2017年7月14日 (金)

北条氏政・氏照 「墓前祭」~今年も小田原開城に思いを馳せる

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~氏政・氏照の遺骸(首以外)が埋葬された北条氏の菩提寺「伝心庵」。北条早雲こと伊勢宗瑞の室、南陽院殿の牌所でもあったと伝わっている。その後、現在の中町に移された。~


7月5日に小田原は開城。11日には四代当主氏政と、そのバディである弟、北条軍団軍団長・八王子城主の氏照が自刃。今年の「小田原北条開城・落城月間」もほぼ終結となりました。

以前に書いたことの少し繰り返しになり恐縮ですが…。


horse 氏政&氏照の墓所と「墓前祭」

天正18年7月11日。Dr.田村安斎邸で自刃した兄弟二人の遺骸は、北条の氏寺「傳心庵」に埋葬されました。(傳心庵で自刃とも言われている。)


その後の大久保氏の時代に傳心庵は寺町(中町)に移され、墓所は放置。それを整備してくれたのが、大久保氏の次に小田原へ入った稲葉氏です。(稲葉さん、ありがとう。)

時は下り、墓所は関東大震災で再び荒れてしまいました。そこで、昭和24年、地元の有志の方達が「北條遺跡顕彰会」を結成し、墓所は再興されたのです。墓前祭は、昭和28年から続けられているそうです。


素敵ですねえ。支配者が変わっても、時代が流れても、地元の敗者を大切に供養してきたのですね。もっとも、稲葉さんは祟りを恐れたのかもしれまへんが…coldsweats01


この日の墓前祭で、顕彰会現会長さんや市の文化部部長さんも、墓前祭の活動を代々に渡って続けていきたい、地域の宝を大事にし保存活動を続け活用していきたいとのお話しをしてらっしゃいました。

今年は、八王子衆3人(重鎮?男子2名+女人1名)&滝の城衆(1名)&わらわの5人で参拝させていただきましたが、一般のファンも参加できるこのような法要を、最も悲惨な戦いをした八王子城で出来ないことはとても淋しいことだと思いましたよ。さすが我らが本城。


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~墓所には、三鱗と、顕彰会立ち上げのお一人である、現会長さんのお祖父様の筆による「北条忌 三百八十年記念」(今年は427年)の幕が張られ、現在墓所を管理する永久寺御住職のお出ましを待つばかりなり。~


horse 6月23日 氏照の八王子城が陥落してからの本城小田原

この9年間でしつこく書いたブログ記事(の一部)を添付させていただきました。ご覧くださいましたら嬉しいです。


「小田原北条最後の日~かくて小田原は開城した」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-adb2.html


▲ 6月24日   龍城を明け渡す
伊勢宗瑞により戦国の始まりを告げた聖地韮山の城が 終わりをむかえた。

「北条氏規、今日(24日) 龍城を明け渡す」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-eb87.html

▲ 6月26日 秀吉、早雲寺から笠懸山へ移る
のちに石垣山城と呼ばれる、小田原の 負の遺産 であ~る。

「戦国フィナーレを望む 石垣山一夜城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/the-b831.html
「天正18年の「石垣山一夜城」を歴友と歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-017b.html
「堀秀政の小田原の墓」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-bf85.html


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~石垣山城で「北条ワイン」を飲み干してやった~


▲ 7月1日 氏直が降伏開城に同意
いつも胸が詰まります。長く続いた家を終わらせる最後の当主の気持ち。氏直は、二度と見ることはない相模の海を、どんな思いで眺めたことだろう。

「北条氏直、最後の当主の 『最後の朱印状』」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-3b83.html

▲ 7月5日 小田原開城
当主氏直は弟氏房と共に渋取口より滝川勝利の陣に「走り入った」。彼らの脳裏を、二代氏綱公の『御遺訓』はよぎっただろうか。

~天運尽きはて滅亡を致すとも、義理違へまじ きと心得なば末世にうしろ指をささるる恥辱は あるまじく候。 昔より天下をしろしめす上と ても、一度は滅亡の期あり。 人の命はわずかの間なれば、むさき心底 努々 (ゆめゆめ)あるべからず・・~

このあと7日まで滝川の陣で過ごし、その後、徳川の陣に移ることになる。

「北条氏直の投降は、走ったのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-c645.html
「今日は、北条氏直殿の命日」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-dc5d.html

▲ 7月10日 氏政・氏照 城を出、家康の陣へ入る
すでにこちらへ移っていた氏直・氏房兄弟、そして、韮山から降りてきた弟の氏規たちと、会って話が出来ただろうか。人の情が分かる家康殿のことだから、きっとそうさせてくれたことでしょう。

代わって家康が小田原城へ入る。ちっannoy (← 今褒めたばかりなのに…)

「小田原攻め、徳川方の陣場めぐり」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5964.html
「小田原攻め、松平文庫の『小田原陣図』」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-2808.html

「小田原攻め、北条氏照の本陣 報身寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-33dc.html

▲ 7月11日 北条氏政・氏照 死す

「北条氏政の首級(みしるし)はどこに・・?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-470a.html
「北条氏照の首級(しるし)はどこに‥?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-df65.html

「兄上様(北条氏政)からのお届けもの」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-d92a.html

「北条氏政は、上洛準備を進めていた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-5154.html
「北条氏政の「汁かけ飯」は後世の創作」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-e356.html

▲ 7月13日 小田原城内で、秀吉による論功行賞が行われる

ちっannoy

▲ 7月21日 氏直一行は高野山へ旅立つ

「それからの後北条一族」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-93b0.html

「北条一族の高野山 1」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-f00e.html
「高野山、小田原坊」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/3-6cea.html

「北条家、狭山藩邸跡」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5c4c.html
「北条氏規の大阪の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-361c.html

「「江戸時代の北条家、東京の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-72d6.html


最後に…
「小田原城開城へ、最後の6ヶ月」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-f53a.html


さて、「開城・落城強化月間」も終わり。途中になっていた「北条五代の娘たち」へそろそろ戻ろうかと思うておりまする。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

cat 画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2016年6月17日 (金)

小田原北条最後の日~かくて小田原は開城した

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horse 登場人物

▲ 先代の二人の兄弟

(北条氏政)
御隠居、小田原北条四代当主
(北条氏照)
氏政のすぐ下の弟、八王子城主、北条軍団軍団長、氏政の片腕

二人は小田原開城後、秀吉の命により共に切腹する。


▲ 当代の二人の兄弟

(北条氏直)
氏政嫡男、五代当主
(北条氏房)
氏直の弟、岩付城主

二人は開城後、高野山へ送られる。氏直は、翌年、赦免となった大阪で亡くなる。享年29才。氏房は、2年後、お預けとなった肥前唐津にて秀吉の朝鮮出兵時に亡くなる。享年27才。


horse 天正18年7月5日、小田原城 氏政の新城内

上座に座る氏政、縦格子窓から外を眺めて立つ氏照。氏政の前に控えるは、剃髪し墨染の衣に身を包んだ氏直と氏房。


氏政 「・・もうよい、氏直。そなたはそなたの道をゆけ・・」
氏直 「父上・・」

氏照、振り返り穏やかにうなずく。

氏直 「おじ上・・」


深々と頭を下げよろめきながら立ち上がる氏直と、それを支える弟氏房。

退室しようとするも敷居際で前に進めず立ち止まる氏直の背中に、氏政、必死の願いをこめ

「ゆけっ!ゆくのだ!」


全ての思いを断ち切るように、涙をこらえ城内を渋取口へ向かう二人の兄弟。そのバックに流れるは、亡き氏綱公のあの御遺訓のナレーション(亡き氏綱の声で)。


~天運尽きはて滅亡を致すとも、義理違へまじきと心得なば末世にうしろ指をささるる恥辱はあるまじく候。 昔より天下をしろしめす上とても、一度は滅亡の期あり。

人の命はわずかの間なれば、むさき心底 努々(ゆめゆめ)あるべからず・・~


horse 再び氏政の屋敷内

城下を見やる、先の世代の二人の兄弟。共に手を携え、一心同体、勝利の旗を上げ続け北條王国を広げてきた。

眼下に広がる こゆるぎ(相模)の海を眺め、氏政は静かに言う。


「美しい海じゃ・・・」
Fin


(今年の大河での氏政の描かれ方にハラタツノリになり、一人妄想してFBにアップしたものです)

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~小田原、御幸ケ浜~


wine お願ひ
出来ましたら、氏政は中井貴一。氏照は真田広之で妄想お願いたす。

book
「氏綱公御遺訓」は実際に氏綱公が書かれたかどうかは不明です。


以下は以前に書いた、なんちゃって小説です
「レジェンド・オフ・香沼姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-bb1a.html
「城跡の幻影~八王子城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-75cf.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2016年6月15日 (水)

天正18年、そして小田原は囲まれた!

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~石垣山一夜城より、小田原布陣図を見ながら城下を眺める。最も小田原北条フィナーレを感じられる場所。~


この日この時に至るまでの各豊臣勢の進軍については、こちらをご覧くだされませ(2012.6 作成)→「小田原城開城へ、最後の6ヶ月」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-f53a.html


horseそして天正18年4月、小田原城は囲まれはじめる

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~おなじみ『小田原陣仕寄陣取図』(毛利文庫)。まだ本陣は早雲寺。わざと海を南に逆さまにしています。~


▲ 本城には、当主氏直

▲ 秀吉への最前線「早川口」
守るは北条軍団軍団長。御隠居氏政の弟であり片腕のバディ、我らが八王子城城主・北条氏照

氏照は、忍城の成田、皆川(4/8 に投降)、壬生、毛利北条らと共に、本陣を報身寺に置く(文末のリンクブログ記事をご参照)。海側は真里谷武田らが守る。

対するは、木村一、長谷川秀一(羽柴藤五郎)、池田照政、堀秀政(羽柴左衛門尉)ら。


▲ その北、箱根道へ通じる「板橋口」
守るは、氏政弟(従弟)の北条氏忠、筆頭重臣の松田憲秀。

その向こう富士山砦に陣を張るのは、細川忠興(長岡越中)、織田信包(伊勢上野)。

▲ 御隠居・氏政は、最北の「水之尾口」
共に守るは、氏政五男の千葉直重

対するは、羽柴秀次(三好中納言)、宇喜多秀家(備前宰相)。


氏政・氏照らが自ら最前線で迎え撃とうとするところが興味深い。


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~『小田原陣図』松平文庫。本陣は石垣山へ移っている。ピンクのマーカーが北条氏照本陣の報身寺。~


▲ 山側、「荻窪口と久野口」
守るは、氏政弟(従弟)の北条氏光(当初は氏房カ?)

対するは、蒲生レオ様、黒田官兵衛ら。

このあたりの総構はかなり高さがあるので、レオ様たちはずっと下から「うわーっ、北条の総構すっげえな~」と見上げていたってことよね~。


▲ その東、「井細田口」
守るは、氏直弟、岩付の北条氏房。氏房は7月5日、氏直と共に降伏している。

対するは、滝川雄利(羽柴下総)、織田信雄(尾州内府)。

滝川は官兵衛と共に氏直の元へ最後の説得(打ち合わせ?)のために城へ行きましたから、たぶんここから入ったのでしょうねえ。


井細田より南へ海までは徳川家康(内府様/家康公/家康様)の持口となる。
(詳しくは末尾のリンクブログ記事「徳川陣場巡り」を是非ご覧くだされませ)


▲ 井細田とその東の渋取あたり
守るは、武蔵国衆、土気酒井、由良、足利長尾。

▲ 当主氏直とその弟氏房が出城した「渋取口」
守るは、氏直の馬廻り衆、山角、鈴木大学、小幡、津久井の内藤ら。



▲ 渋取と山王のあたり
守るは、和田、箕輪衆、上野国衆など

▲ 東の出丸「篠曲輪」
守るは、一門の吉良、重臣山角、依田。

▲ その南 「山王口」
守るは、重臣山角弟、氏直馬廻り衆二宮。


▲そして 海にはship
長宗我部元親、加藤嘉明、小浜隆景、菅達長、九鬼嘉隆、脇坂安治の水軍勢


ふうぅ~。途中で何度かのポジション替えもあったようですが、以上で合っているかな~。


もちろん以上は主なものだけで、守る側も攻める側も、これらの間も廻りもビッシリと固められ、様々な大名たちから籠城組への調略や、開城へ向けての折衝が進められていくわけです。

また、秀吉は、「城に入って共に籠城したい(果てたい)」と外地からやってくる北条側の者達の入城を許したりもしています。なかなか、人の情けの分かった人物ですな。


flair ちなみに・・
家康(と織田信雄)により氏直の元へ送られ面談したのは、信雄の家臣岡田利世だとのこと。それは、開城の約1ヶ月前。

それを小幡さんに話しちゃったので、小幡文書に書き残されているそうです。


文末にこれまでの小田原攻めについて妄想したブログ記事の一部をリンクいたしましたので、「真田丸」の愚痴をすっ飛ばしてご覧くだされますれば嬉しいです。


●●●
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「真田丸」 の愚痴

やっぱり信繁くんが氏政を説得か。

「しかし、なにゆえ私なのですか?」by 信繁
「おぬしが主役だからじゃ」by 家康


氏直には信繁に頭を下げさせ、御隠居さまはついに白塗りの精神破綻者にされてしまった(戦や儀式の際には確かにお羽黒など施していたと以前某先生に伺いましたが、それは別物)。

今年の大河は、「対比」を描くために「(北条を)時代の変化について行けなかっ た象徴」としているそうですね。


最近の大河ドラマの特徴である、「視聴者に分かり易いように対比で描く」ために、なにゆえ北条が事実を変えられここまで過剰な創作をされなければならないのか・・。

また、これもここ数年同じことを書いておりますが、分かり易く、分かり易くって、視聴者をバカにしていますな。


しつこく申しますが、史実通りにやれなんて、これっぽっちも思っておりまへん。だってドラマだもの。

ただ、大河ドラマは影響が大きいのです。我が家の親や同僚たちのように「大河でやっていることは、ほぼ本当」と思う人が多いのです。また、大河でやると、NHKはじめ各局の歴史バラエティー番組や博物館の特別展も、そのコンセプトに追従します。


こうなったら、早く北条が滅びて、ワテに安らかな日常を戻してくれいと思う今日この頃。

では、今宵はこれまでにいたしとうございます。


wine籠城中に自害したとみられる瑞渓院さまのこと→「北条氏康ご正室「瑞渓院」の二つの菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-653a.html

「小田原攻め、松平文庫の『小田原陣図』」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-2808.html
「小田原攻め、徳川方の陣場めぐり」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5964.html
「堀秀政の小田原の墓」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-bf85.html
「小田原攻め、北条氏照の本陣」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-33dc.html

「戦国フィナーレを望む 石垣山一夜城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/the-b831.html
「石垣山で歴友たちと天正18年を偲んだ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-e888.html
「天正18年の石垣山を歴友と歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-017b.html
「小田原衆と歩く、総構えの北と西」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-31ae.html


「北条氏政イメージアップ推進ひとり委員会」のマリコ・ポーロでした。

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2016年6月 7日 (火)

北条氏政は、上洛準備を進めていた!

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~小田原北条四代当主、北条氏政の花押~


歴史は勝ち残った者により作られる。

その奢りと暗愚さで、小田原北条を滅亡に導いた張本人と言われてきた小田原北条四代当主 北条氏政。


でもそれは、かつての話。

歴史学が細かく深く猛スピードで進化している今、氏政は、柔軟で先見性のある政治能力を持ち、優秀な弟達や一族・一門を適材適所で使いこなし、北条の領域を最も広げた人物として見直されています。


horse 例えば、対信長。

氏政は従属を決し、信長の娘を嫡男の嫁に迎えるべく家督を息子に譲り、片腕である弟の氏照と共に重臣を使者として安土へ送り、信長の天下の元で北条政権の安定を図ります。


horse 例えば、秀吉への出仕。つまり「上洛」。

▲ 天正16年
氏政は家康を通じて秀吉への従属を申し入れ、弟の氏規を上洛させ秀吉への謁見をすませています。

天正16年といえば、小田原開城の2年前。氏規の上洛まではチッとグズグズしていたことは否めませんが、それは百年も続いた関東の王者の矜持ということで仕方ないと思ってあげてくだされ。

と、狂信的な北条ファン(←ワテ)はお願い申し上げる次第。


▲ 天正17年

氏政は引き籠り なってしまったりもしますがcoldsweats01、板部岡江雪斎も帰国し、ついに上洛を決意。息子の氏直(五代当主)がその旨を秀吉側の取次に連絡します。


あ、そうそうflair
江雪斎が信繁くんと対決などしていないのは言うまでもありやせんが。
(アハハのハ)。

真田の沼田城引き渡しを待たずして、氏政は12月の上洛に向けて費用の調達や随行員への準備の指示などを始めています。

また、「いまだ百日も後のことだけれど、何があっても遅れることは出来ない」ともおっさているとの記録も残っています(黒田基樹著『小田原合戦と北条氏』2013.1.1)。

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~享徳師匠が急ぎ手持ちの史料の写真を撮って送ってくださった。かたじけない!~

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~と、「マリコ・ポーロ、読めないだろうな~」と鉢形の師匠からも火急の矢文で意訳が!かたじけない。~


あ、そうそうflair

この頃、真田のお兄ちゃんは、家康への人質として駿府にいたのですってね。秀吉は真田お兄ちゃんへ、北条への沼田城引き渡しのために上使を駿府から沼田へ案内するように指令を出しているのです。

岩櫃にいたのではないのですね。知りませんでした~。だから徳川重臣の娘をめとり、あの時も徳川についたのですかねえ。

▲ 嗚呼、しかしcrying

そんなこんなしているところに、名胡桃事件が起こってしまうのです。


とまあ、非常に簡単にハショッテ書きましたが、その間の流れはもちろんそんなシンプルなものではなく、沼田の引き渡しはもちろんのこと様々な出来事があり、秀吉や徳川だけではなく、伊達、佐竹など北関東や東北の諸大名達とも交渉や戦などが繰り広げられるわけです。

また、大国の当主が上洛するのです。上洛までに色々な打ち合わせや駆け引きがあり、感情も揺れ動き、時間がかかってしまうのは北条だけではありませんよね。

(まさか氏政さんたら、やっぱりどうしても行きたくなくて名胡桃をやってしまったのではないわよね!?)


大河ドラマは「歴史ドラマ」ではなく「時代ドラマ」ですし、特に今年は信繁の記録がほとんど残っていないものを創作している「二次小説」ならぬ「二次ドラマ」。

ドキュメンタリーでもなくファンタジーなので、史実通りにやってくんなましなんてことは露ほども思っておりません。ただ、番組の最後のところで、少しだけでも「実は…」と説明を入れてくれたらな~と、熱烈な北条ファンは思う次第であります。


言いたいことは山ほどあるが、今宵はこれまでにいたしとうございます。←大河「武田信玄」の大井夫人。


wine
「北条氏照が上洛してきたらヤバいぞ by 三成」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-53e1.html
「北条氏政の 汁かけ飯 は後世の創作」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-e356.html
「小田原城開城へ、最後の6ヶ月」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-f53a.html
「家康と北条氏政、黄瀬川の河原で酒宴する」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-fe11.html
「名胡桃事件の地、名胡桃城へ!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-4ae8.html
「神流川の戦いの地へ~天正壬午の乱」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-dae8.html
「激戦!金窪城から神流川へ~天正壬午の乱」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/18-f136.html


「北条氏政イメージアップ推進ひとり委員会」のマリコ・ポーロでした。

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2015年7月21日 (火)

今日7月21日、北条氏直は高野山へ旅立つ

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~高野山奥の院の北条家墓所~


7月5日小田原開城。
7月11日、氏政と氏照が切腹。

10日後の21日、当主北条氏直は蟄居の地、高野山へ向けて旅立った。


と書くと、御供数人でトボトボとsweat02小田原を後にしたような姿が浮かびますが、高野山へ蟄居となったのは、政&照たちの弟・氏規や氏忠&氏光、氏直の弟・氏房や直重や直定、松田直秀・直憲、大道寺直繁、内藤、依田、山角、山上などなど御一家衆+重臣・側近たち30人をはじめとする、総勢300名。大所帯の大移動でござりました。

みんな若いですが、このうちの何人かは高野山で病のため亡くなることになるのです。


また、正室の家康の娘である督姫は、そのまま小田原にとどまり父上の庇護をうけ暮らします。その後、氏直たちが許されて大阪に出仕すると督姫も大阪へ移り、氏直が同じく病で亡くなるまでの数か月を一緒に過ごすことが出来ました。

まあ、ちょっと救われた思い confident


氏直は天正18年7月21日に小田原を発って以来二度と小田原を見ることはできなかった・・・はずですが、実は一度小田原に戻っていると歴史名人から伺ったことがあります。

う~ん、これは興味深い。どなたか調べて教えてくだされ。←人任せ。


以下、以前に高野山を訪ねた時のブログ記事などなどです。高野山では氏直たちを預かった「小田原坊」に泊まりました。

▲ 氏直、最後の朱印状
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-3b83.html

▲ 高野山
北条一族の高野山 3「小田原坊」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/3-6cea.html
同じく 2「戦国武将の墓碑めぐり」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-32d3.html
同じく 1「戦国武将の心のよりどころ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-f00e.html
ご興味あらば、4&5もご覧くださりませ。

▲ 狭山藩
「江戸時代の北条家 狭山藩邸跡」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5c4c.html

▲ 氏政&氏照の首級
「北条氏政の首級はどこに?駿河源立寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-470a.html
「北条氏照の首級はどこに? 八王子永林寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-df65.html

▲ 7月12日に落城した檜原へ横地監物を訪ねた時の記事
「檜原の残影、横地監物と武田の松姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-f195.html


紅花

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2015年7月 5日 (日)

本日(7月5日) 小田原城開城す

ブログの名前を変えました。「風なうらみそ~小田原北条見聞録」。引き続きよろしくご贔屓の程お願い申し上げまする。


(中先代の乱のことでコメントをくださった方。ご返信したのですがアドレスが違うということで戻ってきてしまいました。コメントありがとうございました。太平記の時代は初歩の初歩を勉強中にござります。)


さて!

Dsc_2371_2
~石垣山から城下を眺める。小田原で一番妄想が広がる景色。~


いよいよ今年の「小田原北条 開城・落城強化月間」も終わりとなります。425年前の今日7月5日、小田原が開城しました。

小田原北条の魅力shineを語るには、天正18年に尽きると私は思っております。だって、日本中(ほぼ)の戦国武将たちに見守られながらその百年の歴史のフィナーレを飾る・・・。戦国の大大名で百年続いた家はないことに加え、あの凄い秀吉が総力を挙げて降伏に持ち込んだ。そんな戦国武将は他にいますか?いませんね~~~。


以下は、前々回のブログ記事同様に、5年間の記事から7月5日以降の動向を簡単にまとめたものです。

horse 5日
当主氏直は弟の氏房と共に渋取口より小田原城を出、滝川雄利(一益の娘婿)の陣へ降りる。それから事は待ったなしに進む。

horse 6日
榊原康政らが城を受け取りに小田原城へ入城。

horse 7日
家康、小田原城を正式に請け取る。

horse 8日・9日
城内に籠っていた者達が城を退去。

horse 10日
氏政・氏照も城を出て家康の陣へ。入れ替わりに家康が小田原城へ入城。氏直も滝川の陣所から家康の陣へ移る。(ここで一晩一緒にいられたのかな・・)

horse 11日
氏政・氏照兄弟は、弟 氏規の介錯で切腹。

horse 13日
秀吉による勝ち戦の論功行賞が、小田原城内で行われる。

horse 21日
氏直はじめ高野山組総勢300人、高野山へ旅立つ。


高野山組の若い人達では、氏直はじめ、その後数年のうちに亡くなる人が多い。感染症からくる病だともいわれているが、失意のうちに生きる意欲もなくなり、免疫力も低下していったのかなと私は思うのだよ。

034
~石垣山に某レストランが無かった頃、秋になると群れ咲いていたコスモス~


pen 以下は、天正18年開城時あたりの記事の一部です。籠城中の小田原北条に思いを馳せるのは石垣山から城内を眺めるのが一番なので、その記事が多いですねえ。

「もし今日、小田原城が落ちなかったら」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-9cc7.html
「それからの後北条一族」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-93b0.html
「戦国フィナーレを望む石垣山一夜城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/the-b831.html
「小田原攻め、徳川方の陣場めぐり」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5964.html
「天正18年の石垣山一夜城を歴友と歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-017b.html
「石垣山で歴友たちと天正18年を偲んだ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-e888.html
「北条氏直の投降は走ったのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-c645.html


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2015年6月21日 (日)

豊臣軍、今年も小田原に進攻中!

ブログの名前を変えました。「風なうらみそ~小田原北条見聞録」。引き続きよろしくご贔屓の程お願い申し上げまする。


さて・・・
ブログを始めて6度目の強化月間を迎える今年。最初の年の「小田原北条 開城・落城強化月間」に、ことが起こった当日に合わせてアップしていた記事をひとつの記事にまとめました。明後日(23日)は八王子城落城にござります。

この6年間の強化月間に書いた記事の数が膨大過ぎて、もうどうしてよいのか分からなくなっておりますが、パッションは熱いまま。北国勢の後半をメインに、以下!


horse 岩付

Dsc_2170
~岩付城~


天正18年5月20日早朝。

大手口から浅野長政・本多忠勝勢。新曲輪は平岩親吉・鳥居元忠勢。搦手からは木村一勢のおよそ2万による岩付城総攻撃がはじまった。


城主氏房は3千の兵を引き連れ本城小田原に詰めており、岩付の城に籠もるは氏房の正室、兄の未亡人(太田と北条の間に産まれた姫)、その母である叔母(氏政の妹で太田氏資未亡人)をはじめとする女人達や人質達を含むおよそ2千。

伊達房実が指揮の元奮戦するも、22日城に火をかけられ、我らが後北条の武藏北東部の拠点であった岩付城は落城。浅野・木村勢は、長期戦となりつつある鉢形城へ援軍として向かう。


horse 鉢形城

006
~鉢形城~


5月22日岩付城を落とした秀吉麾下、浅野・木村らの軍は、前田利家・上杉景勝ら北国勢と合流し、およそ5万の大軍で、北条氏照の弟、北条氏邦の 鉢形城 を囲んだ。

氏邦は当初、本城(小田原城)にいたが、本城のとる籠城作戦には賛同できなかったのであろうか、自身の城・鉢形城に立ち戻り真っ向勝負に出る。


大軍を迎え撃つのは、たった3千。約半月の戦いの末、6月14日、北条氏邦は潔く降伏、城を明け渡した。この時、北条氏邦 49歳。

連合軍は松山城 (東松山市) あたりで軍勢を整え直し、先に降伏した、この松山城の難波田、松井田城の大道寺らを先導させ、いよいよ八王子城へ向かう!


Img20150620_231106
~そのへんのところが描かれた池波先生の小説「忍びの旗」新潮文庫。鉢形衆の歴師匠に教えていただき読んでいる途中。昭和58年のものなので以前の説に基づいているが、それでも面白い。~


horse 八王子城

Img20150620_233818
~八王子城~


話を戻す。

22日夜半、降伏した大道寺らを先頭に立たせ(降りた者は先陣に立たされるのが当時の戦のならい)、かつて小田原攻めの時に武田信玄も渡った大神(昭島市)→ (八王子市)へと多摩川を渡河し始める。時刻は現在の午後10時頃ではないかと言われる。

見上げれば、月は満月よりすこし欠けていた。


霧が出はじめた・・・


▲ 連合軍は多摩川を渡った後、平町 → 加住の丘陵を越え → 暁町に至り、ここでニ方に分かれる。

▲ 一方は搦め手へまわる
暁町から → 川口川に沿って甲の原を過ぎ → 川口川を渡河 → 調井の丘(川口氏館跡あたり) → 北淺川を渡河 → 搦め手側の案下(陣場海道方面)へ。

▲ もう一方は本隊
暁町から → 元横山町へ下り → 南淺川を渡河 → 横川町 → 横山口(元八王子町) → 大手側へ。


出始めた霧は次第に濃くなり、月は隠れ視界は閉ざされる中、午前1時から2時頃、大手・搦め手とも攻撃は始まる。

大手門、横地堤、近藤曲輪・・・次々に突破されてゆく大手側。


外郭は別働隊にまわりこまれる。太鼓曲輪を守るのは、平山綱景。後に、八王子城を脱出した横地監物と共に、最後の抵抗をしたといわれる檜原城の城主・平山氏重の弟だ。奮戦するも討死。


山下曲輪。
「近藤出羽守殿、お討ち死にーーっ」

山下曲輪が突破されれば、そこは御主殿だ。近藤出羽、どれだけ必死の思いだったか。悪鬼の如く戦ったことだろう。


御主殿では、城兵達の妻子が自身や子供や友と差し違えながら、暗黒の城山川に身を投じていく。

御主殿を落とした一隊は、山王台へと登り出す。


あしだ曲輪、梅林、搦め手の棚沢など、ふもとのそこかしこで火を放たれながらの激戦が繰り広げらる。敵味方双方に多大な犠牲者を出しながらも、数では到底かなわぬ城方の重要拠点は次々と突破されてゆく。


「金子家重殿、お討ち死にーーっ」

中腹の金子曲輪が突破された頃、夜は明けてきた。登る太陽。日の光の下に現れた惨状は、いかばかりであっただろう。


020_2


23日朝、戦いの場は中腹から山上へ移る。

空は明るくなった。戦いは続いている。主戦の場は山上の曲輪群へ移る。寄せ手は山頂へ向かってあらゆる方角から次々と這い上がってくる。


八王子城は中腹から急に傾斜がきつくなる。山頂へ至る道は幾筋もあるが、それらもわざと「けものみち」と言っていいほどの道幅で道の片側は絶壁だ。

各曲輪には多数の小曲輪(腰曲輪)や小さな段状曲輪が付属し、攻める側はどこに立っても四方八方から狙い撃ちされるような仕組みになっている。ここからの攻撃には寄せ手側に一層の犠牲者がでる。


前田利家が国元の重臣へ宛てた手紙には、「八王子城は 名城 で、当方も討死や手負いがかなりでてしまった」とある。

また、家康の重臣・榊原康政が清正にあてた手紙には、「八王子城は北条氏照が長年かけて築城してきたもので、鳥や獣が飛び回るようで、立つのも困難な城・・・」とあるが、うまい描写で、城側はその通りの険しい山の小さな山上曲輪群を、ここかと思えばまたあちら、と飛び回りながら奮戦していたのであろう。


山上の曲輪群は狭く小さい。攻め手は、大将達といえど最前線で戦わなければならない。

夜は開け日は高くなったとはいえ、今度は霧のかわりに、火を放たれた山麓方面から立ち上ってくる煙が視界をさえぎる。


「怯むなー、進むめぃー。怯むヤツは切る!」抜刀し、後ろから鼓舞する将達。

真夏の暑さの中で甲冑をまとっとた体は、熱風と煤と泥、血と涙と汗で人のものではなくなっていただろう。

頭上から降ってくるのは石や矢や鉄砲玉だけではない。それらの犠牲となった味方も落ちてくる。それでも上へ上へと登っていかなければならない攻撃軍。戦場とは常にそういうものだとは思うが、山城の殺戮劇は悲惨というほかない。


小宮曲輪(三の丸)で獅子奮迅の働きをするのは、北条の評定衆筆頭・狩野一庵。

討死。


満身創痍の中山勘解由は高丸から中の曲輪へ移動。

前田利家や上杉景勝らの説得を振り切り、「もはやこれまで」と妻と自刃。


山頂曲輪(本丸)を守るは、かつて大石家へ養子にはいる氏照に小田原から付き添ってきた横地監物。40年来の深い絆で結ばれた、氏照股肱の忠臣だ。

寄せ手が刻々と近づいてきた時、松木曲輪(二の丸)で戦っていた大石が本丸に駆け登ってきて横地に叫ぶ。

「落ち延びられよっ、小田原へ。この八王子城の最後を殿に伝えてくだされい」


当然、横地は「否」 と答えたはずだ。

それでも大石達は、「早く行かれよっ、ここは我らが必ず死守してお後を追いまするっ」と、尚も言ったことと思う。

八王子城を後にする横地。逃れる途中で本丸を振り仰いだ頃には、大石達はすでに後を追うことは出来なくなっていたであろう。


日が真上から西に移り始めた頃、戦国史に名を残す凄まじい戦いは終わった。

首実験は、中の曲輪で行われた。しかし、勝った側にはまだやることが残っている。


6月23日夕刻、両軍に多大な犠牲者を出し八王子城は落城した。勝った側がなさねばならぬことは、怪我人を保護し、犠牲となった人や馬を葬るという戦場の後始末だ。

山城戦の帰路は平地の戦と違い、たった今自分達が殺戮を重ねてきた惨状を見ながら山を下るという、なんともヘビーなことをしなければならない。


千を越える数の遺体や馬を全て運び下ろすなどはとても無理で、多くはそのままであったり、所々に大きな穴を掘って埋めたりした。八王子城の麓にも、場所はここに書けないが、それに使われたかもしれない穴跡がある。

今の暦では7月後半~8月半ばの真夏。氏照が滝山城の頃に開基し、氏照と共に八王子に移ってきた大昌寺の牛秀讃誉(ぎゅうしゅうさんよ)も、すさまじい匂いが立ち込める戦場跡で、たくさんの遺体に引導を渡して歩き、村の人達と一緒になって埋葬をした。


そして翌24日、弟・氏規の龍城が、25日津久井が落ちる。

戦国フィナーレ、舞台は小田原へ・・・


horse 秀吉が京都を発ってからの、各方面より小田原への進軍を時系列で追った記事です。
「小田原開城へ、最後の6ヶ月」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-f53a.html


pen 以下は、妄想を含みもう少し詳しく書いた、上記の元記事です。
「落城した城跡に咲く、サイハイ蘭」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d7ab.html
「今20日未明、岩付城へ総攻撃はじまる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-de3a.html
「今日、鉢形は落ちた」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-6379.html

「鉢形城 籠城中、なう」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-36e7.html

「今夜半、八王子城総攻撃始まる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/420-9797.html

「今日(23日)八王子城、落ちる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-0e49.html

「八王子城、戦い済んで日は暮れて・・・」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-1bb4.html

牛秀讃誉のこと→「新選組と北条氏照の日野」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-2625.html



紅花

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2014年10月17日 (金)

北条氏直の投降は、走ったのか?

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     ~マル朱印~


▲天正18年7月5日。籠城を続ける小田原城渋取口に、密かに城を抜け出る2つの影があった。

影は、羽柴(滝川)雄利の陣に向かい猛ダッシュで走り出した!


それは、パパ氏政や氏照伯父さんの監視の隙を縫い、徳川殿とのかねてよりの打ち合わせに沿い、おサルに降りようとする北条五代当主・氏直と、兄に誘われた弟くん氏房の姿であった。

あと少しで滝川の陣に到達というところ、あわや追手に捕まりそうになった二人。機転をきかせた弟くんがハッシとばかりに自らの草履の片方を滝川陣へ投げ込みセーフ。二人の投降は認められた。▲


先日の大河を観て、改めて小田原北条の降伏の様子を調べたいと思い、黒田基樹著「小田原合戦と北条氏 2013・1」「北条氏年表 2013・8」、下山治久著「戦国北条氏五代の盛衰 2014・2」の天正18年のあたりを、今度はじっくりと再読しました。手に入れた時も当ブログでご紹介をしましたが、買った時って興奮してアッチを読んだりコッチを読んだりのザックリ読みで熟読していなかったのでsweat01

そして、またまた気になることを、天正18年だけでもいくつか発見してしまいましたよ。


wine その中で二番目に気になったのは・・・

黒田氏の「北条氏年表」の天正18年7月5日のところに、氏直が滝川の陣所に「走り入って降伏の意を表した」とあったことです。


ああ、もう、おのおの方、「マリコ・ポーロ、アホちゃうか gawk」 と呆れないでくんなまし。

上述の小田原城脱出シーンは、この文言に今更始めて気が付いた時の、マリコ・ポーロの脳内にブワーッと広がった妄想にございます。歴友方にも「走り入るだって!これって、どういうことだと思う?!」とばかりに大興奮 horsedash


ところが・・・
ええ、ええ。今はもう分かりましただよ。歴友先生方が「どうどう」とばかりに教えてくださいましたゆえ。

~「走」の意味は駆け足することに限らない。「駆け込み寺」が文字通り駆け足で入るわけでもないですしね。~

また、こうも。

~黒田基樹「小田原合戦と北条氏」に、「『走り入り』と表現されているから、剃髪して降参の作法をとっていたためと思われる」とありますぜ。~


教えてくださりありがとうございました。もしそのままだったら、本当にアホな妄想でブログ記事を埋め尽くすところでしたよ。


それまで小田原の開城は、
様々なルートから開城交渉が何度か行われた上で最終決定がなされ → まずは当主である氏直が降り → その後、徳川方ともろもろの打ち合わせやらなにやらをした上で → いまだに降伏を良しとせず「新城」に籠っている氏政と氏照を城から出した。

という段取りを踏んだと思っていました。雄利の陣に行ったのは、自分達の持ち場エリアから一番近かったからぐらいに簡単に考えていました。


実を申すとワタクシ、駆け込み寺も駆け足で門を入らなければならないと思っていましたcoldsweats01。途中までは歩いて来ても、切迫感をアピールするためにお寺の少し前から走り出すような習いがあるような、なんかそんなような。

まあ、それは置いておき・・・


「走り入って」ですと!?

氏直兄弟が雄利の陣に走って入った!氏直と氏政&氏照の投降日は違うし、やっぱり何かある!なんて、「走り入って」の文字を見た瞬間は思ってしまいましたよ。な~んだ。ぜんぜん違ったのですね・・・(←違わないかもしれないけど)。


「走」という文字ひとつとっても状況によって色々な意味があるんですな。古文書は難しい。そこで、古文書名人の「歴探」さんにも伺ってみたところ・・・

~「降伏」という意味だけで「走入」の意味はカバーしきれず、「身を投じる」「駆け込む」という意味の方が的確であろうと思います(「走廻」と一緒で実際に走った訳ではありません)。

正式な降伏であれば、主将秀次か実力者秀吉の何れかと直接交渉し、氏政も協調するはずなので、隠密裏に城を出たのが妥当なところだと考えています。~

と。


wine さて、三番目に気になったのは…

下山先生の「戦国北条氏五代の盛衰」に、
~氏直は、7月5日に羽柴雄利の陣所に行くと黒田孝高等に降伏した。~
とあることです。

羽柴雄利とは滝川雄利、黒田考高とは官兵衛のことですが、これからすると氏直達が降伏したのは、雄利の陣で待ち受けていた(または出城の連絡を受けてやって来た)官兵衛達ということになるのでしょうかね。


皆様はとうにご存知のことと存じますが、これも私は初めて知りました。

今まで私が読んだものには、7月5日のこの瞬間のことはどれも、「氏直は滝川雄利の陣に降り・・うんたら」とあるので(と記憶しているので)、てっきりまずは雄利の陣に入り、次に雄利が家康へ取り次いだと思っていました。


7月5日の段取りひとつとっても、謎はたくさんです。

さて、一番気になったこと。それは、次回。


歴探さん「遠すぎる石垣山 その4」
http://rek.jp/?p=4906
以下マリコ・ポーロ
「北条一族の高野山3 小田原坊 」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/3-6cea.html
「小田原北条、最後の当主の 『最後の朱印状』」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-3b83.html
「戦国フィナーレを望む 「石垣山一夜城」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/the-b831.html
「もし今日、小田原城が落ちなかったら」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-9cc7.html


萩真尼

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2013年5月22日 (水)

岩付城の続編・城は今日落ちた

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前回の「今20日未明、岩付城へ総攻撃はじまる」の続きなり。

北条氏房の岩付城や主郭部ウロチョロについてはそちらで情緒的に書かせていただきましたので、こちらでは外回りぶらぶら歩きです。

上の写真は、本城小田原の方の大構えの氏房さん達岩付衆が守ったあたりにある看板です。どこにあるかって?それは、小田原陣仕寄陣取図でご確認くだされ。


さて、岩付城の話。
心地の良い普通の公園となった岩槻城では睡蓮が満開。綺麗だねえhappy01。公園内はたくさんのワンちゃん達がお散歩していました。

公園内はワンちゃんOKなんですね。さすが、太田三楽斎(資正)の城です!こうして軍用犬を育成しとるんですな(ちゃうちゃう)。三楽斎は、松山城←→岩付城間の連絡に犬を使ったとの逸話がありますdog


池のほとりでお弁当を広げ、氏房さんと岩付落城をたっぷりと妄想したら、公園から出てみます。

先に書いた野球場の裏手の土塁の上をしばらく歩いたあとは、駅に戻りながら天正18年と永禄7-8年との間を行ったり来たりの寄り道。


Dsc_2186

絵図面を見ると(縄張図を見ると・・とはとても言えにゃいsweat01)、公園となっている部分はほとんどが当時は沼地だったんですね。

外側から公園を眺めると、随分と低くなっているのがよく分かります。上の写真、横断歩道の先が一気に低くなってて道が見えないでしょ。


主郭部を振り返り振り返りしながら(危ないって)ぶらぶら歩くと、10分ほどで「久伊豆神社」です。

Dsc_2187

久伊豆神社は新正寺曲輪エリアにあります。

前の回で書いた新曲輪エリアとこの新正寺曲輪エリアは、天正18年のおサルの進攻にそなえて造られた出丸だそうですね。


久伊豆神社の創建は、犬使い?の太田三楽斎資正殿なのですね。神社のご由緒を読むと、創建はもっともっと古く1400年程も前のようです。また、同じくご由緒によると創建は太田道灌となっています。

岩付の城を最初に築城したのは、以前は道灌パパの道真とされていました。昨今は、そうではなくて成田殿だとなっています。となると、久伊豆神社の中興は・・・。♪

(2013.5.28 加筆
成田氏だというのが今は一般的だが、ここのところは、ヤッパリ太田道真&道灌親子じゃないか…となってきているそうです。 )


う~ん・・・
わかんない!

神社の創建は曖昧でよいのですわ。いずれにしても、そこには確かに太古の昔から神がおわして、現在も敷地一万坪!元荒川を望むうっそうとした森に囲まれた立派な神社でした。


おサルの脅威が迫りつつある天正後半。氏房さんは、パパ氏政かオジ氏照かの指令により、岩付の城下をすっぽり包むおよそ8kmにおよぶ大構を築きます。

すごいですね!本城小田原だって9kmですよ。岩付は、我らが北条軍の北東武蔵の要所なんですねえ。


その大構が唯一残っているという愛宕神社に向かって、超方向音痴の異名に恥じず例によって例のごとく超迷っていると、


Dsc_2190_3

ん?
何?あれ ↑ 土塁ではありませんか!

わらわの持っている超初心者用の縄張り図には載ってませんよ。場所からして、もしかして大構の一部!?愛宕神社にしか残ってないなんて、ここにもあるじゃあありませんか、旦那方!

と興奮し、縄張図師匠の北条友に後ほど自慢したところ・・・どうやらそれは、御米蔵曲輪の土塁らしいdown

なあんだ、人騒がせな土塁だぜ。

でも、戦国期の土塁を利用していたことは利用しているわよね。。。そこには、大同新正寺公園との看板がありました。


そうそう、わらわ、道に迷っていたのだった。

お散歩していたオジサマに、「わらわは400年前から参ったゆえ現代の道が分からぬ。今どのあたりにおるのじゃろう」と、縄張り図を見せながら道を尋ね新正寺曲輪エリアをからくも脱出。


平成25年の大通りに出られ、信号待ちでフト見上げると・・・。

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おお!渋江殿がっ。

渋江殿といえば、氏綱公時代の岩付城主ですよねえ。古河公方の重臣でしたっけ?

交差点で萌え~てるマリコ・ポーロでござる。


岩付城は、その後は太田殿親子で北条とくっついたり離れて戦ったり。やっと北条氏房で落ち着いたと思ったとたんに、運命の天正18年がやってくることとなってしまいました(前回をご覧くだされ)。

あくまでも反北条を貫いた太田三楽斎殿も、太田家内の紛争はあるとはいえ、一徹で(執念深い?)カッコイイですねえ。


なんてことを思いながら、さあ、やっと愛宕神社にたどりつきました。

Dsc_2192_4

愛宕神社には、氏房さん時代の周囲8kmにわたる大構の一部が残っているとのこと。

が、しかし・・・こんもり山型に残っている土塁は、コンクリートで周囲を補強されていて土が見えにゃい・・・weep

お社の横に細い階段状のものがあったので上ってみたところ、土がありました~♪。見下ろすと、東武野田線の線路でした。これは堀だったのかな?違うか‥。


そんなこんなで、今年の後北条落城強化月間は、岩付の城登城から始まりましてござりまする。

次は、6月2日の小磯城戦国絵巻(後北条とは関係ありまへんが太田さんちの道灌殿が出ますよ)&6月23日の「第2回 津久井城開城記念」の合戦劇ですよ~♪

ほにゃ。


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2013年5月20日 (月)

今20日未明、岩付城へ総攻撃はじまる

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~土塁にエゴノ木の花びらが散り敷く鍛冶曲輪~


天正18年5月20日早朝。

大手口から浅野長政・本多忠勝勢、新曲輪は平岩親吉・鳥居元忠勢、搦手からは木村一勢のおよそ2万による岩付城総攻撃がはじまった。


城主氏房は3千の兵を引き連れ本城小田原に詰めており、岩付の城に籠もるは氏房の正室、兄の未亡人(太田と北条の間に産まれた姫)、その母である叔母(氏政の妹で太田氏資未亡人)をはじめとする女人達や人質達を含むおよそ2千。

伊達房実が指揮の元奮戦するも、22日城に火をかけられ、我らが後北条の武藏北東部の拠点であった岩付城は落城。浅野・木村勢は、長期戦となりつつある鉢形城へ援軍として向かう。


城主不在の中、比ぶべくもないほどの戦力の差で、それも総攻撃を受けよくぞ3日ももったものであります。我らが八王子城と重なるものがあり、シンパシィを覚える城です。

籠城していた妻子達や人質達はおサルが「丁重に小田原に送るように」と指示を出していますが、そののち妻子達がどうしたのかは分からないようです。榊原康政が清正に宛てた書状に落城時の城内の悲壮な状態が書かれているそうですが、こういう時どれだけ悲壮かはよく知っているので、あえてその文書は読みたくにゃいです。。。

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~普通の公園の土塁ひとつ裏側にはこんなに残っているのね。二重土塁や虎口、土橋・・・。発掘された障子堀の跡は土管で表示されている。~


岩付城内では、21日に「火矢に備えて建物などを今夜のうちに塗るように」との指令が出ています。これは、泥で塗るってことですよね。大河「風林火山」で勘介が海の口城でやってた、あれ!ですよねえ。

塗り終えたかどうか私は分かりませんが、しかし岩付城はその翌日、城内に火をかけられて落城してしまった……ということなのですねえ。


一方、小田原の直&房の若き兄弟は7月5日、揃って小田原城渋取口から滝川の陣に降ります。北条は五代はどの世代も兄弟仲がいい……あ、いや、氏政兄弟衆は最後の頃はあぶなかったし、その前にも怪しい世代もある。。。が、とりたてて表だった骨肉あいはむ争いはなかった戦国時代には珍しい兄弟衆でした。

房さんは一族一門の皆と一緒に高野山へ送られます。許された後は皆と同じくおサルの旗本となり、朝鮮出兵に備えた肥前名護屋に出張ります。

伊東潤さんの「虚けの舞」という小説には、この肥前名護屋での房さんと叔父上である氏規さんが描かれていますが、小説の中での房さんもね・・・可哀想でね・・・weep。(こちらの小説の韮山城攻防戦は面白いです!)


さて、北条氏房という青年のことにキチンと触れるのははじめてかと思います。私はよく直さんのことは悲劇的に思い入れたっぷりに書きますが、弟くんも負けず劣らず(←変な言い方)辛いです。

房さんは、北条4代当主である氏政さんの息子で、最後の当主5代氏直さんの弟くんです。我らが殿・北条氏照どのの甥っ子ですな。


房さんには、直さんの他にもう一人兄上がいました。その兄上は、北条得意の「お家乗っ取り養子縁組み作戦」により、岩付太田氏へ入婿します。その一つ前の代にはすでに叔母上が「お家乗っ取り嫁入り作戦」で嫁に入っとりまして、その娘とのいとこ同士の縁組みです。先に当ブログで書いた、古河公方家乗っ取りと似ていますねえ。

ややこし~ですが、つまり2-3世代に渡って徐々にその家の血を北条のものにして領地をゲットしていくっつう陰謀……ちゃうちゃう、作戦です。いきなり攻めて支配するよりは犠牲もなくマイルドで自然浸透しますよね。

ところが、その兄上様は早世してしまうのです。そこで房さんが兄上様の後を継いで、岩付の城主となります。


房さんの立場については諸説ありますが、どうやら、房さんは岩付領を受け継いだだけで、おにいちゃんの妻の後夫になったわけでも、太田の姓を継承したわけでもないようですな。黒田基樹氏は著作の中で、房さんの正室は江戸城関係のどなたかさんだろうと書いてらっしゃいます。

房さんによる岩付領支配が始まったのは、天正11年あたり。西の情勢が我らが北条にも大きく関わりはじめる頃です。


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~「新曲輪」の碑のあたりで堀は車道に分断されていました。車道を渡って下を覗くと、堀は続いちょるが立入禁止風なロープが。こっちの方が歩きたい。~

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~どうにか歩けないかなと、野球場の3塁側に沿った細い道を行くと・・・やったー!土塁の上に登れましたhappy01!ずーっと続いてますねえ。もう大構えの一部になっているのかな?う~ん、わかんない!~

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~土塁の上をどんどんどんどん歩いていくと…すっごい!深い!wobbly これって竪堀だよねえ!?向こうの白く光っているところが真下ですよん。この写真じゃ分からんて?また冬に来なきゃだわね。~


horse 北条最後の当主の弟であり兄と共に降伏した北条氏房は、その翌年4月、肥前名護屋にて病によりその人生を終えました。享年28歳。

最後の当主であった兄上の氏直さんも、同年11月大阪にて亡くなります。享年30歳。



このへんのことは、カテゴリー「後北条一族最後の3ヵ月と高野山」でこってり妄想しちょりますゆえ、ご覧くだされば喜びます(400年前の北条一族が)。
このあたりから遡ってご覧くだされませ→http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/cat22295280/index.html


大構え8km。岩付城の見聞録に続きます。
とりあえず、ほにゃ。


cat コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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