2017年3月31日 (金)

吉良頼康ゆかりの寺々(川崎・目黒・世田谷・蒔田)

【シリーズ 北条の血をひく女人たち】
二代北条氏綱の息女、吉良頼康室~続編



wine 「泉澤寺」
川崎、武蔵小杉駅からバスで15分弱位…だったかな?

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~門前に着くなり、説明板でいきなり我らが氏政アニキの虎朱印!(右下の)~


泉澤寺は当初世田谷にあったものの、火災にあったために天文年間に頼康殿が現在の地へ移したと伝わっています。お寺は中原往還に面しており、周りには当時の堀ではないかといわれている二ヶ領用水が流れています。


ご本尊の阿弥陀如来は南北朝時代の作。その銘札には、「吉良頼康」と「妻平氏女」の墨書きが残っているそうです(『戦336』 by 黒田基樹『北条早雲とその一族 2007』)。

「平氏女」とは、小田原北条家の姫ということです。頼康と連名で「妻」となっているということは、頼康に嫁いだ北条氏綱の娘、つまり、﨑姫ということになります。(ということの連呼で恐縮。)法名は不明。


お寺の方に伺ってみました。大変感じ良く対応してくださいましたが、その銘札のことは分からない、亡き先代なら知っていたかもしれないとのこと。残念なり。

そこで、家に戻ってから川崎市さんの方へ問い合わせさせていただいたところ、北条幻庵の伊豆市さん同様、とても詳しく丁寧なお返事を頂戴しました。なんと、世田谷区にまで聞いてくださっていました。


以下、要約です。

上記の『戦国遺文後北条氏編336』は、世田谷区が出版した『世田谷区史料第二集』からの引用なので、世田谷区に問い合わせてみたところ…
「1959年以前に世田谷区内の古文書等の調査をした際に、泉澤寺のこの阿弥陀仏の札銘に関する記録が出てきた」

のだそうですが、この記録も札銘も現在は確認が出来ない状態なのだそうです。


(川崎市さん、世田谷区さん、お忙しいところ一歴史ファンの疑問を調べてくださり誠にありがとうございました。)


泉澤寺は元々世田谷にあったので、お寺の記録も世田谷に残っているのだとは思いますが、それにしてももう分からないとは重ね重ね残念じゃのうcrying

(どのように書かれていたのかは記録に残っていて史料を読むことが出来ます。ややこしく長くなるゆえここには書きませんが、ご興味あらばお調べくだされ。)

川崎市教育委員会HP→http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000056.html


wine 次は「勝光院」
世田谷区、世田谷線宮の坂駅

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~駅から住宅街に入るとすぐに美しい竹林が現われた~


当初は「竜凰寺」として吉良家が創建。その後、先のブログ記事にも書いた、頼康の養子となった北条氏朝が、養父頼康の院号の「勝光院」と改めたそうです。

すわっ、ほな頼康殿のお墓はここかっ!と思ったのですが、そこらへんのところはよく分かりません。


「吉良家墓所 ↑ この先右手」という案内板がある木戸をくぐると、きちんと柵で囲まれた世田谷吉良一族の墓所がありました。説明板を読むと、こちらには氏朝の孫以降のお墓があると書かれていました。

つまり江戸時代ってことですな。右の隅には、もう少し古そうな五輪塔がいくつかまとめてありましたが、あれらはどなたのお墓なのかな…。


「氏朝の局」(正室である北条の娘か、側室かは不明)や、世田谷城にあった千手観音などの仏様が坐すそうなのですが、本堂はピシッと閉っていて、境内は人っ子一人おらず静寂に包まれていたため、お参りできるのか否か分かりませんでした。

勝光院は非常に美しいお寺で敷地も広く、世田谷線の駅近くの住宅街に京都の洛外にあるようなお寺があるとは想像もしていませんでした。


wine 世田谷「勝国寺」
世田谷区、世田谷線世田谷駅

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~境内で、ワテのことをジーーーッと見ていた猫。「よりやす殿か?」と声をかけてみたが、無反応。お寺に入ってから出てゆくまで、ジーーーーーッと見られていたsweat01。~


開基は頼康殿のお祖父さんといわれている政忠殿です。

こちらには、小田原北条から嫁いだ室の持仏であった(『世田谷区社寺史料』より)と伝わる薬師如来が坐します。昭和初期までは秘仏だったと『勝国寺寺院明細帳』にあったそうですが、その『勝国寺寺院明細帳』の所在は今は不明で、調査時に聞き取ったものだろうとのことです。


現在、秘仏は年に一度、新春初薬師法要の時(1月12日が日曜日の場合は1月12日、それ以外は1月12日以降の最初の日曜日)に御開帳があります。

是非拝んでみたい!と思ったら、歴友師匠に、「(数年前の)横浜歴博の蒔田の吉良氏展に出ていたじゃない」と言われちった。まったく覚えとらんcrying。なに見てんだろ私ったら。


それよりなにより、
勝国寺は、なぜ世田谷と蒔田と2つあるのだろうか?

世田谷区HP→http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/106/152/d00129077.html


wine 蒔田「勝国寺」
横浜市、ブルーライン蒔田駅

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~蒔田城の麓にある勝国寺~


ということで、蒔田の勝国寺にもお参りしました。


吉良殿の主な領地は世田谷と蒔田ですよね。どっちを、いつ、どのように使っていたのか知りませんでしたが、上と同じく横浜歴博の企画展の時に少し雰囲気が分かりました。

吉良成高・頼康父子の頃は、世田谷が公邸で正室が住み、蒔田は文化人などが訪れる別荘のような場所だったのだろうとのことだそうです。へえ~~。

また、
パパ成高の妻は「世田谷局」と呼ばれ(上杉定正書状)、息子の頼康(or氏朝)の妻は「蒔田御前」と称した(世田谷徴古録)ともありました。へえ~~。


蒔田勝国寺には頼康殿の供養塔があります。案内&説明板があり、自由にお参りできます。

境内の碑には、「頼康も当寺に葬りしといへば四基の中にあると思慮せられる」とありました。ホンマどすかっ!ドびっくり~ coldsweats02。ただ、頼康のお祖父さん・政忠の法名は「勝国寺殿」ではない、とも言われていますな…。うーん。よう分からん。


それにしても、今、蒔田城には某女学校が建っていますね。学校が建っていて良かったです。

これは玉縄城にも言えることですが、もし学校が建っていなかったら、今頃は宅地開発やその他様々な施設により跡形も無くなっていたことだろうと、私は思いますよ。


wine 東光寺
目黒区八雲、都立大学駅

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~おお!吉良殿の紋がまぶしかとーshine


東光寺は、頼康殿より数代前のご先祖殿が、幼少で亡くなった息子の墓所としたお寺だそうですが、説明板を読んで驚きました。


こちらには3基の宝篋院塔があり、案内板もあって自由にお参りできます。

その幼少で亡くなった方以外のあとの2つの宝篋院塔のうちのひとつが、私が今探している頼康殿のお墓だとされていました。そして、あとのひとつは、頼康養子の氏朝(山木大方と今川堀越六郎の息子) の娘、つまり頼康の義理の孫のお墓だと!

ホンマどすか!ドびっくり~coldsweats02


う~ん。しかし…
頼康の法名は「勝光院殿」なのに「大徳寺殿」となっているし、没年も大永では早過ぎるし、官途名がこちらは「左京大夫」になっていますが、そうじゃなかったような…。手持ちの吉良の年表を見てみたらやっぱり違うような。世田谷吉良で「左京大夫」は3代目の頼氏だけのような。頼氏の法名は「大徳寺殿」かな?チト分からにゃい。

まあねえ、昔のことゆえ、その後の数百年の間に何人もの名前が混ぜぇこぜぇになってしまうなんてことは、どこのお寺でもあることですよね~。


いや、それとも!あの当時は頼康殿を世田谷に葬れなかった理由が何かあったのかのう。

まったく分からん!いったい、頼康殿とその室である北条氏綱の娘はどこに葬られたのか…。


以上の他にも世田谷等々力で満願寺や八幡神社などを訪ね歩きました。

頼康殿は寺社への信仰心が厚かったようで、ゆかりの素敵なお寺は他にもあまたありますが、これ以上お寺参りをしては脳内が益々混乱してしまいそう。ひとまず頼康殿のお寺巡りはこれにて終わりにいたしとう存じます。


本編→謙信の侵攻と頼康の代替わり~「吉良頼康室」北条の血をひく女人達③
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html

「蒔田の吉良氏 戦国まぼろしの蒔田城と姫君」展
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/at-2d5f.html
「後北条の姫も妬んだ常盤姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-64d0.html
「後北条の女領主、伊豆の山木大方」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html

「北条早雲こと伊勢宗瑞の息女たち」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html

「浄心院殿日海は二人いた!太田資高 室~北条氏綱の息女たち」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html→その後知った驚きの事実「浄心院は三浦道寸の娘ではなく、北条氏綱の娘ではないか? 」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-aaec.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

cat 画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2017年3月16日 (木)

浄心院は三浦道寸の娘ではなく、北条氏綱の娘ではないだろうか?

【シリーズ 北条の血をひく女人たち】
二代北条氏綱の息女、太田資高室~続編



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~文京区白山には、浄心院様の菩提寺だった「浄心寺」の名が坂の名として残っている。~


先のブログ記事「太田資高室~浄心院は二人いた」で混沌としていた、浄心院殿日海は北条の娘 か三浦の娘Bか について、その後もう少し調査(妄想)をしてみましたところ…


衝撃の事実を発見!!
なんと、2人の浄心院殿日海の 死去年月日が同じ (天文19年9月14日)だったのです。

浄心院 の没年月日は、『太田家記』より
浄心院の没年月日は、三浦家系図より(←私は未確認)

ドびっくり~coldsweats02


天文19年…か。北条氏康が山内上杉の平井城を攻め、翌20年に落とした頃ですな。

それにしても嫁と姑が同じ日に亡くなって、法名も同じなんてことがあるかね?いや、氏政の母と正室は同じ日に亡くなっていますが、それは小田原籠城中のこと。こちらはそれとは違いますしねえ。


wine 二人の浄心院とその夫君たちの後半生

核心に触れる前に、まずは時系列を整理してみました。辿るのがメンドクチャイ方はずーっと下方の、「太田家記」の項へどうぞ。


登場人物
浄心院=北条氏綱娘、太田資高の室
浄心院=三浦道寸娘、資高のパパ(養父とも?)資康の室


▲永正10年/1513年
三浦道寸の娘であるの夫・太田資康、三崎にて討死。
(資康の死亡については時期・状況共に様々説があるが、いずれにしても永正10年よりは以前。)


~妄想~
が嫁いだ頃、夫の資康は江戸にいたはず。資康が三崎の道寸の元へ向かった時、妻のも一緒に行ったのか?→道寸の娘だから行ったと思われる。

また、
資康の子である資高は、その時15才位。江戸へ置いていかれたのか?はたまた、パパ資康が三浦に走ったために、それで江戸城を出されて岩淵砦にいたのか?

後に氏綱に内応したのは、「祖父道灌殺害の件で扇谷に恨みを持っていたから…」とも言われているけれど、だったら何故に父親と一緒に三浦へ行けなかったのか?実は、やはり本当の父子ではなかったからなのか?山内・扇谷がらみの何かしらの事情なのか?

▲永正13年/1516年
三浦道寸、自害。次男・時綱は安房に逃れる(館山市資料より)。浄心院 も共に安房へ渡る(三浦氏系図より)。


~妄想~
ちょっと待った!

の兄弟である義意が三崎で討死したのは20才頃。例えばが義意の姉だとして、25-6歳。となると資高とは10歳位しか違わない。いくら昔とはいえ、資高はが産んだ子ではないですな。

ということで、先のブログ記事に載せた系図を書き替えてみました。


Photo_2
~時綱が道寸の息子であることには諸説あり。~

▲大永4年/1524年
資高が北条氏綱と組み江戸城は北条の物となる。資高は江戸城香月亭へ入る。

▲年不明
氏綱の娘である、資高へ嫁ぐ

▲享禄4年/1531年
、康資を産む

▲天文16年/1547年
資高、江戸にて死去

▲同19年/1550年9月14日
AB、両名共、江戸にて死去


次に、『三浦家系図』と『太田家記』を見てみましょう。

どちらも、概要ではなく、どう書かれているか見てみたくて仕方がなかったのですが、なかなか図書館へ行けないでいたところ、歴友師匠殿が関連箇所を抜粋して教えてくださいました。かたじけない。ありがとうございます!


wine 三浦家系図

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~三浦氏の「新井城」。三崎の要害についても諸説あり。~


道寸の娘について、以下のようにあるそうです(歴友さんのをコピペさせていただく)。

「(義同)女子
嫁太田道灌一男資康、生新六郎「康資」後号武庵、天文十九年九月十四日死于江戸、法名浄心院日海、子康資建寺置像、号浄心寺今猶在小石川」


ふむ。
江戸にて死去か。小石川の「浄心寺」が菩提寺とありますな。浄心寺は、太田道灌開基「法恩寺」の末寺です。

浄心寺はかつて平河口にあり→本郷に移り→最後は白山でした。現代の感覚でいうと、小石川は、そのどこからも少し離れていますね。大きな区分の中ではまあ同じエリアとも言えますが。


また、何故に太田道灌ゆかりのお寺で弔われたのでしょうか?

太田さんちに嫁いだから?でも、三崎に行って、安房に渡った三浦の娘を、江戸の真ん中で誰が祀るのだろうか?


そんなことより!
そうです。資高の母でないどころか、この系譜からは資高さんが抜けているではありませんか。資康の子が、孫である康資ということになっていますね。ですよね?読み方合ってます?

ちと、アヤシイ~の~。


wine 太田家記

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~現在は日暮里にある資高開基の「本行寺」。当時は江戸城平河口にあった。浄心寺と同じく、法恩寺の末寺である。~


以下、同じく歴友さんからいただいたもののコピペ。

一、資高公奥様ハ北条氏綱の息女ニテ、天文十九年九月十四日江戸城にて御死去、万好斎公と同して法恩寺へ御葬送可有之処、平川口に別之寺を立、彼寺へ御葬送有之、是ハ常々御夫婦不和之由申伝候、夫故新六郎康資公へ御存生之内より被仰置候付、別の寺へ御葬被成候也、彼寺浄心寺と申候、此寺今ハ本郷丸山ニ有之候、

浄心寺書物ニ有之、
「浄心院日海比丘尼 天文十九年庚戌九月十四日施主 太田新六郎康資
本願徳成坊日成敬白」
如此之書付有之、日海様木像之御影有之候


ふむ。

こちらには、浄心院日海は北条氏綱の娘で、資高の奥様であり、(三浦の娘と同じく)江戸で亡くなり、(三浦の娘と同じく)子の康資が浄心寺という菩提寺を建立して葬送とありますな。お寺の場所は、平川口→本郷丸山。まあ合っちょるか。


資高さんの道名と菩提寺もこれで分かりました。

道名は万好斎。菩提寺は「法恩寺」。繰り返しますが、法恩寺は太田道灌の開基です、浄心寺は法恩寺の末寺です。


そして、面白い…と申しては失礼ですが、先立った夫の資高と同じ平河「法恩寺」に葬られるところ、息子の康資が、母浄心院の遺言により別の寺を建てたとな。それが、「浄心寺」だと。

なぜ別の寺へという遺言なのかというと、「常々御夫婦不和之由申伝候…」 だとさcoldsweats01


wine 混同

以上のことから妄想するに、やはり浄心院日海は北条の娘で資高の正室である、の線が強いのではないかと、私は思いたい。他家の記録よりは、資高さんの本家本元である太田さんちの家記の方が辻褄が合っていると思うのですよ。だって、そもそも三浦さんちの系図に資高さんがいないんだもの。

となると問題は、安房の正文寺にあると聞く浄心院の位牌ですよね。


三浦系図によると、浄心院は江戸で亡くなっています。三崎の戦いの際に安房へ逃れたはずの三浦の娘は、何故に江戸で亡くなったのだろうか?江戸で亡くなったのに、何故位牌が安房と江戸の両方にあるのだろうか?


~妄想1~
安房の位牌は三浦の娘 のものではなく、北条の娘 のものではないでしょうか。

の息子の康資が安房でも位牌を持ったのではないでしょうか。パパとママは不仲だったから、マザコンの康資(←ウソbleah)が、ママのだけ作ったとか。

それが三浦系図と混同され、いつの間にか三浦の娘のものだとなってしまっている…とか?


~妄想2~
それとも、安房の位牌はやはりBのもので、お名前が不明だったので、いつの間にか浄心院殿日海と混同されてしまっているとか。


~妄想3~
上のザックリ系図で、三浦道寸にもう一人女の子がいますよね。その子が、混同の、こんどー(近藤)です←若い人には分からんてcoldsweats01 で、浄心院殿日海となってしまった…とか?


なーんて。

もしかしたら、まったく反対で、浄心院は三浦の娘で、たまたま系図からは資高が抜けちゃっただけ。当時は位牌もお墓もアチコチにあるなんてよくあること。安房の位牌も江戸の位牌ものもので、太田家記が混同しているのかもしれまへん。

皆さんはどう思われますか?


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~嘉永時代の地図。緑のの中に「浄心寺」がある。ピンクの☆のあたりに現代の白山駅がある。~


先日、どこでもいいから、なんでもいいから、浄心院が生きた証の場所に立ってみたくて、トップの写真の「浄心寺坂」を歩いてみたのです。

(坂の名の由来となった浄心院様の「浄心寺」は日蓮宗。現在はお寺はありません。近くに同名の浄土宗のお寺があるのでお間違えのなきよう。)


大きな歴史の流れの中では、浄心院が三浦の娘だろうが北条の娘だろうが、どうでもいいっちゃあいいことです。どうでもいいことではあるのですが、でも、それぞれにそれぞれの人生を歩んだはずの二人の女人が、その人生を混同されたりしていたらお気の毒だと思うのです。


それはこのお二人に限ったことではなく、先の崎姫と山木大方にしても、氏綱室の養珠院と朝倉娘の養勝院にしても、北条ゆかりの女人達だけではなく他のあまたな女人たちも同じこと。ほとんどが、かつての敵の元へ嫁ぎ、実家から与えられたミッションを果たすべく大変な思いをしたことでしょう。

彼女たちにとっては余計なお世話だろうと思いつつ、今日も足跡を辿りながら妄想しておる次第でござります。


こちらが最初に書いた混沌のブログ記事です↓
浄心院殿日海は二人いた!~「太田資高室」北条の血をひく女人達②
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html

萩真尼 こと マリコ・ポーロ


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2017年2月 5日 (日)

北条の血をひく女人達③吉良頼康室~北条氏綱の息女たち

【上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり】


北条早雲こと伊勢宗瑞の息女たち、北条氏綱の息女たち~その1浄心院(太田氏高室)に続くは、吉良頼康に嫁いだ崎姫の足跡を辿りたいと思います。


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~吉良の重臣、大平氏の奥沢城跡といわれる九品仏浄眞寺の紅葉。背後は土塁(2016 秋)。周囲には堀跡も残る。しかし、ここの姫が崎姫にイジメラレタというのは伝説に過ぎない。~


wine 崎姫と山木大方(高源院)は別人だった

謙信の侵攻と吉良頼康の代替わりとの関連性の妄想に入る前に、まずは崎姫と山木大方(高源院)のことに触れなければなりませぬ。当ブログでも、しつこく&こってりと書いておりますので、ここでは簡単に。


かつては、崎姫=山木大方とされてきました。その後研究が進み、崎姫と山木大方は別人で、姉妹だということが分かってきました。


そして、


かつては、今川(堀越)六郎に嫁いだ山木大方が、六郎さん亡きあと、忘れ形見の氏朝を連れて吉良頼康に再婚したとされていました。しかし、上記のように、吉良頼康室の崎姫と山木大方は別人ということなので、

・吉良頼康室=崎姫
・山木大方(高源院)は今川から戻ったあと再婚せず未亡人のままで、六郎さんとの間の子である氏朝は、一人で吉良に養子に入った

つまり、氏朝にとって崎姫は叔母さんであり、義母でもあるわけですな。


Photo
~北条当主の直系ではないのでこの図には書かなかったが、山木大方の息子の氏朝には、幻庵の娘の鶴松院が嫁いだ。次代当主頼久の母である。~


どうやら、吉良頼康室 崎姫、氏朝母 山木大方高源院、そして、氏朝に嫁いだ北条幻庵の娘 鶴松院 の3人は、江戸時代を通して、ごちゃ混ぜ&混然一体&錯綜されながら、寺社やゆかりの土地で語り継がれてきたようです。

崎姫と山木大方のことを書いた以前ののブログ記事(のひとつ)を文末にリンクしましたので、ご覧くださりますと嬉しいです。


さて、ここで早速3つの疑問が生まれてしまいました。それは、吉良への養子縁組と、謙信の小田原攻めとの関係です。


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吉良頼康→北条の氏朝への代替わりは、何故行われたのか?

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永禄4年の謙信侵攻時、何故頼康は玉縄へ移されたのか?

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頼康室の崎姫はどこにいて、どうしていたのか?


実は、氏朝が吉良へ養子に入ったのが永禄3年12月。家督を継いだのは翌年2月で、これは頼康の生前。しかも頼康は40才になるかならぬかです。﨑姫と頼康には、分かっているだけでも3人の男の子もいました。

当主も生きていて嫡子もいるのに、なぜ北条からの養子が当主となったのでしょう?その頃は、特に吉良と北条の関係には問題はなかったはずです。むしろ吉良殿は、北条では別格扱い。大事にされていたように思われます。


それどころか北条は、はるる(足利晴氏)とよっしー(足利義氏)の間に、「臨時的な公方」として吉良頼康を擁立しようとした」可能性があるそうなのです。

その根拠は、
・ 天文17~21年までの間、頼康が「左兵衛佐」の官途を名乗ったこと。「左兵衛佐」は、代々鎌倉公方家が名乗るもの。
・ 頼康がこの官途名を名乗る直前に、はるる が北条氏と敵対していたこと。


つまり、
北条は頼康を、はるる との関係断絶~よっしー の公方就任までの間のプールとしていた可能性がある、ということだそうです。(谷口雄太『武蔵吉良氏の歴史的位置』(『千葉史学』57号2010年)より。)


そして頼康殿は、
氏朝に家督を譲った年の暮に亡くなりました。


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~吉良頼康が熊野大社を勧請して創建したと伝わる、等々力の玉川神社~


3つの疑問について、妄想に浸ってみました。

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吉良頼康→北条の氏朝への代替わりは、何故行われたのか?


▲ たんなる病だった

頼康殿は、ずっと病だったのかもしれません。でも嫡子がいるよね。それに、もし病だったら重要拠点の玉縄に移すかね?


▲ 氏康の陰謀か!

頼康が当主でいては、いつまでも吉良を完全に北条のものに出来ない!ここはひとつ、いいように使える(か?)氏朝くんを送りこみ、名門吉良の名跡をゲットし、その家臣団をも北条の直臣にしてしまおう!

と、氏康と相棒の綱成で図ったのか!?二人には為さま(氏康弟・北条為昌)のことで前科があるゆえ(←超妄想)、勘ぐってしまうのう…。


▲ vs 謙信の態勢固め

これは、②の、頼康殿の移動のことと一緒に考えねばならないのかもしれないですが、それこそ、謙信くんの侵攻に備えての人事異動の可能性もありますかね?

時系列をチト整理すると・・


(永禄2年)
4月 謙信、上洛し、関東管領内諾。北条らの制圧を決っする

(永禄3年)
8月 謙信、越後出立
12月 北条の氏朝、吉良へ養子に入る


謙信、関東の諸将を集結させながらズンズン南下し、次々と攻防戦を繰り広げる

(永禄4年)
2月 氏朝、吉良の家督を継ぐ
 〃 吉良頼康、蒔田→玉縄に移る
3月 謙信、小田原に陣を張る
12月 頼康、逝去


上の、氏康陰謀説の見方を変えてみると、以下のようになります。

こんな情勢の中、吉良閣下(「閣下」は梅花無尽蔵より)を当主として戦の真っただ中に置くわけにはいかない。嫡子もまだ若い。吉良殿に替えて一門の氏朝を前線に置いた上で、優秀な吉良家臣団の指揮を北条が直接とれるようにしよう!

なんて?


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永禄4年の謙信侵攻時、何故頼康は玉縄へ移されたのか?


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~吉良殿の城、世田谷城。(言わずもがな石垣は現代の土崩れ防止の公園整備。)~


①と重なりますが、永禄4年2月、氏朝が吉良の家督を継ぐ頃のこと。氏康は、謙信の侵攻から頼康殿を守るため、たいそうな人数を付けて頼康殿を綱成管轄の浦賀城へお移しするように命じます。

その後、浦賀城から玉縄へ変更します(吉良との取次ぎ、高橋郷左衛門への書状にあり)が、いずれにしても綱成の城。


まあねえ、最終的に頼康を移した玉縄が、避難場所として安全かどうかは疑問ではありますがね。だって、その頃の玉縄は、謙信くんの侵攻に備えて城の修復だの補強だのがガンガン行われているのですから。

まさか、吉良閣下を最前線で謙信くんと戦わせちまえrock
なんて?


頼康殿は玉縄城で亡くなったのでしょうか?それとも、謙信が小田原・鎌倉を去ったあと蒔田に戻り、そこで亡くなったのでしょうか?

もし玉縄で亡くなっていたら、それこそアヤシイ~~。

そこが知りたい。。。


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頼康室の崎姫はどこにいて、どうしていたのか?

まったく分からん!
( `д´)キッパリ


頼康殿自体が、蒔田にいたり世田谷にいたり、また蒔田に行ったり、玉縄に行ったり。

北条の女人達は嫁ぎ先の夫と最後まで行動を共にするという人が多いですが、それにしても、当時の正室が全ての場所へ着いてまわったとも思えん。


上にも書いた横浜歴博の「蒔田の吉良氏~戦国まぼろしの蒔田城と姫君展 2014.7」では、頼康の父の時代、その室(上杉)が「世田谷局(上杉定正書状)」と呼ばれたことから、

「正室は世田谷にいて、蒔田は別荘のような場所」
ではないか?とありました。

頼康殿の時代はどうだったのかなぁ。


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~私がクダクダと書いたものより、こちらをお読みになった方が遥かに良いと存ずる。1200円じゃが、取り寄せの価値大いにあり。~


うーん、私には じぇんじぇん分かりまへん。分からないなりに、そんなこんなを妄想しながら、まずは吉良頼康殿と崎姫の菩提寺探しです。これがまた大変。


wine 崎姫&頼康殿の菩提寺

その人を知りたければ菩提寺へ行け!
by マリコ・ポーロ


が、しかし…

見つかりませんweep


前回の太田さんちと同じです。死去年は分かっているのに、お墓が分かりません。頼康の法名が勝光院殿なので世田谷の勝光院のようなのですが、蒔田の勝国寺とも聞きます。どうもハッキリしません。「勝国」とは頼康のお祖父さんだか曽祖父さんの法名ですから、違うかもしれないし、一緒のお寺なのかもしれない。

頼康さえそうなんですから、妻の﨑姫にいたっては、その法名さえも分かりませんcrying


仕方がないので、その頃の吉良殿ゆかりのお寺をいくつか探索してみることにしました。

長くなったので、素敵なお寺巡りや、寺々に伝わる、崎姫が確かに生きた証の仏様については次回に続く。


「蒔田の吉良氏 戦国まぼろしの蒔田城と姫君」展
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/at-2d5f.html
「後北条の姫も妬んだ常盤姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-64d0.html

「後北条の女領主、伊豆の山木大方」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html

「北条早雲こと伊勢宗瑞の息女たち」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「太田資高 室~二人の浄心院▲北条氏綱の息女たち」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html

ほにゃ。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年1月 5日 (木)

北条の血をひく女人達②太田資高室~北条氏綱の息女たち

【浄心院殿日海は二人いた!】


Img20140103_2055501
~北条氏綱の銘と花押がある唐草螺鈿の鞍。ただ今、江戸博の「戦国時代展」でも展示。(↑画像は、馬の博物館「ススメ!小田原北条氏 2011.10」を観に行った時にいただいたポスターより)。~


昨年後半より足跡を辿り始めた「北条の血をひく女人達」。今川系との結びつきが濃密だった初代伊勢宗瑞まわりの女人達に比べ、勢力を広げていこうとする二代氏綱の代になると、娘たちの嫁ぎ先も当然の如く広がります。

ところが、その夫君も含めて人生の終わりまでたどり着けなかったり、複数の姫の言い伝えが錯綜していたり。脳内カオス状態にござります。


wine 氏綱の娘たち

「氏綱の娘」ということは、つまり、氏康の女兄弟ということになりますな。

二代氏綱は、少し地味な印象を持たれる当主かもしれません。しかし、氏綱がいてこそ北条が百年続いたとも言われる名当主です。北条ファンでは、氏綱を、「憧れる」というよりは「リスペクト」している人が多いですよねえ。他の当主を呼び捨てにしていても氏綱だけは、氏綱「公」と呼ぶ人もいます。


氏綱には息子は4人(氏康・不明・為昌・氏堯)しかいませんが、姫は多いです。6人いるとされています。昔は5人でしたが、最近は堀越六郎に嫁いだ山木大方と、吉良頼康に嫁いだ崎姫は別人となりましたそうなので、1人増えました次第です。


① 浄心院→江戸太田の太田資高室
② 大頂院→3代氏康のバディ、北条綱成室
③ 崎姫(法名不明)→吉良頼康室
④ 芳春院→古河公方、足利晴氏室
⑤ 高源院(山木大方)→今川の堀越六郎室
⑥ ちよ(法名不明)→葛山氏元室

こんなにいるのだよ、2代目の娘だけでも…。北条の血をひく女人達の足跡を訪ねようと思う!な~んて軽い気持ちで表明(?)しましたが、いざ始めてみたら、まーあ大変。体力と軍資金が許す限りでゆるゆると。


それでは、どなたからまいろうかにゃ。②大頂院、④芳春院、⑤山木大方については今まで随分と書き散らかしてまいりましたし、わらわ現在「道灌びいき」の会にお世話になっていることでもありますので、まずは、江戸太田に嫁いだ①浄心院様から。


pen加筆:2017.3.16
その後、二人の浄心院についてもう少し調べたところ驚くことが分かりました。こちらをご覧くださいましたら幸いです。http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-aaec.html


wine 浄心院殿日海
(夫) 太田資高、江戸太田


Img20131023_180717_2
~太田資高開基「本行寺」。当時は江戸城内平河口にあったが、江戸時代に現在の日暮里へ移ったそう。~


いきなりですが、捜索願ひ!

この太田資高さんと、浄心院様のお墓はどこにありますか?


浄心院殿日海の夫である資高の祖父は、あの太田道灌です。ややこしいので浄心院関係だけでいうと、道灌の息子の代に、太田さんちは2つに分離独立します。

兄が、俗にいう江戸太田。弟(イトコとも?)が岩付太田です。北条は、3代氏康の代になると江戸だけではなく岩付にも娘を嫁がせたりもしますので、脳内は余計にカオス状態となります。


現代の太田家のご当主を存じ上げているので、なんだか太田さんちの個人情報に触れているようで気が引けてしまいますがcoldsweats01、話を493年前に戻すと…。


1_2
~現代の品川プリンスシネマへ上がる坂道。氏綱の江戸城奪取時、曽我(上杉方)vs 多米(氏綱方)の「高縄原」はこのあたりと伝わる。~


大永4年正月、扇谷上杉の重臣ではありながら岩淵の砦で不遇をかこつていた(たぶん…)太田資高の内応により、北条氏綱は関東の流通の要であった江戸城を手に入れます。資高は、江戸・小机などの知行を安堵され、江戸衆の中では最大の領地を有します。そして、氏綱の娘を娶ることとなります。

しかし、資高は江戸城代などになったわけではありません。資高は城内の道灌ゆかりの香月亭に置かれ、城内には氏綱の重臣遠山や富永が入ってきます。江戸城は遠山を筆頭とした3人の城将がいる3つの城のような組織となるのです。


また、資高には先妻の子である長男がいましたが、北条の浄心院が生んだ康資が跡取りとなります。そのことも、次代の里見への離反へ繋がる要因のひとつだったのかどうか…?

次代の康資へは、遠山の娘が氏康の養女となって嫁いでいますよね。2代続いて北条は江戸太田家との結びつきを図りましたが、こちらの女人については、「遠山の血をひく女人」であって「北条(当主)の血をひく女人」ではないため、こたびは足跡を辿ることはいたしませぬ。


012
~渋谷城跡といわれる金王八幡宮。高縄原から上杉を追った小田原勢は、渋谷方面へ迂回し江戸城へ押し込んだ・・と伝わる。~


そこで、上記の「捜索願ひ」です。

資高・浄心院、夫婦そろって菩提寺(お墓)が分かりません。没年は分かっているのに。息子の康資が安房へ移したのかしら。


資高はターニングポイントであった、江戸城のあの内応から23年後にその生涯を終えます。たぶん、そのまま江戸城の城将として、江戸城(またはその周辺)で亡くなったと思います。正室の浄心院は、その3年後に亡くなります。

浄心院も夫と同じく…と言いたいところですが、ここで疑問の三つ鱗。


▲ 疑問-1 浄心院は「比丘尼」なのか

太田家記には「浄心院殿日海比丘尼」とあるようです。法名から察するに日蓮宗ですよね。

大概は、夫が先立って剃髪してもそれは形だけです。なぜ彼女だけ比丘尼なのでしょう?「比丘尼」ということは、正式に修行したお坊さんですよね。いつの時点で仏門に入ったのでしょう。

分っからんのう…。


▲ 疑問-2 「浄心院日海」はもう一人いたcoldsweats02

Photo
~カオスは、祖父(資康)と孫(康資)の名が似ていることから始まっている?~


(浄心院殿日海-A
私が足跡を辿っている浄心院様は、北条氏綱の娘です(『太田家記』にあると黒田氏の本より)。


(浄心院殿日海-B
もう一人の浄心院日海は「比丘尼」ではなく「禅尼」と書かれています。資高のパパ(つまり道灌の息子)である資康の妻だというのです。

安房の「正文寺」という誕生寺の末寺に位牌があるそうです。誕生寺は、里見へ付ついた資高の息子(康資)のお墓があるお寺です。横須賀の、三浦氏系図にも「浄心院殿日海」の名前があるそうです。


↑ のともに家伝と寺社の御縁起ゆえ参考までにととどめたいとは思いますが、資康の妻というのは、宗瑞によって滅ぼされたあの三浦道寸の娘だと言われています。そのため資康は三浦について、新井城の戦で死んだと伝わっています。

ということは、Bは、資高のママということになります。姑(B)と嫁(A)が、まったく同じ戒名ってことがあるのでしょうか?


また…もし浄心院が  だとしたら、その位牌がなぜ安房にあるのでしょう?孫の康資は確かに北条から離れ安房の里見へ行っていますので、お祖母さんの菩提を弔ったのでしょうか?

康資が弔ったのは、母である浄心院‐ だということはないでしょうか?


そこで…
安房の館山市立博物館のHPを見てみました。そこには、道寸らが北条に滅ぼされた時、息子の時綱が安房に逃れてき た…とありました!ということは、浄心院日海が B だとしたら、その時、兄(または弟)の時綱と一緒に落ちたのでしょうか?


それと…
資康の墓と伝わるものがある横須賀の大明寺の御縁起には、「戦国時代には太田氏の帰依をうけ・・」とあります。三浦のお寺で戦国時代に太田系となると、やはり B の線が強いのでしょうか?いや、 A ですか?


うぎゃー。もう、分からん!
読んでくださっている方もそうでしょねえ?


ふと思い出しましたが…
三浦さんとこには「三浦浄心」なる、新井城から逃れ、後に北条の家臣となった一族の方がいますね。小田原にも籠城して、『北条五代記』を記している、あの人です。「浄心」はよくある法名ではありますが。

なにか、どこかで、色々と錯綜してないですかね?sad


▲ 疑問-3
岩槻領七里の「大園寺」の御縁起に資高の名を見つけました。

そこにはこうあります。

~太田新六郎資高(大崇院昌安道也居士、永禄11年1568年寂)、および太田源五郎康資の室(陽光院芳林妙春大姉、永禄10年1567年 寂)を開基大檀那とするといいます。~


・資高は江戸太田だから、岩付の領域である足立郡七里にあるお寺は関係ないのでは?
・資高の没年は天文年間。永禄ではない。
・法名も違う。この法名は、岩付太田の氏資のもの。資高の法名は不明。
・康資は資高の息子だが、その室の法名は「法性院」。没年は天正時代。
・「芳林院」は、岩付の氏資の母上(三楽斎の正室)。

世代も、一世代違いますし、資高は江戸城奪取に協力したから、氏綱が協力関係をより堅固にするために娘を嫁がせたはずなので、岩付領の七里とは関係ないですよね。


これまた分っからんのう。

江戸の太田資高に嫁いだ北条氏綱の姫、あなた様はいったい誰なのですか?


次は、③吉良に嫁いだ崎姫の足跡を辿ります。



「北条早雲こと伊勢宗瑞の息女たち」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と頼康の代替わり▲北条氏綱の息女たち
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html

「北条幻庵の伊豆の屋敷と、幻庵・長松院の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html

「ついに分かった!北条氏照ご正室の最後と、氏綱正室の出自」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-f9c7.html
「玉縄城主・北条為昌の菩提寺で、ビビッときた氏綱ご正室の出自」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-2c49.html
「前編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の謎」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-47de.html
「後編~」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-2d95.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2016年11月 3日 (木)

北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?

【シリーズ 北条の血をひく女人たち】
伊勢宗瑞の息女たち~番外編その2

Img20160912_203838
~小田原久野にある栖徳山京福寺~


富士の裾野の名族、葛山氏の最後を今さら初めて知りました。衝撃的でした。文末に取り急ぎ少しだけ。


さて、
前回のブログ記事「番外編その①」では、幻庵こと北条宗哲の伊豆の屋敷と菩提寺を訪れた時のことをご報告いたしました。

こちら小田原の久野は、幻庵宗哲の小田原での屋敷があった一帯です。ここに、「栖徳山 京福寺」はあります。


pen その前に、幻庵宗哲の母親と正室についてですが・・

位牌や過去帳などの研究から、現在では、幻庵ママが善修寺殿。ミセス幻庵は栖徳寺殿(せいとくじ)とされているそうです。ママ善修寺殿は伊豆の狩野氏の娘(たぶん)。ミセス栖徳寺殿は今のところ出自不明です。


前々回のブログ記事「北条早雲こと伊勢宗瑞の息女たち」で昨今の説を、前回のブログで、それを確かめるべく伊豆修善寺にある幻庵の菩提寺「金龍院」をお参りした時のことを書きましたので、そちらも合わせてご覧くださると助かりまする。


そこで行き当るのが、幻庵宗哲のミセスはどこのどなた様か?ということですよね。

小田原詣(?)はもう何十回にもなりますが、先日、なんと初めて幻庵殿の久野へ行きました。例によってウロチョロウロチョロしていて見つけたのが「栖徳山京福寺」。


栖徳!
ミセスの法名ではありませんかっ!

あ、皆さんとうにご存知で。幻庵ファンには当然知られたお寺とのことですが、今まで全然気に留めんかっただよsweat01

京福寺は、かつては足柄街道をもう少し先へ行った幻庵の屋敷跡の奥にあったそうですが、その後(いつ?)現在の場所に移されたそうです。


ここで、ちょっと待った!

え?え?え?小田原の幻庵の屋敷跡は現在の中宿あたりですが、伊豆の幻庵屋敷跡も同じく現在の中宿ですよ!


これはどういう偶然の一致ですか!?ドびっくり~。

冷静になって考えると、つまり、そうなるべく場所に幻庵は屋敷を構えたということなのだね。お流石でござりますなぁ。


Img20160912_181242
~本堂の屋根にも内陣にも、泣く子も黙る三鱗~


大好きな萩の花が風情をいや増しているお寺の境内には説明板がありました。

へえぇ~。北条研究の先生方の本には、「栖徳寺殿」は<せいとくじでん>とありますが、お寺では<すうとくじでん>と呼ぶのですね。


え?え?え?ちょっと待った!←また(^^;

そも、こちらのお寺は、「葛山氏の菩提寺」だとあるではありませんか!


ドびっくり~!←また(^^;

つまり・・
栖徳寺殿様が幻庵の母であれ妻であれ、栖徳寺殿=葛山氏 ということか!


昔、何かで読んだことがあります。栖徳寺殿は、幻庵や氏綱の兄弟である、葛山に養子に入った「氏広の正室で北条の女」だと。

その時、某SNS に書いたことを今思い出しましたが、「確かに当時の伊勢宗瑞にとって葛山は大事かもしれないけれど、その頃の北条家にはまだそこまでの女子の要員がおらず、血が近すぎてそんなこたあないやろう」とスルーしていました。


しかし、逆に考えたらどうだろう?

幻庵の正室を葛山氏から迎えることは十分あり得る話です。宗瑞が、側室である葛山殿との間に出来た息子(氏広)を葛山へ入れ、もう一人の息子(幻庵)には葛山から嫁をもらう。

それは、もしかしたら、葛山殿の姪とか従妹とかかもしれない。(←で、大丈夫よね?血は濃くならないですよね?ややこしくて、自分で書いてて訳分からなくなっちゃった。)


当時の宗瑞はまだ今川の構成員だったから、自分も含め、三浦だの葛山だのとの婚姻政策が大事だったのかもしれない。実際、氏広は今川の御一家衆に名を連ねています。いや、すでに宗瑞が御一家衆だったので、今川筋との縁組が盛んに行われたのでしょうか?

孫(氏綱の娘)も葛山に嫁がせているし、前にも書きましたが、葛山とは濃ゆ~~い関係ですねえ。


(加筆
というか、もしかしたら宗瑞は、今川の御屋形様に覚られぬよう、着々と駿東ゲットを目論んでいたのかもしれへんかもしれへん。義元の代になった時、義元はそのけん制のために武田と組みましたものね。)


pen 葛山氏のこと

葛山に嫁いだ氏綱の息女 ちよさん のことを調べていて、ドびっくり~(←また)。

追々書こうと思っていますが、葛山氏の最後をご存知でしたか?あんなことやこんなことがあった結果(追って)、ちよさんが嫁いだ葛山氏元は、信玄殿に謀反の疑いをかけられ、「諏訪にて誅畢」されたそうですよ。


「諏訪にて誅畢」は、北条友の一人である武将さんが裾野市史から探し出してくださいました。

氏元は諏訪で処断され遺体は諏訪湖に沈められたとか、諏訪湖に投身したとか色々と伝わっているのですね。

武将さんが教えてくださったので私も図書館で裾野市史や諏訪市史や茅野市史を見てみました。「諏訪湖に投身(潜蹤)」という言葉は裾野市史の『仏眼禅師語録』にありましたが、諏訪や茅野の市史には葛山のことは何も載っていませんでした。


それにしても、宗瑞や氏綱がこれほど関係を大事にした名族の終焉は諏訪だった。それも、もしかしたら諏訪湖の底に沈んで終わりかと思うと切ないです。

このことは、また。


Img20160912_181129
~京福寺の景虎の供養塔~

話を小田原の栖徳山京福寺に戻し。

京福寺には、越後に嫁いだ・・ちゃうちゃうpaper養子に行った、氏康の息子で幻庵の娘婿であった景虎さんの供養塔がありました。


次は、葛山と共にその生涯を終えた ちよさんをはじめとする北条氏綱の息女たちになりますが、なんですか、様々な時代や様々な人々が交錯し、「北条五代」ってやっぱり長いな~と思った秋の一日でした。

では、こたびはここまでに。


北条早雲こと伊勢宗瑞の息女たち
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北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺
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マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2016年10月19日 (水)

北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」

【シリーズ 北条の血をひく女人たち】
伊勢宗瑞の息女たち~番外編その1



修善寺駅より下田街道をバスで下ること約10分 → 尺八の名曲「滝落」ゆかりの名漠旭滝がある「旭滝口」でバスを降り → 5分ほど坂を上ると、北条幻庵宗哲の菩提寺「金龍院」があります。

「金龍院」は眺めが良く、吹く風も爽やかな気持ちのよいお寺でした。


fuji 宝珠山「金龍院」

Photo
~坂の上の石段を上ると大きなな本堂が現われ、振り返れば幻庵屋敷があった大平(おおだいら)の景色が広々と見晴らせる。~


金龍院には、いつの時代に作られたものかは分かりませんが、幻庵&姉・長松院&妹・青松院、そして母親である善修寺殿のお位牌があります。

幻庵の母「善修寺殿」と、妻の「栖徳寺殿」がどうやら入れ替わって伝わっているらしいことは前回のブログ記事に書きました。次の番外編②でもそのことに触れますが、それを実証する手がかりのひとつが、ここ金龍院の御位牌にも見られました。


幻庵のことが書かれた本などには、「金龍院位牌によると・・」みたいなことがよく出てきます。大変申し訳ないことに、金龍院というお寺自体は明治の初めに無くなったとばかり思っておりました。

ところが、先日のブログ記事にも書かせていただいた三島祐泉寺さんのHPで、金龍院さんが現在も立派に健在されていることを知りました。本当に申し訳もございませんですsweat01


「金龍院殿」とは、言わずもがな、宗瑞の息子で我らが北条の長老である、北条幻庵宗哲の戒名でござります。

お寺の開基は幻庵宗哲。臨済宗大徳寺派早雲寺末寺でしたが、明治の廃仏毀釈の時に一瞬廃寺となり、その後は曹洞宗のお寺として再興されたそうです。

(お寺は境内は自由に入れますが通常本堂は開いておらず、事前にお寺へ連絡をとらせていただきました。)


fuji お位牌

Img20161011_215503_2
~古~い御位牌。写真の掲載はご遠慮願いたいとのことなので、超ヘタクソで雑な絵ですが簡単に書いてみた。(お位牌の形状などは、正確ではござりませぬ。)~


真ん中に金龍院殿、つまり幻庵宗哲。その右側には母の「善修寺殿」。左側には前回のブログ記事に書いた姉の長松院。その左が妹の青松院となっています。背面には、それぞれの関係性と没年が書かれていました。右から順に、

善 天正二年戌年七月弐五日 幻庵公母君也
金 天正十七己丑年十一月朔日 逝去
(空  白)幻庵公姉君也
(空  白)幻庵公妹君也

で、合っているかな・・。背面は、ちょっと見えないところもありましたのでチト不安。もちろん縦書きです。


ところで表面ですが、あれ?
右側(善の隣)が開いていてチト不自然ですね。

ご住職に、「複数を一緒にした位牌ってこういうものなのか」「右端に、いずれ他の誰かを足そうと考えていたのだろうか」と伺ってみたところ、「位牌は複数一緒というものはないですね」「最初は普通に金龍院殿(幻庵)だけだったのを、いつの頃かあとから足したのだと思いますよ」 とのこと。


そういえば、あまりにご先祖様が多くて位牌がたくさんになってしまい置ききれず、後世に数人をまとめたという古いおウチの位牌をいくつか見たことがあります。


再び、あれ?
「宗」の文字がありませんね。馴染みのある「宗哲」「宗意」ではなく、「哲公」「意公」となっていました。あにゃ?「宗」は大徳寺派の僧名ですよね。

このへんは、私にはチト分かりません。


よくお参りできるようにと、ご住職がお位牌を手前の机の上に出してくださいました。しみじみ~と手を合わせました。


fuji 伊豆の幻庵屋敷

Photo_4
~館跡にある謎のお堂~


金龍院のすぐ近くには、幻庵の伊豆での屋敷がありました。

幻庵宗哲の屋敷といえば小田原の久野のことしか念頭になく、修善寺大平の屋敷のことはまったく存じませんでした。金龍院さんと同じく、先日お参りした、幻庵の息子の菩提寺である三島の祐泉寺さんのHPで知りました。


候補地は、道芦原地区と下宿地区の二つあるそうですが隣接しているので、妄想する上では、ほぼ「このあたり一帯」という感じでいいのですかねえ。金龍院さんが詳しい場所を教えてくださいました。

一帯は畑でした。説明板もなにもありませんし、新しい路地や道路が作られていて、そこがそうだと知らなければまったくわからないと思います。でも知っているその目で見ると…雰囲気チト分かります。まさか、土塁と堀の名残じゃあないですよね?って。


畑中に狭い小高い場所があります。大きな大きな椿の木の下に、上の写真のお堂がありました。

畑仕事をしてらしたご近所の方が寄ってらして(不審だった?)少しお話を伺えました。お堂は、以前は個人の所有でしたが、今は修善寺町が管理しているそうです。中には、仏様がおわすそうです。

それ以外のことは分からないので、その場でスマホ検索してみましたが何も出てきませんでした。なんだろうねえ。お寺だったのかしらねえ。そんなに古くはないのかしらねえ。


(加筆
まったく分からんので、家に戻ってから伊豆市の方へ問い合わせしてみました。伊豆市さんからは大変丁寧で詳しいお返事を頂戴いたしました。

このお堂は「宝勝院」というお寺だったそうです。しかし、詳細は不明とのこと。また、幻庵の屋敷跡やその地の歴史についての内容も興味深いものでした。

私の方でももう少し勉強して、妄想を広げてからブログに書きたいと思っています。ありがとうございました。)


fuji 兄弟姉妹の晩年


Photo_2
~その、謎のお堂がある小高い場所から、下田街道や金龍院や旭滝の方角を眺めるの図。~


金龍院さんで、長松院さまが確かに生きた証のお位牌をお参りした後、境内から、遮る物なく眼下に広がる大平の景色を眺めました。

子供の頃の長松院さまはこの景色を眺めて暮らし駿河に嫁いでいったのだろうな。今川から戻ってきた晩年も、もしかしたら小田原の久野ではなく、この大平で余生を送ったかもしれないな。


また、金龍院の開基は天正11年とのこと。
黒田氏の本によると幻庵の発給文書は、家督を譲った天正11年頃に韮山から発給されたものが数通を最後にパッタリとなくなったそうです。

長松院さまだけではなく、幻庵も、晩年は久野を後継者(孫)に譲り伊豆で暮らしたのではないかと思いました。


早雲こと早雲庵宗瑞も韮山を本拠地としその生涯を終えました。中伊豆は私達北条ファンにとっては、やはり聖地ですねえ。


そういえば!
もう一人の宗瑞の息女、青松院さまーーっ。あなた様はいずこに・・


pen 名瀑「旭滝」

Img20161004_213503_2
~写真では全然表せないぐらい、大きくてビックリ。高~くて、神々しいほどキラキラキラキラ。天から落ちてくるみた~い。~


旭滝は、金龍院を下ってすぐのところにあります。136号から入って徒歩でもすぐです。ここには、かつて虚無僧の普化宗「瀧源寺 ろうげんじ」というお寺があったそうです。

虚無僧といえば、吉川栄治『鳴門秘帳』。田村正和サマ。


ぱおぉ~~~♪

どうも古い人間で。いや!時代はもっともっと昔のこと。そして、北条幻庵といえば尺八(一節切)。旭滝を見ることは、幻庵の菩提寺をお参りすることと同じくらい楽しみでした。


内田康夫の『喪われた道』という小説に、この旭滝と、普化宗や虚無僧、そして尺八の名曲「瀧落之曲」のことが書かれてあります(あと大久保長安のことも出てきますよん)。

訪ねた時が小説を読んだ直後だったので、もっと曰くありげな閉塞感のある滝だと勝手にイメージしていました。ところがギッチョン、明るくまぶしく、また、雨が続いていた後だったので水量も多く見事なものでした。つい、「おおぉ!coldsweats02 」と声が出てしもうただよ。


pen 県指定文化財の十一面観音

瀧源寺の御本尊だった十一面観音は、現在は金龍院にあります。平安時代の作とみられています。金龍院さんでは、そちらも拝ませていただけました。

高さは1mあるかないか。小振りなのに迫力がある観音様でした。函南といい、韮山の願成就院といい、伊豆半島には素晴らしい仏様がたくさんあるのですねえ。


早雲の息女だけでマリコ・ポーロは3部作になってしまう。氏直の息女までなんていつになるやら。いや、だいたいからして遠征費用が掛かり過ぎ、そこまで続くのだろうか。。。

では、こたびはここまでに。番外編その②へまだ続く。


北条幻庵の子息の菩提寺「三島 祐泉寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-200a.html
戦国武将が愛好した尺八 「一節切」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-8c55.html

後北条の始まりを告げた城 「韮山城」 シンポジウム
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-6735.html

北条氏政が謙信や信長にプレゼントした、韮山の江川酒
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-493e.html
後北条の女領主、伊豆の山木大方
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html

ついに分かった!北条氏照ご正室の最後と、氏綱正室の出自
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-f9c7.html
‘元祖 義’  伊勢新九郎の韮山へ
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-b243.html

早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-a414.html
前北条と後北条の 「伊豆 修禅寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-475a.html
「信仰の里~中伊豆かんなみ「仏の里美術館」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-0862.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2016年10月12日 (水)

北条の血をひく女人達①北条早雲の息女たち

【北条の血をひく女人達】 伊勢宗瑞 編~本編


040_2
~秋になるとコスモスが咲き乱れる石垣山(2011.11)。眼下に望むは相模の海と小田原の城。小田原で生まれ育ち、海が見えない土地に嫁いでいった姫たちは、さぞかし海が懐かしかったことでしょう。~


さて、当見聞録も8年目に突入いたしました。いつもご覧くださいまして誠にありがとうございます。


前回のブログ記事にも書きましたが、このところ、「北条の血をひく女人たち」が確かに生きていた証を辿って歩いております。実際に現地に立って感じた 姫君たちの残り香 を皆さまにお伝えできれば幸いです。

まずは初代当主の北条早雲こと伊勢宗瑞の娘たちから参りたいと存じまする。


wine 宗瑞(早雲)の娘たちと、息子の宗哲(幻庵)

宗瑞には、今のところ、娘が2人いたことがわかっています。ふたり共に母は側室の善修寺殿 で、幻庵とは同母の兄弟姉妹です。

伊豆修善寺にある幻庵の菩提寺「金龍院」の位牌によると、上から長松院、幻庵、そして下の妹の青松院の3人となるようです。(金龍院をお参りした時のことについては次回。)


北条家五代にわたる重鎮中の重鎮の長老幻庵は、二代当主である氏綱の腹違いの弟ですね。

氏綱の母は正室の南陽院殿。京の小笠原家の姫です。幻庵の母である善修寺殿(ぜんしゅうじ)の出自は、伊豆狩野氏だという説が現在では有力のようです。


狩野氏は伊豆のど真ん中、狩野川一帯を有する平安の昔から続く名族です。伊豆衆のリーダーともいえる存在で、宗瑞の伊豆支配に対しては最後まで抵抗しました。

ついに宗瑞に下ったあと娘を差し出す(差し出させられた?)ということは、あり得たことだと思います。また、幻庵の伊豆での屋敷は修善寺の大平あたりだったそうで、となると、お母さんの実家の土地を受け継いだということなのかもしれません。(大平を歩いた時のことも次のブログ記事で。)

それに、法名の「善修」は「修善寺」と似ているし・・・なんちて。


あっflair

善修寺殿の息子である幻庵の生まれは明応2年説が主流ですが、狩野氏が宗瑞に降りたのが明応5年ですから、もし善修寺殿が狩野氏だったら、幻庵が明応2年に生まれたということはないですな。もっと後です。


pen 幻庵の母と妻がテンコシャンコ

かつて「善修寺殿」はミセス幻庵だといわれていました。そして、幻庵ママは「栖徳寺殿」だとされていました。


どうやらそれは、「栖」が「善」よりかなり早くに亡くなったため、先に亡くなった「栖」がママで、「善」はミセスだと思われたからのようです。位牌や過去帳などからの研究で、今は逆。ミセス幻庵は「栖」、ママが「善」、ということだそうです。

史跡の説明板や小田原のHPはまだ以前のままですし、研究者の方達の昔の著作なども当然その当時の説で書かれていますから、そこらへんからの拡散が悩ましいところですねえ。


一緒にしては大変おこがましいですが、それは当ブログ記事も同じこと。気が付いた記事には加筆をしていますが、いちいち全部は出来ませんしねえ。


ちなみに、
ミセス幻庵「栖」は天年間没。幻庵ママ「善」は天正2年没 wobbly。さすが幻庵ママ、長生きですな。


Img20160912_203946_2
~小田原久野。広大な幻庵屋敷跡。その要害ぶりは、「久野城」と呼ばれていた。~


長生きといえば、やっと本題。話を宗瑞の娘たち(幻庵の姉妹)に戻し・・。これが驚いた。


wine ひとりめは、長女の長松院殿 (ちょうしょういん) さま

(夫) 今川の三浦氏員
(母) 善修寺殿(側室)
(同腹の弟) 北条幻庵 こと 宗哲


長松院は、今川の三浦氏へ嫁ぎます。

駿河三浦氏は今川家の重臣であり、今川の客分から御一家衆となった当時の宗瑞家と三浦の縁組は、今川当主の薦めもあったことかもしれませんね。


さて、その後何十年も経ち、北条の当主も何代も引き継がれ領域も益々広がった、その頃・・

この長松院の名前がまた表れます。


それは永禄12年。
そう、武田信玄の駿河侵攻の時です。

今川氏真一門は駿府を捨て掛川城に落ちます。その掛川城も家康に攻められ降伏。氏真らは妻の実家である北条に引き取られることとなります。


一行が蒲原城まで来た時、北条四代当主氏政は大伯父上の幻庵殿へ書状をつかわします(幻庵も srill 健在)。

「(承っていた)三浦しんぞうが、きのう蒲原に着きましたよ~」


「三浦しんぞう」とは、氏政の大伯母上であり、長老幻庵の姉上である、三浦に嫁いだあの長松院のことだそうです。

氏康の娘(氏政の妹)である早川殿は今川氏真の正室で、氏真と共に逃れてきていましたが、なんと長松院も一緒だったのですね!


ドびっくり~coldsweats02
まだ生きてたんですねえ・・・(失礼だ)

長生きですねえ。さすが幻庵の姉。さすが善修寺の娘。


考えてみると、長松院さまは、花蔵の乱も、河東一乱も、三国同盟も、義元殿の最後も、武田殿の駿河侵攻も、まさに今川でナマで見た方なんですねえ。

寿桂尼さまとは同年代。気に入られていたのかな~。う~ん。お会いしてお話しが聞きたいものです。


長松院が高橋某に再婚したという話もありますが、このように晩年まで「三浦しんぞう」と呼ばれていましたので、再婚説はないでしょう。あ、いや!80近くなって再婚!?まさかね。

ということで、三浦家の御新造さん長松院は、弟の幻庵の庇護の元で晩年を過ごしたようです。


子供達はどうしたのでしょう。子供と言ってもかなりの年齢ですが、氏直に仕えたとも何かで読みました。その後はどうしたのでしょう。徳川に仕えたのかな・・。

(加筆
さっき読んでいた黒田基樹氏の本の今川氏真のところに、幻庵が氏真の家臣三浦義次に所領を与えた文書のことが書かれていました。

この三浦さんが長松院の家族かどうかは分かりませんが、幻庵は親を亡くした若い一族や、他家から戻ってきたり避難してきた者たちの庇護をすることが多いですし、また、かつては今川との取次でしたから、その繋がりで、家臣達を召し抱えたりしたのでしょう。)


今川から戻った長松院が暮らしたのは、小田原久野の幻庵屋敷のあたりなのか、それとも幻庵の領地であり菩提寺のある修善寺大平あたりだったのか・・・それは、分かりません。

009_2
~長松院さまもお参りしたであろう修禅寺(地名は修寺、お寺は修寺)~


tv 余談

三浦氏にも色々な流れがあるようで、この三浦さん一族かどうかは分かりませんが、大河「武田信玄」の再放送を観ていたら、義元が亡くなった後のシーンに三浦さんは庵原さんと一緒に出ていました(何度か観ていますが今まで気にとめなかった)。


wine もう一人の宗瑞の息女、青松院 (せいしょういん?) さま

(母) 善修寺殿
(同腹の弟) 北条幻庵 こと 宗哲
(同腹の姉) 長松院殿


残念。
法名以外はまったく分かりません。早くに亡くなったのかしら・・。


Img20160912_204057
~小田原の幻庵屋敷跡に残る池(のごく一部?)。残っている土塁が分かり易い。~


horse 宗瑞の子供たち

こうして書き連ねながらつらつら考えていたら、嫡男(氏綱)こそ伊豆衆の堀江北条の娘をもらいましたが、次男(氏広)は葛山へ。長女も今川の三浦へ。末っ子の幻庵宗哲の嫁は葛山から(たぶん→次々回の「京福寺での葛山妄想」をご覧くださいまし)もらっていますな。

いいのか今川系ばかりで?とも思ってしまいますが、まずは地固め。勢力拡大のための大物他家との華麗な縁組は、次代の氏綱からとなります。


幻庵殿のことについても7年間たくさん書かせていただきましたが、幻庵の最新のブログ記事と、今川時代の駿府を訪ねた時のことにてござります。

北条幻庵の子息の菩提寺「三島 祐泉寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-200a.html

早雲の姉と北条氏規の「駿府」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a23.html
駿府 「臨済寺」の特別公開
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-2e50.html
今川時代の駿府 「吐月峰 柴屋寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-7dec.html

太田資高 室~二人の浄心院▲北条氏綱の息女たち
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と頼康の代替わり▲北条氏綱の息女たち
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html


horse あとがき三つ鱗

▲ 今回 参考にさせていただいたのは主に、
黒田基樹氏、下山治久氏、湯山学氏のご著作。三島祐泉寺さんHP、関連各地の町史、資料館・博物館発行資料、関連神社仏閣のご縁起・ご由緒などです。


▲ 北条当主の息女たちについてあらためて書く理由2つscissors

‐ 北条関係の資料館や博物館やお祭りなどに表れるのは、「北条の女人たち」とはいえ、それは「北条に嫁いできた他家の」女人たちであって、「北条の血をひく」女人はほとんど出てこないことが残念だったから。

‐ 「北条が大河にならないのはヒロインがいないからだ」とよく言われますが、北条にはドラマチックで波乱万丈な人生を送り、その任務を果たそうとした女人が多いことを知ってほしかったから。


▲ 女人たち妄想するにあたって、以下の3つを念頭に置きたいと思っておりまする。
1) 現代に繋がる家伝には立ち入らない。触れない。
2) 各地に伝わる姫伝説は書かない。←元々あまり興味がにゃい。
3) 神社仏閣のご由緒ご縁起や史跡説明板などは、昨今の研究に基づく変更がなされていないものが多いので、参考にとどめる。


では、こたびはここまでに。
次回へ続く・・・


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2016年4月14日 (木)

麗しき、武田の「松姫さま御坐像」

九州の皆さまのご無事をお祈りするとともに、これ以上の被害がないことを願います。


Img20160412_190001_2
~松姫をおむかえする心源院~

先にもお知らせさせていただきましたが、こたび武田の松姫さまの四百回忌にあたり、八王子「信松院」におわす松姫さま御坐像が、姫が剃髪、修行した心源院に初めて遷座されました。


申すまでもなく!

今年の大河ドラマの脚本家の方の数年前の映画「清州会議」での松姫さまは、まったく違う人物に描かれています。


松姫さまは織田信忠に嫁いではいませんし、もちろん三法師の母でもありません。

武田家再興を目論んだかどうか・・・それは私には分かりませんがbleah、松姫は信玄公が亡きあと→兄の高遠城に移り→高遠城がその信忠に攻められたため→国境を越え八王子に逃れ→北条が滅びてしまい→八王子で尼となり→大久保殿や徳川殿に庇護され→八王子の地場産業の発展に貢献し→八王子でその57年の生涯を終えました。

(以前のブログ記事ですが、よろしくば文末にリンクいたしましたのでご覧くだされば嬉しいです。)


Img20160412_185948
~9日、金色のお輿にお乗りになって信松院→宗関寺→心源院 とご遷座された信松尼松姫様。~


奇しくも御父上の武田信玄公ご命日にあたる日、桜吹雪舞う高尾の街道を姫にお会いするために心源院へ向かいました。

推定樹齢300年ともいわれる心源院の枝垂桜はほぼ終わりに近く、こちらも桜吹雪ひらひらひらひらcherryblossom。姫の御坐像から繋がる五色の紐が境内を彩り、心源院はいつもより華やいだ雰囲気でした。


本堂に上がると・・ ・

あっ!いらっしゃった。御本尊の御前に、金地に青く描かれた武田菱を背中に、歴代住職の法名が書かれた五色の垂布に囲まれた松姫さまが!


Img20160412_154108_4
~うぅ。写真で伝わるでしょうか?実際に拝見すると遥かに素敵です。~

美し~。菩薩のようだ。
木造に彩色が施されているのですねえ。


「どうぞ、どうぞ、お線香を差し上げてください」と御住職。しみじみと手を合わせ、お見上げ申した時、何故だか分かりませんが涙が出そうになりました。

御坐像は、姫の没後百年ほど経ってから作られたものだそうで、つまり生前の姫を知っている人は誰もいない頃のことです。伝え聞いてきた面影に、理想をちょっとトッピングしたのでしょうねえ。


松姫さまが「姫」と呼ばれたのは、この心源院が最後なんですよね。だから、今回の四百回忌の御朱印は、心源院さんが「松姫」。信松院さんは「信松尼」なのだそうです。

おお、そうか!それは両方欲しいのう・・。しかし、信松院へ戻られる16日は仕事ゆえ信松院へは参れぬのじゃ。残念。

Img20160412_203444


ご住職と少しお話しさせていただきました。その中で出た話ですが、ご住職がおっしゃるには、卜山禅師は大変きびしい方だったので、いくら元武田の姫とはいえ特別扱いはしなかったと思う、と。

そしてここからが、いいです。
「そういう厳しい方だからこそ、あの北条氏照が師として崇めたのでしょう」

素敵~~shineshine


ご住職のお話しの端々から、卜山禅師がいかに立派な方だったのがうかがえました。

そういえば・・・
卜山禅師のことは、北条氏照の師であり、氏康に大戒を授け、正親町天皇より褒賞を2度も与えられ、八王子楢原の生まれで身の丈7尺(2mcoldsweats02)。晩年(氏照亡き後?)は髪も髭も剃らず、実に120才まで生きたwobblyということ以外ほとんど知らないことに気が付きました。


ふと横を見ると、卜山禅師四百回忌(2013年)に記念出版された『卜山』という本が。とても興味が湧いたので早速読んでみることにしました。

その内容については、またいずれ必ず。


Img20160412_154431_2

心源院は八王子城の搦手の麓にあります。お参りのあとは、お寺の土塁に上がってみました。

八王子の山々を見晴かしながら、峠を越えて逃れてきた松姫さまに思いを馳せていると、何故だかまた涙が出そうになったのでした。


wine 今後の、松姫さまのスケジュール

・15日(金)まで心源院にてご開帳
10:00~15:00

・4月16日(土)
10:30 心源院お発ち

12:00~ 松姫様大行列
(八幡町交差点より稚児行列で出発)

13:00~ 産千代稲荷神社にてご休憩
大久保長安殿ご参拝

14:00~ 信松院ご到着
大法要


「武田の松姫さま坐像が御開帳されるそうです」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-14be.html
「武田遺臣のマドンナ 松姫さま」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-fab5.html
「恵林寺で見た、松姫さまの手紙」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-d207.html
「檜原の残影、横地監物と武田の松姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-f195.html
「アフター北条氏照の大久保長安についての妄想」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-6cc6.html

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2016年2月 4日 (木)

「歴史秘話ヒストリア」 武田勝頼の正室のこと

今週の「歴史秘話ヒストリア」では、武田勝頼の正室、北条夫人 桂林院様 のことが大きく取り上げられていました。

先日の「真田丸の場所」についても、まだ堀ってもいないのに編集で断定されてしまって、疑問がかなり出ていますが、今週も例によって例の如く、「ヒストリア」はまたやってくださいましたな。


私の歴史仲間では「ヒストリア」を信じている方はほとんどいません。歴史師匠方はとうに観ることを放棄してらっしゃいますし、出演された諸先生方では編集で違うようにされてしまった、自分はそんな意味のことは言ってないと嘆く方々もいらっしゃいます。

まあ、所詮は軍記物目線の「ヒストリア」。とはいえ、私のような素人歴史ファンは時々つい観てしまう「ヒストリア」。観て、そして、ある程度知っていることについては毎度「監修したのは誰よ!」と文句を言い、よく知らないことについては「他がああなんだから、ダメダメ。これも全部信じちゃ。」と警戒しながらもつい信じてしまって師匠方に話し、「何言ってんだよ~。ちゃうちゃうpaper」と笑われることになるのです。


そんなこんなで、こたび何に対してこんなにケンケン嫌味を書き連ねているかと申すと。

それは、上杉謙信死後の、謙信の甥・景勝と謙信の養子・北条の景虎の家督争い(今は、家督争いということにも異説あり)の時のこと。

Photo
~越後、御館(おたて)。謙信くんも、後継者には、敵(北条)からの養子と、自分が父親の仇となる甥っ子しかいなかったとは…。~


番組では、なんの前後の脈絡もなく、いきなり、
「北条は一方的 に(武田との)同盟を破棄し・・・」
と言っていました。


『北条氏康の子供たち』の本の紹介のところでも書きましたが、かつて私は、信玄亡きあとの武田の財政難につけ込んだ直江兼続が勝頼を買収(領土割譲)。勝頼も家のために上杉に寝返り、そして、景虎(桂林院様の兄弟)方が一気に不利になったと聞いてきました。

ところがこの本を読んで、私の認識はそれこそ「ヒストリア的」であって、状況はそんな単純なことではなかったと知りました。


そこで慌てて、途中までしか読んでいなかった『上杉景虎 2011.2』(今福匡著)を本棚から引っ張り出して読んだところ、こちらにもこの「御館の乱」前後の勝頼、上杉、北条の動きがかなりページを割いて書かれていました。

昔のブログ記事には勝頼様を非難したようなことを書いてしまっているかも・・。ごめんなちゃい。sweat01


つまり勝頼は、上杉方から景虎との和睦の仲介を依頼され、一度はそれを成したものの和睦はすぐに崩れ、北条氏政は「腹立つぅ~の ハラタツノリ」になり、武田と北条は 正式に 同盟を破棄したのです。

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~景虎さんが自刃した鮫ヶ尾城~


果たして、
上杉の武田への領土割譲が買収なのかそうでないのか。上杉の「和睦」がどのような意味なのか。勝頼の仲介と中立がどこまで両者のことを考えてあげたものなのか。北条氏政が上杉との和睦なんて全然求めていなくて、好戦嗜好により拍車がかかっちゃったのか。その辺の本当の真実は分かりません。


娯楽番組ですし、歴史に興味を持ってもらおうと食いつきの良さそうなネタをたくさん出そうと努力してらっしゃるのでしょうが、それにしても、「御館の乱」にまったく触れもせで、「一方的に同盟を北条が破棄した」とまとめてしまう番組のなんと雑なことよ。

なんだか、これまでの大河といい、もしかしたらこの放送局には、あくまでも北条氏政を悪者にしておきたい誰かがいるのではないかと勘ぐってしまいますわ。


もうひとつwine

先日も当ブログで書きましたが、桂林院様のあの願文は、以前より桂林院様が書いたのではなく、後に描かれたものではないか?と言われてもいます。なぜなら願文には、願文が奉納されてから後に起こった木曽のことに触れられているからです。

昨日の「ヒストリア」で桂林院様の一途さにキュンheart01となったオジサマ方、ごめんなちゃい。


また、番組では桂林院様が実家の北条を見限ったようにされていましたね。これは、分かりません。どうだったのだろうねえ。

「実家を見限った」というより、「実家より勝頼様を取った」ということではないかな。今の14才とはまったく違うとはいえ、14才で32才の勝頼様に嫁いだ。たぶん14才の深窓のお姫様にとって勝頼様はとても優しくて、大人で、頼りがいがあって・・・。ね、大人の皆さまには分かりますよね。


「続・武田勝頼の正室、桂林院さま」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-7141.html
「武田勝頼に嫁いだ北条の姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-c799.html
「歴史秘話ヒストリア」 武田信玄の姫たち
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-50fa.html

萩真尼

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2016年1月12日 (火)

続・武田勝頼の正室、桂林院さま

前回のブログ記事に、今回の大河ドラマ「真田丸」に、勝頼の正室であり、自らの意志で悲愴な旅に付き従い共に果てた桂林院さまが出なかったことを書きました。


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~♪甲斐の山々 照り映えて~


桂林院様は、我らが北条氏政や氏照たちの女兄弟。つまり北条氏康の子供たちの一人です。一族の子女は男女問わず、広く適材適所に配置装備し有効活用する小田原北条。まだ10代前半だった桂林院さまもそのならいにもれず、勢力が衰えてきた武田との申し合わせにより勝頼の継室として嫁ぎます。

享年19才。勝頼様の最後を切なく彩った桂林院さまが大河ドラマに出演しないのは残念ですが、でも、まだ分からないですよね~。勝頼様の最後は来週ですもんね~。


diamond勝頼が田野に着くと、

侍女たち
「御館様、御前様は一足お先に…」
よよよcrying

で、勝頼
「なんと…先に逝かせてしまうとは…。
黄泉への旅路を一人で行かせてはならじ。皆のもの、もはやこれまでじゃ。」


勝頼あい果てるそのシーンに流れるは、北条夫人が武田八幡宮に奉じたあの願文のフレーズ。


敬って申す
そもそも勝頼はどうして悪心などできましょうか。その思いの炎は天までのぼり、神意はなお深いはずです。私もここでともに哀しんでおります。涙はまた欄干を流れ落ちるかのようです。(『北条氏康の子供たち』丸島和洋氏の要約より一部抜粋)

ううぅ、泣ける~ぅ weep (一人妄想状態)


な~んて展開にはならないでしょうが、この願文は内容の時系列が合わないため、どうやら後の世に作られたものだとも言われています。もしかしたら、その時系列が合わない木曽のところだけ元の願文に付け加えて再奉納されていたりして。

もし創作だとしたら、誰がどのような意志でそうしたのかチョット興味がありますねえ。

しかし、当ブログにたびたび登場してくださる勝頼様ラブの歴友サユリンがおっさったように、たとえ創作だったとしても、桂林院さまの精神は確かにそこにあるのだと私も思います。


そうそう、
『北条氏康の子供たち』にありましたが、謙信くんの跡目争いの時、勝頼様は上杉と北条の和睦のために越後へ向かったのですってね。

私は、勢力が衰え資金繰りが苦しくなっていた武田家のため、勝頼が景勝&兼続に買収(という言い方でいいのかな)されて北条との盟約を破り上杉に協力したのだとばかり思っていました。そう言われていましたよねえ?

じゃが、しかし、氏政さん達北条方が和睦はしたくなかったため、ああいう次第になってしまったということらしいです。それを読んで、勝頼様の認識が新たになったところでの、こたびのこの大河第一回目でした。


そういえば、
「清州会議」でも、信玄殿の娘の松姫さまが変わった設定にされていましたね。実際は、松姫さまは信忠に嫁いではいませんし、もちろん三法師の母でもありません。八王子に逃れてきて、そこで終生暮らしました(以下に以前のブログ添付)。

「真田丸」の最後に桂林院さまが出ないのは残念だと上に書きましたが、今、松姫さまのことを書いていて、武田遺臣と現代の八王子衆のマドンナで、静謐なイメージの松姫さまもあのようにされてしまうのなら、こたび、やっぱり桂林院さまは出なくて良かったかも・・とも思ったりもします。


ドラマだから史実通りでなくてもいいのだけれど、これはまあ、北条ファンである私の ひ・が・み ですな。ここのところこればっかりで、しつこくてゴメンナチャイね。

桂林院さまがまつられている景徳院に行きたいとかねがね思っているのですが、まだ行けておりません。是非ぜひ、なるべく早いうちに行きたいと考えています。


「武田勝頼に嫁いだ北条の姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-c799.html
恵林寺で見た、武田の松姫さまの手紙」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-d207.html
「武田遺臣のマドンナ、松姫さま」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-fab5.html
「檜原の残影~横地監物と武田の松姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-f195.html
「歴史秘話ヒストリア、武田信玄の姫たち」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-50fa.html
『北条氏康の子供たち』 北条氏康生誕五百年記念
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/xmas-abad.html

萩真尼


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