2017年10月28日 (土)

「吉祥寺」 古河公方室、太田道灌、遠山氏ゆかりの名刹

by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち⑤
【二代・北条氏綱の息女たち、足利晴氏室 ~ 続編】


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~現在は本駒込にある「吉祥寺」~


前回に続けまして北条氏綱の娘、四代古河公方足利晴氏室の芳春院のことです。


horse まずは、関宿に残る晴氏のお墓の妄想の続き

前回のブログ記事で、関宿に残る、四代古河公方足利晴氏のお墓と伝わる「謎の石塔」の、晴氏の法名が刻まれた墓石はなんなのだろうと色々妄想いたしました。

その後もう少し資料(史料ではなく資料sweat01)を読んでみました。


芳春院&はるる(晴氏)の息子である五代古河公方ヨッシー(義氏) は、父母が死去した永禄3-4年頃、野田と共に関宿に籠城していたのですね。

永禄4年7月に芳春院が亡くなった時、芳春院の兄北条氏康が、籠城中の野田さんへ弔意を表す書状を出しているのです。ということは、芳春院は息子と共に関宿にいて、そこで没した可能性があります


芳春院がその時に、前年亡くなった夫のお墓(供養塔)を関宿に建てたということも考えられます → 翌年に芳春院が亡くなると、息子のヨッシーが母芳春院 のお墓を父はるる のお墓に並べて建て → 時が過ぎ二つのお墓(供養塔)は崩れ、散らばり → その後村人たちが一人分のお墓だと思って積み上げた…
なんて?

公方義氏が梁田と和睦して関宿を出たのは、芳春院がこの世を去った7月。たぶん、母上の弔いを済ませてからのことなのでしょう。


horse 芳春院殿さまの、江戸の位牌寺だった 「吉祥寺」

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~かつて、駒沢大学の前身である栴檀林という学問所だったことに由来する御干菓子「栴檀」。黒糖の味が美味しい。~


小田原北条の重鎮中の重鎮、遠山綱景の法名は「吉祥寺殿」なのですってね。知りませんでした。


お寺の「吉祥寺」は、太田道灌の開基。中興開基が遠山綱景。そして、芳春院の江戸での位牌寺でもあります。江戸城代であった遠山さんが、長年に渡り古河公方家の取次だったことから、遠山中興開基の吉祥寺が芳春院の位牌寺になったようです。

長~い素敵な参道の両側が檀家さん方の墓所で、榎本武揚のお墓や、小田原出身の二宮尊徳の大きな供養碑もありました。


遠山綱景の法名が吉祥寺殿ということは、吉祥寺は綱景の菩提寺なのでしょうか?墓所をウロウロしましたが、とても広くて遠山家のお墓は分かりませんでした。そもそも、遠山家のお墓はこちらにあるのでしょうか?

いや、「吉祥寺」という寺名は、 太田道灌が「吉祥」の印を発見したことに因んで付けられたのでした。だから綱景の法名「吉祥寺殿」は偶然たまたま同じなだけで、菩提寺ではないかもしれません。ただ、吉祥寺の中興開基は綱景なのでまったく無関連とも思われません。

綱景は太田道灌に敬意を表し、お寺の名前を取って自らの法名を「吉祥寺殿」としたのでしょうか?

遠山綱景は、永禄7年の国府台で戦死しました。


(皆様ご存知のように、お寺の「吉祥寺」も当初は江戸城内にありましたが、現在は本駒込に移転しています。)


horse 北条綱成の娘の菩提寺「祥雲寺」

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~屋根も境内も仏具も三鱗だらけ。~


吉祥寺をお参りしたあと、遠山家や江戸太田家ゆかりの気になるお寺があったことを思い出し行ってみました~train


上に書いた遠山綱景の息子、遠山隼人佑景久に嫁いだ北条綱成の娘浄光院殿の菩提寺「瑞宝山 祥雲寺」です。広尾にある、江戸時代 の狭山北条家の菩提寺も「祥雲寺」ですが、偶然同じ名前のようです。

永禄7年、祥雲寺は遠山家によって、吉祥寺と同じく江戸城内に開基されました。永禄7年とは、国府台で綱景や景久が戦死した年です。「瑞鳳山」とは、景久の法名からとっています。また、浄光院さまは、夫に先立ち永禄3年に亡くなっています。


ご本尊の薬師如来は天正17年に建立されたことが、胎内に書き残されています。天正17年…もう臨戦体制の頃ですが、遠山家の誰かが病気だったりしたのですかねえ…。

こちらも大きなお寺です。薬師如来は小ぶりですが、同じく小さいけれど荘厳なお厨子の中で、深い光を放っていました。ちょっとゾクッと した。


祥雲寺はその後、江戸に徳川が入ったり火災があったりして、現在の池袋に移転したようです。

お寺の紋は遠山家の紋ではなく、浄光院様の実家の三鱗なのですね。そういうものなのですか?本堂も▲仏具も▲境内も▲三鱗だらけでした。


芳春院の足跡を辿って、古河公方の取次だった遠山さんに行き当ったのですが、遠山家がいかに江戸で勢力を持っていたのかを実感するお寺巡りでした。


horse 「狩野元信」展で北条氏綱!(~11月5日まで)

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~サントリー美術館のミュージアムショップで買った『酒伝童子絵巻』のカード~


芳春院さまとも遠山さんとも全然関係ありませんが、サントリー美術館で開催中の「狩野元信」展を観に行きました。

目当てはもちろん、我らが北条氏綱が企画・発注した『酒伝童子絵巻』です。大永二年作。詞書は、近衛尚道(北条氏綱後室の父)・定法寺公助・青蓮院尊鎮。


展示には氏綱が発注したことだけは書いてありましたが、その後、この絵巻は代々の北条当主が保持し、小田原が滅びた後は五代氏直の室であった家康の娘の督姫が池田家へ再婚する時に持参しました。

あら~~coldsweats01


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年10月20日 (金)

北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔

by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち
【二代・北条氏綱の息女たち、足利晴氏室】


Photo
~伝・四代古河公方 足利晴氏の墓~


関宿城(跡)から馬で、いや、車で5分ぐらいのところに「宗英寺」というお寺があります。慶長年間に、家康の弟である初代関宿城主松平康元により建立された由緒あるお寺で、康元のお墓もあります。


宗英寺に四代古河公方、足利はるる こと足利晴氏のお墓と伝わっている五輪塔があると聞き、一度拝んでみたいと思っていました。以前、逆井城などを周った時に関宿城博物館までは行ったのですが、当時は足利公方に興味がなかったので素通りしてしまいました。

立派な山門をくぐり、説明板をじっくりと読んだあとは、スタスタスタスタと墓所へ。墓所をグルグルしましたが…ありませんのう、はるるのお墓。お寺の方に伺いましたら、「晴氏のお墓と伝わっているもの」は、山門を入ってすぐのところにあると。墓所にあるとばかり思って脇目もふらずに歩いておりましたよ。


戻ってみると…

どひゃーー coldsweats02 思わず後ずさり。

凄い石塔がそこにありました。写真では伝わらないかもしれませんが、石塔はトーテムポールのように高いです。優に2m位はあるのではないでしょうか。後ずさりしないと、全容が見られません(ちとオーバー?)。五輪塔と呼ばれているようですが、五輪塔ではないのですてね。なんと申したらいいのか…石塔、です。


石塔は、崩れていた(崩れそうだった?)のを、お団子のように重ね合わせて接着されています。特に「晴氏墓」などの表示はなく、忽然と現われたようにそこに建っています。


この石塔がなにゆえ、はるる(晴氏)のお墓だと伝わっているのでしょうか。

それは、塔の、上から6個目の四角い石に、はるるの法名である「永僊(仙)院殿」と刻まれているのが読めるからです。

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~文字はけっこうハッキリしている?この部分は宝篋印塔とのこと教えていただく(2017.10.29)。~


▲ 天文7年。
古河公方足利晴氏と、伯父である小弓公方足利義明が松戸台あたりで合戦に及んだ。北条氏綱・氏康父子は、自身の軍隊を持たない公方晴氏の名代として参戦。一方、義明を擁立したのは安房の里見氏。

第一次国府台の戦いである。▲


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~里見勢らに見限られ(?)た小弓公方足利義明が、単騎北条軍に突入し討死した相模台城跡(松戸駅前聖徳大学内)。~


wine 芳春院殿

合戦に勝利した北条氏綱が晴氏の後室として嫁がせたのが、娘の芳春院殿です。

大河ドラマにからめて、氏康の娘の早川殿(今川氏真室)を先に書いてしまいましたが、再び氏綱の娘に戻ります。


芳春院は、その容色を楊貴妃にも例えられ、公方に嫁いでからは、実家と公方家の間を取り持つ重要ミッションを担い、鎌倉での息子義氏の公方就任式典では共にパレードに連なり、「日本王天下光」の朱印を使い、実家の全面バックアップを受け当時の東日本の女人では最高の権勢を誇りました。

小田原を出てから、葛西・古河・栗橋・関宿などなど子息の義氏と共に居城を移し(たぶん)、夫君の はるる とはほとんど別居生活だったとは思いますが(たぶん)、華やかで、頭も良く、女王のような威厳を感じさせる、そして勝気な女性だったのでしょうねえ(北条の女性は皆強い wobbly)。


芳春院については、以前、古河などで妄想を広げたブログ記事をたくさん書きました。一部を文末へ添付いたしましたので、あわせてご覧くださると嬉しいです。


horse 古河公方 足利晴氏

いつも書いていて恐縮ですが、古河(鎌倉)公方の名前を覚えるためにニックネームを付けて呼んでいます。初代シゲッチ(成氏)→二代マー君(政氏)→三代タカピー(高基)→四代はるる(晴氏)→五代よっしー(義氏)…。それでも、マー君とタカピーが時々テンコシャンコになるsweat01


四代はるる は、北条氏綱から娘を送り込まれ、先妻との子は廃嫡とされ、いったんは北条と和解しましたが、廃嫡された息子藤氏と共に北条に叛旗を翻したものの敗北。波多野(秦野)に幽閉され、その後野田にお預けとなり、そこで亡くなりました(野田家文書・鑁阿寺文書)。


古河には、はるるの法名の「永仙院」というお寺があります。今は廃寺となっているので正確にはお寺が「ありました」ですが、永仙院は、それ以前は「乾享院」という、シゲッチ開基のお寺でした。「乾享院」とはシゲッチの法名です。その後、はるるの菩提寺となり、法名である「永仙院」となったそうです。

(ん?ということは…永仙院=乾享院にシゲッチのお墓はあったのでしょうか?現シゲッチのお墓は後に造られた供養墓です。)


永仙院跡には墓地が残っています。しかし、そこに、はるるのお墓とされているものは見つけられませんでした。あるはずですよねえ。廃寺になってしまっているので、もう分からないのでしょうかねえ。

同じく古河の「一向寺」というお寺が、永仙院の遺宝を引き継いでいるそうなので、一向寺さんに行ったら何か分かったのでしょうか。古河に行った時は、時間がなくて寄れませんでした。


horse 謎の石塔

さて、話を関宿宗英寺の「石塔」に戻します。

野田で亡くなった はるる のお墓(法名が刻まれた石)がなぜ関宿にあるのでしょうか?


お寺の方、関宿城博物館の学芸員さん、「道灌びいき」の会員である古河の郷土史会の方々に伺いましたが、本当に分からないそうです。元々畑の中にあったものをここにおさめたと聞いているとのこと。

関宿城博物館の展望室から悠々と流れる利根川や江戸川を眺め、古河の方向を見つめながらながら妄想してみました。


▲ 元々は野田の栗橋城の近くにあったが、その後栗橋城に入った我らが北条氏照どのが配下の者に「撤去せい」と命じ、そこに一緒にあった他のお墓などと一緒に配下の者が少し離れた関宿の畑の中へ、テイッ!と捨てた。

または、栗橋が北条に従属したのちも墓はそこにあったが、天正18年、北条が滅びたあとに入った小笠原さんちの誰かが、そのあたりにあったお墓類の使えそうな石だけ残し、不必要な石を少し離れた関宿の畑の中へ、テイッ!と捨てた。

そして…

▲ その後に関宿に入った松平さんが、畑の中に散乱している墓石の中に「永仙院」と刻まれたものを見つけ、「あまりに哀れじゃ…」と、配下の者に命じ整えさせた。が、配下の者は積み重ね方をよく知らず、そのへんの石を適当に積んだ。


な~んてね。
実のところはお墓は古河や久喜にあったのでしょうが、野田さんか誰かが、こちらに供養塔として築いたのかもしれませんね。もしくは、もう少し後に梁田さんが建てた供養塔かもしれないですねえ。

時が流れそれらは放置され、崩れ散乱していたのを土地の人達が積み上げ、それを松平さんかお寺の人が寺内におさめた…というところだと思います。


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~丸に二つ引きの家紋が端然とそびえる久喜にある臨済宗「甘棠院(かんとういん)」。晴氏の祖父、足利政氏の屋敷・菩提寺である。~


永禄3年、はるるは激動の人生を終え、葬儀は久喜「甘棠院」にて営まれました。芳春院はこの時に落髪します(喜連川判鑑)。

北条にその立場を追われ敵対していた夫君とはほとんど一緒にいなかったと思われる芳春院ですが、晴氏死去の翌年この世を去りました。まだ40代前半だったと思います。栄華を極めた方にしては、まだお若いですねえ。


晴氏と芳春院がこの世を去り、芳春院の息子義氏が公方になると、足利公方と北条の関係はあらたな時代を迎えることとなります。義氏には氏康の娘が嫁ぎますので、古河公方のことはその時にまた。


pen 謎の石塔について加筆。

もう少し資料を読んでみましたら、芳春院の息子の公方ヨッシーは、父母が死去した永禄3-4年あたり、野田と共に関宿に籠城していました。

永禄4年7月に芳春院が亡くなった時、芳春院の兄北条氏康が籠城中の野田さんへ弔意を表した書状を出しています。ということは、芳春院は息子と共に関宿にいて、そこで没した可能性もありますよね。


もしかしたら、芳春院が、前年亡くなった夫のお墓(供養塔)をその時そこに建てたということも考えられますよねえ。そして翌年、息子の公方ヨッシーが母 芳春院のお墓を父はるる のお墓に並べて建てたとか…。

ヨッシーが梁田と和睦して関宿を出たのは、7月。たぶん、母上の弔いを済ませてからのことなのでしょう。


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~甘棠院の周りを取り巻く堀と土塁。本堂へは近づけない。~


cherryblossom  芳春院を書いた記事の一部です
「古河公方の古河を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-de53.html
「後編」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-8375.html
「後北条一族の陰謀、公方の御座所「葛西城」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-fdbc.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html


wine 今までの北条五代の娘たちの記事です(それぞれ続編・番外編などあり)

・初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html

・二代 北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html

・三代 北条氏康の息女
「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年9月30日 (土)

今川氏真夫妻らの、当初の菩提寺 「萬昌院」

シリーズ 北条五代の娘たち
【三代・北条氏康の娘たち~番外編】


Photo
~萬昌院功雲寺。戦後(昭和の)、萬昌院と功雲寺が一緒になった。~


中野(落合)に 萬昌院 という大きなお寺があります。先にも書きました杉並(上井草)にある「観泉寺」に移る前の、今川氏真夫妻や兄弟らの当初の墓所です。

氏真の孫の代に「観泉寺」が今川家の菩提寺とされ、氏真らのお墓もそちらへまとめられたそうです。観泉寺へは分骨なのか全て移したのかは存じませんが、萬昌院のお墓はそのまま残されています。


早河殿のお墓は「無縫塔」と呼ばれる卵型のものでした。お坊さんのお墓にされるタイプです。

観泉寺に移されると、もう宝篋印塔になります。


萬昌院の開基は今川氏真の弟、一月長得(いちげつちょうとく)。開山当時はもっと江戸城近くにありましたが、例によって、火事や諸々の事情で大正の頃に今の場所に移ったそうです。

一月長得のお墓ももちろんここにありました。


萬昌院さんは非常に警備の厳しい御寺で、山門には警備員さんが立っています。お寺の中に入る時には記帳をしてリボンをもらいます。

写真は、墓所、境内、山門さえもNG。門柱だけ許可を取って撮りました(ジーーっeye と、カメラの角度を監視されながら)。


こちらの墓所も歴史上の有名な人物のお墓が多く、吉良上野介殿のお墓もありました。立派でした~。

上野介殿が松の廊下で内匠頭に切られた時には傷の手当てをし、赤穂浪士たちに討ち捕られた時には、首と胴の縫合をしたという御典医栗崎道有のお墓もありました。同じお寺なのだね。


このところ、都心のお墓を色々と廻っております。足利はるる(晴氏)に嫁いだ、氏綱のむすめの足跡を辿っていたらアチコチ気になるお寺が出てきてしまったのです。

都心でも大きなお寺はたくさんあるのですねえ。ちょっと驚きました。それらのお寺のことも追々書いていきたいと思います。


「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原の久翁寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html

「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2017年8月11日 (金)

北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻

wine 浄福寺の件でコメントくださった方、お返事差し上げましたがアドレスが違うということで未達となりました。コメントありがとうございました。
from マリコ・ポーロ


シリーズ 北条五代の娘たち
【三代・北条氏康の娘たち】

Photo
~今川氏真・早川殿夫妻の終いの棲家跡を、向いのスーパーから俯瞰した。現在の東京都品川区の大井町駅あたり。今はなんの遺構も碑もない。~


先年からヨロヨロと追い続けている【北条五代の娘たち】。早雲こと伊勢宗瑞の娘達に始まり、ただ今、二代氏綱の娘達の途中ではありますが、ちょっと順番を割り込んで、大河で旬の今川氏真室 早川殿 のことを思ってみました。


wine 早川(早河)殿
パパ: 北条三代当主氏康
ママ: 瑞渓院(父・今川氏親/母・寿桂尼/兄弟・今川氏輝、彦五郎、義元)

兄弟: 氏政、氏照、氏邦、氏規、上杉景虎
姉妹: 七曲殿(綱繁室)、千葉親胤室、長林院(岩付太田室)、浄光院殿(足利公方室)、桂林院殿(武田勝頼室)

などなどの他に、イトコやなにやらで父氏康の養子女となった義理の兄弟姉妹まで入れると、ウジャウジャウジャウジャ。早川殿は、それらの長姉と考えられています。


北条の女人たちは、嫁ぎ先が滅びたり同盟が崩れたりしてもすぐに実家に戻らない方が多いですね。帰れと言われてもガンとして戻らなかったり、遠国へ渡ったり、夫君と共に命を絶ったりする女人が幾人か浮かびます。前にも書いたかもしれませんが、それは何故だろうと考えることがあります。

相手への情愛が深い情熱型の女人が多かったのか。はたまた、細かくて窮屈な北条(そうなのか?coldsweats01)に比べると、嫁ぎ先は居心地の良いところだったのか。それとも、北条には戻り難い雰囲気があったのか…いや、幻庵大伯父が引き取り後は後見となって面倒をみてくれるので、それはなかったと思いたいですよね。


北条家には、その幻庵殿が娘を吉良氏朝(頼康の次代)へ嫁がせる時に渡した、他家への嫁入りの心得書 『北条幻庵覚書』というものがあります。

やはり、その教えが、北条一門の女人達には根付いているのではないかと思うのです。


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~『北条幻庵覚書』 永禄3年12月16日


放映中の大河ドラマ「直虎」に出てくる、今川氏真の正室 早川(早河)殿 も、そんな女人たちの一人です。

氏真や早川殿のことは以前にたくさん書きましたので、そちらもあわせてご覧くださると助かりまする(文末に添付)。


上にも書きましたが、早川殿は、我らが氏政や氏照たちウジャウジャ兄弟姉妹の、一番上のお姉さんだとされています。つまり、早川殿が子供だった頃はまだ北条の初期です。

伊勢宗瑞の質実な暮らし方を色濃く受け継いだ小田原や、領地争奪の戦の日々に明け暮れる東国から京の香りに溢れた駿府へ入った 16-7歳 の少女にとって、嫁ぎ先はどれだけ華やかに見えたことでしょう…たぶん。

猛々しい戦国武者や超ワンパクな弟達(そうか?)を見慣れている身にとって、氏真や義元や今川の側近たちはどれだけエレガントなジェントルマンに見えたことでしょう…たぶん。


なーんて、北条の曽祖父の実家の伊勢家は京の将軍家の取次ぎの家。母上は今川の出。それほど粗野で野暮ではなかったはずですが、それでも、今川はきらびやかで shine アカデミックに思えたことだろうと想像します。

寿桂尼は御祖母様。大叔母の長松院(宗瑞娘)も重臣三浦家にいますし、弟クンの氏規もすでに駿府にいたでしょうから、心細いこともありませんしね…たぶん。

(とんだ見当はずれだったらゴメンナチャイ、早川殿 bleah


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~氏真や早川殿が一時過ごした小田原の早川。早川は、小田原市街から川(早川)を渡ったところ。石垣山城の麓の漁港である。~


今に伝わる氏真の評判については、その後駿府の主となった徳川家が「前の領主はこんな情けない人間だったんだど~。それに比べて今はとてもいいでしょ~」と思わせるために作り上げたものだという説もあります。しかし、当時の信玄殿はじめ周辺の武将たちの人物評を聞くと(?読むと)、やはり、戦国時代の武将には向かなかった方だったような気が私はします。


氏真が武田によって駿府を追われてからの流転や、北条氏政の息子(氏直)に「今川」の名跡を譲った(後に返してもらった)ことなどは皆さまご存知の如くですが、夫妻一行が難民となって小田原へ来た時、なぜ城内エリアではなく、川の向こうに彼らを置いたのかがずっと気になっています。


① ただ単に、夫妻の屋敷を城内エリアに建築するまでの仮住まいだっただけ。(完成する前に出ていった。)

② 人数が多くて、城内エリアに高級難民キャンプとするに適した場所がなかった。

③ 早川は幻庵の管轄地。北条の出戻り組は幻庵が後見担当だったから、自然の流れで小田原に一番近い早川村になった。

④氏政さまが、城内エリアに置くことを嫌がった。もちろん、個人的好き嫌いではなく政策的理由で。


氏真夫妻が小田原を出ていったのは、北条が再び武田と結んだことにより、ここにいては今川の再興は有り得ないと考えたからと言われています。それもあるとは思いますが、「あとの人生、このひなびた漁村(当時のことよ)で一生を終えるのか…。」と、どよ~ん ↓ としてしまったのかもしれないですねえ。think


「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原の久翁寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html

「駿府 「臨済寺」の特別公開」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-2e50.html
「今川時代の駿府~吐月峰 柴屋寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-7dec.html
「駿府で暮らした早雲の姉と北条氏規」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a23.html

wine 北条五代の娘たちの記事です(それぞれ続編・番外編などあり)

伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html

北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html
「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html


萩真尼ことマリコ・ポーロ

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2017年3月31日 (金)

吉良頼康ゆかりの寺々(川崎・目黒・世田谷・蒔田)

シリーズ 北条五代の娘たち
二代・北条氏綱の息女たち、吉良頼康室~続編】


wine 「泉澤寺」
川崎、武蔵小杉駅からバスで15分弱位…だったかな?

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~門前に着くなり、説明板でいきなり我らが氏政アニキの虎朱印!(右下の)~


泉澤寺は当初世田谷にあったものの、火災にあったために天文年間に頼康殿が現在の地へ移したと伝わっています。お寺は中原往還に面しており、周りには当時の堀ではないかといわれている二ヶ領用水が流れています。


ご本尊の阿弥陀如来は南北朝時代の作。その銘札には、「吉良頼康」と「妻平氏女」の墨書きが残っているそうです(『戦336』 by 黒田基樹『北条早雲とその一族 2007』)。

「平氏女」とは、小田原北条家の姫ということです。頼康と連名で「妻」となっているということは、頼康に嫁いだ北条氏綱の娘、つまり、﨑姫ということになります。(ということの連呼で恐縮。)法名は不明。


お寺の方に伺ってみました。大変感じ良く対応してくださいましたが、その銘札のことは分からない、亡き先代なら知っていたかもしれないとのこと。残念なり。

そこで、家に戻ってから川崎市さんの方へ問い合わせさせていただいたところ、北条幻庵の伊豆市さん同様、とても詳しく丁寧なお返事を頂戴しました。なんと、世田谷区にまで聞いてくださっていました。


以下、要約です。

上記の『戦国遺文後北条氏編336』は、世田谷区が出版した『世田谷区史料第二集』からの引用なので、世田谷区に問い合わせてみたところ…
「1959年以前に世田谷区内の古文書等の調査をした際に、泉澤寺のこの阿弥陀仏の札銘に関する記録が出てきた」

のだそうですが、この記録も札銘も現在は確認が出来ない状態なのだそうです。


(川崎市さん、世田谷区さん、お忙しいところ一歴史ファンの疑問を調べてくださり誠にありがとうございました。)


泉澤寺は元々世田谷にあったので、お寺の記録も世田谷に残っているのだとは思いますが、それにしてももう分からないとは重ね重ね残念じゃのうcrying

(どのように書かれていたのかは記録に残っていて史料を読むことが出来ます。ややこしく長くなるゆえここには書きませんが、ご興味あらばお調べくだされ。)

川崎市教育委員会HP→http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000056.html


wine 次は「勝光院」
世田谷区、世田谷線宮の坂駅

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~駅から住宅街に入るとすぐに美しい竹林が現われた~


当初は「竜凰寺」として吉良家が創建。その後、先のブログ記事にも書いた、頼康の養子となった北条氏朝が、養父頼康の院号の「勝光院」と改めたそうです。

すわっ、ほな頼康殿のお墓はここかっ!と思ったのですが、そこらへんのところはよく分かりません。


「吉良家墓所 ↑ この先右手」という案内板がある木戸をくぐると、きちんと柵で囲まれた世田谷吉良一族の墓所がありました。説明板を読むと、こちらには氏朝の孫以降のお墓があると書かれていました。

つまり江戸時代ってことですな。右の隅には、もう少し古そうな五輪塔がいくつかまとめてありましたが、あれらはどなたのお墓なのかな…。


「氏朝の局」(正室である北条の娘か、側室かは不明)や、世田谷城にあった千手観音などの仏様が坐すそうなのですが、本堂はピシッと閉っていて、境内は人っ子一人おらず静寂に包まれていたため、お参りできるのか否か分かりませんでした。

勝光院は非常に美しいお寺で敷地も広く、世田谷線の駅近くの住宅街に京都の洛外にあるようなお寺があるとは想像もしていませんでした。


wine 世田谷「勝国寺」
世田谷区、世田谷線世田谷駅

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~境内で、ワテのことをジーーーッと見ていた猫。「よりやす殿か?」と声をかけてみたが、無反応。お寺に入ってから出てゆくまで、ずーーーーっと見られていたsweat01。~


開基は頼康殿のお祖父さんといわれている政忠殿です。

こちらには、小田原北条から嫁いだ室の持仏であった(『世田谷区社寺史料』より)と伝わる薬師如来が坐します。昭和初期までは秘仏だったと『勝国寺寺院明細帳』にあったそうですが、その『勝国寺寺院明細帳』の所在は今は不明で、調査時に聞き取ったものだろうとのことです。


現在、秘仏は年に一度、新春初薬師法要の時(1月12日が日曜日の場合は1月12日、それ以外は1月12日以降の最初の日曜日)に御開帳があります。

是非拝んでみたい!と思ったら、歴友師匠に、「(数年前の)横浜歴博の蒔田の吉良氏展に出ていたじゃない」と言われちった。まったく覚えとらんcrying。なに見てんだろ私ったら。


それよりなにより、
勝国寺は、なぜ世田谷と蒔田と2つあるのだろうか?

世田谷区HP→http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/106/152/d00129077.html


wine 蒔田「勝国寺」
横浜市、ブルーライン蒔田駅

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~蒔田城の麓にある勝国寺~


ということで、蒔田の勝国寺にもお参りしました。


吉良殿の主な領地は世田谷と蒔田ですよね。どっちを、いつ、どのように使っていたのか知りませんでしたが、上と同じく横浜歴博の企画展の時に少し雰囲気が分かりました。

吉良成高・頼康父子の頃は、世田谷が公邸で正室が住み、蒔田は文化人などが訪れる別荘のような場所だったのだろうとのことだそうです。へえ~~。

また、
パパ成高の妻は「世田谷局」と呼ばれ(上杉定正書状)、息子の頼康(or氏朝)の妻は「蒔田御前」と称した(世田谷徴古録)ともありました。へえ~~。


蒔田勝国寺には頼康殿の供養塔があります。案内&説明板があり、自由にお参りできます。

境内の碑には、「頼康も当寺に葬りしといへば四基の中にあると思慮せられる」とありました。ホンマどすかっ!ドびっくり~ coldsweats02。ただ、頼康のお祖父さん・政忠の法名は「勝国寺殿」ではない、とも言われていますな…。うーん。よう分からん。


それにしても、今、蒔田城には某女学校が建っていますね。学校が建っていて良かったです。

これは玉縄城にも言えることですが、もし学校が建っていなかったら、今頃は宅地開発やその他様々な施設により跡形も無くなっていたことだろうと、私は思いますよ。


wine 東光寺
目黒区八雲、都立大学駅

1
~おお!吉良殿の紋がまぶしかとーshine


東光寺は、頼康殿より数代前のご先祖殿が、幼少で亡くなった息子の墓所としたお寺だそうですが、説明板を読んで驚きました。


こちらには3基の宝篋院塔があり、案内板もあって自由にお参りできます。

その幼少で亡くなった方以外のあとの2つの宝篋院塔のうちのひとつが、私が今探している頼康殿のお墓だとされていました。そして、あとのひとつは、頼康養子の氏朝(山木大方と今川堀越六郎の息子) の娘、つまり頼康の義理の孫のお墓だと!

ホンマどすか!ドびっくり~coldsweats02


う~ん。しかし…
頼康の法名は「勝光院殿」なのに「大徳寺殿」となっているし、没年も大永では早過ぎるし、官途名がこちらは「左京大夫」になっていますが、そうじゃなかったような…。手持ちの吉良の年表を見てみたらやっぱり違うような。世田谷吉良で「左京大夫」は3代目の頼氏だけのような。頼氏の法名は「大徳寺殿」かな?チト分からにゃい。

まあねえ、昔のことゆえ、その後の数百年の間に何人もの名前が混ぜぇこぜぇになってしまうなんてことは、どこのお寺でもあることですよね~。


いや、それとも!あの当時は頼康殿を世田谷に葬れなかった理由が何かあったのかのう。

まったく分からん!いったい、頼康殿とその室である北条氏綱の娘はどこに葬られたのか…。


以上の他にも世田谷等々力で満願寺や八幡神社などを訪ね歩きました。

頼康殿は寺社への信仰心が厚かったようで、ゆかりの素敵なお寺は他にもあまたありますが、これ以上お寺参りをしては脳内が益々混乱してしまいそう。ひとまず頼康殿のお寺巡りはこれにて終わりにいたしとう存じます。


本編→北条五代の娘たち ③ 吉良頼康室~謙信の侵攻と吉良の代替わり
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html

「蒔田の吉良氏 戦国まぼろしの蒔田城と姫君」展
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/at-2d5f.html
「後北条の姫も妬んだ常盤姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-64d0.html
「後北条の女領主、伊豆の山木大方」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html

「北条五代の娘たち①北条早雲こと伊勢宗瑞の娘たち」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html

「北条五代の娘たち②太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html→その後知った驚きの事実「浄心院は三浦道寸の娘ではなく、北条氏綱の娘ではないか? 」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-aaec.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年3月16日 (木)

浄心院は三浦道寸の娘か北条氏綱の娘か?

シリーズ 北条五代の息女たち
二代・北条氏綱の娘たち、太田資高室~続編】


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~文京区白山には、浄心院様の菩提寺だった「浄心寺」の名が坂の名として残っている。~


先のブログ記事「太田に嫁いだ二人の浄心院~北条五代の息女たち」で混沌としていた、浄心院殿日海は北条の娘 か三浦の娘Bか について、その後もう少し調査(妄想)をしてみましたところ…


衝撃の事実を発見!!
なんと、2人の浄心院殿日海の 死去年月日が同じ (天文19年9月14日)だったのです。

浄心院 の没年月日は、『太田家記』より
浄心院の没年月日は、三浦家系図より(←私は未確認)

ドびっくり~coldsweats02


天文19年…か。北条氏康が山内上杉の平井城を攻め、翌20年に落とした頃ですな。

それにしても嫁と姑が同じ日に亡くなって、法名も同じなんてことがあるかね?いや、氏政の母と正室は同じ日に亡くなっていますが、それは小田原籠城中のこと。こちらはそれとは違いますしねえ。


wine 二人の浄心院とその夫君たちの後半生

核心に触れる前に、まずは時系列を整理してみました。辿るのがメンドクチャイ方はずーっと下方の、「太田家記」の項へどうぞ。


登場人物
浄心院=北条氏綱娘、太田資高の室
浄心院=三浦道寸娘、資高のパパ(養父とも?)資康の室


▲永正10年/1513年
三浦道寸の娘であるの夫・太田資康、三崎にて討死。
(資康の死亡については時期・状況共に様々説があるが、いずれにしても永正10年よりは以前。)


~妄想~
が嫁いだ頃、夫の資康は江戸にいたはず。資康が三崎の道寸の元へ向かった時、妻のも一緒に行ったのか?→道寸の娘だから行ったと思われる。

また、
資康の子である資高は、その時15才位。江戸へ置いていかれたのか?はたまた、パパ資康が三浦に走ったために、それで江戸城を出されて岩淵砦にいたのか?

後に氏綱に内応したのは、「祖父道灌殺害の件で扇谷に恨みを持っていたから…」とも言われているけれど、だったら何故に父親と一緒に三浦へ行けなかったのか?実は、やはり本当の父子ではなかったからなのか?山内・扇谷がらみの何かしらの事情なのか?

▲永正13年/1516年
三浦道寸、自害。次男・時綱は安房に逃れる(館山市資料より)。浄心院 も共に安房へ渡る(三浦氏系図より)。


~妄想~
ちょっと待った!

の兄弟である義意が三崎で討死したのは20才頃。例えばが義意の姉だとして、25-6歳。となると資高とは10歳位しか違わない。いくら昔とはいえ、資高はが産んだ子ではないですな。

ということで、先のブログ記事に載せた系図を書き替えてみました。


Photo_2
~時綱が道寸の息子であることには諸説あり。~

▲大永4年/1524年
資高が北条氏綱と組み江戸城は北条の物となる。資高は江戸城香月亭へ入る。

▲年不明
氏綱の娘である、資高へ嫁ぐ

▲享禄4年/1531年
、康資を産む

▲天文16年/1547年
資高、江戸にて死去

▲同19年/1550年9月14日
AB、両名共、江戸にて死去


次に、『三浦家系図』と『太田家記』を見てみましょう。

どちらも、概要ではなく、どう書かれているか見てみたくて仕方がなかったのですが、なかなか図書館へ行けないでいたところ、歴友師匠殿が関連箇所を抜粋して教えてくださいました。かたじけない。ありがとうございます!


wine 三浦家系図

012_2
~三浦氏の「新井城」。三崎の要害についても諸説あり。~


道寸の娘について、以下のようにあるそうです(歴友さんのをコピペさせていただく)。

「(義同)女子
嫁太田道灌一男資康、生新六郎「康資」後号武庵、天文十九年九月十四日死于江戸、法名浄心院日海、子康資建寺置像、号浄心寺今猶在小石川」


ふむ。
江戸にて死去か。小石川の「浄心寺」が菩提寺とありますな。浄心寺は、太田道灌開基「法恩寺」の末寺です。

浄心寺はかつて平河口にあり→本郷に移り→最後は白山でした。現代の感覚でいうと、小石川は、そのどこからも少し離れていますね。大きな区分の中ではまあ同じエリアとも言えますが。


また、何故に太田道灌ゆかりのお寺で弔われたのでしょうか?

太田さんちに嫁いだから?でも、三崎に行って、安房に渡った三浦の娘を、江戸の真ん中で誰が祀るのだろうか?


そんなことより!
そうです。資高の母でないどころか、この系譜からは資高さんが抜けているではありませんか。資康の子が、孫である康資ということになっていますね。ですよね?読み方合ってます?

ちと、アヤシイ~の~。


wine 太田家記

Photo_3
~現在は日暮里にある資高開基の「本行寺」。当時は江戸城平河口にあった。浄心寺と同じく、法恩寺の末寺である。~


以下、同じく歴友さんからいただいたもののコピペ。

一、資高公奥様ハ北条氏綱の息女ニテ、天文十九年九月十四日江戸城にて御死去、万好斎公と同して法恩寺へ御葬送可有之処、平川口に別之寺を立、彼寺へ御葬送有之、是ハ常々御夫婦不和之由申伝候、夫故新六郎康資公へ御存生之内より被仰置候付、別の寺へ御葬被成候也、彼寺浄心寺と申候、此寺今ハ本郷丸山ニ有之候、

浄心寺書物ニ有之、
「浄心院日海比丘尼 天文十九年庚戌九月十四日施主 太田新六郎康資
本願徳成坊日成敬白」
如此之書付有之、日海様木像之御影有之候


ふむ。

こちらには、浄心院日海は北条氏綱の娘で、資高の奥様であり、(三浦の娘と同じく)江戸で亡くなり、(三浦の娘と同じく)子の康資が浄心寺という菩提寺を建立して葬送とありますな。お寺の場所は、平川口→本郷丸山。まあ合っちょるか。


資高さんの道名と菩提寺もこれで分かりました。

道名は万好斎。菩提寺は「法恩寺」。繰り返しますが、法恩寺は太田道灌の開基です、浄心寺は法恩寺の末寺です。


そして、面白い…と申しては失礼ですが、先立った夫の資高と同じ平河「法恩寺」に葬られるところ、息子の康資が、母浄心院の遺言により別の寺を建てたとな。それが、「浄心寺」だと。

なぜ別の寺へという遺言なのかというと、「常々御夫婦不和之由申伝候…」 だとさcoldsweats01


wine 混同

以上のことから妄想するに、やはり浄心院日海は北条の娘で資高の正室である、の線が強いのではないかと、私は思いたい。他家の記録よりは、資高さんの本家本元である太田さんちの家記の方が辻褄が合っていると思うのですよ。だって、そもそも三浦さんちの系図に資高さんがいないんだもの。

となると問題は、安房の正文寺にあると聞く浄心院の位牌ですよね。


三浦系図によると、浄心院は江戸で亡くなっています。三崎の戦いの際に安房へ逃れたはずの三浦の娘は、何故に江戸で亡くなったのだろうか?江戸で亡くなったのに、何故位牌が安房と江戸の両方にあるのだろうか?


~妄想1~
安房の位牌は三浦の娘 のものではなく、北条の娘 のものではないでしょうか。

の息子の康資が安房でも位牌を持ったのではないでしょうか。パパとママは不仲だったから、マザコンの康資(←ウソbleah)が、ママのだけ作ったとか。

それが三浦系図と混同され、いつの間にか三浦の娘のものだとなってしまっている…とか?


~妄想2~
それとも、安房の位牌はやはりBのもので、お名前が不明だったので、いつの間にか浄心院殿日海と混同されてしまっているとか。


~妄想3~
上のザックリ系図で、三浦道寸にもう一人女の子がいますよね。その子が、混同の、こんどー(近藤)です←若い人には分からんてcoldsweats01 で、浄心院殿日海となってしまった…とか?


なーんて。

もしかしたら、まったく反対で、浄心院は三浦の娘で、たまたま系図からは資高が抜けちゃっただけ。当時は位牌もお墓もアチコチにあるなんてよくあること。安房の位牌も江戸の位牌ものもので、太田家記が混同しているのかもしれまへん。

皆さんはどう思われますか?


2_2
~嘉永時代の地図。緑のの中に「浄心寺」がある。ピンクの☆のあたりに現代の白山駅がある。~


先日、どこでもいいから、なんでもいいから、浄心院が生きた証の場所に立ってみたくて、トップの写真の「浄心寺坂」を歩いてみたのです。

(坂の名の由来となった浄心院様の「浄心寺」は日蓮宗。現在はお寺はありません。近くに同名の浄土宗のお寺があるのでお間違えのなきよう。)


大きな歴史の流れの中では、浄心院が三浦の娘だろうが北条の娘だろうが、どうでもいいっちゃあいいことです。どうでもいいことではあるのですが、でも、それぞれにそれぞれの人生を歩んだはずの二人の女人が、その人生を混同されたりしていたらお気の毒だと思うのです。


それはこのお二人に限ったことではなく、先の崎姫と山木大方にしても、氏綱室の養珠院と朝倉娘の養勝院にしても、北条ゆかりの女人達だけではなく他のあまたな女人たちも同じこと。ほとんどが、かつての敵の元へ嫁ぎ、実家から与えられたミッションを果たすべく大変な思いをしたことでしょう。

彼女たちにとっては余計なお世話だろうと思いつつ、今日も足跡を辿りながら妄想しておる次第でござります。


こちらが最初に書いた混沌のブログ記事です↓
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸状を取り戻せなかった太田資高」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html

萩真尼 こと マリコ・ポーロ


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2017年2月 5日 (日)

北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり

by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち
【二代・北条氏綱の息女たち、吉良頼康室】


北条早雲こと伊勢宗瑞の息女たち、北条氏綱の息女たち~浄心院(太田氏高室)に続くは、同じく氏綱の娘で、吉良頼康に嫁いだ崎姫の足跡を辿りたいと思います。


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~吉良の重臣、大平氏の奥沢城跡といわれる九品仏浄眞寺の紅葉。背後は土塁(2016 秋)。周囲には堀跡も残る。しかし、ここの姫が崎姫にイジメラレタというのは伝説に過ぎない。~


wine 崎姫と山木大方(高源院)は別人だった

謙信の侵攻と吉良頼康の代替わりとの関連性の妄想に入る前に、まずは崎姫と山木大方(高源院)のことに触れなければなりませぬ。当ブログでも、しつこく&こってりと書いておりますので、ここでは簡単に。


かつては、崎姫=山木大方とされてきました。その後研究が進み、崎姫と山木大方は別人で、姉妹だということが分かってきました。


そして、


かつては、今川(堀越)六郎に嫁いだ山木大方が、六郎さん亡きあと、忘れ形見の氏朝を連れて吉良頼康に再婚したとされていました。しかし、上記のように、吉良頼康室の崎姫と山木大方は別人ということなので、

・吉良頼康室=崎姫
・山木大方(高源院)は今川から戻ったあと再婚せず未亡人のままで、六郎さんとの間の子である氏朝は、一人で吉良に養子に入った

つまり、氏朝にとって崎姫は叔母さんであり、義母でもあるわけですな。


Photo
~北条当主の直系ではないのでこの図には書かなかったが、山木大方の息子の氏朝には、幻庵の娘の鶴松院が嫁いだ。次代当主頼久の母である。~


どうやら、吉良頼康室 崎姫、氏朝母 山木大方高源院、そして、氏朝に嫁いだ北条幻庵の娘 鶴松院 の3人は、江戸時代を通して、ごちゃ混ぜ&混然一体&錯綜されながら、寺社やゆかりの土地で語り継がれてきたようです。

崎姫と山木大方のことを書いた以前ののブログ記事(のひとつ)を文末にリンクしましたので、ご覧くださりますと嬉しいです。


さて、ここで早速3つの疑問が生まれてしまいました。それは、吉良への養子縁組と、謙信の小田原攻めとの関係です。


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吉良頼康→北条の氏朝への代替わりは、何故行われたのか?

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永禄4年の謙信侵攻時、何故頼康は玉縄へ移されたのか?

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頼康室の崎姫はどこにいて、どうしていたのか?


実は、氏朝が吉良へ養子に入ったのが永禄3年12月。家督を継いだのは翌年2月で、これは頼康の生前。しかも頼康は40才になるかならぬかです。﨑姫と頼康には、分かっているだけでも3人の男の子もいました。

当主も生きていて嫡子もいるのに、なぜ北条からの養子が当主となったのでしょう?その頃は、特に吉良と北条の関係には問題はなかったはずです。むしろ吉良殿は、北条では別格扱い。大事にされていたように思われます。


それどころか北条は、はるる(足利晴氏)とよっしー(足利義氏)の間に、「臨時的な公方」として吉良頼康を擁立しようとした」可能性があるそうなのです。

その根拠は、
・ 天文17~21年までの間、頼康が「左兵衛佐」の官途を名乗ったこと。「左兵衛佐」は、代々鎌倉公方家が名乗るもの。
・ 頼康がこの官途名を名乗る直前に、はるる が北条氏と敵対していたこと。


つまり、
北条は頼康を、はるる との関係断絶~よっしー の公方就任までの間のプールとしていた可能性がある、ということだそうです。(谷口雄太『武蔵吉良氏の歴史的位置』(『千葉史学』57号2010年)より。)


そして頼康殿は、
氏朝に家督を譲った年の暮に亡くなりました。


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~吉良頼康が熊野大社を勧請して創建したと伝わる、等々力の玉川神社~


3つの疑問について、妄想に浸ってみました。

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吉良頼康→北条の氏朝への代替わりは、何故行われたのか?


▲ たんなる病だった

頼康殿は、ずっと病だったのかもしれません。でも嫡子がいるよね。それに、もし病だったら重要拠点の玉縄に移すかね?


▲ 氏康の陰謀か!

頼康が当主でいては、いつまでも吉良を完全に北条のものに出来ない!ここはひとつ、いいように使える(か?)氏朝くんを送りこみ、名門吉良の名跡をゲットし、その家臣団をも北条の直臣にしてしまおう!

と、氏康と相棒の綱成で図ったのか!?二人には為さま(氏康弟・北条為昌)のことで前科があるゆえ(←超妄想)、勘ぐってしまうのう…。


▲ vs 謙信の態勢固め

これは、②の、頼康殿の移動のことと一緒に考えねばならないのかもしれないですが、それこそ、謙信くんの侵攻に備えての人事異動の可能性もありますかね?

時系列をチト整理すると・・


(永禄2年)
4月 謙信、上洛し、関東管領内諾。北条らの制圧を決っする

(永禄3年)
8月 謙信、越後出立
12月 北条の氏朝、吉良へ養子に入る


謙信、関東の諸将を集結させながらズンズン南下し、次々と攻防戦を繰り広げる

(永禄4年)
2月 氏朝、吉良の家督を継ぐ
 〃 吉良頼康、蒔田→玉縄に移る
3月 謙信、小田原に陣を張る
12月 頼康、逝去


上の、氏康陰謀説の見方を変えてみると、以下のようになります。

こんな情勢の中、吉良閣下(「閣下」は梅花無尽蔵より)を当主として戦の真っただ中に置くわけにはいかない。嫡子もまだ若い。吉良殿に替えて一門の氏朝を前線に置いた上で、優秀な吉良家臣団の指揮を北条が直接とれるようにしよう!

なんて?


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永禄4年の謙信侵攻時、何故頼康は玉縄へ移されたのか?


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~吉良殿の城、世田谷城。(言わずもがな石垣は現代の土崩れ防止の公園整備。)~


①と重なりますが、永禄4年2月、氏朝が吉良の家督を継ぐ頃のこと。氏康は、謙信の侵攻から頼康殿を守るため、たいそうな人数を付けて頼康殿を綱成管轄の浦賀城へお移しするように命じます。

その後、浦賀城から玉縄へ変更します(吉良との取次ぎ、高橋郷左衛門への書状にあり)が、いずれにしても綱成の城。


まあねえ、最終的に頼康を移した玉縄が、避難場所として安全かどうかは疑問ではありますがね。だって、その頃の玉縄は、謙信くんの侵攻に備えて城の修復だの補強だのがガンガン行われているのですから。

まさか、吉良閣下を最前線で謙信くんと戦わせちまえrock
なんて?


頼康殿は玉縄城で亡くなったのでしょうか?それとも、謙信が小田原・鎌倉を去ったあと蒔田に戻り、そこで亡くなったのでしょうか?

もし玉縄で亡くなっていたら、それこそアヤシイ~~。

そこが知りたい。。。


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頼康室の崎姫はどこにいて、どうしていたのか?

まったく分からん!
( `д´)キッパリ


頼康殿自体が、蒔田にいたり世田谷にいたり、また蒔田に行ったり、玉縄に行ったり。

北条の女人達は嫁ぎ先の夫と最後まで行動を共にするという人が多いですが、それにしても、当時の正室が全ての場所へ着いてまわったとも思えん。


上にも書いた横浜歴博の「蒔田の吉良氏~戦国まぼろしの蒔田城と姫君展 2014.7」では、頼康の父の時代、その室(上杉)が「世田谷局(上杉定正書状)」と呼ばれたことから、

「正室は世田谷にいて、蒔田は別荘のような場所」
ではないか?とありました。

頼康殿の時代はどうだったのかなぁ。


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~私がクダクダと書いたものより、こちらをお読みになった方が遥かに良いと存ずる。1200円じゃが、取り寄せの価値大いにあり。~


うーん、私には じぇんじぇん分かりまへん。分からないなりに、そんなこんなを妄想しながら、まずは吉良頼康殿と崎姫の菩提寺探しです。これがまた大変。


wine 崎姫&頼康殿の菩提寺

その人を知りたければ菩提寺へ行け!
by マリコ・ポーロ


が、しかし…

見つかりませんweep


前回の太田さんちと同じです。死去年は分かっているのに、お墓が分かりません。頼康の法名が勝光院殿なので世田谷の勝光院のようなのですが、蒔田の勝国寺とも聞きます。どうもハッキリしません。「勝国」とは頼康のお祖父さんだか曽祖父さんの法名ですから、違うかもしれないし、一緒のお寺なのかもしれない。

頼康さえそうなんですから、妻の﨑姫にいたっては、その法名さえも分かりませんcrying


仕方がないので、その頃の吉良殿ゆかりのお寺をいくつか探索してみることにしました。

長くなったので、素敵なお寺巡りや、寺々に伝わる、崎姫が確かに生きた証の仏様については次回に続く。


「蒔田の吉良氏 戦国まぼろしの蒔田城と姫君」展
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/at-2d5f.html
「後北条の姫も妬んだ常盤姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-64d0.html

「後北条の女領主、伊豆の山木大方」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html

「北条早雲こと伊勢宗瑞の娘たち~今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条氏綱の娘たち ② 太田資高 室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html

ほにゃ。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年1月 5日 (木)

北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高

by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち
【二代・北条氏綱の息女たち、太田資高室】



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~北条氏綱の銘と花押がある唐草螺鈿の鞍。ただ今、江戸博の「戦国時代展」でも展示。(↑画像は、馬の博物館「ススメ!小田原北条氏 2011.10」を観に行った時にいただいたポスターより)。~


昨年後半より足跡を辿り始めた「北条の血をひく女人達」。今川系との結びつきが濃密だった初代伊勢宗瑞まわりの女人達に比べ、勢力を広げていこうとする二代氏綱の代になると、娘たちの嫁ぎ先も当然の如く広がります。

ところが、その夫君も含めて人生の終わりまでたどり着けなかったり、複数の姫の言い伝えが錯綜していたり。脳内カオス状態にござります。


wine 氏綱の娘たち

「氏綱の娘」ということは、つまり、氏康の女兄弟ということになりますな。

二代氏綱は、少し地味な印象を持たれる当主かもしれません。しかし、氏綱がいてこそ北条が百年続いたとも言われる名当主です。北条ファンでは、氏綱を、「憧れる」というよりは「リスペクト」している人が多いですよねえ。他の当主を呼び捨てにしていても氏綱だけは、氏綱「公」と呼ぶ人もいます。


氏綱には息子は4人(氏康・不明・為昌・氏堯)しかいませんが、姫は多いです。6人いるとされています。昔は5人でしたが、最近は堀越六郎に嫁いだ山木大方と、吉良頼康に嫁いだ崎姫は別人となりましたそうなので、1人増えました次第です。


① 浄心院→江戸太田の太田資高室
② 大頂院→3代氏康のバディ、北条綱成室
③ 崎姫(法名不明)→吉良頼康室
④ 芳春院→古河公方、足利晴氏室
⑤ 高源院(山木大方)→今川の堀越六郎室
⑥ ちよ(法名不明)→葛山氏元室

こんなにいるのだよ、2代目の娘だけでも…。北条の血をひく女人達の足跡を訪ねようと思う!な~んて軽い気持ちで表明(?)しましたが、いざ始めてみたら、まーあ大変。体力と軍資金が許す限りでゆるゆると。


それでは、どなたからまいろうかにゃ。②大頂院、④芳春院、⑤山木大方については今まで随分と書き散らかしてまいりましたし、わらわ現在「道灌びいき」の会にお世話になっていることでもありますので、まずは、江戸太田に嫁いだ①浄心院様から。


pen加筆:2017.3.16
その後、二人の浄心院についてもう少し調べたところ驚くことが分かりました。こちらをご覧くださいましたら幸いです。http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-aaec.html


wine 浄心院殿日海
(夫) 太田資高、江戸太田


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~太田資高開基「本行寺」。当時は江戸城内平河口にあったが、江戸時代に現在の日暮里へ移ったそう。~


いきなりですが、捜索願ひ!

この太田資高さんと、浄心院様のお墓はどこにありますか?


浄心院殿日海の夫である資高の祖父は、あの太田道灌です。ややこしいので浄心院関係だけでいうと、道灌の息子の代に、太田さんちは2つに分離独立します。

兄が、俗にいう江戸太田。弟(イトコとも?)が岩付太田です。北条は、3代氏康の代になると江戸だけではなく岩付にも娘を嫁がせたりもしますので、脳内は余計にカオス状態となります。


現代の太田家のご当主を存じ上げているので、なんだか太田さんちの個人情報に触れているようで気が引けてしまいますがcoldsweats01、話を493年前に戻すと…。


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~現代の品川プリンスシネマへ上がる坂道。氏綱の江戸城奪取時、曽我(上杉方)vs 多米(氏綱方)の「高縄原」はこのあたりと伝わる。~


大永4年正月、扇谷上杉の重臣ではありながら岩淵の砦で不遇をかこつていた(たぶん…)太田資高の内応により、北条氏綱は関東の流通の要であった江戸城を手に入れます。資高は、江戸・小机などの知行を安堵され、江戸衆の中では最大の領地を有します。そして、氏綱の娘を娶ることとなります。

しかし、資高は江戸城代などになったわけではありません。資高は城外の道灌ゆかりの香月亭に置かれ、城内には氏綱の重臣遠山や富永が入ってきます。香月亭は、城内ではなく外郭。北条に付き、父祖の城を取り戻せると思ったでしょうに、置かれたのは外郭。資高の複雑な心境が分かるような気がします。


また、資高には先妻の子である長男がいましたが、北条の浄心院が生んだ康資が跡取りとなります。そのことも、次代の里見への離反へ繋がる要因のひとつだったのかどうか…?

次代の康資へは、遠山の娘が氏康の養女となって嫁いでいますよね。2代続いて北条は江戸太田家との結びつきを図りましたが、こちらの女人については、「遠山の血をひく女人」であって「北条(当主)の血をひく女人」ではないため、こたびは足跡を辿ることはいたしませぬ。


012
~渋谷城跡といわれる金王八幡宮。高縄原から上杉を追った小田原勢は、渋谷方面へ迂回し江戸城へ押し込んだ・・と伝わる。~


そこで、上記の「捜索願ひ」です。

資高・浄心院、夫婦そろって菩提寺(お墓)が分かりません。没年は分かっているのに。息子の康資が安房へ移したのかしら。


資高はターニングポイントであった、江戸城のあの内応から23年後にその生涯を終えます。たぶん、そのまま江戸城の城将として、江戸城(またはその周辺)で亡くなったと思います。正室の浄心院は、その3年後に亡くなります。

浄心院も夫と同じく…と言いたいところですが、ここで疑問の三つ鱗。


▲ 疑問-1 浄心院は「比丘尼」なのか

太田家記には「浄心院殿日海比丘尼」とあるようです。法名から察するに日蓮宗ですよね。

大概は、夫が先立って剃髪してもそれは形だけです。なぜ彼女だけ比丘尼なのでしょう?「比丘尼」ということは、正式に修行したお坊さんですよね。いつの時点で仏門に入ったのでしょう。

分っからんのう…。


▲ 疑問-2 「浄心院日海」はもう一人いたcoldsweats02

Photo
~カオスは、祖父(資康)と孫(康資)の名が似ていることから始まっている?~


(浄心院殿日海-A
私が足跡を辿っている浄心院様は、北条氏綱の娘です(『太田家記』にあると黒田氏の本より)。


(浄心院殿日海-B
もう一人の浄心院日海は「比丘尼」ではなく「禅尼」と書かれています。資高のパパ(つまり道灌の息子)である資康の妻だというのです。

安房の「正文寺」という誕生寺の末寺に位牌があるそうです。誕生寺は、里見へ付ついた資高の息子(康資)のお墓があるお寺です。横須賀の、三浦氏系図にも「浄心院殿日海」の名前があるそうです。


↑ のともに家伝と寺社の御縁起ゆえ参考までにととどめたいとは思いますが、資康の妻というのは、宗瑞によって滅ぼされたあの三浦道寸の娘だと言われています。そのため資康は三浦について、新井城の戦で死んだと伝わっています。

ということは、Bは、資高のママということになります。姑(B)と嫁(A)が、まったく同じ戒名ってことがあるのでしょうか?


また…もし浄心院が  だとしたら、その位牌がなぜ安房にあるのでしょう?孫の康資は確かに北条から離れ安房の里見へ行っていますので、お祖母さんの菩提を弔ったのでしょうか?

康資が弔ったのは、母である浄心院‐ だということはないでしょうか?


そこで…
安房の館山市立博物館のHPを見てみました。そこには、道寸らが北条に滅ぼされた時、息子の時綱が安房に逃れてき た…とありました!ということは、浄心院日海が B だとしたら、その時、兄(または弟)の時綱と一緒に落ちたのでしょうか?


それと…
資康の墓と伝わるものがある横須賀の大明寺の御縁起には、「戦国時代には太田氏の帰依をうけ・・」とあります。三浦のお寺で戦国時代に太田系となると、やはり B の線が強いのでしょうか?いや、 A ですか?


うぎゃー。もう、分からん!
読んでくださっている方もそうでしょねえ?


ふと思い出しましたが…
三浦さんとこには「三浦浄心」なる、新井城から逃れ、後に北条の家臣となった一族の方がいますね。小田原にも籠城して、『北条五代記』を記している、あの人です。「浄心」はよくある法名ではありますが。

なにか、どこかで、色々と錯綜してないですかね?sad


▲ 疑問-3
岩槻領七里の「大園寺」の御縁起に資高の名を見つけました。

そこにはこうあります。

~太田新六郎資高(大崇院昌安道也居士、永禄11年1568年寂)、および太田源五郎康資の室(陽光院芳林妙春大姉、永禄10年1567年 寂)を開基大檀那とするといいます。~


・資高は江戸太田だから、岩付の領域である足立郡七里にあるお寺は関係ないのでは?
・資高の没年は天文年間。永禄ではない。
・法名も違う。この法名は、岩付太田の氏資のもの。資高の法名は不明。
・康資は資高の息子だが、その室の法名は「法性院」。没年は天正時代。
・「芳林院」は、岩付の氏資の母上(三楽斎の正室)。

世代も、一世代違いますし、資高は江戸城奪取に協力したから、氏綱が協力関係をより堅固にするために娘を嫁がせたはずなので、岩付領の七里とは関係ないですよね。


これまた分っからんのう。

江戸の太田資高に嫁いだ北条氏綱の姫、あなた様はいったい誰なのですか?


次は、③吉良に嫁いだ崎姫の足跡を辿ります。



「北条早雲こと伊勢宗瑞の娘たち~今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条五代の娘たち  ③吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と頼康の代替わり
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html

「北条幻庵の伊豆の屋敷と、幻庵・長松院の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html

「ついに分かった!北条氏照ご正室の最後と、氏綱正室の出自」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-f9c7.html
「玉縄城主・北条為昌の菩提寺で、ビビッときた氏綱ご正室の出自」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-2c49.html
「前編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の謎」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-47de.html
「後編~」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-2d95.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2016年11月 3日 (木)

北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?

シリーズ 北条五代の娘たち
【初代・伊勢宗瑞の息女たち~番外編その2】


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~小田原久野にある栖徳山京福寺~


富士の裾野の名族、葛山氏の最後を今さら初めて知りました。衝撃的でした。文末に取り急ぎ少しだけ。


さて、
前回のブログ記事「番外編その①」では、幻庵こと北条宗哲の伊豆の屋敷と菩提寺を訪れた時のことをご報告いたしました。

こちら小田原の久野は、幻庵宗哲の小田原での屋敷があった一帯です。ここに、「栖徳山 京福寺」はあります。


pen その前に、幻庵宗哲の母親と正室についてですが・・

位牌や過去帳などの研究から、現在では、幻庵ママが善修寺殿。ミセス幻庵は栖徳寺殿(せいとくじ)とされているそうです。ママ善修寺殿は伊豆の狩野氏の娘(たぶん)。ミセス栖徳寺殿は今のところ出自不明です。


前々回のブログ記事「北条早雲こと伊勢宗瑞の息女たち」で昨今の説を、前回のブログで、それを確かめるべく伊豆修善寺にある幻庵の菩提寺「金龍院」をお参りした時のことを書きましたので、そちらも合わせてご覧くださると助かりまする。


そこで行き当るのが、幻庵宗哲のミセスはどこのどなた様か?ということですよね。

小田原詣(?)はもう何十回にもなりますが、先日、なんと初めて幻庵殿の久野へ行きました。例によってウロチョロウロチョロしていて見つけたのが「栖徳山京福寺」。


栖徳!
ミセスの法名ではありませんかっ!

あ、皆さんとうにご存知で。幻庵ファンには当然知られたお寺とのことですが、今まで全然気に留めんかっただよsweat01

京福寺は、かつては足柄街道をもう少し先へ行った幻庵の屋敷跡の奥にあったそうですが、その後(いつ?)現在の場所に移されたそうです。


ここで、ちょっと待った!

え?え?え?小田原の幻庵の屋敷跡は現在の中宿あたりですが、伊豆の幻庵屋敷跡も同じく現在の中宿ですよ!


これはどういう偶然の一致ですか!?ドびっくり~。

冷静になって考えると、つまり、そうなるべく場所に幻庵は屋敷を構えたということなのだね。お流石でござりますなぁ。


Img20160912_181242
~本堂の屋根にも内陣にも、泣く子も黙る三鱗~


大好きな萩の花が風情をいや増しているお寺の境内には説明板がありました。

へえぇ~。北条研究の先生方の本には、「栖徳寺殿」は<せいとくじでん>とありますが、お寺では<すうとくじでん>と呼ぶのですね。


え?え?え?ちょっと待った!←また(^^;

そも、こちらのお寺は、「葛山氏の菩提寺」だとあるではありませんか!


ドびっくり~!←また(^^;

つまり・・
栖徳寺殿様が幻庵の母であれ妻であれ、栖徳寺殿=葛山氏 ということか!


昔、何かで読んだことがあります。栖徳寺殿は、幻庵や氏綱の兄弟である、葛山に養子に入った「氏広の正室で北条の女」だと。

その時、某SNS に書いたことを今思い出しましたが、「確かに当時の伊勢宗瑞にとって葛山は大事かもしれないけれど、その頃の北条家にはまだそこまでの女子の要員がおらず、血が近すぎてそんなこたあないやろう」とスルーしていました。


しかし、逆に考えたらどうだろう?

幻庵の正室を葛山氏から迎えることは十分あり得る話です。宗瑞が、側室である葛山殿との間に出来た息子(氏広)を葛山へ入れ、もう一人の息子(幻庵)には葛山から嫁をもらう。

それは、もしかしたら、葛山殿の姪とか従妹とかかもしれない。(←で、大丈夫よね?血は濃くならないですよね?ややこしくて、自分で書いてて訳分からなくなっちゃった。)


当時の宗瑞はまだ今川の構成員だったから、自分も含め、三浦だの葛山だのとの婚姻政策が大事だったのかもしれない。実際、氏広は今川の御一家衆に名を連ねています。いや、すでに宗瑞が御一家衆だったので、今川筋との縁組が盛んに行われたのでしょうか?

孫(氏綱の娘)も葛山に嫁がせているし、前にも書きましたが、葛山とは濃ゆ~~い関係ですねえ。


(加筆
というか、もしかしたら宗瑞は、今川の御屋形様に覚られぬよう、着々と駿東ゲットを目論んでいたのかもしれへんかもしれへん。義元の代になった時、義元はそのけん制のために武田と組みましたものね。)


pen 葛山氏のこと

葛山に嫁いだ氏綱の息女 ちよさん のことを調べていて、ドびっくり~(←また)。

追々書こうと思っていますが、葛山氏の最後をご存知でしたか?あんなことやこんなことがあった結果(追って)、ちよさんが嫁いだ葛山氏元は、信玄殿に謀反の疑いをかけられ、「諏訪にて誅畢」されたそうですよ。


「諏訪にて誅畢」は、北条友の一人である武将さんが裾野市史から探し出してくださいました。

氏元は諏訪で処断され遺体は諏訪湖に沈められたとか、諏訪湖に投身したとか色々と伝わっているのですね。

武将さんが教えてくださったので私も図書館で裾野市史や諏訪市史や茅野市史を見てみました。「諏訪湖に投身(潜蹤)」という言葉は裾野市史の『仏眼禅師語録』にありましたが、諏訪や茅野の市史には葛山のことは何も載っていませんでした。


それにしても、宗瑞や氏綱がこれほど関係を大事にした名族の終焉は諏訪だった。それも、もしかしたら諏訪湖の底に沈んで終わりかと思うと切ないです。

このことは、また。


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~京福寺の景虎の供養塔~

話を小田原の栖徳山京福寺に戻し。

京福寺には、越後に嫁いだ・・ちゃうちゃうpaper養子に行った、氏康の息子で幻庵の娘婿であった景虎さんの供養塔がありました。


次は、葛山と共にその生涯を終えた ちよさんをはじめとする北条氏綱の息女たちになりますが、なんですか、様々な時代や様々な人々が交錯し、「北条五代」ってやっぱり長いな~と思った秋の一日でした。

では、こたびはここまでに。


北条早雲こと伊勢宗瑞の娘たち
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北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺
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マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2016年10月19日 (水)

北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」

シリーズ 北条五代の娘たち
【初代・伊勢宗瑞の息女たち~番外編その1】


修善寺駅より下田街道をバスで下ること約10分 → 尺八の名曲「滝落」ゆかりの名漠旭滝がある「旭滝口」でバスを降り → 5分ほど坂を上ると、北条幻庵宗哲の菩提寺「金龍院」があります。

「金龍院」は眺めが良く、吹く風も爽やかな気持ちのよいお寺でした。


fuji 宝珠山「金龍院」

Photo
~坂の上の石段を上ると大きなな本堂が現われ、振り返れば幻庵屋敷があった大平(おおだいら)の景色が広々と見晴らせる。~


金龍院には、いつの時代に作られたものかは分かりませんが、幻庵&姉・長松院&妹・青松院、そして母親である善修寺殿のお位牌があります。

幻庵の母「善修寺殿」と、妻の「栖徳寺殿」がどうやら入れ替わって伝わっているらしいことは前回のブログ記事に書きました。次の番外編②でもそのことに触れますが、それを実証する手がかりのひとつが、ここ金龍院の御位牌にも見られました。


幻庵のことが書かれた本などには、「金龍院位牌によると・・」みたいなことがよく出てきます。大変申し訳ないことに、金龍院というお寺自体は明治の初めに無くなったとばかり思っておりました。

ところが、先日のブログ記事にも書かせていただいた三島祐泉寺さんのHPで、金龍院さんが現在も立派に健在されていることを知りました。本当に申し訳もございませんですsweat01


「金龍院殿」とは、言わずもがな、宗瑞の息子で我らが北条の長老である、北条幻庵宗哲の戒名でござります。

お寺の開基は幻庵宗哲。臨済宗大徳寺派早雲寺末寺でしたが、明治の廃仏毀釈の時に一瞬廃寺となり、その後は曹洞宗のお寺として再興されたそうです。

(お寺は境内は自由に入れますが通常本堂は開いておらず、事前にお寺へ連絡をとらせていただきました。)


fuji お位牌

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~古~い御位牌。写真の掲載はご遠慮願いたいとのことなので、超ヘタクソで雑な絵ですが簡単に書いてみた。(お位牌の形状などは、正確ではござりませぬ。)~


真ん中に金龍院殿、つまり幻庵宗哲。その右側には母の「善修寺殿」。左側には前回のブログ記事に書いた姉の長松院。その左が妹の青松院となっています。背面には、それぞれの関係性と没年が書かれていました。右から順に、

善 天正二年戌年七月弐五日 幻庵公母君也
金 天正十七己丑年十一月朔日 逝去
(空  白)幻庵公姉君也
(空  白)幻庵公妹君也

で、合っているかな・・。背面は、ちょっと見えないところもありましたのでチト不安。もちろん縦書きです。


ところで表面ですが、あれ?
右側(善の隣)が開いていてチト不自然ですね。

ご住職に、「複数を一緒にした位牌ってこういうものなのか」「右端に、いずれ他の誰かを足そうと考えていたのだろうか」と伺ってみたところ、「位牌は複数一緒というものはないですね」「最初は普通に金龍院殿(幻庵)だけだったのを、いつの頃かあとから足したのだと思いますよ」 とのこと。


そういえば、あまりにご先祖様が多くて位牌がたくさんになってしまい置ききれず、後世に数人をまとめたという古いおウチの位牌をいくつか見たことがあります。


再び、あれ?
「宗」の文字がありませんね。馴染みのある「宗哲」「宗意」ではなく、「哲公」「意公」となっていました。あにゃ?「宗」は大徳寺派の僧名ですよね。

このへんは、私にはチト分かりません。


よくお参りできるようにと、ご住職がお位牌を手前の机の上に出してくださいました。しみじみ~と手を合わせました。


fuji 伊豆の幻庵屋敷

Photo_4
~館跡にある謎のお堂~


金龍院のすぐ近くには、幻庵の伊豆での屋敷がありました。

幻庵宗哲の屋敷といえば小田原の久野のことしか念頭になく、修善寺大平の屋敷のことはまったく存じませんでした。金龍院さんと同じく、先日お参りした、幻庵の息子の菩提寺である三島の祐泉寺さんのHPで知りました。


候補地は、道芦原地区と下宿地区の二つあるそうですが隣接しているので、妄想する上では、ほぼ「このあたり一帯」という感じでいいのですかねえ。金龍院さんが詳しい場所を教えてくださいました。

一帯は畑でした。説明板もなにもありませんし、新しい路地や道路が作られていて、そこがそうだと知らなければまったくわからないと思います。でも知っているその目で見ると…雰囲気チト分かります。まさか、土塁と堀の名残じゃあないですよね?って。


畑中に狭い小高い場所があります。大きな大きな椿の木の下に、上の写真のお堂がありました。

畑仕事をしてらしたご近所の方が寄ってらして(不審だった?)少しお話を伺えました。お堂は、以前は個人の所有でしたが、今は修善寺町が管理しているそうです。中には、仏様がおわすそうです。

それ以外のことは分からないので、その場でスマホ検索してみましたが何も出てきませんでした。なんだろうねえ。お寺だったのかしらねえ。そんなに古くはないのかしらねえ。


(加筆
まったく分からんので、家に戻ってから伊豆市の方へ問い合わせしてみました。伊豆市さんからは大変丁寧で詳しいお返事を頂戴いたしました。

このお堂は「宝勝院」というお寺だったそうです。しかし、詳細は不明とのこと。また、幻庵の屋敷跡やその地の歴史についての内容も興味深いものでした。

私の方でももう少し勉強して、妄想を広げてからブログに書きたいと思っています。ありがとうございました。)


fuji 兄弟姉妹の晩年


Photo_2
~その、謎のお堂がある小高い場所から、下田街道や金龍院や旭滝の方角を眺めるの図。~


金龍院さんで、長松院さまが確かに生きた証のお位牌をお参りした後、境内から、遮る物なく眼下に広がる大平の景色を眺めました。

子供の頃の長松院さまはこの景色を眺めて暮らし駿河に嫁いでいったのだろうな。今川から戻ってきた晩年も、もしかしたら小田原の久野ではなく、この大平で余生を送ったかもしれないな。


また、金龍院の開基は天正11年とのこと。
黒田氏の本によると幻庵の発給文書は、家督を譲った天正11年頃に韮山から発給されたものが数通を最後にパッタリとなくなったそうです。

長松院さまだけではなく、幻庵も、晩年は久野を後継者(孫)に譲り伊豆で暮らしたのではないかと思いました。


早雲こと早雲庵宗瑞も韮山を本拠地としその生涯を終えました。中伊豆は私達北条ファンにとっては、やはり聖地ですねえ。


そういえば!
もう一人の宗瑞の息女、青松院さまーーっ。あなた様はいずこに・・


pen 名瀑「旭滝」

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~写真では全然表せないぐらい、大きくてビックリ。高~くて、神々しいほどキラキラキラキラ。天から落ちてくるみた~い。~


旭滝は、金龍院を下ってすぐのところにあります。136号から入って徒歩でもすぐです。ここには、かつて虚無僧の普化宗「瀧源寺 ろうげんじ」というお寺があったそうです。

虚無僧といえば、吉川栄治『鳴門秘帳』。田村正和サマ。


ぱおぉ~~~♪

どうも古い人間で。いや!時代はもっともっと昔のこと。そして、北条幻庵といえば尺八(一節切)。旭滝を見ることは、幻庵の菩提寺をお参りすることと同じくらい楽しみでした。


内田康夫の『喪われた道』という小説に、この旭滝と、普化宗や虚無僧、そして尺八の名曲「瀧落之曲」のことが書かれてあります(あと大久保長安のことも出てきますよん)。

訪ねた時が小説を読んだ直後だったので、もっと曰くありげな閉塞感のある滝だと勝手にイメージしていました。ところがギッチョン、明るくまぶしく、また、雨が続いていた後だったので水量も多く見事なものでした。つい、「おおぉ!coldsweats02 」と声が出てしもうただよ。


pen 県指定文化財の十一面観音

瀧源寺の御本尊だった十一面観音は、現在は金龍院にあります。平安時代の作とみられています。金龍院さんでは、そちらも拝ませていただけました。

高さは1mあるかないか。小振りなのに迫力がある観音様でした。函南といい、韮山の願成就院といい、伊豆半島には素晴らしい仏様がたくさんあるのですねえ。


早雲の息女だけでマリコ・ポーロは3部作になってしまう。氏直の息女までなんていつになるやら。いや、だいたいからして遠征費用が掛かり過ぎ、そこまで続くのだろうか。。。

では、こたびはここまでに。番外編その②へまだ続く。


北条幻庵の子息の菩提寺「三島 祐泉寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-200a.html
戦国武将が愛好した尺八 「一節切」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-8c55.html

後北条の始まりを告げた城 「韮山城」 シンポジウム
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-6735.html

北条氏政が謙信や信長にプレゼントした、韮山の江川酒
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-493e.html
後北条の女領主、伊豆の山木大方
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html

ついに分かった!北条氏照ご正室の最後と、氏綱正室の出自
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-f9c7.html
‘元祖 義’  伊勢新九郎の韮山へ
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-b243.html

早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-a414.html
前北条と後北条の 「伊豆 修禅寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-475a.html
「信仰の里~中伊豆かんなみ「仏の里美術館」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-0862.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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