2020年2月20日 (木)

公方の姫~青岳尼事件 あらたに知ったこと

マリコ・ポーロ


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~垂木、詰組、波連子…屋根の内側まで繊細で華やかな国宝「円覚寺正続院の舎利殿」は「太平寺仏殿」だった~


青岳尼 は小弓公方足利義明の姫として坂東戦国時代ファンのヒロインとして有名ですし、姫のことは幾度かブログにも書いておりますが(文末添付)、も一度。


義明が国府台で討死したのち、姫は北条氏康殿の庇護のもと鎌倉「東慶寺」へ入り、その後、鎌倉「太平寺」の住持となりました。東慶寺の住持は、青岳尼の妹の旭山尼です。

のちに、いかなる次第か定かではありませんが、姫は鎌倉を出奔。海を渡り里見義弘の元へゆき、二度と戻りませんでした。太平寺は廃寺となりました。

太平寺は、碑文によると元は比企一族の尼寺で、頼朝が池禅尼の旧恩に報いるためその姪を開山として創建したそうです。

初代鎌倉公方足利基氏の子孫の尼僧を中興の祖として発展し、「鎌倉五山」第一位の格式あるお寺でした。トップ写真の円覚寺正続院の舎利殿は、廃寺となっていた鎌倉太平寺から移されたものです。


前回のブログ記事「玉縄水軍の御しんぞう様」でも少し触れましたが、昨年、玉縄城址まちづくり会議さん主催の真鍋淳哉氏の講座「戦国江戸湾の海賊と玉縄城の水運」を拝聴しました。そこで、青岳尼についてマリコ・ポーロの今までの謎が解けたり、また、あらたな謎?となったことがありました。

講演で新しく知ったことや疑問を以下の4鱗▲に沿って書いて見ます。同じく真鍋氏の著作『戦国江戸湾の海賊』も参考にさせていただきました。

▲青岳尼は連れ去られたのか?共謀だったのか?/ ▲聖観世音菩薩は青岳尼と共に安房へ渡ったのか?/ ▲それは本当に弘治2年なのか?/ ▲公方の姫は東慶寺(か太平寺)にもう一人いた?


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~太平寺から移築された円覚寺正続院の舎利殿。屋根の反りがハンパない~

▲ 青岳尼は連れ去られたのか?共謀だったのか?

里見義弘が鎌倉へ攻め入った時に青岳尼を連れ去った、いや、義弘と事前に示し合わせ安房へ行ったなどなどと様々言われています。

以前のブログ記事は、共謀説を取って書きました。だって、姫にとって北条は父親の仇ですからね。太平寺に「庇護された」というより「剃髪させられ、浮世から離された」みたいなイメージでした。姫は義弘殿のいる安房へ帰りたくて、ふたりでもくろんだと妄想しました。


また、青岳尼が出奔したあとに氏康が東慶寺に出した有名な手紙には、「大平寺殿 むかい地へ御うつり、まことにもってふしぎなる御くわたて…」とあります。

ただの「くわたて」ではなく「御くわたて」と「御」が付いているのも、青岳尼も企てに関与したのだと受け取ったんです。


講演で真鍋氏は、
「父義明を殺されている姫。義明は里見の元にいたから、おそらくふたりは顔見知り。自らの意志で義弘と図って北条の監視下より逃れたのでは…?」
とおっしゃっています。


興味深いのは、安房の館山市立博物館の「たてやまフィールドミュージアム」のサイトに書かれていることです。

…(青岳尼は)義明が討死した際には、義明の遺児頼純とともに安房の里見義堯のもとへ保護されたと考えられている。その後足利氏と縁のある太平寺へ入寺したものであろう。…


すでに、青岳尼は義明と結婚していたことになっていますねえ。息子を安房に置いて鎌倉へ来させられたということですよね。もしそうだったら尚更帰りたいですよね。

真実はどうだったのか。それは、いまだ不明だそうです。


▲ 聖観世音菩薩と青岳尼は一緒に安房へ渡ったのか?

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~東慶寺で購入できる「聖観音」のポストカード~

鎌倉東慶寺宝蔵におわす「木造聖観世音菩薩立像」は、かつて青岳尼が住持していた太平寺の本尊で、円覚寺舎利殿(写真)が太平寺の仏殿だった時はそこに安置されていたと伝わっています。


チト話は逸れまするが…
廃寺にした太平寺の建物の移築のことで氏康が円覚寺に出した手紙(後述)には、「太平寺 客殿」とあります。

玉縄の講演の時に玉林美男氏がおっしゃるには、これは「太平寺 仏殿」ではないかと。「客殿」とは長方形の建物で、円覚寺舎利殿は正方形だから「仏殿」だと思われるそうです。

氏康殿、アバウト?間違えて書いちゃった?それとも移築されたのは舎利殿ではない他の建物?それとも、複数の移築があったのか?


話を戻し…
そもそもこの聖観音はいつ誰によって造られたのでしょうか。


東慶寺の、江戸時代に書かれた聖観音の由来書には、元は源頼朝の守本尊で、佐殿が、鎌倉に在住していた宋の工人陳和卿に依頼したとあるそうです。陳和卿って、実朝は誰それの生まれ変わりだとか言ったり、実朝の命で製造した舟が浮かばずに沈んだりという例の話の人ですよね。美しい仏様を造るんですねえ。

当初は東慶寺に置かれましたが、太平寺が建立された時に移したそうです。


へえ~~ (´▽`)
知らなんだ。


時は流れ…

同じく由来書によると、
里見安房守 が鎌倉に乱入し鎌倉の神社仏閣とともに太平寺も焼き払い → 御本尊と青岳尼を 連れ去り → その後、聖観音は氏綱公が東慶寺蔭涼軒からお願いして返してもらった → 戻った聖観音は 東慶寺に置かれ → 氏綱公は喜び蔭涼軒に感状を出し、その感状は今(江戸時代)も東慶寺にある…

のだそうです。


太平寺の仏殿は円覚寺で今も残っていますから太平寺は焼き払われてはいないと思いますし、里見安房守って誰?ではありますが、そのへんは江戸時代に書かれたものなので気にしないでおくとして、その他は由来書の通りだとすると‥


青岳尼の父足利義明が国府台で討死したのは天文7年。青岳尼はそれから鎌倉へ来ました。青岳尼と聖観音が一緒に安房へ渡り、聖観音の返還に氏綱がかかわることができるのは、氏綱が亡くなる天文10年までの3年の間ということになります。

3年もあれば起こった可能性もあります。太平寺跡の碑文にも、事件が起こったのは「天文中」とありますし。


でもそれでは、氏綱公が聖観音返還の担当で東慶寺に依頼をし、氏康は青岳尼の担当で東慶寺に手紙を出した、ということになります。それはなんだか妙です。

それに、天文7年~10年の間に、里見が鎌倉へ入ってきたという話を私は聞いたことがありません(ある?)。


これはどういうことだろう?
マリコ・ポーロなりに妄想してみました。


(妄想①) 聖観音と青岳尼は別々の時期に安房へ渡った

由来書の通り聖観音は氏綱公の時代に奪われた。それは大永5-6年の里見の鎌倉侵攻の時だと思われる。しかしそれは聖観音ひとり(?)だけで、青岳尼も一緒というのは後世の勘違い。


なぜなら、繰り返すが、青岳尼は天文7年までは鎌倉にはいないはずだし、もし一緒に安房へ行ったとすると天文7年~10年までの間になるが、その間に里見勢は鎌倉に来てない。

ま、コッソリ小舟で来て上陸し、聖観音と青岳尼を密かに連れ去ってしまうということも出来るかもしれないが、となると、後の氏康の手紙と合わなくなるから。


(妄想②) 氏康の時代に青岳尼だけが安房へ渡った

なぜなら、氏康が東慶寺に出した「ふしぎなる御くわたて」の手紙は、聖観音のことには触れていないから。聖観音は ① のように氏綱の時代に持ち去られ、その後東慶寺に戻されたままだったので無事だった。由来書は江戸時代に書かれたものなので氏綱と氏康とを混同した。

しかし、氏綱の感状のことはどうなるのか?感状、まだ残っているなら見たいです。


(妄想③) 氏康の次代に聖観音と青岳尼は一緒に安房へ渡った

上の②と同じく氏綱と氏康との記録違いで、全ては氏康が手紙を書いた頃に起こった。手紙で聖観音のことに触れていないのは、それは別の手紙に書いていて、その手紙はまだ発見されていないから。もしくは、聖観音のことは口頭で伝えた。

感状も、氏綱ではなく氏康の名前になっているとか?やっぱり感状を見たいです。


その感状とは、上でも触れた館山市立博物館「たてやまフィールドミュージアム」のサイトに載っているもの氏綱の、年未詳10月13日の書状でしょうか?ワテ読めないので分かりません。これです→ 「尼僧略奪」


う~む。疑問の解決には青岳尼がいつ安房へ渡ったかを知る必要があるのう。しかし、それが一番の疑問なのである!


▲ それは、本当に弘治2年なのか?

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~青岳尼が当初入った鎌倉東慶寺の梅~


通説では、由来書は「氏綱」と「氏康」を混同していて、青岳尼と聖観音が安房へ渡ったのは弘治2年の 北条vs里見 の戦時だとされていました。


弘治2年の海戦が本当にあったのかどうかについては、以前からマリコ・ポーロの謎でした。前回のブログ記事「玉縄水軍の御しんぞう様」でも書いたように、玉縄城での真鍋氏の講演でその謎は解けました。「弘治2年の海戦」といわれるものは、永禄4年の戦との間違いではないかというのです。

海戦がだったのかどうかは分かりませんが、永禄4年に里見が城ヶ島(三浦)を攻撃し、腰越(鎌倉)に侵攻したことが、氏康が玉縄の綱成の家臣に出した手紙に書かれています。


講演で真鍋氏は(何度もお名前を出して恐縮)、『北条家所領役帳』を示してくれました。なんと、役帳には「泰平寺(大平寺)殿」があるそうです!役帳は永禄2年ですよね!

弘治2年に太平寺から青岳尼がいなくなって廃寺となっていたら、永禄2年の役帳に載っているのはおかしいですね。太平寺は、少なくとも永禄2年は存在していたということです。里見の鎌倉侵攻が永禄4年なら、辻褄は合いますな。


が、しかし!

再三書いている「ふしぎなる御くわたて」の手紙には年が記載されていませんが、氏康が東慶寺住持の旭山尼に出したと言われています(もちろん侍者を通して)。旭山尼は青岳尼の妹です。旭山尼の経歴を見てみました。


あにゃ~~?
旭山尼は、弘治3年に他界しています


事件が起きたのが永禄2年以降でこの手紙もその時に書かれたものなら、手紙を見てほしい相手は旭山尼ではないですねえ。旭山尼の次か、次々代の住持の方でしょうか?調べたところ、次代は、足利政氏の孫で高基の娘(つまり古河公方の姫)。次々代は、義明の孫(つまり元小弓公方の姫)ですな。

それならそれで別によいのですが、そうではなくて、もし相手が旭山尼だったら、氏康の手紙は弘治3年より前の手紙になります。もしくは、永禄4年に氏康が アノ世の旭山尼に出したか(ひえ~~💦)。


手紙の直接の宛先は当然「いふ(衣鉢)侍者」ですし、文面には「その御寺へうらミ申へく候よし御ひろう、かしく、」で、お名前が書いてありません。

宛先は旭山尼と言われてきましたが、どこから旭山尼という話になったのだろう?

…………。


うぎゃ~
ややこしくて何を書いているか分からなくなってしもうた。


太平寺については、くだんの手紙に「大平寺の伽藍を廃絶するしかない(大平寺御事ハ、からんの事たやし申よりほかこれなく候)」とあります。実際に円覚寺に移築したのは永禄12年(これも年未詳だが氏康の円覚寺宛ての書状より)とされています。

太平寺の建物は、廃寺となった後しばらくはそのままだったようですな。


ちょっと思っちゃったのですが、青岳尼が鎌倉を出奔し安房へ戻ったのがもし永禄4年だったとしたら、鎌倉へ来てから 20年以上の月日が過ぎています。

そんなに逢わずに愛情とか執着とかって継続するものなのでしょうか?
え?する?失礼(^^;


そして、ここにもう一人謎の女人が出てくるのです。

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~青岳尼が渡った海~


▲ 公方の姫は東慶寺(か太平寺)にもう一人いた?

それは、先ほどから何度か書いている、氏康殿が東慶寺に宛てたお手紙の後半にあります。


「…(里見方は)また御新造を盗み取るとの噂を聞きつけました(又御しんそうをぬすミ取へきよし)…」

私はこの「御しんそう」は青岳尼の妹である東慶寺旭山尼のことだとずっと思っていました。なんだかどこかにそう書いてあったような記憶があるんだもん。


ところが「御新造」とは出家していない女性に使う言葉だそうですね。知らなかった(恥💦)。講演で真鍋氏は、「御新造」が誰かは不明だが、まだ出家していないが後々出家させようとしていたのか、足利関係の女性が寺にいたのだろうとおっしゃっていました。

そして氏康は、「御新造」を玉縄へお移しする旨を指示し、もし何かあったら東慶寺様へお恨みを申し入れる(若とかくあつてハ、その御寺へうらミ申へく候)とまで書いているのです。


誰だろう…?ということは、小弓公方関係の姫でしょうか?

小弓公方足利義明殿には3人の姫がいることになっています。青岳尼と旭山尼。もう一人は、山内上杉を継いだ上杉憲寛=足利晴直(晴氏の同母弟だそうな、よく知らにゃい)に嫁いだ方です。夫の憲寛殿は義明殿の元にいたそうです。


この方が未亡人になっていて、義明殿亡きあと青岳尼と共に氏康に庇護された可能性があるのでは!と張り切りましたら、御主人はもっともっと長生きしていました(天文20年没)。

なーんだ。


青岳尼が義弘殿の正室だったか側室だったかは定かではありません。青岳尼の子供のこともはっきりとは分かっていないようです。

青岳尼は天正4年に亡くなったと、安房の菩提寺の供養塔に刻まれているそうです。天正4年、里見義弘の正室は、小弓公方と敵対していた古河公方足利晴氏の姫となりました。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ


「里見へ走った公方の姫」
「弘治2年の「北条 vs 里見の海戦」は本当にあったのか?」
「鎌倉に訪ねる小田原北条ゆかりのヒロインの寺

・「南総里見ファンタジーツアー 1」
・「南総里見 5 「戦国人たちは消えてゆく~里見忠義」」

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2020年2月12日 (水)

まとめ「北条五代の娘たち」~宗瑞と氏綱の娘たち

マリコ・ポーロ


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~湯河原幕山~


シリーズ「北条五代の娘たち」の早雲こと宗瑞&二代氏綱のお嬢さんは、8人目の「玉縄水軍の御しんぞう様」をもってひとまず終えました。訪ねる場所は広範囲、読むものも大量、妄想すること果てしなく、宗瑞と氏綱のお嬢さんだけで足掛け4年もかかってしまいました。

日を置いて年を置いてバラバラと書き散らしたので、自分でもどこに何を書いたのか分からなくなったため以下にまとめてリンクを添付しました。暇で暇でどうしようもない時-そんな時ないでしょうが-にでもご再読賜りましたら、いと嬉し。


何度も書いており恐縮ですが、「北条の女人たち」を題するものは本でも講演でも展示でも、今川の瑞渓院(氏康室)、武田の黄梅院(氏政室)、徳川さんの督姫(氏直室)など北条に嫁いできた「他家の女人」ばかり取り上げられることが多いです。北条では武田に嫁いだ桂林院と今川に嫁いだ早川殿(どちらも氏康の娘)がいいところ。

北条家は子女が多く、お家乗っ取り養子&お嫁さん送り込み作戦は男女共同参画。お姫さま方も有効活用され、それぞれが歴史に影響を及ぼす大きな家に嫁ぎそのミッションを果たしています。そして、彼女たちのほとんどは、一族の重鎮であった幻庵殿の「覚え書」の教えゆえか、家同士が手切れになろうが夫君が死去しようが実家には戻りませんでした。


このシリーズは、北条の血を引く姫たちが、他家から北条に嫁いできた姫達や他の有名人気戦国大名ゆかりの女人達に負けず劣らず波乱万丈ドラマチックな人生を送ったことを北条ファンの皆様に思い出してほしくて始めたものです。蟻の爪(?)の先(?)ほどにもならない力ですが、少しでも興味をもってくださっていたら幸いです。

では、以下リンクにござる。(昨年ブログ屋のシステムが変わってから過去のブログ記事の改行が上手く反映されなくなっている場合がありますが、ご了承くださいませ。アクセス数が多い記事から順次修正しておりますが、なんせ大量のためはかどらずで。)


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~古~い プチ内裏雛~


▲初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女

「北条五代の娘たち①今川から戻った長松院様」

「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」

「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」


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~本城は蝋梅が満開。そういえば…北条の頃、城内の庭園(←どこか不明)に「泉式部」という梅があって、鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進したと本で読んだが、今でもその梅の子孫は小田原城や八幡宮にあるのだろうか?~


▲二代 北条氏綱の息女

(太田殿室)
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」

「江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」

「太田道灌の子息「資康」と、孫?「資高」の不思議」

「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」

「安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」


(吉良殿室)
「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」

「蒔田の吉良氏 戦国まぼろしの蒔田城と姫君」展」

「吉良頼康ゆかりの寺々(川崎・目黒・世田谷・蒔田)」


(今川六郎殿室)
「北条五代の娘たち ⑦ 錯綜する堀越(今川)六郎室」

(古河公方室)
「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」

(葛山殿室)
「北条五代の娘たち ⑥ 諏訪湖に消えた駿東の名族葛山氏」

(北条綱成室)
「北条五代の娘たち ⑧ 玉縄水軍の御しんぞう様」


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~八王子城城下の個人の方のおウチの中に残る土塁の上に咲く梅(入れません)~


▲三代 北条氏康の息女~大河「直虎」の時に今川さんが出たので先に書きました

(今川殿室)
・「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html
・「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原「久翁寺」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
・「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html
・「今川氏真夫妻らの、当初の菩提寺 「萬昌院」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-88b5.html
 


画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2020年2月 7日 (金)

北条五代の娘たち ⑧ 玉縄水軍の御しんぞう様

マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち【二代北条氏綱の息女~北条綱成室大頂院】

コメントをくださった皆様へ~
ブログのシステムが変わってから、くださったコメントへのお返事がうまく送信されていないことに今頃気が付きました。コメントへは必ずお返事を差し上げているのですが、もし届いていなかったら本当に申し訳ございません。違う方法で順次再送させていただいておりますが、もしお届けできていない方がいらっしゃいましたらお許しを。今後もコメントいただけましたら嬉しいです。



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~相模湾と玉縄を繋ぐ柏尾川(写真の向こうが相模湾、城は右側、左に現代の大船駅)~


永禄10年、三船台で負けた後、綱成の舟が座礁した。玉縄の舟はどこに停泊していたのだろうか?現在の柏尾川はほぼ改修されているとはいえ、戸部あたりに「舟入」の跡らしき場所があるようなそうな。ただ史料はないそう(玉林美男氏)。


さて、シリーズにしている「北条五代の娘たち」。二代氏綱公のお嬢さんたちの、やっと最後の方にござりまする。前回の ⑦山木大方は、なんと!一年前だったのですね。山木の方の印判がイノシシだったので、昨年亥年の年頭にアップしたのでした。(シリーズのブログ記事は文末に添付。ご覧くださるといと嬉し。年齢順不同。)

昨年は玉縄や江戸湾の海賊や水軍関係の講演をたくさん拝聴しました。それらを元に玉縄に嫁いだ姫のことを書きたかったのですが、講演をあまた聞き過ぎ、その上、すぐ他に気が散るため、まとめられぬまま今となっては忘却の彼方。
(ノД`)シクシク…


▲ 玉縄の御しんぞう様とは

法名:大頂院殿さま

父上:二代当主、氏綱
母上:養院さま
(近年、伊豆の横江北条の娘だとされている。)

兄上:三代当主、北条氏康

夫君:氏康のバディ💛、初代玉縄北条、北条綱成
嫡男:玉縄北条二代、北条氏繁


夫君の綱成のことは皆さんご存知ですし、今まで史実・妄想含めたくさん書いてまいりましたので割愛しますが(下記にリンクを添付)、とにかく氏綱公や氏康殿にとっては無くてはならぬ人で、非常に大事にされました。

綱成の出自は今川の福島くしま だとか 父親が伊勢九郎だとか諸説あります。北条での立ち位置を細かく言うと、綱成は北条の家臣であったのが→北条の娘を娶り北条「一門」となりました。大頂院の子、氏繁の時代から「氏」をもらい北条の「一族」となりました。あ、ご存知?失礼。


一門の中でも綱成は随分と特別扱いされていますよね。前にも書きましたが、私なぞ、綱成は氏康の腹違いの弟なのではないかと妄想するほどです。母親の身分が低いとか差し障りある筋とかで公にはせず、でも、公然の秘密だった…みたいにゃ。家光と保科正之みたいにゃ感じ。

大頂院さまが嫁いだ時期は定かではありませんが、長男の氏繁が生まれたのが天文5年です。その頃は玉縄領も玉縄水軍も、氏康の弟であり大頂院の兄である為さま(為昌)のものでした。河越の夜戦(夜戦かどうかは諸説あり)も起きていないですし、鎌倉の鶴岡八幡宮の再建もされていません。まだまだ北条盤石とはいえない頃です。綱成の力がたいそう必要だったのでしょうねえ。


綱成は、天文2年頃には玉縄城代として為さまを補佐していたようです。

数年後に、氏康のバディ💛だった綱成には氏康の妹が嫁ぎ、

為さまは 11年に突然他界します。まだ23才でした。

綱成は為さまの所領の多くを受け継ぎます(その後所領は少し分散)。


だからなんなんだ?思わせぶりな書き方して…ですが、為さまの死因にワテは疑問があり、いや、つまるところ、とにかく、氏康と一心同体のそんな最有力人材に嫁いだのが 大頂院です。以後、夫君の綱成は小田原北条躍進の一翼を担い、その子供達は一族の重鎮となってゆきます。


▲ 大頂院さまが御しんぞう様だった前後の頃の主な海戦(もちろん、対里見)

(大永5年&6年)
里見が三浦に侵攻。天文2年にいったん解消するが、6年に手切れ。


(弘治2年)
これは以前に当ブログ「弘治2年の北条vs里見の海戦は本当にあったのか?」でも書きましたが(下記にリンクを添付)、ずっと疑問でした。里見が城ヶ島を攻撃し、腰越に侵攻とされていましたが記録で見つけられなかったんです。

昨年の玉縄での真鍋淳哉氏の講演で少し謎が解けました。真鍋氏がおっしゃるには、これは永禄4年の出来事との間違いではないか?とのこと。

しかし、『海の日本史 江戸湾』の「戦国期の江戸湾をめぐる攻防」には、
この時(弘治2年)に発給された氏康の書状には、里見水軍を退散させて勝利に導いた梶原・愛洲・橋本・安宅氏に感状を出すとしている…」
とありました??


(永禄4年)
謙信君の小田原攻め時に、里見は鎌倉へ侵攻(和睦は天正5年)。


このあたりが大頂院さまの頃の玉縄の主な海戦ですが、大頂院さまが亡くなって以後、江戸湾の緊張感は益々高まっていくことになります。

「…玉縄城は北条氏にとって重要な役割を果たした「水軍」を統括する役割を果たす」
まさにこれが玉縄城の役割だったと真鍋氏。そして、三浦郡が独立し、三崎城と役割を分担することになります。



▲ 大頂院の菩提寺「大長寺」

大長寺は、玉縄城のある大船駅からバスで10分かかるかかからないか。開基は夫君の綱成殿です。

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墓所は檀家さん墓地の一角にあります。大頂院の息子氏繁の室、七曲殿(新光院殿)は氏康の娘ですが(イトコ同士の婚姻ね)、七曲殿のお墓もこの中にあるそうです。


私にはどれがどなたのやら分かりません。江戸時代に入ってから亡くなった方の新しいお墓は没年や法名が読み取れますが、摩耗していて分からない墓石もあります。たぶんそれらが大頂院や七曲殿のお墓でしょう。一番奥の隅の墓石が最も古そうです。

先日、小田原で梅の枝をゲットした帰りにも立ち寄りました。梅枝は一本だけだったので、ひとつひとつの墓石の前に順番に手向けながら、「本城の梅にございますよ~🌼」とお参りしました。


永禄元年(1558)大頂院死去。嫡男の氏繁はもう 22才位になっています。大頂院さまは 40才 になるかならぬかだったと思いますが、後に憂いはなかったことと…思いたいです。


🐎 綱成母、氏綱正室 養院菩提寺、浅倉の娘 養院菩提寺「香林寺」の 超・錯綜について

ご興味ある方は以前のブログ記事(下記リンク「前編~玉縄の&氏綱ご正室養珠院の謎」)をご覧くださいましたら助かりまする。大頂院さまには直接関係がないのと、本が出るたびにどんどん説が変わってゆき、よりややこしくなるので、ここにあらためて書くことはしないでおきます。


🐎 主に参考にした本

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・『海の日本史 江戸湾』2018.8.17 石村智/ 谷口榮 / 蒲生眞紗雄(洋泉社歴史新書)
・『戦国江戸湾の海賊 北条水軍vs里見水軍』2018.5.1 真鍋淳哉(戎光祥出版)
・『江の島、神の島から人の島へ』2019.3.29 伊藤一美(藤沢市文書館)


🐎 参考にした講演・シンポジウム
(今レジュメが手に入るかどうかは不明。紹介しておきながらすみません。)

・真鍋淳哉 講演「海と川をめぐる戦国大名の戦い~海をめぐる北条・関東上杉・三浦・里見の戦い」
戎光祥ヒストリカルセミナー 2019.4

・戦国時代の鎌倉の実況 2019.5、玉縄城址まちづくり会議
「戦国江戸湾の海賊と玉縄城の水運」真鍋淳哉
「玉縄領の家臣は何処にいたのか」真鍋淳哉・伊藤一美・玉林美男・大竹正芳

・「最新玉縄城資料から見える、実況検討」2019.6、玉縄城址まちづくり会議
黒田基樹・伊藤一美・玉林美男・大竹正芳


マリコ・ポーロ こと 萩真尼


☆ 以下、玉縄城についてのブログ記事の一部なり
「玉縄城-1 現代の難攻不落の城へ」2011.10
「玉縄城-2 現代の難攻不落の城」2011.10
「玉縄城-3 現代の難攻不落の城」2011.10

「玉縄城下の探索会へ(2019.11)」
「玉縄主催セミナー 「まだナゾだらけ戦国時代の鎌倉」」

「弘治2年の「北条 vs 里見の海戦」は本当にあったのか?」

「玉縄城の歴代城主の法要が営まれました」

「為さま(北条為昌)の菩提寺探しに、お助け本が!」

「玉縄城主・北条為昌の菩提寺で、ビビッきた氏綱ご正室の出自
「前編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の謎」
「後編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の、謎」
「玉縄城主・北条為昌の菩提寺で、ビビッときた氏綱ご正室の出自」
「香林寺の開基は、氏綱公ご正室?為昌殿ご正室?」

「小説 「後北條龍虎伝」と「早雲の軍配者」」
・綱成のお嬢さんの菩提寺のこと含む→ 「「吉祥寺」 古河公方室、太田道灌、遠山氏ゆかりの名刹」


☆ 以下は、まだまだ途中ですが、シリーズ「北条五代の娘たち」

▲初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女

・「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
・「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」

http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html
・「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html


▲二代 北条氏綱の息女

(浄心院)
・「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
・「江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-aaec.html
・「祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った後、資高はどうしていたのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html
・「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html
・「安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-dcd4.html

(吉良殿室)
・「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html

(今川六郎殿室)
「北条五代の娘たち ⑦ 錯綜する堀越(今川)六郎室」
「吉良頼康ゆかりの寺々(川崎・目黒・世田谷・蒔田)」

「「蒔田の吉良氏 戦国まぼろしの蒔田城と姫君」展」

(古河公方室)
・「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html

(葛山殿室)
・「北条五代の娘たち ⑥ 諏訪湖に消えた駿東の名族葛山氏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-7fbd.html


▲三代 北条氏康の息女

(今川殿室)
・「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html
・「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原「久翁寺」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
・「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html
・「今川氏真夫妻らの、当初の菩提寺 「萬昌院」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-88b5.html



画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2019年5月30日 (木)

三浦道寸の娘は宅間上杉に嫁いだのか?

マリコ・ポーロ

シリーズ北条五代の息女たち
【二代:北条氏綱の娘たち、太田資高室~浄心院は北条氏綱の娘か?三浦道寸の娘か?】


先のブログに書いた、フリーズしてしまったブログ記事が1ヶ月後の今、突然現れ動き出しましたのでアップします。理由は分かりません。また、今まで書いた記事が、妙に改行されてしまっていたりしてカッコ悪くなってしまっています。でも、600以上の記事数を全部チェックして修正は出来ず、残念です。

さて、今回の内容は…まあ、こんなもんです。期待させてゴメンナチャイ
(^^;


Img_20190408_134022
~宅間上杉屋敷跡…ではないか?と言われる横浜上永谷の丘に、凛然と立つ一本桜。眼下( ↓)に永谷天満宮が見える。~


今までのあらまし

当ブログで足かけ4年にわたり続けているシリーズ「北条五代の娘たち」。関東公方、今川、吉良、葛山など当時の有力武家に嫁いでいるにもかかわらず、特に初代宗瑞と二代氏綱のほとんどの娘達についてはよく分かっていません。そのため調べることや訪ねる所も多くなり、いまだ氏綱の娘たちのを足跡を辿っている途中です。

中でも謎中の謎なのが、太田家に嫁いだ二代氏綱の娘、浄心院日海 です。なぜなら、資史料を読んだり縁の地を巡っているうちに、同じ法名の、同じ没年月日の、同じ菩提寺の、もう一人の「浄心院日海」に出会ってしまったからです。


その女人は、三浦道寸殿の娘でした。

あらたにご興味を持ってくださった方は、浄心院を追って江戸や安房を歩き回った今までのブログ記事をご覧くださるととっても嬉しいです(文末リンク)。


🍷 二人の浄心院

(北条浄心院)
父:北条氏綱
夫:太田資高、太田道灌の孫で江戸城にいた

(三浦浄心院)
父:三浦道寸
夫:太田資康、太田道灌の息子で三浦へ援軍した

私は北条から入ったので、北条の娘=浄心院日海 だとずっと思ってきましたが、三浦氏や太田氏を研究されている方達は、三浦の娘=浄心院日海 と思っている方が多いようです。この違いは面白いですねえ。


図書館へ通い、三浦浄心院のことも色々調べました。しかし、残されている三浦浄心院の記録は、北条側から入った私からすると、実家と夫が違うこと以外は、まるで北条浄心院をコピペしたかの如くでした。どうにも分からんのでござりまする。

私なぞより、本物の浄心院さまの方が戸惑っているでしょうし、もうお一人の浄心院日海だとされた女人の方は、自分の人生が違えて後世に伝わっていることに淋しい思いをしてらっしゃるかもしれません。


🐎 新資料(マリコ・ポーロ的に)

浄心院が氏綱の娘であることについての資史料はこれ以上見つけられなさそうなので、道寸の娘の足跡を辿ってみる方が早いかもしれないと思いました。と、そんなところへ小田原の北条師匠から衝撃の矢文(←オーバー💦)が届いたのです!

「新横須賀市史補遺編(平成23年)」に、道寸の娘が「宅間上杉顕重に嫁いだと推定される…」とあるのをみつけてくださったのです。かたじけのうござりまする!真偽のほどは分からないが、系図が載っており、その解説に書かれているとのことでした。


詳しく知りたかったので他にも書かれたものがないか図書館ホームページで検索しまくったところ、市史の他には、「関東上杉氏一族 (2013)」という、またもや黒田氏のものと、湯山学氏「中世史論集~関東上杉氏の研究 (2009)」しか見つけられませんでした。

▲ 黒田氏「関東上杉氏一族」 p364~ 367 あたり
▲ 湯山氏「関東上杉氏の研究」P271~281 あたり& P298~303(六郷殿について) あたり

まずは市史を読んでみましたが、市史は、黒田氏がこの本 ↑ に書かれている説を採ったものでした。横須賀市もか…。


それらによると…

三浦道寸のお嬢さんが宅間上杉に嫁いだということは、「清音寺本」系図にあるようです。「清音寺本」とは、江戸時代に水戸藩によって編纂された系図集「浅羽本」に掲載された上杉系図の、常陸清音寺に伝来されたと思われるものだそうです。そしてその清音寺本は今は伝来されていないとのこと。

その頃の道寸殿は山内方ですので可能性はありますな(あくまでも可能性のひとつですが)。宅間については、尊氏さまの母上の実家で、後半は北条につき、為さま衆(北条為昌の本光院殿衆)に組み込まれたことぐらいしか知りません。この機会に色々と読んでみたかったのですが、書かれているものは少ないのです。


Img_20190408_201710
~永谷天満宮から宅間屋敷跡(とも言われている)の丘を眺めるの図。~


🐎 「清音寺本」のくだんの部分

ここで、湯山氏と黒田氏の本&市史に載っている「清音寺本」の、肝心なその部分を抜粋してみます。色と数字は、分かり易くするために(自分が)マリコ・ポーロがつけました。←かえって分かり難いぞー!という声も聞こえるが…。


「清音寺本云……其後 楊江院ノ代ニ。宅間ノ家ヲ江戸ノ道灌取立。楊江院ノ左衛門 息早世。其子寧蔵主ト云人還俗シテ六郎殿ト号。宅間ヲ継。六郎無子。而六郎弟ニ喝食アリ。是を束髪シテ号新五郎。三浦ノ婿ニナル家ヲ継ギ。六郎・新五郎。宗雲入国ノ時牢人シテ江戸ニテ死。新五郎ノ 中兄 極楽寺ノ宝塔院ト云律宗ニナル。後ニ岡田取成ニテ。宗雲ニ云ナシ。束髪宅間ノ家ヲ継。其子今宅間也。家名十郎殿。天文十八年比ハ廿七八歳ノ人也。其子太郎ト云々、」


この清音寺本によると、宅間は、太田道灌によって取り立てられ → 何代か続き → 新九郎さんの相模攻略時に江戸へ逃れ → 岡田さんの取り成しで北条の元において家を存続させたのですね。

そして、ありますねえ。⑤の新五郎さんが、三浦の婿になっていると。


🐎 「新五郎」って誰?

この時代の常で、「①楊江院」とか「②左衛門」とか「③名前の記載がない」とか「④寧蔵主・六郎」とか「⑤新五郎」とか「⑥極楽寺宝塔院」とか「⑦十郎」などで書かれており、ヤヤコシーですねえ。


新五郎の妻 について黒田氏は、道灌が取り立てた時代や宗瑞が入国した時代などから、新五郎さんの妻道寸殿の娘 と思われるとしています。また、湯山氏の方は、私が読んだ限りでは、「相模三浦の一族との交渉もうかがえる」としか書かれていないようで、新五郎さんには触れていませんでした。

 

湯山・黒田の両氏は、それらを他の上杉系図や年代などから割り出してくれています。

ところが…
違うんですよぉ。湯山氏と黒田氏の解釈が…。


上杉系図はあまたあれど、ワテが参考にしたのは「続群書類従」です(で、いいのかな?)。(中には、憲能のひいおじいさんの兄弟の方へ続いている系図もありました。)



Img_20190416_140207_1 


🐎 誰が誰?

以下に、お二人の違いを挙げてみました。ややこしいのでメンドクチャイ方は次の、🐎早い話が…まで、すっ飛ばしてくだされ。


湯山氏の系図は「続群書類従」掲載の系図類とほぼ同じで、* はマリコ・ポーロの補足

Photo_6  
~「続群書類従」~


Photo_5  
~黒田氏の本&横須賀市史~


① 揚江院
湯山氏の本(=記載なし/ ②左衛門の父を憲能とする)
黒田氏の本(=憲能/ ②左衛門の父)

② 左衛門
(=憲清/ ①憲能の子)
(=   〃/      〃         )

③ 早世した子息
(=定兼三郎)
(=    〃    )


④ 寧蔵主・六郎
(=六郎・朝重/ ②左衛門の弟)
(=六郎掃部助・定朝/ ②左衛門の孫)
も、定朝を②左衛門の孫としているが、定朝を六郎とはしていない。


*「能香
両氏とも「清音寺本」の系図には当てはめていないが、①憲能の子に 能香 という重要人物がいる。

(能香/ ②左衛門・④六郎・⑥宝塔院とは兄弟の、「六郷五郎(上杉五郎)」と呼ばれた人物としている。)
(能香/ ②左衛門 とは兄弟だが、④六郎・⑥宝塔院とは兄弟ではなく、甥の子供としている。)


また、能香の妻については、
(六浦の武田氏/ 橘樹郡の農家の記録より)
三浦道寸の養父であった三浦高救の女兄弟) 

なんだか、このへんアヤシー。。。


⑤ 新五郎
(記載なし)
(顕重/ ②左衛門の孫であり、定朝(黒④六郎)と ⑥宝塔院 の弟としている) 
*湯は、顕重を ⑦十郎  としている(⑦を参照)。


⑥ 極楽寺宝塔院
(宝塔院恵胤/ ②左衛門の弟)
(乗忠(国)/ ②左衛門の孫)
*湯は、乗忠(国)を ②左衛門 の曾々孫としている。

十郎
(顕重/ ②左衛門の曾孫)
(乗方/ ⑥ 宝塔院の孫)


以上ですが、ここでもう一度、「清音寺本」のくだんの部分を見てみましょ。


「清音寺本云……其後 楊江院ノ代ニ。宅間ノ家ヲ江戸ノ道灌取立。楊江院ノ左衛門 息早世。其子寧蔵主ト云人還俗シテ六郎殿ト号。宅間ヲ継。六郎無子。而六郎弟ニ喝食アリ。是を束髪シテ号新五郎。三浦ノ婿ニナル家ヲ継ギ。六郎・新五郎。宗雲入国ノ時牢人シテ江戸ニテ死。新五郎ノ 中兄 極楽寺ノ宝塔院ト云律宗ニナル。後ニ岡田取成ニテ。宗雲ニ云ナシ。束髪宅間ノ家ヲ継。其子今宅間也。家名十郎殿。天文十八年比ハ廿七八歳ノ人也。其子太郎ト云々、」


🐎 早い話が…

つまり、湯山氏(&続群書類従)と黒田氏(&横須賀市史)は、①憲能(揚江院か?)がいて、その子の②左衛門が憲清。その子が三郎(早世)までは同じ。そこからが違ってくるんです。

うにゃにゃ 😞
こんな書き方じゃ、何がなんだか分かりませんよね~。何が言いたいかと言うと…


▲ ⑤新五郎さんという人は、やはり、湯山氏・浅羽本はじめ上杉系図には出てこなくて、今は伝来していないという「清音寺本」にだけ出てくる。

▲ というか、そもそも ⑤新五郎さんの 兄弟だという ④六郎さんの比定が双方で違う。湯山氏の本では ②左衛門の「兄弟」になっており、黒田氏の本では ②左衛門の 「孫」になっている。

▲ 従って、④六郎 と兄弟だという ⑤新五郎は、黒田氏の本では 「顕重と思われる」とあるが、浅羽本はじめ他の上杉系図では、顕重は ②左衛門の 「曽孫」である。


う~ん。やっぱり何を言っているのか、話は早くなく、ワケが分からないですよねえ。すまんことですたい。


三浦の女人の兄(弟?)である道寸の息子義意の生年は、明応5年(1496年)とされていますから、女人もその頃の生まれとし、新五郎さんちが没落した宗瑞の相模侵攻を 永正の 1509~1516 あたりとして…(こんなことばっかりやってる💦)

あにゃ~、なんとなく、三浦の女人の年齢が合わなさ過ぎるような気がしないこともにゃいねえ。

ま、エエわ。


🐎 疑問

▲ この「清音寺」の宅間氏系図はどうやって出来上がったのでしょう。

▲ 道寸娘=宅間の妻 が本当なら、なんで江戸時代の三浦さんたら、道寸の娘を太田さんちに嫁いだことにしちまったのかいにゃ?系図というものはどこまで本当なのか…ゴニョゴニョ ですが、清本寺本だけ他の系図と違うのも妙ですかね。こりゃまた分からんのう。


🐎 別の説~真鍋淳哉氏

先日、戎光祥ヒストリカルセミナーの真鍋氏の講演の時に『三浦道寸』を購入。読んでみました。

道寸の女(娘)は今のところ一人とされていますが、真鍋氏『三浦道寸』には、娘は二人いて、それぞれ太田さんちと宅間さんちに嫁いでいるとしています。そして、宅間さんちのことは「黒田氏の説より」とあります。真鍋氏もか…。


🐎 別の説~戸塚市郷土史

今のところ、三浦道寸のお嬢さんが宅間上杉に嫁いだということは、江戸時代の水戸家が変遷したこの「浅羽本の清音寺本にある」という書き物だけです。また、これらのどこにも道寸の娘の法名のことには触れられていませんので、

道寸の娘 ≠ 浄心院日海

とすることは出来ません。しかし、清音寺本だけからすると、道寸の娘の夫である新五郎さんは江戸で亡くなっているようですから、妻もそれまで生きていれば江戸で亡くなっている可能性はありますね。


いっときは、北条浄心院=三浦浄心院、同一人物(三浦が滅ぼされた時、道寸の娘は氏綱の養女になり太田資高に嫁いだ)も考えましたが、やはりどうも年代に無理がありそう。分からんのう~~~。分からんが、こういうのを調べていくのは楽しいです。


しかし…
フリーズしてから一ヶ月。その時は夢中で書いたのですが、一ヶ月も経ってあらためて読んでみると、自分でも何書いてるんだか良く分からなくなってしもうた。

ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。


以下は、まだまだ途中のシリーズ「北条五代の娘たち」のうちの、浄心院日海について書いたものです。

「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/201/post-3f58.html
「江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-aaec.html
「太田道灌の子息「資康」と、孫「資高」の不思議?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html
「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html
「安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-dcd4.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2019年1月14日 (月)

北条五代の娘たち ⑦ 錯綜する堀越(今川)六郎室

マリコ・ポーロ


シリーズ 北条五代の娘たち
【二代北条氏綱の息女~堀越(今川)六郎室/山木大方】

 

Image7541_3
を使った山木大方の印判「軍勝」~


今年は亥の年。正確には、十二支が亥(いのしし)、干支は己亥(つちのとい)となるそうですね。

さて、イノシシと言われ北条ファンとしてまず思い浮かべるのは、中伊豆の イノシシ鍋…ではなく 中伊豆の女領主、山木大方の印判ですよね!


山木大方とは

法名:高源院殿

父上: 北条二代当主、我らが氏綱公
母上: 北条幻庵もあこがれた伊豆の佳人、養珠院様
兄上(弟との説あり): 天下の名将、北条氏康

夫君: 今川の堀越六郎
お嬢さん: 香沼姫
ご子息: 吉良氏朝
(吉良の家督を継ぐ→文末添付ブログ記事をご参照くだされ。)


山木大方には一時かなりハマリ何度も韮山に詣で、娘の香沼姫のことと共にブログにもたくさん書かせていただきました。その後に何か新しい情報を入手したら、それを元に当シリーズ「北条五代の娘たち」で書こうと思っていました。

しかし、昨年には『戦国北条家一族事典』なども出版されましたが、山木大方については特に最新説はないようです。まあねえ…。夫君が亡くなったあと、どこかの戦国大名家にでも再婚していたりしたら別ですが、それはなかったとすると、大方について研究する人も少ないのでしょう。


ゆえに、こたびはパッション濃ゆい今までのブログ記事のアーカイブでいこうと思いましたが、とは申すものの、それでは終われないのがマリコ・ポーロ。山木大方について加筆したいことが 3つ鱗 ござりまする。以下、よろしゅう。


▲ 崎姫(さきひめ)とは誰か?

 

Photo_2
~小田原駅近くにある山木大方の菩提寺「高長寺(旧高源院)」。電車の中からお寺の屋根が見える。本堂前でまったり寝ていた猫がムクッと置き上がって近づいてきた。「御大方 おんたいほう 様?」と呼びかけたら、「Yes, I am にゃ~」 。~


そう、この猫が﨑姫だったのです…

ってわきゃない。それが、タイトルの「錯綜」です。


今までのブログ記事の繰り返しになりますが、山木大方は、かつて、吉良頼康に再婚した女人だとされていました。その後史料研究が進み、今では山木大方と頼康室は姉妹であり別人だということが分かりました。

吉良を次に継いだのが六郎さんとの間の大方の息子だったことから、山木大方が連れ子で再婚したと誤解されていたのだろうとのことでした。


また、山木大方には呼び名が複数ありました。山木大方(御大方)、高源院、そして 崎姫 です。山木大方と高源院はいいのですが、問題は「崎姫」です。


私が存じている限りでは…

かつては、再婚説により山木大方=崎姫 とされていた(例えば黒田基樹著『戦国北条家五代 2012』、その他)

ところが、2014年横浜市歴史博物館「蒔田の吉良氏」で、山木大方≠崎姫で、吉良頼康室=崎姫 ではないだろうか?となっていて、ドびっくり~。

ところが、ところが、黒田基樹著『戦国北条家一族事典 2018.6』では、山木大方=崎姫、吉良頼康室=お名前も法名も不明とされており、どひゃ~もうわけが分からん!

もちろん、それぞれには根拠となる史料があるわけで、その元の史料が錯綜しているということになるのでしょう。


前にも書きましたが、吉良頼康室 と 崎姫は、当時から江戸時代を通して、ごちゃ混ぜ&混然一体&錯綜されながら、寺社やゆかりの土地で語り継がれてきたようです。

他の研究者の方達がどう書いてらっしゃるか調べようかとも思ったのですが、何を読んでも結局は黒田氏の引用で時間とお金の無駄。黒田氏のだけを読めばいいことに気が付きました。


なので、ここでは「﨑姫」という呼び方は使わず「山木大方」で通したいと思います。そうしないと、説が変わったことに気が付くたびに以前のブログ記事を書き直したり注釈を入れたりと、それはそれは大変なんですよぉ。まあね、一素人のブログですからどうだっていいっちゃあいいのですが、自分が気持ち悪いだけで。


▲ 山木大方の、人となりへの妄想が変わった

以前のブログではたびたび書いておりましたが、その頃は今よりもっと知識が浅かったので、山木大方のことを活動的なカッコイイ女人だと思っておりました。なぜなら、夫君の死後は「軍勝」なんて勇ましい印判を使い、伊豆に所領を持ち、小田原と伊豆を行ったり来たりしてらしたので、男勝りな方だとイメージしていたからです。


でも、それから様々な戦国時代の女性を知るようになると、大方へのイメージもだんだん変わってきました。今川の寿桂尼も北条の女性でも印判を使っている人は多いですし、女性で所領を持っているなんて アタリマエダのクラッカーですもんね。

もしかしたら、山木大方は勇ましく活動的というタイプではなかったのかもしれない。夫君の死後は実家へ戻り、子息を吉良へ出したあとは、亡き夫の菩提を弔って静かに暮らした…のかもしれない、なんて。


小田原と中伊豆山木を行き来したと思っていたのも、どうやら「行き来」ではなく、小田原にいたのはいっときで、ほとんど山木にいらしたようですし、その領地も母養珠院の所領を継承したものですしね。

また、夫君の供養のための菩提寺への寄進を、兄(弟?)の氏康殿へ「うち嘆いて」頼んでいますしねえ。


これではまったく逆ですな。妄想です。分かりまへん。


▲ 六郎さんの菩提寺「正覚院」

 

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~修禅寺の奥の院「正覚院」。創建は古く、弘法大師が修行したと伝わっている。写真の石段を登ると岩の洞があり、弘法大師像と「降魔壇」という修行石がある。~


上に書いた、大方が氏康に再興のための寄進を懇願したという六郎さんの菩提寺「正覚院」についての疑問です。修禅寺奥の院の「正覚院」は、修禅寺のことを調べていてたまたま見つけました。

その頃は、正覚院は六郎さんの菩提寺ということが頭にありましたし、中伊豆は山木大方が出戻ってから晩年まで暮らした土地です。なんの疑問もなく単純に、「お!ここが六郎さんの菩提寺正覚院か~」と思い、お参りにも行きました。


ところが、上記の『戦国北条家一族事典』には「正覚院は早雲寺にあった」と書いてあるのです。

皆さんご承知のように、早雲寺というお寺は、当主とその正室、直系の息子などの菩提寺です。他家の六郎さん程度(←失礼だ)の菩提寺を早雲寺に建てられるのでしょうか。六郎さんの菩提寺を早雲寺に建てたら、他にも我も我もと早雲寺に建てたがる人達が出てきてしまうのではないでしょうか。

それとも、大方が氏康に懇願してたから、六郎さんだけは例外として許されたのでしょうか?


また、大方が入寺をお願いした「めいざんまいる」の明山隣察は修禅寺の僧です。

私なりに早雲寺を調べても「正覚院」のことは見つからず、とはいえ、修禅寺正覚院にも六郎さんの記録は見つけられません。


未亡人山木大方が暮らした所領は修善寺(修善寺は土地名、修禅寺はお寺名)エリア。明山は修禅寺の僧、同じ名前の「正覚院」は修禅寺の奥の院。早雲寺ではなく、こちらではないのでしょうかねえ。2ヶ所お墓がある場合もありますが…。

だって、そうそう簡単に遠出は出来ない当時の女人。大切に想っていた夫君のお墓を、格式はあれど離れた箱根よりは、いつでもお参りできる近くにおきたくないですか?現代の女性陣の方々。しかも修禅寺ですよ。宗瑞の葬儀もした。申し分ありません。

違いますかねえ…。違っていたらゴメンナチャイ。


どなた様か、当時の文書に「早雲寺の正覚院」 または 「修善寺の正覚院と堀越六郎」のことが載っているのをご存知でしたら、教えてくださるとありがたいです。もちろん現代語訳付きで。テヘヘ

ほにゃ、今宵はこれまでにいたしとうございます。


北条五代の娘たちを書きはじめてから、調べることや訪ねる場所が多くブログの更新が間遠になっております。でも楽しく頑張って書いているので、今年もご贔屓の程よろしゅうおん願い上げたてまつりまする~。

チョーン!(←きのねの音)


以下、山木大方&娘の香沼姫のアーカイブと、シリーズ「北条五代の娘たち」の記事にてござ候。

アーカイブ~山木大方のこと(今回と同じ写真が多くて恐縮です)
「小田原北条の女領主、伊豆の山木大方」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html
「前北条と後北条の 「伊豆 修禅寺」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-475a.html
「後北条の姫も妬んだ常盤姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-64d0.html


アーカイブ~お嬢さん(つまり氏綱様の孫)の香沼姫のこと
「小田原北条の謎の女人 「香沼姫」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-4e66.html
「小田原城「御前曲輪」で妄想す~香沼姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-7998.html
「北条の香沼姫と「香沼姫どん」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-58ba.html
「レジェンド・オブ・香沼姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-bb1a.html


以下は、まだまだ途中の、シリーズ「北条五代の娘たち」です。
▲初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」

http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html

▲二代 北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-aaec.html
「祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った後、資高はどうしていたのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html
「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html
「安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-dcd4.html

「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html

「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html

「北条五代の娘たち ⑥ 諏訪湖に消えた駿東の名族葛山氏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-7fbd.html

▲三代 北条氏康の息女
「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html
「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原「久翁寺」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html
「今川氏真夫妻らの、当初の菩提寺 「萬昌院」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-88b5.html

 

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2018年7月31日 (火)

北条の謎の娘「高林院」と、文化年間の歴史研究者

マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち~番外編


第二の謎の女人「高林院」を調べるために、文化年間の地誌『許我志』を読みました。その地誌を編纂した方に グッと きたので、ご紹介したいと思いました。


Img20131108_171753
~古河。足利ヨッシーの鴻巣御所跡~


先日、北条師匠から矢文をいただきました。その中で気になったことがありました。

▲ 黒田基樹 『戦国北条家一族事典 2018.6』 に、芳春院殿(氏綱娘・古河公方足利晴氏室)=高林院 とある。
▲ その引用先は、『北条氏康の子供たち 2015.12』での長塚孝氏「浄光院殿-足利義氏の室」である。


しょえ~
高林院は、千葉親胤に嫁いだ氏康の娘だとばかり思っていたので驚きました。

なぜなら、
「高林院は氏康の娘で、早くから出家しているため、早世した千葉親胤の室と思われる『関八州古戦録』
と書いてあるのを読んでいたからです。


『…子供たち』も読んではいたのですが、今は氏綱の娘を調べているので、氏康の娘についてはザッとしか読んでおりませんでした

ブログ記事「北条五代の娘たち」で、芳春院はすでに書き終えてしまいましたが、娘たちの足跡を辿っているマリコ・ポーロとしては、これは放っておかれません。ちゃんと読み直しました。


Img20180727_082540

ありゃ~。ほんまやねん…。


芳春院=高林院は、文化5年の古河の地誌 『許我志(こがし)』にあるそうですな。

文化5年!超・昔っ!


そして、そこには氏康の法名・死去年、氏康の菩提寺、<芳春院・はるる夫妻>と次世代の<浄光院・ヨッシー夫妻>との混同、などのいくつか誤りと思われる箇所があるとも書かれています。


内容に疑問点がある『許我志(こがし)』なのに、芳春院=高林院 のところは信じていいのだろうか?また、それを『戦国北条家一族事典』で、「高林院は氏康の妹芳春院殿のことであることが明らかになり」 としてよいのだろうか?とも思ってしまうところですが……ごにょ。

これは自分でも調べてみよう(と言ったって、ワテなんかに分かるわけもないですが)と、図書館へ Go! 『許我志(こがし)』を見てみました。


先に書いた、浄心院が氏綱の娘だろうが三浦道寸の娘だろうが歴史の流れの中ではどっちだってなんの影響もないのと同じく、芳春院が高林院と同一人物だろうが別人だろうが、どーでもエエことではあります。

高林院という女人が大きなことを成していて、それは古河公方の正室の芳春院だった!…な~んてことなら別ですけど、それは、にゃい。


でもね。


『許我志』を編纂した 念斎 という方

Img20180731_103523
~『許我志』。一部分コピーしてきた。~


私が申すまでもなく、「許我」は「こが」のこと。つまり『許我志』とは、古河誌のことです。『許我志』は、古河市史の 『古河市史資料別巻』に載っていました。そこには『許我志』についても書かれていました。


編纂者は、善(原)公通三右衛門。号は念斎という幕府の御徒歩組の方で、儒学者としても著名な人だったようです。

念斎さんは古河藩士でもなく、御徒歩組ゆえ江戸住まいで古河の人でもなかったのですが、お祖父さんまでが古河藩士だったそうです。その縁で、江戸の古河藩邸によく出入りしていたそうです。学者ですし、元々歴史が好きで、藩主や藩士たちから古今の古河の話を非常に熱心に聞き取り、研究を重ね、『許我志』を完成させたとのことでした。


『許我志』はいくつか写されたようで、その写しの跋(あとがき)に、念斎はこう記しました。古河市史に載っている口語訳をそのまま写します。


この本は前に自分のつくったものを写したもので、ここで今見ると、はずかしい気もするが、また喜ばしくもある。

古河は土地としても古来有名であり、人物も名士が多く出ている。自分の記したのは一部分にすぎないが、それを人々に見せないでおけば、そのままで終わってしまう。このように同好の人が写して広く読まれるようになれば、他日誰かが補って立派なものにしてくれるであろう、それを期待する。


当時ブログがあったらねえ…って、ちゃうちゃう 格が違う。


父祖の地である古河がとっても好きだったんですねえ。真摯な方だなあと思いました。センセーショナルなことを書いて自分をアピールしようとか、単なる自己満足とかではないんですねえ。

歴史を伝え残さなければという念斎さんの想いに グッと きてしまいました。念斎さんの『許我志』のアラを確認しに図書館へ行ったような自分が恥ずかしくなりました。


他日誰かが補ってくれることを期待する…。

念斎さんのような前時代の歴史研究者の想いを以後のたくさんの歴史研究者の方達が引き継ぎ、また、今の研究者の方達の想いが未来の歴史研究者の方達に引き継がれていくのですね。

念斎さんの時代は、一から調べなければならないです。なんの規制もなく行きたい所に行けて、調べたいこともネットや図書館で簡単に調べられ、素人の身で あーだこーだとアラを突いていられる今の時代が、念斎さんはさぞや羨ましいことだろうと思いました。


で、肝心の、芳春院=高林院は?

分かりもはん!(←二人の浄心院日海と同じやん)


ま、同一人物でも別人でもいいじゃあないですか、と思いながらも、もし別人だったら、高林院の人生が消えてしまったことになる。それは可哀想。

しかし、古河公方のことをよく書いてらっしゃる佐藤博信先生の本にも、高林院という文字は出てきません。どうやって調べたらいいのかのう…。


「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html

「古河公方の古河を歩く~前編」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-de53.html
「古河公方の古河を歩く~後編」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-8375.html

「後北条一族の陰謀、公方の御座所「葛西城」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-fdbc.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2018年6月 6日 (水)

安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?

by マリコ・ポーロ


シリーズ 北条五代の息女たち
【二代・北条氏綱の娘たち、太田資高室


4_2
~安房「正文寺」は、勝浦城主だった正木頼忠が父時忠の隠居所跡をその菩提寺として中興した。~


その1ヶ月前の3月初旬。葛山へ嫁いだ北条氏綱の娘を追って「御神渡り」を拝んだ諏訪湖の湖面は凍っていた。

うって変わって、抜けるような蒼空の下の真っ青な海を車窓に、太田へ嫁いだ同じく氏綱の娘を安房に追う。


まずは、前回のブログ記事の安房編①を思い起こしてくださると助かりまする→http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html


生まれた家とハズバンドは違えど、同じ法名、同じ人生、同じ没年月日として記録されている北条浄心院(氏綱娘)と三浦浄心院(道寸娘)。それは、どちらかの人生が無かったことになっているということでチョット可哀想。と、余計なお節介心にかられて足掛け3年。

どちらが「浄心院日海」なのか。江戸(東京)では手掛かりがつかめないため、どうにも我慢が出来ず、鎌倉から里見へ走った(さらわれた?)青岳尼 の如く海を渡り…ウソウソ、外房線と内房線を乗り継ぎ、「浄心院日海」の御位牌を拝ませていただくべく安房南三原の「正文寺」をお訪ねしました。


広間に入るなり、正面にドドーン と大きな御位牌が!正文寺さんへは事前にお電話でお願いをさせていただいておりましたが、出しておいてくださったのですね。嬉しい~~です。

以前、早雲こと宗瑞の娘を追って伊豆修善寺の「金龍院」さんをお訪ねした時も、幻庵の御位牌を手前の机に出しておいてくださいました。お寺さんて、ありがたいです。


それが、こちらにござります。

 

Photo
~大きさが分かり易いように、お供えにとお持ちした近江の名酒「道灌」の四合瓶箱を横に置いてみた。北条・三浦、どちらの娘にしても、太田家に嫁いでいる(父と息子)ので、「道灌」を(もし北条浄心院なら、イヤかもしれないけど。)~


おぉぉ!
と、まずは手を合わせ、それからジックリと拝見。


3
~見えますか?写真は御住職のご許可をいただき掲載~


先にお電話で伺うまでは存知ませんでしたが、浄心院日海ひとりの御位牌ではなく、正木氏の御位牌をのちに一緒にしたものです。浄心院の法名は、累代の当主と一緒にあるのですよ。江戸時代になって暫くしてから、紀州のお殿様 - たぶん頼宣(生母のお万は開基頼忠の娘で徳川家康の側室)- が、まとめられたそうです。


ピンクのが「浄心院日海」です。わお~!!

会えましたね~、浄心院さまぁ。お会いしたかったですぅ


恥ずかしながら正木氏のことはほとんど知らず、こたびは俄か仕込み。どれがどなた様やら分からず、御住職さんに一人一人教えていただきました。

もう一度、手を合わせます。


前回のブログでも触れた江戸白山の浄心院菩提寺の 浄心寺(今は廃寺)さんと同じく、御住職は二人の浄心院日海についてとてもご研究をされてらっしゃいました。

お話しを始める時、お互い見せ合った自作の系図が、向きも、北条家・三浦家・太田家の配置もまったくそっくりで、あらら~ って。御住職とひとしきり、二人の浄心院についてお話しをしました。二人の浄心院について、トックリとお話し出来た方は初めてでしたので、とても楽しかったです。


そのあと、本堂で御本尊様をお参り。そして、勝浦城主の正木氏5人の立派なお位牌もお参りさせていただけました。

お寺の裏山には「お塚」と呼ばれる正木家累代のお墓や、三浦道寸のお墓(供養塔?)があるそうですが、なんせ虫がまったく、本当に、思いっきりダメなワテ。真冬とか、先陣を担ってくれる誰かが一緒だったら行けたのににゃ~。残念。

それと、もっと正木氏のことを勉強していったら、正木一族の様々な謎についても御住職とお話しできたかもしれない。重ね重ね、残念。


で、結局、浄心院日海はどっちだったのって?

………


分かりもはん。

北条・三浦、どちらかどころか、浄心院日海の御位牌が安房にある本当の理由さえ、オイには分かりもはん。


いえね 旦那、奥さん、おじょーさん、お坊ちゃま。もうひとつ何か決定打がないかどうか、この一ヶ月考えて探していましたが、ありまへん。タイムアップで、ブログを更新しました。

すべては、安房の青い海のみぞ知る

ってことで。


正文寺の御住職様、ありがとうございました。


誕生寺

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~誕生寺の太田堂。ピンクの矢印は太田康資のお墓(供養塔?)~


帰路、海の幸で遅いお昼をいただきがてら、正文寺の本山(本山でいいのかしら?)である小湊「誕生寺」をお参りしました。誕生寺は、北条浄心院の息子、太田康資の菩提寺です。康資は北条から離反し里見につき、永禄7年に国府台で戦死しました。


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~太田堂から望む安房の海~


江戸に菩提寺がある「浄心院日海」の御位牌がなぜ安房にあるのか…。

● その御位牌は三浦浄心院のもので、三浦が没落した時に、三浦浄心院を含む一部の一族が旧領のあった安房へ逃れてきたという話があります。三浦浄心院は、正木の養女となり(前回の記事の写真)、安房で亡くなり弔われたのでしょうか。

しかし、その話は今では時系列が合わないため違うとされているようです。また、もし安房で亡くなったとしたら、菩提寺が江戸にあるのも不思議です。


はたまた、その御位牌は北条浄心院のもので、里見へついた息子の康資が母の御位牌を江戸から持ってきたのでしょうか?

しかし、それなら何故、正木氏の位牌に一緒になっているのでしょうか。


皆様もそうだと思いますが、旅の終わりに、こうやって当時その人が見たのと同じ景色を眺め、その人が歩んだ人生を 勝手に 想像しながら想いに浸るのは、それはいいものですよね~。

自分へのお土産に、誕生寺の門前の酒屋さんで 鴨川の 地酒を買いました。家に帰って飲みながら、タイムトリップの余韻に浸れますね!


こたびはこれまでに。


「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html

「江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」

「太田道灌の子息「資康」と、孫「資高」の不思議?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html

「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html


・初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html

 

・二代 北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html
「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html

「北条五代の娘たち ⑥ 諏訪湖に消えた駿東の名族葛山氏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-7fbd.html

 

・三代 北条氏康の息女
「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2018年5月 6日 (日)

安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?

by マリコ・ポーロ

 

シリーズ 北条五代の息女たち
【二代・北条氏綱の娘たち、太田資高室】                    


Photo

~安房「威武山 正文寺(しょうぶんじ)」~


なんとまあ!
そなたも、よくぞここまで わらわを追ってきたものじゃ…

 

と、浄心院日海様はおっしゃった。


日蓮上人の生家だったという「大本山誕生寺」の末寺「正文寺」は、誕生寺のある安房小湊から外房線で30分。安房鴨川からは内房線で20分位の南三原駅を降ります。


安房小湊といえば鯛の浦。少し前までの坂東の民なら誰でも歌えた♪ゆったり たっぷり の~んびり 旅ゆけば~♪ のホテル。安房鴨川といえば、シャチやセイウチのショーの鴨川シーワールド。千葉はもちろん東京や茨城(埼玉あたりもかな?)の人間なら、子供の頃に、いや、大人になってからもドライブがてら何度かは遊びに行ったことがあるはず。

 

そういえば、鴨川から少し行ったところに、フラミンゴのショーや、孔雀が次々と崖の上から突き落される…ちゃうちゃう、飛翔する行川アイランドというアミューズメント施設がありました。今は閉園しているそうですね。


威武山正文寺は、そんな外房らしい真っ青な海から車で8分程内陸に入った、真っ青な空の下に立派な仁王門を構えた大きなお寺でした。勝浦城主だった正木頼忠が父時忠の隠居所跡をその菩提寺として中興したお寺だそうです。時忠の法名が「正文」。威武院殿正文日出居士なのだそうです。


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~本堂、浄行菩薩堂、祖師堂などの堂宇のほかに、中世の石塔群や五輪塔などがあるやぐら、本堂には勝浦正木氏歴代の御位牌、裏山の「お塚」には旗本正木氏累代の墓や三浦道寸の墓(供養塔)などがある。~


「浄心院日海」という女人は、北条氏綱の娘か三浦道寸の娘か。もう2年以上、あーだこーだと考えておりますが、いっこうに光の筋が見えません。

そりゃあ浄心院が北条の娘だろうが三浦の娘だろうが、大きな歴史の流れにはまったく影響ないことですが、どうしても突き止めたい。浄心院様からも、「わらわを探してたもれ」と言われている…ような気がする。勝手に。


こうなったら、浄心院日海の御位牌があると聞く勝浦正木の菩提寺「正文寺」へ参るしかない!と、ヒノキ花粉の飛散マックスとなった4月の初め、安房へ向かいました。


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~何度も出している関係者のみのザックリ系図をもう一度(資高が正室の子というのはマリコ・ポーロの妄想。たいがいは、三浦浄心院と資康との間の子とされている。)~


▲ 登場人物は、ふたりの浄心院日海&それぞれのハズバンド&息子

三浦浄心院
父:三浦道寸
夫:太田資康(太田道灌の息子←諸説あり)伊勢宗瑞の三浦攻めの時に妻の実家である三浦へ加勢し、そこで果てたとされている


北条浄心院
父:北条二代当主・氏綱
夫:太田資高(↑の太田資康の息子)江戸にて没


・ヒントになりそうなその息子
母:北条浄心院
父:↑ の太田資高
安房へ行き里見に付き、安房にて没(菩提寺は誕生寺)


▲ 今までの妄想を時系列で整理する

文末に添付している過去のブログ記事に、グダグダと書いてはおりますが要約すると…


①「北条五代の娘たち」の足跡を順番に辿っていて、太田資高に嫁いだ氏綱の娘「浄心院日海」の番になる


②夫の資高の記録が少なく不思議に思う


③『太田家記』やらその他諸々手あたり次第乱読していたら(もちろん口語訳)、三浦道寸の娘も同じ法名「浄心院日海」だということを知り、ドびっくり~する。


④ それにしても父親の嫁息子の嫁が同じ法名ということがあるだろうか?と疑問を持つ。


⑤ 『三浦系図伝』『正木氏先祖書』などなどなど引き続き乱読していると、北条浄心院についても三浦浄心院についても同じようなことが書かれてあり(ご興味ある方は先のブログ記事引用しているのでご参照あれ)、いったいぜんたいどういうこっちゃ?と混乱。

チビット違うのは、『太田家記』には、北条浄心院が夫と別の菩提寺になった いきさつ などが詳しく書かれていること。


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~『旗本正木氏先祖書』。ピンクのマーカーのところに三浦浄心院が。~


⑥ そして、衝撃の事実(←ちとオーバーかも)を見つけて、たまげる。


なんと、三浦浄心院と北条浄心院の没年月日と没した場所(江戸)と菩提寺(江戸)が同じだったのだ!


が同じ法名で、同じ日に、同じ場所で亡くなるなんてことがあるだろうか?いや、ない!ということは、どちらかの人生が無いことになっている。波乱の戦国の日々を一生懸命生きたであろうに、それはあまりに可哀想だ。


⑧ 東京の白山にかつてあった浄心院の菩提寺「浄心寺」の事務所に問い合わせさせていただく。かつての御住職は浄心院日海が二人いたことなど一連の話をご存知でしたが、過去帳などに記載が残る浄心院日海の像はすでになく、御位牌は後世に作られたものであり、はっきりしたことは不明だとのこと。


三浦浄心院の夫である太田資康と道灌との間柄や、道灌誅殺後の太田家の家督争い(?)& 江戸太田と岩付太田の関係、内房正木氏成立の謎や、家康の側室であったお万一派&英勝院お勝一派による系図創作疑惑などなどへと興味が広がり、カオス妄想は収拾がつかなくなる。


⑩ 初期の目的に戻り、マリコ・ポーロ安房へ渡る


果たして安房「正文寺」にある「浄心院日海」のお位牌は三浦浄心院のものなのか?北条浄心院のものなのか?


マリコ・ポーロがそこで見たものは!?なんちゃって。

次回へつづく…


「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「江戸編 ~ 浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」

「道灌の子息「資康」と、孫「資高」の謎?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2018年4月 2日 (月)

太田道灌の子息「資康」と、孫?「資高」の不思議

2019.7 加筆:太田資高は、資康の息子ではないという話もあります。諸説あることをお含みおきの上読んでいただけると助かります。康資は資高の息子です。

 

Img20180401_000220
~榎本家長屋門(練馬南田中)。太田道灌が石神井城を攻めた時に従った「田中十家」のうちのひとつと伝わる。江戸時代は名主さんで、大正時代まで茅葺屋根だったそう。道灌びいきの会で見学。~


このところ、ず~~~っと考えています。以下、考えていることメモメモ。

今まで、

① 太田道灌が主君(扇谷)の指令で殺される

② 息子の資康は山内に付く
(三浦の娘を娶る=三浦浄心院

③ そのまた息子の資高は北条に内通し、江戸城は北条のものとなる
(北条の娘を娶る=北条浄心院

④ そのまた息子の康資は北条から離叛し、安房へ…

と、アッサリ・ザックリだけの認識で満足していました。


そして、
⑤ 太田家は江戸太田と岩付太田に分かれた…

と、何も引っ掛かることもなく受け入れていました。


一昨年より北条五代の娘たちを追い始め、氏綱の娘で資高の室三浦道寸の娘で資康の室 が同じ法名「浄心院殿日海」で、同じ没年月日、没地も同じだということを発見しました。

いったいどちらが浄心院なのかを調べ始めたところ、それぞれの伴侶である資康(父)と資高(子息)について疑問が噴出。私のザックリ納得の知識は随分とハショられていて、その隙間隙間を隙間家具のように埋めたくになりました。隙間家具は隙間を有効に活用しますからね。←??


Img20180402_210500
~扇谷定正が家臣の曾我に宛てた書状(国立公文書館「道灌展」にて)。道灌を誅殺した理由が書かれていた。「道灌が山内に対して不義を企て、それに対して度々諫めたが、道灌が謀反を起こそうとしたため誅殺したとある…」と。~


さて、隙間のこと。

例えば…
浄心院はどっちだ?がメインテーマ Now ゆえ、上の②と③の間の隙間について。

つまり、父親の資康が三浦に援軍し亡くなった(たぶん)のち~北条に付くまでの資高少年は、どこでどうしていたのだろう?

父と一緒に三浦に参陣したのだろうか?江戸とか岩渕とか河越とかに潜んでいたのだろうか?


そもそも、
いったい資高少年の母親は誰なのだろう?三浦の娘、三浦浄心院なのか?

「三浦浄心院はパパ資康の側室であり、正室は元服の頃に娶せられた扇谷関係の娘で、資高少年は三浦とは関係がないから母方の元で暮らしていたのではないだろうか?」と、前にSNS(知人だけとやっている)に書きましたが、これも腑に落ちず。


ここで、パパ資康と資高少年に起きた出来事と年齢を追ってみました。

1476年 ジジ道灌にやっと子息(パパ資康)誕生(ジジ道灌44才
 ↓
1485年 パパ資康元服(10才
 ↓
1486年 ジジ道灌が扇谷定正の指令で殺される(パパ資康11才)
 ↓
1488年 パパ資康、山内顕定に参陣(パパ資康13才)
 ↓
? ? 年 パパ資康、三浦道寸の娘を娶る←三浦浄心院
 ↓
1498年 資高少年生まれる
 ↓
1505年頃 この数年前にジジ道灌の仇である扇谷定正が亡くなり、パパ資康は江戸に戻る
 ↓
1513年 パパ資康、三浦へ参陣(資高少年15才)
 ↓
パパ資康、帰らぬ人となる…たぶん

あってる?
(年齢は通説に基づいて計算しました。本当かどうかは調べていません。)


そもそも、

資康は、父道灌が殺されたあとのそんな状況で、江戸で家督相続なんてことが出来たのだろうか?それとも家督は相続していなかったのだろうか?


そもそも、

道灌の正室はどこのお嬢さんだったのだろう?

扇谷一門の娘だとか長尾家の娘だったとか様々言われていますが、資康が嫡男だったとして、44才の時の子ですよ(←しつこい。昔の話ですよ、昔の)。とすると、資康が正室の子のわけはないと思うので(いや、絶対とは言えないが)、実子だとしても若い別腹系の女人ではないでしょうかねえ。大きなお世話ですが。。。


あっ
もしかして形ばかりの正室はいても、女性にあまり興味がないとか…。だとしたら、我が北条氏照どののようですな(娘ひとりいるが真偽は不明)。

素敵~(腐)


な~んてことはナイナイ

だって、目黒の誕生八幡神社は、ジジ道灌が妻の懐妊にあたり文明の頃(1469~1486年)に筑前の宇美八幡を勧進した神社だと伝わっているそうです。御縁起が史実なら、この時にパパ資康が誕生したのだと思われます。


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~慈雲山観蔵院(練馬南田中)。道灌が石神井城を攻め落とし三宝寺を現在地に移転した時にこちらへ移り、末寺とされたと伝わる。奉納箱に、桔梗紋。~


話を戻し、再び隙間のこと。

例えば…ふたつの太田家

資康の家督相続があったのかどうかも含め、⑤の太田が江戸と岩付とに分かれることになる経緯には、何があったのだろう?というか、「二つに分かれる」という認識は当時あったのだろうか?主流の太田家はひとつであり、今で言うところの江戸太田は、あとから…例えば家康の愛妾英勝院一派が創った系統とかいうことはないだろうか?


北条がどちらとも縁組をしているということは、どちらも北条にとっては重要な相手だったということだったのだことには違いないとは思うのだけど…。

これは、私にはとても調べられそうもなかでごわすが、徹底的に調べている方達がいらっしゃいもす。ご承認の上、文末に添付しもした。


今、二人の浄心院殿日海のまとめをブログに書くべく、図書館でアチコチの市史や町史や系図や家記を調べたり、関連寺社へ問い合わせをさせていただいたりしています。

そうしたところ、勝浦正木氏 まで出てきて、勝浦正木は、私の北条氏照どのが取り次ぎをしていたこともあり脳内がますます混乱するばかりなり。


しかし、歴史ファンならご存知のように、系図というものは後の江戸時代に創作されたものが多いゆえ、それだけで判断することは出来ないですよね。系図や新出の史料の裏付けを取るには何年もかかります。もちろん私は取れないですが、プロの研究者の先生方が取ってくださるはずです。

なにとぞなにとぞ、よろしくお願いしもす。


素人のわらわが出来ることといったら…やっぱり、カノ地 へ行くことかな~。行きたいにゃ~。


はみ唐さんの「岩付城と岩付太田氏に関する定説を再考するの記事」https://ameblo.jp/hamikara/themeentrylist-10105261121-1.html

以前、岩付を築城したのは誰かということを地形から考察されているということでご紹介した方のブログです。謎の太田永厳についてもたくさん掲げられています。特に、私の現在の隙間を埋めてくれる家具…ならぬ記事、「太田資高は進駐軍だったのではないか」という仮説は、目からミツウロコ▲▲▲。


会計ねこ子さんのブログです。
https://ameblo.jp/zennchou/entry-12363860043.html

同じく、永厳の謎など岩付太田について精力的に調べて、ほぼ毎日書いてらっしゃいます。私は、「巨人東京とおしゃれ神奈川の人間」←by ねこ子さん(笑) なので、どうしても江戸太田だけを考えてしまいます。ねこ子さんのブログにより、岩付太田への注目が深まりました。


以下は、ワテの妄想ブログです。
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html

「江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」

「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html
「安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-dcd4.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。にほんブログ村 歴史ブログへ

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2018年3月30日 (金)

江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?

マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の息女たち
二代・北条氏綱の娘たち、太田資高室~江戸編】


2019.7 加筆:太田資高は、資康の息子ではないという話もあります。諸説あることをお含みおきの上読んでいただけると助かります。康資は資高の息子です。


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~文京区白山には、浄心院様の菩提寺だった「浄心寺」の名が坂の名として残っている。~


先のブログ記事「北条五代の娘たち~浄心院はどっちなのか?」→http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html で混沌としていた、浄心院殿日海は「北条の娘か三浦の娘か」について、その後もう少し調査(妄想)をしてみましたところ…


衝撃の事実を発見!!

なんと、2人の浄心院殿日海の 没年月日が同じ (天文19年9月14日)だったのです。


北条浄心院 の没年月日は、『太田家記』より
三浦浄心院の没年月日は、『三浦系図伝』より

ドびっくり~

天文19年…か。北条氏康が山内上杉の平井城を攻め、翌20年に落とした頃ですな。

それにしても、自分の正室と父親の側室が同じ日に亡くなって、法名も同じなんてことがあるかね?氏政の母と正室は同じ日に亡くなっていますが、それは小田原籠城中のこと。こちらはそれとは違いますしねえ。


二人の浄心院とその夫君たちの後半生

核心に触れる前に、まずは時系列を整理してみました。辿るのがメンドクチャイ方はずーっと下方の、「太田家記」の項へどうぞ。


(登場人物)
北条浄心院=北条氏綱娘、太田資高の室
三浦浄心院=三浦道寸娘、資高のパパ(諸説あり)資康の側室(たぶん側室)


▲永正10年/1513年
三浦道寸の娘である三浦浄心院の夫・太田資康、三崎にて討死。
(資康の死亡については時期・状況共に様々説があるが、いずれにしても永正10年よりは以前。)


~妄想①~
三浦浄心院が嫁いだ頃、夫の資康は江戸にいたはず。資康が三崎の道寸の元へ向かった時、一緒に行ったのか?→道寸の娘だから行ったと思われる。

また、
資康の子である資高(諸説あり)は、その時15才位。江戸へ置いていかれたのか?どこでどうしていたのだろう?


氏綱に内応したのは、「祖父道灌殺害の件で扇谷に恨みを持っていたから…」とも言われているけれど、だったら何故に父親と一緒に三浦へ行けなかったのか?実は、やはり本当の父子ではなかったからなのか?

山内・扇谷がらみの何かしらの事情なのか?三浦についたということは、山内についたということですもんね。


あ!
まだ言わない……テンテンテン

▲永正13年/1516年
三浦道寸、自害。次男・時綱は安房に逃れる(館山市資料より)。三浦浄心院も共に安房へ渡る(三浦系図伝より)。


~妄想②~

ちょっと待てよ。

三浦浄心院の兄弟である義意が三崎で討死したのは20才頃。例えば三浦浄心院が義意の姉だとして、25-6歳。となると資高とは10歳位しか違わない。いくら昔とはいえ、資高は三浦浄心院が産んだ子ではないですな。

妹だとしたら、10代か。もっとあり得まへん。

ということで、先のブログ記事に載せた系図をもう一度。

 

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~太田については諸説あるため微妙です~




▲大永4年/1524年
資高が北条氏綱と組み江戸城は北条の物となる。資高は江戸城香月亭へ入る。

▲年不明
氏綱の娘である北条浄心院、資高へ嫁ぐ

▲享禄4年/1531年
北条浄心院、康資を産む

▲天文16年/1547年
資高、江戸にて死去

▲同19年/1550年9月14日
三浦浄心院北条浄心院、両名共、江戸にて死去(太田家記/三浦系図伝)


次に、『三浦系図伝』と『太田家記』を見てみましょう。

どちらも、概要ではなく、どう書かれているか見てみたくて仕方がなかったのですが、なかなか図書館へ行けないでいたところ、歴友師匠殿が関連箇所を抜粋して教えてくださいました。かたじけない。ありがとうございます!


三浦系図伝

 

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~三浦氏の「新井城」。三崎の要害についても諸説あり。~


道寸の娘について、以下のようにあるそうです(歴友さんのをコピペさせていただく)。

「(義同)女子
嫁太田道灌一男資康、生新六郎「康資」後号武庵、天文十九年九月十四日死于江戸、法名浄心院日海、子康資建寺置像、号浄心寺今猶在小石川」


ふむ。
江戸にて死去か。小石川の「浄心寺」が菩提寺とありますな。浄心寺は、太田道灌開基「法恩寺」の末寺です。

浄心寺はかつて平河口にあり→本郷に移り→最後は白山でした。現代の感覚でいうと、小石川は、そのどこからも少し離れていますね。大きな区分の中ではまあ同じエリアとも言えますが。


また、何故に太田道灌ゆかりのお寺で弔われたのでしょうか?

太田さんちに嫁いだから?でも、三崎に行って、安房に渡った(らしい)三浦の娘を、江戸の真ん中で誰が祀るのだろうか?


そんなことより!
そうです。資高の母でないどころか、この系譜からは資高さんが抜けているではありませんか。資康の子が、孫である康資ということになっていますね。ですよね?読み方合ってます?

ちと、アヤシイ~の~。


太田家記

 

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~現在は日暮里にある資高開基の「本行寺」。当時は江戸城平河口にあった。浄心寺と同じく、法恩寺の末寺である。~


以下、同じく歴友さんからいただいたもののコピペ。

一、資高公奥様ハ北条氏綱の息女ニテ、天文十九年九月十四日江戸城にて御死去、万好斎公と同して法恩寺へ御葬送可有之処、平川口に別之寺を立、彼寺へ御葬送有之、是ハ常々御夫婦不和之由申伝候、夫故新六郎康資公へ御存生之内より被仰置候付、別の寺へ御葬被成候也、彼寺浄心寺と申候、此寺今ハ本郷丸山ニ有之候、


浄心寺書物ニ有之、
「浄心院日海比丘尼 天文十九年庚戌九月十四日施主 太田新六郎康資
本願徳成坊日成敬白」
如此之書付有之、日海様木像之御影有之候


ふむ。

こちらには、浄心院日海は北条氏綱の娘で、資高の奥様であり、(三浦の娘と同じ)江戸で亡くなり、(三浦の娘と同じ)子の康資が浄心寺という菩提寺を建立して葬送とありますな。お寺の場所は、平川口→本郷丸山。まあ辻褄は合うか。


資高さんの道名と菩提寺もこれで分かりました。

道名は万好斎。菩提寺は「法恩寺」。繰り返しますが、法恩寺は太田道灌の開基です、浄心寺は法恩寺の末寺です。


そして、面白い…と申しては悪いですが、先立った夫の資高と同じ平河「法恩寺」に葬られるところ、息子の康資が、母浄心院の遺言により別の寺を建てたとな。それが、「浄心寺」だと。

なぜ別の寺へという遺言なのかというと、「常々御夫婦不和…」 だとさ


混同

以上のことから妄想するに、やはり浄心院日海は北条の娘で資高の正室である線が強いのではないかと、私は思いたい。だって、そもそも三浦さんちの系図に資高さんがいないんだもの。


となると問題は、安房の正文寺にあると聞く浄心院の位牌ですよね。

三浦系図伝によると、浄心院は江戸で亡くなっています。三崎の戦いの際に安房へ逃れたはずの三浦浄心院は、何故に江戸で亡くなったのだろうか?江戸で亡くなったのに、何故位牌が安房と江戸の両方にあるのだろうか?


~妄想①~
安房の位牌は三浦浄心院 のものではなく、北条浄心院 のものではないでしょうか。

北条浄心院の息子の康資が安房でも位牌を持ったのではないでしょうか。パパとママは不仲だったから、マザコンの康資(←ウソ)が、ママのだけ作ったとか。

それが三浦系図と混同され、いつの間にか三浦浄心院のものだとなってしまっている…とか?


~妄想②~
それとも、安房の位牌はやはり三浦浄心院のもので、お名前が不明だったので、いつの間にか浄心院殿日海と混同されてしまっているとか。


なーんて。

皆さんはどう思われますか?


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~嘉永時代の地図。緑のの中に「浄心寺」がある。ピンクの☆のあたりに現代の白山駅がある。~


先日、どこでもいいから、なんでもいいから、浄心院が生きた証の場所に立ってみたくて、トップの写真の「浄心寺坂」を歩いてみたのです。

(坂の名の由来となった浄心院様の「浄心寺」は日蓮宗。現在はお寺はありません。近くに同名の浄土宗のお寺があるのでお間違えのなきよう。)


大きな歴史の流れの中では、浄心院が三浦の娘だろうが北条の娘だろうが、どうでもいいっちゃあいいことです。どうでもいいことではあるのですが、でも、それぞれにそれぞれの人生を歩んだはずの二人の女人が、その人生を混同されたりしていたらお気の毒だと思うのです。

それはこのお二人に限ったことではなく、先の崎姫と山木大方にしても、氏綱室の養珠院と朝倉娘の養勝院にしても、北条ゆかりの女人達だけではなく他のあまたな女人たちも同じこと。ほとんどが、かつての敵の元へ嫁ぎ、実家から与えられたミッションを果たすべく大変な思いをしたことでしょう。


彼女たちにとっては余計なお世話だろうと思いつつ、今日も足跡を辿りながら妄想しておる次第でござります。


こちらが最初に書いた混沌のブログ記事です↓
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html

「道灌息子資康と孫?資高の不思議」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html

「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html
「安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-dcd4.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

 

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