2020年5月17日 (日)

5/19「今川シンポジウム 2020」が YouTube にて!

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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たぶん中止、それに、こんなご時勢にならなくてもどうせ行けなかったし…と思っていたシンポジウムが無観客で開催され、それがなんと YouTube で配信されるとは!

ありがとうございます! 今川義元公生誕五百年祭推進委員会さん、静岡商工会議所さん!嬉しいです。


🐎 シンポジウムの内容は以下

日にち:5/19(火)
時 間:14:30~16:50 

(第一部 記念講演)
「今川研究の最前線 ー 今川氏が遺したもの ー」
講師: 大石泰史 氏

(第二部 座談会)
推進委員会委員長、小和田哲男 氏
臨済寺 住職、阿部宗徹 氏
彫刻家、堤直美 氏(義元像制作)
推進委員会副委員長、酒井公夫 氏


詳細と YouTube のURL(クリックすれば動画が現われる)はこちら

「今川シンポジウム2020」


今、あちらこちらの自治体や歴史の会でオンライン講演会や集いが行われていますね。もし有料でも本当に有り難いです。

ただ…
このシンポジウムのように拝聴するだけならいいのですが、オンラインで参加となると顔を映したくない(映せるようなシロモノでない)のでヤダにゃ~と申したら、「お面かぶれば?」と。

お面!グッドアイデア!と思ったのですが、どんなお面にするか凝りまくってしまいそう。

というか、それ以前にオンラインをどうやっていいのか分からない。やり方を観ながら苦心惨憺しましたが、結局諦めましたわ。ハハハのハ…
(ノД`)


▲ New ブログ のお知らせでござる

自粛が長くなるゆえ、萩の露 の名にて花のブログを始めました。身近な花を愛でフト思い付いたことを綴っております。ブログ名は、西行の和歌から拝借しました。よろしくば、まずはPC版でご覧くださいましたら嬉しいです。

「萩よりほかの 花も見るべく」


注)こちらはコメント公開です。どうやってコメント未公開にするのかよう分からへんかったのだ。


🐎 これまでの今川についてのブログ記事の一部(特に研究系)です。よろしくば。

「花蔵の乱~寿桂尼は恵探を擁立しようとしていた!?」
「「福嶋氏と今川氏親・寿桂尼」 戦国史研究会」

「「寿桂尼と今川氏展」 島田市博物館(2017)」

萩真尼 こと マリコ・ポーロ


画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2020年4月18日 (土)

②大河「太平記~芽生え」と、足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみ収集関係、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品の販売関係、宅配関係などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~足利公方邸があったあたりの滑川(恵観山荘庭にて)鷺がいた~


小田原北条の見聞録なのに見聞に行けないため、以前拝聴してまとめられなかった小田原北条の講演会や、BSで再放送中の大河「太平記」を観ていてフト思い浮かんだことを書いたりしております…


今週の「歴史秘話ヒストリア」は楠正成でした。先日の「英雄たちの選択」は新田義貞でしたし、BS3の大河ドラマアンコールで「太平記」の放映が始まったからなのでしょうか。

先週の「太平記」第2回目では、尊氏と、後醍醐天皇の側近である日野俊基殿が出合いましたねえ。日野殿は尊氏に京の都がどれほど素晴らしいか(そうかね?)を語り、強烈な印象を残して去っていきました。


京への憧れがつのる尊氏クン。それからあんなことやこんなことがあり、尊氏クンはブラザー直義が諫めるのにも耳をかさず、ここをチャンス!とばかりに鎌倉を飛び出し京の都へ向かいます。

ドラマでのことですが、このシーンを観ていて、青年時代初期に京を見た尊氏クンと、見ていないブラザー直義との違いが、兄弟の軋轢を生む原因のひとつになったのかもしれないなどと思いました。


あくまでもドラマの話よ。

実際、足利尊氏はこの頃に京都に行ったのですか?手持ちの本を何冊か調べましたが、そのようなことは見つけられませんでした。


さて、
パパ足利貞氏や、鎌倉での尊氏・直義たちの屋敷がどこにあったのか?のこと。


▲ ふたつの候補地

それは 大蔵稲荷下 のあたりだと、我らが「旧・八王子城を守る会」の会長でらした峰岸先生の『足利尊氏と直義』に書かれていました。


私達が鎌倉で見る「足利公方邸跡」という碑が建っている場所は、八幡宮から → 金沢街道をずーっと行って → パパ貞氏やブラザー直義の菩提寺「浄妙寺」も過ぎ → 「泉水橋」というバス停から住宅街に入るあたりです。

(余談ですが、浄妙寺と泉水橋の途中の街道沿いに「青海波」というお蕎麦屋さんがあります。お蕎麦もお酒も天ぷらも美味しい~。今は状況が外出自粛。鎌倉へは行けませんが、マリコ・ポーロ的にオススメのお店です。)


碑には、
「…足利義兼が居を定め約270年にわたり足利氏の鎌倉屋敷があった。足利尊氏、直義の兄弟は当地で生まれ育った。…」
とあります。

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~足利公方邸旧跡の碑~


▲ 大蔵稲荷下

峰岸先生の本を読んだ時、あれ?大蔵稲荷下とでは場所が違うね…と思いました。

でも、代が変わると屋敷も変わることもあります。現に北条執権家でも16代それぞれの屋敷があり全員が全員同じ屋敷には住んでいませんし、足利家も亀ヶ谷(長寿寺)だったり大倉だったりと代によって違うようです。


大蔵稲荷 がある「大倉(大蔵)」自体の範囲は広いです。今でいう二階堂・西御門・雪ノ下・浄明寺・十二所一帯です。碑が建つあたりも大蔵です。

では、大蔵稲荷 はどこでしょうか?


お手持ちの地図をご覧くださると助かります ー と言ってもほとんどの地図には載っていない謎のお稲荷さんです ー 金沢街道の岐れ道の交差点手前から滑川にかかる「大蔵稲荷橋」を渡って山の中に入った所にあるようです。北条得宗家の東勝寺や宝戒寺などに裏山から抜けられそうですが、しかとは分かりません。

屋敷は 大蔵稲荷「下」 とあるので、その麓の、金沢街道から滑川を渡ったあたり一帯ということですかね?頼朝が建てた父義朝の菩提寺「勝長寿院(跡)」も近くですな。


それとも、滑川は渡らないあたり?いや、それなら大蔵稲荷「下」とはしないでしょう。

あ!
滑川を渡らないとすると、そこは頼朝時代の大倉幕府があった場所で、頼朝の持仏堂だった法華堂や、それこそ頼朝殿のお墓もありますね。

足利家は源氏の嫡流ですから、そこに屋敷を構えたということはありえるような?それとも嫡流だからこそ、そこは聖域で、川を挟んで向かい合ったところに屋敷を構え、日々屋敷から川向うの頼朝殿のお墓を仰ぎ拝んでいた…とか。

いずれにしても、大蔵稲荷の方が、碑の建っている浄明寺より八幡宮にはずっと近く、碑とはちょっと離れています。


友の家の近くでもあり滑川に沿った道もよく歩きますが、このあたりは道が途絶えている(ような感じ?)ので行ったことがなかったです。

(またまた余談ですが、このあたりにも「千花庵」というお酒もアテも充実の雰囲気の良いお蕎麦屋さんがあります。もちろんお蕎麦も美味しいです。)


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~峰岸純夫『足利尊氏と直義』(2009.6) 吉川弘文館~


▲ 峰岸先生の本に戻ると…

・足利義氏(尊氏の直系何代か前)の「大倉亭」に、時の将軍(藤原氏)が方違えに行った(吾妻鏡)。

・「大蔵稲荷下」の貞氏邸で書写した(鎌倉市史)。

・尊氏が丹波で討幕蜂起したとき、息子の千寿王は「大蔵谷」を落ちていった(太平記巻10)。

等々とあり、峰岸先生は、「大倉(大蔵)亭が鎌倉時代を通しての足利氏の館と考えてよいだろう」としています。


フ~ム (~_~) ?
本と地図を見ながら考えていて、ふと思い出しました。そういえば、昨年(令和元年)6月に開かれた鎌倉考古研究所が主催した講演会で、田中奈保氏が足利氏の御所の場所についてお話しされていました!


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~田中奈保氏の講演は「鎌倉公方御所の所在について」~


▲ 田中氏の講演

峰岸先生の本に挙げられていた資史料と引用は同じでしたが、パパ貞氏や尊氏・直義の邸が碑のある方なのか、それとも大蔵稲荷下なのかについて、お話しの中で触れてらしたかどうか、忘れてしまいました…。

が、レジュメには、
「…「大倉」という広い範囲の中で御所が複数あったり移転したりした可能性を考慮せねばならないが、『新編鎌倉志』にいう「公方御所」(浄妙寺東隣)の位置と重なる史料上の初見を改めて検討した結果、その妥当性は高いことを指摘した。…」
とありました。


つまり、尊氏・直義の邸は、碑のある方ということですか?ふーむ。ワテにはもちろん分かりまへんが、では、千寿王が鎌倉から逃れた後、大倉亭 はどうなったのでしょうか。これはレジュメもメモもありました。

田中氏の講演によると、「兄弟の時代の 大倉亭 のことが史料に現われない理由は、北条氏によって破却されたからか?と長塚氏」だそうです。

子息の千寿王は後に、二階堂を足利御所としたそうです。尊氏殿は、中先代の乱後に二階堂から若宮小路の将軍家旧跡へ移ったとのこと。


こうやって書いていると、現地はおろか図書館にも行けないのがもどかしいです。でも、外出は自粛!県をまたいでは尚イケマセン。

「おウチで妄想してね」←小池都知事風に。


次回の3回目は「風雲児」。先のブログにも書いたマリコ・ポーロのイチオシ、尊氏様が初めて御上(後醍醐天皇)をお見上げ申し上げる、あのシーンがいよいよ!


「①BS3大河「太平記~父と子」と、北条高時のこと」
「③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸」

「講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」

萩真尼 こと マリコ・ポーロ


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2020年4月14日 (火)

宗瑞を圧迫した立役者、赤沢朝経~家永遵嗣氏 講演

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみ収集関係、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品販売関係、宅配関係などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。

そんな切迫した状況下で呑気なことばかり書いていて恐縮です。


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~小田原シンポジウム「伊勢宗瑞の時代」のレジュメ~


さて、ところで、いきなりですが…

赤沢朝経 って、誰?


今となっては遠い昔のように感じる世の中が平穏だった昨年の12月、小田原で シンポジウム「伊勢宗瑞の時代」が開かれました。そこで、家永遵嗣氏が、赤沢朝経(宗益)は「伊勢宗瑞圧迫の立役者」だとおっしゃったのを聞いて以来ずっと気になっています。

図書館も使えない今…といっても、中央図書館のホームページで蔵書検索をしても、赤沢朝経について書かれた本は出てきません。


🐎 そこで、人様のブログやホームページを覗かせていただいた

すぐ感化されてしまう単純な脳なので人様の記事はあまり読まないのですが、この際致し方ないということで、やはりとても少ないながらも拾わせていただいた赤沢朝経(宗益)の情報は…


・赤沢家は、小笠原の庶流で、本拠地は信濃である。

・今川氏親に圧迫をうけた斯波のお友達

・足利義政の弓道の師匠であり、細川政元(勝元の息子)の被官だった。

・明応年間、義澄を立てた主君細川と共に反義稙(義材)派で活躍。

・つまり、新九郎さん(宗瑞)と仲間の時もあった。

・永正元年、主君細川政元に反逆するが → その後また政元に復帰。

・政元が家臣に暗殺された時に自身も自刃。

などなど。合ってる?


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~小田原のレジュメはいつも分厚くて本のように充実!~


🐎 シンポジウムでの家永氏の話&レジュメより

明応7年、宗瑞が伊豆を、氏親様は赤沢朝経のお友達の斯波氏から遠江をゲット(ゲットとは家永先生はおっしゃらないけど)。

しかし、義澄 をかつぐ細川(含む赤沢朝経)・宗瑞・今川氏親達は「少数派」である。


明応8年、北陸にいた 義植 が上洛開始。これが「二人の将軍の対立の 第2段階 の始まり」と。


細川が、越後上杉・山内上杉・古河公方(政氏)を 義澄派 に誘いこみ、東国の義澄派は多数派になる。茶々丸が没したことで、細川は茶々丸派と結ぶことが出来るようになったのだ。
義植は周防へ逃れる。)


文亀1年頃から、宗瑞や今川氏親は、細川のこの「政策転換」により細川勢力から圧迫をうけるようになる。そして、「政策転換」は赤沢朝経を主導とした「軍事的敵対政策」へと発展する。

つまり、これは「裏切り」と言って良かろうと。


この頃、赤沢朝経はお友達の斯波のために、かねてより企画していた氏親様から遠江を取り戻す攻撃を実行!


宗瑞は、赤沢に協力している小笠原に対抗するため(か?)の甲州対策で、信濃の諏訪に接触しようとしている。赤沢は、小笠原を通して諏訪とのパイプが強いからだ。

宗瑞は、諏訪と武田が細川側につくことを恐れたと思われる。


新九郎さんの仲間がどんどん減ってゆくこの時期が、「新九郎さん最大のピーンチ!の時期」。

それは、「宗瑞が茶々丸を討って義澄の生母の仇討ちを果たした、という功績は、細川政元の裏切りで吹っ飛んだ」ということにもなる。


そして、家永先生曰く…
文亀4年(永正1年)に、宗瑞が小田原を支配しているらしい証拠が顕れるため、宗瑞が大森から小田原城を奪う何事かがあったようだ。

(宗瑞の小田原城奪取の時期については、いまだ諸説あり?)


と、以上は、なるべく家永先生がお話しとレジュメでお使いになった言葉で書いたつもりでござる。

とはいえ、京の情勢や明応~永正のこの時期の坂東にも知識が浅く、家永先生の機関銃トークに耳はついて行けても脳がついて行けなかったマリコ・ポーロ のこと。早とちり、勘違いがあるやもしれず、ご興味を持ってくださった方は是非レジュメをお取り寄せくださいませ(現在もあるかどうか不明)。


赤沢朝経。小田原北条の追っかけで、新九郎さんのこともたくさんブログに書いておきながら、まったく知りませんでした。というか、新九郎さんの個人情報ばかり書いていて、その時代をほぼ知らなかったことにも気が付きました。

まだまだまだまだ 々々々々々……知らないことばかり。


ゆうきまさみ氏は、ここまで書いてくれるかにゃ~。伊豆をゲットするまでのような雰囲気のことをおっしゃってもいたようないないようなでしたが…。

「講演「伊勢宗瑞 漫画家と歴史家が語る北条早雲」」
「『新九郎、奔る!』 ゆうきまさみ 著」

「小田原北条の女領主、伊豆の山木大方」
「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏」
「後北条家の御用達 「江川酒」を飲んだ」

「北条五代の娘たち ⑦ 錯綜する堀越(今川)六郎室」 

「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」

▲ 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女たちのこと
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年1月21日 (火)

「小金城と根木内城」 松戸市博物館

マリコ・ポーロ


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~3/22(日)まで。オススメ!~


学芸員さんの展示解説の日に行ってきました。人数が多過ぎて、なんと2回に!人気ですねえ。

「松戸市の戦国末期の全てをご覧に入れたい」とおっしゃる中山学芸員の説明は熱く、面白くて、2回目までの間の30分も 根木内城 のジオラマの前で質問を受けながらの城や地形の解説をしてくださいました。


実は根木内城を知らなかったのでとっても勉強になりました。「根木内城」という名は文書には出てこないし、戦国時代中に埋められたんですってね。

 

展示も充実。遺物のそれぞれの展示には『酒飯論絵巻』が、文書のそれぞれの展示には状況解説がマンガでされていました。分かりやすいです!

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~それぞれにこんな感じ。こちらは高城殿が氏康に「今がチャンス!」と知らせた時の国府台。~


これだけのものが 無料 で観られるなんて。
ドびっくり~(*_*)


根木内城の解説に興味をそそられ、帰りにチラッとでも残っている遺構を見ようと思ったのですが結局2回目の解説も聞いてしまった(途中まで)。今回は寄れませんでしたので、あらためて行ってみたいと思います。

というか、3月に博物館の見学会があるのだね。競争率が高そうですが申し込んでみます!


松戸市は城跡がたくさんあって羨ましい限り!しかし、小金領の人々にとって、北条は侵略者のイメージだったかもしれないそうな。考えて見れば、そりゃそうですよね~。


展示資料リストです ↓ どれも見応え・読み応えあり!博物館HPはこちら

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「国府台城つながりで「小金城」」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年1月10日 (金)

再びの「なぜ小田原北条は大河にならないのか?」と戦国武将ランキング

マリコ・ポーロ


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~お習字のワークショップで自作したブックカバー~


前回に続いてしつこくブログに書こうと思ったら、10年前!にも書いていました。書きたいことは同じでした。文末に添付しましたので読んでくださいませ。


なぜ小田原北条は大河にならないのか?平安時代からの有力武家はほとんど大河になっているのに。有力でなくてもなっている武家はあるのに、北条と今川、そして太田道灌(含む上杉)もならない。

それには3家共通の理由があるような気が…。徳川以前に駿府や坂東や江戸に勢力を張っていた家があるとイヤな人が世の中にいるとか…。マリコ・ポーロの考え過ぎ?まあ、大河がすべてではございませんので。


年末のテレビ番組「戦国武将総選挙 戦国武将ベスト20」をご覧になりましたか?伊勢宗瑞(北条早雲)も名将北条氏康も、東海一の弓取り今川義元殿も、ベスト20に入っていませんでしたね。

いくらバラエティとはいえ、これには愕然としました。


あんな何もしていない傀儡武将や、少し前まで歴史オタクぐらいしか知らなかったあの武将や、史実では大した功績どころか大した戦績もない武将が入っていたりしました。ゲームの影響なら、北条氏康だってかなりカッコ良いそうなので(ゲームはやらないから分からんが)、やっぱりこれは大河ドラマの影響が大だと思いました。番組も大河推しでしたし。

それにしても信玄殿が7位だったのは…時代が変わったのでしょうか。



北条は戦国の大大名なのに、イベントだって宣伝だって大々的にやっているし、有名だし、なんといってもあの時代に百年続いたなんて家、滅多にないですよ。名門中の名門ですよ。どうして北条は(名門でいえば今川さんもですが)こういう時に出てこないのでしょう?

北条ファンの皆さん!次の「戦国武将総選挙」には、組織票で行きましょう!そしてテレビでもっと宣伝してもらいましょ!「バラエティでしょ」なんて気取っている場合ではありませぬぞよ!


新年早々…(ノД`)シクシク

こちらです↓
「なぜ小田原北条は大河にならないのか?」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年1月 8日 (水)

よりによって、「前」の北条…

マリコ・ポーロ


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~鎌倉殿のお墓への石段~


一瞬、「北条」が目に入り心の臓が飛び出るぐらいドキドキして、こりゃあ北条ブログやめられない!と、血湧き肉踊ったら…


義時?
前の北条じゃないですか!

なんと紛らわし…


しかも、まったく違うならいざ知らず、よりによって「前」の北条。前にもやったじゃないですか、鎌倉北条。「草燃ゆる」とか「北条時宗」とか。これって、「だから の北条はないよん…という放送局のメッセージですかね?


というか、

意気消沈…


大河になる「条件」とは、色々言われていますが、どの大河もそれらに当てはまりませんよねえ。結局なんなんでしょうねえ、大河になる「決め手」って。

でも、考えてみたら、あの放送局で小田原北条が大河になることはないですよね…。あんな理由やこんな理由があるからです。今川家が主役にならないのと同じだと思います。


鎌倉殿の13人の家臣たちですか。キリストと弟子たちのパロディ…なんてことはないですよね。

鎌倉殿亡きあと…。さぞや血で血を洗う…いや、脚本家があの方ですから、もっと軽いタッチになるのかな。


「前」と「後」との違いがあまりにショックで、新年早々もうな~んもやる気がなくなった。眠れん。

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~ニュースを聞いた直後、天を仰ぐマル「天は我々を みはにゃしたかー」~


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2019年12月16日 (月)

北条家臣 桜井武兵衛さん、はしりめくる!

マリコ・ポーロ


超々 オススメ!
22(日)までです。急ぎお走りくだされい!

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~コレクション展は無料でござる~


神奈川県立歴史博物館で開催中の「桜井家文書ー戦国武士がみた戦争と平和ー」は、戦国時代から江戸時代への転換期に生きた一人の武士の「奮闘記」を見るようでした。


奮闘記の主人公の桜井武兵衛さんは、父上が北条氏康・氏政に、自身は氏直に仕え → 小田原の役後は結城秀康に仕え → 越前の松平家の家臣となり、ここではけっこう御出世されたようです。

北条家臣時代は小石川に所領を持つ江戸衆で → その後は新田に所領が移り上野方面で活動したそうです。小田原籠城時は最後まで城内におり、氏直が高野山に旅立つ2日前に感謝のお手紙をもらっています(7年前に書いたブログ記事を文末に添付しました)。


実はコレクション展の前の「博物館入門講座」で、このコレクション展担当学芸員さんのレクチャーもあり、予算ゼロのコレクション展を開催し図録まで作成する奮闘を拝聴していました。それはまさに「学芸員はしりめくる之覚」でした。たぶん、どこの学芸員さん方も戦国武士の武兵衛さんのようにいつも「はしりめくって」らっしゃるのだろうな~と認識がちょっと変わりました。

企画展を観て、もっとこうすればいいのに、ああすればいいのに…なんて、もう言えにゃい。。。
(^^;


展示の解説もぜひ伺いたかったので、昨日の展示解説に参加してきました。集まったのは34-5人で展示室いっぱい。時間も30分のところ1時間にもなり、もはや講演会状態。面白かったです!

「桜井家文書」は「ウブな状態」で現存していたそうで、紙質や折り筋や封の仕方や墨引きがしっかり残っています。特に北条時代のものは、それが良く分かるように展示台の敷布を黒色にしたそうです。こたび修復が成ったので、お披露目となったそうです。


▲ 笑った後に、な~るへそ~の虎朱印

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~我が家の猫朱印。反対向きにゃ。~


朱印のスタンプが捺せるコーナーで「どうしても掠れてしまって上手く捺せない」と言っていた小学生が北条の朱印状を見て「なーんだ、北条も上手く捺せてないじゃん」だったそうです(笑)。

確かに~。掠れて半分位しか良く見えない虎朱印と、バッチリ捺せている虎朱印がありますよね。


他の研究者の方達と考えたところ、どうやらそれは、捺すスピードにあるのではないかとのこと。

個人個人に発給したものは、時間もあるのでゆっくり捺せた。戦の招集など多数の人に同じ文章で発給したものは、一枚一枚丁寧に捺していては手間がかかる。バシバシ捺していったので綺麗に捺せてないのではないか?って。もしそうなら、今の私達と同じですね。


虎も、北条初期のものは尻尾もお耳もハッキリ見えるけど、後期になると尻尾もお耳も無くなっています。たぶん、朱印は限界まで使って、もうこれは使えないとなった時に、それを写して新しく作ったからそうなったのではないか?って。

物持ちのよい北条家らしく、な~るへそね~です。


▲ 北条ファンは涙なくしては見られない、氏直最後の朱印状

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7年前の期間限定の常設展で観た時は、紙質までは気がまわりませんでした。こたびは紙質も良く見えました。学芸員さんもおっしゃていましたが、「懐紙」のようなものでした。

高野山へ旅立つ2日前。今までのような良い料紙はもう使えなかったのでしょう…。


朱印も掠れていますな。綺麗に捺せていません。最後まで付き従ってくれた家臣たちに、♪ ありがとうって伝えたくて~ このような朱印状をたくさん皆に出したのでしょうか…。

そして、次に書きますが、これは家臣たちの再就職の時の武功の証にもなります。氏直さは、当主としての最後のつとめを果たしたのでしょうか。

しかし、もう北条当主ではないので虎朱印は使わず、自身の印を使っているのだよ。


▲ はしりめくり

展示の「桜井家文書」は全部で30点。武兵衛さんの父上に宛てられたものが数点。あとは武兵衛さん宛と武兵衛さん自身が書いたもの(1点)です。北条時代が11点。秀吉・徳川の時代でした。北条や結城や松平忠直が武兵衛さんに出した感状や朱印状、知行宛行状やお手紙です。

この記事のタイトルの「はしりめくる」は武兵衛さん自身が書いた「我等はしりめくり之覚」のこと。最初に見た一瞬、「はしりまくり」をどこで切るのか分からなかったそうです。「我等は、尻めくり」か??って。展示のトリを飾っていました。


当時の「我等」は「我」の一人称だそうですね。

これは、戦国武将が就職活動をする時の履歴書(職務経歴書)だそうです。自分で自分の戦功を書き綴るんですね。しかし、当時は今と違い話を盛ったりは出来ないそうです。全ての戦功には証明する人の名前や、その人の現在の居所(連絡先)を明記するそうです。


そこから分かることのひとつとして、つまり居所を書くということは…
それは、小田原北条が滅びたあとも、北条OBのネットワークは残っていた!ということだそうです。

そうですよね!でなければ居所は知らないですものね。そして北条OB達は、けっこう徳川御三家に仕えている人が多いということも分かるそうです。


読むと、細かいですよ~。時系列が合ってないので、武兵衛さん、思い出しながら、思い出しながら、思い出したことから書いていったんですねえ。戦国武将の手紙や指示書って、いつも細かいな~と思いますが、履歴書も細かいんですねえ。私は就職の時の職務経歴書にこんなに細かく書きませんでしたよ(書くほどの功績がないということもある💦)。

武兵衛さんの、氏直時代から結城・松平時代へ「はしりめくった」数々を読んでいくと、武兵衛さん頑張ったな~、でも、それは武兵衛さんだけではなく当時の戦国武将たち誰もがそうだったんだろうな~と、感慨深いものがありました。


自身の41年に渡る戦功を書き連ねた最後の最後の項に、
我等むすこ十大夫、あしがるかしら松崎弥五介打死仕候
とありました。ご嫡男、討死されたんですね…。元和になっての、越前でのお家騒動でした。


▲ 新出の秀吉朱印状(常設トピック展示「展関東足利氏―新収蔵史料の紹介―」 )

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~写真の一番奥。桜井家文書ではないので、常設展で期間限定(27金まで)。~


県博が今年(2019)入手した、秀吉が小弓足利頼淳(頼純)に出した朱印状です。頼淳は国府台で戦死した義明の息子で、青岳尼は女兄弟。息子(国朝)のお嫁さんが、古河公方の娘氏姫です。

この朱印状の存在は知られていたものの所在が不明でしたが、某古美術商が持っていたそうです。


宛名が「鎌倉左兵衛督殿」になっています。当時の頼淳は里見のところにいました。鎌倉に住んだことも、もちろん公方でもありませんでした。

この宛名のことから某新聞社がこれは秀吉の「徳川シフト」だとの旨を書いているが、そうは言ってなく、秀吉の意図はチト違うんじゃないか?とのこと。


朱印状の日付は、くしくも、上記の氏直が武兵衛さんに感状を出した日と同じです。

こちらも必見!ぜひ!


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~充実の図録 A5判(700円)。新出の秀吉の朱印状のことも載っています!~



🐎 別件

先日、小田原でのシンポジウム「伊勢宗瑞の時代」で家永遵嗣先生の講演を拝聴しました。

恥ずかしながら私には難しく、まったくついていけませんでした(ホント)。まさに「伊勢宗瑞の時代」の京都・北陸・周防・甲斐・信濃などなど広域にわたる話で、今まで調べたことのない登場人物も多くとてもブログに書けないでいます。

しかし、その中の初めて聞いたある人物に興味が湧きました。もう少し調べてから書いてみたいと思っています。


「北条氏直、最後の当主の 「最後の朱印状」」
「「こもんじょざんまい」 神奈川県立歴史博物館」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2019年12月 4日 (水)

講演 「上杉三郎景虎 勝つための戦略」乃至政彦氏(2019.11)

マリコ・ポーロ


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~越後。車窓より~


風が冷たくなると上越に行きたくなる。かつて常宿にしていた直江津のホテルの窓から眺めた早朝の鈍色の空や、能生の古い屋並の向こうに横たわる初冬の日本海を思い出す。冷え切った五臓六腑に沁みわたる、ほど好く温められた糸魚川の銘酒が越後に来たなあという想いを更に強くする。


八王子市民講座 「上杉三郎景虎 勝つための戦略~上杉謙信の死後、景勝と越後を争った北条氏康の七男~」を拝聴しました。講師は、あの 乃至政彦氏。満席でキャンセル待ちも出たそうです。70名定員ではもったいなかったネ!

景虎さんが特に好きだというわけではないですが、景虎さんのことを考えるととても切なくなります。講演の内容を以下に書きますが、書いているうちに切なくなり、力が入り過ぎて長~~くなってしまいました。


乃至氏は参加者の質問に、「八王子の人は景虎が好き」とおっしゃいました。確かに、八王子城では男女問わず景虎さんの話がよくでます。なんででしょうかねえ?上杉は我らが氏照が取次でしたし、最後に援軍に行ったからでしょうか?

それなら氏邦さんの寄居でも、景虎さんは人気があるのかな?


これもよく書いていることで恐縮ですが、皆さまと同じく マリコ・ポーロ も子供の頃から歴史が大好き。その頃からほんの10年ぐらい前までは、何といっても上杉謙信が No.1 でした。それでブログを始めた前後も、たびたびたび!上越に行っていました。(謙信くんは好きですがその後の上杉家にはあまり興味がなかったので米沢は数回しか行ったことがありまへん。)

ブログも初めの頃には上杉謙信のことをよく書いておりました。しかし、八王子城と氏照に出会い小田原北条に興味が出てから、それまで私が知っていた上杉謙信とは違う謙信像が再構築されていきました。


また、北条を追いかけているなかで景虎さんのことも何度か書きましたが、その後、乃至氏や今福匡氏の本を読んで(けっして自ら文献を調べたわけではにゃい💦)、当時ブログに書いたことがけっこう違っているのではないかと思いました。かと言って、過去のブログをこっそり書き換えてしまってはその時のパッションが薄れた文章になってしまうし。そんなわけで、文末に添付した当時のブログ記事は、そういうことをお含みおきの上ご覧くださると助かります。

こたびの乃至氏の講演でも認識が変わること多々ありました。


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~「マル、今日はこの講演会へ行ってきたのだよ」「講演会ばっかりだにゃ~」~


講演は数年前に出版された、乃至政彦・伊東潤共著「関東戦国史と御館の乱 上杉景虎・敗北の歴史的意味とは?」(2011. 歴史新書y) に沿っていましたが、発売当時読んだきりのこともあり、凄く面白かったです!

・メインテーマは、
「景虎は、どういう終着点を目指して挙兵したのだろうか」

・内容は、
上杉景虎の初期行動 / 景虎は北条氏の血を頼みに決起したのではない / 上杉景虎と合戦 / 謙信の急死と遺言 / 北条氏の動向 / 武田勝頼の動向 / 上杉景虎の戦略 / 北条景広の役 / 景虎の敗北 / その後の評価


皆さんはとうにご存知のことかもしれませんが、不肖 マリコ・ポーロ がビビッときたことを講演と本とレジュメの内容を合わせて、簡単な話(簡単か?)から順番に。


▲ 謙信は、厠で脳溢血で倒れたのではないのでは?

このことは、2011年に発売された上記の本で読んで知りました。


甲陽軍艦に「閑所」にて謙信が倒れたとあります。「閑所」とは「私室」という意味もあり、伊達政宗が毎日「閑所」に2時間こもってご飯のメニューを考えましたが、そこが厠のわけはないだろうと。それは前から妙な人だな~、でも政宗は妙な人だからそうなんだろうな~と思っていました。好きですが。

「閑所」を「厠」と訳したのは江戸時代の軍学者だそうで。


また、景勝殿が、謙信は「不慮の虫気」で倒れたとお手紙を書き、これを上杉年譜では「卒中風」としています。

謙信がお酒好きだったと伝わることからも脳溢血を疑ったことがありませんでしたが、「虫気」とは「ちゅうき」ではなく「むしけ」とそのまま素直に読むもので、それは「腹痛」のことだそうです。そういえば、むか~し、子供が「むしけ」を起こしたとかオバアチャンやオジイチャン達が言いましたよね~。

謙信殿はお酒が好きで、梅干しをアテにお酒を飲むことを好んだ…も根拠がないとか。これには、ドびっくり~。なーんだ、真似っこしたのに…という御仁も多いのでは?


脳溢血で倒れたなら遺言を残せるわけがないだろう、直江殿の奥方が枕元で今際の際の謙信から聞いたとウソついたとかつかないとかとか言われていました。しかし、それで景勝殿が「謙信公が脳溢血で急死したので、遺言により実城にはいります」としたら、遺言うんたらは捏造このうえない。

腹痛ならどうにか遺言は伝えられますな。それで景勝殿は、謙信が「虫気(腹痛)で遠行(逝去)したため、遺言により実城にはいります」と書状に書いたのだろうと。

では、謙信殿は後継者をどのように考えていたのか?


▲ 上杉謙信の気持ちの移り変わり

顕景(景勝)体制

景虎さんには「山内上杉」を名誉職として譲る

しかし、山内の家督が家中で必然化してきたため…

顕景(景勝)ではなく、景虎さんと自身の姪との子(景勝にとっては甥)である 道満丸 体制へ


それを充分に練られないでいる時に「虫気」で倒れてしまった

のではないかと乃至氏はおっしゃいます。


当初の景勝体制構想は、名前からも見て取れるそうです。

長尾家の相続者は、政景・晴景など「景」が に付きます。景勝も「顕景」でした。しかし、顕景が長尾家→上杉家となった場合そのままではいかず、「景」を上に「景勝」としたのでは?って。


そして、一番 ドびっくり~ したこと。皆さん、ご存知でしたか?


▲ 景虎さんは北条を頼みに決起したのではない

と乃至氏はおっしゃいます。もちろん実家得意の養子縁組作戦で上杉を乗っ取ろうとしたのでもないということでしょうか。

何故なら、謙信死去の約2ヶ月後の5月17日、景虎さんは数日前に移った御館から、飯山の桃井に春日山城を攻めさせていますが、景虎さんはこの時点でまだ自分の挙兵を氏政さんに伝えていないからだそうです。


しかし桃井は討たれてしまいます。景虎さんはこの初戦で失敗したため、実家に援軍を求めた…ということでおそらく間違いないだろうとのこと。景虎さんは初めは自力で家督を継ごうとしていたのでしょうか。

景虎さんが、「真っ先に北条の支援を取り付けるのは得策ではないと考えていたのだろう」としています。


では、御館の乱はどのような経緯をたどったのでしょうか?


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~伝景虎屋敷跡(二の丸)より頚城平野を眺める。ここが景虎屋敷だったという考古学的な根拠はない。~


▲ 謙信死去後の当初は景勝殿と景虎さんは争っていなかった

大河ドラマなどでは、謙信が厠で倒れた後 → 間髪入れず景勝方が米蔵を押さえ → 景勝が実城に入り → 景虎屋敷に攻撃を加え → 景虎さんは御館に逃れる…という場面が息つく間もなく続くというのが今までのパターンでした。


事実は皆さんご存知のように違いますよね。乃至氏のレジュメにある年表を少しハショッテ写させていただきます。長いので読むのがメンドクチャイ方やご承知の方はすっ飛ばして先をお読みくだされ。


(天正6年)
3月13日、謙信死去

同月24日、遺言により景勝が実城に入る

同月28日、三条城の神余親綱が会津蘆名を警戒し独断で周辺から人質を集め、景勝からとがめられる

(春日山はまだ静か)

5月1日、「三条手切」
蘆名がやはり侵攻してきたことにより、人質の件で景勝から責められた三条の神余は憤慨し、景勝から離反

同月5日、三条方の本庄ら(栃尾)vs 景勝方、大場で戦闘


同月13日、景虎が御館に入り、三条&栃尾と連合する

同月17日、景虎は桃井(信濃飯山城)に春日山に先制攻撃をさせるが失敗

同月28日、北条氏政、武田勝頼に越後派遣を要請

↓(氏政は佐竹と相対していたため動けず)

6月11日、景虎方 vs 景勝軍、荒川館・大場・居多ヶ浜方面で激突するが、景虎方が敗北

同月12日、再び景勝軍勝利し御館周辺を焼き払う

同月29日、武田勝頼軍、木田(春日山と御館双方から一里)に布陣

8月28日、勝頼が帰国を開始


9月、北条氏照が坂戸城に迫る ( `д´)/

10月、雪が近づいてきたので撤退 (ノД`)

同月24日、上野から御館に入っていた北条(きたじょう)景広 vs 景勝軍と戦闘するが敗退

(天正7年)
2月、景広討ち取られる


3月16日、御館、総攻撃はじまる


というように、景虎さんが御館に移ってからは怒涛の展開になります。

でも、景虎さんが御館に移り乱が始まったのは、謙信死去の約2ヶ月後です。それまで表立った「家督争い」のようなことは起きなかったようです。景勝殿も景虎さんに対して特に行動は起こしていません。


▲ では、なぜ景虎さんは決起したのでしょう

乃至氏がおっしゃるには、景虎さんは、「景勝体制のスタートダッシュの危うさを見て、景勝では越後を保っていけないと考えたのではないだろうか」と。

チョットびっくり~。それまでのワテの認識とブログに書いてきたことと全然違います。


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~『関東戦国史と御館の乱 上杉景虎・敗北の歴史的意味とは?』乃至政彦&伊東潤(歴史新書y) 、『上杉景虎 謙信後継を狙った反主流派の盟主』今福匡(宮帯出版社)~


マリコ・ポーロの受け取り方違いや読み間違いや聞き違いがあるかもしれないので、ご興味ある方はこちらを読まれるとよいと存ずる。謙信の後継者構想が、道満丸へとなった理由と思われることも色々と書かれています。

そんなら最初からそっちを読めばよかったって?


そうそう、謙信の軍役帳に景虎さんの名前がない理由の話で、乃至氏は、以前は景虎さんに実践経験がないとしたが、今は実戦経験があると考えられているとおっしゃっていました。

軍役帳には、楡井・蓼沼・大石・楠川らの名前がないことから、元々謙信のそばにずっといる直属の馬廻り衆は書かれていないようですよね。乃至氏は、これは「増員名簿」であり、これによって謙信は全てを直轄化するつもりだったのでは?と。


▲ 北条氏政と武田勝頼

(氏政)
「佐竹に常陸小川台合戦を仕掛けられて、景虎の挙兵に即応できなかった。もし、景虎が御館に入る直前から援軍を要請していたら、また違った戦略を取っていただろう」


(勝頼)
景虎や氏政を軽視していたとよく言われますが、「たぶんそうだろう」と。

また、よく言われる、跡部と長坂が景勝から賄賂を受け取ったというのは「有り得ない」。なぜなら、交渉には「信豊や香坂らが関与しており、ふたりが賄賂を受けて勝頼の判断を曲げることはできないから。」


勝頼が景勝に味方したのは、
「勝頼は、最大の脅威として信長対策を考慮せざるを得なかったのであり、関東に専念する北条氏政とは意識の違いがあった。」

こっちも大変な時に一銭にもならない北条のために戦うなんやってらんない、しかも氏政来ないのに…って。確かに~。同盟を結んでいたらお互い様なことですが、でも分かるぅ(勝頼さま、マリコ・ポーロなんぞに分かってもらわなくったっていいでしょうけど )。


え?ということは、つまり…誰も悪い人がいない。。。

もちろん、明日の命さえ分からない戦国時代。皆、自分や一族や領地を守るためにそれぞれの正義があって、それに即して動いている。それにしても、乃至氏にかかるとみんないい人。講演を拝聴して、私なぞが申すのも失礼ですが、乃至氏もいい方なんだろうな~と思いました。


(景虎さん)
たいがい負けた武将は後に悪く言われるが、景虎にはまったくそういうことはない。景勝も、この挙兵について批判はしていないし、上杉家の記録も景虎をいっさい愚将扱いしていない。きっと景虎は周囲に随分と気を遣って越後で暮らしていたのだろう。

(景勝殿)
軍記などでは強引に実城を制圧して景虎を追い出したように語られるが、これは後に言い伝えられただけではないだろうか。景勝に自己弁護の形跡はない。

(勝頼さま)
北条方の声により、御館の乱で判断を見誤って後の没落に繋がった愚将のように語られてしまった。

(氏政さん)
同時代に氏政を非難する記録は特にない。自身も景虎救出の失敗を悔み、その供養に努めている。


「それぞれの評価は今も揺れ動いている。その時その時最善を尽くしていたわけで、結果から評価をせず当時の状況を見ながら評価をした方が、あとからあてる評価を見るより楽しいと思う」
by 乃至氏。


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御館からは逃亡兵が相次ぎ、館に残るは「雑兵二三百人(景勝公御年譜)」。2月11日、景虎は本庄に「人数千も二千も可相立候」と、千から2千の人数を送って欲しいと切望。(乃至氏レジュメより)

3月16日、御館、落城。
上杉憲政は殺害され、道満丸は華渓院(妻・景勝妹)と共に自害(と伝わる)。景虎は鮫ヶ尾城へ。


3月24日、鮫ヶ尾城は総攻撃をうけ景虎自害。享年26。

やっぱり、切ない…


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

🐎 以下は、景虎さんや上杉謙信や上越の旅を書いたブログ記事の一部です。

「北条氏照の悩める存在‘上杉謙信’と、景虎さん」

「琵琶島など「北条氏照の悩める存在 上杉謙信と景虎さん」」

「能生・米沢「北条氏照の悩める存在 上杉謙信と景虎さん」」



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2019年9月14日 (土)

どんどん加筆~これからの講演会・企画展(2019年秋・冬)

マリコ・ポーロ

どんどん加筆したものはどんどん最初のブログ記事に追加しておりますので、どうぞそちらをご覧くださいませ。こちら→ 「小田原北条関係のイベント情報(2019 秋・冬)」


▲ 小田原市最新出土品展&遺跡調査発表会、そして遺跡講演会

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毎年恒例の最新出土品展&遺跡調査発表会に、今年は遺跡講演会が加わりました。小田原北条ファンお馴染みの、大島慎一氏、山口剛志氏、諏訪間順氏が来年3月でご定年。3人揃っての「卒業興行」になるそうです。

詳細はこちらをクリックしてくだされ → 小田原市のHP


(近況 ♪)
現在、我が家の ファミリーヒストリー 作りにとりかかっており、ブログがなかなか進みません。人様の家(北条家や太田家)の歴史ばかり調べていないで 💦 自家の歴史も調べ、冊子にしてイトコ達に配りたいと思ったのです。

庄内藩士でしたが大したことのない家ですし、口伝のみで資史料のことは聞いていません。というか資史料なんかに残るほどの家でもないですが。亡き祖父は次男であり嫡系の家とはもう付き合いもなく、手元にあるのは、幕末の家長の名前(口伝)&取り寄せた一番古い戸籍&明治時代からの写真のみ。藩士時代の菩提寺もわかりません。


自分で検索したり図書館で手あたり次第に本を見たりしたのですが、いまひとつ。あるところからどうにも手掛かりが無くなってしまったので、鶴岡市郷土資料館さんへ問い合わせさせていただきました。何を調べたらよいか、急がないので教えてほしい旨メールをしたところ、何を調べたらよいかどころか、調べて関連史料まで添付してくださいました。本当に感謝です。これを元にもう少し調査するつもりです。

鶴岡市に限らず文化財課さんや学芸員さんは、イベントやご自身の研究や、公務員さんとしての自治体のお仕事などでとってもお忙しいでしょうに、どこも皆さん親切ですねえ。くれぐれも御身おいといくださいませ。


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~庄内藩士が勉学した藩校「致道館」~

萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2019年9月11日 (水)

小田原北条関係のイベント情報(2019 秋・冬)

マリコ・ポーロ

台風15号の被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。


2009年9月3日に北条追っかけブログを始めました。総記事数は 671記事になります(いったん公開したあと後悔して💦 非公開にした記事がいくつかあり。)1回目の記事タイトルは「ディスカバー 伊勢新九郎の相模へ」。その頃から 伊勢新九郎 だよん(ウフフ)。弱小ブログなのにいつも読んでくださりありがとうございます。これからもご贔屓のほど御願い上げ奉りまする~。


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~最近の滝山城某所…~


久々の講演会・見学会の情報にござる。矢文、投げ文、高札などでたくさん情報をいただきました。本当にありがとうございます!その中で 恐縮ながら マリコ・ポーロ が気になるところを以下に。

凄くたくさんあります。下にいくほど、日程が後になります。どんどん加筆しております。


まずは、我らが北条氏照の城のひとつ「滝山城」の大変魅力的でスペクタクルな見学会と講演会から。

▲ 見学会「滝山城・城攻めガイド」

今年は、北条 vs 武田信玄の、廿里・滝山合戦・小田原攻め・三増合戦 450年になります。滝山城では記念のガイドツアーと講演会が行われるそうです。個人では見学出来ないところも見られるそうですよ。


日にち:10月6日(日)
時 間:9時半~15時
3コースを6班に分けて見学

申し込み:9月24日(火)必着
コースを選んで往復ハガキにて

どのコースにしよう…。超迷う~。

詳細はクリックしてくだされ→「よみがえる滝山城」HP


▲ 講演会「信玄を討ち留めざること無念千万に存じ候~滝山城主北条氏照の人と合戦」

氏照の書状の文面が講演のタイトルになっていますね♪ 講師は八王子ではお馴染みの氏照研究の第一人者、文化財審議会副会長で市史編さんにも携わってらっしゃる、加藤哲氏です。 ナイスボイスで分かり易く滝山合戦の最新研究を解説してくださることでしょう。楽しみです。


日にち:11月4日(月・祝)
時 間:13時半~16時
ところ:八王子加住市民センター(城址バス停から徒歩3分位)

申し込み不要。先着順100名。


▲ 第20回「三増合戦まつり」

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数ある歴史まつりの中でも、津久井開城祭と並んで 不肖マリコ・ポーロ の琴線にググッと触れる「三増合戦まつり」です!つまり今年は450年ということですね。津久井も三増も土地の方や関係者の方たちの熱い供養の想いと、地元保存会さんや武将さん達による資史料を重視した寸劇が大好きです。

当ブログでも、こってり従軍レポートを書いておりますので読んでくださったら嬉しいです。こちらはそのひとつ→ 「2013年従軍レポート」


日時:10月13日(日)8時~16時
場所:言わずもがな、三増合戦場跡

古戦場には椅子やテーブルを用意してくださり、津久井と同じく業者の屋台ではなく土地の方達による売店がたくさん出ます。そりゃあ楽しいですよ~。

愛川市のHPに見つけられないのですが大丈夫。近くに行けば、旗々が戦国時代に誘ってくれます。


▲ 相模原市立博物館
北条早雲没500年連続講演会 

連続講演会ですと ♪

①~③全ての回
時間:午後2時~4時
入場無料、定員200人

① 学芸員講話「市内に残る北条早雲制札~無量光寺文書を中心に~」

日時:9月22日(日)
講師:歴史担当学芸員 木村 弘樹
申し込み不要


② 「仮)駿河時代の北条早雲-旗揚げの城 興国寺城を中心に-」  

日時:10月6日(日)
講師:沼津市教育委員会 木村聡氏

要申し込み:9/17~相模原市コールセンター(042-770-7777)へ 


③ 「小田原時代の北条早雲~見直されるその実像と小田原城」

日時:11月10日(日)
講師:小田原城天守閣館長 諏訪間順氏

要申し込み:10/17~同じくコールセンター(042-770-7777)へ

詳細→ 相模原市立博物館HP


🐎💨 玉縄城もありまっせ。

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~玉縄城ジオラマ~


▲ 玉縄歴史の会10月度(263回公開講座)
「にらみ合った小田原北条氏と徳川家康」

玉縄歴史の会や玉縄まちづくり会議さんのいくつかの、特に水運や江ノ島についての面白い講演会に参りました(戎光祥さん含め)。シリーズ「北条五代の娘たち」での氏綱の娘があと大頂院さまだけになっているのもあって、合わせてブログに書きたいのですが他に気をとられなかなかアップできないでおるうちに、興味深い講演会はどんどん進んでしまうにゃ~。


次は天正壬午の乱です!若神子城に陣を取り、徳川家康と対峙した時の様子についてのお語しで、10月16日(水)開催の第146回 歴史散策会「甲斐路を訪ねるバスツアー」の事前学習を兼ねた講座とのこと。うーーん、聞きたい。なにゆえ同日なのか…シクシク。

日時:10月6日(日)13時半~15時半
会場:NPOセンター大船(たまなわ交流センター)
講師:大竹正芳氏 日本城郭史学会委員


今年も龍寶寺さんで玉縄北条墓前祭は営まれるのかしら?
9月から11月にかけて講演会・見学会たくさんあるので、詳細はこちらを→ 玉縄歴史の会HP



▲ 本佐倉城見学会
中世城郭研究会主催

中世城郭を初めて見学する人も、土の城ベテランも楽しめるそうです。


日時:10月26日(土)13時~16時
雨天の場合は翌日

集合場所:京成本線「大佐倉」駅 改札前
参加費:500円
申し込み不要

詳細は→中世城郭研究会HP


🐎💨 次は本城小田原にて開催されるイベント


▲ 馬の博物館

① 企画展「名馬と武将」
10月5日~12月8日


② 記念講演会「神奈川ゆかりの武将たち」
日時:11月17日(日)13時~

内容
・「三浦道寸-文武兼備の武将」
講師:真鍋淳哉氏

・「北条氏規ー小田原北条一門の役割と苦悩」
講師:浅倉直美氏

申し込み不要、詳細→ 馬の博物館HP


▲ 本城天守

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~ブログに書いた先日の講演会で配布。カラーはまだだそうです。~


12月のことですが本城のことですし、なんせ、公の告知はどこも遅くて(失礼)前月中に有休を強奪する身には間に合わないことが多いです。講師は、いつもの方も、北条の城郭ではお馴染みの方も、お馴染みの伊豆や沼津(三島?)の方もたくさんでした(忘れちった💦)。日曜日にお仕事の方は有休申請!申請!


① 天守閣企画展「伊勢宗瑞の時代」
10月12日(土)~12月10日(火)

② シンポジウム 「伊勢宗瑞の伊豆進出」
日にち:12月1日(日)
講 師:家永遵嗣)、齋藤慎一、望月保宏

③シンポジウム 「伊勢宗瑞の小田原進出」
日にち:12月15日(日)
講 師:黒田基樹、金子浩之、長塚孝

②&③ どちらも、時間は13時~17時。ところは小田原市民会館ホール。要事前申込。
詳細→ 「小田原市HP」


▲ 小田原北条の会講座

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~拡大してご覧くだされぃ~


小田原では公私ともに、すでに「北条早雲」ではなく「伊勢宗瑞」になっていますな。
先日ブログにアップした「手づくねかわらけは威信財だったのか?」の会の主催です。

①「石垣山一夜城」
日時:9月17日(火)10時~11時半
場所:小田原 内野邸宅(板橋のあの黒ナマコ壁の元お醤油醸造所)
講師:塚田順正氏(元小田原市学芸員)


②「伊勢宗瑞の足跡」
日時:10月17日(木)10時~11時半
場所:小田原市学習センターけやき
講師:鳥居和郎氏(小田原市文化財保護委員会委員)


どちらも参加費500円
申し込み:曽根さん(写真をご参照)

以後も興味深い(←こればっかりで恐縮ですがホントなんだもん)講座が続きますよん


▲ 「北條五代四方山話」

(コピペ)早雲庵宗瑞没後500年の今年、​北條五代の話題は広がり続けてい​ます。伊勢宗瑞に弥次郎の他にも​弟?、修禅寺再興の隆渓繁紹禅師​は宗瑞の叔父?などの話題につい​て、最新の史実を基に石井 啓文氏が3回講座で解説します。


日時:9月26日 (木)~3回連続
13時半 ~ 15時半
場所:生涯学習センターけやき
講師:石井啓文氏(小田原ではお馴染みの郷土史家)

要事前予約

・第1回 伊勢宗瑞の弟?宗瑞の「伊勢出身​」説など
日にち:9月26日(木)
・第2回 北条氏綱と三浦義意、そして居神​明神社
日にち:10月31日 (木)
・第3回 高潔の武将・北条氏照と室・比佐
日にち:11月14日 (木) 

詳細→きゃんぱす小田原HP


▲ 伊豆の国市「北条早雲公没後500年祭」

日にち:11月1日-2日

小和田先生の講演はじめ、様々なプログラムですね。
「ごめんね早雲」は、「ごめんね青春」をもじったのか?ミシマル君も来るのかな?

詳細はこちらしか見つかりませんでした→ 「伊豆を知的に楽しむサイト」


ふぃ~。あるねえ。

🐎💨 小田原北条とは直接関係がありませんが、ビビッとくる講演会と見学会が以下。


▲ 講演会「鎌倉大仏の鋳造と物部鋳物師」

日時:9月28日(土)14時~
場所:川越市立博物館視聴覚ホール

講師:村上伸二氏
嵐山の金平遺跡や杉山城で調査成果をあげた方です。(コピペ→)河内鋳物師と称されてきた物部鋳物師とは一体何者か!金平の調査以来ライフワークとして精力的に取り組み積み重ねてきた村上氏の研究成果が披瀝されます。

コメンテーター:馬淵和雄氏(『鎌倉大仏の中世史』の著者)


すっごく面白そうですねえ~。他に重要な用事があり参れませず非常に残念なり。資料代:300円~500円(現在のところ不明)


▲ 道灌びいき~9月の見学会💨
「東中野氷川神社から中野陣跡、宝仙寺を巡る」

横浜歴博での黒田氏の講演「太田道灌の子孫たち」での my 疑問のひとつである、あの謎の「六郎」さんが殺害されたと伝わる中野陣です。宝仙寺は源義家創建とされ、赤塚不二夫大先生の葬儀が営まれたお寺ですよねえ。

道灌が豊島氏と戦うにあたって戦勝祈願をし、勝利後には社殿を造営したとの伝承が残る東中野氷川神社から、道灌の後継者・太田六郎が殺害された中野陣跡(=谷戸城址・推定)、「芸能コース」があることでも知られる堀越学園、宝仙寺を巡ります。


日時:9月28日(土)13時~15時半
案内役:豊嶋氏や道灌研究ではお馴染みの、葛城明彦氏

集合:JR東中野駅西口改札前(一番大きな改札の前です)
解散:東京メトロ・都営地下鉄中野坂上駅前

参加費:ビジター 500円


🐎💨 申込締め切りもあるので取り急ぎ以上です。また追加するかもしれまへん。

マリコ・ポーロ こと 萩真尼


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