2020年9月28日 (月)

新田義貞は里見からの養子だった~⑨大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ


この4月から大河「太平記」の時代ことをチョコチョコ書いておりますが、本来は戦国時代の小田原北条、特に北条氏照の 追っかけブログとして 11年 続けてまいったものにござります。

2月半ばよりいまだ逼塞中。まだまだどこにも GoTo せず、北条見聞が出来なくて他のことを書くことが多くなっておりますが、もし小田原北条や氏照にチビットでもご興味あらば、それらの記事をご覧いただければ嬉しいです(文末添付)。


それにしても…

北条氏照の介錯人が氏規でなかったことと、氏照の下原の槍について書きましたが、興味を持ってくださったのが知り合いお一人だけ。いつもは何かしらの新情報やお教えをコメントでいただけるのですが…意気消沈。。。
(ノД`)


Photo_20200924143701 
~『歴史研究』第684号(2020年9月号)~


気を取り直して!

大河「太平記」第25回は「足利尊氏」。
後醍醐天皇からお名前の一字「尊」を賜り、北条高時からいただいた「高」から →「尊」となりました。


前に書いたかどうか忘れてしまいましたが(よる年波で…)、大河「太平記」では難しい言葉がい~い具合で使われていますね。

今回では…
梟雄の輩、御手(ぎょしゅ)にかけ申さん!」

すごい (*_*)


また、後醍醐天皇が、みごとな舞を披露した北畠顕家くんに ふわりと御衣を投げ、
かずけとらせる

聞き取れはすれど意味が分からず調べちゃいました。

「被けとらせる」。「被く」とは、御衣を頂戴することなんですね。知らなかっただ。このあと、いただいた御衣を左の肩にかけるのだそうです。美しき顕家殿の、その雅なシーンまで欲しかった~。


昨今の大河ドラマ(に限らず時代劇)は、「分かり易く」を大事にしているそうで、ストーリーもですが台詞も分かり易くしているようですね。

昔の視聴者だって、ほとんどは難しい言葉のちゃんとした意味は分からなかったでしょう。我が家の両親(含むワテ)などもたぶん全然分からない言葉が多かったと思います。でも、大河ドラマは面白がって観ていました。分かり易い=面白い、ではないのですよね~。


さて、本題。

新田義貞 は里見の生まれで、新田へ養子にいったのですか!

知りませんでした(恥)。どうりで新田義貞の系図を見ると、父とされる朝氏(義兼とか氏光とかいう系図もあり)と点線 ……で結ばれているので、変だな~と思ったことはありました。


時々投稿させていただいている『歴史研究』の今月の特集は「安房里見一族の謎」です。

『歴史研究』は昭和33年から続く老舗の歴史研究会が発行している月刊誌です。加来耕三氏初め専門の先生方も書かれていますが、主には歴史ファンの投稿雑誌です。今回は、専門の研究者の方達や里見の末裔(堂本前知事も)の方達の寄稿がほとんどでした。


里見は新田だから義貞のことも何人かの方が書いてらして、また、再放送中の大河「太平記」がちょうど義貞の鎌倉攻めということもあり特に興味深く拝読しました。

義貞が里見から新田へ養子にきたということは、『新田義貞の出自-里見氏との関係の中で-』(里見繁美氏、大東文化大学教授)に書かれていました。


冒頭、
新田義貞は、いつ、どこで生まれたのかが明確になっていない。何故かといえば、それ以前の新田氏の存在感がきわめて希薄だからである。

へえ~~。そうだったんだ~。それも知らなかった💦。


新田義貞の父親は、里見郷を拠点としていた里見氏ではなく、新田荘高林郷(太田市高林)の方を拠点にしていた里見義忠 なのですってね。

高林郷から至近距離にある台源氏館(または反町館)に暮らして跡継ぎのいなかった新田氏七代・朝氏のもとに養子として入った であろうと。


鎌倉攻めに参加したのは、実の兄上達はじめ、大半が里見の関係だったそうな。

後の越前までも一緒で、義貞の嫡男・義顕の自害に、その時の里見一族の惣領と嫡男も殉じているそうな。関係が非常に 密 ですねえ。


このことを歴友武将さんに話したら、「では、弟の脇屋義助は?彼も養子だったのだろうか?」と。

おう!それは浮かばなかったです。兄弟共に養子だったのか?義貞が養子に入った後に生まれたのか?ただ、義助も「氏」が付かず里見の「義」が使われているので、里見の子の可能性があるのか?昔はあっちこっちへ養子を出したり貰ったり、家が没落したり復活したりで…どうなのかにゃ?


『歴史研究』に、里見繁美氏の考察はもっと詳しく書かれています。バックナンバー、買えます。
「歴史研究会」HP


🍸 大河「太平記」の記事

「大河「太平記」の再放送が始まりますね!」

「北条高時のこと~①大河「太平記」を観ていて」
「足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?~②大河「太平記」を観ていて」

「尊氏の早世した兄と討たれた長男竹若丸~③大河「太平記」を観ていて」
「北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて

「金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて
「八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて」

「北条高時の母の伊豆韮山~⑦大河「太平記」を観ていて」
「新田義貞の正室のこと~⑧大河「太平記」を観ていて」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」

🐎 小田原北条の氏照のことなどの一部

カテゴリー「八王子城と北条氏照」
カテゴリー「北条一族、最後の3ヶ月」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2020年9月23日 (水)

新田義貞の正室のこと~⑧大河「太平記」を観ていて

サル9月3日、当ブログは12年目に突入。総記事数は公開したものだけで 728件 となりました。

皆様の「面白かったよ~」の一言に励まされてここまで続けてこれました。本当にありがとうございます。心より感謝申しあげます。これからもよろしくお願い申し上げます。

え?つまり、ということは、マリコ・ポーロ、あの頃からもう10才以上年をとっちゃったということか!でも、当初から読んでくださっている皆様もですよん。ふふふ。


さて、本題。

 Photo_20200921154501
~鎌倉「九品寺」。新田義貞が、鎌倉攻めの時に本陣を置いた場所に北条慰霊のために建立した。坂の向こうは海(材木座)。高い所にあるので見晴しが良かったのか。鎌倉唯一の義貞開基の寺で、山号の額は義貞の文字(の写し/本物は保存)~


というところで、さて本題。

新田義貞には詳しくあらねど、義貞を考えると「かわいそう…しかありません。

この後のことになりますが、後醍醐天皇(上皇)をも手離しちゃうでしょう。御上のクチグルマに乗ってしまって。というか、そのクルマに乗るしか他に道は無かったのかな…。


大河「太平記」24回目は「新政」。
後醍醐天皇の公家一統の政(まつりごと)が始まりました。皇子の大塔宮は尊氏様のことが大っ嫌いで、なかなか信貴山から下りてこないのですな。

鎌倉幕府を滅ぼすために当初からあんなにパパ上帝のために頑張ってきたのに。事が成ったら「また坊さんに戻れ」というパパ上もどうなのかと思ってしまいます。宮は「武家よりも君のうらめしくわたらせ給う」と、父上後醍醐のことを尊氏よりも恨めしいとおっしゃったとか。『梅松論』にあるそうなので本当かどうかは分かりませぬが。


そして、義貞。
国元からやってきた正室に、短絡的に「あなた!ファイトッ!」とづけられて上洛を決意します。

あーあ、いかんぜよ~。ニッタムサク で鎌倉を出たら(そんな無策じゃなかったかもしれないけど💦)。武家の聖地鎌倉を足利方に取られちゃうじゃん…と、思ってしまいました。


新田義貞の女人としては勾当内侍が浮かびますが、内侍は京での側室です。そういえば、義貞の正室は誰だったのだろう?

調べてみました。


正室は嫡男の義顕のママで、実家は北条得宗家の被官だった安東氏なのですね。ドラマでは、足利家は北条におもねて北条一族の娘を娶ったように周りから言われていましたが、それは足利だけではないじゃあないですかねえ。なーんだ。

北条高時の重臣であった、義貞室の安東の叔父上は義貞の鎌倉攻めの時に自害しています。また、尊氏の正室の兄上である執権赤橋殿の討死も自害同然。鎌倉幕府はすでに腐りきっていたと言われていましたが、東勝寺での一門の最後といい、やっぱり坂東武士。最後は潔かったのですねえ。


先の話になりますが、義貞室は義貞亡き後、新田荘の義貞の館跡ではないか?と伝わる「明王院安養寺」で夫の菩提を弔って暮らしたと伝わっています。

こちらの不動明王は、義貞の鎌倉攻めの時に山伏に化身して一族に触れ回ってくれたのですって!?


🍸 大河「太平記」の記事

「大河「太平記」の再放送が始まりますね!」

「北条高時のこと~①大河「太平記」を観ていて」
「足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?~②大河「太平記」を観ていて」

「尊氏の早世した兄と討たれた長男竹若丸~③大河「太平記」を観ていて」
「北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて

「金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて
「八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて」
「北条高時の母の伊豆韮山~⑦大河「太平記」を観ていて」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」


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2020年9月12日 (土)

北条高時の母の伊豆韮山~⑦大河「太平記」を観ていて

 マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~池谷初恵著『鎌倉幕府草創の地 伊豆韮山の中世遺跡群』2010(新泉社)


韮山は我ら小田原北条ファンの「聖地」である。

しかし、韮山は小田原北条にとってだけではなく、鎌倉幕府を開いた頼朝の源氏にとっても、その後の執権政治を行った前の北条にとっても「聖地」だった。


現代の私達からしたら、伊豆韮山は伊豆半島の付け根で、歴史と仏の里であり、ある日突然畑の真ん中から温泉が湧き出た風光明媚な観光地のイメージだ。そんな韮山が中世、なぜ前北条の拠点となったのだろうか?

当時の伊豆の国府は三島にあった。韮山には国府三島と半島を繋いだ下田街道が通る。また、狩野川という駿河湾にすぐ繋がる狩野川も流れていた。つまり、韮山は陸運と水運の交通の要所だったのである。


(小田原北条にとっての「聖地韮山」のことはたっぷりこってり今までブログに書いてきたので割愛しますが、文末に少し添付いたしました。ご覧くださいましたら、いと嬉し。)


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~前の北条氏館跡&堀越公方屋敷跡~


さて、大河「太平記」第22回は「鎌倉炎上」。ついに鎌倉幕府の終焉を向かえましたね。レンタルビデオで何度も観て、東勝寺跡にも何度詣でたことか…。なんだか月並みな言い方で恥ずかしいですが、本当にこの大河は名作中の名作ですよね~。

小田原北条が大河になる時もこのぐらいのクオリティでお願いしたいです。いつになるか分からぬが、それはコロナ終息より遠い道のり…。


何度も観ているのに今回初めて思ったことがあります。高時の母、覚海尼はその後どうなったのだろう?

伊豆韮山で晩年を過ごしたこと以外ぜんぜん知らないので、以前に小田原北条や堀越公方のことを読みたくて買った冒頭写真の本『鎌倉幕府草創の地 伊豆韮山の中世遺跡群』に何か書かれていたことを思い出し開いてみました。


▲ 実家:安達氏
▲ 実名:不明
▲ 法名:覚海円成
▲ 享年:不明(60代位 カ?)


▲ ポジション:側室

側室だったんだ!(*_*)
沢たまきさんの貫禄💦から正室だとばかり思いこんでいました。

貞時の正室は、北条得宗家の人なんですってね。安達が貞時に対して謀反を起こし、許された後に安達家庶流の娘であった覚海尼が嫁がされたんですってね。

戦乱の時代にはよくあることですが、覚海尼は、一族の仇に嫁いだのですね。


息子の高時さんが24才で病のために執権を退いたあとの後継者問題では長崎殿と組んで騒動を起こし、これで、先の称名寺のブログ記事に書いたその時の金沢貞顕殿が執権を降りることになったのです。

ドラマでは、しょっちゅう、いきなり、高時さんの部屋へ現われます。「山内禅尼」と呼ばれていたので山ノ内にお住まいだったのでしょうが、それは、貞時亡き後の出家後のことかと思っていました。側室だったからハナから山ノ内にいらしたのですかね?


▲ 鎌倉炎上の後

それが、伊豆韮山です。

堀越公方の屋敷があったところは、以前は前北条家の屋敷がありました。そこに、覚海円成尼と一門ゆかりの女人のために「円成寺」が建立されたのだそうです。


円成寺を安堵するよう尊氏さまに命じたのは、なんと…

後醍醐天皇!


御上~~、あなたって人は…


そして、尊氏様の弟の直義さんも円成寺に寄進をしているのです。
へえ~~。鎌倉北条を滅ぼした、みんなの複雑な心境が分かるような気がしますよね~。


覚海尼は、残された一門の女人達を引き連れて寺へ移ります。


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覚海尼は夢窓疎石を師と仰いでいたそうで、師と交わした和歌が残っています(『正覚国師集』)。


相州高時禅門の母儀、伊豆の北条にすみける時、よみてたてまつられける

あらましに
まつらん山ぢ たえね ただ
そむかずとても
夢の世の中

此歌は、世をそむく我があらましの行末にいかなる山のかねてまつらん、とよみ給ひたりしを思ひ出でられたるにや


御返し

夢の世と
思ふうき世をなほすてて
山にもあらぬ
山にかくれよ


「あらまし」とは、いわゆる物事のあらまし の あらまし ですよね。

険しい山道ですらすでに途絶えてしまった。自らあえて世にそむかずとも、今やこの世のことは夢の中のよう…と覚海尼。

それなら、夢のようだと思う浮き世をなおも捨てて、山にもあらぬ山の中へとお隠れくだされ…と師。

マリコ・ポーロ意訳。違っていたらゴメンナチャイ覚海尼様、夢窓疎石様。


ご興味ある方は、『鎌倉幕府草創の地』を是非!各時代の発掘調査のことがたくさん載っています。


🍸 大河「太平記」の記事

「大河「太平記」の再放送が始まりますね!」

「北条高時のこと~①大河「太平記」を観ていて」
「足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?~②大河「太平記」を観ていて」
「尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸~③大河「太平記」を観ていて」

「北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて
「金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて
「八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」


🍸 小田原北条にとっての聖地韮山についてたくさん書いたブログ記事の一部です

「小田原北条の始まりを告げた城 「韮山城」 シンポジウム」
「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏~願成就院」

「北条氏政が謙信や信長にプレゼントした、韮山の江川酒」
「後北条の女領主、伊豆の山木大方」


「北条幻庵の伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」~シリーズ北条五代の娘たち「伊勢宗瑞の娘たち」」
「‘元祖 義’ 伊勢新九郎の韮山へ」

「前北条と後北条の 「伊豆 修禅寺」
「信仰の里~中伊豆かんなみ「仏の里美術館」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年8月27日 (木)

八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ

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~多摩川に日が沈む。「田園調布八幡神社」創建は鎌倉時代中期?鳥居の先が多摩川(9年ぐらい前にお詣りした時に撮った)。~


南無八幡だいぼさーつ!

丹波 篠村八幡宮。太刀を掲げ、高らかに北条討伐を宣言する尊氏様。


大河「太平記」も気が付けばすでに 20話。

再放送が始まった時、よし!毎週の放映に合わせてなにかしら書こう!と決めたものの、何週分かまとめて録画を観ることがあったり、なにより、この時代には(も)詳しくないため調べることが多く、マリコ・ポーロにはチト無理のよう💦


さて…

尊氏様が唱える「南無八幡大菩薩」で、思い出しました。

とある、由緒の古い八幡様(田園調布ではにゃい)の説明板を読んでいて、目からミツウロコだったことがあります。


時を遡ること長元の頃(平安時代中頃)。

その八幡神社は、上総下総で起った平忠常の乱を治めるために源頼信がその地に宿営した時に八幡大神を奉斎し、戦勝祈願をしたのが始まりとありました。それは源氏と八幡神の、「坂東への第一歩」であったようです。

源頼信って誰?とスマホで検索したら、河内源氏の祖だそうな。


源氏は坂東の武士の象徴、みたいなイメージがあります。その氏神であり坂東にあまたある八幡様は、つまりは西から勧請された神社だったのですね。源氏は元々は天皇家から出ているから、考えてみればそりゃそうなのですが…。

その土地を侵略する場合、自家や一族が信仰する神社をどんどん置いてゆくと言われます。江戸人の代表のような我らが太田道灌も、その手法を使って豊嶋氏を追いつめていきました。


八幡神もそうなのかどうかは私には分かりません。ただ、前々回のブログ「峰岸純夫著『中世鎌倉盛衰草紙』を読みました」に、

関東中央部からは戦国大名権力を生み出せなかった。北条・上杉・武田などの関東の外に成長した戦国大名たちの草刈り場… とある

と書きました。もしかしたら坂東の外から入ってきた侵略者たちによって、坂東土着の神は追いやられてしまったのでしょうか。


もしそうなら、それよりもっと昔の坂東の神様ってなんなのだろう?図書館に行けないのでネットで探してみると、神について書かれたものは厖大で様々でとても知り得ません。

稲荷神も秦氏で京都ですし、天神様も、諏訪神社も、恵比寿様も坂東発祥ではないでしょう。そもそも、古事記の神様もほとんどが 西 発祥。源氏ではなく平氏を考えても桓武天皇で、西から始まった一族。千葉氏の妙見?いや、千葉氏も平氏か。

坂東のもっと古い氏族の氏神を探せば分かるかな…。鹿島神社?香取神社? 平将門?いや、アニミズム!?


我が家のエリアの氏神様も八幡様です。坂東の地の氏神様なのに坂東発祥の神様じゃなかったことに今更気が付いてしまいましたが、これからも尊崇してまいりますよぉ。

南無八幡大菩薩!
疫病退散!


注)神様のことは難し過ぎるため、これ以上は深く突き詰めて考えることはしないと思いますので専門的なコメントにはお返事しかねる…いえ、ワテには出来ないと思います。←すごいエクスキューズ💦


🍸 大河「太平記」の記事

「大河「太平記」の再放送が始まりますね!」

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2020年8月14日 (金)

江戸時代、隕石は本当に八王子に落ちた!「暴れん坊将軍」

マリコ・ポーロ

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~彗星とはなんの関係もないが、明日8月15日は新九郎さん こと 伊勢宗瑞の命日です。~


さて、
ドびっくり~\(◎o◎)/ したこと。

今朝の「暴れん坊将軍」(再放送)のことを小耳にはさみ、また、Twitter(ツイッター)でも盛んに書かれていたので、なんだろう?どれ!と興味が出て観てみました。

「暴れん坊将軍」は皆さんけっこうご覧になってらしたかと思います。マリコ・ポーロ 時代劇は大好きなのですが、「暴れん坊…」をチャント観たのは初めてでした。


今日は、ペルセウス流星群が最も近づいている今にピッタリの内容(か?)。「江戸壊滅の危機!すい星激突の恐怖」。あ!と思い出す方はきっと多いのでしょう。「暴れん坊将軍」では名作・怪作・神作と称される回だったそうですね。

上様が江戸に ほうき星=彗星(水星ではない)が接近していることに気付き、その機に乗じて謀反を起こそうとする若年寄とその一味を「しぇーばい(成敗)!」するというストーリーでした。


彗星が地球に迫って来る映像は昔の特撮ドラマやウルトラマンのようで、へえ~、おっかし~😃、それに、彗星って落ちるものか?(落ちるの?)それって隕石じゃないの?そして、松永弾正も真っ青の大爆発にはドびっくり~。

あーだこーだと一人でツッコミを入れたりしながら、ま、これはドラマであると視聴。


ドラマでは、落下地点は八王子の大和田村(今の北野駅あたり)と、上様が西国から呼び寄せた天文学者が分析。上様は め組 や配下の者に命じ付近の村々から民を非難させます。

八王子ですと!大和田村ってどこかしら?観終わってから検索してみたところ…


ドびっくり~ \(◎o◎)/!←しつこい…💦


これは史実なのですね!

八王子市のHPにありました。落ちたのは彗星ではなく隕石ですが、ご存知でした?天文ファンでは有名な話なのですかね。


それは、文化14年12月29日(江戸時代の暦(旧暦)では文化14年11月22日)午後2時頃のこと。

惜しい!上様は家斉殿。


当時の日記や書物などに記載されていて、目撃者もあまた。飛行経路は甲州街道に沿っていたそうです。ドラマのように大和田村一ケ所に ドッカンーン💣 と落ちたのではなく、八王子・多摩・日野の広範囲に渡ってアチコチに落ちたようです。

記録に残っている落下地点は13ヶ所。でも具体的に伝わっている場所は、現在ないそう。


八王子や滝山の城跡も、登城した時に下ばっかり見て戦国時代の遺物を探していますが、もしかしたら隕石を探す目で見ればあったりして!!柚木にも落ちたらしいし。

なーんて。見つけたら八王子市に届けましょ~。


若年寄の掘田殿が天文方に調査を命じたが、結局、「空中より石が落ちるという理由はなく、高い山の硫黄の蒸気で土石が飛び出すもので、西洋書にもこの類のことは時々あるので、今回の落石も、追々出所がわかるでしょう」

ってなことになったそうです。ドラマに近いですな。


以後、隕石落下のことは忘れられていたが、なんと昭和になってから京の土御門家から隕石の破片と書付が発見されたのですって!

国立科学博物館が調査し、国際隕石学会に登録されているそうです。日本の隕石落下の記録では5番目に古く、今、隕石の破片は国立科学博物館が所蔵。非公開だそうですが💧。


あなどれない…暴れん坊将軍。

こちら ↓ に詳しく書かれています。その隕石や文書も絶賛募集中ですよ。
八王子市HP「八王子隕石落下200年」



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2020年7月30日 (木)

猫は二十歳になるとシッポが二つに分かれる説

マリコ・ポーロ

大雨の被害がこれ以上でませんように…。地震も多いです。皆様、雨、地震、ウィルスへの用心は怠りのう。


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~ハタチの朝にゃ~


猫は二十歳になるとシッポの先が二つにわかれ「猫又」になる

と、むか~し「ゲゲゲの鬼太郎」で聞いたような覚えがあるので調べてみた。


🐱 その前に、チビット…

新暦 平成12年7月12日。
生まれたての4匹の猫たちは、江戸時代の北条家菩提寺である広尾「祥雲寺」の門前に捨てられていた。

奇しくもそれは、氏政・氏照が自決した翌日であった(年は違うけど…)。同年9月、その中の1匹は奇しくも北条追っかけのマリコ・ポーロの元にやってくることになる。


たびたびたび、このブログに登場している我が家の猫 マル こと マルゴー・ポーロ が二十歳になりました。高齢猫にありがちな甲状腺機能亢進症の持病で薬は常用しておれど腎臓は問題なく、お陰様で、まあそれなりに元気に誕生日を迎えることができました。

マル、これからもよろしくにゃ。


さて、猫又さんのこと。

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~ハタチの朝、ふたつに分かれているか見てみた。生まれつき「鍵シッポ」なんにゃ~


猫又には、山に住む猫又と、飼われている老猫の猫又との二種類があるそうな。

猫又は鎌倉時代の説話集あたりから表れ、定家が『明月記』に、吉田兼好が『徒然草』に、江戸時代には新井白石も書いているそうです。


🐱 『徒然草』の猫また

奥山に、猫また といふものありて、人を食らふなる 
と人の言いけるに…

で始まります。


ある法師が連歌の帰りの夜、猫また に襲われます。

助けよや、猫また、よや、よや

うぎゃーーっ!
助けてくれーいっ!猫また だーっ!
おーい! おーい!


恐怖におののいた法師が叫ぶと、近所の家々から人々が、どーした、どーしたとワラワラ出て来ます。

が、なんのこたあない。
法師が飼っていたワンコ🐶 が、法師の帰りを喜んで飛びついてきただけ(カワユイ❤)とな。


という話のように、猫また の話はど
れも年老いた猫は妖怪となって人を惑わしたり、食らったりするもののようです。

まあねえ、猫が好きではない方にとっては、若い猫だろうが年とった猫だろうが猫を気味悪く思う方はいらっしゃると思いますが、いずれも猫の習性や、明暗で瞳が変わるところとか、ちょっと何を考えているか分からないようなところからくる迷信です。


🐱 シッポが二つに分かれる説

江戸時代の辞書のようなものには、

老猫は形が大きくなり、しっぽが二股になって災いを成す。これをねこまたともいう。

とか、

俗に老猫でしっぽが二股に分かれ、人をたぶらかす

とか書かれているそうな。


猫のシッポが二つに分かれる説(説か?)はどこから生まれたのでござんすかねえ?

(「玉藻前」の九尾のキツネの話 + 狐も猫も「化ける」というイメージ) x 様々な俗説 

猫のシッポが分かれる説に?


いずれにしても、様々なことが混ざり合って「猫は二十歳になると(何故ハタチかは不明)、シッポが二つに分かれる」ということになったのでしょう。

我が家の マル こと マルゴー・ポーロ は、今のところシッポは分かれていません。けっこう楽しみにしていたのじゃがのう。


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~保護した方がくださったマルの兄弟姉妹との集合写真。「大きくなったら見せてあげて」って…?~


「今日はマルゴー姫の誕生日(2010)」

「「虎の子」 多摩動物園サマーナイト(2010)」
「今年も「多摩動物園サマーナイト」、上野もあるでよ(2011)」


マリコ・ポーロ & マルゴー・ポーロ

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2020年5月13日 (水)

北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


Photo_20200506154901
~『執権』2019.10 細川重男著(講談社学術文庫)カバーデザイン 蟹江征治氏~


小田原北条の見聞録なのに見聞に行けないため、以前拝聴してまとめられなかった小田原北条の講演会や、BSで再放送中の大河「太平記」を観ていてフト思い浮かんだことを書いたりしております…


第④話&⑤話を続けて観ました。謀反とは下の者が上の者にたいして起こすことを言いますが、上の者(帝)が下の者(執権家)に対して起こしたことは何という?

タイトルの「帝 ご謀反」とは、それをとらまえてワザと付けたのかな?


京の都から我が家に帰る時の尊氏様。頭から京で起きた様々なことが離れず、どうしたらいい?右馬介…と見事な乗馬姿(馬の背に寝転ぶ)で悶々としています。分かりますよね~、これ。

どこかへ旅行に行って帰る時の気持ち。あぁ、この高速に乗ったら、あぁ、この電車に乗ったら、あとは現実へまっしぐら。最寄りの駅に着く間際に流れる新幹線のアナウンス。

「We will soon arraive at 東京、品川、新横浜、上野、大宮、etc.」(←だっけ?)
が、
「We will soon arraive at 現実

に聞こえるもの。ドラマでのあの時の尊氏クンの気持ちとは比べものにならないでしょうが…


太平記の時代はただ今勉強中で、まだまだまだまだドラマや小説からの知識を超えるには時間がかかりそうですが、道誉殿は以前より鎌倉に居住していたのですね。

森茂暁氏の『足利尊氏』2017.3(角川選書)で、
足利尊氏はこうしたいわば後醍醐シンパたちといっしょに都市鎌倉に居住していたのであるから、折にふれての後醍醐関係の情報は彼らの間で共有・蓄積されたに違いない。…
と読んだ時、あれ?と思ったのです。


ドラマでは、尊氏が京の都で初めて道誉に会ったように設定されていましたが、本来は、尊氏と道誉は鎌倉にてかなり付き合いがあったということなのですかねえ。道誉が鎌倉の御相伴衆だということも忘れてしまっていました。


さて、本題でござる。

ドラマの④・⑤ を観ていて、以前より気になっていたことを思い出しました。これほどの権力を持ちながら、そも、前北条家はなにゆえ将軍にならなかったのだろうか?

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~北条得宗・執権の屋敷跡だった宝戒寺参道の碑。「北條九代屋敷 頼経公」とある~


まずは、↑ の謎の碑のこと。

この「頼経」とは誰ですか?
前にも書きましたが、ここが屋敷だったのは今のところ得宗・執権・連署の7人(7人は連続していない)と伝えられています。また、北条の9代目は、大河「太平記」の足利のパパ貞氏殿が「貞」の偏諱をもらった 貞時殿です。

それに、もし鎌倉北条家の人だったら源氏の「頼」を使いますかねえ?


「頼経」と聞いて思い浮かぶのは、源氏三代が果てたあと執権義時が京の公家から迎えた四代将軍「藤原(九条)頼経」、昔のドラマや小説などで「三寅」と呼ばれた幼児です。この子は、頼朝の妹の曽孫でした。

鎌倉の混乱をおさえるために頼朝の血筋を将軍として据えたとも以前はいわれることもありました。でも、当初は親王さんを迎えたくお願いしていたようなので、そうではないかな?

この幼児は8歳で元服し征夷大将軍となりますが、30才にならぬ前に時の執権により追い出され京に帰ります。


頼経以降の鎌倉将軍て、最後の守邦親王さん以外は皆追放されていますよね。守邦さんだってなんだか無視されていたような感じですし、「鎌倉炎上」時はどうしていたかも知りません(私だけ?)。いったい鎌倉幕府って、なんなんでしょうねえ?

な~んて、執権より将軍の方に気持ちが流れてしまいそう。


碑のことですが、ほな、「頼経」とは誰のことでしょう?北条得宗や執権に「頼経」という別名を持つ人がいたのでしょうか?調べても見つけられません。

碑は「北條九代屋敷」と「頼経公」とに少し間が開いていますね。ここは北條九代(誰?)の屋敷跡でもあり将軍頼経の屋敷跡でもある、と並列表記したのでしょうか?

ワテには分からん…。


6/6 加筆
細川重男氏の『鎌倉幕府の滅亡』を再読していて、「北條九代」の意味だけは分かりました。皆さんはご存知だったと思いますが、

北條九代=北條得宗家

を言うそうですね!時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時 の9人で九代ですか。

少しスッキリしましたが…頼経さんはいにゃい。


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~佐殿の前に突如現われたる名馬「池月」。まさに「池に映る月影」のようだった。伝承である(大田区洗足池)~


そこで話は戻り、前北条家はなぜ征夷大将軍にならなかったのかについてです。が、しかし、そんな難しいことが マリコ・ポーロ に分かるはずもないゆえ、細川重男氏『執権』を読んでみたのです。


それは「源氏ではないから」だと、以前はなんの疑問も持ちませんでした。そして、「ならなかった」のではなく「なれなかった」、つまり、「前北条家は将軍になりたかったけれど、源氏ではないのでなれなかった」と思っていました。

しかしある時、フト、あにゃ?源氏でなくても、親王さんやお公家さんも将軍になっているよね?ということに気が付きました。
今更ながらで…(^^;

坂東の戦国時代を調べるだけでも目いっぱい。イカン、イカン、これ以上興味の幅を広げては…とそれ以上は追及していなかったのですが、再来年(順調にいけば)の大河が義時殿と聞いて、がっくり気落ちしながらもチト気になったのです。


本では鎌倉北条のことを、「何の正当性もない極悪の政権・悪の一族がこれほどの長期間支配を存続することが可能なのであろうか…」と細川先生らしい書きようでしたが(どひゃ~💦)、「だとすれば、北条氏にも、その支配の正当性を支える論理が存在したのではないか…」と続きました。

じゃあ、それって何なのだろう?その論理で、あの長~~い年月、権力を維持していたのだろうか?


本は、二人の執権(得宗)、そして、私感ながら一人の将軍を中心に、「北条氏はなぜ将軍にならなかったのか」の答えに向かって進みます。

その二人とは、小四郎こと北条義時&時宗。一人の将軍とは、源氏賜姓をうけた7代惟康親王。北条時宗の時代の将軍です。


「この本は北条氏という「一族の物語」ではなく、「一族の物語」の底を流れる「基調低音」を書くことが目的」だそうです。

うーん、難ちい…。
浅い知識と働きの悪い脳の マリコ・ポーロ には、悲しいかな底を流れる基調低音はくみ取ることが出来ませんでした。

しかし、とても面白かったです。あっという間に読んでしまいました~ ♪(←じっくり読まないから基調低音が聞こえないんだ!)


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~能登国では佐殿の愛馬「池月」は能登町宇向田牧山の産とする。能登町鳥屋酒造さんの銘酒「池月」。器は福島相馬焼。自粛中、マリコ・ポーロは飲んでばかりいるんだろうって?チビットしか飲んでおりませぬ。免疫力が落ちるゆえ。~


話を戻し、それでは…

▲ 鎌倉将軍として必要だったものは

「清和源氏であることは、まったく意味をなさない。」(やっぱりそうだったのね。)

「必要だったのは、清和源氏であることではなく、頼朝の後継者であることではなかったろうか。」

「神格化した頼朝の後継者であることが、武家政権の首長たる将軍にとって必要な資格であったのではないか」


つまりは、鎌倉将軍には神格化されたものが必要で、頼朝の血筋の者なら後継者になりうるけれど、頼朝の血も引かないそのへんの武家(前北条)では将軍としての資格がないということですか?


それを「具現化した者こそ」、上に書いた、時宗の時代に源氏賜姓された七代将軍惟康なのだそうです。


しかし、頼朝の血を引かない前北条側からしたら…

▲ 北条氏がそのような将軍にならなかったのは

「…神聖化した将軍の下で得宗が将軍権力を代行するという政治体制(「得宗専制政治」)は、鎌倉幕府の歴史と伝統に基づく正当性、すなわち権威を持っていたのであり、……将軍を時宗が推戴し続けた理由も、この論理にあったのである。」


北条氏得宗は鎌倉将軍の「御後見」なのであり、自ら将軍になる必要もなく、また、なりたくもなかったのである。


ふう~、難しいことを書くことに挑戦してしまった~。
まとまりのない感想文をここまで読んでくださってありがとうござりまする。

マリコ・ポーロ が書いたことでは細川氏のおっしゃる「基調低音」が伝わらないと存じます。『執権』をお読みになってくださいませ。


毎週何かしら思い付いたことを書くぞ!と張り切ったのですが初めて調べることが多く、一週間「太平記漬け」になってしまう。時々、にしようと思います。
(^^;
次は「楠木登場」ですね!


✒ 参考にさせていただいている本など(順不同)

・我らが「旧・八王子城を守る会」会長だった峰岸純夫先生『足利尊氏と直義』
・下野新聞社編集局『下野国が生んだ足利氏』
・森茂暁氏『足利尊氏』
・日本史史料研究会/平野明夫氏編『室町幕府全将軍・管領列伝』
・田中奈保氏講演とレジュメ「鎌倉公方御所の所在について」
・細川重男氏『鎌倉幕府の滅亡』『執権』
・亀田俊和氏『南朝の真実』
・永井晋氏『北条高時と金沢貞顕』


▲今までの関連ブログ記事の一部です。暇で暇でどうしようもない時にでもご覧いただければいと嬉し。

「①大河「太平記 父と子」と、北条高時のこと」
「②大河「太平記 芽生え」と、足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?」
「③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
「講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて」

「氏綱の鶴岡八幡宮再建と氏康の「大鳥居跡」」

「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏」
「前北条と後北条の 「伊豆 修禅寺」」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2020年4月24日 (金)

尊氏の早世した兄と討たれた長男竹若丸~③大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ゴミの収集関係の方、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関係などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~足利尊氏の屋敷跡だった長寿寺の庭は、今頃はシャガ(射干)で覆い尽くされていることでしょう。今年は行けない。~


小田原北条の見聞録なのに見聞に行けないため、以前拝聴してまとめられなかった小田原北条の講演会や、BSで再放送中の大河「太平記」を観ていてフト思い浮かんだことを書いたりしております…

本当は小田原北条の大河で、こういうことをやりたかったんだい!


さて、大河「太平記」3話目は、マリコ・ポーロ待ちに待った後醍醐天皇と尊氏様の出合いが描かれました。何度も同じことを書いて恐縮ですが、醍醐寺のお庭で偶然お見上げした御上。目と目が合ったあの瞬間が尊氏様の恋?の始まり。ドラマでの、これからの二人の関係を象徴しているような気がしました。

御上といい、日野殿といい、佐々木殿といい、京の都は青年時代初期(たぶん)の尊氏にとって刺激強すぎ!


大河「太平記」は今まで何度か観ておりますが、ここにきて、パパ貞氏についてチト違うことと、ドラマに出てこない人達がいることに突然気が付きました。

もちろんドラマですから史実通りでなくても全然かまいませんし、それを言い出したら前回触れた、そもそも尊氏青年は京へ行ったのか?もそうだし、私には分からないアレも、ソレも、コレも、と多々あるのでしょう。


鎌倉炎上前後のことは(も)不勉強・不案内なので良く分からないのですが、以下は気になったことの 三つ鱗(←小田原北条を書く時によく使う…シクシク)です。皆さんはどうにご存知のことと思いますが、数少ない手持ちの本で確認してみました。

合っているかにゃ~?こういう時に図書館へ行けないのがもどかしい。


▲ パパ貞氏はとうに出家していたのでは?

パパは、その偏諱「貞」を賜った、北条高時の父であり数代前の執権「貞時」が没した時に、出家したとされています。


年代を調べてみました。

執権貞時の没年は、応長元年(1311)。尊氏クンの元服は、元応元年(1319)です。ドラマでのパパにはまったく出家者の気配がありませんが、尊氏クンが5-6才の時にすでに出家していたことになりますね。


ただパパの出家はもっと前の執権貞時の生前のことかもしれないという見方もあるようです。尊氏クンが生まれる前のことですが、パパは、物狂所労 (心の病)だったといくつかの記録にあるそうで、出家はそのための可能性が強いそうな。

また、嫡男の次代家督が若くして亡くなった時、尊氏クンはまだ子供でした。一旦は家督を退いていたパパ貞氏が当主に戻ったので、ドラマではバリバリ俗体の設定にしていたのかもしれませんね。


▲ その、嫡男であった尊氏クンの兄はまだ生きていたのでは?

その名は「高義」。母は正室で、金沢殿の娘です。ドラマでは、パパ貞氏が金沢殿のオウチを訪ねた時にチラッと出ました。尊氏や直義のママ上杉清子殿は側室だったのですね。

高義さんが他界したのは 21才の時。病のようです。

高義さんが亡くなった時、尊氏クンは 13才です。元服したのが15才でしたから、ドラマ当初の頃は兄上はまだ存命だったはずです。尊氏少年と直義少年ばかりが出ていましたが、まあ、北条一門の子と側室の子では一緒に過ごすことがない家もありますし、これはドラマである


しっかし、小田原北条と同じですねえ。四代当主の氏政も次男でした。兄上は同じく早世しています。

何度も書いておりますが、もし兄上様が生きていたらその後の小田原北条の運命は違うものになっていたかもしれない。氏政・氏照も、あのような(どのような?)強い絆は結ばれていたでしょうか。


同じように、もし北条一族の婿である高義さんが存命だったら、尊氏・直義ペアはどうなっていたでしょう。鎌倉炎上はあったでしょうか。室町幕府は成立したでしょうか。

すべてはそうなるべくしてそうなったと思うのですが、それでも想像(妄想?)は尽きません。


高義さんは鎌倉の 延(円)福寺 にて弔われたそうです。号は「円福寺殿」。高義さんが母親のために開基したとも、母親が息子のために建てたとも伝わっています。

延福寺は直義が最後に幽閉されていたお寺であり、パパ貞氏や直義の菩提寺「浄妙寺」の裏山にあったそうです。今は廃寺となっています。


▲ 尊氏様にはすでに側室と子息がいた!

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~熱海の伊豆山神社。その子 竹若 は、ここから京へ逃れたともいわれる。~


知りませんでした…。上のふたつ▲を調べていて知りました。幼名は、竹若。母は足利一門の 加古氏の娘とのこと。

尊氏が正室の登子さんとの間に嫡男を授かったのは、25才の時です。それ以前に生まれた子は、父尊氏に認められず後に敵対した 直冬 しか知りませんでした。竹若、皆さんはご存知でした?


ドラマでの尊氏殿は可愛く初心な様子で登子さんとお話しをしていますが、本当はすでに側室も子供もいたのですね。

尊氏さまったら!💛


先のことになりますが、なんと竹若は、北条一門が東勝寺に果てたまさにその年に亡くなっているのですね。父尊氏が鎌倉幕府に叛旗を掲げ六波羅を攻めた時、竹若は京へ逃れる途中、駿河にて北条の追手に討たれたそうです。

生年は不明ですが、直冬や千寿王(義詮)の年齢からするとまだ少年だっと思われます。


なぜ伊豆山神社にいたのだろう…?

竹若の母の父、つまり祖父は基氏といい、足利4代泰氏の子とされています。しかし系図を見ると、泰氏の子に基氏はいません。でも、泰氏の他の息子たち、つまり母親の兄弟たちには、賢宝・覚玄・覚海と出家者の名前があります。竹若の伯父さんの誰かが伊豆山にいたのかな…?


尊氏が家督を継ぐのは27才の時。パパ貞氏が59才で亡くなった後です。遅いですよね。正室を娶るのも遅いです。なにか問題があったのでしょうか。これについては、もっと調べてから書きたいと思うておりまする。書ける知識が増えたらですが…テンテンテン。


✒ 参考にさせていただいている本(順不同)

・我らが「旧・八王子城を守る会」会長だった峰岸純夫先生『足利尊氏と直義』
・下野新聞社編集局『下野国が生んだ足利氏』
・森茂暁氏『足利尊氏』
・日本史史料研究会/平野明夫氏編『室町幕府全将軍・管領列伝』

・細川重男氏『鎌倉幕府の滅亡』
・亀田俊和氏『南朝の真実』
・永井晋氏『北条高時と金沢貞顕』
・田中奈保氏講演とレジュメ「鎌倉公方御所の所在について」


次回は「帝 ご謀反」なり!


「今日(3/21)は、北条氏康の早世した長男の命日です」

「①大河「太平記 父と子」~北条高時のこと」
「②大河「太平記 芽生え」~足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
「講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年4月18日 (土)

足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?~②大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみ収集関係、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品の販売関係、宅配関係などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~足利公方邸があったあたりの滑川(恵観山荘庭にて)鷺がいた~


小田原北条の見聞録なのに見聞に行けないため、以前拝聴してまとめられなかった小田原北条の講演会や、BSで再放送中の大河「太平記」を観ていてフト思い浮かんだことを書いたりしております…


今週の「歴史秘話ヒストリア」は楠正成でした。先日の「英雄たちの選択」は新田義貞でしたし、BS3の大河ドラマアンコールで「太平記」の放映が始まったからなのでしょうか。

先週の「太平記」第2回目では、尊氏と、後醍醐天皇の側近である日野俊基殿が出合いましたねえ。日野殿は尊氏に京の都がどれほど素晴らしいか(そうかね?)を語り、強烈な印象を残して去っていきました。


京への憧れがつのる尊氏クン。それからあんなことやこんなことがあり、尊氏クンはブラザー直義が諫めるのにも耳をかさず、ここをチャンス!とばかりに鎌倉を飛び出し京の都へ向かいます。

ドラマでのことですが、このシーンを観ていて、青年時代初期に京を見た尊氏クンと、見ていないブラザー直義との違いが、兄弟の軋轢を生む原因のひとつになったのかもしれないなどと思いました。


あくまでもドラマの話よ。

実際、足利尊氏はこの頃に京都に行ったのですか?手持ちの本を何冊か調べましたが、そのようなことは見つけられませんでした。


さて、
パパ足利貞氏や、鎌倉での尊氏・直義たちの屋敷がどこにあったのか?のこと。


▲ ふたつの候補地

それは 大蔵稲荷下 のあたりだと、我らが「旧・八王子城を守る会」の会長でらした峰岸先生の『足利尊氏と直義』に書かれていました。


私達が鎌倉で見る「足利公方邸跡」という碑が建っている場所は、八幡宮から → 金沢街道をずーっと行って → パパ貞氏やブラザー直義の菩提寺「浄妙寺」も過ぎ → 「泉水橋」というバス停から住宅街に入るあたりです。

(余談ですが、浄妙寺と泉水橋の途中の街道沿いに「青海波」というお蕎麦屋さんがあります。お蕎麦もお酒も天ぷらも美味しい~。今は状況が外出自粛。鎌倉へは行けませんが、マリコ・ポーロ的にオススメのお店です。)


碑には、
「…足利義兼が居を定め約270年にわたり足利氏の鎌倉屋敷があった。足利尊氏、直義の兄弟は当地で生まれ育った。…」
とあります。

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~足利公方邸旧跡の碑~


▲ 大蔵稲荷下

峰岸先生の本を読んだ時、あれ?大蔵稲荷下とでは場所が違うね…と思いました。

でも、代が変わると屋敷も変わることもあります。現に北条執権家でも16代それぞれの屋敷があり全員が全員同じ屋敷には住んでいませんし、足利家も亀ヶ谷(長寿寺)だったり大倉だったりと代によって違うようです。


大蔵稲荷 がある「大倉(大蔵)」自体の範囲は広いです。今でいう二階堂・西御門・雪ノ下・浄明寺・十二所一帯です。碑が建つあたりも大蔵です。

では、大蔵稲荷 はどこでしょうか?


お手持ちの地図をご覧くださると助かります ー と言ってもほとんどの地図には載っていない謎のお稲荷さんです ー 金沢街道の岐れ道の交差点手前から滑川にかかる「大蔵稲荷橋」を渡って山の中に入った所にあるようです。北条得宗家の東勝寺や宝戒寺などに裏山から抜けられそうですが、しかとは分かりません。

屋敷は 大蔵稲荷「下」 とあるので、その麓の、金沢街道から滑川を渡ったあたり一帯ということですかね?頼朝が建てた父義朝の菩提寺「勝長寿院(跡)」も近くですな。


それとも、滑川は渡らないあたり?いや、それなら大蔵稲荷「下」とはしないでしょう。

あ!
滑川を渡らないとすると、そこは頼朝時代の大倉幕府があった場所で、頼朝の持仏堂だった法華堂や、それこそ頼朝殿のお墓もありますね。

足利家は源氏の嫡流ですから、そこに屋敷を構えたということはありえるような?それとも嫡流だからこそ、そこは聖域で、川を挟んで向かい合ったところに屋敷を構え、日々屋敷から川向うの頼朝殿のお墓を仰ぎ拝んでいた…とか。

いずれにしても、大蔵稲荷の方が、碑の建っている浄明寺より八幡宮にはずっと近く、碑とはちょっと離れています。


友の家の近くでもあり滑川に沿った道もよく歩きますが、このあたりは道が途絶えている(ような感じ?)ので行ったことがなかったです。

(またまた余談ですが、このあたりにも「千花庵」というお酒もアテも充実の雰囲気の良いお蕎麦屋さんがあります。もちろんお蕎麦も美味しいです。)


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~峰岸純夫『足利尊氏と直義』(2009.6) 吉川弘文館~


▲ 峰岸先生の本に戻ると…

・足利義氏(尊氏の直系何代か前)の「大倉亭」に、時の将軍(藤原氏)が方違えに行った(吾妻鏡)。

・「大蔵稲荷下」の貞氏邸で書写した(鎌倉市史)。

・尊氏が丹波で討幕蜂起したとき、息子の千寿王は「大蔵谷」を落ちていった(太平記巻10)。

等々とあり、峰岸先生は、「大倉(大蔵)亭が鎌倉時代を通しての足利氏の館と考えてよいだろう」としています。


フ~ム (~_~) ?
本と地図を見ながら考えていて、ふと思い出しました。そういえば、昨年(令和元年)6月に開かれた鎌倉考古研究所が主催した講演会で、田中奈保氏が足利氏の御所の場所についてお話しされていました!


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~田中奈保氏の講演は「鎌倉公方御所の所在について」~


▲ 田中氏の講演

峰岸先生の本に挙げられていた資史料と引用は同じでしたが、パパ貞氏や尊氏・直義の邸が碑のある方なのか、それとも大蔵稲荷下なのかについて、お話しの中で触れてらしたかどうか、忘れてしまいました…。

が、レジュメには、
「…「大倉」という広い範囲の中で御所が複数あったり移転したりした可能性を考慮せねばならないが、『新編鎌倉志』にいう「公方御所」(浄妙寺東隣)の位置と重なる史料上の初見を改めて検討した結果、その妥当性は高いことを指摘した。…」
とありました。


つまり、尊氏・直義の邸は、碑のある方ということですか?ふーむ。ワテにはもちろん分かりまへんが、では、千寿王が鎌倉から逃れた後、大倉亭 はどうなったのでしょうか。これはレジュメもメモもありました。

田中氏の講演によると、「兄弟の時代の 大倉亭 のことが史料に現われない理由は、北条氏によって破却されたからか?と長塚氏」だそうです。

子息の千寿王は後に、二階堂を足利御所としたそうです。尊氏殿は、中先代の乱後に二階堂から若宮小路の将軍家旧跡へ移ったとのこと。


こうやって書いていると、現地はおろか図書館にも行けないのがもどかしいです。でも、外出は自粛!県をまたいでは尚イケマセン。

「おウチで妄想してね」←小池都知事風に。


次回の3回目は「風雲児」。先のブログにも書いたマリコ・ポーロのイチオシ、尊氏様が初めて御上(後醍醐天皇)をお見上げ申し上げる、あのシーンがいよいよ!


「①BS3大河「太平記~父と子」と、北条高時のこと」
「③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸」

「講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」

萩真尼 こと マリコ・ポーロ


画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2020年4月 7日 (火)

北条高時のこと~①大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ

小田原北条追っかけのマリコ・ポーロなのに、このところ違うことばかり書いております。こんな憂える世界情勢の中、呑気なことを書いていて恐縮ですが…


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~北条義時、時房(連署)、時頼、長時(赤橋)、時宗、高時パパ貞時、そして、高時の屋敷跡「宝戒寺」の鎌倉北条三鱗▲~


前回のブログ記事→ 「大河『太平記』の再放送が始まりますね!(2020.4)」

足利尊氏が出仕したのは北条高時の在位中であり、新田義貞が東勝寺に執権一門を滅亡させるのはその14年後ですか…。

大好きとはいえ、またあの濃ゆいドラマを週に一度、最初から観るのかと少々たじろぎましたが、何度も観ていると観るポイントが変わってきて新たな気分で楽しめそうです。


● 何世代も続く足利の屈従

初回のテーマは、足利一門、特に尊氏パパ貞氏殿が父上から受け継いだ屈従と忍耐が、尊氏にも引き継がれていくような…でした。

タイトルの「父と子」は、尊氏とパパ貞氏だけではなく、パパ貞氏とそのパパ家時 のことでもあったのですね。そして、家時殿にもまた先祖から受け継いだものがありましたよね。そう、重~い重~い、あの「置文」です。追々ドラマで出てきます。


★ 北条高時と妖霊星

さて、北条高時殿と聞いてマリコ・ポーロがまず思い浮かべるのは、妖霊星を見ばや のこと。当ブログを読んでくださる方はご存知でしょうが、高時殿が異形の者たちと

♪ 天王寺ノヤ ヨウレボシ(妖霊星)ヲ見バヤ

と謡い踊っている場面が絵巻でも描かれていて、よく目にします(インターネットでも検索すると画像を見ることができます)。


妖霊星は国が亡びる時に現われるものとされていて、これを知った藤原なんたらとかいう将軍付きの学者が鎌倉幕府滅亡を言い当てたとかいう、あの話です。異形異類の者たちが本当に異形異類だったのか、田楽者だったのか、町場のホームレス達なのかは置いたとしても、これが本当の話かどうかは分かりません。

それは、高時殿を暗愚にしたかった『太平記』の創作だったのかもしれず。


鎌倉によく一緒に行く長年の歴友さんは、お仲間たちと『妖霊星を見ばや~歴史創作鎌倉幕府アンソロジー』という同人誌(なのかな?)なども出してらっしゃり、マリコ・ポーロの鎌倉炎上師匠です。

妖霊星を見ばやは、北条(前の)滅亡を象徴する キャッチコピー のような逸話なのでしょうねえ。


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~「侍気分」さんの、愛用しているデニムの鎌倉北条ポーチ(小田原北条追っかけなのに?)。鎌倉炎上コラージュのTシャツもあったが今はあるかな?店前に鎌倉の遺構が保存してあり、そのあたりの時代ファンは必ず立ち寄る人気店。若宮大路沿いのビルの1階。~


🐶 高時と「犬合わせ」

北条高時といえば「闘犬」も有名です。

古来、血…特に獣の血を忌み嫌う宮廷人にとって、犬同士を噛ませ合わせる遊びなぞは、神仏の祟りが起きそうなほど醜悪で、あな恐ろしや(現代人もそうだと思いますが)。


当時、鎌倉にいた将軍は親王さんです。宮廷人です。ドラマでは、犬合わせの場に親王将軍も同席していましたね。どうりで終始浮かぬ表情をしてらっしゃいました。あれは、得宗殿(高時)の尊氏への仕打ちに対しての表情ではなく、犬合わせそのものに対しての倦んだ表情と見るものかもしれませんね。

尊氏くん、あれだけ噛まれたら普通は狂犬病。。。


しかし、高時が闘犬を異常に好み、犬に絹の装束を着せ、ゴージャスな犬専用の輿に乗せたりしたという話は、やはり高時を暗愚だったとするためにややオーバーに書かれたものかもしれないとの御説も聞きます。


と、色々と書いておりますが、「太平記の時代」については(も)知らないことばかり。

例えば、
鎌倉幕府後半は北条得宗家により北条一門の支配がなされていたと私は思っていましたが、昨今の研究では、一門はそれぞれ独立運営されていて得宗家が仕切っていたわけではないのですってね。新しい研究本をもっと読まなきゃ、ワテ。

我らが「旧・八王子城を守る会」会長だった峰岸純夫先生の数々の著作、永井晋氏『北条高時と金沢貞顕』、細川重男氏『鎌倉幕府の滅亡』、森茂暁氏『足利尊氏』、亀田俊和氏『南朝の真実』など、あっちを読んだり、こっちを読んだりしておりますが、一年、ドラマについていけるかな。


それにしても、暗い。先日、同じく大河の「北条時宗」の総集編をレンタルで観ましたが、鎌倉の歴史は開府してから(する前から?)ずっと血みどろで最後まで暗く、読み終わったり観終わったりした後の 爽快感 がこれっぽちも無いです。山に囲まれた閉塞的な狭い土地でどれだけの血が流れたことか。

されど、惹かれます。

『太平記』で救われるのは、鎌倉だけではなく都や、日本中を舞台として全ての登場人物がドラマチックに描かれているので、爽快感は無いですが、閉塞感も無いというところ、ですか。


パパ貞氏殿は言います。30数年経っても思いは同じだ…
家臣の一色右馬介は申します。いずれ、殿は……
と。

いずれ…
ーー これより長きドラマが始まる。


🐎 置文 のこと少し書いています
「講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて」

「②大河「太平記~芽生え」と、足利尊氏の屋敷はどこにあったのか?」
「③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸」

宝戒寺での高時殿の法要のこと
「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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