2019年11月 6日 (水)

滝山城の講演会 「信玄を討ち留めざること無念千万に存じ候」

マリコ・ポーロ

なんと血湧き肉躍るタイトルでしょう!

が、その前に…
これまたタイトルに凝ったシンポジウムのお知らせが高札に掲げられましたね。
   ↓
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~伊豆の国市さんのHPにまだ出ていないようなのでポスターをコピペさせていただく。拡大してご覧くだされ。~


まさに討ち入りの日に合わせて、のようですね!「うちいり」を「討ち入り」ではなく「打ち入り」にされたのも意味があるようで、また、「たいへん」も「てーへんだ、てーへんだ、親分」の「大変」(←分かりる?)とか、「時代が大きく変わる」の「大変」とかを掛けているのでしょうかねえ~。

おのおのがた、意味深で興味をそそられるタイトルにござるのう。


(コピペ)~今年は明応年間の伊勢宗瑞の伊豆進攻にフォーカスし、はたして宗瑞は成り上がり者だったのか、足利茶々丸はどのような人物か、なぜ宗瑞に打たれなければならなかったのか、伊豆国にとどまらず、関東地方や遠く京都まで波及する、二人にかかわる壮大な歴史の流れを解き明かしてみたいと思います。皆さまぜひご参加下さい。(コピペ以上)~

日時:12月14日(土)13:00~16:30
場所:韮山文化センター(韮山時代劇場)

(講演)家永遵嗣
「伊勢宗瑞の伊豆進攻と戦国時代のはじまり−宗瑞の立場、茶々丸の抵抗とその背景−」

(報告)島田章広(伊豆の国市教育委員会文化財課)
「堀越御所から韮山城へ−発掘調査成果からみた伊勢宗瑞と韮山−」

(シンポジウム「宗瑞打ち入り!茶々丸たいへん!!」)
齋藤慎一・家永遵嗣・望月保宏・竹井英文・島田章広

申し込み不要、参加費無料(資料1冊300円程度で販売)*満席の場合(500名)入場をお断りすることがあります。ご了承ください。とのこと。


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~内容充実、引用文書たっぷり、凄いレジュメ。これだけで本になりそう。~


今年は伊勢宗瑞没後500年目。いつにも増して内容充実の記念イベントが多いので、この機会を逃してはならじ…とパワーと経費と家庭の事情が続く限り馳せ参じる覚悟にて候!なーんて。

ブログには書いておりませんが、玉縄城さんでの真鍋淳哉氏・伊藤一美氏・玉林美男氏・大竹正芳氏らの玉縄水運についての講座や、戎光祥ヒストリカルセミナーでの同じく真鍋淳哉氏の「海をめぐる北条・関東上杉・三浦・里見の戦い」や、先日の相模原市の木村聡氏による「興国寺城」の最新研究についての講座などなども大変興味深く勉強になりました。


また、品川歴史博物館で今開催中の特別展「中世寺院と品川ー妙国寺の歴史と寺宝ー」は、妙国寺に氏綱公が発給した例の制札や、管轄エリアだった氏照ので文書もけっこう出ており、オススメですよ。古川元也氏の関連講演「中世の品川と妙国寺ー往来する商人・宗教者・戦国武将ー」も初めて知る話や文書が多かったので是非ご紹介したいのですが、我が浅学と拙筆でブログに書けるかにゃ~。

そうそう、玉縄水軍についての講座のことも、柏尾川のどこに「舟入」があったかとか、以前から気になっていた弘治2年の海戦のこととか、青岳尼のこととか、八丈島のこととかも含めて、追ってブログに書きたいとは思っているのですが、そうこうしているうちに寄る年波でだんだん記憶が…💦



さて、本題。

過日催された、北条氏照ファンクラブの集い …ではなく、滝山城跡群-自然と歴史を守る会 さん主催の第14回歴史講演会は、我らが北条氏照の滝山合戦450年記念「信玄を討ち留めざること無念千万に存じ候~滝山城主北条氏照の人と合戦~」でした。

講師は、氏照研究では第一人者である、お馴染みの 加藤哲 先生です。様々な方面からの文書や、地図や地形図をたくさん使い、戦に明け暮れた氏照が歩んだ人生を時系列で辿りました。それは氏照の存在がはじめて史料で確認できる古河公方ヨッシー(義氏)の元服式から始まり、いつも通り話は分かり易く、スペクタクルなのに全ての話は史料を見ながらなので、説得力があります。


帰りは、十数年前に初めて出来た八王子城&氏照友と一緒だったのですが、駅までの道々、氏照のことと加藤先生の話の持って行き方の巧みさについて話はスパーク!やめられない止まらない。このところ我が氏照どのから少し離れていましたが、あらためて氏照のカッコ良さを認識できた講演でした。

氏照のカッコ良さについては書き出したら限がなく、過去10年間にこってりと書かせていただいたカテゴリー「八王子城と北条氏照」をご覧いただけると恐悦至極。ここでは、こたびの講演でビビットきたところを少しだけ書きます。


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~御主殿から出てきた琉璃釉碗の底に描かれていた八王子城マスコットのウサちゃん&氏照印判「如意成就」の缶バッチ。如意成就はニューバージョンが資料館で絶賛販売中!~


🐎 氏照の人物像

残念なことに、氏照の私信はまったく発見されていません。笛を嗜んだ…ということも後世の話で、史料的には出てきていません。そこで、先生は手掛かりを「同時代人の評価」に求めたそうです。

戦国史研究のどなたに聞いても(たぶん)、その能力を「抜群だ」と言わせる我らが北条氏照。高い評価は現代のファンだけではなく、当時の北条以外の人達からもうけていたようです。今まで拙ブログにて自分でもたんまり書いてきたことでもありますが、加藤先生がまとめて話してくださり再認識しましたので以下に。


▲ 同時代人の評価

① まず兄上の氏政さまが、豊前山城守(足利公方のお医者さん)へ宛てたのお手紙

氏照が病気だった時ですね。この時だけではなく氏照は何かの慢性的な病を抱えていたようですよね。山城守だけではなく、北条お抱えの芹沢先生などとも薬のことでやり取りしている手紙もいくつか残っています。

こちらの手紙は、源三(照)の具合がかんばしくなく、氏政さん「一段到恐怖候…」 とな。

氏照の存在がとっても必要で、異常に大事に思っていることが表れている。そりゃあそうですよね~。二人は一心同体。バディですもん。


② 同じく兄上さまの朱印状
陣庭の造りは肝要。陸奥守(照)の陣取りを参考にするように。

氏照モデルを高評価。


③ 阿部正勝殿が本多重次殿に宛てたお手紙(天正10年)
氏照を「是非 生捕候て…」

生捕りにしたいというところに、氏照の価値の高さが表れている。


④ 足利公方超重臣の芳春院松嶺が鑁阿寺に宛てたお手紙(天正12年)
「奥州(照)万端頼入候間…」

万全の信頼


⑤ 石田三成殿が宇都宮国綱殿へ宛てたお手紙(天正16年)
例の、氏照が先に秀吉殿へ挨拶に来てあーだこーだ話されたら終わりだどー。早く上洛しろと国綱を即している手紙。

照殿の外交手腕にも高い評価があった。


▲ 後世の人物評

また、当時の評価だけではなく、後世書かれた軍記物「徳川実記」「武田三代軍記」や謡曲「豊公能」(秀吉が創らせたもの)などからも、過去から伝わってきた氏照の評判が、いかに優れていたかをうかがい知ることが出来るという例をあげられました。


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~八王子城から破片が出土したレースガラス(レプリカ)~


▲ 氏照の文書からみた人物像

また、氏照自身が出した手紙に「彼の感情などが見られる」部分があるとのことで、氏照ファンには有名な永禄12年の山吉殿宛ての手紙-講演タイトルの「…今般信玄不討留事 無念千万存候」はこちらにありますーや、同じく永禄12年の越相同盟の時の直江殿への、弟の氏邦さんに対するライバル心満々の手紙などを引用されました。

負けず嫌いですよね~。だからこそ、北条軍団を率いて勢力を広げていけたのでしょう。そんな 熱い照 なのに、お兄ちゃんにコキ使われても文句を言わずミッションをこなしていってるところが興味深いです。


ふぅ~。加藤先生が怒涛の如くたたみかけるように話す氏照の人物評価。
氏照、カッチョエ~~。


▲ 知らなかった氏照のある側面

こたびの講演で一番印象に残ったことです。10年以上、氏照を追いかけてきて、いや、追いかけてきたからこそかもしれませんが、深く刻まれました。私よりもっともっと古くからのファンの方達や、新しいファンの方でも氏照をちゃんと顕彰している方達はこの手紙をご存知でしょうから、知らなかった私とよく話が合ったな~と恥入る次第。


それは、氏照が富田氏実殿に宛てた、天正14年の手紙です。富田殿は、蘆名の家臣です。蘆名は佐竹殿の弟君が当主になっています(よね?)。天正14年は北条が佐竹と和議を結んでいた頃のことですね。読み下し文(by 加藤先生)も書きます。


佐竹・当方和融之儀、有馳走度之由、披露書面ニ尤令得其意候、何ニ而も可被敵対題目雖無之、近年弓箭ニ而過来候

(佐竹と当方和融の儀、馳走ありたきの由、書面にあらわされ、もっともその意を得せしめ候、何にても敵対せらるべき題目無きといえども、近年弓箭にて過ぎ来り候)


戦いたいわけではないけれど、なりゆきで戦う状況になってしまっている…。強気のテル の、葛藤や心の疲弊が垣間見えるような気がします。いんや、もしかしたら、本当はそんなことは思っちゃあいないけど、そう思っているふりをしていたりして?なんせ、外交上手の照どのですからねえ。


そんなこんなから、氏照の性格はなんとなく分かりますが、分からないのは氏照の趣味趣向ですよね~。

知りたいです。愛馬とか、着物や甲冑の好みとか、ご贔屓の絵師はいたのか、どのような本をよく読んだのか、ご持仏は、氏綱公のように工作は好きだったのか、氏康のように恐妻家だったのか、氏繁のように茶道に興味があったのか、謙信くんのようにお酒は好きだったのか、秀吉のように能は好きだったのか、家康のように薬草に興味はあったのか、政宗のように食にこだわっていたのか、景勝のように武具のコレクションはしていたのか、ペットは飼っていたのか(鷹じゃ!)、お休みの日は何をしていたのか(休みはない!)、美女が好きか美少年が好きか(これっ!)etc.etc.


そして、最も知りたいことは…

最後の籠城中、何を考え、どこでどうしていたのか…。

マリコ・ポーロ こと 萩真尼



🐎 カテゴリー「八王子城と北条氏照」の中の昔の記事よりほんの少しだけ以下に添付しました。むか~し書いたものは最新の研究結果とは違う部分もありますので、そのへんお含みおきの上ご覧くださいませ。

「八王子城その1「北条氏照 夢と覚悟の城」」
「八王子城 その4 「北条氏照の葛藤」」
「八王子城落城、氏照の残・念」
「土方歳三は北条氏照の生まれ変わりである」
「北関東の侵略者、北条氏照の「祇園城」」
「北条氏照の存在が抹殺された?「星谷陣屋」」
「北条氏照の首級(しるし)はどこに‥?」

🐎 以下、この秋冬の北条・道灌など関係の存じている限りの企画展や講演会情報です。それぞれの記事は、後ろになるほど新しい情報になっています(見づらくて恐縮)。

「小田原北条関係のイベント情報(2019 秋・冬)」
「どんどん加筆~これからの講演会・企画展(2019年秋・冬)」
こちらにも ↓ 八王子と荒川の追加情報
「八王子城の台風被害と露出した石垣のほんの一部分(2019・10)」



画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。
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2019年10月22日 (火)

八王子城の台風被害と露出した石垣のほんの一部分(2019・10)

マリコ・ポーロ

その前に、またまた北条その他関係の企画展・イベント情報の追加の追加です。

▲ 企画展「北条氏の進出と八王子ー館蔵・市内所在文書を中心にー」

会 期:令和元年10月29日(火)~12月15日(日)
会 場:郷土資料館特別展示室

講座「北条氏照文書を読む」はキャンセル待ちになってしまいましたね。
詳細は 資料館HPを。


▲ 八王子市民講座「上杉三郎景虎 勝つための戦略~上杉謙信の死後、景勝と越後を争った北条氏康の七男~」

講師は、あの 乃至政彦氏 ですよ!

対象者:市民以外でもOK
日 時:11月30日(土)14:00~
場 所:八王子生涯学習川口分館

申し込みが始まっています。先着70名。
詳細は 川口分館HPを。


▲ 企画展&講演「あらかわと太田道灌」荒川ふるさと文化館

企画展:11/2(土)~12/1(日)

講演:

①11/17 齋藤慎一氏「太田道灌と江戸」②11/24 黒田基樹氏「太田道灌とその時代」
申し込み:11/1 開始
詳細は、ふるさと文化館HPを。


あちゃ~ ()
11/17 は、馬の博物館での講演、真鍋淳哉氏「三浦道寸」&浅倉直美氏「北条氏規―小田原北条一門の役割と苦悩―」とかぶりますねえ。

というかんじなので、その他の、北条の本城・支城で目白押しっている企画展・イベントなどについては先のブログ記事をご参照ください。ページの後ろになるほど新しい情報になっております(見づらくてすみませぬ)。

こちら と こちら です。


さて、本題の八王子城。

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~御主殿の池の奥が土砂崩れを起こしている~


台風15号に続き、19号の被害に遭われた方に心よりお見舞い申し上げます。

人や家や地域の生活が大変なことになっているのに史跡の被害などのことで恐縮ではありますが、八王子衆が連絡をくださったこともあり見て参りました。


ここ数年、当ブログは小田原を中心に北条一族と北条領域全般にわたってアレコレ書いておりますが、実はマリコ・ポーロの インナーマッスル(?💦)は、八王子城と北条氏照で出来ています。今は無き「八王子城を守る会」でも10年程、末席で活動しておりました。ブログも、八王子城と氏照についてもっと知ってほしくて始めたものです。当初のブログ記事では、人様が辟易するほど(たぶん)濃く熱く、大量に八王子城と氏照を書いております。

守る会の活動も終わり古参の会員の方達が相次いで氏照の元へ逝かれてより、八王子城からは少し足が遠のいておりました。しかし、こたびは八王子の浅川の氾濫もニュースでずっと観ていたので気になり、久々に登城しました。


🐎 被害

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今現在(2019.10.21)、ガイド詰所脇の鳥居のところからは登城出来ず、私有地のため普段は「立入禁止」の看板がある石段から「あしだ曲輪」を通って登るようになっています。

また、大手に行く小さな橋も通行止めでした。

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こちらは、御主殿への現代の近道通路です(向こうに通称曳橋が見える)。写真ではよく分かりませんが、通路はガタガタに壊れ、たくさんの石が道を覆っていました。

茶色いのは枯葉ではなく崩れ流れてきた石です。これは城山川が溢れたのではありません。八王子城は湧き水が豊富なため山から出た多量の水が、御主殿へ上がる通路を通ってダーーーッと通路を流れた落ちてきたものだそうです。通路にまだ水が流れているのが、写真で分かりますでしょうか?

そして、上の御主殿の写真。御主殿全域も荒れていましたが、池跡奥の林野庁が持っている崖に土砂崩れが起き池跡に流れ込んでいました。


麓だけしか歩きませんでしたが、城内はどこも同様の状態のようです。昨夜深夜の大雨でダメージはもっと大きくなっていることとも思います。今まででさえ上の方は傷んでいるのに、今後どうなるのでしょうか。

知人達のSNSによると、八王子城に限らず東日本の城跡、特に山城はどこもこのような状況のようですね。


🐎 チビットだけ表面が出た石垣

同じく八王子衆からご連絡をいただきました。

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御主殿の滝の、ナンタラ修験者の慰霊碑(みんなが落城時の供養碑と勘違いして拝んでいる碑)がある城山川に張り出したところです。

写真上部の角張った隅石は前から出ていましたが、今回土砂が崩れピンクの矢印のところが現われました。私と同じく「旧守る会」残党?で、私の八王子城&氏照師匠のお一人でもあるガイドS氏が説明してくださいました。


これは、隅石と繋がり御主殿まで続く石ですね。江戸時代に描かれた「武蔵名勝図会」にも描かれているとS氏に聞いたので、あらためて図会を見てみました。

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左下、城山川に付き出た石積みの一部ですね。昔のブログ記事では散々書きましたが、今の御主殿に行く近道通路は新しく造られた道で当時は無かったのです。


廃城後に大久保氏が手を入れて以来、今回のような大きな台風や大地震は四百年の間に何度もあり、そのたびに城の原型は崩れてきたのでしょうねえ。

八王子城や戦国の悲劇や戦の浅ましさを後世に伝えるためにも、全国の山城や戦国ファンのためにも、せめて今の城の姿が保てるように、供養の気持ちが感じられないイベントなどに使う経費も城の維持管理にまわしてほしいな~と思いました。


このところブログの更新が少なくなっております。自家の大したことのない歴史を調べていることもありますが、八王子城や氏照についても、やれ鐘だの能楽堂だのと、自分でも調べたり、関連自治体や中世専門の研究者の方達から助言をいただいたりとかなりの時(すでに半年!)を費やしております。

その結果、資料は神社仏閣の御縁起・御由緒など(これらが資料になるのか?ですが)、それも後世に書かれたものしか無く信憑性に欠ける話ではありました(なかったことは証明できないが、あったことは史料や発掘調査で証明できる)。

その間、諸先生方より様々な勉強をさせていただけて、時間の無駄にはなりませんでした。ありがとうございました。ただ、八王子城もいい加減なことを…みたいなことをアチコチから言われ、ちょっと恥ずかしかったし悔ぴかった…テンテンテン。

あーあ、書いちゃった~。


戦争も災害も無い令和になることを祈ると共に微力ながら協力もしたいと思います。


以下、八王子城と氏照について今まで書いたブログ記事の超々々々一部です。
「6月23日、八王子城は今年も落城す」

こちらの文末に、今までの記事がけっこう添付されています

「八王子城、消えた橋と現われた石垣」
「八王子城の「庭園遺構」がより凄いことになっています!」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2019年7月16日 (火)

天正18年の供養~氏政・氏照墓前祭と八王子「相即寺」

マリコ・ポーロ


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~「相即寺」地蔵堂。延命地蔵。150尊の石のお地蔵さまが周りをぐるりと囲んでいる。~


八王子の相即寺は、八王子城戦での犠牲者のうち、「近藤出羽守」はじめ寺に縁故の首を引き取ったお寺のひとつです。その数283体。約180年後の明和年間、150尊の石のお地蔵さんと、延命地蔵を堂内に安置し供養しました。

八王子衆の古老(失礼)であり研究者のS氏の話によると、地蔵堂は今でこそ床がコンクリートですが、八王子衆が子供の頃は土間のままで、雨なんかが降ると土から骨が出てきたりしていたそうです(南無…)。


天正18年6月23日。
落城した城跡に残された遺体は、八王子城側だけで「数千」と伝わっています。

「数千」とは漠然とした言い方ですが、八王子衆の古老…たびたび失礼、重鎮であり研究者のS氏が、八王子戦にかかわった敵味方双方の武将の書状や、氏照が帰依した心源院はじめ周辺の寺などに残された記録など様々な史料から検討したところ、数千なんてものではなく、遥かに上回る数だったようです。実際、その後、前田家では兵を補充しなければならなくなり、募集をかけています。

遺体を引き取ったお寺も、相即寺だけではなく、先のブログにも書いた「大善寺」や、「大悲願寺(あきる野)」など多数です。


6月23日、八王子城ではそれほどの人達が命を落としたのです。城跡にはどれだけの血が流れ、回収しきれなかった遺体が今でもどれだけ埋まっていることでしょう。

『戦国の終わりを告げた城』の著者であり八王子城を守る会の重鎮であった亡き椚國男先生は、城に入る時、必ず運動靴を洗ってから登城してらっしゃいました。敵味方関係なく、戦死者への弔意を持ちながら城跡を歩いてらしたのですねえ。


だから、6月23日はこの城で果てた人達の魂が鎮まるように、城跡は静かにしてあげていたいと思います。旧暦、新暦、関係ありません。どちらも6月23日なのです。

だから、昔から「6月23日は城に入ってはいけない。入ると良くないことが起きる」と土地に伝わっているのだと思います。それは祟りを恐れるのではなく、供養の気持ちから発したことなのだと思います。


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~八王子郷土資料館でも、ボランティアさんによる「紙芝居」で落城の悲劇が伝えられている。~


7月8日の朝目が覚めた時、「あ、今日は相即寺の延命地蔵の御開帳の日だ!」と思い出しました。7月8日は、現代の戦で八王子に疎開していた小学生がP51による銃撃を受け犠牲となった日です。

御開帳は、6月23日・7月8日・8月8日の年に3日だけなので、なかなか都合が合わず一度もお参りしたことがありませんでした。午後は用事があったため、急いで八王子に向かいました。


お堂の扉は開いていました。足を踏み入れようとして一瞬ためらいました。床を踏みにくいですよね~。堂内も延命地蔵も、物凄い気配。こんな立派な地蔵尊は初めて観ました。写真よりずっと素晴らしいですよ。

合掌…


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~西蓮寺。右側が薬師堂。~

また、相即寺の斜め向かいの「西蓮寺」の薬師堂の梁には、天正18年に景勝率いる上杉軍が焦がしたと伝わる焼け焦げ跡があるそうです。陣中の煮炊きをしていてとか、護摩を焚いていてとか言われています。

八王子衆に聞いたのですが、椚先生方が若い頃は、その焼け焦げ痕が分かったそうです。今は、私には見えません。


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~北条氏政・氏照墓前祭~


7月5日、小田原開城。

そして 11日は、兄上氏政と我らが北条氏照が果てた日です。小田原では、北條顕彰会さんの主催で(詳細は下記ブログ記事をご覧くだされ)、市長さん(今年は副市長さん)、観光課、文化財課、そして一般ファンも自由に集い、墓前にお参りします。


我ら旧八王子城を守る会の残党衆(?)もお参りさせていただきました。

今年は雨の平日でしたが、時間になると続々と参集。読経が始まり、みな粛々とお参りして帰ります。しずか~ですが、なんとなく想いを分かち合えたような気がします。


ちなみに、7月11日は三浦一族が宗瑞によって滅ぼされた日でもあります。
合掌…


ま、供養の仕方は人それぞれ。また、致し方なき仕儀もござる。百言居士のマリコ・ポーロの申すことゆえ、聞き流してくだれれませ。


「八王子城、戦い済んで日は暮れて…」

「八王子城戦~前田家臣たちの証言と、彼らの驚きのその後」

「今夜半、八王子城総攻撃始まる」
「今日(23日)八王子城、落ちる」

「檜原の残影、横地監物と武田の松姫」
「約400年ぶりに八王子城へ戻った横地監物」

↓ 氏照が帰依し、戦の跡の城で一体一体に引導を渡した牛秀讃誉上人の隠居所のことです。
「新選組と北条氏照の日野」

↓ 以下のブログ記事に、天正18年の北条一族を書いた記事を添付たくさん添付しました。よろしくば。
「北条氏政・氏照 「墓前祭」~今年も小田原開城に思いを馳せる」(2017)
「恒例 「北条氏政・氏照墓前祭」(2018)」

↓ 以下は支城などの供養祭の模様です。

「北条氏邦と大福御前慰霊祭(2012)」

「玉縄城の歴代城主の法要が営まれました」

「津久井城開城祭~合戦劇従軍レポート(2013)」

「報告!「津久井城開城記念~攻防戦(2012)」

「三増合戦まつり 従軍レポート(2013)」
以前の三増従軍レポートも記事文末に添付あります


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2019年7月 1日 (月)

小田原北条家と猿楽の宝生大夫

マリコ・ポーロ

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~『匠明』(しょうめい)鹿島出版会 / 『戦国武将と能』雄山閣~


いささか気になることがあり、戦国時代の猿楽についてチビット調べていたところ、北条師匠が、小田原北条家が贔屓にした宝生家の猿楽師の名前が分かることを教えてくれました。



小田原の芸能集団といえば、まず思い浮かぶのが「舞々の天十郎」。舞々とは神社に奉納する大道芸のようなもののようですが、氏綱の頃から大道芸能者や陰陽師や平家琵琶の座頭などを天十郎に統括させていたと、『戦国武将の居城と暮らし~北条氏康』(下山治久)で読みました。

天十郎大夫は庶民向けとしまして、武家向け(むけむけだね)といえば「宝生大夫」ですよね~。


三代氏康の頃になると、全国から貴賤問わず様々な人達が小田原にやってきます。大和猿楽四座もそうです。天文14年の松原神社の「前庭」での興行の様子が『北条五代記』にありますね。

今まで小田原北条の猿楽にまで興味が広がらなかったので、大和猿楽座の宝生大夫のことも、応仁・文明の乱で荒れた京の都から各地に下り、小田原に庇護を求めた…ぐらいの知識しかありませんでした。


名前が分かるとのことなので、現代の宝生流のHPを見てみました。あら~、ほんとですねえ。出ていますねえ。北条時代の小田原では三代で、「一閑」「重勝」「新次郎」だそうです。

もうチョット詳しいことが知りたいにゃ~と思って、トップの画像の『戦国武将と能』(曽我孝司)を読んでみました。もうチョット詳しいことが書かれていました。


▲ 宝生大夫

それは、『大乗院寺社雑事記』にあるそうです。大和(奈良)の興福寺大乗院で室町時代の三代の門跡さんが記した日記だそうな。

宝生大夫は、まず周防の大内氏の元へゆき、その後各地を流浪し、天文年間に氏綱の元へ来て、子・孫と三代にわたり北条お抱えの大夫となったそうです。


また、『北条五代記』には、宝生だけではなく大和猿楽四座の「大夫達と囃子方がこぞって小田原に下り、生計を立てていたとの記述」があるとしています。以下一部抜粋。

「宝生は北条家の大夫と号し、金春八郎・落観世、金剛大夫……此四座の役者、脇は金春源七、宝生新左衛門、太鼓は三谷大蔵、仁助、威徳三郎四郎、小鼓の美濃意楽、宮増弥右衛門、金春権助、太鼓は奈良新八郎、五野井、笛は彦兵衛、助三郎、狂言は五右衛門、鷺大夫、此人々は小田原にこぞり居て、渡世を送る…」

面白いです~。こぞりて…というか、ごっそりといますねえ。


▲ 八王子

『北条五代記』には、お囃子方の動向がもっと書かれているんですねえ。

「佐藤は太鼓、山室は小鼓、霞斉は太鼓、此三人は三浦三崎に有りて其の芸を教え、嶋屋親子は武州八王子に有りて、近国を行めぐり勧進能して力をすぐる。一不は笛ををしへ、渋谷はうたひををしへ、武州品川の里に居住し、暮松は江戸を栖として、神田明神の祭三年に一度の神事能をまもり…」


ここで、ちょっと待った!
嶋屋親子が、武州八王子ですと!?

初耳ですな。八王子では「宗阿弥」という猿楽師が有名です。相即寺だったか大善寺だったか(うろ覚え~)の、八王子戦の犠牲者過去帳に名前だけがあると、旧八王子城を守る会の重鎮(?)たちに伺ったことがあります。名前だけなので、どういう人物かは定かではありませんが。


そりゃあ我が氏照も戦国武将。そのうえ、「武」だけではなく、初代新九郎さん(宗瑞)の教えで「文」も重んじる北条家の御曹司。猿楽や幸若舞の嗜みのひとつやふたつはあったとは思いますが、歌舞音曲に関する氏照の史資料は私は見たことがありません。笛「大黒」のことも後世に作られたお話ですよね。

氏照については、私信プライベートレター さえ見たことがありませんが…というか、嶋屋親子って誰?


▲ 宝生大夫と小田原「報身寺」

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~お寺でいただいた絵葉書~


ここで、to my surprised、更に驚いたことに…

『戦国武将と能』には、小田原「報身寺」の阿弥陀来迎図(掛軸)は、宝生新次郎さんが天正7年に寄進したもの(鎌倉時代制作)だとありました!「報身寺」とは、小田原籠城中の、我らが北条氏照の本陣です!


それで、今ごろ思い出しました。以前にブログに書きましたが、報身寺さんをお訪ねした時に、この掛軸のお話を伺っていましたのでござります!

この来迎図は、現在は東京国立博物館にあると。そこまでは本には書かれていませんが、確かです。その時、東博さんに問い合わせをしましたので。常設ではないとのことなので近々展示されることはないかと伺いましたが、その時は未定とのことでした。


(加筆:東博のHPには阿弥陀「如来像」となっていますが、報身寺さんの阿弥陀様の独尊像のお軸はひとつだけですので間違いないと思います。お寺の方がおっしゃるには、「来迎図」だと阿弥陀様が大勢引き連れた図であり、こちらは阿弥陀様お一人なので「如来像」となったのだろうとのこと。墨書のことについては、ただ今東博さんに確認中。)


しっかし、どひゃ~。ドびっくり~。

何にびっくりしたのかと言うと、掛軸のことを今の今まですっかり忘れていた自分に。そろそろ始まってきたか、マリコ・ポーロ。いや、その時は小田原攻めのことばかり頭にあって…ゴニョニョ。


掛軸の裏の墨書には、次のようにあるそうです。潮音寺とは報身寺の以前のお寺です。

天正七歳小田原 
潮音寺江祖父母 
寶生新次郎納入 
    元禄五歳 
      壬申七月二十二日 
         寶生九郎 
               重吉(花押)

 

祖父母とありますから、一閑大夫の供養のために奉納したのですかねえ…。元禄5年に九郎重吉さんとあるということは、徳川になっても宝生家は小田原にいたのですかねえ。それとも一旦小田原を出たあと再来したのでしょうかねえ。掛軸、見てみたいですねえ。東博さんに展示されても裏側は見られないでしょうねえ。



▲ 『匠明』

 

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~『匠明』の「舞台」のページ。~


『匠明』は、桃山時代に書かれた「木割書」です。これまた別の北条大師匠が薦めてくださいました。「木割」というのは、建築物の各部の比例をいうものだそうですね。

『匠明』と『匠明五巻考』は、大きな図書館に行かないと置いていないようです。私はいつも都の中央図書館に行きますが、「閉架」だったので頼んだところ、職員の方がいる近くの机での閲覧でした。かなり傷んでいて、貴重な史料だからだそうです。コピーも自分では出来ず図書館が取ります。なので、ご興味がある方は上の写真を拡大してご覧くださいませ。

冒頭の「舞台 昔ハ 泉殿ト云リ」が、ちと意外。


全てがこの基準ではないでしょうが、桃山時代以前に造られた舞台はどんなものだったのでしょうね。皆様ご存知のように、当時の猿楽は主に座敷やアウトドアで行われました。教えていただいた話では、あの朝倉館や三好亭でさえ、舞台は「仮設」だったそうです。

 

我らが本城小田原にも今のところ「能舞台」があったという痕跡は出てきていないようですし、我が八王子城にしても、発掘調査からも残された記録からも「舞台」についての痕跡は見つけられません。まあねえ、八王子城については、氏照があの臨戦態勢下で築城を始めた城。池も、あったということには興奮ですが、造りは雑(by 講演会での小野正敏先生。先のブログ記事をご参照)。現実的な氏照どのが遊行の物を造ったとはなかなか微妙なところで…テンテンテン。



秀吉より前の、他の戦国大名で「能舞台」(能楽堂ではない)があった城はあったのでしょうか。
上記の『戦国武将と能』で少し見つけました。

(信長の岐阜城)
「…その山頂に彼の根城があります。途方もなく大きな自然石の垣がそれを囲んでいます。第一の広場には優れた用材で造られた一種の舞台があり、そこでは演劇や公の祝祭の余興が行われている。…」
by ルイス・フロイス

岐阜城へは参ったことがないのですが、曲輪に舞台があったのですね。フロイスさんの書いたことだけからすると、舞台は青天井ですかね??桃山時代より少し前ですし、信長のことですから仕様は「匠明」の基準とはまったく違う独創的なものだったのかもしれません。ということは、安土にもあったのですかねえ?


(信玄殿の躑躅が崎館)
信玄殿ファンならご存知でしょうが、「御能館」があったそうですね。御能館には使用の細かい規定があるんですって。『甲陽軍艦』に記されているそうです。

一 舞台の高さはお座敷によるべし
一 舞台の高さは勧進能は少しかはる
一 田楽、猿楽に太刀を可渡事

これらからわかることとして、本にはこうあります。
「武田家では「座敷能」が頻繁に催されていたことや、舞台では猿楽座の勧進能や田楽能も上演されるなど…」と。


しっかし、昔の史資料を調べるのって楽しいですねえ。限がありませんのう。


以下よろしければタイトルをクリックしてご覧くださいましたら嬉しいです。

「小田原攻め、北条氏照の本陣」
「現(うつつ)か夢か 小田原城 薪能」

下山先生の『戦国武将の居城と暮らし~北条氏康』について
「小田原城のライフスタイルと饗応の膳」

「北条氏照の「大善寺」と「土方能」」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2019年6月 9日 (日)

落城・開城イベント~八王子城と津久井城(2019)

マリコ・ポーロ


落城した城跡の落城日には、敵味方問わず犠牲になった人達を悼みたい。

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~旧八王子城を守る会では、落城忌の集いでお赤飯を食べた~


何度か書いている繰り返しで恐縮ですが、現代の八王子城周辺に住む人達は落城日にお赤飯を食べたそうです。これは、八王子城戦で城山川が血にそまり、しばらくの間川の水で焚いた飯が赤く染まったという伝承からくる、供養のひとつでした。しかし最近は新しい家が増え伝承をご存知なく、お赤飯を食べる家も少なくなったそうです。



今年もまた小田原北条落城・開城強化月間がやってきております。一年あっという間ですねえ…。小田原北条落城・開城月間についてはこの10年毎年たっぷり同じようなことを書いておりますので、ご興味あらばそれらをご覧くださるととても嬉しいです。

 

話はそれますが、今までの落城・開城月間の厖大な数のブログ記事をどうにかしたいです。毎年同じことを書くのもなんですし…。


さて、本題。

今年の落城・開城の催しを2つご紹介させていただきます。



▲ 我が氏照どのの八王子城

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~八王子の住人さんに送っていただいたポスター~


「八王子城跡まつり」
日にち:6月23日(日)

まさに落城した日(旧暦)です。

様々な催しがありますね。個人的には、落城した日には、八王子市さんには供養的な法要などをやってほしいな~と思うものです。落城した日に、敵味方共に多大な犠牲者を出したその城跡で鉄砲をぶっ放す…。鉄砲を討つというのは、何か弔意的なものもあるのでしょうか?詳しくないので分かりませんが、それにしても私の感覚ではチョット辛いものがあります。


実のところ、自治体が宗教的行事を行うのは難しいものだということもあります。今回は市が主催ですからアミューズばかりになっているのでしょう。

ガイドさん方はその前にお墓参りをすると思いますし、まあ、こんなメンドクチャイことを言うのは、百言居士マリコ・ポーロだけです。


▲ 津久井城

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~津久井湖城山公園のHPに出ています。http://tsukuiko-ibento.blogspot.com/2019/05/429.html~

「津久井城開城記念の日」
日にち:同じく6月23日(日)


津久井が開城したのは6月25日です(旧暦)。イベントなので日曜日に合わせたのでしょうが、八王子と重なってしまいましたねえ。

こちらはありますね!お墓参り。知り合いの武将さん達も参陣します。本城小田原も鉢形も玉縄も、また、落城・開城ではないですが三増合戦まつりなども、一般ファンが参加できる供養の法要的なものがありますよね。それらは必ずしもお寺でだけではなく、旧八王子城を守る会の落城忌でも、宴(単なる飲み食い)の前には城内で般若心経を唱えます。


記念講演もありますね!ちゃんとした資史料や発掘調査に基づいた講演会です。妄想講演会ではないですね。

地域の歴史って、こうやって伝えていってほしいな~と思います。私はね。地域の歴史は、日本の歴史にも繋がっていきますもんね~。


▲以下、この10年でこってり書いた厖大な数の八王子城落城と、マリコ・ポーロが従軍レポートした各地の戦国慰霊のイベントの記事の超々々々一部です。ご興味あらば、タイトルをクリックしてくださいませ。

「小田原城開城へ、最後の6ヶ月」

「今年は、ぼっち 八王子城 落城忌…かと思ったら(2018)」

「八王子城戦~前田家臣たちの証言と、彼らの驚きのその後」

「北条氏邦と大福御前慰霊祭(2012)」

「津久井城開城祭~合戦劇従軍レポート(2013)」

「報告!「津久井城開城記念~攻防戦(2012)」

「三増合戦まつり 従軍レポート(2013)」
以前の三増従軍レポートも記事文末に添付あります


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2019年5月24日 (金)

北条氏照の「大善寺」と「土方能」

マリコ・ポーロ


ご無沙汰してしまっています。ブログ屋さんのリニューアル以来、どうもブログ記事の投稿がうまくゆかず、筆が進まずにいました。これだけの大ブログ屋さんですからニューアルはそりゃあ大変なこととお察ししますし、どのブログ屋さんもいつかはやらねばならぬことなのでしょうから仕方がないですな。

今までのブログ記事も、開いてみると妙に行間が開いていたりしてカッコ悪く&読みづらくなっているものがありますが、そこんとこご容赦を。


▲ 峰岸純夫先生の講演 at 大善寺

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~観池山往生院「大善寺」堂内~


さて、
「旧八王子城を守る会」の盟主である、我らが!峰岸純夫先生の講演が、先日八王子の「大善寺」にて行われました。「大善寺」は我らが!北条氏照開基のお寺ですが、マリコ・ポーロとしたことが行ったことがありませんでした。この機会にと初めて参った次第。

開山は、八王子の名僧、我らが!讃誉牛秀上人(牛秀上人については文末添付のブログ「新選組と北条氏照の日野」をご覧くだされ)。天正13年に滝山城下に開かれましたが、八王子落城後は数回移転し現在は富士見台霊園として八王子大谷にあります。八王子駅からはバスで 7-8分+徒歩(行きは登り坂でけっこうあり、帰りは下り坂でそこそこある)。


徳川さんの頃もかなりの庇護を受け、広大な寺領と多くの伽藍を有し、末寺は23ヶ寺もあったそうです。また、明治の御世にも勅願所として寺勢を誇ったお寺とのこと。

だから、お寺のアチコチには天下御免の葵の御紋。我らが(←しつこい)三つ鱗▲▲▲をチビットだけでもいいからどこかに付けてくれぃ!


気になったのは、上の写真のお姫様。「機織姫」だそうです。

な~る。境内に織物の神様を祀る「機守神社」があり、さすが絹織物の町八王子!と感心したのですが、それでなのですね。姫様の隣の、葵の御紋のお厨子に神社の御本尊(つまり神像?)が納められているそうです。


そして、八王子の絹織物は松姫様からだとばかり思っていたら、八王子の絹織物は桐生からきているとのこと。へえ~~。

八王子の絹織物ではネクタイが有名ですが、八王子では、我らが三つ鱗柄のネクタイも販売されているのですよん。


「大善寺」は「お十夜」と呼ばれる十夜法要でも知られています。関東三大十夜だそうです。大善寺の十夜法要は、天正18年の八王子城戦での犠牲者(特に檀家の犠牲者)を弔うために始まったものです。

徳川さんの時代も続けられていたのは凄いと思いますが、いったん休止し、近年再開しました。模擬店や催しがあるそうですが、こちらもまだ行ったことがありません。


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~ホワイトボードの上に見えているのが先生、ボードの横が御本尊…あ、ちゃうちゃう!横が先生。上が御本尊の阿弥陀如来様。~


昨今、お寺さんも仏教行事以外の様々なイベントを行っていますね。我が家のお墓があるお寺でも、真夏の夜に本堂で「芳一」の琵琶演奏会(怖すぎるぅ)や落語や武術の会を開いたりしています。

大善寺さんも「お寺の学校」として月に一度講演などを開催しているそうです。この日の先生のテーマは「相模北条氏の武蔵新出と北条氏照の八王子入部」。本堂は満席。真剣にメモを取ってらっしゃる方もいて、ご著作の本も売れていました~\(^o^)/。


が、しかし!
どなたからも(道灌びいきの会でも)、何度聞いても、享徳の乱・長享の乱・永正の乱などを、聞いている時はフムフムと分かっても、それを人様に理路整然と説明できにゃい。不甲斐ないぞ、マリコ・ポーロ。


▲ 新作能「土方歳三」

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~土方歳三 新作能「BLUE Blood」~


さて、もうひとつ八王子周辺の話。

我らが土方歳三は、北条氏照の生まれ変わりであるからして、当然大々々々好き。(誰もが認める根拠?は文末に添付したブログ記事を是非!ご覧くだされ。)


今年の「ひの新選組まつり」は、ちょうど土方さんの命日である 5月11/12 日になりました。そうです!我らが北条氏照の命日も 11日でござりますな。

お能には、歴友さんが誘ってくださいまいた。


「BLUE Blood」は、重要無形文化総合指定保持者である観世流の能楽師山中迓晶氏が、土方さんの没後150年にあたる今年のために書き下ろした新作能です。土方さん役ももちろんご本人。若くイケメンです(面をかぶっちゃうけど…)。

客席には「誠」のハッピを羽織った和装の若い人も、お着物の地元の年配のご婦人や紳士もたくさん。お祭りの雰囲気が溢れていました。


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~駅も誠だらけ。駅員さんも誠の法被です。~

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~タクシーも土方さん!~


お能の会場で配られたのは筋書が書かれたパンフレットではなく、なんと、台本!
ドびっくり~(*_*)。

これは貴重ですねえ。


♪ 風吹く方に咲く花のぉ~
風吹く方に咲く花のぉ~
土に散り積み埋むらん

少年登場。
「これは土方歳三の身内に仕え申す。市村鉄之助と申すものなり。」


おお!鉄之助くんですか!いきなり盛り上がるぅ!

鉄之助くんがお琴ちゃんに語る、五稜郭での仕儀。差し出すのは片身の品。


そして土方さん登場!

「よしや身は。蝦夷が島根に朽ちぬとも。魂は東の君や守らん。」

テンションMAX!


語るは池田屋から伏見、流山(涙~)、沖田総司との別れ、仙台、蝦夷…

じ~~~ん💧


♪ 月見るごとに思うかな~
月見るごとに思うかな~
明日は屍の上に照る。
月の光に隠されて。
星の煌めき失せにけり~。
星は流れて失せにけり~。


堪能~。

そして我らも、失せにけり~。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

「土方歳三は北条氏照の生まれ変わりである」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/in-012e.html
「北条家ホームドクター田村先生の日野「安養寺」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-6642.html
「北条氏照と土方歳三の国府台城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-b174.html
「新選組と北条氏照の日野」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-2625.html
「麗しき、武田の「松姫さま御坐像」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-97b5.html
「『未完の多摩共和国~新選組と民権の郷』」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-be7c.html
「土方歳三の「宮古湾海戦」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-282c.html


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2019年2月27日 (水)

ただ今、小田原北条妄想中

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妄想と仮説が、あざなえる縄の如し状態に入っております。

某過去帳とか、道灌時代関係の某街道とか、某鐘&某陣場とか、そして、ブログでシリーズとしている「北条五代の娘たち」の二人の浄心院殿さまで、調べることや訪ねる場所が多く、ご無沙汰してしまっております。

仕事に行ってる暇もないし…いやいや、仕事は行かねばならぬが、通勤時間も休憩時間もそれらに捉われておりやす。落語も聞きに行けない…


浄心院さまと鐘のこと以外はブログには書けないので、もうしばらくブログの更新は出来ないかもしれませぬ。

みなさま、防災と花粉とインフルエンザと はしか にはくれぐれもご用心くださいませ。
ほにゃ。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2018年8月10日 (金)

今年は、ぼっち 八王子城 落城忌…かと思ったら(2018)

マリコ・ポーロ

 

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~炎天の御主殿に銘酒「氏照」を捧げる(撒いているの)図~


サル8月4日は今年の旧暦6月23日。我が八王子城が落城した日です。

このところ北条当主の娘たちに捉われ過ぎ八王子城とはご無沙汰しておりますが、「旧守る会」の残党衆としてはこの日ははずせません。旧守る会があった頃は、皆、都合がつく限り毎年この日に集まり「落城忌」を営んだものでした。


それでも昨年までは数人の残党衆で城山川のほとりで 直会(なおらい)を行っていました。ガイドさん達の宗閑寺での法要も、お寺さんの都合でなくなったそうです。

今年は一人か、チト淋しいぞ…と思っていたら!北条友の武将さんが参陣。いと心強し


その上、途中、残党衆たち何人かと出会いました。皆、一人でバラバラと来ていましたが、やはり八王子城を思う気持ちは皆同じ。良かった~。氏照や八王子城戦で命を落とした人達の、少しは供養になったかな。

恒例だった、般若心経を唱えながら武将と共にお参り。そして、献杯(銘酒「氏照」)。


今までで一番暑かった「落城忌」を終えました。


「八王子城~落城忌その1 チョット怖い?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-6bb4.html
「八王子城~落城忌 その2 幻庵の一節切はこんな音色?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-3914.html
「八王子城その1北条氏照 夢と覚悟の城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-c46c.html
「八王子城戦~前田家臣たちの証言と、彼らの驚きのその後」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-cfde.html

 

「土方歳三は北条氏照の生まれ変わりである」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/in-012e.html
「城跡の幻影~八王子城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-75cf.html

 

「【追悼】 椚國男先生」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-80b8.html
「【追悼】 北条氏照に会いに行かれた八王子衆」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-072c.html
「「八王子城とオオタカを守る会」が終わりました」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-bc9f.html

 

「八王子城の「庭園遺構」がより凄いことになっています!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-8c21.html
「報告▲八王子城の発掘調査見学会」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-cac0.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

 

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2017年6月28日 (水)

八王子城戦~前田家臣たちの証言と、彼らの驚きのその後

by マリコ・ポーロ

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~霧立ち込める御主殿にて合掌…(2017年6月落城月)~


今年もやってきました。八王子城落城 6月23日。


その前に…
先週、直虎さんが新野の次女と北条との縁組をすすめていましたね。お相手は狩野主膳。氏照の重臣、狩野一庵の息子です。

一庵殿は八王子城で壮絶な最期を遂げましたが、主膳殿はどうしたのでしょう。やはり討死したのでしょうか。としたら、新野の娘はどうなったのでしょう。


大善寺や相即寺には八王子城戦で命を落とした人々の、一部ですが、過去帳があります。『新八王子市史資料編』に載っていますが、主膳やその「内」の名前は見られませんでした。

主膳は氏照に付き従って本城小田原に入っていたのでしょうか。しかし、その場合も妻女は八王子に残されていたはずです。新野の娘は、舅や姑と共に八王子城で果ててしまったのでしょうか。

見せしめとされ、徹底的に皆殺しとされた八王子城には、一門の内から嫁いできた女人だけではなく、新野のように他家から嫁いできた女人もいたのでしょうね。なんだか可哀想だわねえ


狩野主膳家がその後どうなったのかと思いましたら、小田原が終わったあと→主膳の息子は徳川方木俣氏の養子となり→江戸時代は井伊家の家老などを勤めたようです。

へえ~~。


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~戦国時代の「平和」とは、権力者のための「平和」。敵もやってこず、安心して自領を支配できる「平和」とのこと。最近のテレビドラマにみられるような「民衆のために求めた平和」という意味ではないそうです。~


本題の、前田家臣達の証言です。


岩付も落ち、鉢形も降り、24日には韮山が、25日は津久井も開城。そして、26日には、秀吉が、早雲寺から小田原の 負の遺産 のちに石垣山一夜城と呼ばれる笠懸山(松山)に移りました。いよいよ、本城小田原開城までのカウントダウンが始まります。

天正18年の経緯については今までドッチャリと書いてきておりますので、先のブログ記事(カテゴリー「八王子城と北条氏照」)をご覧くだされますと嬉しいです。


さて、八王子城落城月のサル一日、八王子市史編さん委員でもある八王子衆、加藤哲先生による講演会がガイダンス施設で催されました。主催は、NPO八王子城跡三ツ鱗会。

惣無事令「と、最近いわれることもあるもの」に投げかけられている疑問符について、最新の説を分かり易く解説してくださいました。


今の歴史の教科書に書かれていることは、戦国時代に限らず、私達の時代とはかなり違っていますが、惣無事については、こう ↓書いてあるのですね(山川出版社『詳説日本史B』)。

▲ …関白になった秀吉は、天皇から日本全国の支配権をゆだねられたと 称して、全国の戦国大名に停戦を命じ、その領国の確定を秀吉の裁定に任せることを 強制した ⑧。…

この政策を総無事令と呼ぶこともある。▲(赤字とアンダーラインは、マリコ・ポーロが致しました。)


ドびっくり~\(^o^)/

何故かバンザイ。随分と変わりましたね~。


加藤哲先生は高校の歴史の先生です。今年初めに講演会へ行った則竹雄一氏もそうですよね。お話しも上手で、私の学生時代もこういう先生方だったら良かったのにな~。歴史の授業が嫌いにならないで楽しみになっていただろうな~。私が通っていた中学や高校の歴史の授業、ただ年号と出来事を時系列に話されるだけで一時間が長くて辛くて。それなら年表読むわ、と思ったものでした。


おっと、そうそう。話を戻し…
停戦命令は、関白だから ではなく、信長の後継者だから 出したと考えるのだそうです。その根拠も様々な方面からの検証で説明してくださいました。


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~大手から御主殿に向かう橋の上から、御主殿虎口を眺める(2017.6)~


講演の中で特に興味を惹かれたことがあります。それは、江戸初期に書かれた、八王子戦に参陣した金沢藩前田家の家臣たちの戦功の覚書です。

市史に載っているそうですが、見ていませんでした。
(^^;


八王子城の壮絶な戦いは、八王子城兵だけではなく攻め手側にもたいそうな犠牲が出ました。前田利家や榊原康正らは、八王子城を落とすのに非常に難儀したことを手紙に書いていますよね。

かつて「八王子城とオオタカを守る会」の重鎮Y殿は、利家が遺言状でも八王子の戦についてかなり触れているということは、あまたの戦を経験した利家にとってさえも八王子戦は印象的な戦だったのだと思うとおっしゃっていました。


覚書についての加藤哲先生のお話しを聞いていて、戦功を証言した家臣達はどういう人達なのだろうか、どの程度の地位の家臣なのだろうか知りたくなりました。チト検索してみましたところ、興味深いことが出てきたのです。



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~旧道から見上げる柵門台下の石垣~


まずは、証言の覚書を抜粋。もっと詳しくちゃんとお知りになりたい方は、市史をどーぞ。


横山山城守(横山長知・利長家臣)

…塀際に付き、矢きりを切り落として一番に乗り申したところ、城中の者きびしく防ぎ、大身の鑓にて左の膝頭をつかれ石垣の下へ突き落され、歩くこと叶わず…


横山如雲(山城守甥)

…一番乗りをされた山城守様が塀の上より石垣の下へ突き落されたところ、御舎弟五郎殿(16歳)が山城守様を助けようとしたが、御母衣が石垣に埋まってしまった。脇差にて母衣籠を切り離し山城様を引き立たせた。御家来衆が追々駆けつけ、五郎殿は本丸へ攻め登った…


向七兵衛

…横山山城殿・太田但馬殿(太田長知)の御両人は手負いとなったため、私ひとり残り、塀へ乗り、名乗りしたところ鉄砲で胸板を撃たれた…


山崎作右衛門尉

…閑斎(山崎長徳)と共に隅の櫓の下まで罷り越し、塀を乗り越えようとしたところ鉄砲に撃たれた…


堀覚左衛門

金子 と申すところを朝懸けに攻め、金子三郎左衛門という者を討ち取った…


今井才右衛門

…一番の丸(山頂曲輪ではなく御主殿だろう) 多門へ、宇野平八・印牧次郎兵衛と共に一番乗りを仕り、矢簾を切り落とすところ、三人共に鑓手を負った…


どの覚書にも、「この働きは、ダレソレがよくご存知です」と必ず書かれています。山城守殿や山崎殿がいたのはどこだったのでしょうね。堀殿の金子曲輪しか分からないところが残念なり。


八王子城ファンの私は、いつも守る側の立場からばかり見ています。ご本人方の申告なので話を盛っているところもあるとは思いますが(胸板を撃たれても助かっている?←by 加藤先生)、麓から山頂に向かって攻め上ってゆく寄せ手の困難さがビジュアルで迫ってくるようです。彼らは利家や利長にとっても側近中の側近だったのでしょうが、それでも最前線で一番乗りを争って戦っていたのですねえ。

その日は、こんなシーンが、深夜から翌朝にかけて城のあちらこちらで繰り広げられていたのでしょう。


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~外郭の太鼓曲輪の大堀切。遥か下方に人がいるのが分かりますか?八王子城はどこもかしこも急峻である。~


そして、戦功を述べた彼らの、その後のこと。

なんと、上の覚書に出てくる横山山城守、山崎閑斎、太田但馬、そして前田利長の間で刃傷事件が起きたのです!


ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、慶長7年(1602年)、前田利長の命により、横山山城が太田但馬を、城内にて殺害したそうですよ!

当初は、山城殿と閑斎殿の二人で事を成すはずだったのが、閑斎殿が遅刻してしまったので 山城殿が一人で実行に及んだそうです。太田殿もかなりの反撃をしたそうですが、力尽きてしまったとのこと。


前田さんちにはトント疎いので私には理由はよく分かりません。徳川派と反徳川派の争いだったとか、妾を取り合ったとか、果ては狐の仕返しだったとか色々言われているようです。

ご興味ある方はどーぞお調べくださいませ。


しかし。八王子城の最前線で一緒に戦った3人が、10年後には城内で殺し合っていたとは…。

そんな時代であったことよ。


八王子城戦で犠牲となった方々に献杯


「八王子城落城~北条氏照の残・念」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-4eae.html
「今夜半、八王子城総攻撃始まる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/420-9797.html
「八王子城落ちる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-0e49.html
「八王子城、戦い済んで日は暮れて・・・」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-1bb4.html

「アフター北条氏照の大久保長安についての妄想」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-6cc6.html
「報告▲八王子城の発掘調査見学会」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-cac0.html
「八王子城の「庭園遺構」がより凄いことになっています!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-8c21.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2017年6月22日 (木)

6月23日、八王子城は今年も落城す

Img20150621_085403
~霧たちこめる御主殿~


八王子城 6月22日

427年前の今頃、すでに本城(小田原城)は連合軍に四方を囲まれ、わが八王子城にも敵は北東から迫りつつある。

そして、今夜半、エピローグの幕は開く!


以下、アーカイブです。リメンバー 八王子城。

http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-4eae.html



6月22日夜半、火蓋は切られる

▲ 降伏した大道寺らを先頭に立たせ、かつて小田原攻めの時に武田信玄も渡った大神(昭島市)→ 平(八王子市)へ多摩川を渡河し始める。時刻は現在の午後10時頃ではないかと言われる。

見上げれば、月は満月よりすこし欠けていた。


霧が出はじめた…

出始めた霧は次第に濃くなり、月は隠れ視界は閉ざされる中、午前1時から2時頃、大手・搦め手とも攻撃は始まる!

http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/420-9797.html


Img20170622_225047_2
~宵闇迫る八王子城遠景~


6月23日未の刻

八王子城落ちる
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-0e49.html


それからの横地監物

「檜原の残影」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-f195.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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