2020年7月30日 (木)

猫は二十歳になるとシッポが二つに分かれる説

マリコ・ポーロ

大雨の被害がこれ以上でませんように…。地震も多いです。皆様、雨、地震、ウィルスへの用心は怠りのう。


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~ハタチの朝にゃ~


猫は二十歳になるとシッポの先が二つにわかれ「猫又」になる

と、むか~し「ゲゲゲの鬼太郎」で聞いたような覚えがあるので調べてみた。


🐱 その前に、チビット…

新暦 平成12年7月12日。
生まれたての4匹の猫たちは、江戸時代の北条家菩提寺である広尾「祥雲寺」の門前に捨てられていた。

奇しくもそれは、氏政・氏照が自決した翌日であった(年は違うけど…)。同年9月、その中の1匹は奇しくも北条追っかけのマリコ・ポーロの元にやってくることになる。


たびたびたび、このブログに登場している我が家の猫 マル こと マルゴー・ポーロ が二十歳になりました。高齢猫にありがちな甲状腺機能亢進症の持病で薬は常用しておれど腎臓は問題なく、お陰様で、まあそれなりに元気に誕生日を迎えることができました。

マル、これからもよろしくにゃ。


さて、猫又さんのこと。

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~ハタチの朝、ふたつに分かれているか見てみた。生まれつき「鍵シッポ」なんにゃ~


猫又には、山に住む猫又と、飼われている老猫の猫又との二種類があるそうな。

猫又は鎌倉時代の説話集あたりから表れ、定家が『明月記』に、吉田兼好が『徒然草』に、江戸時代には新井白石も書いているそうです。


🐱 『徒然草』の猫また

奥山に、猫また といふものありて、人を食らふなる 
と人の言いけるに…

で始まります。


ある法師が連歌の帰りの夜、猫また に襲われます。

助けよや、猫また、よや、よや

うぎゃーーっ!
助けてくれーいっ!猫また だーっ!
おーい! おーい!


恐怖におののいた法師が叫ぶと、近所の家々から人々が、どーした、どーしたとワラワラ出て来ます。

が、なんのこたあない。
法師が飼っていたワンコ🐶 が、法師の帰りを喜んで飛びついてきただけ(カワユイ❤)とな。


という話のように、猫また の話はど
れも年老いた猫は妖怪となって人を惑わしたり、食らったりするもののようです。

まあねえ、猫が好きではない方にとっては、若い猫だろうが年とった猫だろうが猫を気味悪く思う方はいらっしゃると思いますが、いずれも猫の習性や、明暗で瞳が変わるところとか、ちょっと何を考えているか分からないようなところからくる迷信です。


🐱 シッポが二つに分かれる説

江戸時代の辞書のようなものには、

老猫は形が大きくなり、しっぽが二股になって災いを成す。これをねこまたともいう。

とか、

俗に老猫でしっぽが二股に分かれ、人をたぶらかす

とか書かれているそうな。


猫のシッポが二つに分かれる説(説か?)はどこから生まれたのでござんすかねえ?

(「玉藻前」の九尾のキツネの話 + 狐も猫も「化ける」というイメージ) x 様々な俗説 

猫のシッポが分かれる説に?


いずれにしても、様々なことが混ざり合って「猫は二十歳になると(何故ハタチかは不明)、シッポが二つに分かれる」ということになったのでしょう。

我が家の マル こと マルゴー・ポーロ は、今のところシッポは分かれていません。けっこう楽しみにしていたのじゃがのう。


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~保護した方がくださったマルの兄弟姉妹との集合写真。「大きくなったら見せてあげて」って…?~


「今日はマルゴー姫の誕生日(2010)」

「「虎の子」 多摩動物園サマーナイト(2010)」
「今年も「多摩動物園サマーナイト」、上野もあるでよ(2011)」


マリコ・ポーロ & マルゴー・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2020年5月13日 (水)

④ 大河「太平記~帝ご謀反」と、北条家はなぜ将軍にならなかったのか?

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~『執権』2019.10 細川重男著(講談社学術文庫)カバーデザイン 蟹江征治氏~


小田原北条の見聞録なのに見聞に行けないため、以前拝聴してまとめられなかった小田原北条の講演会や、BSで再放送中の大河「太平記」を観ていてフト思い浮かんだことを書いたりしております…


第④話&⑤話を続けて観ました。謀反とは下の者が上の者にたいして起こすことを言いますが、上の者(帝)が下の者(執権家)に対して起こしたことは何という?

タイトルの「帝 ご謀反」とは、それをとらまえてワザと付けたのかな?


京の都から我が家に帰る時の尊氏様。頭から京で起きた様々なことが離れず、どうしたらいい?右馬介…と見事な乗馬姿(馬の背に寝転ぶ)で悶々としています。分かりますよね~、これ。

どこかへ旅行に行って帰る時の気持ち。あぁ、この高速に乗ったら、あぁ、この電車に乗ったら、あとは現実へまっしぐら。最寄りの駅に着く間際に流れる新幹線のアナウンス。

「We will soon arraive at 東京、品川、新横浜、上野、大宮、etc.」(←だっけ?)
が、
「We will soon arraive at 現実

に聞こえるもの。ドラマでのあの時の尊氏クンの気持ちとは比べものにならないでしょうが…


太平記の時代はただ今勉強中で、まだまだまだまだドラマや小説からの知識を超えるには時間がかかりそうですが、道誉殿は以前より鎌倉に居住していたのですね。

森茂暁氏の『足利尊氏』2017.3(角川選書)で、
足利尊氏はこうしたいわば後醍醐シンパたちといっしょに都市鎌倉に居住していたのであるから、折にふれての後醍醐関係の情報は彼らの間で共有・蓄積されたに違いない。…
と読んだ時、あれ?と思ったのです。


ドラマでは、尊氏が京の都で初めて道誉に会ったように設定されていましたが、本来は、尊氏と道誉は鎌倉にてかなり付き合いがあったということなのですかねえ。道誉が鎌倉の御相伴衆だということも忘れてしまっていました。


さて、本題でござる。

ドラマの④・⑤ を観ていて、以前より気になっていたことを思い出しました。これほどの権力を持ちながら、そも、前北条家はなにゆえ将軍にならなかったのだろうか?

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~北条得宗・執権の屋敷跡だった宝戒寺参道の碑。「北條九代屋敷 頼経公」とある~


まずは、↑ の謎の碑のこと。

この「頼経」とは誰ですか?
前にも書きましたが、ここが屋敷だったのは今のところ得宗・執権・連署の7人(7人は連続していない)と伝えられています。また、北条の9代目は、大河「太平記」の足利のパパ貞氏殿が「貞」の偏諱をもらった 貞時殿です。

それに、もし鎌倉北条家の人だったら源氏の「頼」を使いますかねえ?


「頼経」と聞いて思い浮かぶのは、源氏三代が果てたあと執権義時が京の公家から迎えた四代将軍「藤原(九条)頼経」、昔のドラマや小説などで「三寅」と呼ばれた幼児です。この子は、頼朝の妹の曽孫でした。

鎌倉の混乱をおさえるために頼朝の血筋を将軍として据えたとも以前はいわれることもありました。でも、当初は親王さんを迎えたくお願いしていたようなので、そうではないかな?

この幼児は8歳で元服し征夷大将軍となりますが、30才にならぬ前に時の執権により追い出され京に帰ります。


頼経以降の鎌倉将軍て、最後の守邦親王さん以外は皆追放されていますよね。守邦さんだってなんだか無視されていたような感じですし、「鎌倉炎上」時はどうしていたかも知りません(私だけ?)。いったい鎌倉幕府って、なんなんでしょうねえ?

な~んて、執権より将軍の方に気持ちが流れてしまいそう。


碑のことですが、ほな、「頼経」とは誰のことでしょう?北条得宗や執権に「頼経」という別名を持つ人がいたのでしょうか?調べても見つけられません。

碑は「北條九代屋敷」と「頼経公」とに少し間が開いていますね。ここは北條九代(誰?)の屋敷跡でもあり将軍頼経の屋敷跡でもある、と並列表記したのでしょうか?

ワテには分からん…。


6/6 加筆
細川重男氏の『鎌倉幕府の滅亡』を再読していて、「北條九代」の意味だけは分かりました。皆さんはご存知だったと思いますが、

北條九代=北條得宗家

を言うそうですね!時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時 の9人で九代ですか。

少しスッキリしましたが…頼経さんはいにゃい。


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~佐殿の前に突如現われたる名馬「池月」。まさに「池に映る月影」のようだった。伝承である(大田区洗足池)~


そこで話は戻り、前北条家はなぜ征夷大将軍にならなかったのかについてです。が、しかし、そんな難しいことが マリコ・ポーロ に分かるはずもないゆえ、細川重男氏『執権』を読んでみたのです。


それは「源氏ではないから」だと、以前はなんの疑問も持ちませんでした。そして、「ならなかった」のではなく「なれなかった」、つまり、「前北条家は将軍になりたかったけれど、源氏ではないのでなれなかった」と思っていました。

しかしある時、フト、あにゃ?源氏でなくても、親王さんやお公家さんも将軍になっているよね?ということに気が付きました。
今更ながらで…(^^;

坂東の戦国時代を調べるだけでも目いっぱい。イカン、イカン、これ以上興味の幅を広げては…とそれ以上は追及していなかったのですが、再来年(順調にいけば)の大河が義時殿と聞いて、がっくり気落ちしながらもチト気になったのです。


本では鎌倉北条のことを、「何の正当性もない極悪の政権・悪の一族がこれほどの長期間支配を存続することが可能なのであろうか…」と細川先生らしい書きようでしたが(どひゃ~💦)、「だとすれば、北条氏にも、その支配の正当性を支える論理が存在したのではないか…」と続きました。

じゃあ、それって何なのだろう?その論理で、あの長~~い年月、権力を維持していたのだろうか?


本は、二人の執権(得宗)、そして、私感ながら一人の将軍を中心に、「北条氏はなぜ将軍にならなかったのか」の答えに向かって進みます。

その二人とは、小四郎こと北条義時&時宗。一人の将軍とは、源氏賜姓をうけた7代惟康親王。北条時宗の時代の将軍です。


「この本は北条氏という「一族の物語」ではなく、「一族の物語」の底を流れる「基調低音」を書くことが目的」だそうです。

うーん、難ちい…。
浅い知識と働きの悪い脳の マリコ・ポーロ には、悲しいかな底を流れる基調低音はくみ取ることが出来ませんでした。

しかし、とても面白かったです。あっという間に読んでしまいました~ ♪(←じっくり読まないから基調低音が聞こえないんだ!)


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~能登国では佐殿の愛馬「池月」は能登町宇向田牧山の産とする。能登町鳥屋酒造さんの銘酒「池月」。器は福島相馬焼。自粛中、マリコ・ポーロは飲んでばかりいるんだろうって?チビットしか飲んでおりませぬ。免疫力が落ちるゆえ。~


話を戻し、それでは…

▲ 鎌倉将軍として必要だったものは

「清和源氏であることは、まったく意味をなさない。」(やっぱりそうだったのね。)

「必要だったのは、清和源氏であることではなく、頼朝の後継者であることではなかったろうか。」

「神格化した頼朝の後継者であることが、武家政権の首長たる将軍にとって必要な資格であったのではないか」


つまりは、鎌倉将軍には神格化されたものが必要で、頼朝の血筋の者なら後継者になりうるけれど、頼朝の血も引かないそのへんの武家(前北条)では将軍としての資格がないということですか?


それを「具現化した者こそ」、上に書いた、時宗の時代に源氏賜姓された七代将軍惟康なのだそうです。


しかし、頼朝の血を引かない前北条側からしたら…

▲ 北条氏がそのような将軍にならなかったのは

「…神聖化した将軍の下で得宗が将軍権力を代行するという政治体制(「得宗専制政治」)は、鎌倉幕府の歴史と伝統に基づく正当性、すなわち権威を持っていたのであり、……将軍を時宗が推戴し続けた理由も、この論理にあったのである。」


北条氏得宗は鎌倉将軍の「御後見」なのであり、自ら将軍になる必要もなく、また、なりたくもなかったのである。


ふう~、難しいことを書くことに挑戦してしまった~。
まとまりのない感想文をここまで読んでくださってありがとうござりまする。

マリコ・ポーロ が書いたことでは細川氏のおっしゃる「基調低音」が伝わらないと存じます。『執権』をお読みになってくださいませ。


毎週何かしら思い付いたことを書くぞ!と張り切ったのですが初めて調べることが多く、一週間「太平記漬け」になってしまう。時々、にしようと思います。
(^^;
次は「楠木登場」ですね!


✒ 参考にさせていただいている本など(順不同)

・我らが「旧・八王子城を守る会」会長だった峰岸純夫先生『足利尊氏と直義』
・下野新聞社編集局『下野国が生んだ足利氏』
・森茂暁氏『足利尊氏』
・日本史史料研究会/平野明夫氏編『室町幕府全将軍・管領列伝』
・田中奈保氏講演とレジュメ「鎌倉公方御所の所在について」
・細川重男氏『鎌倉幕府の滅亡』『執権』
・亀田俊和氏『南朝の真実』
・永井晋氏『北条高時と金沢貞顕』


▲今までの関連ブログ記事の一部です。暇で暇でどうしようもない時にでもご覧いただければいと嬉し。

「①大河「太平記 父と子」と、北条高時のこと」
「②大河「太平記 芽生え」と、足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?」
「③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
「講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて」

「氏綱の鶴岡八幡宮再建と氏康の「大鳥居跡」」

「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏」
「前北条と後北条の 「伊豆 修禅寺」」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2020年4月24日 (金)

③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ゴミの収集関係の方、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関係などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~足利尊氏の屋敷跡だった長寿寺の庭は、今頃はシャガ(射干)で覆い尽くされていることでしょう。今年は行けない。~


小田原北条の見聞録なのに見聞に行けないため、以前拝聴してまとめられなかった小田原北条の講演会や、BSで再放送中の大河「太平記」を観ていてフト思い浮かんだことを書いたりしております…

本当は小田原北条の大河で、こういうことをやりたかったんだい!


さて、大河「太平記」3話目は、マリコ・ポーロ待ちに待った後醍醐天皇と尊氏様の出合いが描かれました。何度も同じことを書いて恐縮ですが、醍醐寺のお庭で偶然お見上げした御上。目と目が合ったあの瞬間が尊氏様の恋?の始まり。ドラマでの、これからの二人の関係を象徴しているような気がしました。

御上といい、日野殿といい、佐々木殿といい、京の都は青年時代初期(たぶん)の尊氏にとって刺激強すぎ!


大河「太平記」は今まで何度か観ておりますが、ここにきて、パパ貞氏についてチト違うことと、ドラマに出てこない人達がいることに突然気が付きました。

もちろんドラマですから史実通りでなくても全然かまいませんし、それを言い出したら前回触れた、そもそも尊氏青年は京へ行ったのか?もそうだし、私には分からないアレも、ソレも、コレも、と多々あるのでしょう。


鎌倉炎上前後のことは(も)不勉強・不案内なので良く分からないのですが、以下は気になったことの 三つ鱗(←小田原北条を書く時によく使う…シクシク)です。皆さんはどうにご存知のことと思いますが、数少ない手持ちの本で確認してみました。

合っているかにゃ~?こういう時に図書館へ行けないのがもどかしい。


▲ パパ貞氏はとうに出家していたのでは?

パパは、その偏諱「貞」を賜った、北条高時の父であり数代前の執権「貞時」が没した時に、出家したとされています。


年代を調べてみました。

執権貞時の没年は、応長元年(1311)。尊氏クンの元服は、元応元年(1319)です。ドラマでのパパにはまったく出家者の気配がありませんが、尊氏クンが5-6才の時にすでに出家していたことになりますね。


ただパパの出家はもっと前の執権貞時の生前のことかもしれないという見方もあるようです。尊氏クンが生まれる前のことですが、パパは、物狂所労 (心の病)だったといくつかの記録にあるそうで、出家はそのための可能性が強いそうな。

また、嫡男の次代家督が若くして亡くなった時、尊氏クンはまだ子供でした。一旦は家督を退いていたパパ貞氏が当主に戻ったので、ドラマではバリバリ俗体の設定にしていたのかもしれませんね。


▲ その、嫡男であった尊氏クンの兄はまだ生きていたのでは?

その名は「高義」。母は正室で、金沢殿の娘です。ドラマでは、パパ貞氏が金沢殿のオウチを訪ねた時にチラッと出ました。尊氏や直義のママ上杉清子殿は側室だったのですね。

高義さんが他界したのは 21才の時。病のようです。

高義さんが亡くなった時、尊氏クンは 13才です。元服したのが15才でしたから、ドラマ当初の頃は兄上はまだ存命だったはずです。尊氏少年と直義少年ばかりが出ていましたが、まあ、北条一門の子と側室の子では一緒に過ごすことがない家もありますし、これはドラマである


しっかし、小田原北条と同じですねえ。四代当主の氏政も次男でした。兄上は同じく早世しています。

何度も書いておりますが、もし兄上様が生きていたらその後の小田原北条の運命は違うものになっていたかもしれない。氏政・氏照も、あのような(どのような?)強い絆は結ばれていたでしょうか。


同じように、もし北条一族の婿である高義さんが存命だったら、尊氏・直義ペアはどうなっていたでしょう。鎌倉炎上はあったでしょうか。室町幕府は成立したでしょうか。

すべてはそうなるべくしてそうなったと思うのですが、それでも想像(妄想?)は尽きません。


高義さんは鎌倉の 延(円)福寺 にて弔われたそうです。号は「円福寺殿」。高義さんが母親のために開基したとも、母親が息子のために建てたとも伝わっています。

延福寺は直義が最後に幽閉されていたお寺であり、パパ貞氏や直義の菩提寺「浄妙寺」の裏山にあったそうです。今は廃寺となっています。


▲ 尊氏様にはすでに側室と子息がいた!

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~熱海の伊豆山神社。その子 竹若 は、ここから京へ逃れたともいわれる。~


知りませんでした…。上のふたつ▲を調べていて知りました。幼名は、竹若。母は足利一門の 加古氏の娘とのこと。

尊氏が正室の登子さんとの間に嫡男を授かったのは、25才の時です。それ以前に生まれた子は、父尊氏に認められず後に敵対した 直冬 しか知りませんでした。竹若、皆さんはご存知でした?


ドラマでの尊氏殿は可愛く初心な様子で登子さんとお話しをしていますが、本当はすでに側室も子供もいたのですね。

尊氏さまったら!💛


先のことになりますが、なんと竹若は、北条一門が東勝寺に果てたまさにその年に亡くなっているのですね。父尊氏が鎌倉幕府に叛旗を掲げ六波羅を攻めた時、竹若は京へ逃れる途中、駿河にて北条の追手に討たれたそうです。

生年は不明ですが、直冬や千寿王(義詮)の年齢からするとまだ少年だっと思われます。


なぜ伊豆山神社にいたのだろう…?

竹若の母の父、つまり祖父は基氏といい、足利4代泰氏の子とされています。しかし系図を見ると、泰氏の子に基氏はいません。でも、泰氏の他の息子たち、つまり母親の兄弟たちには、賢宝・覚玄・覚海と出家者の名前があります。竹若の伯父さんの誰かが伊豆山にいたのかな…?


尊氏が家督を継ぐのは27才の時。パパ貞氏が59才で亡くなった後です。遅いですよね。正室を娶るのも遅いです。なにか問題があったのでしょうか。これについては、もっと調べてから書きたいと思うておりまする。書ける知識が増えたらですが…テンテンテン。


✒ 参考にさせていただいている本(順不同)

・我らが「旧・八王子城を守る会」会長だった峰岸純夫先生『足利尊氏と直義』
・下野新聞社編集局『下野国が生んだ足利氏』
・森茂暁氏『足利尊氏』
・日本史史料研究会/平野明夫氏編『室町幕府全将軍・管領列伝』

・細川重男氏『鎌倉幕府の滅亡』
・亀田俊和氏『南朝の真実』
・永井晋氏『北条高時と金沢貞顕』
・田中奈保氏講演とレジュメ「鎌倉公方御所の所在について」


次回は「帝 ご謀反」なり!


「今日(3/21)は、北条氏康の早世した長男の命日です」

「①大河「太平記 父と子」~北条高時のこと」
「②大河「太平記 芽生え」~足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
「講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年4月 7日 (火)

①大河「太平記~父と子」と、北条高時のこと

マリコ・ポーロ

小田原北条追っかけのマリコ・ポーロなのに、このところ違うことばかり書いております。こんな憂える世界情勢の中、呑気なことを書いていて恐縮ですが…


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~北条義時、時房(連署)、時頼、長時(赤橋)、時宗、高時パパ貞時、そして、高時の屋敷跡「宝戒寺」の鎌倉北条三鱗▲~


前回のブログ記事→ 「大河『太平記』の再放送が始まりますね!(2020.4)」

足利尊氏が出仕したのは北条高時の在位中であり、新田義貞が東勝寺に執権一門を滅亡させるのはその14年後ですか…。

大好きとはいえ、またあの濃ゆいドラマを週に一度、最初から観るのかと少々たじろぎましたが、何度も観ていると観るポイントが変わってきて新たな気分で楽しめそうです。


● 何世代も続く足利の屈従

初回のテーマは、足利一門、特に尊氏パパ貞氏殿が父上から受け継いだ屈従と忍耐が、尊氏にも引き継がれていくような…でした。

タイトルの「父と子」は、尊氏とパパ貞氏だけではなく、パパ貞氏とそのパパ家時 のことでもあったのですね。そして、家時殿にもまた先祖から受け継いだものがありましたよね。そう、重~い重~い、あの「置文」です。追々ドラマで出てきます。


★ 北条高時と妖霊星

さて、北条高時殿と聞いてマリコ・ポーロがまず思い浮かべるのは、妖霊星を見ばや のこと。当ブログを読んでくださる方はご存知でしょうが、高時殿が異形の者たちと

♪ 天王寺ノヤ ヨウレボシ(妖霊星)ヲ見バヤ

と謡い踊っている場面が絵巻でも描かれていて、よく目にします(インターネットでも検索すると画像を見ることができます)。


妖霊星は国が亡びる時に現われるものとされていて、これを知った藤原なんたらとかいう将軍付きの学者が鎌倉幕府滅亡を言い当てたとかいう、あの話です。異形異類の者たちが本当に異形異類だったのか、田楽者だったのか、町場のホームレス達なのかは置いたとしても、これが本当の話かどうかは分かりません。

それは、高時殿を暗愚にしたかった『太平記』の創作だったのかもしれず。


鎌倉によく一緒に行く長年の歴友さんは、お仲間たちと『妖霊星を見ばや~歴史創作鎌倉幕府アンソロジー』という同人誌(なのかな?)なども出してらっしゃり、マリコ・ポーロの鎌倉炎上師匠です。

妖霊星を見ばやは、北条(前の)滅亡を象徴する キャッチコピー のような逸話なのでしょうねえ。


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~「侍気分」さんの、愛用しているデニムの鎌倉北条ポーチ(小田原北条追っかけなのに?)。鎌倉炎上コラージュのTシャツもあったが今はあるかな?店前に鎌倉の遺構が保存してあり、そのあたりの時代ファンは必ず立ち寄る人気店。若宮大路沿いのビルの1階。~


🐶 高時と「犬合わせ」

北条高時といえば「闘犬」も有名です。

古来、血…特に獣の血を忌み嫌う宮廷人にとって、犬同士を噛ませ合わせる遊びなぞは、神仏の祟りが起きそうなほど醜悪で、あな恐ろしや(現代人もそうだと思いますが)。


当時、鎌倉にいた将軍は親王さんです。宮廷人です。ドラマでは、犬合わせの場に親王将軍も同席していましたね。どうりで終始浮かぬ表情をしてらっしゃいました。あれは、得宗殿(高時)の尊氏への仕打ちに対しての表情ではなく、犬合わせそのものに対しての倦んだ表情と見るものかもしれませんね。

尊氏くん、あれだけ噛まれたら普通は狂犬病。。。


しかし、高時が闘犬を異常に好み、犬に絹の装束を着せ、ゴージャスな犬専用の輿に乗せたりしたという話は、やはり高時を暗愚だったとするためにややオーバーに書かれたものかもしれないとの御説も聞きます。


と、色々と書いておりますが、「太平記の時代」については(も)知らないことばかり。

例えば、
鎌倉幕府後半は北条得宗家により北条一門の支配がなされていたと私は思っていましたが、昨今の研究では、一門はそれぞれ独立運営されていて得宗家が仕切っていたわけではないのですってね。新しい研究本をもっと読まなきゃ、ワテ。

我らが「旧・八王子城を守る会」会長だった峰岸純夫先生の数々の著作、永井晋氏『北条高時と金沢貞顕』、細川重男氏『鎌倉幕府の滅亡』、森茂暁氏『足利尊氏』、亀田俊和氏『南朝の真実』など、あっちを読んだり、こっちを読んだりしておりますが、一年、ドラマについていけるかな。


それにしても、暗い。先日、同じく大河の「北条時宗」の総集編をレンタルで観ましたが、鎌倉の歴史は開府してから(する前から?)ずっと血みどろで最後まで暗く、読み終わったり観終わったりした後の 爽快感 がこれっぽちも無いです。山に囲まれた閉塞的な狭い土地でどれだけの血が流れたことか。

されど、惹かれます。

『太平記』で救われるのは、鎌倉だけではなく都や、日本中を舞台として全ての登場人物がドラマチックに描かれているので、爽快感は無いですが、閉塞感も無いというところ、ですか。


パパ貞氏殿は言います。30数年経っても思いは同じだ…
家臣の一色右馬介は申します。いずれ、殿は……
と。

いずれ…
ーー これより長きドラマが始まる。


🐎 置文 のこと少し書いています
「講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて」

「②大河「太平記~芽生え」と、足利尊氏の屋敷はどこにあったのか?」
「③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸」

宝戒寺での高時殿の法要のこと
「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年4月 4日 (土)

大河「太平記」の再放送が始まりますね!(2020.4)

マリコ・ポーロ


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「新田浪漫」北嶋屋さん。新田義貞ゆかりの新田神社のある武蔵新田駅前商店街のオシャレな酒屋さんです。店内の中央に鎮座ましますのは、お酒のスチール樽。いくつかのお酒が量り売りで、ボトルが選べ、ラベルも自分で描けます(私はお店の方に描いてもらいました)。


さて、
BS3「大河ドラマアンコール」。昨年度の「葵三代」に続いて「太平記」が4月5日(日)から始まりますね!

先日の「英雄たちの選択」は、その前ノリなのかどうかは分かりませんが、新田義貞でした。呉座氏・高橋源一郎氏・島田久仁彦氏のご機嫌な(?)トークがとっても興味深かった…というより、とっても面白かったです!


「太平記」は、あまたの大河ドラマの中でマリコ・ポーロの ベスト1です。それもダントツで。

原作は学生時代の夏休みに読んで一時は夢中になったのですが、大河ドラマで最初にリアルタイムで観た時は、もーねー、尊氏さまの優柔不断さについて行けなくて、途中で離脱しました。

それから十数年、歴史の見方が少し変わった頃、レンタルビデオで借りて観てみたら…思いっきりハマりましたよぉ。オンデマンドや、好きな回をまたレンタルしたりして何度も観ました。


当ブログにも、大河ドラマの「太平記」や鎌倉の縁の地のことを感情的(?)感傷的(?)に何度も書いたりしてきました。一時は、小田原北条見聞録をやめて、鎌倉炎上見聞録に変えようかと思ったほど。

やっとクールダウンしたのに、なんとまたBSで始まることに!あの濃ゆ~いドラマをまた最初から観るのか…。嬉しいような、脳内がまた太平記一色になるのが困るような…。


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~鶴岡八幡宮「歴史画集」新田義貞が稲村ケ崎に太刀を奉ずる図~


大河「太平記」は、ストーリーや脚本はもちろんのこと、役者さん達がまた全員が素晴らしかったですよねえ。

尊氏さまは、マリコ・ポーロが是非にも北条氏照を演じていただきたいと思っていた真田広之さん。弟くんの直義が、氏政さまより遥かに良かった(私感)高嶋政伸さん。「弟を殺してしまったーーーーっ」。あのシーンは忘れられません。

家と一族を守るためにグッと我慢のパパ貞氏。素敵でした。緒形拳さん、それまでとはチョット違う役柄でしたね。


後醍醐天皇の片岡孝夫(仁左衛門)さんは私が大好きなツートップの役者さんなので(もう一人は言わない)、なんの文句もありようがありません。格調高く、また、孝夫さんは元々ドラマや歌舞伎でも悪役としても華があるので、したたかな後醍醐天皇がピッタリでした。

醍醐寺のお庭で尊氏くんが初めて御上をお見上げ申し上げた時の衝撃。二人が美しかったですぅ~~(←何度も同じことを書いて恐縮)。あの一瞬が、その後の尊氏さまをず~っと引きずっていましたよねえ(ドラマでのこと)。


鶴太郎さんの北条高時も、勝野さんの赤橋殿も、フランキー堺さんの長崎殿も良かったですよね~。東勝寺での最後のシーン。繰り返して観ました。後藤久美子さんの北畠顕家くん。最初に配役を知った時は謎?謎?謎?でしたが、良かったわ~。近藤正臣さんの、パパ親房殿は言うに及ばず!

佐々木道誉は陣内孝則さんでしたね。尊氏さまについたり離れたり。でも結局は尊氏さまラブ❤でね(ドラマの話)。隠岐の島に御上が降り立つ時に、御上がフッと道誉の肩に触れるシーン。故意か偶然か。陣内さんの表情が良かったです。


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~「義貞の旗」阿部龍太郎。「積読 つんどく」状態になっていたが、家にいる時間が長くなったためまた読み始めた。~


新田義貞は、始まってすぐに役者さんが変わりましたね。ショーケンも良かったかもしれませんが、根津甚八さん良かったです。正成の、どうしても尊氏さまには勝てない劣等感や暗さが伝わってきました。

そして、なによりも、武田鉄矢さんの楠正成!!
武田鉄矢さんはあまり…ごにょですが、正成は良かった。すっごく良かった。


う~む、限がないですな。書いていると興奮しちゃって、良かった~の連呼でなんの感想にもなっていませんが、とにかく大河「太平記」は、「物語好き」にとっては、良かったと思います。

鬼籍に入った役者さんも多いですが、もう観ることが出来ない名演が観られるのも楽しみです。


「麒麟がくる」の収録もお休みになりましたね。再来年の大河が「後」北条ではなく「前」北条と決まってから大河ドラマへの興味が一気に薄れ、実は「麒麟がくる」も観ていなかったのですが、「太平記」となると楽しみです。


呑気な話ですみません。

しかし、「麒麟がくる」に限らず、暫くの間はドラマの収録が難しいでしょうねえ。となると、昔の名作ドラマの再放送が増えることと思います。また、スタジオに大勢集まってギャアギャアギャアギャア わめきまくるバラエティ番組も減るでしょうねえ。


どれだけ気を付けてもどうにもならないかもしれませんし、私も楽しくブログを書いているようですが、毎日どうしようもなく欝々としております。皆様、どうぞくれぐれも気を付けて日々をお過ごしくださいませ。

よろしくば ↓
「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
「「太平記~父と子①」大河ドラマアンコール」

「なぜ小田原北条は大河にならないのか?」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2018年6月23日 (土)

『新九郎、奔る!』 ゆうきまさみ 著

マリコ・ポーロ


(加筆、2019.9.1 小田原での ゆうきまさみ氏のトークセッションの様子です。→「講演「伊勢宗瑞 漫画家と歴史家が語る北条早雲」」


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~八王子城~


その前に…
今日、6月23日、八王子城落城。

八王子城と城主北条氏照については、9年前に当ブログを始めた時から書き尽くして参りましたが、八王子城は「戦国の終わりを告げた城」 (by 故椚國男)であります。八王子城は、小田原開城のとどめとなりました。(今の暦では、今年は8月4日になります。)


そんな日に、北条の始まり…いえ、始まる前から を描いたコミックのご紹介を。

それは、「月刊!スピリッツ」小学館 に3月から連載されている漫画 『新九郎、奔る!』 。お!皆様すでにご存知でしたか!


文正元年(1466年)山城国。
我らが北条早雲こと伊勢千代丸(新九郎)クンは11才。年齢は新しい説をとっていますな。賢く、物怖じしない正義感の強い少年に描かれています。お姉ちゃんの、後の北川殿も、勝気で好奇心旺盛な女の子。

そんな千代丸くんが、父上や叔父上や兄上や北川殿が暮らす京へ向かうことになります。都は応仁の乱前夜。千代丸クンは、そこで細川・山名らと幼いながらも丁々発止…とまではまだいかないようですが、今月号(6/26発売)は、いよいよ応仁の乱勃発です!


作者の ゆうきまさみ氏は伊勢宗瑞を敬愛されてらっしゃるそうで、内容は本格的。セリフが多く、応仁の乱をよく知らない私にとっては、一度読んだだけでは把握できず、何度も読み返しています。

これは、まさかの 初の大河ドラマ原作がマンガ となるかもしれない!それは、原作がなく、支離滅裂な脚本で大河ドラマを制作するよりは遥かに良い。


ここに絵を載せるわけにはいかないのが残念ですが、成長した新九郎青年はりりしいイイ男。

単行本になるのを待とうと思っていたのですが、連載が始まる3月号に新九郎さんのクリアファイルのオマケが付いていたので購入。そうなると、続きがどんどん読みたくなり、そのあとは電子書籍で読んでいます。

(追記:8月に単行本が出るそうです!!)


八王子城戦で果てた人々に、合掌


「八王子城戦~前田家臣たちの証言と、彼らの驚きのその後」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-cfde.html
「報告▲八王子城の発掘調査見学会」御主殿の地は焼けていた
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-cac0.html


以下、八王子城落城について書いた記事の極一部です。ご再読賜れれば嬉しいです。

「八王子城落城、氏照の残・念」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-4eae.html

「今夜半、八王子城総攻撃始まる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/420-9797.html

「今日、八王子城 落ちる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-0e49.html

「八王子城、戦い済んで日は暮れて・・・」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-1bb4.html

昨年の番外編
「檜原の残影、横地監物と武田の松姫さま」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-f195.html

もっと番外編 「城跡の幻影」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-75cf.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2016年6月29日 (水)

歴史を変えていく「大河ドラマ」

020
~9年位前に撮った写真~


真田丸ロス・・・

えーっ?!
裏で(表でも)あんなに文句言っていたのに、メンドクサイ女だな~。←天の声


「真田丸」が終わってしまい (え?)、ブログを書く張り合いが無くなってしまいました。放映していた時は、「他にあれもこれも書きたいのに、氏政さんの弁護に燃えて(萌えて)全然書けないじゃあないか!」とハラタツノリ だったのに、いざ終わってみると、それまで何を書こうとしていたか思い出せにゃい…(^^;

「小田原北条落城・開城強化月間」だったのに、毎年書いている、鉢形の開城や、瑞渓院の籠城中の自害や、我が八王子城落城や、韮山城開城などなどもつい書き忘れてしまい申した。


前半と、舞台が一度大阪へ移った後また関東へ戻った後半との氏政・氏直父子の性格設定が随分変わっていましたね。なんじゃ?これは。最初から後半のキャラクターでやってくれていたら私もここまでハラタツノリにはならなかったのに・・と思ってしまいましたよ。

それはそれとして。


さて、
以下は北条狂の独り言ゆえ、そうではない方々には御免なすって。

何度も何度もしつこいですが、私はなにも大河ドラマは史実通りにやれなどとは これっぽっちも思っておりやせん。だいいち当時生きていた人はいないのですから史実なんてホントのところ分からないですものね。書状は残っていても嘘やハッタリを書いているかもしれないし、実際の話し言葉や話し方なんてまったく分からないもの。


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~川中島。大河「風林火山」の頃に撮った写真。~


今、毎週日曜日にBSで「武田信玄」の再放送をやっています。何度観たか覚えていませんが、また観ていて思いました。

武田信玄と上杉謙信の川中島での一騎討ちは、実はなかった・・

そんなことは、チョッと歴史が好きならほとんどの人は知っています。でも、信玄や謙信を主役にした大河ドラマで一騎討ちのシーンがなかったら、なんだか物足りないと思いませんか。


「何故、なかった事をさもあった事のようにやるんだ!視聴者があったと思っちゃうじゃないか!」なんてハラタツノリにも全然ならない(私は)。だって、ドラマだもん。

そのシーンの放映日を心待ちにし、どういう演出になるのか、役者さんがどういう演技をするのかを楽しむ。だって、ドラマだもん。


そして、それは、武田信玄と上杉謙信のイメージダウンには、まったくならない。

でも、信玄や謙信のファンは嫌かな?


まあ川中島一騎討ちほどになれば、もはや歌舞伎でいうところの「型」ですが、小田原北条で言えば、まずは北条早雲こと伊勢宗瑞の「火牛の計」ですかね。

万が一、北条が大河になって「火牛の計」をやったら・・・やっぱり私は嫌だな~。そりゃあ宗瑞が格好良く描かれるでしょうし、本当はどうだったかが分からないから、そこは創作が入るとしても、もそっと真実味のある小田原奪取をやってほしいと思うでしょうねえ。


では、北条友がおっさていた氏康の「河越夜戦」は?

あれも後世に作られた話ですが、「風林火山」ではやっていましたよね。北条ファンは知っていますが、特に北条のファンではない歴史ファンではほとんどの方が「夜戦は本当だ」と思っていたことですよね。

あの時、上杉憲政を演じた市川左團次さんは、さすがに上手くて御大の風のある憲正でしたが、憲正ファンは憤慨していたのかなあ・・。


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~小田原の早雲像。火牛の計の牛さん達と伊勢宗瑞。伝説とはいえ、カッコイイ。~


「大河ドラマ」は影響が大きいです。

たった一回のドラマのイメージが視聴者の脳内に植え付けられてしま います。我が家の親や同僚たちのように「大河でやっていることは、ほぼ本当のこと」と思う人が多いのです。


また、大河でやると、NHKはじめ各局の歴史バラエティー番組も、そのコンセプトに追従することが多いです。お祭りや観光パンフレットや観光歴史館なども、それに沿って作られます。そうこうしているうちに、非常にそのエリアのその時代に詳しい人は別ですが、それはだんだん定説になっていくと思うのです。

私も北条関係だと「あれ?ぜんぜん違う」とそこそこ気が付きますが、それ以外だと、こんなことを書きながらもけっこう信じてしまっていることが多いのだろうと思います。


そうそう、今週の回ではまた、江戸はススキの原で何もなかった的なことを言わせていましたね。前に当ブログでも書きましたが、それは後の徳川政権が作った話で、戦国時代の江戸は流通の要。品川湊は繁栄していたし、道灌も城を構えたし、北条氏政も隠居後は江戸城にいたことを黒田基樹氏も書かれています。

あのお洒落でキチントさんの氏政がススキの原のボロ城に住むわけないでしょう。大河でやれば、ほとんどの視聴者の認識に決定打を与えます。これで、太田道灌も江戸の上杉も北条も無かったことになってしまいましたね。


西股氏がご自身のサイトで、江戸は寒村ではなかったと説明してくださっていますが、大多数の視聴者はネットは読まないですよ。読むのは、とうにそれを知っている歴史好きです。

今まで私は、大河の関係者様方のHPやブログやツイッターなどを読んだことがありませんでした。今年は、黒田氏、西股氏、丸島氏など何人かの方達のサイトを読んでいます。

今年の『文芸春秋』5月号での、山田太一氏と近藤晋氏(元NHKプロデューサー)の対談「鶴田浩二と菅原文太がいた時代」にもありましたが、昨今のドラマは 「分かり易く」 が大事なようですね。大河ドラマもしかりのようです。


「分かりやすく対比を描きたかったから、本当は上洛しようとしていた氏政を上洛拒否に描いた」とか、「当時の商人は皆そういうことをやっていたから、利休は北条への武器提供はやっていなかったけど、やってたことにした」とかとかとか。

そういう制作意図の犠牲にされた歴史上の人物はどうなるのか…。もう、あの世から反論は出来ないよ。


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~岩槻の道灌像。道灌像は、江戸時代に作られた山吹伝説の鷹狩装束姿が多いですが、こちらは珍しい甲冑姿。~


今回の大河では、「文句いい過ぎ。他人の歴史観をとやかく言うのはどうかと思う」みたいに言われ歴友を失ってしまいました。また、蟻の爪にもならない微々たる力ですが、少しでも小田原北条を知ってもらえたら嬉しいと何年もブログを書いてきたのに、大河であんな氏政や氏直を描かれたり(特に前半の頃)、やってもいないことをやったように捏造されて、大概の人達はそれを信じてしまうんだな~と虚しくなってしまったりしまた。

もちろん啓蒙しようなんて大それたことを考えているわけではなく趣味で好きで書いているのだし、弱小ブログの影響力がないなんて当たり前なのですが、ドヨ~ン となって、北条ブログをやめようかとも思ったりもしましたわ。


まあね、だからと言ってね、世界の情勢にはまったく何の影響もないですがね。

ただ、明智さんや、吉良さんや、小早川金吾さん達のファンの気持ちが今更ながらよう分かる今日この頃。


おせっかいな弁護
どうやら時代考証の先生方は、制作サイドや脚本には否やはつけられないそうですよ。いくらドラマとはいえ、そこは大河ドラマ。制作陣はもっと時代考証家の意見を聞いてくださいましよ。)


「家康以前の江戸は本当に 寒村 だったのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-0a2f.html
「北条氏政は、上洛準備を進めていた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-5154.html
「北条氏政の 汁かけ飯 は後世の創作」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-e356.html

「大河 独眼竜政宗」感想
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-cd19.html
「大河 武田信玄~小田原攻め(永禄12年)」感想
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-d8e7.html
「大河 江」 締め・・・というか繰り言
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-f2e0.html
「大河 清盛」の崇徳院と、時代劇のことチョッと
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-2365.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2016年1月10日 (日)

戦国時代のドラマは「戦国時代を描いた」ものを観たい

皆さま、あけましておめでとうございます。さあ、いよいよ「おサル」の年がやってまいりました!

今年最初のブログ記事だけは百言居士りたくなかったのですが(←ウソだ)、思った通りになってしまい申した。北条ファンの皆さま、もちろんご覧になりましたよね。


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加筆 ▲

落武者狩りに襲われた最後の「タイムスクープハンター」みたいなシーンで、野伏せりみたいな人達が脇差しを身に付けていましたね。

私は、どこかの戦場での略奪品を得意で身に付けているのだとばかり思っていましたが、当時のお百姓さんは二本差しだったのですってね。教えていただき、びっくりポン!(←当時の情勢をふまえた言い方をしていることをご了承くだされ。)


▲ 猫背で汁かけ飯を食べさせられていただ。実に安易な人物紹介

氏政のあれは、江戸時代のまったくの作り話であ~る。それを使うとは、びっくりポン!悪役だっていいからさ~、カッコイイ悪役にしてくださいませよ。


▲ 勝頼様と行動を共にした桂林院様がおらん。

北条が大河ドラマにならない理由のひとつに、「ヒロインがいない」というのがあります。北条にはドラマチックな人生を送ったヒロインがあまたいて、桂林院様はその代表のような女人。武田ファンにとっても松姫様と並んで有名な方です。なのに、あくまでもスルーするのだね、大河ドラマは。

北条氏康の娘である桂林院様は、「ここから逃れて北条に帰ってくれ」との勝頼様の願いを退け、最後まで勝頼様と行動を共にし、田野にて相果てました。付き従ってきた上臈たちも後を追ったのです。


桂林院様のことをチビッと書いた以前のブログ記事「武田勝頼に嫁いだ、北条の姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-c799.html


▲CGも大河ドラマというものとしてはチャッチィし、ドラマ全体がなんだか幼稚。少年少女ドラマシリースみたい。


▲ 少年少女時代は、少年少女の役者さんを

ここ数年、毎年同じことを書いていてしつこいですが、やっぱり少年時代を大人の俳優が演ずるのは痛いですな。不自然。行動にも説得力がないと思います。

我が母が、「幸村ってあんな子供っぽい人だったの?」と。いや、おっかさん、あれはまだ10代半ばだから・・って。


▲ 家族、家族、家族

昨日の草刈さんや迫田さんが上田を訪ねる番組もですが、真田丸の番宣でやたら「家族を描いたドラマ」と か「家族の絆のドラマ」とか連呼しているのがイヤな予感がするにゃあ。

個人的には、家族団欒を描いた戦国時代ドラマはヌルくて血沸き肉踊らない。今日のシーンも、こっ恥ずかしくて見ちゃいられなかったです。なんとなく、新選組の時の、土方さん達が御互いに目と目を合わせて「うん!」みたいにうなずき合う、あのシーンのこっ恥ずかしさと同じものがありましただよ。


以上、アッタマキタから批判してやっただが、勝頼様が素敵で救われました。一人だけ違う、大人な雰囲気を醸し出していましたよね~。

武田や上杉って、大河ドラマで絶対に酷く描かれないですよね~。北条ファンのように「今度はどう扱われれるか」なんて戦々恐々としないで余裕で観ていられるでしょうねえ。いいな~、どうして我らが兄上・氏政さんはそういう風に描かれないのだろう・・。


以上、あくまでも、絶対大河にしてもらえない一北条ファンの私感でござりまする。


ほな、今年もよろしくお願いいたしまする~。
丙の申(ひのえのさる)
マリコ・ポーロ


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2015年12月24日 (木)

『北条氏康の子供たち』 北条氏康生誕五百年記念

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~北条氏康生誕五百年記念 『北条氏康の子供たち』。一枚岩の七兄弟五姉妹。本家を支えた兄弟姉妹の最新研究。帯府の下には子供たちの印判。飾っておきたい表紙(表紙デザイン宮下玄朔)。~


さて、
以下2つ、教えていただきました。


その1

新刊。
『北条氏康の子供たち 北条氏康生誕五百年記念論文集』
宮帯出版社
黒田 基樹 (編)/浅倉 直美 (編)


我らが兄上・北条氏政!ではなく、その父である北条氏康の子女たちについてです。とはいえ、前回のブログ記事で書いたまさにその通りの、適材適所に配属された、四代氏政の抜群な兄弟姉妹衆について書かれた論文集のようです。

じっくり読むのが、もっの凄く楽しみです


内容は以下。

▲ 北条氏康の子女について(黒田基樹 著)

▲ 北条氏康の息子たち
北条氏政(黒田基樹 著)
北条氏照(則竹雄一 著)
北条氏邦(浅倉直美 著)
北条氏規(石渡洋平 著)
北条氏忠(竹井英文 著)
北条氏光(小川雄 著)
上杉景虎(片桐昭彦 著)

 

▲ 北条氏康の娘たち
早川殿(長谷川幸一 著)
七曲殿(小笠原春香 著)
長林院(新井浩文 著)
浄光院殿(長塚孝 著)
桂林院殿(丸島和洋 著)

▲ 戦国北条氏の居城
小田原城(佐々木健策 著)
韮山城跡(池谷初恵 著)
鉢形城跡(石塚三夫 著)
唐沢山城(出居博 著)
玉縄城(宇都洋平 著)


その2

芝居『戦国北条記』

小田原で、小田原北条のお芝居があるそうです。前売りチケット発売開始。


主催: 劇団 「熱血天使」

内容:
▲ 第一幕
氏康のもと国造りの地盤を固める
▲ 第二幕
長尾景虎の急襲を一丸で撃退
▲ 第三幕
同盟を結んだ武田家に攻められ、氏康の死後に兄弟とともに戦回避を決断する氏政


日時: 2016年1月30日(土)
午後1時~&午後6時~の2回
会場: 小田原市民会館大ホール
チケット代: 一般 3,500円、23歳以下 3,000円
全席自由

詳細は、タウンニュース小田原版(12月19日号)→http://www.townnews.co.jp/0607/2015/12/19/313235.html


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この年末商戦のカキイレドキ真っただ中に、この年齢にして、接客業400年のうちで最も都心のど真ん中、最も忙しい店へ異動となりました。通勤時間は非常に短くなったのは良かったのですが、もう訳が分からずグッタリ~~

ということで、神流川合戦の続きは一段落してから書きたいので、こたびは取り急ぎ以上でござる。


まあね、クリスマスなんて、若くて独身か、小さな子供がいるか以外では大して心躍るイベントではありませんが、一応・・・

Merry Christmas !


「映画 ホワイトクリスマスとアメリカのテレビドラマ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/tv-8c9a.html
「映画 アラビアのロレンス」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-1afa.html

 

萩真尼

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2015年2月 2日 (月)

遠藤周作著 「埋もれた古城」

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~昭和46年、新潮社~


かれこれ四半世紀ほど前のこと。「深い河」という映画を観たことから遠藤周作を立て続けに3‐4冊読んだ頃、西洋の城を舞台にした小説だと勘違いして買った本です。当時は戦国期も江戸時代も城跡にまったく興味がなかっので、目次を読んだだけで段ボール箱行きとなりました。

その後城跡に興味を持つようになり、数年前に北条氏規のことを書く時にこの本のことを思い出し、ダンボール箱から引っ張り出してとても楽しく読みました。


氏は城跡や合戦場に立って、そこで暮らし、そこで悩み、そこで決断し覚悟を決め、そこで果てた人々の心情に思いを馳せます。

二俣城での徳川信康、高松城での清水宗治、長篠での真田信綱、奥平定昌、鳥居強右衛門、天王山での光秀・・・などなど、「敗者や、大勢力と大勢力とにはさまれた地帯にいる小豪族の運命に興味がある」と、弱者の立場に思いを寄せるのです。


また、氏は、当時の人の眼にうつった「同じ風景を自分が今、旅人として眺めている」ことに「感動」を覚えています。(私と同じー。皆さんもそうでしょ。

また、清州城を信長と会話しながら歩いたりもします。(←私が氏直さんとお話ししながら小田原城を歩くのと同じー


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~小豪族がひしめき合って暮らしていた信濃。数年前この本の存在を思い出し読んでみて行きたくなり、即、行った。~


以下、本よりちょっと抜粋。

例えば、奥州小浜城のところで。

そこは高田という阿武隈川のすぐ近く。今は畑で、一本の松の木の根元に碑が立っているそうだ。川向こうは畠山の領地である。以下、抜粋

▲ 私(周作氏)はその松の下に座って眼をつむった。
農夫が一人、ずっと向こうで畠を耕しているほか人影はない。聞こえるのは夏蝉の声だけである。微風がようやく頬をなぜる。
つぶった眼のなかに、殺せと叫ぶ四十二歳の輝宗の顔がみえる。それに白刃をあてた義継の顔もみえる。だがその人たちが死んで四百年、ここには誰も訪れる者もいない。▲


今読むと、どうしても大河「独眼竜政宗」のワンシーンしか私には見えないですが、氏はこういうことだけじゃなくて、城の造りや戦闘についてもちゃんと書いてらっしゃる。でも、やっぱり、こういうの↓が好き。

▲ 安中の町に入ると、自転車にのった高校生たちが帰宅をいそいでいる。もしあの自刃した長野業盛が現代に生まれたならば、彼も自転車にのって高校と自宅を往復していたにちがいない。
なにしろ彼は十七歳という少年だったのだ。▲


うまいな~、この書き方。私なら、最後は、

▲ 長野業盛、享年17才。▲

でまとめちゃうところです。←文豪と自分をくらべるな!


遠藤周作氏のように、これからも城跡や史跡で妄想(?)したいと思い、本の置き場所もダンボール箱から本棚に昇格させました。

そんなことを思ったはずなのに、嗚呼それなのにそれなのに。それから数年が経つうちにこの本のことは忘れてしまっていました 。韮山城シンポジウムの記事(前回)を書いていてまた思い出しましたので、ご紹介した次第です。

あ、そうそう
韮山城のところで取り上げてらっしゃるのは、鎌倉時代の、頼朝を傀儡として勢力を広げようとした前北条の時政殿の策略の犠牲となった「山木のオッサン」です。


春風に
梅も桜も散り果てて
名のみぞ残る
箕輪の山里

 by 長野業盛


私たちは城跡を訪ねると、「おお!カッチョイイ堀切だぜ」とか「この縄張りはまさしく北条のものだ!」とか言って興奮してしまいますが、領土保持や拡張を求め日本人同士でも争って殺し合っていた時代が確かにあったのだよね。日本でも世界でも、こういう時代は二度ときちゃイカンよねえ。


萩真尼

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