2013年7月 2日 (火)

「未完の多摩共和国~新選組と民権の郷」

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~佐藤文明 著(凱風社)~


鶴ヶ城の「北出丸」からレオ様(蒲生氏郷)時代の石垣の一部が発見されましたね。

当時は「北馬出」でしたが、震災で崩れた加藤氏時代の石垣を修復中、その最下部から見つかったそうです。


「八重の桜」もいよいよクライマックス(すでにか?)の籠城戦となりました。

少々過剰なほど会津を悲劇的に描いている感がなくもないですが、これはドラマであるし、今年の大河は東北応援の意味もあるし、西の人達には人気がないし、などなど色々思えど、やっぱり泣いちゃう・・・crying


そうそう、これは東京の人しか知らないかな?

先々週は東京都都議会選挙だったのですよ。もう分かりました?そうなんです。大河の途中で次々とテロップで流される開票速報。それも、画面の上部に2行で出るので役者さんがアップになると顔が見えにゃい。白虎隊が道に迷い、さあ、どうする!のところでも見事に隊士君の顔に被さりましたwobbly


「龍馬伝」の時、ドラマ一年の集大成であった龍馬暗殺のまさに龍馬さんが切られたまさにその瞬間も、龍馬さんの顔にどこかの選挙速報がかぶり大バッシングとなったのに、まったくその教訓が生かされていませんな。

ドラマが終わってからのニュースでも間に合うのにね。こりゃあ、クレームの電話バシバシいっちょるだろうな~とも思いましたが、そんなにいかないですかね。東京だけですものね。次の参院選の時は、放映時間が変更になるでしょうから大丈夫だわねgood


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さてさて、我らが北条も、八王子城落城→韮山城開城→津久井城開城で、ただいま本城小田原城が籠城中です。

北条ファンにとってそんな切羽詰った時になんですが、ここのところ「未完の多摩共和国」という本を読んでおります。北条&鎌倉公方&合戦観戦歴友から教えていただきました。


面白い!


後北条時代から続く、幕末から維新そして明治初期に至るまでの多摩の様々な出来事が、多摩に生きる様々な人達の活動や闘いを通して書かれています。特に、佐藤彦五郎氏をはじめとする新選組をバックアップした多摩の名士達、幕末の英傑・江川担庵、千人同心などの活動が少し小説風に、しかし事細かに書かれているのが興味深いです。

もちろん、近藤さん、土方さん、井上源さん達と新選組の辿った道も時系列で完結されています。


「多摩」は八王子城や滝山城がある我らが北条氏照どのの本拠地。そして、その300年後に多摩に颯爽と現れた土方歳三は氏照どのの生まれ変わりです(←しつこい?coldsweats01)。我らが新九郎さんこと北条早雲の韮山は江川家の本拠地。江川家は新九郎さんの重臣でした。

江川家の気風は、新九郎さんが育てた韮山の風土から生まれたものかなあ。な~んて思ってしまいました。


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新選組の近藤さん、土方さん、井上源さんなどについてよく「武士になりたい」「多摩の百姓が武士に出世した」が強調されますが、実はそうではなく、

多摩は元来、戦う百姓の郷、もののふの郷である。ふだんは鍬を握り、他国に侵されようとするときは一致して剣に持ち替えた。しかも多摩は、中心部もリーダーも持たずに、ネットワークとしてこの団結を維持した。日本の歴史の中でもきわめて貴重な自主と自治の郷なのである。・・・新選組とは、そうした流れの中で産み落とされた確かな傍流に他ならない。・・・ (抜粋)」


な~るへそ。

あまりにたくさんのことがこの本には書かれてあってここには書ききれないのですが、多摩は藩ではなく御天領です。藩主はいませんしお城もないですし城下町もありません(江戸時代は)。大阪などもそうですが(城はあるが)、そういう土地って武士に対しての畏敬の念が少ないし、身分の上下関係意識も強くない面がありますよね。

多摩は豊かで、学問や風流ごとも盛んで、刀や銃も持ち、幕末は外国人も出入りしていたそうです。


そうなのかもしれないなぁthink。これを読んでその視点で考えてみれば、はたして当時の多摩の人間が武士に憧れるものかなぁとも思いました。

私は知人に多摩の人達が多いですが、この本を読んで彼らが多摩を誇りに思う気持ちがよく分かりましたし、多摩のために闘うという気骨がいまだ残っているのだなとも感じました。また、そういう土地に生まれ暮らしてらっしゃることが羨ましいくもなりましたよ。


この本を教えてくださった歴友が、つい先日、土方さん・源さん・佐藤彦五郎氏のご子孫方の3回連続講座に参加されました。その時、

多摩には飢えた百姓はいませんでした!
だから徳川様命だったんです!」

と、おっしゃったそうです。


かつて北条や武田の旧臣達が多かった多摩の地。三百年の間に、徳川さんよくぞ手なずけ・・・ちゃうちゃうpaperというか、これは江川殿の力なのかな。


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ビビビッflairときたのは、
徳川家光が、「日光全山を山城として設計した・・・」というところ。

「八重の桜」でも日光のことには少し触れられていましたが、日光に立て篭もっていた幕軍は、老中の板倉が「神君の廟を戦禍にさらすな」ということで退却させられました。


著者は、これは的外れな指示で本来は神君の霊の守護を受け反撃すべき拠点だった・・・と書いてらっしゃる。

そういわれてみればそうですよねえ。だって、それに、幕軍が撤退したあと、徳川の象徴だからこそ東征軍によって火でも放たれケチョンケチョンに壊されてしまう恐れだってありましたよねえ。

板垣退助でよかったですよ。


結局は会津まで行っちゃって白河口の攻防となったわけですが、ひとつ知りたいのが、その「日光全山を山城とした」ということの出所です。何に書かれているのかな?縄張り図とかあるのかしら?

関東人ゆえ日光は何度も行っておりますが、山城として見たことはありませんでした。そういう史料があったら是非その視点で日光を歩いてみたいなんし。


あ、もうひとつ!
板垣退助が、甲斐のあの「い~た~がき~ (by 信玄)」の子孫てホント?!


面白い本を教えてくださり、ありがとうなんし~♪。ほにゃ。
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画像はマリコ・ポーロが撮影したものです。

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2013年3月21日 (木)

大河「八重の桜」展 at 江戸東京博物館

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~江戸博で買ってしまったなんし。ならぬことはならぬものです。ほまれ酒造の会津ほまれ。~


「八重の桜」展、充実でした~。

会津や京都霊山で見たものも多かったですが、それらが一堂に会したのが見られてよかったです。個人蔵のものも多く、よくぞこれだけ集まったなという感じでした。


入口はいきなり、攻撃をうけてボロボロになった満身創痍の鶴ヶ城の巨大なパネルです。これは、会津に行くと街中のそこここで見かけますね。私が入館した時は、真っ赤に炎上していました(?)。

展示の仕方も時代を追っているので、京都守護職時代、鳥羽伏見、大阪城脱出・・・とだんだんだんだん緊迫してゆき、帰国、籠城、降伏、斗南…。ドラマチックでした。

パネルもぜ~んぶ読んで(読みましたぞ!)隅から隅まで見て、長居してしまいましたよ。


cherryblossom くだんの、容保さんが肌身離さず持っていた孝明天皇御製、御宸翰

出展されてますよ~。
純で正義感の強い容保さんをたらし込んだ‥‥ちゃうちゃうpaperシーンを思い出して涙出そうになっちゃいました。

明治政府は、容保さんがこれを保持しているのを不都合として高額な条件で取得しようとしたんですって。これは存知ませんでしたよ。もちろん容保さんは断りましたがね。

cherryblossom 太刀「行吉」
容保さんが儀式で佩用した、藩祖土津公(保科殿)の戦陣用の太刀。

cherryblossom 萱野権兵衛宛て書状 by 容保さん&照姫
切腹の数日前に渡されたもの。これは・・・胸がつまった。

cherryblossom 八重さんの懐剣
慶長以前のものですって!


cherryblossom くだんの、池田屋事件感状
前回このシーンでしたね。ほれ、あの、朝廷から新選組に送られた感状ですよん。

cherryblossom 島田魁日記
土方さんファンゆえ。萌えますな。チマチマした字ですねえ。魁さんのイメージと違うにゃ。

cherryblossom 奥羽列藩同盟盟約書

同盟旗(五芒星☆)←これも萌えまする~☆。

cherryblossom 新選組が会津藩へ提出した名簿(隊長は山口二郎つまり斎藤一ね)

cherryblossom 大政奉還上表文
写しですが、原本がないため貴重だとのこと。


cherryblossom くだんの泣血氈(きゅうけつせん)

嗚呼、泣血氈の誓い。
出展されていたのですねえ。

降伏式の調印は、路上に敷かれたゴザの上で行わされようとしました。そこで、誰だかが(忘れた)近くの誰だったか(これも忘れた)の屋敷から緋毛氈を持ってきて、ゴザの上に敷きました。

藩士達はこの無念を忘れないように、その緋毛氈を小さく切り刻みそれぞれが持ちました。それが、泣血氈です。

これは昔、会津の酒造で見たことがありますが、あらためて見ても涙が・・・嗚呼


とまあ、以上は私の個人的な萌えドコロの一部です。もっともっと貴重な史料も、八重さんや新島襄や同志社に関係するものも、たくさん出展されています。

覚馬兄ちゃんがだんだんキリスト教に入ってゆく姿もよく見えたし、八重さんが当時の普通の日本男児じゃダメだったのも(そうか?)妙に納得。


キリスト教の洗礼をうけ、ほぼアメリカ人のジョー(新島襄)と結婚し、洋館に住み、ワッフルを焼き、スープチューリンでスープを飲み西洋生活どっぷりの八重さんは、昭和4年おっしゃっています。「日本人の心性を忘れてはいけない」って。

ず~っと展示を見てきた最後、昭和3年に黒谷金戒光明寺で開かれた会津会での着物姿の八重さんの写真を見たら、なんかジワッときてしまいましたweep

しかし、八重さんという人は立派な人ですねえ。


会期は5月6日までですが、泣血氈などは4月7日までの展示ですのでお早めに~。

(その後の情報 泣血氈は、4月8日以後はもっと大きいものが出るそうです。)

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~会津若松駅前の白虎隊。嗚呼、飯盛山。~


なんし、なんしょ、なじょして、だけんじょ、さすけね・・・
大河の会津弁、いいですねえ。聞いていてホワッとした気持ちになります。

八重さん達の会津弁もよっく理解できます。別にそんなに一言一句必死で聞き取ろうとしないですし、子供ではないので会話の流れとかニュアンスで分かります。というか、全然、分かるよねえ。

それは、長州さん達の長州弁も、西郷どんの薩摩弁も、土佐さん達の土佐弁も、勝先生の江戸弁も同じぜよ。


庄内&伊達と江戸のハーフ?クォーター?である私ですが、一応は現代の江戸生まれ江戸育ち。八重の桜の会津弁が正しいとかちょい違うとか、また、今も使うとか使わないとかは分かりません。

分かりませんが、そもそもこれは ドラマ でありしかも 時代劇 です。それぞれのお国言葉が現在とは違うってことだって、がってん承知のスケでごわす。

会津の気風や雰囲気を楽しんでドラマとして私は見ています。それは、今回の大河の会津に限らず、どのお国のどの時代の大河でも(その他の時代劇でも)一緒。


お国言葉や地域文化が大好きなマリコ・ポーロとしては、いっそ戦国時代の大河も、全部お国言葉でやってほしいぐらいです。

そうしたら、小田原から越後へ嫁にゆき(?)一人違う言葉を話す景虎さんの孤立感(←知らないけど)とか、伊勢から奥州へ行かされた蒲生レオ様のカルチャーチョック(←たぶん)とか、光秀の公家カブレの言葉にカチンとくる岐阜の魔王の苛立ち(←分からんが)とかとかとかも、もっと伝わってくると妄想するにゃん。

当時はもっと分からなかったでしょうからねえ。歴友が申しておりやしたわ。間者はバイリンガルでないとねえって。


それに大河ドラマに限らず歴史ドラマは、主役に相対する側が悪く書かれるのはままあること。そんなことを言ったら、我らが後北条なんてどうなる。西国武将の主役が多いドラマでは、我らが兄上様氏政さんや我らが若殿氏直さんなんて毎度アホに描かれてるべ。

それはそれで、ファン同士や個人ブログで面白可笑しく百言居士りながら見ればいいじゃん。

いつの時代もそれぞれがそれぞれの立場でそれぞれに正義があり、一生懸命生きて歴史をつないできたんだと思うんですよねえ。

しかも今回の大河は東北応援がテーマなのでしょう。会津がいいもんに描かれるのはアタリマエダのクラッカー(←古い?)ですよねえ。そういうコンセプトが分かっていたらそれを批判するなんて気持ちにはなれませんわ。少なくとも、私や私の知人達(の全国の方達)はね。


どこの土地へ旅しても標準語(江戸弁は標準語ではない)ばかりで、お国言葉や昔の言葉が消えてゆく今日この頃。大河ドラマには頑張ってほしいです。

ほにゃ。


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2012年10月 4日 (木)

新選組と北条氏照の日野

♪春まだあ~さき(浅き)壬生の朝
誠 一字に集いたる~
丈夫(ますらお)たぁちの雄たぁけびが
燃えよ~わがぁ剣 我が思い

リフレイン♪

燃えよ~わがぁ剣 わが命~♪

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~源さんち♪ in 日野。派手になったのう。~


前に、この世にひとつしか映画が残らないとしたら、10個だと悩むが1つだとしたら迷うことなく「アラビアのロレンス」を選ぶと書いたことがある。

では、この世に1つしか小説が残らないとしたら・・・迷うことなく、「萌えよ剣」paperちゃうちゃう、「燃えよ剣」である!


当ブログでは何度もしつこく書いているが、10代の頃、司馬さんの小説を順番に読んでいてこの小説に出会った。まあぁぁぁ、ハマったハマった。小説の主人公として脚色はあるにしても、こんなカッコイイ人がつい100年前にこの世にいたことに驚いた。

なんと偶然、ちょうどその頃深夜のテレビドラマでこの「燃えよ剣」が、引き続き「新選組」が再放送された。

結束信二氏の脚本と栗塚旭さんの土方歳三に私は完全にやられてしまい、その頃出ていた新選組関係の本を読み漁り、石田村へ行き、板橋へ行き、京都をほっつき歩き、栗塚旭さんの喫茶店へ会いにいってお茶を飲みサインをいただき写真まで一緒に撮っていただき、会津から宮古湾へと土方さんの足取りを辿ったものだ。

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~↑こわい・・。明里さんやあらへんえ、わらわや。ウン十年も前に壬生の屯所前で撮った。言わずもがな、前川邸の山南さんが切腹した部屋の前。~


最近思うに、どうも私は「新選組」というより「土方歳三」のファンのようだ。

京で活躍していた頃の土方さんより、近藤さんが死に、近藤さんや新選組の呪縛、それは土方さん自らが作り上げたものではあるけれど、そういう呪縛のようなものから解き放たれてからの土方歳三が好きみたいなのである。

それもそのはず。だって、土方歳三は、我らが北条氏照の生まれ変わりなんだもん。根拠は先のブログ記事をご覧あれ。他のことでは異論は大歓迎じゃが、ことこのことに限っては異論は聞かないぞぉ~!


新選組に凝った頃からウン十年も経ち後北条にカブレテいる今、土方さんのことは随分忘れてしまったが、先日、後北条の歴史の集いに声をかけていただけましてね、その場所が日野でござんした。

久々に新選組を妄想できるチャンス!と、集いの場であるお蕎麦屋さんに行く前に、土方さんと北条氏照の日野を、単騎、しばしの「ぶらマリコ・ポーロ」でござる。

♪燃えよ~わが剣
我が祈り~

ってか(↑鼻歌)

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~日野用水。「そば」と書かれている黄色い旗を左に入ると集合場所のお蕎麦屋さん。~

日野用水は、我らが北条氏照が永禄10年、佐藤隼人に命じ罪人を下げ渡して開削が始まったそうです(ここからは、ですます調)。隼人殿は、用水を引かされたり街道を造らされたり、随分と氏照どのにコキ使われた印象がありますねえ。

ん?土方さんが使った偽名「内藤隼人」の「隼人」は、土方家の当主が世襲してきた「隼人」からとったと思ってましたが、佐藤家も「隼人」なのかね?


佐藤家は、戦国期、日野に落ち着くまでは美濃齋藤家の家臣だったようです。佐藤家といえば、約300年後に土方さんのお姉ちゃんが嫁いだ彦五郎さんの家。江戸時代は名主さんで、新選組の大スポンサー。彦五郎さんは日野の農兵を組織して、勝先生に江戸から体よく追い出された近藤さん達と共に、甲陽鎮撫隊として勝沼までも行っています。

上の写真は日野宿本陣の真裏で、佐藤家の屋敷があったあたりです(今もある)。佐藤彦五郎さんは天然理心流に師事し、当時は敷地に道場もありました。写真の用水に沿ってまっすぐ先へ進むと、そこは、土方さんの生家がある石田村。土方家は、氏照どの時代の三沢十騎衆です。

この道を、土方さんも通ったのでしょうねえlovely

なんだか妄想が300年の間を行ったり来たりして、脳内がゴチャゴチャになっちゃいましたよ。

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~大昌寺~


さてっと。もっとゴチャゴチャになりましょう。

日野用水を石田村とは反対方向へ、つまり日野駅の方へ戻ると、「三鷲山 鶴樹院大昌寺」という浄土宗の立派なお寺があります。

天正18年6月23日、落城した八王子城には首をとられ血にまみれた敵味方無数の遺体が放置されていました。ある程度は前田殿達が回収してくれたでしょうが、伝わるにその数千三百余り。とても回収しきれなかったことでしょう。


暑さで腐敗もすすみ猛烈な臭気漂う中、それらの亡骸一体一体に引導を渡してまわったお坊さんがいます。「牛秀讃誉 ぎゅうしゅうさんよ」上人です。

牛秀上人は元は甲斐の武人で、甲斐であんなことがあった後に武蔵の立川にやってきて出家したといわれています。北条軍団軍団長である北条氏照の帰依を受けた八王子の名僧で、「大昌寺」は上人の隠居所として慶長19年に建立されました。


「大昌寺」には牛秀上人のお墓がありますが、なんとなんと、佐藤彦五郎さんちの菩提寺でもあるんですよ。


さぁ~て、もっともっとゴチャゴチャになりたいでしょ?次は、このお寺です。

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~宝泉寺~

天水桶の紋をご覧(ごろう)じよ!

日野駅を出たとたん、甲州街道をはさんで目に入った本堂屋根の「三鱗紋」に、アタシャいきなりテンションが上がりましたよ。

あれはなんというお寺!?
私は「ぶらり」する時はけっこう下調べをするのですが、日野のお寺で三鱗は知りませんでした。八王子衆から事前にいただいていた「日野宿発見隊」作成のチラシを広げると、ここが源さんの菩提寺「宝泉寺」でした。

宗派は、臨済宗建長寺派・・・?
なぁ~んだ。「三鱗」は特に後北条や氏照というわけではなく、臨済の建長寺派だからか・・・。

ということで、ゴチャゴチャにはなれませんですね。期待を持たせてしまい失礼申した。ちょっと、クールダウン~。

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~源さんこと新選組副長助勤・六番隊組長 井上源三郎のお墓~


ドラマなどで源さんは必ずちょっと年寄りじみて描かれますが、亡くなったのは40才少し前。いくら昔でも、バリバリ現役です。

そして、氏照後に八王子に入った大久保のオヤジが組織した「八王子千人同心」の家柄でもあります。

源さんは鳥羽伏見の戦いで命を落としました。ドラマや小説やコミックでは、土方さんの腕の中で息をひきとる源さんが描かれることが多いですね。まあ、ここがファンのツボでもあるわけですが、ということは、遺体はここにはないのではないか?と思いました。


いつも書いておりますが、遺体や首がそこにあろうがなかろうがどうでもよいことで、その人を偲ぶ気持ちがあれば確かにそこにあるのだとは思うのですよ。

思うのですが、思いはすれど気になったので夜の集いで聞いてみましたところ・・・


源さんの遺体(首級と刀)は、近藤さんの小姓を勤め鳥羽伏見にも従軍していた、源さんの甥である12才の泰助くんが、大阪へ撤退する時そのあまりの重さに持ち帰れず伏見の「欣浄寺」というお寺に埋葬したそうです。

時は移り明治の御代、泰助さんはそのこととお寺の名前を息子の嫁であったケイさんに遺言し亡くなりました。そして、また時は移り昭和の御代。ケイさんの遺言でそのことを知った郷土史家や新選組研究家の方達の調査の結果、京都伏見の「欣浄寺」は廃寺となっていましたが確かにあったことが分かりました。

その後、近藤さんのご子孫・土方さんのご子孫・佐藤彦五郎さんのご子孫や研究家の方達と井上家の方達で、廃寺となっていた「欣浄寺」の墓地跡から土を持ち帰り、この宝泉寺の源さんの墓所の土と一緒にしたそうです。


私はこの日この話を伺いとても感じるものがあり、家に帰ってからネットで「井上源三郎資料館」のHPを覗いてみました。そして、そこにある、市川三千代さんという日野のガイドの方が書かれた「井上源三郎埋葬地を訪ねて!」という、市川さんの新選組ゆかりの地を訪ねる見聞の旅からはじまる「欣浄寺」の発見や、そこから広がっていくドラマチックな出来事に胸がワクワクしてしまいました。

ご興味のある方は是非読んでみてくださいまし。


そんなこんなの「日野ぶらり マリコ・ポーロ」の半日を終え、集合場所のお蕎麦屋さんへと、氏照どのが造らせ、土方さんも通った用水沿いの道を戻りました。

お蕎麦屋さんにて、新選組の話はまだ続きます ↓ 。

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お蕎麦屋さん「ちばい」は、本陣の裏手にあります。

「ちばい」は、日野の新選組研究の第一人者である谷氏のご家族の方が営まれている、個人宅のようなお蕎麦屋さんです。現在のご亭主もかなりの新選組研究家でらっしゃるようです。


「ちばい」とは変った名前でしょう。「血梅」、紅梅のことだそうです。枝を切ると、中は血が滲んだように真っ赤なことからそう呼ばれるんですって。

以下は、美味しいお蕎麦をたぐりながら、一杯いただきながら伺ったこの血梅の話。


梅は、元々は、千人同心である源さんのお兄さん松五郎さんが世話役を勤めていた、千人頭石坂家の庭にあったものだそうです。松五郎さんに伴われて石坂家を訪れた近藤さんも「激賞」したという話も残っています。

戊辰の時、石坂殿達は日光東照宮に詰めていましたが、新政府軍に引き渡し帰郷しました。そして、戦わずして敵(新政府軍)に日光を渡したことを恥じ、帰郷同日深夜、切腹。


その後この梅のことは忘れられていましたが、ある時、残っていたことが判明。しかし、第二次世界大戦の時、八王子がうけた空襲で黒こげになってしまいました。

ところが、梅は、それでも芽が出、花を咲かせるようになりました。新選組研究家である蕎麦屋「ちばい」の血梅は、この梅を接穂し育てた方から譲り受けた1本だそうです。


いやはや、ひとつの町をチョビッと歩くだけでも、歴史はいくつも折り重なって今に伝わり残るものなんですねえ。


ほろ酔い加減で外に出ると降るような秋の虫の声。
見上げれば、天には煌々と輝く満月。

鉾(ほこ)とりて
月見るごとに
おもふ哉(かな)
明日はかばね(屍)の
上に照(てる)かと

昨年、土方さんが函館で詠んだ最後の和歌らしいとの説が出たもの。


crying 飛行機が嫌いなので、いまだ函館に行ったことがないのが残念至極。4日間位お休みがないと行けないし、たとえ休めてもそんなに長い日数の旅行は出来ないから、たぶんもう一生行けないね・・・。

ちなみに源さんちや佐藤彦五郎さんちも資料館をなさっているのだが、万願寺駅にある新選組資料館と同じく月に1-2日しかも日曜日だけの開館です。お調べくだされ。


「土方歳三は北条氏照の生まれ変わりである」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/in-012e.html
「北条氏照と土方歳三の国府台」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-b174.html
「BSドラマ新選組血風録」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-b381.html


ほにゃ。


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2011年5月20日 (金)

BSドラマ「新選組血風録」

引き続き時代劇ドラマの話です。今度は褒めとりやす。

前回は、大河「お江(おごう)でござる」を言いたい放題で失礼致しました。友人に、「見てなかったけど、かえって見てみたくなった」と言われたのには驚いた。

そうそう、21(土)夜7時からはBSで、「江」の産みの親のマリー・アントワネット様や時代考証の先生方やゲゲゲ秀忠のドキュメンタリーがあるようですね。わらわ、もう見ないといいながら、江&忠長vs春日局&家光をどう捌くかに興味があるので、やっぱりちょっと見ちゃうかもしれません。

しかし、今年の大河はちゃんと最終回をむかえられるのでしょうかね。(脚本家、途中で替わったりして・・)


さて、話はぐっとレベルを上げて、我らが殿・北条氏照どのの生まれ変わり、土方さんの話といきますか。

今、BSで「新選組血風録」をやっているのをご存知ですか。もう7話が終わりました。


何度も書いていてしつこいですが、私の三大ヒーローの一人である土方歳三。その土方役者といえば、栗塚旭さんでした。

かれこれ25年あまり前、テレビドラマ(深夜の再放送)の「燃えよ剣」「新選組」「新選組血風録」にどっぷりはまり、京都に行った時には何度か栗塚旭さんが経営する「若王子」という喫茶店を訪ねたことがあります。ウェイター(古い言い方)は綺麗な男の子達で、京都人の近藤正臣さんや、亡き有島一郎さんがよくいらっしゃっていました。

哲学の道にある素晴らしいお屋敷で、広いサンルームがお店。その奥には錦鯉が泳ぐ池と和風建築の母屋があり、撮影で使った物やご自身で集めた骨董なども飾ってらっしゃいました。


前にも書いたかもしれませんが、もっと昔に栗塚さんが「風」だったか「用心棒」だったかをなさった時の写真を持ってましてね、わらわ。ドキドキしながらそれをご覧にいれたら、とっても驚かれて、「若い女性(その時は私も若かった)のファンは珍しいのですよ~」みたいなことをおっしゃってサインしてくださり、「一緒に写真を撮りましょう」って。

土方さんの衣装でお願いします・・とは言えないので、現代のカジュアルウェア姿の土方さんとツーショット。大事にとってありますよ。栗塚旭さん、今でも「若王子」やってらっしゃるのかな?


お店での栗塚旭さんは、土方さんとはまったく違ってcryingcrying満面笑顔で、マイルド&ソフトテイストというかなんと言えばいいのか・・・でしたが、それでもやっぱり私にとっては、土方さん=栗塚旭さんで、そのあと他の誰が演ってもしっくりいきませんでした。

何年か前の大河「新選組」で栗塚旭さんが、山本耕史くん土方さんのお兄さん・為次郎をなさった時は嬉しかったですよ。三谷幸喜氏の、思い入れのあるキャスティングに感動しました。土方歳三資料館での、栗塚旭さんと山本耕史くんの対談記事が載っている大河ドラマストーリー(後編)まで買ってしまいました。


まあ、それから私の土方さん役者は山本耕史くんになったのですが、大河の「新選組」はイマイチであまりきちんと見ませんでしたが、NHKお正月時代劇「土方歳三最後の一日」は良かったですわ。マリコ・ポーロ的には、今度は「土方歳三最後の一年」をやっていただきたいです。土方さんは、近藤さんと別れて一人になってからが、だんぜん魅力的heart

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~「土方歳三」とサインしていただいた。なぁ~んて、まさかね。「栗塚旭」です。もう薄くなってきてしまったわ。~


さて、新しい「新選組血風録」の土方さんは、永井大さん。私はよく知らない俳優さんですが、一昨年に某民放の50周年記念ドキュメンタリードラマ「唐招提寺1200年~天平を駆けぬけた男と女たち」で、和気清麻呂を演じた人ですよね。そういえばその時、土方さん・・ではなくて山本耕史くんも藤原仲麻呂の息子・刷雄役で競演していましたね。

あ、また話はズレますが、山本耕史さんは来年の大河で藤原頼長をやるのですってね。いいねえ。合ってますねえ。最近、刷雄といい、居眠り磐音とか竹中半兵衛とか静かないい人系の役が続きましたが、もっと激しい役の方が合いますね。


話を戻して。
「血風録」は、最初はなんだかパッとしないなあと思ったのですが、他に見るべき時代劇がないので録画してなんとなく見ていました。ところが、5回・6回となるにつれちょっと面白くなってきて、先週の7回目はかなり気に入ってしまいました。

ナレーションはレトロだし、演出が少々??な場面もあるし、近藤さん&土方さんと、他の試衛館のメンバーの間柄がはじめから上下関係になっているのがちょっと違うと思いますが、なかなか丁寧に、まったり作ってあって好感が持てます。

「戦国時代同人パロディの大河」を見ているせいかもしれませんが。

見慣れてくると、原田左之助や井上源さんの違和感もなくなってきましたし、総司君の病いとの向き合い方の描き方も、今まで何度も見てきているのに飽かせないと思いました。もう終わってしまいましたが、芹沢鴨の愛人のお梅さんも非常によかったし、山南さんの最後の描き方も「新選組血風録」の主題をそらさずサラッと流し、「う~む、考えたな」という感じでした。

先々週の加納惣三郎の回も物語が淡々と進みなかなかよかったですが、特に先週の「胡沙笛を吹く武士」、いいですねえ。池波正太郎と藤沢周平がはいってますねえ。いえ、司馬さんには悪いですがそういうことではなくて、つまり、良き時代の時代小説の哀愁があるということなのですよ。なんてったって原作がいいですからね。


「新選組血風録」は、司馬遼太郎さんの原作もドラマも同じに、隊士達のエピソードが綴られる一話完結ものです。ですから毎回主役が替わります。「胡沙笛・・」の回の役者いいですねえ。塩谷瞬。

って、誰ですか? 一人で生きてきた田舎武士(作中の言い方)が、やっと巡り合えた幸せを逃したくないがために臆病になってゆき、またその果てに・・と、二転三転する気持ちや立場の変化を、目の強弱や表情から別人のように変えて演じてました。上手いねえ。女房役の、まさに京女(イメージのね)!の小つるちゃんも良い良い。


は?土方さんですか?
それを言っちゃあおしまいだよ(by 寅さん)。というか、永井大さんはとても頑張ってやってらっしゃると思いますよ。でもねえ・・・まあねえ・・・ごにょ。

(番組終了後の加筆)
良かったのは途中の数回だけで、後半はイマイチというかイマロク位になっちゃった。私はね。



では。

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画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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2010年12月22日 (水)

北条氏照と土方歳三の国府台城

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~「里見公園」となっている国府台城の観光用入口。薔薇や梅が咲く芝生の公園だが、向こうに広がる台地の方に二重土塁などの遺構が残り、里見関係の碑などもある。~


国府台合戦の舞台となった国府台城。われらが北条軍団軍団長である八王子城城主・北条氏照どのも兄上と共に出張りました。氏照どの感状など出していますね。

そして、それより三百年のち、今度はわれらが新選組副長・土方歳三がこの地に立つことにあいなるのでござりまする。


身内のお墓のひとつが、国府台合戦の舞台のど真ん中にあります。以前はこちらへお墓参りに行った帰りは、「関やど」でチョイとお蕎麦をたぐったり、矢切の渡しをドンブラと渡り、柴又帝釈天の寅さんちでお団子をつまんだりしていたもんです。

が、しかし、氏照どのと出会ってからはそんな優雅なことはしていられなくなってしまいましたよ。帰りはついでにどこか一つだけ城跡に寄らなければいけないミッション?ができてしまったからです(どっちがついでかという声が親族よりあがる)。


horse 国府台合戦

国府台合戦は二度ありましたが、一度目と二度目は随分バックグラウンドが違いますね。それに、二度目は2年続いて2回(ややこし)あったようですね。


小弓、古河、上杉をはじめ、太田、里見、正木、原、真里谷、佐竹などなど房総・武蔵・常陸あたりの大中小戦国武将達が入り乱れ、その上、上杉謙信が来たり帰ったり、はたまた越後から遠隔指令を出したりするたびに、中小武将はあっちついたりこっちついたりで、まったくもって大変だったらありゃしない。

だいたいからして、二度目の合戦は、厩橋(現代の前橋)にいた越後のお屋形さまが、「お米持ってきて」って太田殿に命令しちゃったのがキッカケだしねえ(だけじゃないけど・・)。


一度目の合戦に出張ったのは、お祖父様の氏綱公&パパ氏康でした。古河公方代理の北条父子 VS 小弓公方+介添えの里見殿の構図です。主な舞台は、国府台城からも近い松戸の相模台城と松戸城。二城はまるで尾根続きといってもいい程くっついています。

二度目はその25年後のこと。パパ氏康&氏政兄上の時代です。今度は本格的に、北条 vs 里見です。


国府台城や相模台城は、城跡というより古戦場のイメージがありますね。私は戦国時代に限らず鎌倉時代などの古戦場も好きです。「古戦場」という響きもいいじゃないですか。

「古」がつくことで「戦場」の血生臭さが消え、乾いた風が流れます。かつては殺戮が繰り広げられたはずなのに、今は「まるで何事もなかったかのよう」な空虚な気配に惹かれるのです。

実は、今まで行った中で一番好きな古戦場は「上田原」なんですよ、武田 vs 村上の。これもいつか話を聞いてくだされ。


horse 国府台城

今回のお墓参り帰りの寄り道は、土方さんの妄想が続いていたパッションだったので、二度目の国府台合戦の舞台「国府台城」にしました。私は北条氏照のおっかけなので、寄り道は国府台城が一番多いのですが、土方さん目線eye では初めてです。

城跡でお弁当を広げ、国府台合戦と旧幕府軍ゆかりの場所を行ったり来たりしてたら時代が錯綜してわけが分からなくなって気持ちが悪くなってしまいましてね(ホントに)。


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~国府台城から、北条軍団が渡河!してきた江戸川を見下ろす~


国府台は現代の千葉県市川市。東京との国境いで、矢切の渡しや松戸の渡しの江戸川に沿った、江戸エリアを見渡せそうな台地にあります。葛西城なんかは、川向こうすぐです。上の写真の、このあたりを北条軍団は渡ってくるんですよね~。私の大好きな「渡河」シーンですわ。


国府台は「こうのだい」と読みます。当時は高野台とか鴻之台とかとも書かれたようですね。文書類にそう出てきます。かつては文字通り下総の国府があったあたりで、しかも城のある場所は古墳だったんですって!公園内に石棺があります!それを太田殿が城にしたんですねえ。もと古墳だったところを城にするとこって多いですよねえ。

現代は、国府台合戦の舞台は、葛西城も含め全て同じ京成線沿線になります。

国府台城も今は公園で、その名も「里見公園」。土地の人達にとっては「太田公園」とか「北条公園」とかより、「里見」の方が親近感があるってことですかい。

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城の中だけでなく、公園入口手前左の坂を下った江戸川の方からや、反対に右の総寧寺の方へも是非ぐるりまわってみてください。土塁や堀の名残りが見受けられて公園の中より城跡感があります。

また、国府台駅から里見公園に向かう松戸街道に沿ってたくさんの学校や病院がありますが、このへんもあやしい地形です。タモリさんが江戸周辺の町をブラブラする番組でおっしゃってましたね。「土地は記憶している」って。そういう感じですよ。私、初めて行った時、「むっ、ここも登城口のひとつだな!」と登っていったら学校の中に入っちゃったりした所もあります。国府台城ってかなり広大だったと思います。


horse 国府台城の総寧寺と弘法寺(ぐほうじ)

総寧寺は里見公園こと国府台城の麓に、弘法寺はその目と鼻の先にあります。


慶応4年(= 明治元年)、土方さんは、北斗の七星の如く終生一緒だと誓い、紅葉となった…ちゃうちゃうpaper盟友近藤さんの、勝先生を通しての助命運動に望みをたくし江戸を後に北へ向かいます。


まずは、この国府台に集結する旧幕府軍総勢二千数百人の大鳥さん達と合流。

土方さんは、三百年前ここで、故郷の多摩ゆかりの北条氏照どのが戦をしたことを知っていたかしら。いんや、生まれ変わりだから、思い出したかしら?ですね(「土方歳三は北条氏照の生まれ変わり説」をご覧あれかし)。


総寧寺は、北条氏照どのの頃には関宿城にありました。その前は、近江にあったものを氏政殿が関東にもってきたそうです。六角佐々木氏の開基ですな。ということは、国府台合戦の頃はここにはなかったんですね。

総寧寺が国府台城に移ったのは江戸寛文の頃だそうです。国府台城は家康の江戸入部の時に廃城となっていますので、城跡の随分のエリアがお寺だったはずです。二千数百人の大部隊。実際は、「総寧寺に集結」というより、「旧国府台城に集結」というイメージだったと思います。


斉藤さん達は先に行ってるので、土方さん一行はたった7人。新選組も解体。それなのに、土方さんは旧幕府軍の前軍の参謀に任命されています。まあ、北条軍団の軍団長の魂が入ってますからね(これ、最初ふざけて言ってたんですが賛同者が多いのよ。北条研究の先生方もですよ)。

そして土方さんは、ここから宇都宮、かつては氏照どの傘下にあった壬生氏の壬生城、会津を経て宮古湾で大暴れし蝦夷へ向かうわけです。土方さんが函館一本木でその命を終わらせるのは約一年後のことなのです。


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~軍議が開かれた「弘法寺」。総寧寺(国府台城跡)から松戸街道を渡ってすぐの、やはり台地上にあり今でも寺域はかなり広い。市川駅まで長い門前町が続いている。~


と、こう書いていても永禄と慶応が入り乱れてわけが分からなくなってしまいましたが、永禄の国府台合戦も謎が多いのですねえ。分かってないことがたくさんあるそうですが、私の一番の疑問は・・・

第一次と第二次の間、国府台城にはだれがいたの?


第一次で小弓公方が終わり、里見殿はいったん撤退したんですよね。でも、第二次の頃、また里見がいますね。太田殿が里見に寝返ったからそのままの流れで国府台城をゲットしたのか?あにゃにゃ?

ほな。


pen 国府台城や相模台城や松戸城での先のブログ記事もお読みいただけると嬉しいです。

「国府台合戦場の桜」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-e1c9.html
「土方歳三は北条氏照の生まれ変わりである」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/in-012e.html
「南総里見ファンタジーツアー 1~5」
↑ たくさんなので、このタイトルで検索してくださると助かります

pen 以下は相互リンクしている高村殿の古文書ブログ rek-歴探 の国府台関連文書記事の一部です。ご参照くだされ。

「北条氏康、秩父・西原各氏に出陣を指示」
高城殿達が、「お米を集めているから、攻撃するのは今だっ!」と氏康殿に進言している時のこと。
http://rek.jp/?p=1714
「千葉胤富、北条氏政の召集を受け軍の編成を命じる」
http://rek.jp/?p=1711
などなど。


ほな。。

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2009年9月20日 (日)

会津の言い分 その1

輪島塗にイニシエーションをうけた?マリコ・ポーロは、塗物に関しても妄想と偏見がある。最近、「会津復古会」の塗師屋の方のお話しを伺う機会があった。今回は、漆器に関しての、「会津の言い分」を。

もちろん、会津の旅と歴史のルポも聞いてくだされませ。


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~ある塗師屋が復活させた、藩政時代の会津絵がほどこされた三段重。ボケボケですみまぬが、諸事情によりわざとボカシました。~


会津へは何回も行っている。でも、輪島塗に洗脳されているので会津塗に対して(特に最近の)ある先入観があり、きちんと見ていなかった。

このお重も「会津塗」として気が付いたのではない。その不思議な意匠に、「ん?この塗物はなんだ?」と目がとまったのである。そうしたら、それが会津塗りだった。


その塗師屋さんに伺ったところ、私が不思議と思った意匠は、藩主である会津公を「神」として中心に据えたものであるとのこと。

会津藩はご存知のように、幕末の戊辰戦争で滅びた。城を枕に、というか、城下全体を枕に、藩士の老若男女 戦い全滅した。


会津藩最後の藩主、松平容保(かたもり)公は、その時まだ20代。お体が弱かったとのことだが、お写真を拝見すると、綺麗なお顔だが、太くきりりと上がった眉が負けん気が強そうだなあと感じさせる。

(2013.1.6 加筆修正 会津藩最後の当主は容保公ではなく‘喜徳’殿とのご指摘をいただきました。水戸徳川からの養子のようです。修正させていただきます。ありがとうございます。)


容保公は、時の帝、孝明天皇をとても崇拝してらっしゃった。帝も、容保公をとても頼りに親しく思われてらした。帝が容保公に当てたお手紙が現存していて、複写なら私達も拝見することができる。現物は日本銀行に保管されているとのこと。

容保公は、このお手紙を筒にいれ、亡くなるまで、文字通り肌身離さず首からさげてらした。お風呂にお入りになる時だけはずして、脱いだ衣の上に置いた。


しかし、動乱の時代は、お二人を、美しい情緒的な関係でいさせてはくれなかったのだ。

会津藩は、官軍が徳川幕府を倒すための徳川方のシンボルのように標的にされ、コテンパンにやっつけられたのである。会津藩は新政府軍により逆賊とさせられた。


私は、両祖父の時代まで、片や荘内藩士、片や越後→伊達桑折、の在だったので東北にはDNAが騒ぐものがある。(でもですね、戊辰の時、会津藩は藩士のみで戦い、荘内藩は農民・町民こぞって戦った。これは藩の特質をあらわしていて興味深いと思った。)

それと、実は、私のヒーローは中学生のときから土方歳三さんなので・・。でも、土方さんは宇都宮でケガをしちゃって、清水旅館(東山温泉という地元の説あり)で療養してたので、あまり会津では活躍していないらしい。


というか、会津から新選組は追い出された。「この戦は会津藩のこと。会津藩士だけでやる」みたいなことで。しかし、斉藤一は会津に残って一生暮らしたな。彼は、やっぱりホントは会津藩士だったのかしら?

土方さんは、近藤勇が死んで、北に向かったころからが、すこぶる魅力的だ。
と、話がズレそうなので戻します。

会津を話し出すとどうしようもなく長くなりそうなので、非常にハショる。四百年前から、いや、百年ほど前の幕末~現代までのエピソードを思いつくまま、ほんの少々。


▲ 会津魂の元をつくったのは、初代藩主、保科正之(ほしなまさゆき)である。保科さんも切ない方で、これを話し出すと長くなるし、どこにでも載っているので、興味のある方は自らお調べくだされ。

▲ 会津は、幕末の戊辰戦争時、上杉の米沢藩が先に降伏したことを長く恨んでいたらしい。会津と米沢の市長さんが仲直りの握手をしていたのを、前にテレビで見ました。でも、許してあげて。上杉は越後へ戻りたかったのよ。

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~什の掟だっ!「ならぬことはならぬものです」~


▲ 会津は、今でも、藩政時代の「什の掟」を小さい頃から教えられる。この「什の掟」は、街中のいたるところで見かけます。

▲ 会津では、江戸時代、藩士の子は毎日藩校から家へ戻ると、まず切腹の練習をしたそうだ。


▲ 時は、明治。戊辰戦争の英雄 菅野権兵衛が一子、郡長正さん弱冠16歳の、「恥を知る」という精神のもとになされた明治の切腹。

この話も長すぎてしまうので割愛するが、天寧寺(近藤勇のお墓もある)で、この青年のお墓にある碑文を読んだ。今の時代に照らし合わせて考えてはいけないと思いながらも、私は絶句した。長正さんがもった壮絶な会津魂。

それより衝撃的なのは、その母上、会津の女の壮絶な厳しさ。皆さんも是非、調べてみてください。


▲ 会津は、今でも、街中のいたるところで、戊辰戦争時に砲撃されてボロボロになった鶴ヶ城の写真を見かける。私が必ず行くお蕎麦屋さんなどは、片側の壁一面がドアップのその鶴ヶ城の画像でできている。

などなどなど・・・
どれを考えても、ちょっと特殊で辛い。

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~会津藩校「日新館」。私は江戸時代の藩校のピキッとした雰囲気が好きです。~


また、私が会津へ行くと必ずよせてもらう居酒屋の大将。「もともと会津の方ですか?」と聞いたら、「ハイ。四百石いただいてました。」って。誰が?でしょ。

その女将に、「女将さんは会津の女ですか?」と問うと、「白虎隊の○○の家の者です」!!!上の写真の日新館には、女将のご実家の白虎隊○○クンもモデルで登場していた。

また、塗師屋のマダムは、戊辰戦争の後、おうちに長州藩が滞留していて柱に刀傷なんかつけられたりしたのを、悔しそうに!話してらした。


こんな会話は、会津中どこへ行っても当たり前。歴史好きの観光客へのリップサービスもあろうが、本気は本気だ。

かつて、会津の伊東正義が総裁候補になったとき、「これでやっと逆賊の汚名が晴らせる」と、会津人達がインタビューに答えているのをニュースで見たことがある。


つい最近、朝日新聞で始まった「お殿様は今シリーズ」の初回は会津のお殿様だった。

ある番組で、会津藩をオチャラケた風に言われ、藩士達は・・・違う、市民達は激怒した。会津魂が炸裂し、テレビ局に猛攻撃をしかけた。局は降伏した。という記事だった(マリコ・ポーロ少々脚色)。


会津の幕末はまだ終わってない。幕末の会津藩だけではないが、時代の流れで敗者となり、はからずも逆賊の汚名をきせられたしまった人達の思いは、かくも深いのかもしれないと思った。。


なんだか、重く濃い話になってしまったか。でも、それほど会津は魅力的heart01ということです。
江戸時代のお城は昭和の再建なのに美しいし、食べ物、特にお蕎麦は美味しいし、お酒も、小さい造り酒屋さんがたくさんあり美味しいし(お蕎麦とお酒は次回)。

史跡も、蘆名・伊達政宗・蒲生氏郷・上杉・保科・幕末・新選組 etc.etc. と大量。一本桜の銘木もアチコチにあるし、そして名湯 東山温泉。紹介しつくせまへん。


漆器についての「会津の言い分」を書きたかったのに。また話が長くなってしもうた。では、それは次回「その2」へ続く・・・。

ちょっと予告。伝統工芸の方達にとって、会津は、松平容保公の「会津藩」ではないらしい。だんぜん、蒲生レオ氏郷。レオ様は、四百年前の当主である。


ほな。。

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画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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