2018年6月 6日 (水)

安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?

シリーズ 北条五代の息女たち
【二代・北条氏綱の娘たち、太田資高室】


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~安房「正文寺」は、勝浦城主だった正木頼忠が父時忠の隠居所跡をその菩提寺として中興した。~


その1ヶ月前の3月初旬。葛山へ嫁いだ北条氏綱の娘を追って「御神渡り」を拝んだ諏訪湖の湖面は凍っていた。

うって変わって、抜けるような蒼空の下の真っ青な海を車窓に、太田へ嫁いだ同じく氏綱の娘を安房に追う。


まずは、前回のブログ記事の安房編①を思い起こしてくださると助かりまする→http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html


生まれた家とハズバンドは違えど、同じ法名、同じ人生、同じ没年月日として記録されている北条浄心院(氏綱娘)と三浦浄心院(道寸娘)。それは、どちらかの人生が無かったことになっているということでチョット可哀想。と、余計なお節介心にかられて足掛け3年。

どちらが「浄心院日海」なのか。江戸(東京)では手掛かりがつかめないため、どうにも我慢が出来ず、鎌倉から里見へ走った(さらわれた?)青岳尼 の如く海を渡りship…ウソウソ、外房線と内房線を乗り継ぎtrain、「浄心院日海」の御位牌を拝ませていただくべく安房南三原の「正文寺」をお訪ねしました。


広間に入るなり、正面にドドーン と大きな御位牌が!正文寺さんへは事前にお電話でお願いをさせていただいておりましたが、出しておいてくださったのですね。嬉しい~~です。

以前、早雲こと宗瑞の娘を追って伊豆修善寺の「金龍院」さんをお訪ねした時も、幻庵の御位牌を手前の机に出しておいてくださいました。お寺さんて、ありがたいです。


それが、こちらにござります。

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~大きさが分かり易いように、お供えにとお持ちした近江の名酒「道灌」の四合瓶箱を横に置いてみた。北条・三浦、どちらの娘にしても、太田家に嫁いでいる(父と息子)ので、「道灌」を(もし北条浄心院なら、イヤかもしれないけど。)~


おぉぉ!
と、まずは手を合わせ、それからジックリと拝見。


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~見えますか?写真は御住職のご許可をいただき掲載~


先にお電話で伺うまでは存知ませんでしたが、浄心院日海ひとりの御位牌ではなく、正木氏の御位牌をのちに一緒にしたものです。浄心院の法名は、累代の当主と一緒にあるのですよ。

江戸時代になって暫くしてから、紀州のお殿様 - たぶん頼宣(生母のお万は開基頼忠の娘で徳川家康の側室)- が、まとめられたそうです。


ピンクのが「浄心院日海」です。わお~!!

会えましたね~、浄心院さまぁ。お会いしたかったですぅ crying


恥ずかしながら正木氏のことはほとんど知らず、こたびは俄か仕込み。どれがどなた様やら分からず、御住職さんに一人一人教えていただきました。

もう一度、手を合わせます。


前回のブログでも触れた江戸白山の浄心院菩提寺の 浄心寺(今は廃寺)さんと同じく、御住職は二人の浄心院日海についてとてもご研究をされてらっしゃいました。

お話しを始める時、お互い見せ合った自作の系図が、向きも、北条家・三浦家・太田家の配置もまったくそっくりで、あらら~ happy01 って。


御住職とひとしきり、二人の浄心院についてお話しをしました。二人の浄心院について、トックリとお話し出来た方は初めてでしたので、とても楽しかったです。

そのあと、本堂で御本尊様をお参り。そして、勝浦城主の正木氏5人の立派なお位牌もお参りさせていただけました。


お寺の裏山には「お塚」と呼ばれる正木家累代のお墓や、三浦道寸のお墓(供養塔?)があるそうですが、なんせ虫がまったく、本当に、思いっきりダメなワテ。真冬とか、先陣を担ってくれる誰かが一緒だったら行けたのににゃ~。残念。

それと、もっと正木氏のことを勉強していったら、正木一族の様々な謎についても御住職とお話しできたかもしれない。重ね重ね、残念。


で、結局、浄心院日海はどっちだったのって?

think ………

分かりもはん。


北条・三浦、どちらかどころか、浄心院日海の御位牌が安房にある本当の理由さえ、オイには分かりもはん。

いえね paper 旦那、奥さん、おじょーさん、お坊ちゃま。もうひとつ何か決定打がないかどうか、この一ヶ月考えて探していましたが、ありまへん。タイムアップで、ブログを更新しました。

すべては、安房の青い海のみぞ知る

ってことで。

正文寺の御住職様、ありがとうございました。


fish 誕生寺


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~誕生寺の太田堂。ピンクの矢印は太田康資のお墓(供養塔?)~


帰路、海の幸で遅いお昼をいただきがてら、正文寺の本山(本山でいいのかしら?)である小湊「誕生寺」をお参りしました。

誕生寺は、北条浄心院の息子、太田康資の菩提寺です。康資は北条から離反し里見につき、永禄7年に国府台で戦死しました。


Photo_5
~太田堂から望む安房の海~


江戸に菩提寺がある「浄心院日海」の御位牌がなぜ安房にあるのか…。


● その御位牌は三浦浄心院のもので、三浦が没落した時に、三浦浄心院を含む一部の一族が旧領のあった安房へ逃れてきたという話があります。三浦浄心院は、正木の養女となり(前回の記事の写真)、安房で亡くなり弔われたのでしょうか。

しかし、その話は今では時系列が合わないため違うとされているようです。また、もし安房で亡くなったとしたら、菩提寺が江戸にあるのも不思議です。


はたまた、その御位牌は北条浄心院のもので、里見へついた息子の康資が母の御位牌を江戸から持ってきたのでしょうか?

しかし、それなら何故、正木氏の位牌に一緒になっているのでしょうか。


皆様もそうだと思いますが、旅の終わりに、こうやって当時その人が見たのと同じ景色を眺め、その人が歩んだ人生を 勝手に bleah 想像しながら想いに浸るのは、それはいいものですよね~。

自分へのお土産に、誕生寺の門前の酒屋さんで 鴨川の 地酒を買いました。家に帰って飲みながら、タイムトリップの余韻に浸れますね!


こたびはこれまでに。


「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「続 ~ 浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3016.html

「安房編の前編」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html

「祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った後、資高はどうしていたのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html


wine 以下、今までの北条五代の娘たちの記事です(それぞれに続編・番外編などあり)

・初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html

・二代 北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html
「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html

「北条五代の娘たち ⑥ 諏訪湖に消えた駿東の名族葛山氏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-7fbd.html

・三代 北条氏康の息女
「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

cat 画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2018年5月 6日 (日)

安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?

シリーズ 北条五代の息女たち
【二代・北条氏綱の娘たち、太田資高室】


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~安房「威武山 正文寺(しょうぶんじ)」~


なんとまあ!
そなたも、よくぞここまで わらわを追ってきたものじゃ…

と、浄心院日海様はおっしゃった。


日蓮上人の生家だったという「大本山誕生寺」の末寺「正文寺」は、誕生寺のある安房小湊から外房線で30分。安房鴨川からは内房線で20分位の南三原駅を降ります。


安房小湊といえば鯛の浦fish。少し前までの坂東の民なら誰でも歌えた♪ゆったり たっぷり の~んびり 旅ゆけば~♪ のホテルmoon3。安房鴨川といえば、シャチやセイウチのショーの鴨川シーワールド。千葉はもちろん東京や茨城(埼玉あたりもかな?)の人間なら、子供の頃に、いや、大人になってからもドライブがてら何度かは遊びに行ったことがあるはず。

そういえば、鴨川から少し行ったところに、フラミンゴのショーや、孔雀が次々と崖の上から突き落される…ちゃうちゃう、飛翔する行川アイランドというアミューズメント施設がありました。今は閉園しているそうですね。


威武山正文寺は、そんな外房らしい真っ青な海から車で8分程内陸に入った、真っ青な空の下に立派な仁王門を構えた大きなお寺でした。勝浦城主だった正木頼忠が父時忠の隠居所跡をその菩提寺として中興したお寺だそうです。時忠の法名が「正文」。威武院殿正文日出居士なのだそうです。


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~本堂、浄行菩薩堂、祖師堂などの堂宇のほかに、中世の石塔群や五輪塔などがあるやぐら、本堂には勝浦正木氏歴代の御位牌、裏山の「お塚」には旗本正木氏累代の墓や三浦道寸の墓(供養塔)などがある。~


「浄心院日海」という女人は、北条氏綱の娘か三浦道寸の娘か。もう2年以上、あーだこーだと考えておりますが、いっこうに光の筋が見えません。

そりゃあ浄心院が北条の娘だろうが三浦の娘だろうが、大きな歴史の流れにはまったく影響ないことですが、どうしても突き止めたい。浄心院様からも、「わらわを探してたもれ」と言われている…ような気がする。勝手に。

こうなったら、浄心院日海の御位牌があると聞く勝浦正木の菩提寺「正文寺」へ参るしかない!と、ヒノキ花粉の飛散マックスとなった4月の初め、安房へ向かいました。


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~何度も出している関係者のみのザックリ系図をもう一度(資高が正室の子というのはマリコ・ポーロの妄想。たいがいは、三浦浄心院と資康との間の子とされている。)~


▲ 登場人物は、ふたりの浄心院日海&それぞれのハズバンド&息子

三浦浄心院
父:三浦道寸
夫:太田資康(太田道灌の息子←諸説あり)伊勢宗瑞の三浦攻めの時に妻の実家である三浦へ加勢し、そこで果てたとされている



北条浄心院
父:北条二代当主・氏綱
夫:太田資高(↑の太田資康の息子)江戸にて没

・ヒントになりそうなその息子
母:北条浄心院
父:↑ の太田資高
安房へ行き里見に付き、安房にて没(菩提寺は誕生寺)


▲ 今までの妄想を時系列で整理する

文末に添付している過去のブログ記事に、グダグダと書いてはおりますが要約すると…


①「北条五代の娘たち」の足跡を順番に辿っていて、太田資高に嫁いだ氏綱の娘「浄心院日海」の番になる


②夫の資高の記録が少なく不思議に思う


③『太田家記』やらその他諸々手あたり次第乱読していたら(もちろん口語訳)、三浦道寸の娘も同じ法名「浄心院日海」だということを知り、ドびっくり~する。


④ それにしても父親の嫁息子の嫁が同じ法名ということがあるだろうか?と疑問を持つ。


⑤ 『三浦系図伝』『正木氏先祖書』などなどなど引き続き乱読していると、北条浄心院についても三浦浄心院についても同じようなことが書かれてあり(ご興味ある方は先のブログ記事引用しているのでご参照あれ)、いったいぜんたいどういうこっちゃ?と混乱。

チビット違うのは、『太田家記』には、北条浄心院が夫と別の菩提寺になった いきさつ などが詳しく書かれていること。

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~『旗本正木氏先祖書』。ピンクのマーカーのところに三浦浄心院が。~


⑥ そして、衝撃の事実(←ちとオーバーかも)を見つけて、たまげる。

なんと、三浦浄心院と北条浄心院の没年月日と没した場所(江戸)と菩提寺(江戸)が同じだったのだ!coldsweats02


が同じ法名で、同じ日に、同じ場所で亡くなるなんてことがあるだろうか?いや、ない!ということは、どちらかの人生が無いことになっている。波乱の戦国の日々を一生懸命生きたであろうに、それはあまりに可哀想だ。


⑧ 東京の白山にかつてあった浄心院の菩提寺「浄心寺」の事務所に問い合わせさせていただく。かつての御住職は浄心院日海が二人いたことなど一連の話をご存知でしたが、過去帳などに記載が残る浄心院日海の像はすでになく、御位牌は後世に作られたものであり、はっきりしたことは不明だとのこと。


三浦浄心院の夫である太田資康と道灌との間柄や、道灌誅殺後の太田家の家督争い(?)& 江戸太田と岩付太田の関係、内房正木氏成立の謎や、家康の側室であったお万一派&英勝院お勝一派による系図創作疑惑などなどへと興味が広がり、カオス妄想は収拾がつかなくなる。


⑩ 初期の目的に戻り、マリコ・ポーロ安房へ渡るship


果たして安房「正文寺」にある「浄心院日海」のお位牌は三浦浄心院のものなのか?北条浄心院のものなのか?

マリコ・ポーロがそこで見たものは!?なんちゃって。

次回へつづく…


「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「続 ~ 浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3016.html

「祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った後、資高はどうしていたのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2018年4月22日 (日)

姫君は安房へ~途中報告/浄心院は氏綱・道寸どちらの娘か

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~車窓より、浄心院日海が眺めたかもしれない安房の海。勝浦と鴨川の間あたり。~


書き散らしております、太田家に嫁いだ「浄心院日海」についてご興味を持ってくださった皆様。

浄心院日海は、北条氏綱の姫か?三浦道寸の姫か?足跡を辿り、安房小湊「正文寺」にある浄心院の御位牌をお参りしてまいりました。


しばらく更新をしなかったので、どうした?というコメントやメールをいただきました。安房を訪ねた直後より仕事の配属先が変わり落ち着かず、安房での様々な妄想が脳内でまとまりきれないでいます。


tv 大河ドラマのこと

オリンピックイヤー2020年の大河ドラマは、明智光秀だとか。東京での開催だから、いよいよ太田道灌や小田原北条の出番だと思っていましたよぉweep。少し前に、「北条に決まった!」と聞いたのに、あのガセネタはどこから発生したのだろうannoy。小田原城は、堀の水まで抜いたのに…えっ?

松陰(の妹)、官兵衛、真田、直虎、西郷サー、と官軍が続きますねえ。やっぱり敗軍や、徳川至上主義が未だ続いている日本では、徳川以前の関東の覇者は大河ではなかなか取り上げてくれないのだね。5年前の八重さんが最後だもの。徳川が創り上げた「江戸時代以前の江戸は寒村だった話」も崩れちゃいますしね。


よく、北条は全国区的知名度がないから…とも言われますが、それを言ったら官兵衛さんだって中央(京の都)周辺や西の方達はご存知かもしれませんが、関東以北の人間では余程の歴史好きでない限りあまり知らない人が多いです。伊達政宗だって、当時は東日本の人達しかよく知らなかったです。直虎さんなんて、ましてをや。

明智光秀は前半生が不明でしたが、最新の研究では判明したのかしら?いっそ、前半生は『戦国自衛隊』の伊庭陸尉でやってくれたら面白いと思います。原作では、あれは実は光秀だったでしょ?(あれ?信長でしたっけ?)


そんなこんなで、いま暫し…


「続・浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3016.html
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った後、資高はどうしていたのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html

「里見へ走った公方の姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-82f7.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html

「南総里見ファンタジーツアー 1」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-c2c4.html
「南総里見ファンタジーツアー 2 稲村城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-e1c8.html
「南総里見ファンタジーツアー 3 久留里城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-96fd.html
「南総里見ファンタジーツアー 4 現代の館山城も辛い」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-adbe.html
「南総里見ファンタジーツアー 5 戦国人たちは消えてゆく」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-c2ec.html

「弘治2年の「北条 vs 里見の海戦」は本当にあったのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/vs-05c7.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2018年4月 2日 (月)

祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った後、資高はどうしていたのか?

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~榎本家長屋門(練馬南田中)。太田道灌が石神井城を攻めた時に従った「田中十家」のうちのひとつと伝わる。江戸時代は名主さんで、大正時代まで茅葺屋根だったそう。道灌びいきの会で見学。~


このところ、ず~~~っと考えています。以下、考えていることメモメモ。

今まで、

① 太田道灌が主君(扇谷)の指令で殺される

② 息子の資康は山内に付く
(三浦の娘を娶る=三浦浄心院

③ そのまた息子の資高は北条に内通し、江戸城は北条のものとなる
(北条の娘を娶る=北条浄心院

④ そのまた息子の康資は北条から離叛し、安房へ…

と、アッサリ・ザックリだけの認識で満足していました。


そして、
⑤ 太田家は道灌が死んだあと江戸太田と岩付太田に分かれた…

と、何も引っ掛かることもなく受け入れていました。


一昨年より北条五代の娘たちを追い始め、氏綱の娘で資高の室三浦道寸の娘で資康の室 が同じ法名「浄心院殿日海」で、同じ没年月日、没地も同じだということを発見しました。

いったいどちらが浄心院なのかを調べ始めたところ、それぞれの伴侶である資康(父)と資高(嫡男)について疑問が噴出。私のザックリ納得の知識は随分とハショられていて、その隙間隙間を隙間家具のように埋めたくになりました。隙間家具は隙間を有効に活用しますからね。←??


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~扇谷定正が家臣の曾我に宛てた書状(国立公文書館「道灌展」にて)。道灌を誅殺した理由が書かれていた。「道灌が山内に対して不義を企て、それに対して度々諫めたが、道灌が謀反を起こそうとしたため誅殺したとある…」と。~


さて、隙間のこと。

horse 例えば…
浄心院はどっちだ?がメインテーマ Now ゆえ、上の②と③の間の隙間について。

つまり、父親の資康が三浦に援軍として向かい亡くなった(たぶん)のち~北条に付くまでの資高少年は、どこでどうしていたのだろう?

父と一緒に三浦に参陣したのだろうか?江戸とか岩渕とか河越とかに潜んでいたのだろうか?


そもそも、
いったい資高少年の母親は誰なのだろう?三浦の娘、三浦浄心院なのか?

「三浦浄心院はパパ資康の側室であり、正室は元服の頃に娶せられた扇谷関係の娘で、資高少年は三浦とは関係がないから母方の元で暮らしていたのではないだろうか?」と、前にSNS(知人だけとやっている)に書きましたが、これも腑に落ちず。


ここで、パパ資康と資高少年に起きた出来事と年齢を追ってみました。

1476年 パパ資康生まれる(ジジ道灌44才 wobbly
 ↓
1485年 パパ資康元服(9才 coldsweats02
 ↓
1486年 ジジ道灌が扇谷定正の指令で殺される(パパ資康10才)
 ↓
1488年 パパ資康、山内顕定に参陣(パパ資康12才)
 ↓
? ? 年 パパ資康、三浦道寸の娘を娶る←三浦浄心院
 ↓
1498年 資高少年生まれる
 ↓
1505年頃 この数年前にジジ道灌の仇である扇谷定正が亡くなり、パパ資康は江戸に戻る
 ↓
1513年 パパ資康、三浦へ参陣(資高少年15才)
 ↓
パパ資康、帰らぬ人となる…たぶん

あってる?sweat01
(年齢は通説に基づいて計算しました。本当かどうかは調べていません。)


そもそも、
資康は、父道灌が殺されたあとのそんな状況で、江戸で家督相続なんてことが出来たのだろうか?それに、9才で元服!ないことではないでしょうが、チト早過ぎやしませんか?

それを言うなら、資康が生まれたのは道灌が44才の時。ないことではないでしょうし、現代なら普通ですが当時のこと。チト遅くないですかね?やっぱり、資康も養子?


そもそも、
道灌の正室はどこのお嬢さんだったのだろう?

扇谷一門の娘だとか長尾家の娘だったとか様々言われていますが、資康が嫡男だったとして、44才の時の子ですよ(←しつこい。昔の話ですよ、昔の)。とすると、資康が正室の子のわけはないと思うので(いや、絶対とは言えないが)、実子だとしても若い別腹系の女人ではないでしょうかねえ。

あっflair
もしかして形ばかりの正室はいても、女性にあまり興味がないとか…。だとしたら、我が北条氏照どののようですな(娘ひとりいるが真偽は不明)。

素敵~(腐)


な~んてことはナイナイpaper

だって、目黒の誕生八幡神社は、道灌が妻の懐妊にあたり文明の頃(1469~1486年)に筑前の宇美八幡を勧進した神社だと伝わっているそうです。御縁起が史実なら、この時にパパ資康が誕生したのだと思われます。


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~慈雲山観蔵院(練馬南田中)。道灌が石神井城を攻め落とし三宝寺を現在地に移転した時にこちらへ移り、末寺とされたと伝わる。奉納箱に、桔梗紋。~


話を戻し、再び隙間のこと。

horse 例えば…
ふたつの太田家

資康の家督相続があったのかどうかも含め、⑤の道灌死後に太田が江戸と岩付とに分かれることになる経緯には、何があったのだろう?

北条が氏康の代に江戸太田と岩付太田と両方と縁組をしているということは、どちらも北条にとっては重要な相手だったということだったのだと思うのだけど…。

これは、私にはとても調べられそうもなかでごわすが、徹底的に調べている方達がいらっしゃいもす。ご承認の上、文末に添付しもした。


book 今、二人の浄心院殿日海のまとめをブログに書くべく、図書館でアチコチの市史や町史や系図や家記を調べたり、関連寺社へ問い合わせをさせていただいたりしています。

そうしたところ、勝浦正木氏 まで出てきて、勝浦正木は、私のheart01北条氏照どのが取り次ぎをしていたこともあり脳内がますます混乱するばかりなり。


しかし、歴史ファンならご存知のように、系図というものは後の江戸時代に創作されたものが多いゆえ、それだけで判断することは出来ないですよね。系図や新出の史料の裏付けを取るには何年もかかります。もちろん私は取れないですが、プロの研究者の先生方が取ってくださるはずです。

なにとぞなにとぞ、よろしくお願いしもす。


素人のわらわが出来ることといったら…やっぱり、カノ地ship へ行くことかな~。行きたいにゃ~。


beer はみ唐さんの「岩付城と岩付太田氏に関する定説を再考するの記事」https://ameblo.jp/hamikara/themeentrylist-10105261121-1.html

以前、岩付を築城したのは誰かということを地形から考察されているということでご紹介した方のブログです。謎の太田永厳についてもたくさん掲げられています。特に、私の現在の隙間を埋めてくれる家具…ならぬ記事、「太田資高は進駐軍だったのではないか」という仮説は、目からミツウロコ▲▲▲。


wine 会計ねこ子さんのブログです。
https://ameblo.jp/zennchou/entry-12363860043.html

同じく、永厳の謎など岩付太田について精力的に調べて、ほぼ毎日書いてらっしゃいます。私は、「巨人東京とおしゃれ神奈川の人間」←by ねこ子さん(笑) なので、どうしても江戸太田だけを考えてしまいます。ねこ子さんのブログにより、岩付太田への注目が深まりました。


bottle 以下は、ワテの妄想ブログです。
「北条五代の娘たち②太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「続・浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3016.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2018年2月20日 (火)

北条五代の娘たち ⑥ 諏訪湖に消えた駿東の名族葛山氏

by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち⑥
【二代北条氏綱の息女~葛山氏元室】


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~諏訪の神が渡る「御神渡り」。ずーっと向こうまでうねりながら続いている。(岡谷市立湊小学校あたりより 2/14)


二代北条氏綱の娘が嫁いだ葛山一族の終焉について妄想を広げるべく、note 8時ちょうどの~ あずさ5号で~ 向かったのは信濃諏訪。諏訪御前の諏訪湖です。2号じゃなかったのがチト残念。


時まさに、五年ぶりの「御神渡り」。

御神渡りのことは皆さまよくご存知のことと思いますのでここには書きませんが、本当に興奮しました。言葉も出ませんでした。写真ではとても伝わらないですが、お天気が良かったこともありキラキラと神々しくて、なんと申したらいいのか…ピュリファイ(浄化)されたような気がしました。


湖畔で御神渡りを拝んだあとは、背後の山にある小坂観音院から御神渡りを俯瞰しました。

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~境内のすぐ下が諏訪湖(つまり画面向こうの白いところは、全面氷結した諏訪湖)~


時まさに、BSで「風林火山」の再放送中。観音院には誰もいなくて妄想の極致。

由布姫さまーーっ!湖衣姫さまーっ!

注) 諏訪御前が観音院にいたというのは井上靖氏の「風林火山」での創作です。それでもいい!このあたりにいらしたと思いたい。


土地の古老がおっしゃるには、今、諏訪湖はおよそ4m 沈んでしまっていて、かつて(どれ程のかつてかは分からなかった)は後ろの山くらいまでが湖面だったそうな。

4m とまでではないにしても、戦国時代は諏訪大社の上社や下社も観音院も、もっと湖に近かったのですねえ。そういえば高島城は浮城と呼ばれていましたよね。


fuji 駿東の葛山一族の終焉で、なぜ諏訪へ?

当シリーズ「北条五代の娘たち」①の北条早雲こと伊勢宗瑞の娘たち番外編「北条幻庵の妻は葛山か?」でもチラと書きましたが、葛山一族の血をひく最後の当主である葛山氏元は諏訪にて命を終えたのです。

一族ということでなければ、武田信玄殿の息子信貞が「葛山家最後の当主」となります。)


最初にこのことを知ったのは、「『仏眼禅師語録』に氏元が自殺したとある」を読んだ時です。

今川・北条と共にあった葛山は、武田信玄の駿河侵攻時に駿東という立地がゆえに武田に付きます。その後諏訪の在番となりますが、北条への一味を疑われ処断されました。それで自殺、か…。


その語録を見てみたい、どうせ読めないけど。語録はどこにあるのかしら?検索しても出てきません。聞き回っていたところ歴友武将さんから「裾野市史にありやしたぜ!それも、諏訪湖に投身だとさ!」との矢文が。

諏訪湖に 「投身」 ですって!?こりゃまた、ドびっくり~ wobbly


道灌びいきの会の史家葛城明彦さんが面白いことをおっしゃっていたことがあります。「身を投じる」という行為は女人に多い。池に身を投げる、川に身を投げる、高い所から身を投げる…そういう伝説も皆女人である。男はあまりしない、と。

なるへそ、平家一門は海や滝に身を投げましたが、彼らは貴族のようなもの。確かにそうかもしれない。となると、バリバリ戦国男子の氏元が諏訪湖に身を投げたとは珍しく、ドラマチックでもあります。さ っそく図書館へ。


と、その前に…


fuji 初期北条家と葛山家の濃ゆ~い関係

駿東地域に勢力を張る国人(今は国衆と言わなければいけないの?)葛山氏は、北条早雲こと伊勢宗瑞一家と縁組を重ねるほどに、今川家の御一家衆として重きをなしていきました。

主要メンバーの縁組としては、

① 宗瑞の側室=葛山一門の女。

② ↑この、宗瑞&葛山女の息子(ほぼそう but 諸説あり)である氏広=葛山に入り葛山当主となる。となると氏広の室も葛山一門の女と思われる。

③ 同じく宗瑞の息子である幻庵の室=葛山一門の女、たぶん(マリコ・ポーロ妄想/文末リンクをご覧くださりませ)


そして、

⑤ 宗瑞の息子である二代北条氏綱の娘=氏広の次の当主である氏元に嫁ぎます。

娘の名前は ちよ 。昔の女人で、名前が分かっている人は珍しいです。ちよさんの娘も名前が分かっています「ちやち」さんと「おふち」ちゃんです。


Photo
~関係者のみのザックリ系図(〇数字はこの系図内での当主の順)。①の氏広は、宗瑞の息子氏時の息子だという説もある。氏綱母は小笠原家の姫。幻庵母は狩野の娘。それにしても、葛山は養子ばかりですな。~


ちよさんの娘の おふちちゃんは、上に書いた、氏広・氏元の次の代の葛山当主である、信玄殿の息子信貞に嫁いでいます。

信貞は、勝頼さまが信長に滅ぼされた時に甲斐善光寺で自刃したそうです。系図上での葛山氏の終わりですね。


fuji 諸説、ちよさん&葛山氏元の最後

ところが…

裾野や諏訪や茅野の市史、静岡や山梨の県史などなど色々と読んだのですが、「投身」とあったのは裾野市史にある『仏眼禅師語録』の「後付けの見出し」だけでした。語録自体には、諏訪湖で波に没溺(落ちて溺れる)とありましたが、自ら身を投げたとまでは書かれていません。


以下、様々。
様々がメンドクサイ方は、すっ飛ばして最後の妄想(?)あたりだけでもご覧くださりますれば嬉しいです。


book 裾野市史より

▲ 仏眼禅師語録

(後付の見出し)
「鉄山宗純、葛山氏元の諏訪湖に投身 するを悼み、漢詩を詠む」

鉄山宗純が仏眼禅師です。

(その漢詩)
…蒙、府命、
潜蹤於諏方大湖上、(中国の誰だかの例えが入り) …俄然被没溺説波


(意訳)
信玄殿の命により、
諏訪大湖上に
潜蹤(跡をくらます)(中国の誰だかの例えが入り) …あっという間に説波に没溺(落ちて溺れる)

嗚呼天乎命乎 crying


(裾野市史の系図)
遂ニ於諏訪為信玄被誅畢 遂に信玄に処罰され諏訪にておわってしまった

でした。「湖」も「投身」も「溺死」もないですねえ。


(語録の割愛した部分は、失脚し湖に身を投げた楚の屈原という武将の話でした。それはつまり、禅師は氏元を屈原のようだと詠いたかったということですよね。
「後付けの見出し」は合っていたのでした。だからといって、氏元が湖に身を投げた証拠にはなりませんが。難し~。)


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~是非とも行きたい「葛山城」パンフレットと裾野市史のコピーの一部。~


book 諏訪市史
「処刑」のみ。


book 『今川家譜』

諏訪ニテ一族皆討レケリ

「諏訪にて」で、「諏訪湖にて」ではありません。
それにしても、うぅぅ。一族みんな討たれたのですか!ってことは、ちよさんや子供達も?



book 『甲乱記』
信州諏訪ノ郡、高嶋之湖水之波ニ、一門悉く沈果

こちらは「諏訪湖」ですが、今川記と同じく、一門ことごとく沈んで果てるんですね。


book 『松平記』

諏訪にて一門五人、張付にせられける

えっ!五人?
人数が出てきましたね。5人…氏元+ちよさん+娘のちやちさん+3人の息子たち(松千代・竹千代・久千代)=計6人ですな。「一門」なので家族とは限りませんが、ちやちさんは女の子だからご赦免かしら。

そして磔。昨年の大河の政次の磔シーンを思い出してしまいました。


book 静岡県史・山梨県史
「諏訪にて処罰」


と、様々なので、諏訪市さんにも問い合わせました。

pen 諏訪では、葛山は従来の研究調査の対象外ということで、葛山氏の供養塔などももしかしたら存在するのかもしれないが確認できず、「信濃史料」などにも記載がないとの、とても丁寧なお返事をくださいました。

葛山は諏訪では研究調査対象ではにゃい。そりゃそうですよね~。


どこの自治体さんも、お返事いただくまで時間はかかりますが、お忙しいでしょうに一素人歴史ファンの問い合わせにもたくさん調べてくださって本当に有りがとうございます



Img20180214_203258
~上諏訪側の湖畔より初島と八重垣姫像(手前さざ波ではなく凍っている)~


先代の氏広も、この氏元も、葛山城よりは駿府で過ごした方が多かったと思います。女人の ちよさん などはましてそうだったでしょう。

氏元が今川を離れ武田に従い諏訪に行かされた時、北条の女である ちよさん は、他の北条の娘たちと同じように夫と行動を共にしたはずです。


武田に従属した約4年半の後、上に掲げた文書から伺えるが如く、ちよさん も諏訪にて誅されたのでしょうか。

北条の娘たちで夫君とともに国を追われたり自刃したりした人はいますが、処罰された人はいません。万が一、ちよさんが張付にされたり、そこまでてはなくても処刑されたりしていたとしたら…あまりにも哀れです。出家させられたか、すでに病などで亡くなっていたことを祈ります。


もしかしたら氏元たちの遺体は諏訪湖に放り込まれたのではとも考えました。されど、地元の方達の諏訪湖に寄せる思いを伺いながら、この冒しがたい湖を眺めると、処罰された罪人(この場合は葛山)の遺体を遺棄したとは、やはり考えられないと実感しました。


約五百年に渡り駿東に根を張った名族葛山氏の血を引く当主の終焉の地が諏訪だったことには驚きましたが、感慨深いものがあります。

果たして、ちよさんと氏元とその子供達は、私が歩いた諏訪の土の下で眠っているのでしょうか。それとも旧臣の誰かがこっそり連れ帰り、富士の裾野の駿東のどこかに密やかに埋葬してくれたのでしょうか。


氷に覆われた神の湖は、静かに暮れてゆきました。

こたびは、これまでに。



cherryblossom 葛山氏元とちよさんを調べるにあたり、武将歴友の一人であり、葛山城のおまつりなどにも関わってらっしゃる三郎兵衛さんに教えていただくことが多く大変お世話になっております。ありがとうございもす。)


wine 今までの北条五代の娘たちの記事です(それぞれ続編・番外編などあり)

・初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html

・二代 北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html
「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html

・三代 北条氏康の息女
「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2017年10月28日 (土)

「吉祥寺」 古河公方室、太田道灌、遠山氏ゆかりの名刹

by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち⑤
【二代・北条氏綱の息女たち、足利晴氏室 ~ 続編】


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~現在は本駒込にある「吉祥寺」~


前回に続けまして北条氏綱の娘、四代古河公方足利晴氏室の芳春院のことです。


horse まずは、関宿に残る晴氏のお墓の妄想の続き

前回のブログ記事で、関宿に残る、四代古河公方足利晴氏のお墓と伝わる「謎の石塔」の、晴氏の法名が刻まれた墓石はなんなのだろうと色々妄想いたしました。

その後もう少し資料(史料ではなく資料sweat01)を読んでみました。


芳春院&はるる(晴氏)の息子である五代古河公方ヨッシー(義氏) は、父母が死去した永禄3-4年頃、野田と共に関宿に籠城していたのですね。

永禄4年7月に芳春院が亡くなった時、芳春院の兄北条氏康が、籠城中の野田さんへ弔意を表す書状を出しているのです。ということは、芳春院は息子と共に関宿にいて、そこで没した可能性があります


芳春院がその時に、前年亡くなった夫のお墓(供養塔)を関宿に建てたということも考えられます → 翌年に芳春院が亡くなると、息子のヨッシーが母芳春院 のお墓を父はるる のお墓に並べて建て → 時が過ぎ二つのお墓(供養塔)は崩れ、散らばり → その後村人たちが一人分のお墓だと思って積み上げた…
なんて?

公方義氏が梁田と和睦して関宿を出たのは、芳春院がこの世を去った7月。たぶん、母上の弔いを済ませてからのことなのでしょう。


horse 芳春院殿さまの、江戸の位牌寺だった 「吉祥寺」

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~かつて、駒沢大学の前身である栴檀林という学問所だったことに由来する御干菓子「栴檀」。黒糖の味が美味しい。~


小田原北条の重鎮中の重鎮、遠山綱景の法名は「吉祥寺殿」なのですってね。知りませんでした。


お寺の「吉祥寺」は、太田道灌の開基。中興開基が遠山綱景。そして、芳春院の江戸での位牌寺でもあります。江戸城代であった遠山さんが、長年に渡り古河公方家の取次だったことから、遠山中興開基の吉祥寺が芳春院の位牌寺になったようです。

長~い素敵な参道の両側が檀家さん方の墓所で、榎本武揚のお墓や、小田原出身の二宮尊徳の大きな供養碑もありました。


遠山綱景の法名が吉祥寺殿ということは、吉祥寺は綱景の菩提寺なのでしょうか?墓所をウロウロしましたが、とても広くて遠山家のお墓は分かりませんでした。そもそも、遠山家のお墓はこちらにあるのでしょうか?

いや、「吉祥寺」という寺名は、 太田道灌が「吉祥」の印を発見したことに因んで付けられたのでした。だから綱景の法名「吉祥寺殿」は偶然たまたま同じなだけで、菩提寺ではないかもしれません。ただ、吉祥寺の中興開基は綱景なのでまったく無関連とも思われません。

綱景は太田道灌に敬意を表し、お寺の名前を取って自らの法名を「吉祥寺殿」としたのでしょうか?

遠山綱景は、永禄7年の国府台で戦死しました。


(皆様ご存知のように、お寺の「吉祥寺」も当初は江戸城内にありましたが、現在は本駒込に移転しています。)


horse 北条綱成の娘の菩提寺「祥雲寺」

2
~屋根も境内も仏具も三鱗だらけ。~


吉祥寺をお参りしたあと、遠山家や江戸太田家ゆかりの気になるお寺があったことを思い出し行ってみました~train


上に書いた遠山綱景の息子、遠山隼人佑景久に嫁いだ北条綱成の娘浄光院殿の菩提寺「瑞宝山 祥雲寺」です。広尾にある、江戸時代 の狭山北条家の菩提寺も「祥雲寺」ですが、偶然同じ名前のようです。

永禄7年、祥雲寺は遠山家によって、吉祥寺と同じく江戸城内に開基されました。永禄7年とは、国府台で綱景や景久が戦死した年です。「瑞鳳山」とは、景久の法名からとっています。また、浄光院さまは、夫に先立ち永禄3年に亡くなっています。


ご本尊の薬師如来は天正17年に建立されたことが、胎内に書き残されています。天正17年…もう臨戦体制の頃ですが、遠山家の誰かが病気だったりしたのですかねえ…。

こちらも大きなお寺です。薬師如来は小ぶりですが、同じく小さいけれど荘厳なお厨子の中で、深い光を放っていました。ちょっとゾクッと した。


祥雲寺はその後、江戸に徳川が入ったり火災があったりして、現在の池袋に移転したようです。

お寺の紋は遠山家の紋ではなく、浄光院様の実家の三鱗なのですね。そういうものなのですか?本堂も▲仏具も▲境内も▲三鱗だらけでした。


芳春院の足跡を辿って、古河公方の取次だった遠山さんに行き当ったのですが、遠山家がいかに江戸で勢力を持っていたのかを実感するお寺巡りでした。


horse 「狩野元信」展で北条氏綱!(~11月5日まで)

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~サントリー美術館のミュージアムショップで買った『酒伝童子絵巻』のカード~


芳春院さまとも遠山さんとも全然関係ありませんが、サントリー美術館で開催中の「狩野元信」展を観に行きました。

目当てはもちろん、我らが北条氏綱が企画・発注した『酒伝童子絵巻』です。大永二年作。詞書は、近衛尚道(北条氏綱後室の父)・定法寺公助・青蓮院尊鎮。


展示には氏綱が発注したことだけは書いてありましたが、その後、この絵巻は代々の北条当主が保持し、小田原が滅びた後は五代氏直の室であった家康の娘の督姫が池田家へ再婚する時に持参しました。

あら~~coldsweats01


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年10月20日 (金)

北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔

by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち
【二代北条氏綱の息女~足利晴氏室】


Photo
~伝・四代古河公方 足利晴氏の墓~


関宿城(跡)から馬で、いや、車で5分ぐらいのところに「宗英寺」というお寺があります。慶長年間に、家康の弟である初代関宿城主松平康元により建立された由緒あるお寺で、康元のお墓もあります。


宗英寺に四代古河公方、足利はるる こと足利晴氏のお墓と伝わっている五輪塔があると聞き、一度拝んでみたいと思っていました。以前、逆井城などを周った時に関宿城博物館までは行ったのですが、当時は足利公方に興味がなかったので素通りしてしまいました。

立派な山門をくぐり、説明板をじっくりと読んだあとは、スタスタスタスタと墓所へ。墓所をグルグルしましたが…ありませんのう、はるるのお墓。お寺の方に伺いましたら、「晴氏のお墓と伝わっているもの」は、山門を入ってすぐのところにあると。墓所にあるとばかり思って脇目もふらずに歩いておりましたよ。


戻ってみると…

どひゃーー coldsweats02 思わず後ずさり。

凄い石塔がそこにありました。写真では伝わらないかもしれませんが、石塔はトーテムポールのように高いです。優に2m位はあるのではないでしょうか。後ずさりしないと、全容が見られません(ちとオーバー?)。五輪塔と呼ばれているようですが、五輪塔ではないのですてね。なんと申したらいいのか…石塔、です。


石塔は、崩れていた(崩れそうだった?)のを、お団子のように重ね合わせて接着されています。特に「晴氏墓」などの表示はなく、忽然と現われたようにそこに建っています。


この石塔がなにゆえ、はるる(晴氏)のお墓だと伝わっているのでしょうか。

それは、塔の、上から6個目の四角い石に、はるるの法名である「永僊(仙)院殿」と刻まれているのが読めるからです。

Photo_4
~文字はけっこうハッキリしている?この部分は宝篋印塔とのこと教えていただく(2017.10.29)。~


▲ 天文7年。
古河公方足利晴氏と、伯父である小弓公方足利義明が松戸台あたりで合戦に及んだ。北条氏綱・氏康父子は、自身の軍隊を持たない公方晴氏の名代として参戦。一方、義明を擁立したのは安房の里見氏。

第一次国府台の戦いである。▲


001_2
~里見勢らに見限られ(?)た小弓公方足利義明が、単騎北条軍に突入し討死した相模台城跡(松戸駅前聖徳大学内)。~


wine 芳春院殿

合戦に勝利した北条氏綱が晴氏の後室として嫁がせたのが、娘の芳春院殿です。

大河ドラマにからめて、氏康の娘の早川殿(今川氏真室)を先に書いてしまいましたが、再び氏綱の娘に戻ります。


芳春院は、その容色を楊貴妃にも例えられ、公方に嫁いでからは、実家と公方家の間を取り持つ重要ミッションを担い、鎌倉での息子義氏の公方就任式典では共にパレードに連なり、「日本王天下光」の朱印を使い、実家の全面バックアップを受け当時の東日本の女人では最高の権勢を誇りました。

小田原を出てから、葛西・古河・栗橋・関宿などなど子息の義氏と共に居城を移し(たぶん)、夫君の はるる とはほとんど別居生活だったとは思いますが(たぶん)、華やかで、頭も良く、女王のような威厳を感じさせる、そして勝気な女性だったのでしょうねえ(北条の女性は皆強い wobbly)。


芳春院については、以前、古河などで妄想を広げたブログ記事をたくさん書きました。一部を文末へ添付いたしましたので、あわせてご覧くださると嬉しいです。


horse 古河公方 足利晴氏

いつも書いていて恐縮ですが、古河(鎌倉)公方の名前を覚えるためにニックネームを付けて呼んでいます。初代シゲッチ(成氏)→二代マー君(政氏)→三代タカピー(高基)→四代はるる(晴氏)→五代よっしー(義氏)…。それでも、マー君とタカピーが時々テンコシャンコになるsweat01


四代はるる は、北条氏綱から娘を送り込まれ、先妻との子は廃嫡とされ、いったんは北条と和解しましたが、廃嫡された息子藤氏と共に北条に叛旗を翻したものの敗北。波多野(秦野)に幽閉され、その後野田にお預けとなり、そこで亡くなりました(野田家文書・鑁阿寺文書)。


古河には、はるるの法名の「永仙院」というお寺があります。今は廃寺となっているので正確にはお寺が「ありました」ですが、永仙院は、それ以前は「乾享院」という、シゲッチ開基のお寺でした。「乾享院」とはシゲッチの法名です。その後、はるるの菩提寺となり、法名である「永仙院」となったそうです。

(ん?ということは…永仙院=乾享院にシゲッチのお墓はあったのでしょうか?現シゲッチのお墓は後に造られた供養墓です。)


永仙院跡には墓地が残っています。しかし、そこに、はるるのお墓とされているものは見つけられませんでした。あるはずですよねえ。廃寺になってしまっているので、もう分からないのでしょうかねえ。

同じく古河の「一向寺」というお寺が、永仙院の遺宝を引き継いでいるそうなので、一向寺さんに行ったら何か分かったのでしょうか。古河に行った時は、時間がなくて寄れませんでした。


horse 謎の石塔

さて、話を関宿宗英寺の「石塔」に戻します。

野田で亡くなった はるる のお墓(法名が刻まれた石)がなぜ関宿にあるのでしょうか?


お寺の方、関宿城博物館の学芸員さん、「道灌びいき」の会員である古河の郷土史会の方々に伺いましたが、本当に分からないそうです。元々畑の中にあったものをここにおさめたと聞いているとのこと。

関宿城博物館の展望室から悠々と流れる利根川や江戸川を眺め、古河の方向を見つめながらながら妄想してみました。


▲ 元々は野田の栗橋城の近くにあったが、その後栗橋城に入った我らが北条氏照どのが配下の者に「撤去せい」と命じ、そこに一緒にあった他のお墓などと一緒に配下の者が少し離れた関宿の畑の中へ、テイッ!と捨てた。

または、栗橋が北条に従属したのちも墓はそこにあったが、天正18年、北条が滅びたあとに入った小笠原さんちの誰かが、そのあたりにあったお墓類の使えそうな石だけ残し、不必要な石を少し離れた関宿の畑の中へ、テイッ!と捨てた。

そして…

▲ その後に関宿に入った松平さんが、畑の中に散乱している墓石の中に「永仙院」と刻まれたものを見つけ、「あまりに哀れじゃ…」と、配下の者に命じ整えさせた。が、配下の者は積み重ね方をよく知らず、そのへんの石を適当に積んだ。


な~んてね。
実のところはお墓は古河や久喜にあったのでしょうが、野田さんか誰かが、こちらに供養塔として築いたのかもしれませんね。もしくは、もう少し後に梁田さんが建てた供養塔かもしれないですねえ。

時が流れそれらは放置され、崩れ散乱していたのを土地の人達が積み上げ、それを松平さんかお寺の人が寺内におさめた…というところだと思います。


Img20170905_201819_2
~丸に二つ引きの家紋が端然とそびえる久喜にある臨済宗「甘棠院(かんとういん)」。晴氏の祖父、足利政氏の屋敷・菩提寺である。~


永禄3年、はるるは激動の人生を終え、葬儀は久喜「甘棠院」にて営まれました。芳春院はこの時に落髪します(喜連川判鑑)。

北条にその立場を追われ敵対していた夫君とはほとんど一緒にいなかったと思われる芳春院ですが、晴氏死去の翌年この世を去りました。まだ40代前半だったと思います。栄華を極めた方にしては、まだお若いですねえ。


晴氏と芳春院がこの世を去り、芳春院の息子義氏が公方になると、足利公方と北条の関係はあらたな時代を迎えることとなります。義氏には氏康の娘が嫁ぎますので、古河公方のことはその時にまた。


pen 謎の石塔について加筆。

もう少し資料を読んでみましたら、芳春院の息子の公方ヨッシーは、父母が死去した永禄3-4年あたり、野田と共に関宿に籠城していました。

永禄4年7月に芳春院が亡くなった時、芳春院の兄北条氏康が籠城中の野田さんへ弔意を表した書状を出しています。ということは、芳春院は息子と共に関宿にいて、そこで没した可能性もありますよね。


もしかしたら、芳春院が、前年亡くなった夫のお墓(供養塔)をその時そこに建てたということも考えられますよねえ。そして翌年、息子の公方ヨッシーが母 芳春院のお墓を父はるる のお墓に並べて建てたとか…。

ヨッシーが梁田と和睦して関宿を出たのは、7月。たぶん、母上の弔いを済ませてからのことなのでしょう。


Img20170905_201832
~甘棠院の周りを取り巻く堀と土塁。本堂へは近づけない。~


ほな、こたびはこれまでに。


cherryblossom  芳春院を書いた記事の一部です
「古河公方の古河を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-de53.html
「後編」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-8375.html
「後北条一族の陰謀、公方の御座所「葛西城」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-fdbc.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html


wine 今までの北条五代の娘たちの記事です(それぞれ続編・番外編などあり)

・初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html

・二代 北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「浄心院は三浦道寸の娘か北条氏綱の娘か? 」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3016.html
「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html

「北条五代の娘たち ⑥ 諏訪湖に消えた駿東の名族葛山氏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-7fbd.html

・三代 北条氏康の息女
「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年9月30日 (土)

今川氏真夫妻らの、当初の菩提寺 「萬昌院」

シリーズ 北条五代の娘たち
【三代・北条氏康の娘たち~番外編】


Photo
~萬昌院功雲寺。戦後(昭和の)、萬昌院と功雲寺が一緒になった。~


中野(落合)に 萬昌院 という大きなお寺があります。先にも書きました杉並(上井草)にある「観泉寺」に移る前の、今川氏真夫妻や兄弟らの当初の墓所です。

氏真の孫の代に「観泉寺」が今川家の菩提寺とされ、氏真らのお墓もそちらへまとめられたそうです。観泉寺へは分骨なのか全て移したのかは存じませんが、萬昌院のお墓はそのまま残されています。


早河殿のお墓は「無縫塔」と呼ばれる卵型のものでした。お坊さんのお墓にされるタイプです。

観泉寺に移されると、もう宝篋印塔になります。


萬昌院の開基は今川氏真の弟、一月長得(いちげつちょうとく)。開山当時はもっと江戸城近くにありましたが、例によって、火事や諸々の事情で大正の頃に今の場所に移ったそうです。

一月長得のお墓ももちろんここにありました。


萬昌院さんは非常に警備の厳しい御寺で、山門には警備員さんが立っています。お寺の中に入る時には記帳をしてリボンをもらいます。

写真は、墓所、境内、山門さえもNG。門柱だけ許可を取って撮りました(ジーーっeye と、カメラの角度を監視されながら)。


こちらの墓所も歴史上の有名な人物のお墓が多く、吉良上野介殿のお墓もありました。立派でした~。

上野介殿が松の廊下で内匠頭に切られた時には傷の手当てをし、赤穂浪士たちに討ち捕られた時には、首と胴の縫合をしたという御典医栗崎道有のお墓もありました。同じお寺なのだね。


このところ、都心のお墓を色々と廻っております。足利はるる(晴氏)に嫁いだ、氏綱のむすめの足跡を辿っていたらアチコチ気になるお寺が出てきてしまったのです。

都心でも大きなお寺はたくさんあるのですねえ。ちょっと驚きました。それらのお寺のことも追々書いていきたいと思います。


「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原の久翁寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html

「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2017年8月11日 (金)

北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻

wine 浄福寺の件でコメントくださった方、お返事差し上げましたがアドレスが違うということで未達となりました。コメントありがとうございました。
from マリコ・ポーロ


シリーズ 北条五代の娘たち
【三代北条氏康の息女~今川氏真室】

Photo
~今川氏真・早川殿夫妻の終いの棲家跡を、向いのスーパーから俯瞰した。現在の東京都品川区の大井町駅あたり。今はなんの遺構も碑もない。~


先年からヨロヨロと追い続けている【北条五代の娘たち】。早雲こと伊勢宗瑞の娘達に始まり、ただ今、二代氏綱の娘達の途中ではありますが、ちょっと順番を割り込んで、大河で旬の今川氏真室 早川殿 のことを思ってみました。


wine 早川(早河)殿
パパ: 北条三代当主氏康
ママ: 瑞渓院(父・今川氏親/母・寿桂尼/兄弟・今川氏輝、彦五郎、義元)

兄弟: 氏政、氏照、氏邦、氏規、上杉景虎
姉妹: 七曲殿(綱繁室)、千葉親胤室、長林院(岩付太田室)、浄光院殿(足利公方室)、桂林院殿(武田勝頼室)

などなどの他に、イトコやなにやらで父氏康の養子女となった義理の兄弟姉妹まで入れると、ウジャウジャウジャウジャ。早川殿は、それらの長姉と考えられています。


北条の女人たちは、嫁ぎ先が滅びたり同盟が崩れたりしてもすぐに実家に戻らない方が多いですね。帰れと言われてもガンとして戻らなかったり、遠国へ渡ったり、夫君と共に命を絶ったりする女人が幾人か浮かびます。前にも書いたかもしれませんが、それは何故だろうと考えることがあります。

相手への情愛が深い情熱型の女人が多かったのか。はたまた、細かくて窮屈な北条(そうなのか?coldsweats01)に比べると、嫁ぎ先は居心地の良いところだったのか。それとも、北条には戻り難い雰囲気があったのか…いや、幻庵大伯父が引き取り後は後見となって面倒をみてくれるので、それはなかったと思いたいですよね。


北条家には、その幻庵殿が娘を吉良氏朝(頼康の次代)へ嫁がせる時に渡した、他家への嫁入りの心得書 『北条幻庵覚書』というものがあります。

やはり、その教えが、北条一門の女人達には根付いているのではないかと思うのです。


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~『北条幻庵覚書』 永禄3年12月16日


放映中の大河ドラマ「直虎」に出てくる、今川氏真の正室 早川(早河)殿 も、そんな女人たちの一人です。

氏真や早川殿のことは以前にたくさん書きましたので、そちらもあわせてご覧くださると助かりまする(文末に添付)。


上にも書きましたが、早川殿は、我らが氏政や氏照たちウジャウジャ兄弟姉妹の、一番上のお姉さんだとされています。つまり、早川殿が子供だった頃はまだ北条の初期です。

伊勢宗瑞の質実な暮らし方を色濃く受け継いだ小田原や、領地争奪の戦の日々に明け暮れる東国から京の香りに溢れた駿府へ入った 16-7歳 の少女にとって、嫁ぎ先はどれだけ華やかに見えたことでしょう…たぶん。

猛々しい戦国武者や超ワンパクな弟達(そうか?)を見慣れている身にとって、氏真や義元や今川の側近たちはどれだけエレガントなジェントルマンに見えたことでしょう…たぶん。


なーんて、北条の曽祖父の実家の伊勢家は京の将軍家の取次ぎの家。母上は今川の出。それほど粗野で野暮ではなかったはずですが、それでも、今川はきらびやかで shine アカデミックに思えたことだろうと想像します。

寿桂尼は御祖母様。大叔母の長松院(宗瑞娘)も重臣三浦家にいますし、弟クンの氏規もすでに駿府にいたでしょうから、心細いこともありませんしね…たぶん。

(とんだ見当はずれだったらゴメンナチャイ、早川殿 bleah


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~氏真や早川殿が一時過ごした小田原の早川。早川は、小田原市街から川(早川)を渡ったところ。石垣山城の麓の漁港である。~


今に伝わる氏真の評判については、その後駿府の主となった徳川家が「前の領主はこんな情けない人間だったんだど~。それに比べて今はとてもいいでしょ~」と思わせるために作り上げたものだという説もあります。しかし、当時の信玄殿はじめ周辺の武将たちの人物評を聞くと(?読むと)、やはり、戦国時代の武将には向かなかった方だったような気が私はします。


氏真が武田によって駿府を追われてからの流転や、北条氏政の息子(氏直)に「今川」の名跡を譲った(後に返してもらった)ことなどは皆さまご存知の如くですが、夫妻一行が難民となって小田原へ来た時、なぜ城内エリアではなく、川の向こうに彼らを置いたのかがずっと気になっています。


① ただ単に、夫妻の屋敷を城内エリアに建築するまでの仮住まいだっただけ。(完成する前に出ていった。)

② 人数が多くて、城内エリアに高級難民キャンプとするに適した場所がなかった。

③ 早川は幻庵の管轄地。北条の出戻り組は幻庵が後見担当だったから、自然の流れで小田原に一番近い早川村になった。

④氏政さまが、城内エリアに置くことを嫌がった。もちろん、個人的好き嫌いではなく政策的理由で。


氏真夫妻が小田原を出ていったのは、北条が再び武田と結んだことにより、ここにいては今川の再興は有り得ないと考えたからと言われています。それもあるとは思いますが、「あとの人生、このひなびた漁村(当時のことよ)で一生を終えるのか…。」と、どよ~ん ↓ としてしまったのかもしれないですねえ。think


ほな、こたびはこれまでに。


「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原の久翁寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html

「駿府 「臨済寺」の特別公開」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-2e50.html
「今川時代の駿府~吐月峰 柴屋寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-7dec.html
「駿府で暮らした早雲の姉と北条氏規」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a23.html


wine 今までの北条五代の娘たちの記事です(それぞれ続編・番外編などあり)

・初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html

・二代 北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「浄心院は三浦道寸の娘か北条氏綱の娘か? 」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3016.html

「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html
「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html
「北条五代の娘たち ⑥ 諏訪湖に消えた駿東の名族葛山氏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-7fbd.html


萩真尼ことマリコ・ポーロ

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2017年3月31日 (金)

吉良頼康ゆかりの寺々(川崎・目黒・世田谷・蒔田)

シリーズ 北条五代の娘たち
二代・北条氏綱の息女たち、吉良頼康室~続編】


wine 「泉澤寺」
川崎、武蔵小杉駅からバスで15分弱位…だったかな?

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~門前に着くなり、説明板でいきなり我らが氏政アニキの虎朱印!(右下の)~


泉澤寺は当初世田谷にあったものの、火災にあったために天文年間に頼康殿が現在の地へ移したと伝わっています。お寺は中原往還に面しており、周りには当時の堀ではないかといわれている二ヶ領用水が流れています。


ご本尊の阿弥陀如来は南北朝時代の作。その銘札には、「吉良頼康」と「妻平氏女」の墨書きが残っているそうです(『戦336』 by 黒田基樹『北条早雲とその一族 2007』)。

「平氏女」とは、小田原北条家の姫ということです。頼康と連名で「妻」となっているということは、頼康に嫁いだ北条氏綱の娘、つまり、﨑姫ということになります。(ということの連呼で恐縮。)法名は不明。


お寺の方に伺ってみました。大変感じ良く対応してくださいましたが、その銘札のことは分からない、亡き先代なら知っていたかもしれないとのこと。残念なり。

そこで、家に戻ってから川崎市さんの方へ問い合わせさせていただいたところ、北条幻庵の伊豆市さん同様、とても詳しく丁寧なお返事を頂戴しました。なんと、世田谷区にまで聞いてくださっていました。


以下、要約です。

上記の『戦国遺文後北条氏編336』は、世田谷区が出版した『世田谷区史料第二集』からの引用なので、世田谷区に問い合わせてみたところ…
「1959年以前に世田谷区内の古文書等の調査をした際に、泉澤寺のこの阿弥陀仏の札銘に関する記録が出てきた」

のだそうですが、この記録も札銘も現在は確認が出来ない状態なのだそうです。


(川崎市さん、世田谷区さん、お忙しいところ一歴史ファンの疑問を調べてくださり誠にありがとうございました。)


泉澤寺は元々世田谷にあったので、お寺の記録も世田谷に残っているのだとは思いますが、それにしてももう分からないとは重ね重ね残念じゃのうcrying

(どのように書かれていたのかは記録に残っていて史料を読むことが出来ます。ややこしく長くなるゆえここには書きませんが、ご興味あらばお調べくだされ。)

川崎市教育委員会HP→http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000056.html


wine 次は「勝光院」
世田谷区、世田谷線宮の坂駅

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~駅から住宅街に入るとすぐに美しい竹林が現われた~


当初は「竜凰寺」として吉良家が創建。その後、先のブログ記事にも書いた、頼康の養子となった北条氏朝が、養父頼康の院号の「勝光院」と改めたそうです。

すわっ、ほな頼康殿のお墓はここかっ!と思ったのですが、そこらへんのところはよく分かりません。


「吉良家墓所 ↑ この先右手」という案内板がある木戸をくぐると、きちんと柵で囲まれた世田谷吉良一族の墓所がありました。説明板を読むと、こちらには氏朝の孫以降のお墓があると書かれていました。

つまり江戸時代ってことですな。右の隅には、もう少し古そうな五輪塔がいくつかまとめてありましたが、あれらはどなたのお墓なのかな…。


「氏朝の局」(正室である北条の娘か、側室かは不明)や、世田谷城にあった千手観音などの仏様が坐すそうなのですが、本堂はピシッと閉っていて、境内は人っ子一人おらず静寂に包まれていたため、お参りできるのか否か分かりませんでした。

勝光院は非常に美しいお寺で敷地も広く、世田谷線の駅近くの住宅街に京都の洛外にあるようなお寺があるとは想像もしていませんでした。


wine 世田谷「勝国寺」
世田谷区、世田谷線世田谷駅

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~境内で、ワテのことをジーーーッと見ていた猫。「よりやす殿か?」と声をかけてみたが、無反応。お寺に入ってから出てゆくまで、ずーーーーっと見られていたsweat01。~


開基は頼康殿のお祖父さんといわれている政忠殿です。

こちらには、小田原北条から嫁いだ室の持仏であった(『世田谷区社寺史料』より)と伝わる薬師如来が坐します。昭和初期までは秘仏だったと『勝国寺寺院明細帳』にあったそうですが、その『勝国寺寺院明細帳』の所在は今は不明で、調査時に聞き取ったものだろうとのことです。


現在、秘仏は年に一度、新春初薬師法要の時(1月12日が日曜日の場合は1月12日、それ以外は1月12日以降の最初の日曜日)に御開帳があります。

是非拝んでみたい!と思ったら、歴友師匠に、「(数年前の)横浜歴博の蒔田の吉良氏展に出ていたじゃない」と言われちった。まったく覚えとらんcrying。なに見てんだろ私ったら。


それよりなにより、
勝国寺は、なぜ世田谷と蒔田と2つあるのだろうか?

世田谷区HP→http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/106/152/d00129077.html


wine 蒔田「勝国寺」
横浜市、ブルーライン蒔田駅

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~蒔田城の麓にある勝国寺~


ということで、蒔田の勝国寺にもお参りしました。


吉良殿の主な領地は世田谷と蒔田ですよね。どっちを、いつ、どのように使っていたのか知りませんでしたが、上と同じく横浜歴博の企画展の時に少し雰囲気が分かりました。

吉良成高・頼康父子の頃は、世田谷が公邸で正室が住み、蒔田は文化人などが訪れる別荘のような場所だったのだろうとのことだそうです。へえ~~。

また、
パパ成高の妻は「世田谷局」と呼ばれ(上杉定正書状)、息子の頼康(or氏朝)の妻は「蒔田御前」と称した(世田谷徴古録)ともありました。へえ~~。


蒔田勝国寺には頼康殿の供養塔があります。案内&説明板があり、自由にお参りできます。

境内の碑には、「頼康も当寺に葬りしといへば四基の中にあると思慮せられる」とありました。ホンマどすかっ!ドびっくり~ coldsweats02。ただ、頼康のお祖父さん・政忠の法名は「勝国寺殿」ではない、とも言われていますな…。うーん。よう分からん。


それにしても、今、蒔田城には某女学校が建っていますね。学校が建っていて良かったです。

これは玉縄城にも言えることですが、もし学校が建っていなかったら、今頃は宅地開発やその他様々な施設により跡形も無くなっていたことだろうと、私は思いますよ。


wine 東光寺
目黒区八雲、都立大学駅

1
~おお!吉良殿の紋がまぶしかとーshine


東光寺は、頼康殿より数代前のご先祖殿が、幼少で亡くなった息子の墓所としたお寺だそうですが、説明板を読んで驚きました。


こちらには3基の宝篋院塔があり、案内板もあって自由にお参りできます。

その幼少で亡くなった方以外のあとの2つの宝篋院塔のうちのひとつが、私が今探している頼康殿のお墓だとされていました。そして、あとのひとつは、頼康養子の氏朝(山木大方と今川堀越六郎の息子) の娘、つまり頼康の義理の孫のお墓だと!

ホンマどすか!ドびっくり~coldsweats02


う~ん。しかし…
頼康の法名は「勝光院殿」なのに「大徳寺殿」となっているし、没年も大永では早過ぎるし、官途名がこちらは「左京大夫」になっていますが、そうじゃなかったような…。手持ちの吉良の年表を見てみたらやっぱり違うような。世田谷吉良で「左京大夫」は3代目の頼氏だけのような。頼氏の法名は「大徳寺殿」かな?チト分からにゃい。

まあねえ、昔のことゆえ、その後の数百年の間に何人もの名前が混ぜぇこぜぇになってしまうなんてことは、どこのお寺でもあることですよね~。


いや、それとも!あの当時は頼康殿を世田谷に葬れなかった理由が何かあったのかのう。

まったく分からん!いったい、頼康殿とその室である北条氏綱の娘はどこに葬られたのか…。


以上の他にも世田谷等々力で満願寺や八幡神社などを訪ね歩きました。

頼康殿は寺社への信仰心が厚かったようで、ゆかりの素敵なお寺は他にもあまたありますが、これ以上お寺参りをしては脳内が益々混乱してしまいそう。ひとまず頼康殿のお寺巡りはこれにて終わりにいたしとう存じます。


本編→北条五代の娘たち ③ 吉良頼康室~謙信の侵攻と吉良の代替わり
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html

「蒔田の吉良氏 戦国まぼろしの蒔田城と姫君」展
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/at-2d5f.html
「後北条の姫も妬んだ常盤姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-64d0.html
「後北条の女領主、伊豆の山木大方」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html

「北条五代の娘たち①北条早雲こと伊勢宗瑞の娘たち」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html

「北条五代の娘たち②太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html→その後知った驚きの事実「浄心院は三浦道寸の娘ではなく、北条氏綱の娘ではないか? 」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-aaec.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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