江戸」②11/24 黒田基樹氏「太田道灌とその時代」
申し込み:11/1 開始
詳細は、ふるさと文化館HPを。


あちゃ~ ()
11/17 は、馬の博物館での講演、真鍋淳哉氏「三浦道寸」&浅倉直美氏「北条氏規―小田原北条一門の役割と苦悩―」とかぶりますねえ。

というかんじなので、その他の、北条の本城・支城で目白押しっている企画展・イベントなどについては先のブログ記事をご参照ください。ページの後ろになるほど新しい情報になっております(見づらくてすみませぬ)。

こちら と こちら です。


さて、本題の八王子城。

Dsc_0175_20191022122001
~御主殿の池の奥が土砂崩れを起こしている~


台風15号に続き、19号の被害に遭われた方に心よりお見舞い申し上げます。

人や家や地域の生活が大変なことになっているのに史跡の被害などのことで恐縮ではありますが、八王子衆が連絡をくださったこともあり見て参りました。


ここ数年、当ブログは小田原を中心に北条一族と北条領域全般にわたってアレコレ書いておりますが、実はマリコ・ポーロの インナーマッスル(?💦)は、八王子城と北条氏照で出来ています。今は無き「八王子城を守る会」でも10年程、末席で活動しておりました。ブログも、八王子城と氏照についてもっと知ってほしくて始めたものです。当初のブログ記事では、人様が辟易するほど(たぶん)濃く熱く、大量に八王子城と氏照を書いております。

守る会の活動も終わり古参の会員の方達が相次いで氏照の元へ逝かれてより、八王子城からは少し足が遠のいておりました。しかし、こたびは八王子の浅川の氾濫もニュースでずっと観ていたので気になり、久々に登城しました。


🐎 被害

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今現在(2019.10.21)、ガイド詰所脇の鳥居のところからは登城出来ず、私有地のため普段は「立入禁止」の看板がある石段から「あしだ曲輪」を通って登るようになっています。

また、大手に行く小さな橋も通行止めでした。

Dsc_0177
こちらは、御主殿への現代の近道通路です(向こうに通称曳橋が見える)。写真ではよく分かりませんが、通路はガタガタに壊れ、たくさんの石が道を覆っていました。

茶色いのは枯葉ではなく崩れ流れてきた石です。これは城山川が溢れたのではありません。八王子城は湧き水が豊富なため山から出た多量の水が、御主殿へ上がる通路を通ってダーーーッと通路を流れた落ちてきたものだそうです。通路にまだ水が流れているのが、写真で分かりますでしょうか?

そして、上の御主殿の写真。御主殿全域も荒れていましたが、池跡奥の林野庁が持っている崖に土砂崩れが起き池跡に流れ込んでいました。


麓だけしか歩きませんでしたが、城内はどこも同様の状態のようです。昨夜深夜の大雨でダメージはもっと大きくなっていることとも思います。今まででさえ上の方は傷んでいるのに、今後どうなるのでしょうか。

知人達のSNSによると、八王子城に限らず東日本の城跡、特に山城はどこもこのような状況のようですね。


🐎 チビットだけ表面が出た石垣

同じく八王子衆からご連絡をいただきました。

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御主殿の滝の、ナンタラ修験者の慰霊碑(みんなが落城時の供養碑と勘違いして拝んでいる碑)がある城山川に張り出したところです。

写真上部の角張った隅石は前から出ていましたが、今回土砂が崩れピンクの矢印のところが現われました。私と同じく「旧守る会」残党?で、私の八王子城&氏照師匠のお一人でもあるガイドS氏が説明してくださいました。


これは、隅石と繋がり御主殿まで続く石ですね。江戸時代に描かれた「武蔵名勝図会」にも描かれているとS氏に聞いたので、あらためて図会を見てみました。

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左下、城山川に付き出た石積みの一部ですね。昔のブログ記事では散々書きましたが、今の御主殿に行く近道通路は新しく造られた道で当時は無かったのです。


廃城後に大久保氏が手を入れて以来、今回のような大きな台風や大地震は四百年の間に何度もあり、そのたびに城の原型は崩れてきたのでしょうねえ。

八王子城や戦国の悲劇や戦の浅ましさを後世に伝えるためにも、全国の山城や戦国ファンのためにも、せめて今の城の姿が保てるように、供養の気持ちが感じられないイベントなどに使う経費も城の維持管理にまわしてほしいな~と思いました。


このところブログの更新が少なくなっております。自家の大したことのない歴史を調べていることもありますが、八王子城や氏照についても、やれ鐘だの能楽堂だのと、自分でも調べたり、関連自治体や中世専門の研究者の方達から助言をいただいたりとかなりの時(すでに半年!)を費やしております。

その結果、資料は神社仏閣の御縁起・御由緒など(これらが資料になるのか?ですが)、それも後世に書かれたものしか無く信憑性に欠ける話ではありました(なかったことは証明できないが、あったことは史料や発掘調査で証明できる)。

その間、諸先生方より様々な勉強をさせていただけて、時間の無駄にはなりませんでした。ありがとうございました。ただ、八王子城もいい加減なことを…みたいなことをアチコチから言われ、ちょっと恥ずかしかったし悔ぴかった…テンテンテン。

あーあ、書いちゃった~。


戦争も災害も無い令和になることを祈ると共に微力ながら協力もしたいと思います。


以下、八王子城と氏照について今まで書いたブログ記事の超々々々一部です。
「6月23日、八王子城は今年も落城す」

こちらの文末に、今までの記事がけっこう添付されています

「八王子城、消えた橋と現われた石垣」
「八王子城の「庭園遺構」がより凄いことになっています!」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2019年7月16日 (火)

天正18年の供養~氏政・氏照墓前祭と八王子「相即寺」

マリコ・ポーロ


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~「相即寺」地蔵堂。延命地蔵。150尊の石のお地蔵さまが周りをぐるりと囲んでいる。~


八王子の相即寺は、八王子城戦での犠牲者のうち、「近藤出羽守」はじめ寺に縁故の首を引き取ったお寺のひとつです。その数283体。約180年後の明和年間、150尊の石のお地蔵さんと、延命地蔵を堂内に安置し供養しました。

八王子衆の古老(失礼)であり研究者のS氏の話によると、地蔵堂は今でこそ床がコンクリートですが、八王子衆が子供の頃は土間のままで、雨なんかが降ると土から骨が出てきたりしていたそうです(南無…)。


天正18年6月23日。
落城した城跡に残された遺体は、八王子城側だけで「数千」と伝わっています。

「数千」とは漠然とした言い方ですが、八王子衆の古老…たびたび失礼、重鎮であり研究者のS氏が、八王子戦にかかわった敵味方双方の武将の書状や、氏照が帰依した心源院はじめ周辺の寺などに残された記録など様々な史料から検討したところ、数千なんてものではなく、遥かに上回る数だったようです。実際、その後、前田家では兵を補充しなければならなくなり、募集をかけています。

遺体を引き取ったお寺も、相即寺だけではなく、先のブログにも書いた「大善寺」や、「大悲願寺(あきる野)」など多数です。


6月23日、八王子城ではそれほどの人達が命を落としたのです。城跡にはどれだけの血が流れ、回収しきれなかった遺体が今でもどれだけ埋まっていることでしょう。

『戦国の終わりを告げた城』の著者であり八王子城を守る会の重鎮であった亡き椚國男先生は、城に入る時、必ず運動靴を洗ってから登城してらっしゃいました。敵味方関係なく、戦死者への弔意を持ちながら城跡を歩いてらしたのですねえ。


だから、6月23日はこの城で果てた人達の魂が鎮まるように、城跡は静かにしてあげていたいと思います。旧暦、新暦、関係ありません。どちらも6月23日なのです。

だから、昔から「6月23日は城に入ってはいけない。入ると良くないことが起きる」と土地に伝わっているのだと思います。それは祟りを恐れるのではなく、供養の気持ちから発したことなのだと思います。


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~八王子郷土資料館でも、ボランティアさんによる「紙芝居」で落城の悲劇が伝えられている。~


7月8日の朝目が覚めた時、「あ、今日は相即寺の延命地蔵の御開帳の日だ!」と思い出しました。7月8日は、現代の戦で八王子に疎開していた小学生がP51による銃撃を受け犠牲となった日です。

御開帳は、6月23日・7月8日・8月8日の年に3日だけなので、なかなか都合が合わず一度もお参りしたことがありませんでした。午後は用事があったため、急いで八王子に向かいました。


お堂の扉は開いていました。足を踏み入れようとして一瞬ためらいました。床を踏みにくいですよね~。堂内も延命地蔵も、物凄い気配。こんな立派な地蔵尊は初めて観ました。写真よりずっと素晴らしいですよ。

合掌…


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~西蓮寺。右側が薬師堂。~

また、相即寺の斜め向かいの「西蓮寺」の薬師堂の梁には、天正18年に景勝率いる上杉軍が焦がしたと伝わる焼け焦げ跡があるそうです。陣中の煮炊きをしていてとか、護摩を焚いていてとか言われています。

八王子衆に聞いたのですが、椚先生方が若い頃は、その焼け焦げ痕が分かったそうです。今は、私には見えません。


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~北条氏政・氏照墓前祭~


7月5日、小田原開城。

そして 11日は、兄上氏政と我らが北条氏照が果てた日です。小田原では、北條顕彰会さんの主催で(詳細は下記ブログ記事をご覧くだされ)、市長さん(今年は副市長さん)、観光課、文化財課、そして一般ファンも自由に集い、墓前にお参りします。


我ら旧八王子城を守る会の残党衆(?)もお参りさせていただきました。

今年は雨の平日でしたが、時間になると続々と参集。読経が始まり、みな粛々とお参りして帰ります。しずか~ですが、なんとなく想いを分かち合えたような気がします。


ちなみに、7月11日は三浦一族が宗瑞によって滅ぼされた日でもあります。
合掌…


ま、供養の仕方は人それぞれ。また、致し方なき仕儀もござる。百言居士のマリコ・ポーロの申すことゆえ、聞き流してくだれれませ。


「八王子城、戦い済んで日は暮れて…」

「八王子城戦~前田家臣たちの証言と、彼らの驚きのその後」

「今夜半、八王子城総攻撃始まる」
「今日(23日)八王子城、落ちる」

「檜原の残影、横地監物と武田の松姫」
「約400年ぶりに八王子城へ戻った横地監物」

↓ 氏照が帰依し、戦の跡の城で一体一体に引導を渡した牛秀讃誉上人の隠居所のことです。
「新選組と北条氏照の日野」

↓ 以下のブログ記事に、天正18年の北条一族を書いた記事を添付たくさん添付しました。よろしくば。
「北条氏政・氏照 「墓前祭」~今年も小田原開城に思いを馳せる」(2017)
「恒例 「北条氏政・氏照墓前祭」(2018)」

↓ 以下は支城などの供養祭の模様です。

「北条氏邦と大福御前慰霊祭(2012)」

「玉縄城の歴代城主の法要が営まれました」

「津久井城開城祭~合戦劇従軍レポート(2013)」

「報告!「津久井城開城記念~攻防戦(2012)」

「三増合戦まつり 従軍レポート(2013)」
以前の三増従軍レポートも記事文末に添付あります


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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