2016年3月29日 (火)

八王子城「橋の渡り初め」と現代の匠?の石垣

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~市長はじめ関係者列席の式典後、ガイドの甲冑隊の先導により、いざ渡らん!~


老朽化による建て替えのため長らく工事中だった、御主殿への導入経路である橋が完成。サル3月26日の「渡り初め」に行って参りました happy01

先代の橋は木造でした。橋脚なんて青森ヒバの一本木だったのですが、それでは耐久性がないため、こたびはH鋼桁やらいう鉄骨製となったそうです。表面は樹脂と木材を特殊加工した再生木材が使われているので、見た目や触れた感じは木造のようでした。


この橋は、以前は「曳橋」と呼ばれていました。しかし、当時、曳橋だったかどうか不明なため、今は「曳橋」とは呼ばないことにしようということになっています。

また、架かっていたポイントはもう少し下流だったとのことです。高さも、いま少し低かったそうですが、それだと城跡整備の大型車両などが通れなくなるため、この高さは致し方ないとのこと。


いずれにしても、これでまた正規のルートで登城できるようになりましたね。

まあ、城跡レンジャーの皆さんは正規のルートではスペクタクルではない!とお思いでせうが、そういう方々、これからの季節はマムシにくれぐれもご注意くだされませよ。


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さて、話はチビッと遡り、橋の工事中のこと。


北条時代の石積みが出てきたとの噂を小耳にはさみ、 見に行った。(写真)

なんだか新しい?と思って聞いたら、昭和26年の発掘の時にすでに出てきていて、その時崩れていたのを積み直した、と。

でも、やっぱりなんだか違和感。なんでここだけ? スッキリしない。「渡り初め」の時に、そのことも伺ってみたところ・・。

もともと北条時代のものではなく、26年に護岸の補強 のために施工業者が積んだものである、と。

大手石垣の復元に携わった石工の方たちが戦国期の積み方に慣れてしまって、こちらもそのように積んでみてしまったのだ、と。


なんと、現代の匠の仕業でしたかー。私なぞ石垣が良く分からないので、信じてしまうよ。あぶニャイ、あぶニャイcoldsweats01

よくありますよね~。明治時代の農家のオジイサンが巧みに積んでしまったのを、戦国期のものだと間違えられて伝わっちゃってる・・なんて話。


ということで、私から「北条か大久保時代の石積みだよん」と聞いた方々、そして、私と同じようにこの石積みを見て「おっ!」と思ってしまった方々。そういうことですので、そこんとこ、よろしく!

あ、あと、昨年、「矢竹が全部切られている」と書きましたが、これも整備の方に伺いました。鬱蒼とし過ぎて生育が悪くなっていたため、いったん伐採したそうです。すぐ元気なのが生えてくるから大丈夫とのこと。先のブログ記事は書き換えました。


世の中には色々な事情があって、色々と確かめないで色々と書いていてはいかんのう。

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~「武蔵名勝図会」。文化文政の頃に描かれた八王子城の絵図。こんな感じが一番好きだ。~


萩真尼

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2016年3月10日 (木)

「武田の松姫さま」坐像が御開帳されるそうです

いくら敵だとて、何故あそこまでの演出をしなければならないのか。まあ氏政に関しては、(少し下品とはいえ)凄いヤツだということが伝わり、今までのアホ扱いよりはマシかもしれませんが、あぁ~ crying 氏直さん・・・。

悲し過ぎて腹も立たず、この先の名胡桃事件を考えると暗澹たる思いになり、なんだか虚しくなってしまっていてブログ記事を書く気にも、北条スポットを訪ねる気にもなれませんでした。


もう北条ファンはやめようかと思っていた(←うそ)、そんな ドヨ~~ン とした気分でいたところに、八王子の方から少しテンションが上がる矢文を頂戴しました。ありがとうございますhappy01


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~八王子の方からいただいた心源院のパンフレット~


(加筆 4/14
その後、心源院にてお参りしてきた時のブログ記事です→「麗しき、武田の松姫さま御坐像」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-97b5.html


当ブログでもたびたびたびたび!書いている武田信玄の娘「松姫さま」。その没後四百年にあたり、信松院におわす松姫坐像が御開帳されるそうです。

天正10年。武田家が滅びたあと、松姫さまは峠を越え我らが殿・北条氏照の本拠地八王子に逃れてらっしゃいました。その後、北条氏照の庇護の元、氏照の師である名僧卜山舜悦(ぼくざんしゅんえつ)禅師により剃髪をされ、あらたな人生を八王子の地で送りその生涯を終えました。


話を少しそらしますが、北条氏照は武田の遺臣をかなり引き受けているのです。

例えば、こちらも前にご紹介しましたが、八王子城落城後に亡骸一体一体に引導を渡してまわった「牛秀讃誉(ぎゅうしゅうさんよ)上人」という八王子では有名な僧がいます。このお上人も武田の遺臣です。


話を戻し。
こたび御坐像は、卜山禅師ゆかりの心源院と宗関寺へ「初めてのお墓参り」に周られるとのこと。

なんて素敵shine
淀んでいた気持ちに、清らかな水が流れ込むよう。


また、「守る会」がなくなって以来、八王子の情報がほとんど入らなくなり、八王子城の存在が心の中からどんどん遠のいていく今日この頃。教えてくださり本当にありがとうございました。


▲ 御坐像の、卜山禅師お墓参りの予定は下記の通りです。

wine 平成28年4月9日(土)
10:00 信松院 出発

11:00~13:00 宗関寺にて御開帳

14:00~16:30 心源院にて御開帳

松姫さま、タイトスケジュール~coldsweats02

wine 4月10日(日)~15日(金)
各日10:00~15:00 心源院にてご開帳


wine 4月16日(土)
10:30 心源院お発ち

12:00~ 松姫様大行列
(八幡町交差点より稚児行列で出発)

13:00~ 産千代稲荷神社にてご休憩
大久保長安殿ご参拝

14:00~ 信松院ご到着
大法要

松姫さま、ハードスケジュール~coldsweats01


詳細はそれぞれのお寺のHPなどをご覧くだされませ。

氏照のことはもとより、卜山禅師と氏照の関係にもまったく触れられていないのはチト残念ですが、千人同心の町にある徳川さんのお寺なので仕方にゃいか。→信松院さんのHP
http://shinshouin.or.jp/info/info-index.html

「武田遺臣のマドンナ 松姫さま」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-fab5.html
「アフター北条氏照の大久保長安についての妄想」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-6cc6.html
「恵林寺で見た、松姫さまの手紙」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-d207.html
「檜原の残影、横地監物と武田の松姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-f195.html
「続・武田勝頼の正室、桂林院さま」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-7141.html
「武田勝頼に嫁いだ北条の姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-c799.html
「歴史秘話ヒストリア~武田信玄の姫たち」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-50fa.html

牛秀讃誉(ぎゅうしゅうさんよ)上人のこと少し→「新選組と北条氏照の日野」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-2625.html

卜山禅師のこと少し→「北条氏照と、八王子城の神や仏 その2」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-e0cd.html


真萩尼(マリコ・ポーロ)

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2015年9月 1日 (火)

【追悼】 椚國男先生

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~「戦国の終わりを告げた城」は、新しい発掘が続く今でも私のバイブルです。~


かれこれ5年前のことになります。

今は無き「八王子城とオオタカを守る会」の、最後の「山上の集い」の時、殿の道を椚國男先生と一緒に歩きました。


40年の活動が続いた「旧八王子城とオオタカを守る会」では私は新参者で、入会した頃にはすでに会の顧問でもあられた椚先生はご体調があまりすぐれず山頂までは行かなくなってらっしゃいました。

八王子城に椚先生と登城したのはそれが最初で最後で、あとはもっぱら玉川亭での、歴史や古墳についての飲みトーク beerbottle になっていました。(椚先生の本来のご専門は、古墳でした。)


「久しぶりに八王子城に登るから、運動靴を洗ってきたよhappy01

その時、真っ白なスニーカーで嬉しそうに笑ってらした椚先生のお顔が目に浮かびます。


この八王子城には敵味方どれだけの人達の血や汗や涙が染み込んでいることか。遺体だってたくさん埋めたことでしょう。登城者はその上を歩くのです。

真っ白な運動靴からは椚先生が八王子城に寄せる畏敬の念が伝わってきました。


椚先生は筆まめな方でした。先生にお手紙などを出されたことのある人は、万年筆で丁寧に書かれたご返信をいただいていることと存じます。どれも拝読しているだけで涙が出てくるような八王子城に対する想いが綴られたお手紙でした。

先生はネットをご覧にならないので、当ブログの八王子城に関する記事はプリントし不定期的にまとめてお送りさせていただいておりました。そのたびに、八王子城ラブheart01に溢れた感想や内容についてのご指摘が書かれたお手紙を頂戴しました。


先生、本当にありがとうございました。

氏照どのや、横地殿や、布施殿や、金子殿をはじめとする八王子衆、そして、山本さん、佐々木さんをはじめもっと前に先立たれた八王子城の先達方と、銘酒氏照を飲みながら当時の話に花を咲かせてくださいませ。


奇しくもそれは、今年の、八王子城がその使命を終えたと同じ6月の初旬のことでした。

願はくば
城の元にて
夏 しなん
その水無月の
落城のころ


もちろん西行のパクリですが、八王子城と北条氏照を愛して愛して愛しぬいた椚先生のお気持ちはこんなだったかなと勝手に考え、追悼の記事をとさせていただきました。

合掌
(御葬儀は先生のご希望でご家族による密葬で営まれました。)


「椚先生と歩いた殿の道」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-02f7.html
「八王子城とオオタカを守る会の活動が終わりました」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-bc9f.html
「北条氏照に会いに逝かれた八王子衆」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-072c.html

紅花


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2015年4月 9日 (木)

八王子城、消えた橋と現われた石垣

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~ピンクのラインに橋(現代の)が架かっていた。~


八王子城には今まで何十回登城したかもう覚えておりませんが、守る会が解散して以来ここしばらくは登っておりませんでした。

久々に登城する八王子城は、かなり変化を遂げていて驚きました。


とある桜満開のある日のこと cherryblossom 旧八王子城を守る会(兼 氏照ファンクラブ?)の面々、総勢14名で久々に集い、昨年後半に北条氏照の元へ旅立っていかれた八王子城衆重鎮3人の追悼登城をして参りました。

(業務連絡。いらっしゃれなかった元事務局長、重鎮Sさん、お嬢さんの御結納だったTさん、子育て中のKちゃん等々、お会いできなくて残念でしたよ~。)


さて、

▲ まずは、橋(トップの写真)

皆さまご承知のように、上の道(大手)を歩いてきて御主殿に向かう時に渡る観光用の橋がありました。それが老朽化のために架け替えとなるそうです。


もう架け替えですか~。思えば、架けられたのは400年記念の年でしたから25年も経つのですねえ。位置も違い、形状も違う(たぶん)橋が、四半世紀も八王子城の登城口の顔だったわけですが、違ってはいても馴染んでしまっていましたよねえ。

城の権威を示す橋ですから当時もそこそこは立派だったとは思います。しかし、個人的には、およそ坂東の戦国期の山城に似合わない、あの伊勢神宮のような橋が我が八王子城から無くなっているの好きなのですが・・ごにょ(伊勢神宮は良いのですよ、神宮ですから)。


このままにしていてほしい。当時の橋は、そこに立って脳内妄想するから。そもそも、当時どんな橋だったかは定かではないのだから、もう架けないでちょ。

と、城跡妄想族達は願うものの、また架けられてしまうそうです。やんぬるかな・・crying


予算も使わなきゃならないから、また大神宮のような立派な橋が架かるのでしょう。

せめて説明板には、「これは大手への導入経路を示す橋であり、本来の具体的な姿や規模は分からない。曳橋でもないかもしれない」旨を明記することを心よりお願い致すものでござります。新文化財課長様、本当に本当に、よろしく、よろしくお願い申し上げます。


橋が無い大手で妄想出来るのは、あとわずか!


▲ 御主殿の奥の石塁

御主殿では、発掘された庭や焼け焦げ付きの疎石はすでに埋められ、あの感動的な光景を見た者にとっては全然つまらな・・・いや、そんなことはにゃい。是非、行ってくだされ。


というわけで、御主殿に入るやいなや、ワーイワーイ \(^o^)/と思い思い四方八方に散る中高年(含むわらわ)八王子衆。

中央部がつまらなくなって・・いや、すでに散々見ているので、何故だか皆自然に隅っこや山裾ばかりをチェックチェック。)

すると・・・


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御主殿の左奥の、林野庁の持ち物でロープが張られ草ボウボウだったところがありましたよね。ロープが無くなっていました。

あれっ?と思って行ってみましたら、下草も刈られスルスルと入れるようになっていました。ワーイ\(^o^)/。以前はロープを乗り越えてガサガサ藪に入らなきゃならなかったものねえ。これっ!angry


入ると、右手には一段高く方形の曲輪がありますでしょ。宝蔵があったとか、奥殿があったとか、照どのの仏堂があったとか言われているアソコです。こちらも下草が刈られ、方形の曲輪の姿がよく分かるようになっていました。


ここを真っ直ぐ進むと、写真の石塁が現れます。この崩れしままに感。いかにも八王子城らしいですよねえ。なおも進めば水口方面になります。

いつまでも麓をアチコチ探検していて、なかなか上へ行けない八王子衆。上へ行けば行くで益々時間がかかるけど。


本当に久しぶりの「殿の道」。それまで何十回も登っているのに、草や木や、石や、秘密の脇道や、眺めや、空や雲や・・・ひとつひとつについて、過去から現在に渡る様々な話をしながら登りました。

松木曲輪でのお昼は、みんなで持ち寄ったお弁当を分けっこしながら、氏照と八王子城戦で命を落とした城兵達と、現代の亡き八王子衆へ、「献杯!」


下りはハイキングコースから旧道へ。


▲ 一番見たかった、柵門台下の石積み

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~昨年の崩落で現われた柵門台下の石垣を旧道から見たとこ。ワーイワーイ \(^o^)/ とよじ登る中高年(含む私)八王子衆。~


おおーーっ!
あがる歓声。

やっと見られた!テンションMax!これが下からず~っと続いていたんだよね~。うっとり~。


以前は、一部分出ていた箇所を上のハイキングコースから覗く程度だったもの。おかげで、旧道も整備されて通れるようになったし。嬉しいねえ。


「はじめに石垣ありき」の関西の城郭ファンにとっては、「なんで、こないな程度の石積みで興奮するんやろか?」 だとは思いますが、興奮するんですよ。これが。特に八王子城などは、何百年も埋もれていましたからね。


そうそう、八王子城のここの石垣を「登り石垣」といわれることがありますが、景観としては登り石垣でも、厳密にいうと登り石垣ではないそうですよ。説明を受けましたがワテには難しくてよく分かりやせんでした。


▲ 矢竹が無い!

松木曲輪の一段下の長方形の曲輪も藪が払われ、形状がよく見えました。

そして・・・

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山頂曲輪から小宮にむかう道に群生していた矢竹も全て刈り取られていました。

すわっ!いよいよ臨戦体制で大量に武器製造か!

いえいえ、整備の方に伺ったところ、鬱蒼とし過ぎて生育が悪くなっていたため、いったん伐採したそうです。すぐ元気なのが生えてくるから大丈夫とのこと。


▲ お宝ザクザク

この日は、殿の道はじめ城内の そこここ で、いかにも古そうな染付のカケラがいくつか土から少し顔をのぞかせているのが見受けられました。

こ、こ、これはっ up

教育委員会に届けねば!あ、いや、でも、カケラはもうたっくさん持ち込まれているからにゃ~と、いけない考えが頭に浮かんだところ・・・

どうやらそれは、確定ではないが江戸時代頃の物らしいとのこと。


にゃ~んだdown

八王子城には、実は江戸時代から近代まで住んでいた人達がいます。もしかしたら、つい先頃まで中の曲輪に住んでいた方が使っていたお皿のカケラかもしれないね。ガックリ。


そんなこんなで、今回はひとつの所に時間がかかり過ぎて主要部しか廻れませんでしたが、長年に渡って八王子城の保存やガイドに携わってきた方達と城を歩くことはなんて濃くて、なんて楽しい。

この方達の八王子城&氏照ラブheart01の気持ちや、八王子城や氏照に関する厖大な知識を受け継ぎ、広く会員を募って発信したりする保存会がないのは非常に残念です。


まあ、また新たに誰かが始めていけばいいっつう話ですが、これまでは、その「新たに始める人達」の第一歩が「旧守る会」が定例で行っていたガイドツアーだったのですよねえ。

それに、作ればいいっつったって一筋縄ではいかない。こういう会をうまく運営するには誰もが一目置く「盟主」の存在が必要なのです。今私が参加している「道灌びいき」の会には太田の殿がいらっしゃるし、旧守る会には、八王子城の重鎮である椚國男先生と峰岸純夫先生がいらっしゃいましたものね。

もったいないねえ。


以下は、当ブログで八王子城や北条氏照を書いた一部です。一部とは申せ物凄い量ですが、カテゴリーを分けましたゆえ再読たまわれば、いと嬉し。

horse なんちゃって調査研究

「八王子城の庭園遺構がより凄いことになっています!13.11.16」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-8c21.html
「報告!八王子城の発掘調査見学会 13.8.11」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-cac0.html
「北条氏照の首級はどこに」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-df65.html
「アフター北条氏照の大久保長安についての妄想」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-6cc6.html
「続・由井の源三 こと 北条氏照」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-d478.html
「由井の源三 こと 北条氏照」
http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=65894702&blog_id=648629

horse 当ブログのカテゴリー「北条一族最後の3ヶ月」の中より八王子城だけ抜粋

「八王子城落城、氏照の残・念」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-4eae.html
「今夜半、八王子城総攻撃始まる」
http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=63711299&blog_id=648629
「今日、八王子城落ちる・・」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-0e49.html


horse 当ブログを始めた頃に熱情のままに書いた八王子城紹介記事

「北条氏照と八王子城の神や仏 2」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-e0cd.html
「北条氏照と八王子城の神や仏 1」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-fd79.html
「武田遺臣のマドンナ、松姫と八王子城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-fab5.html
「北条氏照の葛藤」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-3c27.html
「北条氏照~夢と覚悟の城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-c46c.html

horse 八王子城を歩いて妄想する

以下は、かなり昔に書いた八王子城のことです。あれから発掘調査や研究も進み随分と変わっていますので、ご参考までに・・ということでご覧くだされば助かりまする。

「戦国時代の八王子城を歩く~山上の曲輪群と詰の城 11.1.13」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-766c.htmlhttp://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-766c.html
「現状と、殿の道 10.12.16」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-02f7.html
「八王子城を歩く~中腹 10.4.5」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-4ecb.html 
「八王子城を歩く~山麓 10.3.21」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-5517.html
「16世紀と21世紀の狭間の空間へ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-d699.html

horse なんちゃって小説
「城跡の幻影」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-75cf.html


萩真尼


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2014年12月 8日 (月)

小田原攻め、北条氏照の本陣

小田原の早川口に「報身寺」というお寺があります。籠城中の、我らが北条軍団軍団長・北条氏照の本陣だったそうです。

本陣のことは、先日のブログ記事「松平文庫の小田原陣図」でも書いた「小田原陣図」で知りました。「陣図」の中に、「陸奥守本陣」として「法心寺」という記載があったのです。


ちなみに、この「小田原陣図」とは、よく見る毛利文書(毛利家文庫)の「小田原陣仕寄陣取図」ではありません。島原市立図書館蔵の「松平文庫」にあるものです。

吉川弘文館の黒田基樹著「小田原合戦と北条氏 2013.1」のP168に、「小田原陣仕寄陣取図」と「小田原陣図」は 『いずれも毛利文書』 とありますが、違います。「小田原陣図」は松平文庫にあります。毛利家文庫にも、小田原にも確認致しましたので間違いありません。「小田原市史別編城郭」にも、松平文庫とあります。


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~浄土宗 永劫山報身寺。私が立っている背後が海。~


こほっ
気を取り直し・・・catface


先のブログ記事の繰り返しで恐縮ですが、当時の小田原城がいくら広大とはいえ、城内に「陣」を構えているとは考えてもいなかったので驚きました。じゃ、どうしていたと考えていたのか?

と言われると困るのですが、照どのの持ち口は早川。屋敷もその近くなので、なんとなく、屋敷をベースにしていたと漠然と思っておりましたよ。


さっそく様々な地図を広げてみましたが、「法心寺」というお寺が見当たりません。仕方ないのでネットでも検索してみましたが、書かれているのは七福神のことで北条関連のことは出てきません。

400年の間に他のお寺と併合されたのか、廃寺となったのか。どうしても分からないので文化財課さんへ伺ったところ、それは「報身寺」であると思われるとのこと。


大昔は、漢字は当て字が多いですものね。ということで、フィールドワーカーのマリコ・ポーロとしては見聞、見聞。行ってみなければ分からない。


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報身寺の創建は、寛正4年(1463)。室町幕府は足利義政の時代ですね。明治になって近くの潮音寺と合併されたそうです。

潮音寺には、建武の中興で失脚し鎌倉に護送される途中で殺害された公家のお墓があったので、創建は報身寺よりは古いということになりますな。お公家さんのお墓は、今は報身寺さんがお守りしているそうです。


報身寺さんには、鎌倉時代作の潮音寺の阿弥陀如来立像がおわします。小振りでスラリと端正な佇まいの、美しい阿弥陀様でした(普段は拝見できません)。南無。

また、報身寺さんの方は、潮音寺の阿弥陀様と同じ頃に制作されたと見られる「阿弥陀如来画像」をお持ちです。国の重要文化財で東京国立博物館へ寄託されていますが、年に一度は公開されるとのこと。タイミングが良ければ拝見できますね。


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~境内にある石塔と石仏。由来を伺うのを忘れた。~


話は潮音寺へ逸れますが、とても気になることがまた出来てしまいました。

当時、潮音寺の寺域は873m四方もあったそうです。江戸時代の古地図には見られますが、大寺だったんですねえ。いただいた潮音寺関係の資料を読むと、潮音寺は、

「小田原攻めの時に残らず焼けて、その後再建された・・・」

 とあります。

はて?小田原攻めの時、小田原に火を放たれたのですか?しかも、氏照どの本陣のすぐ近くですよ。氏直の投降を知り、もうアカン…くそうっ!とばかりに氏照が自ら火を放ったのでしょうか。初耳です。スッゴク気になるんですけど。


本陣の目の前は海 ↓。天正18年、我らが最強の軍団長はここにシッカと立って、おサルの陣を睨み据えていたことでしょう。

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~境内から海を眺める。現代は西湘バイパスが通っている。~


「小田原攻め、松平文庫の小田原陣図」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-2808.html


萩真尼

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2014年11月10日 (月)

稲葉山城になった八王子城

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~某番組のワンシーン~


「信長協奏曲」というテレビドラマをご覧になっていますか?

現代の普通の高校生が戦国時代にタイムトリップし、そっくりさんの信長の替りとなる・・・という、今流行りのタイムトリップものです。


高校生はどうも歴史の勉強が苦手だったようで、戦国時代の人物の名前も、これから先に起こること(自分が起こすこと?)をよく知りません。もちろん、信長の最後も知らないの bearing

高校生は、悩んだり、迷ったり、泣いたり、笑ったりしながらもこの時代で信長として生きてゆく覚悟を決めます。ところがそこで、替わってもらった本当の信長の方はというと・・・それは、今夜の放送で分かるようです。


ファンタジーですが、これがなかなか面白い。奇想天外さにかけては大河「軍師官兵衛」よりは劣りますが←bleah、大河よりは遥かに楽しい。

斎藤道三はすでに亡く、桶狭間も終わってしまいましたが、先週はちょっと変わったものが写りました。


なんと、八王子城が龍興の稲葉山城として使われていたのです!皆さん、気が付かれました?

実は私は気が付きませんでした。ほんの2秒ほどのそのシーンに、城オタクの北条友が気が付き写真を撮りました。テレビの画像をこういうところ(ブログ)に載せてはいけないのかもしれませんので、マリコ・ポーロを読んでくださっている後北条マニアの皆さんだけに一瞬だけ(?)。それが・・・


トップの画像じゃ!

何百年も巣くっている アヤカシ達 がいそうな、森の中の天守…。こりゃ、奇怪(きっかい)じゃ。


そして皆さん、CGで使われているこの天守はどこの天守でしょう?

またまた別の城友さんが教えてくださるには、諏訪高島城ではないかと。天正末期の城に、文禄・慶長期の復興天守。う~む、シュールだ。


しかし、こういうドラマや漫画やパロディーが出来るのも、信長の元の歴史が有名だからですよねえ。「つねちゃん」とか「もりりん」とか家臣の名前も周知されているしね。

小田原北条の歴史は全国区的によく知られていないし、いわんや家臣の名前なんかにおいてをや。後北条ファンタジーや後北条パロディーは難しいね。


くれぐれも申しておきますが、「信長協奏曲」はファンタジーですからね。時代劇ではありまへん。


「安土城に妄想警報が出た日」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-b7fd.html


萩真尼

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2014年10月 8日 (水)

氏照の史料も充実 「新八王子市史♦中世」

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~表紙は我らが八王子城の御主殿虎口。蒼い空にはオオタカが舞う(ピンクの矢印)。なんて素敵heart01。なんだか、氏照どのの城の上をオオタカが飛ぶのを見るだけで胸がキュッとする。~


北条家の男色のことなぞ書き連ねていたら(前回のブログ記事)、8月1日に刊行された「資料編2♦中世」が本日到着。


またまた、ドびっくり~!なことがあったのですが、その前に、本の内容は・・・

▲ 第一章
古文書・記録・軍記物・金石文が年月日順に掲載。
平安時代末の横山党の記事から始まり、氏照に関する史料は管見のかぎり全部取り上げられているとのこと。

▲ 第二章
第一章に登場する人名に関わる系図7点。
小川、西党、小野氏(横山)、長井、天野、木曽大石(下柚木・伊藤家文書)、北条氏(高室院文書)。

▲ 第三章
聖教類の奥書。

▲ 第四章
市内所在の中世文書。

▲ 第五章
中世の遺跡。
八王子城、浄福寺城、滝山城、小田野城などがたっぷり~♪

▲ 第六章
板碑、五輪塔、宝篋印塔、金工品。

石塔については、DVDの付録付

Img20141008_212232


ちょっとだけパラパラとめくってみて、高室院文書の北条氏系図で、さっそく ドびっくり(*_*)。

小田原北条氏の祖が、前北条(鎌倉得宗家)の北条高時の次男の北条時行になっている!北条時行って、足利尊氏や新田義貞によって鎌倉府が滅びた後、鎌倉府を奪還しようとして、いわゆる中先代の乱を起こした人でしょう!? ← 最近「大河 太平記」にはまっていたのでsweat01


吉野先帝八宮東国御下向時
逢難風自天流灘吹モトサル
伊勢国へ上ル名字改
号伊勢

ですって!
八宮の関東への下向の時って、武蔵野合戦の時のことですかね?そんなふうに書かれていたんですねえ。知らなかった。面白いねえ。

えっ?まさか本当じゃないですよね?もしホントなら、はるかに時は下って関東を取り返し、北条姓に戻す…ということは自然な流れですよね。あ~、眠れない!どなたか、教えてくんなまし。

(その後加筆▲やっぱり北条得宗家のわけなかったですね。冷静になって考えたら、伊勢家の祖は足利尊氏の家臣だものね。)

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「横山党や船木田荘、由比本郷天野氏、長井氏および大石氏、そして、とりわけ滝山・八王子城主として知られる北条氏照の活動に関わる資料は、可能な限り収録しています。(あとがきより) 」

なかなか遠征できなくなった身としては、厚さ約5cm、重さ約2Kg。これはこれは筋力もアップしそうだし rock、読みでもありそうで、嬉しい限り。


八王子あたりの在でない方は、現金 3千円 + 切手 460円 を八王子市史編さん室宛に送れば、送付してもらえます。詳細は市のHPをご覧くだされ。
http://www.city.hachioji.tokyo.jp/seisaku/13570/044926.html

ついでに、こちらもいかが?氏照のことが載っています。
「八王子市史研究」第4号
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-f3b9.html
って、私が宣伝するのもなんですが・・・

「後北条一族の高野山3~小田原坊」←高室院のこと
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/3-6cea.html


萩真尼

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2014年9月 4日 (木)

約400年ぶりに八王子城へ戻った横地監物

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~八王子城にある横地監物の「横地社」~


我らが北条氏照の重臣である横地監物の足跡を追って、昨年の夏に檜原を訪ねたことを思い出しながら、現代の八王子城衆の重鎮であるS氏が書かれた「横地社」についての資料を読んでいます。


当ブログでも何度か横地のことを書いており繰り返しになりますが、横地監物丞吉信は北条氏康の馬廻衆の一人でした。氏照どのが大石に養子にはいる時に小田原から付き従ってきたといわれています。

八王子城代でもあり、江戸時代に徳川に重用された中山殿などと比べても当時はずっと家格は高く、北条家にとっては生え抜きの重臣中の重臣です。


「横地社」は、今は、中の曲輪の上段、八王子神社の隣にひっそりとあります。八王子城の歴史が好きで登城する方達はほとんどがご存知ですが、城郭好きの方達ではご存知ない方もけっこういらっしゃいます。

上に「今は」と書きましたが、「横地社」はかつては、横地が自害したと伝わる奥多摩町大字原小字蛇沢にありました。


昭和11年に工事が始まった小河内ダムの建設で、奥多摩湖の湖底に沈むこととなった「横地社」は、文化財専門委員が費用を拠出し、当時の八王子城衆有志の方達により、横地監物その人が城代であった八王子城に遷座することになりました。

いただいた資料によると、ダムの完成をその年の11月に控えた昭和32年の6月初め。有志達が小河内の蛇沢から祠をオート三輪に乗せて運んだそうです。


祠はいったん山麓の有志殿の家に落ち着き、それから有志達と八王子神社の氏子さん達により山頂へ運び上げられ、3日間をかけ覆屋も完成。

落城した日と同じ6月23日に除幕式が行われ、遷座は無事に完了したそうです。


檜原のブログ記事でも様々に書きましたが、はたして横地が本当に檜原へ落ちたかどうかは分かりません。

しかし、約400年後の落城日に再び自身の城へ戻った横地の魂は、城に残り城で果てた仲間達の魂と何を語ったのでしょうか。


後日談。
横地社の覆屋は平成10年1月に大雪で倒壊。平成15年、横地殿の末の方や蛇沢で代々横地社を守っていたお家の方や、この資料をくださった八王子城衆重鎮のS氏をはじめとした有志の方達で、現在の横地社は再建されました。

(Sさん、いつもお世話になっております。資料ありがとうございました。)


昨年夏に横地を追って檜原を訪ねた時のブログ記事です↓
「檜原の残影、横地監物と武田の松姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-f195.html


萩真尼

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2014年7月29日 (火)

八王子城へ恩返しの講演会

酷暑お見舞い申し上げますsun

そんなこんなでご報告が遅くなりましたが、「2016 小田原北条落城・開城強化月間」のマリコ・ポーロ的メーンエベント(メインイベント)の講演会を、皆々様のお力添えをいただきまして無事に催すことができました。

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~天正18年7月5日小田原。「利長殿、ワシのかわりに、生き残った家臣や民を大事にしてやってくれ」「天地の…清き中より生まれきて もとのすみかに帰る…べらなり」辞世を詠んだ後、切腹し果てる我らが北条氏照どの。超熱演!~


前にブログにもチラッと書きましたが、このプチ講演会は自治体や団体とはまったく関係なく私個人の企画の催しでした。

そのため、お声をかけたのは、旧八王子城とオオタカを守る会や川口歴研や元八王子歴研でご連絡先の分かる方々、歴史・城郭のお師匠様方、歴史・城郭友方だけにてござりますところをご理解いただきとう存じまする。

当日は、定員の35人もの方達のご参加を賜ることができました。台風一過の灼熱の炎天下にもかかわらず、皆様お越しくださいまして誠にありがとうございました。

また、小さい催しとは申せ私一人では何も出来るわけもなく、助けてくださった皆様には感謝感謝です happy01


horse 1回目の講演会

これもその時に描きましたが、実はこのプチ講演会は今回で2回目となります。

ブログを始め丸5年となる今年、八王子城(&八王子城を主軸とした当ブログ)を通してお世話になった皆様に何か恩返しがしたい。おこがましくも、2回共そんな思いで企画させていただいた講演会です。


第1回目の講師は、「北条氏滅亡と秀吉の策謀」の著者でらっしゃる森田善明氏にお願いしました。

御本が出て間もない頃でしたのでまだ読んでいない方もいらっしゃったため、講演はほぼ御本に沿った内容で進めていただきました。まだ読んでいなくても、すでに読んでしまっていても、名胡桃問題は北条ファンにとっては一番気になるテーマです。質問もたくさん出て、参加の方々にとっても興味深いものとなったと思います。

こんな小さな個人の催しなのにご協力賜りまして、森田氏にも心より感謝申し上げる次第です。本当にありがとうございました。


horse 寸劇「八王子城落城物語」

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~総勢13武将、着到!あ~っ、左右の、けなげな常盤小太郎くんと、カッチョイイ女風摩が入ってない。申し訳ないですぅ。~


そして・・・
2回目の今回は、講演会のあとの「お楽しみ」をご用意しました。

同じく八王子城やブログを通して知り合い足かけ4年のお付き合いになる、当ブログでもお馴染みの甲冑劇の武将殿方が、武蔵各地、遠くは常陸の国からも手弁当(手兵糧)で馳せ参じ芝居を行ってくれたのです。

武将の皆様方も誠にありがとう存じました。
ちゅっkissmark

いらない?


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~「さきほど手傷を負いましてな。もはや逃げ切れませぬ。」 横地監物へ、自分の代わりに本城へ行って殿の傍へ・・・と、怪我をしたフリをする大石殿。この後、大石は討ち死に。観劇中の八王子衆、皆、涙 weep


芝居の内容は、ちょうど八王子城落城月(旧暦では6月)ということもあり、その供養の意味も込めてのオリジナル脚本「八王子城落城物語」。

北条びいきの武将はもとより、武田びいき、佐竹びいき、上杉びいき、それぞれご贔屓はあれど、そこは戦国好き・歴史好きの武将達。こたびは皆さん熱い思いで八王子城落城と氏照の最後を演じてくださり、見事に私達を天正18年に連れていってくれました。戦国時代への素敵なレクイエムになりましたね。


これまた実は・・・ですが、第1回目の講演会の時、たまたま講演会に参加申込をされていた武将お二人が、講演の導入部でショートコント・・・ちゃうちゃう paper 2人芝居をしてくださったのですよ。

北条の家老2人という設定で、天正17年、飛び交う名胡桃についての噂をあれこれ持ち寄って話したあと、「どうも情報が錯そうしていて分からんのう。専門家に聞いてみるか。」と、森田さんに話を振るという小技をやってのけてくれました~♪

あの時、会場から、「ほぉ~」という声が上がりましたよねえ。お流石です。津久井開城祭のところでも書きましたが、ただただ武張った合戦系ばかりをパフォーマンスする方達ではないのですな。(だから好き!)


horse こたびの講演会

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講師は、道灌びいきの会でお世話になっております中世史(初期~中期)研究の 葛城明彦氏です。

葛城氏のご研究については当ブログでもご紹介させていただいておりますが、氏とお近づきになれたキッカケは、こちらも最近当ブログで何回か登場する「道灌びいき」の集いです。

太田道灌になぜ興味をもったかは理由がありまして、まあ、今ここにそれを書くと話がそれるのでまたにしますが(前に書いたかな?)、東京や神奈川の人って太田道灌を好きな人多いですよね~。葛城氏はその会の世話役でもあります。


会場設営をお手伝いくださった方達や武将殿方と落城供養のお赤飯をいただいたり(八王子城下の風習)、葛城氏の著作「決戦~豊島一族と太田道灌の闘い」のご紹介をしたり、「道灌びいき」の催しもののチラシなどを配ったりしながら、講演会はスタート。

テーマは「関東戦国時代の到来と北条早雲」です。

講演の前のご挨拶でも申し上げましたが、後北条の終わりを向かえるこの時期に、「戦国の終わりを告げた城」(by 椚先生)で、後北条の始まりのお話を仲間の皆で聞ける・・・これは、とても嬉しいことです。


講演の内容は、永享の乱から始まり、享徳の乱へ。足利と上杉、京と関東、我らが北条早雲こと伊勢盛時の台頭、駿河下向、伊豆討ち入り、そして、永正の錯乱と永正の乱・・・など、争乱に次ぐ争乱の時代を解り易く解説いただきました。

なかでも私が特に興味を持ったのは、小田原城奪取の時期のこと。

葛城氏は終了後、「皆さん、よくご存知で。もっとディープな内容にすれば良かった・・・」と恐縮してらっしゃいましたが、小田原奪取や大森氏のことなどは、機会がありましたらもっと伺いたいと思いました。


小冊子にしたいようなレジュメまでご用意くださり、葛城さんにも本当に心から感謝申し上げます。


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~関白殿下の意には背けぬ。やむを得ぬのか・・・。と、上杉、利家、利長。~


講演会の間、武将達は氏照どののお墓に行ったのですって!あの装備で、あの炎天下の中、あの距離を!

これから行うのは八王子城供養の芝居であり、なにより戦国時代に生きた人達をリスペクトする武将方達。しめやかに皆でお参りしたそうです。


そうですよねえ。
特に氏照どののお墓のあるあたりは、かつての旧宗関寺であり、「八王子」の始まりともなった千年も前の華厳菩薩のお墓と伝わっている宝篋印塔がいまだ残る、一種独特の雰囲気漂う聖域です。

墓前では御霊の眠りを妨げないように、静かにお参りしたいものです。

そのお蔭かどうか、敵方を演じた武将殿方も何事もなく帰陣されたとのこと。祝着に存じまする。


そんなこんなで無事終了した講演会のご報告の最後は、武将達の芝居のフィナーレのナレーションの言葉をお借りして締めたいと思います。

▲ 氏照、氏政兄弟の死をもって戦国乱世は終わりを告げました。八王子城は江戸時代の到来と共に長い眠りにつきました。昨今の発掘調査によって八王子城は往時の姿を次々と現わし新しい驚きをもたらしてくれます。

そこに暮らし、没した人々のことを見つめ、次の世代に伝えていくことこそ大事なことなのではないでしょうか。

全てのこの城で没した魂の安らぎを、お祈りいたします。 ▲(合掌)


以前の葛城氏の講演会とガイドツアーのブログ記事
「太田道灌と豊島一族 at 日比谷図書文化館」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-ec38.html
太田道灌vs豊島一族の「江古田原古戦場」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/vs-c7d7.html

wine 近況
前回ダラダラと愚痴を書きました今年今日この頃の負荷のことですが、仕事の方は会社に相談をしたとたん「そりゃ大変だろう」と早急に動いてくれまして解決とあいなり申した。

これで体力的にも脳内思考的にもだいぶ余力が出て、私的問題の方にももう少し専念できる見込みでござりまする。我が会社よ、今まで悪口言ったりなんかしてあい済まなかった。(←同僚で読んでくださっている人達がおるので一応書いておくだ coldsweats01。)

ほな
萩真尼


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2014年7月16日 (水)

もしかしたら、北条氏照にとって八王子城とは・・

昨日の「八王子市史研究」のブログ記事ですが、数日前に書いたものに書き足したいことがあったのに、公開予約したその時のままアップしてしまいました coldsweats01。こちらとあわせてご覧くださると助かります。

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八王子衆にいただいた多摩考古44(2014.5.16)を読みました。その中の西股総生氏が書かれた「かたちから考える城~戦国期の武蔵を中心に」を読んで妄想族的に悲しく(?)考えたことがあります。


我らが北条氏照どのに関係するところだけ、少しだけご紹介すると。

例えば・・・

▲ 浄福寺が氏照初期の城、を否定

この城のように特定の方向(浄福寺については東側)を強く意識し防禦態勢を整えた城は、築城の前提として特定の具体的任務が存在したはずで、地域の支配拠点ではありえない、と。


でも浄福寺は、最初は氏照が築いた城ではないですよね。

昨日のブログ記事でご紹介した加藤哲先生の「北条氏照初期の居城」には、永禄3年の落合に出した文書(従来は天正2年のものと言われていた)をあげ、氏照初期の居城はやはり浄福寺であろう(齋藤先生論)と書かれています。


加藤先生は、城域の西側の最高所とそこから南側に馬蹄形の曲輪が雛壇状に配置されている部分、あのあたりは当初はなく、氏照が八王子に拠点を移してから、豊臣軍との決戦を前に(または案下道の監視として)実践用に拡張された部分である可能性があるとしています。

そして、
城域北部分の小規模な曲輪が集中している部分が初期の大石氏の拠点として使われていた部分であり、

東南部の虎口状のあたりと東に伸びる尾根上の段曲輪のあたりが、その虎口の威容などから氏照がその居城にふさわしく改修した部分だと思われると。


▲ 八王子城について

西股氏は、戦国末期の山城築城はなんら不思議ではない。城が、山城主体の戦国期→平城の近世へ移行、とのイメージは通俗的である、と書いてらっしゃいます。

また、八王子城の特徴は御主殿ではなく、その背後に高くそびえる、石積で造られた6ヶ所の堡塁を石塁のラインで連結した、特異なプランを有する遺構群にあるとされています。


う~む think

確かに、八王子城は当時の関東以北の城には珍しい見せる要素を組み込まれた城だといわれ、庭だの池だの礎石建物跡だのが出てくると、そちらの方に衆目がいってしまうのは否めない、否めない。


▲ 戦国武将にとって、居城とは

「本拠・居城というと領域支配の中心となる政庁というイメージが強いが、戦国大名にとって城とは本来は軍事施設であって戦略拠点である。氏照や氏邦の場合も、作戦状況に応じて複数の戦略拠点を使い分けていたのであり、その時々に滞在している場所が、実際には彼らの政治や外交の場となっていた(一部抜粋)」


トップに書いた、「この論文を読んで妄想族的に悲しく?考えたこと」とは、ここなんです。

氏照や氏邦に限られたことではないですが、彼らは小田原や本城にいる当主とは違ってその一生は外地転戦に費やされていますよね。お兄ちゃん(氏政)にこき使われていた・・・とおっしゃる八王子衆もいらっしゃるほどです。


氏照を例にとると、これはいつもブログに書いていることですが、八王子城にいた時期は非常に少ない。栗橋や小山の方がずっと多い。

もしかしたら、北条氏照にとっての八王子城は大きな軍事拠点のひとつであり、私達が考えるほど思い入れが深い城ではないかもしれない・・・。


私達はどうしても、「八王子城は氏照が一から築いた城である」とか「北条の(氏照の)威光を示すための見せる城の要素を組み込んだ」とか、軍記物の「城が落ちた時床を叩いて涙した」とかから、氏照の八王子城への思いを過剰評価しているのではないか・・・。

氏照は八王子城をもっとドライに考えていたのではないか・・・。


いや!ブンブン(←頭を振る音)、この落城月になに考えているんだ。
そうよね。そんなことそんなことは、ないよね?


昨日の記事↓とあわせてご覧くだされ。
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-f3b9.html
「浄福寺城で藤菊丸君(氏照)を思った」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-97c8-1.html


萩真尼

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